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no073:
唇から愛
-odai:59-

 

優シクテ、切ナイ、Kiss。

―99.05―

 ―――これは、神様が仕組んだ幸運なのか、それとも悪魔が仕組んだ罠なのか。
 課長に手渡されたメモを片手に、蕾夏は大きなため息をついていた。
 5月も間もなく終わりとなると、陽射しが強い。照りつける陽射しを手で遮り、仕事をするのが馬鹿らしくなるほどの真っ青な空を見上げる。
 …ま、なんとかなるでしょ。
 神様が仕組んだ幸運である事を祈りつつ、蕾夏は1歩、踏み出した。

***

 「小沢、銀行側に連絡してくれ。サーバーダウンしてないか?」
 「ええ? 繋がってないかぁ?」
 「繋がってねー。ルーターまではいってるから、サーバー側が落ちてる可能性高い」
 「わかった。通らないのは成田んとこだけ?」
 「私のとこもダメ」
 「佐々木さーん」
 サーバー接続不可のメッセージの出たディスプレイにため息をついていた佳那子は、呼び声のした方に首を伸ばした。
 「なにー?」
 「4時から小会議室をシステム部がおさえてますけど、何時まで使いますか?」
 「ああ、それ、俺」
 同じくサーバー接続不可のメッセージを睨んでいた瑞樹が、画面から目をはなさずに片手を上げる。
 「あら、私は聞いてないわよ。何?」
 「トーア技術とのデータ交換のすり合わせ」
 「…ああ、あれね。バンクシステムのデータを一部変換して、会計関係のシステムに自動反映するとかいうやつ。蕾夏ちゃんとこの親会社だから、なんとなく頭に残ってたけど」
 「そう。で、向こうのSEが今日来て、4時から打ち合わせ…」
 そこまで言ったところで、瑞樹は急激にエネルギー切れになったらしく、大きなため息と共に椅子に沈み込んでしまった。
 「―――休憩にしましょ。どーせサーバー落ちてるんだし」
 完全に活動停止している瑞樹を見、佳那子は他のメンバーにそう言い渡した。それもそうですね、といった感じで、全員バラバラと立ち上がった。
 「成田。大丈夫?」
 「…あんまり」
 佳那子の問いに答える瑞樹の声は、いまひとつ力に欠けている。佳那子は眉をひそめた。
 ここ数日、瑞樹は過去最低の状況にあるように見えた。
 確かに、和臣と奈々美の結婚式からこちら、このバンクシステムのサポート作業で、システム部は連日残業状態が続いている。土日出勤もしているし、さすがの佳那子も少々疲れ気味だ。しかし、こういった作業状況は過去に何度も経験したものだったし、瑞樹はそうした時、誰よりも平然としている男だった。眠そうにしていることはあっても、こんな死にそうな状態になったのを見たのは今回が初めてである。
 「どうしたのよ? 成田らしくないわねぇ。さてはまた蕾夏ちゃんと遅くまで電話してるんじゃないの?」
 「…その逆…」
 「は?」
 「成田、例の客来たぞ。今こっち上がってくるから、資料出しとけよー」
 部長に声をかけられ、瑞樹はのろのろと顔を上げた。活を入れるように頭を振り立ち上がったその顔は、既にいつもの冷静な成田瑞樹の顔になっている。
 ―――さすが、だてに“成田瑞樹”やってないわ。
 打ち合わせのための資料を無言で積み上げて行く瑞樹の背中を見て、佳那子は、以前和臣が抱いたのと全く同じ意味不明な感想を抱いた。

