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― 今はただ眠りたい ―

 

 耳慣れない目覚まし時計の音に、瑞樹は浅い眠りから覚めた。
 「……い…ってー…」
 頭が、ガンガンする。明らかな寝不足状態だ。枕に頭を沈めたまま、思わず額を手のひらで押さえてしまう。
 それでも空いた手を音のする方向に伸ばし、目覚まし時計のありかを探ろうとした瑞樹の肩の辺りを、何かが力なく掠めた。
 「……ねむーい…」
 抗議とも独り言ともとれる眠そうな声でそう言う、隣に眠る彼女は、今回もまた、瑞樹を目覚まし時計と間違えているらしい。闇雲に振り回している手が、何度も瑞樹の肩を叩く。
 空中でその手をがしっ、と掴んだ瑞樹は、むくりと起き上がると、ヘッドボードに組み込まれたデジタル式の目覚まし時計を止めた。途端、静寂が、狭いツインルームに戻ってきた。
 「―――…」
 ぼんやりする頭で、今の状況をゆっくりと思い出す。
 見慣れない部屋に、馴染まないベッド。自宅ならあり得ないほどの妙な静かさと、強烈なまでの寝不足感。

 ―――ああ…俺、日本に帰ってきたんだっけ。

 当たり前のことに考えが行き着いた時、瑞樹に手を掴まれたままの蕾夏が、目覚めに抵抗するように小さく寝返りを打った。
 「…ねむ…」
 欠伸と共にそう呟いた瑞樹は、またドサリとベッドに倒れこんだ。蕾夏の手を掴んだままだったので、半ば蕾夏に折り重なるようになってしまったが、それでも眠気には勝てなかった。

***

 瑞樹と蕾夏が、写真家・時田郁夫のアシスタントとしてイギリスに渡ったのは、半年前。
 そして、再び日本の土を踏んだのは、昨日の午後―――降り立った地は、関西国際空港だった。
 何故、東京在住の2人が成田ではなく関空に降り立ったのかというと、それには少々事情がある。

 2人がイギリスに滞在している最中だった5月、瑞樹の母が脳腫瘍のため他界した。
 母の死期が迫っていることは、日本を発つ前から知っていたし、それを理由に思い止まる気もなければ、葬儀のために帰国するつもりも全くなかった。薄情な、と言われようとも―――瑞樹にとって母とは、そういう存在だから。
 ただ、父のことは心配だった。離婚して相当経つし、予め覚悟も出来ていたとはいえ、やはり父にとっては運命を感じるほどに愛した人の死だ。やはりそれなりに気落ちしているのではないか、と、瑞樹も蕾夏も危惧した。それで、急遽、目的地を関空に変え、神戸に住む瑞樹の父を見舞ってから東京に戻ることにしたのだ。
 昨日の午後関空に到着し、その足で一路神戸へ。会社帰りの父と待ち合わせをして、結構遅くまで飲んでしまった。父が案外元気にしていたので安堵したが、神戸市内のホテルに入る頃には、2人揃ってフラフラだった。なにせ、ロンドンの下宿先で目を覚ましてから丸24時間以上、連続で起きっぱなしなのだから。
 そして、今。
 ホテルで目覚めた瑞樹と蕾夏は、彼らの日常からしたら結構な睡眠時間を取っているにも関わらず、頭は極度の睡眠不足を訴えている状態に苦しめられていた。


