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― 憧れと嘘と真実と ―

 

 「や、どうも、藤井さん。久しぶりですね」
 そう言ってにこやかに出迎えた佐伯編集長を見た時、蕾夏は思わず1歩後退(あとじさ)ってしまった。
 「…なんだか、やつれられましたね」
 スーツの上着を脱ぎ捨ててワイシャツを腕まくりしている佐伯は、1ヶ月弱前、ロンドンで初めて会った時の3分の1位の精気しかないように見える。髪が乱れ気味なせいかもしれないし、寝不足そうな目のせいかもしれないが。
 佐伯自身も自覚があるのか、蕾夏のひきつった笑みに、わざとらしい笑みで応えた。
 「いや、実は、ちょっと締め切りに間に合いそうにない記事が1本ありましてね。関係者は全員、こんな顔です」
 「はあ…なるほど」
 父の新聞社に見学に行った時も、記事が間に合う間に合わないで、大の大人が侃々諤々、顔色を変えて大騒ぎしていたっけ―――ことと次第によっては、明日は我が身だ。蕾夏は、無意識のうちに気の毒そうに眉を寄せてしまっていた。
 「藤井さんが今日来るんで、ちょっと電話してみたんですが、一宮さんも、向こうで似たような状況らしいですよ。記事を担当してる累君もご同様で、親子揃って徹夜だって話です。ロンドンも厳しいですね」
 「そ、そうですか」
 累は“月刊A-Life”のイギリス版の専属ライターだ。つまり、蕾夏と同じ立場。
 ―――やっぱり、明日は我が身だ。
 「さて…、ここはちょっと、落ち着かないですね。ミーティングルームに行きましょうか。預かってたもの、全部そちらに持ってきてますから」
 「あ、はい」

 ついに、来た。運命の瞬間が。
 気を引き締めるために下ろした手に密かに力を入れると、蕾夏は佐伯に続いて編集部の奥の扉へと向かった。

***

 “World Explorer”―――壮大すぎて、ちょっと引いてしまう社名を持つこの会社は、“月刊A-Life”という雑誌を発行している出版社である。
 ロンドンで瑞樹と蕾夏がお世話になった家の家主・一宮淳也が、この会社のロンドン本社の編集者だった。そして、その子供である双子の片割れ・累は、この会社の専属ライターだった。そのことが、蕾夏の運命を大きく変えた。
 蕾夏は前から、瑞樹の写真から気に入ったものを選んでアルバムに貼り、それに文章や詩を添えて、1冊の写真集に纏めるのを趣味としていた。当然、ロンドンでもそんなことをやっていたのだが…累が、その写真集を見て、何故か蕾夏の文章に惚れ込んでしまったのだ。
 『最初にあの“写真集”見せてもらった時から、面白いもの書くな、って感心してたんだ。…藤井さんは、全然興味ないかな。ライターの仕事って』
 そう言って累は、蕾夏にライターという道を勧めた。
 その昔、父と同じ新聞記者という職業に憧れていた蕾夏にとって、ライターという仕事は、記事を書くという部分でほぼ同じ仕事だった。だから、ただ文章を書くのが好き、というだけではやっていけないことも十分理解していたし、自分には向いてないんじゃないか、という不安も感じていた。
 それでも蕾夏は、ライターという職業を選んだ。
 たった1つの、夢のために。
 『郁の写真集に僕が文章をつけてるように、藤井さんも将来、成田さんが出す写真集に文章をつけるんだよ。趣味じゃなく、書店に並べる“作品”として、さ』
 いつの日か、2人で、1冊の写真集を作り上げる―――ロンドンで見つけた、瑞樹と蕾夏の新しい夢。
 累という身近な存在の中に、蕾夏は自分の進むべき道をはっきりと見た気がした。自信なんて欠片もないけれど、それでも―――その夢のためならば。