***

 「そちらのエレベーターから5階におあがり下さい」
 「あ、はい、わかりました」
 蕾夏は、受付で言われたとおり4階のガラスのドアを開け、エレベーターの上ボタンを押した。
 少し視線を移すと階段が見えた。4階から5階なら階段でも良かったかも、と思ったが、既にエレベーターの数字が上から下がってきていたので、まぁいいや、と諦めた。
 ふと視線を感じて振り返ると、この会社の女子社員が1人、何故か呆然とした表情で蕾夏の方を見ていた。
 笑顔を作って、軽く会釈をする。相手は、まだ呆然とした顔で上の空な会釈を仕返した。どっかで見た顔だなぁ、と思っていたら、エレベーターがちょうど到着して、チーン、という音がエレベーターホールに響いた。
 エレベーターに乗り込み、閉まるドアの向こう側で、さっきの女子社員がやたら慌てた様子で事務所の中に駆け込んでいくのが見えた。私、そんなに驚くような格好してるかな? と、思わず首を傾げる。
 ―――さて、ここからが問題。
 エレベーターが5階で止まりドアが開く。蕾夏は深呼吸をし、事務所のドアを開けた。
 ぱっと事務所内全体に視線を走らせる。が、たいしたチェックもできないうちに、一番出入り口に近い席の女性に声をかけられた。
 「お約束でもございましたか?」
 「あ、ええと、システム部の中川部長さんに…」
 「あー! どうもどうも、東亜情報システムの方ですね」
 男性の声が割り込んだ。慌ててそちらを見ると、なかなかダンディな中年男性が、にこにこ笑いながら近づいてきた。
 「はい、このたびはお世話になります。東亜情報システムの藤井です」
 「中川です」
 事務所入り口という妙な場所で、手早く名刺を交換する。
 「へーえ。珍しい名前ですね。もしかして夏生まれですか」
 「いえ。母が夏子ですので、その一字を取ったんです」
 「ああ、なるほど…。ええと、実際の打ち合わせの方ですが、私はもう現場からは離れてますんで、若手で仕様に一番詳しい者に頼んでます。それで…」
 「わああぁあっ!」
 中川の背後で、素っ頓狂な叫び声があがった。
 チラリとそちらに視線を向けた蕾夏は、びっくり顔で柱にしがみついている人物に、軽く眉を寄せて合図を送った。
 「何してんだ、神崎。新婚ボケは会社まで持ち込むなよ。それとも美人の客は珍しいから驚いてるのか?」
 「い、い、いえ、なん、なんでもないですっっ」
 「そうか? …ああ、担当の者が来ました。おい、成田!」
 うわ、ビンゴ。
 中川の言葉に、蕾夏はがっくりと肩を落とした。
 ―――この会社、いっぱいSEいるじゃん…なんでよりによってビンゴなんだろ…。
 中川の背後から、両腕いっぱいの資料を抱えて現れた瑞樹は、中川の後ろでうなだれているスーツ姿の蕾夏を見て、フリーズした。
 「えー、うちのSEの、成田です。成田、こちら、東亜情報システムの藤井さん」
 「…成田です」
 「…藤井です」
 妙な空気をまといながら、2人はしずしずと頭を下げた。
 偶然通りかかった佳那子が、驚きのあまり手に持った紙コップを落とす。和臣が柱にしがみついたままでいるのを不審に思った奈々美も、立ち上がって状況を確認した途端、その場に固まった。そんな光景が目の端に映り、2人は更に深く頭を下げた。
 ―――第一この仕事、親会社の顧客の仕事の筈じゃないの? なんで設計だけうちに回ってきて、しかもなんでその担当が私になるんだろ…。
 「じゃあ成田、昨日説明した通りだから。任せたからな」
 そう言って去って行く中川部長をちょっと恨めしそうな目で見送った瑞樹は、小さく息を吐き出し、くるりと蕾夏の方に向き直った。いつもなら「じゃ、行くか」「うん」といったところだが、そういう訳にもいかない。
