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― 閉じ込めたのは甘い誘惑 ―

 

 「ふぅん…そりゃ面白いビジネスだな」
 瑞樹から時田事務所の話を聞いた久保田は、感心したような声でそう言って、バーボンの入ったグラスを傾けた。
 久保田の隣には、佳那子。その向かいには、蕾夏が座っている。考えてみたらこの4人でテーブルを囲むのは初めてかもしれない。結婚後も、和臣や奈々美が顔を出していたから。
 延ばし延ばしになった帰国祝いができたのは、帰国から2週間近く経った、今日。けれど、奈々美の体調がやっぱり思わしくないため、残念ながらあの2人は不在だ。
 「で、結局、メンバーは何人いるんだ?」
 「俺入れて15人」
 「けど、池袋だろ。いくら狭い事務所でも結構するんじゃないか? 15人でそれ割ったって、新人のお前には重荷でしかないだろ」
 「いや、そうでもない」
 水割りを口に運んだ瑞樹は、グラスを置き、計算式を思い出すように宙を眺めた。
 「家賃やアルバイト事務員の人件費の半分は、時田さんの割り当てだから。残り半分を15人で適当に分けて、その中でも俺は一番安い。電話使った場合は、その分は実費」
 「…で、お前にはどういうメリットがあるんだ?」
 「そうだな―――同業者と情報交換できるのは助かる。事務所から抜けた連中が置いてった機材を勝手に使えるのも助かる。出先に電話が追いかけてくる心配が少ないのもありがたい。あとは…確定申告がやりやすくなる」
 「確定申告?」
 「経費の伝票が切れるもんね」
 既に一連の話を聞いていた蕾夏が、追加オーダーしたウーロン茶を受け取りながらくすっと笑って言った。
 「ほら、家が事務所だと、家のスペースの何パーセントを仕事場として使ってるかを計算して、家賃や電気代を帳簿につけてかなくちゃいけないでしょ。その点、家と仕事場が分かれてれば、時田事務所に支払った費用の伝票がそのまま事務所経費として計上できるから、確定申告がやりやすくなるの。まあ、携帯や家から電話することもあるだろうけど、頻度が低ければその分計算は楽だよね」
 「…なるほど。そういう面でサポートしてる訳か。個人ベンチャーやSOHOが流行ってるから、これからはそういう分野のビジネスサポート業も伸びるのかもしれないなぁ…」
 「また始まったわね。悪い癖が」
 バーボンの入ったグラスを手にしながら、佳那子が苦笑混じりに久保田を見遣った。
 「また?」
 「最近の久保田、ベンチャーやSOHOに興味があって、すぐそっちの話に結びつけちゃうのよね。まあ、IT業界にいて、興味がない方が珍しいのかもしれないけど」
 「え、久保田さん、独立するつもりなの?」
 意外、という顔で蕾夏が言うと、久保田も苦笑を浮かべた。
 「いや、いずれは独立して自分の会社興すのも悪くないとは思ってるけど、今のところは、まだ。むしろ今は、投資先として興味があるな」
 「投資、って…株とか?」
 「買わないけど、ナスダック・ジャパンがこの前出来たからな。どのベンチャーが上場するか、って賭けたりするんだよ」
 「誰と?」
 当然の流れで訊ねる蕾夏に、久保田は、うっ、と言葉に詰まった。
 その隣で佳那子もギクリとするのを見て、それまで黙っていた瑞樹が、ほぼその回答を察して、軽く片方だけの眉を上げた。
 「…ああ、なんだ。佐々木さんの親父さんとか」
 「!!!」
 ギョッとした顔をする久保田と佳那子だったが、それに続いて蕾夏が発した言葉は、更に衝撃的だった。
 「佳那子さんのお父さんて、討論番組出てる、あの経済評論家のおじさんだよね。ふーん…なんだ、結構仲良かったんだ。久保田さんと」
 「―――…」
 お前、話したのか、という目で久保田が睨むと、佳那子は必死に首を横に振った。当然だ。蕾夏であれ誰であれ、知られたら恥にしかならない親のことなど、あの親の娘に生まれたことを呪っている佳那子が話す訳がない。
 「あ…あの、蕾夏ちゃん。それ、誰から聞いたの?」
 少し震える声で佳那子が訊ねると、ウーロン茶片手にイカのリング揚げに手を伸ばしていた蕾夏がキョトンと目を丸くした。
 「え、違ってた?」
 「い、いえ、そうじゃなくて」
 「だって佳那子さん、江ノ島旅行から帰ってきて再会した時、本屋さんで様子がおかしかったじゃない」
 「??」
 「私、あの頃ちょうど会計システム手がけてて、経理の勉強しようかと本屋さんで“Mr.佐々木の誰でも会計士”を手に取ったら、佳那子さん、凄く慌てて“それだけはやめなさい、碌な事書いてないわよ”って」
 「……」
 「それに、討論番組で佐々木先生、“娘は最先端のIT企業でSEをやってる”って自慢してた。久保田さんのお爺さんが“ITなんて今だけの流行だ”って反論して、掴み合いの喧嘩になってたけどね」
 「…あの…俺のじーさんだって話は」
 「ああ、それは、俺」
 呆然とした声の久保田に、瑞樹があっさりとそう言った。
 「あんた、大学のチェス大会の前になると、チェスの猛者の爺さんに特訓受けに行くって言ってただろ。久保田善次郎、テレビで自慢してたぜ、“うちの孫は自分をチェスの師匠と仰いでくれる、いい孫だ”って」
 「……」
 「それにあんた、教授とのディベートで、ボロクソに“久保田経済学”をこき下ろしてたしな。珍しい苗字じゃないけど、偶然にしては出来すぎだろ」
 「佳那子さんのお父さんのこと、瑞樹に確認したら、瑞樹、驚いちゃって。でも私も驚いたんだけどね、まさか久保田善次郎が久保田さんの血縁だなんて思ってなかったから」
 あはは、と明るく笑う蕾夏に、久保田も佳那子も、どうしても笑い返せなかった。

