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― 日常のヒトコマ ―

 

 カチャン、という音を立てて置かれるフォークを視界の端に見て、佳那子は思わず眉をひそめた。
 向かいの席に置かれたランチプレートは、半分ほどしか手をつけられていない。以前はこの分量でも足りないと言っていた奈々美にしては、あまりにも小食すぎる。
 「もう食べないの?」
 心配げな佳那子の問いに、奈々美は冴えない表情でため息をついて頷いた。
 「うん、なんか、食欲なくて」
 「最近ずっとよねぇ…。大丈夫なの? 働きすぎなんじゃないの」
 ここ数日、随分遅くまで残業している様子だから、そうした無理がたたって体に異常をきたしているとしても不思議ではない。佳那子はそう思ったが、奈々美本人はその言葉に可笑しそうな顔をした。
 「やだ、そんな訳ないじゃない。佳那子の仕事量に比べたら、私なんて全然よ。成田君抜けてから、佳那子、もの凄く忙しいんでしょ」
 「…まあ、そうなんだけど…でも、ナナと私じゃキャパシティ違うし、持ってる体力も相当違うわよ?」
 「だぁいじょうぶ。原因はそんなんじゃないわよ。きっと精神的なもの」
 「精神的?」
 一瞬、何のことか分からずキョトンとした佳那子だったが、すぐにピンときて、眉間に皺を寄せた。
 「―――ああ、倉木さんのこと」
 「そ。倉木さん」
 「あたしが何ですかーぁ?」
 突如、頭上から第三者の声が割り込んだ。
 慌てて見上げると、そこには話題の主―――倉木が立っていた。その背後には、彼女同様、今年の新規採用で入ってきた女子社員が2人ほどいて、倉木を置いて奥のテーブルに向かおうとしている。どうやら、3人のうちの誰かが電話対応か何かしていたせいで、昼食に出遅れたらしい。
 会社の1階にあるファミレスなので、鉢合わせする可能性は確かに高かった。しかし…なんて絶妙なバッド・タイミング。佳那子と奈々美の顔が、自然と引きつった。
 「ああ、別に、なんでもないのよ」
 佳那子があっさりとした口調でそう返すと、倉木は、どことなく面白くなさそうな顔で「そうですかぁ」と間伸びした相槌を打った。多分、佳那子が返事をしたのが面白くなかったのだろう。でも、倉木がちょっかいを出したがっている相手は奈々美ただ1人だということ位、佳那子だって重々承知だ。
 「あ、木下先輩、愛しのダーリンさんはどうしたんですかぁ? 午前中って社内でしたよね、確か」
 一転して楽しげに言う倉木に、奈々美はそっけなく答えた。
 「カズ君のことなら、久保田君と外に食事に出てるわよ」
 「えー、お昼は一緒しないんですかぁ?」
 じゃ、あたしが誘っちゃおうかなあ、などと恐ろしいことを口にする倉木を、奈々美は斜め下から挑戦的に睨み上げ、冷ややかな笑みを浮かべた。
 「ま、お昼くらいはね。他は、ほぼ24時間、ずーっと一緒だから」
 「……」
 ―――ナナ…その笑顔、怖いわよ、かなり。
 慣れてきたとはいえ、さすがの佳那子も背筋が寒くなる。当の倉木なら余計そうだろうと思ったが、倉木はさっぱり懲りていないらしく、素なのか演技なのか分からないケロッとした笑いを奈々美に返した。
 「あっ、そーですよねぇ。失礼しましたぁ」
 「それより倉木さん。森崎さんの営業報告書の清書、できた? 2時か3時にはあげて欲しいんだけど」
 「えー! マジですかぁ!? まだ半分もできてないですぅ」
 「できないんなら、すぐ貸して。部長には“倉木さんでは間に合いませんでした”って報告しとけば、それで済むから」
 さすがに今度は、倉木の顔が引きつった。まだ入社間もない、仮採用期間中の倉木だ。そんな報告をされれば、このご時世だけに早々にクビを切られかねない。
 「い、いえ、できます」
 「そう。じゃ、がんばってね」
 「…失礼します」
 意気消沈したような、けれどどこか不満そうな口調でそう挨拶すると、倉木は仲間の待つ奥のテーブルへと去っていった。その背中に向けて、奈々美が周囲に気づかれない程度の「あかんべー」をするのを見て、佳那子は呆れたように大きなため息をついた。
 「…大人げないわよ、ナナ」
 「だぁって…あの子が午前中に報告書作成できなかった理由って、頼まれてもいないカズ君の企画書の清書を、嫌がるカズ君説き伏せて無理矢理やってたせいなんだもの」
 憤慨したように唇を尖らせる奈々美は、食べるつもりもないのに、またフォークを手にして、それでランチプレートの残り物をつつき始めた。
 …まあ、昔の奈々美を考えれば、強くなったものだと思う。それに、奈々美が頭に来るのも当然だと佳那子も思うので、それ以上奈々美の後輩に対する愛のない態度をとやかく言う気にはなれなかった。