 「まずは、これを返さないといけませんね」
 ミーティングルームに入るなり、そう言って佐伯が差し出したのは、見覚えのあるノートの束―――蕾夏が、ロンドン滞在期間中に累に指示されて書いた紀行文や劇評だった。
 正味4ヶ月ほどの間に書いたそれらを、蕾夏は1ヶ月ほど前、仕事でロンドンに来ていた佐伯に渡した。“月刊A-Life”と専属契約を結べるかどうか、それを判断してもらうための、いわば見本作品だ。まあ、累や淳也に一度見てもらったものではあるが、仕事のつもりで書いた訳じゃないし、急に「出せ!」と言われて提出したので、見直しもできなかった。正直、自信ゼロのしろものだ。
 「全部読ませてもらいましたよ」
 「…ありがとうございます」
 本当は「申し訳ありません」という感じなのだが―――ノートの束を受け取った蕾夏は、一応そう言って、軽く頭を下げた。
 「なかなか面白い感性をしてますね。読んでて飽きませんでした」
 部屋の真ん中に置かれた大きな机の一番奥の席に着いた佐伯は、にっこり笑ってそう言った。その斜め前に腰を下ろしながら、蕾夏は、今のは褒めたのか慰めたのかどっちなんだろう、と頭の片隅で思った。
 「内容も面白かったですが―――なんといっても、この分量を4ヶ月あまりで書いた、という点で少々驚きました。時田先生のアシスタントを務める傍らで、ということでしょう? さっきも言ったとおり、締め切りとの戦いになった時、短時間で文章を編み出せるというのは、大変ありがたい話です」
 「いえ、あの…時田さんのアシスタントといっても、アシスタントのアシスタントのような形だったので」
 「それを差し引いても、ということですよ。それで―――うちのライターの瀬谷君とも相談した結果、ひとまず3ヶ月、仮契約という形で様子を見させてもらうことになりました」
 いきなり出てきた結論に、蕾夏はキョトンと目を丸くした。
 「仮契約?」
 「ライター経験ゼロという点が、瀬谷君としては不安なようでして…暫く、自分の下で書かせてみてから、と言ってます。特集記事などを書く場合、瀬谷君と協力しあって書くことになる訳なので、本人の意見を尊重すべきだと支社長からも命令が下りまして」
 ―――記事って、1人で1本全部書く訳じゃないのか…。
 知らなかった事実だ。10ページ位ある特集記事も、全部1人のライターが書くのだとばかり思っていた。どうやって分担するのだろう? 未経験ゾーンなので、想像もつかない。
 「そんな訳で、藤井さん側に異存がなければ、ひとまず3ヶ月間の仮契約を結んで、その結果次第で1年間の本契約は9月から―――ということになった訳ですが、それでもいいですか?」
 「あ…はいっ、勿論です」
 むしろ、ぶっつけ本番でライターデビューさせられるよりは、こちらの条件の方がありがたい。蕾夏は、少し安心したような顔で、大きく頷いた。
 「そうですか。では、まずはこれに目を通して下さい」
 満足げに微笑んだ佐伯は、そう言うと、持参した茶封筒から何かを引っ張り出し、蕾夏の目の前に置いた。
 それは、総ページ数30ページ近くありそうな、紙の束だった。
 「?」
 「契約書です」
 え、これがですか。
 思わずそのまま口に出してしまいそうになったが、蕾夏はそれをなんとか飲み込み、ぎょっとした目で契約書の束を凝視した。
 蕾夏だって、SE時代にはマシンのリース契約を客先が結ぶ席に何度も立ち会っているのだから、契約書というものを見るのは初めてではない。でも、3年リースの場合も5年リースの場合も、契約書は総じて2つ折り4ページのものだった。個人で考えても、プロバイダ契約などを結ぶ時には利用規約の入った契約書が送られてくる。でも、それだってせいぜい3、4ページだ。こんな分厚い契約書、一度も見たことがない。
 気圧されたように契約書を凝視する蕾夏の様子に、佐伯もその理由を察したのだろう。すぐに苦笑いを浮かべ、説明した。
 「他の企業に比べると分厚いでしょう? アメリカに支社を出した時から、全支社共通でこのスタイルになったんですよ」
 「…ちょっと、納得しました」
 アメリカは契約と裁判の国だ。商品の取り扱い注意事項も、日本人が見ると「こんな使い方する奴いないよ」とゲラゲラ笑ってしまいそうなことまで書いてある。そういう無茶な使い方をした客に限って、「そういう使い方をするなとは書いてなかった」と言ってメーカーを訴えたりするからだ。
 ―――そういえば、アメリカいた頃、隣に住んでたおじさんが洗濯機で飼い犬のプードルを洗おうとして怪我させちゃって、洗濯機メーカーを訴えてやるって息巻いてたよなぁ…。結局あれ、どうなったんだろう。
 「まあ、読むだけでも結構時間がかかるので、暫く読んでいてもらえますか。内容に納得したら、その上で最終ページの所定の欄にサインをして下さい」
 「はい」
 「ちょっと失礼」
 蕾夏が契約書を手に取るのを待って、佐伯は席を立ち、ミーティングルームのドアを開けた。
 「津川君! 手が空いたら来て下さい、例の人紹介しますから」
 張りのある声でそう言う佐伯は、やっぱり丁寧語だった。
 てっきり、初対面だから、とか外部の人間だから、という理由で、娘ほども歳の違う自分に丁寧語を使っているのかと思ったのだが―――どうやら佐伯のこの紳士的なのんびり口調は、彼本来の喋り方らしい。父の新聞社で見た鬼編集長を典型的編集長と思っていた蕾夏は、編集長にも色々いるんだな、と初めて思った。