 ―――いや。待て。落ち着け。
 世間一般は、その位のことで気づいたりはしない。事実、誰からも指摘を受けたことはない。この2人が気づいたのは、この2人が悪魔コンビだから―――そうに違いない。

 2人には、これまでにも何度か嵌められてきた。が…今回が一番、ダメージが大きいかもしれない。久保田と佳那子は、急速に元気をなくして、2人して無言でグラスを口に運んだ。
 「あの討論番組、結構好き。編集した跡がミエミエだと、あー、ここで一波乱あったんだなー、って想像ついて、面白いよね」
 「生番組にすりゃ、もっと面白いだろうにな。失言・暴言だらけで」
 久保田と佳那子の気も知らずに、瑞樹と蕾夏は恐ろしいセリフを連発する。何か話を逸らさせる話題はないか、と考えを巡らせた久保田は、咳払いをするとグラスをちょっと乱暴に置いた。
 「…ま、俺達のことはいいだろ。今日は“帰国祝い”なんだから。で―――そう言えばお前ら、ロンドンの下宿先の住所が同じだったけど」
 ちょうど同じシーフードサラダに伸びていた瑞樹と蕾夏の箸が、途端、ピタリと止まった。
 「随分アバウトな情報のまんま渡英して、結局、どうだったんだ? 藤井さんからの手紙見る限りじゃ、部屋番号らしきもんがなかったから、同じアパートとかそういう話じゃなさそうだよな」
 「……」
 「てことは、やっぱり一般家庭か? 空き部屋が大量にあるような屋敷とか」
 「―――まあ、そんなとこ、かな」
 さりげない口調で瑞樹に同意を求める蕾夏の言葉を、瑞樹もそっけない口調で継いだ。
 「…時田さんの親戚の家だよ。まあ…“副業・下宿”って感じの慣れた家庭だから、居心地は良かった」
 「え、ほんとに同じ家だったの? 私、蕾夏ちゃんの下宿先に荷物を送っただけで、ロンドンでは成田は別の場所に住んでるとばかり思ってたわ」
 「随分イレギュラーな思い込みをしたもんだな、お前」
 少し目を丸くして言う佳那子に、久保田が怪訝そうな顔をした。同じ住所に荷物を送ったのなら、そこに2人とも住むと思うのが普通だろうに、と。
 「…まあ、いいじゃない。それより―――2人とも、半年も“家族”の中に入ってたんじゃ、今って結構寂しくない?」
 佳那子が訊ねると、瑞樹も蕾夏も、ちょっと複雑な表情をした。
 互いの顔をチラリと見遣る。先に視線を戻し、口を開いたのは、結局瑞樹の方だった。
 「―――ま、元々、一人暮らしだったし」
 「こっち帰ってきて最初の何日かは凄く変な感じだったけど、慣れてきて、前の感覚取り戻せてきてる感じかな」
 蕾夏もそう答えたが、佳那子からすると、ちょっと信じられない話だった。
 「そんなものなの? 私なら耐えられないような気がするんだけど―――朝目覚めても、家の中に自分以外誰もいない生活って、なんか…寂しいというか、虚しいというか、そういう気分にならない?」
 「佳那子さんは、ずっと自宅通いだもんね」
 無理もないよ、と笑った蕾夏は、再び箸を伸ばし、シーフードサラダを取り皿に取り分けた。そのセリフに、佳那子はどこか恥じ入るような様子で、視線を落とした。