 倉木は、先月末入社した、新人営業補佐である。
 瑞樹が退社して1名減ったシステム部には補充がなかったのに、なんで異動のなかった営業補佐に補充があるんだ、と佳那子は上層部の不条理に頭にきていたが、株式会社ブレインコスモスでは、新人が本来配属される筈の部署とは違う部署に最初は配属されるケースが多々あるため、倉木が最終的にどこ所属になるかは、まだ不透明な状態だ。ともかく、仮採用の3ヶ月間は、奈々美の下で営業関係の事務作業をすることになっている。
 そんな倉木が、目下気に入ってアタックを仕掛けている相手。それが、奈々美の夫である神崎和臣だ。
 まもなく結婚1年になるが、和臣は、今も変わらず社内のアイドル的な存在だ。別に妙な誘いをかけられるとか、奈々美に嫌がらせをするとか、そういう事ではない。和臣の「奈々美さん命」度は、社内の誰もが認めるところだから、独身時代だってそんな空しいことをする輩はほぼゼロだった。だから今だって、和臣のキラキラ笑顔に女子社員が黄色い歓声を上げる、ただそれだけのことだ―――普通の女子社員は。
 けれど、倉木は、普通の女子社員ではなかった。和臣の迷惑顔などお構いなしに、やたら和臣の世話を焼こうとする。資料作成を請け負ったり、お茶を淹れたり…一度など、お弁当を作ってくるという荒業に出た。あの時は和臣が外回りの日で、倉木はただ馬鹿を見ただけだったのだが。
 倉木は、奈々美の目があってもおかまいなしだ。いわく「奥さんの有無は関係ないんです、あたしが神崎さんを気に入ったんだから」。…関係ないと思っているのは、いくら少々常識はずれの多いブレインコスモスといえども、倉木ただ1人なのではないだろうか。
 大学を卒業したばかりの倉木は、22歳。佳那子や奈々美より6つ下だ。この年齢差位で“ジェネレーション・ギャップ”なんて言葉を使いたくはないが、正直、同性である2人から見ても、倉木はほとんど宇宙人だ。