 「飛行機で眠らなかったのが大失敗だったよねぇ…」
 ベッドの縁に腰掛けてそう呟く蕾夏の顔は、まだぼんやりとしている。その背後でまだ転がってる状態の瑞樹も、虚ろな表情で頷いた。
 「どっちも見てない映画だったからなぁ…機内上映。時差ボケ防止するには、あそこで寝とかなきゃいけなかったのに」
 勿論、機内上映は、12時間近いフライトのうちのほんの4時間ほどだ。しかし、2人の場合、今見た映画のあれが良かったこれがまずかった、と、上映に続いて批評が始まってしまうので、すっかり目が冴えてしまって、結局機内では1時間も眠れなかったのだ。
 「それに私、ゆうべもなかなか寝付けなかった」
 「なんで」
 「うーん…やっぱ、瑞樹のお父さんと会っちゃったからかなー…」
 「親父と会うと、なんで眠れなくなるんだよ」
 「んー、色々、考えちゃって」
 そう言って具体的な中身を曖昧に誤魔化すと、蕾夏は瑞樹の方を振り返り、ニッ、と笑った。
 「まあ、どのみち、瑞樹の言うところの“余計なこと”だから―――考えないことにした」
 「…そっか」
 多分、母に関することだろうな、と予測はつく。
 蕾夏は、瑞樹も知らない母の闇の部分を知っている。誰にも話そうとしなかった母が、蕾夏にだけは話したから―――もしかしたら、その件について、父や瑞樹に話すべきかどうかを迷っているのかもしれない。
 蕾夏の笑みに応えて微かに口元を綻ばせると、瑞樹は蕾夏の腕を引いた。素直に後ろに倒れこんだ蕾夏は、ちょっと体の位置をずらして、瑞樹と並んで寝転ぶ形をとった。
 「もうちょい眠ってから行くか?」
 「…ううん。今眠ったら、チェックアウトの時間過ぎちゃう気がする。瑞樹は? 大丈夫?」
 「…ま、なんとかなるだろ」
 この先の予定を考えると、ちょっと頭がクラクラしてくるのも事実だが―――あまり長い時間こうしているのは、良くない気がする。
 蕾夏の髪を指に絡めて暫し弄んだ瑞樹は、何かを断ち切るように一度目を閉じると、思い切って起き上がった。
 本当は、チェックアウトぎりぎりの時間まで、このままでいたかった。でも―――これ以上、この心地よい空間を漂っていると、現実世界に戻る気力が萎えてしまいそうだったのだ。

***

 「お母さんが亡くなったとは、また、タイミングが悪かったねぇ…」
 渋い表情をする相手に、瑞樹は曖昧な笑みを返した。
 「いや―――間に合わないことは出発前から分かってたし。第一、別れて15年近く経つし、向こうも再婚して別に家庭を持ってましたから」
 「うーん、そんなもんなのかなぁ…。それで、お父さんは? 大丈夫かい?」
 「案外、サバサバしてましたよ」
 「僕なら、夏子が死んだりしたら、ショックのあまり地の果てにでも放浪の旅に出ちゃいそうだけどなぁ」
 「…はあ…」
 目の前の彼が、ショックのあまり荒野を彷徨ってる図を想像し、瑞樹はなんとも複雑な心境になった。
 ―――地の果てがどんな場所か知らねーけど…この人、絶対カメラ持って行きそうだよな。でもって、最初のショックなんていつの間にか忘れて、珍しい風景を大喜びで撮影しそうだよなぁ…。
 「瑞樹ー、コーヒー入ったよ。お父さんも」
 ダイニングの方から、蕾夏が顔を覗かせ、そう告げる。その背後で、果物を乗せた皿を運んでいる蕾夏の母の姿も目に入った。瑞樹と蕾夏の父は、テーブルの上に広げてしまった写真をばたばたと掻き集めると、ダイニングへと移動した。


 神戸を出てから4時間半後。瑞樹が赴いたのは、自分の家ではなく蕾夏の実家だった。
 留守中、蕾夏は、家の中の目ぼしい貴重品を実家に預けておいた。それを取りに行くためと、元気な顔を両親に見せるために、帰国後は一旦実家に帰ることにしていた。瑞樹はそれに同行して来た訳だ。
 藤井家は、瑞樹の立場からすると、本来非常に敷居の高い家である。大事な一人娘をイギリスまで連れて行ってしまった張本人だし、家に戻る日が1日遅れたのだって自分の都合が原因だ。第一、そういう事情がなくても、男からすると「彼女の父親」という人物は総じてオソロシイ存在だ。娘をたぶらかす悪い虫扱いされるのが、世間一般の常識だから。
 しかし、その常識は、藤井家では通らない。