 同じ一人っ子で、2つも年下で、見た目にもずっと華奢で儚げなのに―――。
 そんな蕾夏が、家を出て親から独立している分、親を疎んじながらもその庇護下にいるままの自分よりずっと大人で自立しているように、その時の佳那子には感じられたのだ。


***


 「…もしかして、成田と約束とかしてた?」
 佳那子の言葉に、それまで無意識に窓の外を眺めていた蕾夏は、慌てて我に返り、向かいの席の佳那子に目を向けた。
 「え…っ?」
 「心、ここにあらずって感じだから」
 「あ…ご、ごめん、ちょっと久々にアルコール入って、頭がぼーっとしてるだけ」
 最初、乾杯するために注文したカクテルが、確かに頭の回転を鈍らせているかもしれない。けれど、心ここにあらずの原因は、アルコールのせいではない。

 30分ほど前、4人は帰国祝いをやっていたダイニング・バーを出て、二手に分かれた。
 「男同士で話したい話もあるから」と久保田が言い、瑞樹を引っ張って行ってしまったのだ。佳那子も「女同士でないと話せない話もあるものね」と対抗するように言い、結局今、佳那子と蕾夏は喫茶店でケーキを食べている。…女同士でないと話せない話はよく分からないが、確かにケーキは、4人でいたらちょっと注文し難いメニューかもしれない。
 別に、約束はしていなかったけれど。
 でも―――本当は、ちょっと、考えていた。このまま解散になるんだったら、久々にビデオでも借りて瑞樹の家に行くのもいいな、なんてことを。
 帰国してから2週間あまり、お互い、新しい仕事の準備やら色々な手続きやらで、忙しかった。顔を合わせることがあっても、純粋に2人でいることを楽しむというムードではなく、やっぱり仕事の用事を何かしら片付けているような状態で…当然、前のように一緒にビデオ鑑賞をして激論を戦わせるような暇はこれっぽっちもなかった。今日はまだ週半ばで、ビデオ鑑賞会などやってる場合ではないのだけれど―――そんな日々に、ちょっと、心がグラついていた。
 瑞樹も同じこと、考えてたかな―――それが、蕾夏が心ここにあらずな原因。