 「なるほど。ナナが最近、神崎に付き合って残業してるのは、倉木のせいなのね」
 ポテトサラダを口に運びながら、佳那子は事情を察してそう言った。いつの間にか“倉木”と呼び捨てになっているが、それだけ倉木に対するイメージが悪いということだろう。
 「神崎1人で残業させたりすれば、これ幸いと倉木がちょっかい出すものね。まぁったく…何考えてるのかしら、あの子。人のもんに手を出して何か楽しいことでもあるのかしらねぇ…」
 「…それを言われると、ちょっと耳が痛い部分もあるんだけど」
 残り物をつつきながら、奈々美が僅かに顔を赤らめる。そう言えばそうだ。元々奈々美は、恋人や妻のいる男性にばかり興味を持つという、変な性癖の持ち主だったのだから。
 「でも、ナナにも倉木のあの行動パターンは理解できないんでしょ?」
 「…できない。私はいつも自信なくて、好きになっても見てるだけだったから。それに、好きになった人を振り向かせようとか、奥さんや恋人から盗っちゃおうとか、思わなかったしね」
 「ま、神崎が靡くとも思えないから、その心配はないけど―――でも、単純に、新人としての責任考えたら、あれじゃあ仮採用期間のうちにクビを切った方が得策よねぇ」
 万が一、最終的に倉木が配属される部署がシステム部だったら、どうすればいいんだろうか。あの倉木を教育する立場になることを考えると、いかに女子のSE採用を心待ちにしていた佳那子と言えども、さすがに暗澹たる気分になってしまう。
 「倉木さんの最終着任部署がシステム部だったら、どうする?」
 佳那子の考えを読んだみたいに、奈々美が試すようにそう言う。
 「…やめてよ。樋沼だけで、うちは手一杯よ」
 ―――そうだ、午後からあいつに新製品の仕様説明しないといけないんだった。
 図体はでかいのに、中身はなかなか成長してくれない後輩・樋沼の名を口にした途端、午後の憂鬱なスケジュールを思い出した佳那子は、大きなため息をひとつついた。

***

 「…カズ。もういい加減、諦めろ」
 呆れる久保田の言葉を無視して、和臣は先ほどからずっと、1枚のポスターの前から離れようとしない。
 会社の前のコンビニエンス・ストア。その、缶ジュースやペットボトルが入った巨大な冷蔵庫の横の壁に貼られたポスターは、1ヶ月ほど前から和臣が店主に「譲ってくれ」と掛け合っているポスターである。印刷された絶対枚数が少ないのか、久保田も和臣も、今までこの店以外ではまだ見たことがない。だからこそ、この1枚に和臣は固執するのだ。
 日参したのが功を奏して、販促期間である4月が終わったら譲ってもらえることになっているのだが―――その大事なポスターに、今日、ちょっとした不幸があった。
 「あのなぁ、カズ。破れたって言っても、そんな端っこだろ? ポスターの絵そのものには全然影響ないんだから、もう諦めろって。睨んでたって、破れたとこが繋がる訳でもあるまいし」
 ポスターの破損箇所は、セロテープで壁に留められた部分―――四隅のうち右下の部分が破れてしまい、三角形に破り取られた紙を壁に残して、ポスターは半ば壁から浮きかけていた。テープ留めした場合、よくあるケースだ。
 よくあるケースなのに、このポスターに固執していた和臣にとっては、たとえようもないショックだったらしい。
 「…すみません…もうちょい、悲しみに浸らせて下さい」
 「バカ。昼休みが終わっちまうぞ」
 「ギリギリ間に合う時間までは待って下さい…」
 「…って、オイ、本気で涙ぐむな!」
 「だってっ! これが泣かずにいられますかっ! これ1枚しかないんですよ、藤井さんのポスター!」
 「瑞樹がイギリスから持ち帰るかもしれねーだろ!」
 「あいつがそんな真似する訳ないでしょうっ! もう、メールの返事の段階で諦めてます、成田経由で入手するのは。オレの努力でゲットするしかないんだから―――だから、このポスターは完璧な状態で販促期間を乗り切らせたかったんですよっ! ああ、それなのに…っ!」
 ―――病気だな、こりゃ。
 たかがポスター1枚―――しかも、アイドルや女優のポスターじゃなく素人の、よりにもよって友人の彼女のポスターにここまで入れ込んでしまうのだから、もう病気か宗教かどちらかしかありえない。よく奈々美が怒らないものだ。いや、もう愛想を尽かしているのかも…。