 「…じゃ、こちらへどうぞ」
 「…はい、お願いします」
 ―――うっわー…、ものすごく、変な感じ…。
 口に出したら、余計げんなりしてしまった。2人は少しうなだれ気味に歩き出した。
 事務所のドアを開け、また廊下に出る。と、何故か数名の制服姿の女子社員がたむろしていて、2人が出てきたのを見て、ぴたっとおしゃべりをやめた。その中には、さっき蕾夏を見て呆然としていた女子社員もいる。
 「里谷。お茶2つ、小会議室」
 「え、あ、はい」
 さっきの女子社員が、瑞樹にそう言われて、慌てて頷いた。もう一度その顔を見て、ああ、前にカフェ・バーで瑞樹に抱きついてたあの女の子だ、と蕾夏はようやく思い出した。でも、何故相手があれほど驚いたのかは、全然わからない。
 「藤井さん」
 「は、はいっ?」
 先に小会議室に向かった瑞樹に声をかけられ、女子社員たちを返り見ていた蕾夏は、慌てて前を向いた。
 「ちょっとこれ、持ってもらえませんか」
 「あっ、ごめんなさい! 気がつかなくて…」
 瑞樹は、小会議室のドアを手で押さえていた。資料を大量に持っているので、結構大変そうだ。急いで小会議室に入り、自分の荷物を机の上に置いて、瑞樹の持つ資料を引き受けた。
 それにしても、瑞樹に「藤井さん」と呼ばれる日が来ようとは―――表面上は初対面を装っているが、蕾夏は内心、笑ってしまいそうなのをこらえていた。
 ぐるりと輪になるよう並べられた会議用テーブルの上に、大量の資料をよいしょ、と積み上げる。と同時に、背後でドアがバタン、と閉まる音がした。
 つい、条件反射のように振り向くと。
 「!」
 何か言葉を発する隙もないままに瑞樹に腕を引っ張られ、1秒後にはその腕に抱きしめられていた。
 「え、えぇ!? ち、ちょっと、瑞樹っ!」
 焦ったように小声で抗議する蕾夏を無視して、瑞樹は、蕾夏がいるのを確かめるみたいに更に掻き抱く。髪を梳くみたいに撫でられると、それだけで蕾夏の心臓は暴れだしてしまう。
 「や…っ、やだ、駄目だってばっ」
 「駄目なら大声出せば?」
 頭上から聞こえる忍び笑うみたいな声に、言われているのとは逆に、余計声が小さくなる。
 「だ、出せる訳ないじゃんっ! やだ、こんなのずるいっ」
 「いいよ、ずるくて。餓死寸前だったんだから、もう何でもいい」
 「餓死!?」
 「蕾夏不足」
 髪に当たる唇の感触に余計焦りが募る。蕾夏はじたばたと瑞樹の胸を叩いた。
 「ふ、不足って言われてもっ、仕事! 私、仕事しに来たんだってばっ! それに人来たらどーするの!? ねえっ!」
 「―――ま、いいか。当面の不足分補ったし」
 そう言って腕を解くと、瑞樹は蕾夏の顔を覗き込んだ。
 酷くうろたえている、真っ赤になった蕾夏の顔。その様子に苦笑して、頬に軽く唇を押しつけた。
 一瞬、蕾夏の肩が緊張したように強張る。が、瑞樹がパッと手を放すと、その体から一気に力が抜けた。
 「…もー…信じらんない」
 なんだか、1日分の気力体力の全てを使い果たした気がする。一気に脱力して、椅子にストン、と座り込んでしまった蕾夏は、ぐったりとうなだれたまま、斜め前の席に腰を下ろした瑞樹を睨んだ。
 「ゆっくりでいいって言ったくせにっ」
 「ゆっくりだろ。唇避けてやったじゃん」
 涼しい顔でそう言う瑞樹の目には、軽い調子を装う口調とは裏腹に、からかいの色も冗談の色もない。それがわかるから、蕾夏も文句を言う気にはなれなかった。
 「早く携帯直せよな。ずっと会ってない上に、4日も声聞いてないから、こういう事になるんだよ」
 ―――やっぱり、悪魔が仕掛けた罠の方だったかも。
 計算されたようなタイミングでの、とんでもない形での再会に、蕾夏は小さくため息をついて、額を押さえた。