 でも、佳那子だって、女性全般が苦手な蕾夏にとっては本当に貴重な「一緒にいて疲れない女性」だ。
 帰国後、佳那子とゆっくり話をする機会なんてなかった。もしかしたら瑞樹は残念がっているかもしれないけれど…やっぱり今日は、佳那子に付き合って正解だったような気がする。
 「困っちゃうよね、グラス3分の1で頭が錆付いちゃうなんて。佳那子さんにお酒の強さ、分けてもらえたらいいのに」
 コーヒーにミルクを入れながら、蕾夏は苦笑混じりにそう言った。実際、頭が僅かにぼーっとする。弱い自覚があるから飲まないように心がけているので、久々のアルコールは余計にパンチが効いてるような気がした。
 「私だって、分けられるなら分けてあげたいわよ。酒豪の女なんて可愛くないでしょ。男ならいざ知らず、女の子は、コップ1杯で真っ赤になる位が可愛いのよ」
 「そうかなぁ…」
 ピッチャー丸ごと一気飲みしてもケロッとしている、なんて図をカッコイイと思ってしまう蕾夏は、佳那子の意見に首を傾げた。飲めないことが、男だとカッコ悪くて女だと可愛いなんて、なんだか変な感じだ。
 「ところで、蕾夏ちゃん。さっきの話だけど―――…」
 急に、佳那子の声色が改まった。
 ケーキに巻かれたセロファンをはずしにかかっていた蕾夏は、その手を止め、キョトンとした顔をした。
 「さっきの話?」
 「ほら、ロンドンで、成田と同じ家に住んでた、って話」
 「…ああ」
 その話は、あんまり触れて欲しくないのだが―――もしかしたら、女同士でないと出来ない話とやらの一環なのかもしれない。僅かに眉をひそめただけで、蕾夏は静かにその先を待った。
 「その話って、蕾夏ちゃんのご両親も承知の上なの?」
 「え?」
 「つまり、その―――蕾夏ちゃんのご両親は、成田と蕾夏ちゃんが同じ家に下宿するって分かっていた上で、蕾夏ちゃんをロンドンに送り出したの?」
 「…ええと、出発の段階では、向こうでどこ住むのか、私たち自身分かってなかったんだけど」
 「あ…そうだったわね」
 佳那子は自分の質問が的外れなのに気づいて、顔を少し赤らめた。それでも、落ち着かない様子で紅茶をスプーンでかき混ぜると、再び妙に真剣な視線を蕾夏に向けた。
 「じゃあ、いつの段階で親に知らせたの?」
 「下宿に入ってすぐかな。荷物の送り先と同じとこに下宿するよ、瑞樹も一緒だから、って」
 「ご両親は、何て?」
 「えーと…お父さんは“瑞樹君が一緒なら安心だね”って。お母さんは…何言ってたかな。なんか、羨ましがってた気がする」
 「羨ましい?」
 「彼氏と一緒の下宿先なんて、1歩部屋出ればいつでも会えるってシチュエーションじゃないの、いいないいな、って」
 「……」
 佳那子の目が点になる。予想通りの反応に、蕾夏は気まずそうに、ちょっと俯いてしまった。
 「…なんだか…随分、おおらかねぇ…」
 「…ごめんね。うちの両親、ちょっとおかしいから」
 勿論、“同じ家”であることは伝えたものの、“同じ部屋”であることまでは伝えてないのだけれど―――それを伝えたら、両親がどういう反応を示したかは分からない。父はそれでもノホホンとしてそうだが、元々渡英に反対した母は、さすがにちょっと止めたかもしれない。
 ―――それでも同じ反応だったら、それはそれで困るなぁ…。
 「でも…んー、やっぱり、そうよねぇ。一人娘の親って言っても、そういう反応もあるのよね、世の中には」
 目が点状態から復活すると、佳那子は、どこか感心したような口調でそう呟き、紅茶を口に運んだ。
 「あの…うちはホントに、特殊中の特殊、化け物に近い親だから、あんまり参考にならないと思うよ?」
 これが世間一般の親だなんて思われては困る。慌てて蕾夏がそう付け加えると、佳那子はくすっと笑って頷いて。
 「分かってるわ。蕾夏ちゃんの所はずば抜けておおらかだって。でも―――やっぱり、うちの“常識”が必ずしも“常識”じゃないってことも分かったわ」