 “シーガル”という酒造メーカーがこの春発売した、新しいカクテルの販促ポスター。
 柔らかな淡い色をバックに、商品と女性モデルが写っている。が、その女性モデルは、どこからどう見ても藤井蕾夏その人だった。
 蕾夏は、モデルでも何でもないし、そういう経験もゼロだ。けれど、ポスターの中の蕾夏は、そこいらのCMモデルよりも人の目を惹きつける顔をしていた。カクテルの小瓶を光に透かすみたいにして掲げている蕾夏の笑顔は、蕾夏をよく知る久保田たちでも思わず絶句する類のものだった。
 だから、すぐに分かった。これを誰が撮ったのか。
 蕾夏にこんな顔をさせられる人物は、ただ1人―――本来なら、時田郁夫のアシスタントとして渡英している、商業写真を撮る立場にはない筈の人物、成田瑞樹しかありえない。
 このポスターが世に出回った経緯を、久保田たちは誰も知らない。この店でこのポスターを見つけてすぐに瑞樹にメールを出したのだが、情報提供拒否といった感じの返事が返ってきただけで、一切の説明はなされていないから。
 ただ、その明らかに「その話には触れないでくれ」という感じの返信で、久保田はこれが単なる「他人の空似」でないことを確信した。間違いなくこのポスターは、瑞樹が撮った蕾夏のポスターだ、と。


 「前から気になってたんだが」
 なんとか和臣をポスターから引き剥がした久保田は、事務所へと戻る道すがら、隣を歩く和臣に対してそう切り出した。
 「お前、あれをゲットしたら、どうする気なんだ?」
 「え? どうするって?」
 「いや、だって…結構大きいだろ、あれ。貰うのは構わねーだろうけど、その後どうするんだろうと思ってな」
 「飾りますよ」
 当然でしょう、という口調で、和臣はそう返した。
 「もう、飾る場所も確保してるんですよ。本当は寝室にしようかと思ったんだけど、さすがに恥ずかしいから、日頃あんまり使ってない和室の壁に」
 「……」
 「奈々美さんがレオナルド・ディカプリオのポスター貼ってるんで、その隣に貼るんです。これで藤井さんもセレブの仲間入りですね」
 「…いや、それは違うだろ」
 ディカプリオの隣に蕾夏の写真が並ぶ図を想像したら、頭がクラクラしてきた。それを見た時の瑞樹と蕾夏の反応を想像したら、頭痛までしてきそうだ。
 「お前なぁ…。宗教に入れ込むのに口出しする気はねぇけど、仕事だけはきっちりこなせよ。6月の展示会、今年は俺はほとんどノータッチでいくんだから」
 「失礼な。ちゃんとやりますよ」
 久保田の見縊った発言に、和臣はむっとしたような顔をした。
 「今回のシステム、企業向けセキュリティ対策としちゃ、他社を出し抜く形になってるんですから。失敗は許されないって部長からも散々脅されました。大丈夫、奈々美さんもデモで手伝ってくれるし、心配ご無用です」
 「…ま、お前、仕事に関してはまともだからな」
 「―――なんですか、その、仕事に関して“は”っていう限定は」
 「みなまで言わすな。…そういやあ、木下のやつ、最近体調崩してるって?」