 「いや、面白いなぁ。瑞樹君て、ライカで撮った写真とニコンで撮った写真、随分違うんだね。やっぱり撮り慣れてるせいか、ライカの方が力の抜けた瑞樹君らしい写真撮ってるよ。僕はダメでねぇ、ニコンでもキャノンでも違いが出ないんだよ。うーん、やっぱり撮る枚数がまだまだ足りないか」
 瑞樹が撮った写真を興味津々で眺めながらそんなことを口にするのは、オソロシイ存在の筈の蕾夏の父。
 彼にとって瑞樹は、娘の彼氏というよりも、自分の趣味を理解してくれる大事なカメラ仲間である。口を開けばカメラの話ばかりするので、昔から娘にも妻にも辟易されていた彼は、瑞樹の訪問を娘の帰省より楽しみにしているのだ。
 「あのねぇ、匠さん。瑞樹君はお仕事に繋がる写真を撮ってるの。あなたのは趣味でしょ? もうネガを保管する引き出しもパンク寸前なんだから、それ以上撮る枚数増やすのはやめてくれないと」
 「それより前にお父さん、プリントの整理しなよ。私が家出てから、誰も整理しないもんだから、キャビネットの中で雪崩起こしかけてたよ」
 蕾夏の母と蕾夏の苦言に、父は反論できなかった。事実だからだ。父は耳の痛い言葉を聞こえないフリで軽く流し、写真から目を離すと、コーヒーカップを口に運んでいる瑞樹の方を見た。
 「そうそう、仕事だけど―――結局、立場としてはフリーってことになるのかい?」
 「一応は。週明けにも時田さんがまた日本に来るんで、その時細かい話をすることにしてますけど」
 「蕾夏の方は? 電話の説明じゃいまいち分からなかったけど、フリーライターってことになるのかな?」
 「んー、今のところね。“月刊A-Life”に採用されれば、1年単位で専属契約結ぶから、その期間はフリーとは呼べない状態だけど」
 そう、蕾夏は、ロンドンでの人との出会いがきっかけで、ライターという新しい道を歩みだしたのだ。
 前職のシステムエンジニアからライターへの転身は、それまで特に文筆活動をしていなかった蕾夏だけに周囲をかなり驚かせている。けれど、事ある毎に「お前ってコピーライターの才能がありそうだよな」と何気なく口にしていた瑞樹にとっては、さほど意外な転身でもなかった。蕾夏の紡ぐ言葉には、他人には真似できない、真実を的確に捉えた独特の言い回しがある―――それが蕾夏の武器になると、瑞樹も、そして彼女にこの仕事を勧めた人々もそう感じているから。
 「たった半年なのに、ねぇ」
 どこか感慨深げな声で、母がそう呟く。その言葉に、父は穏やかな笑みで相槌を打った。
 「瑞樹君や蕾夏位の年の頃の半年は、僕らの半年よりずっと中身が濃いからね。人生が180度変わったって、おかしくはないさ」
 「そうねぇ。私が匠さんの下で新聞記者始めたのも、確か蕾夏と同じ歳の時だし」
 そんな母のセリフに、瑞樹はギョッとして、コーヒーカップを落としそうになった。
 ―――ちょっと待て。蕾夏って今…26、だよな。確か、蕾夏の両親結婚したのって、おふくろさんが記者に転身してから2年位経ってからだ、って言ってたけど―――…。
 昔を懐かしむような顔で頬杖をつく蕾夏の母は、瑞樹の目にはどう見ても自分の父位にしか―――50手前にしか見えない。でも、単純計算でいくと、50代半ば…下手すると、後半。
 …この人、一体、何歳なんだ???
 「あっ、ねえねえ。そう言えば、蕾夏と瑞樹君て、ロンドンで同じ家に下宿してたんでしょう?」
 「―――…ッ!!!!」
 唐突に飛んだ話に、瑞樹と蕾夏が同時にむせた。
 唐突すぎる。しかも、一番触れて欲しくない話題ときた。ゲホゲホと苦しげにむせている瑞樹と蕾夏を、当の母はキョトンとした顔で見ていた。
 「あらやだ、どうしたの?」
 「…な…っ、なんでもないっ」
 「どうだった? 彼氏と一つ屋根の下って、結構スリリングな毎日だったんじゃない?」
 何故そういうセリフを母親がワクワクした顔で言えるのか、どうしても理解できない。
 事実を知ったら、どういう顔をするんだろう――― 一瞬、そう考えなくもないが、事実は決して言えない。言える訳がない。
 「…別に。一つ屋根の下ったって、結構大きな家だったし…」
 そっけなく蕾夏が答えると、母は「そんなもんなのぉ?」と不満そうな顔をした。瑞樹は、話をこちらに振られるのが恐ろしくて、とにかく蕾夏の母とは目を合わせないようにした。なのに、今度は父がそれに追い討ちをかける。
 「ほら、山梨の叔父さん、いるだろう?」
 「ああ…苺作ってる」
 「そうそう。あの人なんか頭硬いからね、蕾夏が彼氏と同じ家に下宿してるって話したら、もう怒っちゃってねぇ…なんでそんなのを許可するんだ、って散々叱られたよ。異国の地で一人暮らしさせるよりはずーっと賢い選択だと思うんだけどねぇ」
 「…ていうか、なんでそんな話、叔父さんにするの…」
 「話題がなかったんだよ」
 「話題にしないでよっ!」
 叔父さんは、正しい。それが普通の反応であって、瑞樹君が同じ家なら安心だね、というこの父の反応の方が異常なのだ。
 ―――もしかして俺、ここの両親から、男として見られてないんじゃないか?
 罪悪感はあるものの、そう思っていてくれた方が、顔は合わせやすい。冷や汗が背中を伝う中、瑞樹は努めて冷静さを装いながら、ひたすら無言でコーヒーを飲み続けた。
 「でも、半年間も蕾夏や下宿先の人達と過ごしてたんなら、瑞樹君、今晩から寂しいわねぇ」
 どうやら、蕾夏の母がこの話を振った理由は、ここにあったらしい。少し心配げにそう言う彼女に、目を合わせまいとしていた瑞樹はやっと目を上げ、微かな笑みを返した。
 「…いや、一人暮らし、長いですから」
 「そう? 蕾夏も、意地張らないで戻ってくればいいのに…」
 「大丈夫。私、一人っ子だから、一人に対する耐性、強いもん」
 「蕾夏は、子供の頃から、独立心が強かったからね」
 母の心配に強気な笑みで応える蕾夏に、父はそう言って苦笑した。
 「安全に守られる立場より、多少リスクがあっても自由でいられる方が蕾夏にとっては快適なんだろう」
 「…あなたに似ちゃったものね、蕾夏は」
 苦笑いを交し合う両親を前に、蕾夏は曖昧な笑みを浮かべ、チラリと瑞樹の方を見た。
 瑞樹もまた、蕾夏の方を流し見た。
 お互いの目の中に、相反する2つの想いを見つけ、一瞬、2人の顔から笑みが消える。そう―――実は、このことについては、ロンドンにいる時から一度もまともに話し合っていない。話し合わずして、お互い同じ結論を出した―――それぞれ、別々の理由を胸に。