 「…え?」
 「うちは、逆。異常なまでに娘に固執してるの」
 佳那子はそう言って、忌々しそうに眉を顰めた。
 「私が蕾夏ちゃんと同じ行動取ったら、うちの父なら、絶対ロンドンまで飛んできて日本に連れ帰るわ。そういう親に慣らされちゃったから、同じ住所に荷物送ったこと知ってても、成田と同じ家に住むっていう自然な答えが出てこなかったのよ。私の中では、あり得ない選択肢だから」
 「はー…、なるほど。そんなに厳しいの? 佐々木先生って」
 「親一人子一人だから、仕方ない部分もあるんだけど―――でも、旅行1つとっても、その日程から途中で立ち寄る場所まで全て把握して、その上旅先でも午前0時以降は外出禁止だ、なんて言う親、ちょっと異常でしょう?」
 「そ…それは、ちょっと、勘弁して欲しいなぁ…」
 顔を引きつらせながら、蕾夏は内心、まるで辻さんだな、と密かに思った。一番おかしかった時期の辻は、まさにそんな感じだったから。
 「付き合ってる彼氏がそのメンバーに入ってたら、それだけでアウトよ。うっかり口を滑らせたら、朝から部屋の前で座り込んで、絶対部屋から出さないもの」
 「…じゃあ、江ノ島とか伊豆の旅行、結構大変だったんじゃない?」
 「久保田が一緒だなんてバレたら、あの父なら、MI6でもグリーンベレーでも動員して、久保田を抹殺しに行くわよ。今までのボーイフレンドに対しても普通じゃなかったけど、こと、久保田に関しては、常軌を逸してるから」
 「……」
 ―――あのおじさん、そんなに危ない人だったのか。知らなかった。
 蕾夏の周囲には、一人っ子という状況にある家庭がない。普通の一人っ子の親がどういうものかは知らないが、もう1つの例である佐々木家は、蕾夏には絶対耐えられない家庭のようだ。
 それにしても、両極端すぎるタイプが見事に揃ったものだ。佳那子の親も、蕾夏の親も、揃って非常識だ―――ただし、全く反対の意味で。
 「でも―――びっくりしたけど、蕾夏ちゃんに知られて、かえって良かったわ。うちの親のこと」
 ほっ、と息をついた佳那子は、ティーカップをソーサーの上に置き、蕾夏に向かって、僅かに悲しみを含んだような微笑を見せた。
 「覚悟はしてたけど…あの親と戦うのって、結構消耗しちゃうから。誰にも知られたくないって思ってたけど、誰かが知っててくれるのって、やっぱり心強いわね」
 「―――うん。そうだね」
 1人じゃ重過ぎる荷物も、誰かに話すことで、少しだけ軽くなる―――蕾夏にとっては、実体験を伴った、大きな真実だ。蕾夏は、ふわりと微笑み、小さく頷いた。
 「聞くことしかできないかもしれないけど、幾らでも愚痴っていいよ。会社の人たちに内緒にしてるなら尚更」
 久保田と付き合っていることを内緒にしているのと佐々木昭夫のことがどう関わっているのかは分からないが、多分関係あるのだろうと察して、蕾夏はそう言った。
 「ええ、そうね。だから―――そろそろ、蕾夏ちゃんにも本音を吐いてもらおうかな」
 「え?」
 突如、佳那子のそれまでの柔らかな笑みが、悪戯めいた笑みに変わった。
 「本当のところ、どうなの? 半年も24時間一緒にいる生活送って―――離れ離れの生活、本当はかなり辛いんじゃない?」
 戻って欲しくない所へと戻った話題に、蕾夏はガクリと頭を垂れた。
 「…だから。2週間も経ったから、今は元に戻ったってば」
 「そう? その割にはさっき、成田と別れる時、凄く名残惜しそうな寂しそうな顔してたわよ? お互いにね」
 「……」
 「それだけ理解のある親なら、こっちでも一緒に暮らすって言っても、大きな反対はされなそうだけど―――そういう話は出なかったの?」
 探るような目をする佳那子の視線を避け、蕾夏は無言のまま、コーヒーカップを口に運んだ。いかに佳那子に懐柔されようとも、この質問には答えたくなかった。