 エレベーターホールに行くと、ちょうど昼休みが終わる直前ということもあって、かなり混雑していた。人が溜まっている場所から少し離れてエレベーターを待ちながら、久保田はそう和臣に訊ねた。
 「昼飯も半分位しか食わないって言って、佐々木がえらく心配してたぞ。大丈夫なのか?」
 「うー…そうなんですよねぇ」
 どうやら、この件は和臣にとっても心配な状態らしい。眉根を寄せた和臣は、困ったように首を傾げた。
 「多分、倉木さんが原因だとは思うんだけど」
 「ああ…あれか、お前の周りをチョロチョロしてる、うるさい奴」
 「結構、ストレスになってると思うんですよ。それに、オレの資料作りとか手伝って、結局オレと同じだけ残業してる形になってるし―――家帰って、ご飯作ってお風呂入ると、それでもう体力の限界らしくって、ベッド入って10秒で眠っちゃうんです。だから最近、あんまりイチャイチャできないんだよなぁ…」
 会社でも十分イチャイチャしてるだろ、という野暮な突っ込みは、さすがにできない。ふざけ半分で下ネタで盛り上がることはあっても、真面目な場面でこの手の話題はちょっと苦手な久保田なので、和臣の言葉に「そうかぁ」としか相槌が打てなかった。
 「でも、お前ら、カズの収入だけで十分やってけるだろが。いっそ会社辞めるってのも手だと思うけど、どうなんだ?」
 「んー、それも悪くないんですけど…今、奈々美さん、いい感じで仕事ができてるから。ほら、デモ関係で結構外に出てるし、ユーザー講習会なんかの講師もやってるでしょう? 生き生きしてる奈々美さんはオレも好きだから、辞めて欲しくないんですよね」
 「それに、倉木のあの状況見てると、辞めるなんて選択肢は当分出て来ねーだろーなぁ…」
 「なんか最近、成田の苦労が理解できるようになっちゃいましたよ。倒しても倒しても起き上がってくる、ゾンビとかキョンシーみたいな女って、ほんとにいるんですね。1人でも大変なのに、あいつ、よく何人もと戦ってたよなぁ」
 「…キョンシーって…また随分古い喩えを」
 「あっ、神崎さーん!」
 背後から掛けられた声に、久保田と和臣は、同時に固まった。
 キョンシー登場―――いや、倉木登場。ぎこちなく振り向くと、倉木とコールセンターの新人2名が、2人に向かって手を振りながら歩み寄ってくるところだった。どうやら1階のファミレスにいたらしい。
 5階まで階段で一気に駆け上がるのは正直きついが、このまま倉木と同じエレベーターに閉じ込められるのはもっときつい。久保田と和臣は、こっそり目を合わせると、
 「…階段で行くか」
 「…そうですね」
 そう言い合い、即座に階段へとダッシュした。
 ―――キョンシーよりたちが悪いよなぁ…。キョンシーはお札を顔に貼れば止まるけど、倉木は何やっても止まんねーもんなぁ…。
 まあ、こんなことで和臣と奈々美の仲がどうなるものでもないのだが―――何にせよ、倉木は不吉な存在だ。大ポカやらかしてクビになってくれないだろうか、なんて不謹慎なことを思ってしまう久保田だった。