 半年間、朝も昼も夜も、一緒にいた。
 離れたくない―――その本音と、一人でやっていかねばという理性。…話し合ってもいないのに、瑞樹も蕾夏も、理性を選んだ。

 ロンドンを経つ少し前から続いている、微かに張り詰めたような空気。…それは、物理的に寄り添ってきた半年間にピリオドを打つ瞬間が近づいていることに対する、寂しさと不安が原因だった。

***

 なんだかんだで、藤井家を後にする頃には、夕闇が辺りに迫り来ていた。
 「夕飯、食べていけばよかったのに…。どうせ戻っても、1人でご飯食べるんでしょ?」
 駅まで見送りについてきた蕾夏が、そう言って眉をひそめる。そんな蕾夏を見下ろす瑞樹は、苦笑と共に軽く肩を竦めた。
 「夕飯時まで居座ったら、絶対前みたいに“泊まっていけ”ってなるだろ」
 「…それもそうだね」
 そういうシチュエイションは、蕾夏にとっても歓迎できないものらしい。瑞樹のセリフに、あっさりとそう相槌を打った。
 平日の夕方、まだ都心から帰宅するサラリーマンはほとんどおらず、かと言ってこの時間から出かけていく人もいないので、駅へと続く道路は閑散としていた。そんな中を、腕がぶつかりそうな位の間隔で並んで歩く。手でも繋ぎたいところだが、知り合いの多い蕾夏の地元だけに、ちょっとそれは憚られた。
 どちらも、なんとなく無言だった。
 変な感じ―――半年前までは、これが当たり前だったのに…別々の家へと分かれていく、そのことに、もの凄い違和感を感じる。
 「…あ、そうだ。携帯また買わないと」
 ふいに蕾夏が呟いた。イギリスに経つ際、瑞樹も蕾夏も、持っていた携帯を解約した。ロンドンで使えるものではなかったし、半年間全く使わないのに基本料金を払うのもバカらしいと思ったからだ。
 「…明日、隼雄達と会う前に、買いに行くか」
 「ん…そうだね」
 そう言ったところで、ちょうど駅に到着してしまった。
 電車が来るまで、まだ少し時間がある。けれど、自分が乗った電車を蕾夏に見送られるなんて場面を想像すると、余計変な気分になる。瑞樹は、切符売り場へ向かう前に足を止め、蕾夏を見下ろした。
 「まだ5分以上あるから、お前、暗くなる前に戻れよ」
 「え…っ、でも」
 「いいから」
 「―――瑞樹?」
 本心を見透かそうとする目で、蕾夏が見上げてくる。…この目を誤魔化すのは、いかに瑞樹でも難しい。瑞樹の目の中に何を読み取ったのか、蕾夏の表情が、少し心配げになる。
 「大丈夫?」
 「…ばーか。お前こそ大丈夫か、明日から」
 「…大丈夫だよ」
 ちょっと膨れる蕾夏に苦笑しながら、瑞樹は少し背を屈めて、素早く蕾夏の頬にキスをした。途端に、蕾夏が、怒ったような顔をして顔を赤らめる。
 「! もうっ! 外ではやめてってばっ」
 「今日俺、帰ったら即座に気絶だと思うから。明日の朝にでも、また固定の方に電話してこいよ」
 「うー…、なんか、誤魔化された」
 「気にしない気にしない」
 「…分かった。明日の朝、電話する」
 拗ねたように蕾夏がそう言った、次の瞬間。
 今度は逆に、蕾夏が瑞樹の腕を引き、背伸びをしてきた。
 一瞬、唇に、ふわりと柔らかな感触が押し付けられる。が、それは本当に一瞬のことで、ものの1秒でそれは離れていった。
 「―――…」
 瑞樹がリアクションできずにいる間に、蕾夏はぱっ、と瑞樹から離れると、くるりと背を向けて今来た道を戻り始めてしまった。その歩き方は、照れや寂しさを誤魔化してるみたいに、妙に乱暴な歩き方だった。
 「…おい、蕾夏」
 「おやすみっ!」
 思わずかけた声に、蕾夏は振り返らないまま、手を振って応えた。今、蕾夏がどんな顔をしているのか―――なんだか、見なくても分かる気がする。