 和臣たちの結婚式から、約2週間。
 2人が実際に顔を合わせるのは、披露宴後に久保田たちと始発が動くまで飲み歩いて以来、実は今日が初めてである。
 この前の土日は、瑞樹がほとんど会社に泊まりこみ状態だったし、平日は元々定時退社なんて滅多にできない。前からこんな事はしょっちゅうではあったが、さすがにこのタイミングは皮肉すぎた。
 そして、極めつけが、蕾夏の携帯の故障。
 前に蕾夏が携帯を忘れていった時とは違い、もう固定電話の番号もお互い知ってはいたが、電話の遣り取りは基本的に携帯電話である。帰宅時間が不規則で、固定電話に電話しても不在の場合が多いからだ。特にこの1週間は、蕾夏もかなり遅くまで会社に居残っていたため、携帯電話でないとつかまらない状態だった。なのに、そのライフラインが断たれてしまったのだ。
 勿論、蕾夏も寂しくなかった訳ではない。が、ダメージは、瑞樹の方が大きかった。携帯が壊れてもメールは遣り取りしていたが、会社かららしい瑞樹のメールは、ここ2日、「携帯直せ、このままだとマジで死ぬ」で締めくくられていた。

 「…わかった。今日、ここからの帰りにドコモショップ寄ってく。いい機会だから機種変更する」
 「そうしろ」
 「で、今週末はどうなの?」
 「…この分だと、土曜日はアウトっぽい。そっちは?」
 「私も土曜日は出勤だなぁ…。日曜日に休みが揃ったら、今度こそ“恋におちたシェイクスピア”観に行きたい」
 「ヒットはしてるけど、地味目な映画だからなぁ…1ヶ月経つから、そろそろ焦った方がいいよな」
 そんな話をしながら、打ち合わせ資料の準備をする。
 「結構量ありそうだな。目算で、どの位かかる?」
 「課長は、今日中は無理だろうから明日も行け、とか言ってた。その位と見込んでるみたい」
 「は…見縊(みくび)られてんな。なら、本気出すから、早すぎたらストップかけろよ」
 「あ、そんな事言う? 仕様の飲み込みなら野崎さんにも負けない自信あるんだから」
 「失礼しまぁす」
 コンコン、とドアがノックされ、お盆に湯のみを2つ乗せた里谷が、小会議室に入ってきた。事務的に、お茶を配り始める。
 「まずは…マスターは何本でしたっけ?」
 書類を数枚めくって、瑞樹はボールペンを手に取った。蕾夏も、仕事における切り替えは異常に早い。一瞬にして、空気が“ビジネスの場”に切り替わった。
 「マスターは12本、明細トランザクションが9本、中間ワークファイルが18本ですね」
 「じゃ、順当に仕訳明細からいきますか」
 「失礼しましたぁ」
 お茶を配り終えた里谷が出て行く時さりげなくそれを見送ると、廊下に何人も女子社員がたかってるのが見えた。いつからそこにいるのかを考えてしまうと正気で仕事が進められそうにないので、蕾夏は何も見なかったことにして、再び資料に目を落とした。

***

 ―――何? この、女子社員の人だかりは。
 コーヒーを2つ乗せたお盆を持った佳那子は、小会議室前にざっと10人前後いる女子社員を見て首を傾げた。定時は過ぎているので、仕事をさぼってる、と目くじら立てるつもりはないが、逆に全員着替えもせずドアに耳をつけん勢いで小会議室に密着している姿は、かなり異様だ。
 「ちょっと…通してくれる? コーヒー出すんだから」
 「あっ、佐々木さんっ! 今入らない方がいいですよ、きっと!」
 里谷が、おたおたした態度でそう言って佳那子を制する。周囲の数名も大きく頷いたが、佳那子はますます首を傾げた。
 「入らない方がいいって…なんで?」
 「今、もの凄く、静かなんですっ!」
 「…当たり前じゃないの。仕事してるんだから」
 何馬鹿な事を言ってるの、という顔を里谷に返し、佳那子はとっとと小会議室のドアを開けた。
 開けた途端、周囲の想像とはまた別の意味で、佳那子はフリーズしかかった。
 慌ててドアを閉め、お盆を会議テーブルの端に置いた佳那子は、2人の方へつかつかと歩み寄った。それぞれ机に突っ伏している頭に、固めた拳をゴツンと下ろす。
 「いてっ!」
 「いったあっ」
 「痛いに決まってるでしょう? 何2人して居眠りしてるのよ? え?」
 外には聞こえないよう、極力小声でたしなめる。げんこつを下ろされた頭をさすりながら顔を上げた2人は、ちょっと恨めしそうな目を佳那子に向けた。
 「だからって何もげんこつしなくても…」
 「何甘えた事言ってるの。打ち合わせは? 終わったの?」
 「うん、終わった」
 蕾夏が、寝ぼけ眼のまま、傍らのファイルを指さした。べたべたと付箋の貼られた、かなりの分厚さのそれは、蕾夏が来てから僅か2時間で終わらせたとは思えない分量だった。
 「…ほんとに?」
 「あー…本気出したら、疲れた。最近あんまりよく眠ってなかったしな」
 瑞樹が寝起きの不機嫌な声でそう言うと、蕾夏が欠伸でそれに相槌を打った。
 「佳那子さん、今何時?」
 「…6時ちょっと前だけど」
 「じゃあ、あと30分だけ寝かせて。お願いー…」
 言うが早いか、瑞樹も蕾夏も、また机に突っ伏して、眠り込んでしまった。
 ―――あと30分寝かせろ、って…それは、30分経ったら起こせ、って意味な訳?
 理不尽な、と思いながらも、ちゃんと腕時計で時間を確認してしまう自分の性格が恨めしい。運んだコーヒーは、お盆ごとその場に置くことにした。30分経てば当然冷めてしまうが、アイスコーヒーだと考えればいいのだ。
 ドアを開けると、まだ女子社員がドアにはりついていた。邪魔邪魔、という風に追い払いながら外に出る。
 「ど、どうでしたかっ? 佐々木さんっ。何してました?」
 「別に? ちゃんと仕事してたわよ。あんたたち、あんまり邪魔するんじゃないわよ、全く」
 サラリとそう言い残して歩き去った佳那子だったが―――。