***

 それにしても…最近、体がなまっているのに、5階まで一気は少々無理だったかもしれない。午後からのデスクワークは、ひどく眠気を伴うものになってしまった。
 この分じゃ今日は残業しても捗らないな―――と思った久保田は、定時になると早々に仕事を切り上げ、システム部を覗いてみた。
 「おーい、佐々木」
 久保田が声を掛けると、ディスプレイに見入っていた佳那子がくるりと振り向いた。その表情は、あまり冴えない。
 「…なんだ、トラブル発生か?」
 「―――樋沼がキレちゃったのよ」
 「は!?」
 そう言えば、さして広いとは言えないシステム部の中に、あの樋沼の巨体が見当たらない。定時から30分ほどだが、既に帰ってしまったのだろうか?
 「キレた、って、どうしたんだ?」
 「小沢とやりあっちゃったの。先にキレたのは小沢だけどね」
 そう言って佳那子は、奥のマシン前に座っている小沢の後姿を目で指し示した。いつもビシッとスーツを着こなしている小沢は、いつ見てもいい姿勢でマシンに真っ直ぐに向かっている。なのに、今日の小沢は椅子に深くもたれ掛かり、マシンに斜めに構えている。確かに苛立っているようだ。
 瑞樹が会社を辞めた後、樋沼の教育係的な役割は、小沢が引き継ぐ形となった。瑞樹と小沢がよく一緒にプロジェクトに関わっていたから、というのがその主な理由だが、どうやら小沢と樋沼は、あまり相性が良くないらしい。
 「小沢がキレるのは珍しくないけど、それで樋沼がキレちまうってのは珍しいな。瑞樹に怒鳴られまくってた時でも、ひたすら恐縮してるだけで、キレるなんて事態にはならなかっただろ」
 「成田は、言葉が少ない分、怒った時も巨大な雷を一発落として終わりだったでしょ。まあ、その一発が痛烈だから、怒鳴られた方はへこむ訳だけど…。それに比べると小沢は、結構しつこいから。成田辞めてからの4か月分のツケが、今日一気にきちゃった訳」
 「…なるほど。で、樋沼は?」
 「頭冷やしに、屋上行ったわ。もう今日は帰っていいって言ってあるから、もう戻って来ないかも」
 そう言うと佳那子は、はーっ、と大きなため息をつき、うな垂れてしまった。
 「結構ねぇ…成田が抜けたのは、痛いかも。予想外に」
 「…みたいだな」
 久保田も、思わず眉をひそめる。
 樋沼は、決して悪い奴ではないのだが、要領が悪くてスローペースなため、少々問題児扱いされている。でも、瑞樹が「バカヤロウ」と怒鳴り、樋沼が「スミマセン」とオロオロしながらついて行く、周囲はそれを苦笑して見守り、落ち込む樋沼を励ます―――前はそれで上手くバランスが取れていたのだ。
 仕事の戦力という意味でも瑞樹が抜けたのは痛かったが、こと、樋沼に話を限ると、こうした人間関係の方が痛手は大きかったかもしれない。人間関係に問題アリな瑞樹が抜けた筈なのに、また意外な部分で支障をきたしたものだ。
 ―――けど、だからって、お前がそこまで落ち込むこたぁないだろ。
 うな垂れている佳那子を見下ろしながら、久保田は内心、そうぼやいていた。
 樋沼のことを小沢に頼んだのは、チームリーダーである佳那子だ。多分、それで色々責任を感じているのだろう。でも、よく考えれば小沢の教育態度に問題があるのであって、佳那子自身には何ら問題はないのだ。いつも思うが、佳那子はなんでも責任を背負い込み過ぎるきらいがある―――久保田のように力の抜きどころが掴めないタイプなのだ。
 「…どっちも成人した大人の男なんだから、てめーらで解決しろ、って俺は思うけど―――ま、1日経っても引きずってるようなら、杉本さん辺りにでも仲裁頼めばいいだろ」
 ポン、と佳那子の頭に手を乗せると、久保田は、佳那子が一番信頼している先輩SEの名を挙げて、そうフォローした。
 顔を上げた佳那子は、まだ少し眉を寄せていたが、そう言われて少し気が軽くなったのか、やがて少しだけ笑みを見せた。
 「…ん、そうよね」
 「そうそう。今日はこの調子じゃ、集中して残業できる気分じゃないだろ。久々に早く上がって、飲みに行かねーか?」
 久保田がそう続けると、佳那子は一瞬目を見開き、続いてからかうような顔をした。
 「あら、ほんとに久々ね。パッケージの新しい印刷会社は、もう決まったの?」
 「う…っ、それを言うな。こっちも難航中なんだよ」
 現在頭を悩まされている仕事を指摘されて、久保田はバツが悪そうな顔をした。本来なら、残業をしてでも片付けてしまいたい仕事ではあるのだが―――…。
 「…ま、たまには、難航中の仕事をほっぽり出してエスケープするのも悪くはないかもね」
 「だろ? じゃ、決まりだな」
 ニッ、と笑って久保田が言うと、佳那子もニッ、と笑い返した。


 西暦2000年問題も無事クリアし、噂された原発事故もライフライン寸断も起きないままに迎えた、2000年・春。
 瑞樹が抜けたり、倉木が入ってきたりで、少々ガタガタしてはいるものの、ブレインコスモスは、今日も総じて安泰―――和臣と奈々美の仲も、そして久保田と佳那子の関係も、まあ大体は安泰なのだった。


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