 ―――バカ…余計、連れて帰りたくなるだろ。

 はあぁ、と大きな溜め息をついた瑞樹は、くしゃっと前髪を掻き上げると、蕾夏に背を向けた。蕾夏の姿が見えなくなるまで見送ることはできなかった。そんなことをすれば―――追いかけて、本当に家に連れ帰ってしまいそうで。
 こんなことで、大丈夫か、俺―――バカヤロウ、と、らしくない気弱な自分に、瑞樹は心の中で活を入れた。


 半年ぶりに、ひとりきりになった。

 それは、体の半分が突然失われたみたいな、なんとも言えない喪失感を伴う出来事だった。

***

 駅前の蕎麦屋で適当に夕食をとって、半年振りの我が家に辿り着いたのは、午後8時を回ってからだった。

 半年も放置して、埃だらけで湿気った空気になっているのでは…と想像していたが、案外大したことはなかった。電気をつけるのももどかしく部屋に上がりこんだ瑞樹は、ベッドの上に掛けておいた布を勢いよく取り去ると、その上にドサリと座り込んだ。
 「―――ねむ…」
 疲労困憊。
 肉体的に、というよりは、精神的に。
 時差ボケと、肉親の死を実感できない変な気分と、蕾夏の両親と会った気疲れと―――蕾夏がいない、喪失感と。そんなものが一度に襲ってきて、さすがの瑞樹も疲れない訳にはいかなかった。外の喧騒をシャットアウトした自分の空間に戻った途端、急激な疲労感と眠気が襲ってくる。

 ふと見ると、真っ暗闇の中、電話機が怪しい点滅を繰り返していた。留守電のボタンが点滅している…誰かが留守番電話を入れたらしい。
 ―――隼雄達かな。
 明日、会う約束になっているので、その件について留守中にでも電話してきたのかもしれない。
 けれど、今は、電話より眠る方が先だ。
 蕾夏が腕の中にいない状態で、果たして眠れるんだろうか…と危惧していたが、とりあえず今日はその心配はなさそうだ。大きな欠伸と共に、瑞樹はベッドの上に倒れこみ、そのまま気を失うようにして眠りに落ちた。
 そして、翌日の早朝まで、目を覚ますことはなかった。


 瑞樹が、留守番電話の中身を知るのは、翌日目を覚ましてから。
 予想だにしなかった内容に、瑞樹は仰天し、大慌てで久保田の携帯に電話を入れる羽目になるのだが―――…。

 

 

 話は、瑞樹と蕾夏がまだロンドンにいる頃―――今から2ヶ月ほど前に遡る。


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