 ―――…2人とも、よほど疲れて無防備になってたのねぇ…。あれは。
 見てしまった光景を思い浮かべ、少し赤面する。
 机に突っ伏して居眠りしていた瑞樹と蕾夏は、無意識なのか、相手の方へと伸ばした手を指先だけ繋いでいたのだ。しかも、机の上で。
 ―――ふーん、なるほど、そういう事ねぇ…。あー、早く久保田、帰って来ないかな。この間の花束贈呈のリベンジ、何か考えてもらわなくちゃ。
 こみあげてくる(よこしま)な笑いを必死に抑えつつも、佳那子は、どこかしら心が和んでくるのを感じていた。

***

 「瑞樹、ほんとは今日も残業予定だったんでしょ?」
 「…の、筈だったんだけどな」
 釈然としない顔の瑞樹が、デイパックを肩に掛け直して髪を掻き上げる。少し眠ったせいか、表情は昼間よりむしろ元気な位だ。
 隣を歩く蕾夏は、瑞樹の掻き上げた前髪がぱらぱらと額に落ちる様に、何故か見惚れていた。瑞樹のこういう仕草は、実は結構好きだったりする。自分がもし瑞樹を写真に撮るなら、こんな瞬間を撮るかもしれないな、なんて事を考えながら、蕾夏も書類の入ったトートバッグを肩に掛け直した。
 「なんか、佐々木さんが“このままだと成田が倒れる”っつって掛け合ってくれて、今日だけ残業なしになったらしい。なんか裏がありそうだよなぁ…」
 「そんな、佳那子さんに対して失礼じゃない?」
 「お前は佐々木さんの顔見てねーから、そう思うんだよ」
 帰り際「せっかく蕾夏ちゃんが一緒なんだものね、早く帰って帰って」と妙に嬉しそうな顔で瑞樹を追い出すような仕草をした佳那子を思い出すと、嫌な予感に寒気がする。明日以降、佳那子と久保田に対しては警戒モードで接しておこうと、瑞樹は密かに考えた。
 「ま、いいじゃない? 思いがけず早い時間に帰れたんだから。どっか寄りたいとこ、ある?」
 ご機嫌にそう言う蕾夏に、瑞樹の返事は簡潔だった。
 「ドコモショップ」
 「…ごめん、一瞬忘れてた。けど、開いてる? もう7時近いよ?」
 「新橋店は遅くまでやってるから、心配するな」
 有無を言わせない口調に、蕾夏は思わずくすっと笑ってしまった。それを見て、瑞樹は少し不機嫌に眉を上げた。
 「薄情だよなぁ…お前、前に電話連絡取れなくなった時も平気そうだったし。会えなかろうが電話が無かろうが、全然問題ねーのかよ」
 「えっ…」
 一瞬、足を止めてしまいそうになる。憮然とした瑞樹の目を見上げて、慌てて首を振った。
 「そっ、そんなこと、ないよ?」
 「―――何、うろたえてんだよ」
 「うろたえてない、全然うろたえてないからっ。でも、本当に平気な訳じゃないよ?」
 「…ふーん」
 疑いの眼差しを向ける瑞樹に、つい、目を逸らしてしまう。頬が熱い気がする。また顔が赤くなってるんじゃないかという気がして、余計焦ってしまう。

 ―――平気な訳じゃないんだけどね。
 平気じゃない自分を瑞樹に見せるのが、恥ずかしくてたまらないだけで。
 今週も土曜出勤が決定した時に実は更衣室に駆け込んで泣いてたとか、壊れた携帯電話に当り散らして余計壊れたとか、そういう話は、絶対、できない。

 「蕾夏」
 ふいに名前を呼ばれて、蕾夏は弾かれたように顔を上げた。と、その額に、瑞樹の唇が軽く触れた。
 「!」
 「…やっぱり、お前、面白い」
 反射的に顔が紅潮した蕾夏の様子に、瑞樹がクスリと笑った。でも、その笑顔にも、やっぱりからかったり冗談めかした色合いはなくて、ただただ、優しくて―――どこか、せつなかった。

 ―――やっぱり、ずるいよ、瑞樹。
 こんな優しい、せつないキスをするなんて。

 ゆっくり前に進めればいい―――その言葉を蕾夏にも、自分にも言い聞かせるみたいなキスに、蕾夏はどんな顔をすればいいのかわからなかった。


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