 選ぼうと思えば、選べる道だった。
 今、蕾夏は、半年前にはなかった不安を抱えている。1人で暮らすことは、その不安を考えた時、あまり賢明な選択ではない。だから、選べる道だった――― 一緒に暮らす、という、その道も。
 いつ、また、音を失うか―――あの日からつきまとう、大きな不安。
 瑞樹に甘えることは、簡単だ。怖いの、お願いずっと一緒にいて――― 一言、たった一言口にすれば、瑞樹は喜んで一緒に暮らすと言う道を選んだだろう。
 でも…それでは、駄目だ。
 1人で、立たなくては。
 1人でも大丈夫なのだと―――瑞樹に依存せずともやっていけるのだと、蕾夏自身が自信をつけなくては。それができて初めて、音を失う恐怖に打ち勝てるのだと思う。瑞樹に依存している間は、瑞樹の手を離した途端、不安に苛まれて、1歩も動けなくなってしまうのだから。

 再び音を取り戻してからも、蕾夏は毎朝、目が覚めるたびに、外の喧騒や僅かな空気の動く音に耳を澄ましている。そして、音が聞こえるのを確認して、ホッと胸を撫で下ろす。大丈夫…私はまだ大丈夫だ、1人でやっていける、と。
 いつかは、そんな日課も過去のことになるかもしれない。
 そうなった時、初めて―――奏とのことは、過去のことになるのかもしれない。

 『仕方なかったとか、全て水に流そうとか、そんなきれい事は、言えないし、言いたくない。でも―――報復したいとも思ってないの。そんな事しても、何の解決にもならないって分かってるから。だから…痛みと折り合いをつけながら、生きてくしかないの。目に見えない位に小さな欠片になるまで―――私も、奏君も』

 ―――うん…そうだよね。
 自分が奏に告げた言葉を、噛み締める。奏の罪も、蕾夏の痛みも、瑞樹の後悔も、決して消えてなくなりはしない―――ただ、少しずつ小さくなるだけで。

 今はまだ、大きすぎるから。
 だから、瑞樹と一緒にはいられない。
 瑞樹がいたら、きっと、どこまでも甘えてしまう―――1人では生きていけない位に。それが、蕾夏が、甘美すぎる選択をあえて閉じ込めた理由だった。


***


 「信じらんねー…。お前、一体どんな方法で藤井さんの親に取り入ったんだよ」
 聞き捨てならない久保田のセリフに、瑞樹は不機嫌に眉を顰めた。
 「―――失礼な。取り入ってなんかいねーよ」
 「じゃあ、何なんだ? 普通、あり得ないだろ、そんな話。特に男親から見たら、娘の男なんて、許されるならどんな兵力を行使してでもぶっ潰したいほど、腹立たしくて憎たらしくて許しがたい存在なんだぞ?」
 「…“普通”はな」
 ―――あの人を“普通”と評するのには抵抗あるよな、やっぱ…。
 また遊びにおいでよ、とニコニコ笑って瑞樹を見送った蕾夏の父を思い出し、瑞樹は心の中でそうひとりごちた。が、蕾夏の親の細かい話まで久保田に説明するつもりはない。短い言葉の中に「あの親は“普通”じゃないぞ」という意味だけはしっかり込めた。
 「まあ、何にせよ、羨ましい話だよなぁ…。お前ら、障害物ゼロじゃないか。こっちの障害物、1つ位引き取ってくれよ」
 「んな、無茶な」
 確かに親は障害物じゃないかもしれないが―――いや、この話も、久保田にするつもりはない。小さくため息をついた瑞樹は、久保田が空になったグラスをトン、とカウンターの上に置くのを見て、思わず眉をひそめた。
 「おい…隼雄、ペース速すぎんじゃ」
 「マスター。ワイルド・ターキー12年をダブルで」
 おい、よせって。
 瑞樹の突っ込み無視でオーダーを重ねる久保田に、瑞樹は今日初めて異状を感じた。
 久保田は、誰も敵わないほどの酒豪ではあるが、人と差し向かいで飲む時は、相手に合わせて酒の量やペースも調節するという気配り型の酒豪だ。瑞樹も酒には相当強いが、久保田や佳那子とは違い、それほど酒好きな訳ではない。一生飲まないでも生きられる、と思えるレベルだ。だから久保田も、瑞樹と飲む時は、その程度の酒しか口にしない。
 それが―――気づけば、2軒目の店に入ってから、これが4杯目のバーボンだ。しかも全部ダブルで。店に入ってからの時間を考えると、これはいくらなんでもハイペース過ぎる。
 「…何があったんだよ」
 少し声を低くして瑞樹が訊ねると、憮然とした表情の久保田は、一度瑞樹の顔をチラリと見た後、カウンターに頬杖をついて、どこか遠くをぼんやり眺めた。
 「―――別に。明日、人生8回目の見合いをさせられるだけだよ」
 「…またかよ」
 久保田が数年前からやたらと見合いをさせられているのは、瑞樹も知っていた。まだそんな歳でもないだろうに、と不思議に思っていたが―――佳那子の親が誰なのかを知ってからは、なんとなくその理由を察してはいた。つまり、佳那子との間を裂くために、誰かが画策している見合いなのだろう。
 「佐々木さんに決めてんなら、宣言すりゃいいのに」
 「…バカ。とっくにしてるさ。なのにジジイは認めねーんだよ。俺を跡継ぎにする野望もまだ潰えてないしな」
 「向こうの親は?」
 「同じだ。俺じゃ力量不足だとさ」
 「…あんたで力量不足じゃ、佐々木さん、一生独身なんじゃねーの」
 「だろ? お前だってそう思うよなぁ?」
 ―――自信過剰め。
 自分が言ったんじゃ自画自賛にしかなんねーんだよ、と心の中で毒つきつつも、久保田が駄目なんじゃ他の誰を持ってきても無理だろう、という意見は確かに本心なので、黙っておいた。
 「ま…いいさ。今回も適当にあしらって、必ず向こうから断らせるから」
 目の前に置かれたワイルド・ターキーを手にした久保田は、カウンターの向こうを睨むようにしながら、くいっ、とそのグラスをあおった。そして、少し酔っているのか、いつもより据わっているその目で、瑞樹を軽く睨んだ。
 「それにしても、お前も、こんなに恵まれた恋愛環境にあるのに、行動にいま一歩、思い切りが足りねーなぁ…。佐々木と一緒に去ってく藤井さんをいつまでも恨めしそうに眺めてる位なら、いっそ一緒に暮らす位のことすりゃあいいのに」
 「……!」
 口にしていた水割りを吹き出しそうになって、瑞樹は慌ててグラスをカウンターに置いた。
 「…ッ、いつ、俺が…!」
 「ああ、無駄無駄。お前、藤井さんのことになると、別人みたいに分かりやすい奴だから。どこにも行かせたくねー、って顔してたぞ、さっき。ロンドン行って、余計分かりやすい奴になって帰ってきたな」
 「―――それ以上言ったら、殴るぞ」
 ギロリ、と、瑞樹が睨むと、久保田はちょっと首を竦めて、残りのワイルド・ターキーをちびちびと飲み始めた。
 さっき、自分を餌にからかわれたことへの、久保田なりの報復だったのかもしれない。はーっ、とため息をついた瑞樹は、そっぽを向いて再び水割りを口にした。


 本当は、どこにも行かせたくなかった。
 早く2人きりになって、このところ持つことの出来なかった類の時間を過ごしたかった。特別なことをするのではなく、ただ、2人でビデオを見たり、写真を眺めたり―――もしくは、何もしなくてもいいから、ただ寄り添ってぼんやり過ごしたり。
 でも、久保田は、数少ない友人の1人だ。会社を辞める際には、随分世話になった。たまにはそっちも優先しなくては―――そう思ったから、ついわがままに走ってしまいそうな自分を宥めたのだ。

 2人で暮らす、という道を選ぶのは、本当は簡単だった。
 蕾夏は今、新たな傷を抱えている。その傷のことを考えると、瑞樹だって冷静ではいられない。自分のいない生活の中で、もしも蕾夏がまた聴力を失うようなことがあったら―――そう考えただけで、背筋が寒くなる。
 だから、お前が傍にいないと不安だと、この手で守らせてくれと口にすれば―――蕾夏は、迷いながらも、頷いたかもしれない。蕾夏自身、今も不安を感じているから。瑞樹の手を、以前よりもっと必要としているから。
 でも…それでは、駄目だ。

 蕾夏の抱える傷を理由に、自分の手の内に縛りつけようとするのなら―――それでは、辻と同じだ。
 自由を求めて、蕾夏は辻のもとを飛び立ってきたのに…その辻と同じ事を自分がするのは、我慢ならなかった。それが、あまりにも容易いから、余計に。そして―――時折暴走する瑞樹の中の狂気が、そんな卑怯な理由をつけてでも、蕾夏を留めおこうとするのを感じるから、余計に。

 蕾夏は今、自分の力で、抱えている不安を克服しようとしている。
 だから今は―――少なくとも、“今”は、まだ一緒には暮らせない。
 自分のこの不安と後悔を、蕾夏を縛りつけることで克服しようとしてはいけない。もっともっと小さくなるまで―――待たなくては。辛抱強く。

 狂気のままに、蕾夏を束縛してしまいそうで、怖い―――それが、瑞樹が、魅惑的すぎる選択をあえて閉じ込めた理由だった。


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