***

 いかに速読が得意な蕾夏といえども、結局、疑問な部分を確認などしながら最後のページにサインをしたのは、それから15分以上経ってからだった。
 すると、それを待っていたかのように、ミーティングルームのドアがノックされた。
 「失礼します」
 カチャリ、という音を立てて開いたドアから顔を覗かせたのは、スーツ姿の女性だった。
 「ああ、津川君。ちょうど良かった、今仮契約が終わったところです」
 佐伯が口にした名前で、それがさっき佐伯が呼んでいた人物だと知った。ということは、これから彼女に紹介される訳だ。蕾夏は、ペンを置くと、慌てて立ち上がった。
 「藤井さん。彼女は、うちの文化・芸能欄担当の編集で、津川亜佑美さんです。君と一番年齢の近い女性なので、社内のことを説明するのをお願いしたんですよ」
 「はじめまして。津川です」
 津川は、キリッとした口調でそう言い、軽く頭を下げた。蕾夏もそれに応え、深々と頭を下げた。
 「藤井蕾夏です。よろしくお願いします」
 「よろしく。―――編集長、やっぱり最初は、瀬谷さんに紹介しておいた方がいいですよね」
 「そうですね。ひと山越えたところだから、いいタイミングでしょう。紹介してあげて下さい」
 「分かりました。…藤井さん、荷物はそのままで構わないから、来てくれる?」
 「あ、はい」
 と言われても、さすがに貴重品の入ったバッグを置いていく気にはなれなかった。蕾夏は、分厚い契約書や筆記道具、ノートなどは机の上に置いたまま、津川に促されるままにミーティングルームを後にした。


 「瀬谷さん、今、上で資料漁ってるのよ」
 騒がしい編集部を突っ切りながら、津川は蕾夏を振り返り、くすっと笑った。
 落ち着いたブラウンの髪をきっちり結い上げた津川は、グレーのスーツという服装もあって、いかにもキャリアウーマンという感じに見える。喋る速度も速く、口調もキリッとしている。歳が一番近いという話だが、蕾夏より上か下か、その風貌からは分からなかった。
 「専属ライターは、その瀬谷さんて方だけなんですか?」
 「常駐している専属は、ね。あと2人、全国を飛び回ってるのがいるわ。後は、外部ライターさんが10人弱かな」
 「結構いるんですね」
 「外部ライターさんは、毎号頼む訳じゃないからね。藤井さんは、うちの本、読んだことある?」
 「あー…、ええと、ブリティッシュ版は向こうで毎月読んでました。日本版は先月号と今月号だけ読んでます」
 蕾夏の返答に、一旦、津川の足が止まった。
 まじまじと蕾夏の顔を眺めたが、すぐに納得したような顔になり、
 「―――ああ、そうだった。あなた、時田先生のアシスタントとしてイギリスに行ってたって話だったわね」
 と言って再び歩き出した。彼女が引っかかったのは、どうやら“ブリティッシュ版”という部分だったらしい。
 「今月号でいくと、“田舎で暮らす”っていう巻頭特集。あれが瀬谷さんともう1人の専属君が書いた記事よ。モノクロページの連載コラムは外部ライター、オピニオンのコーナーは、読者のメールや葉書を編集がまとめて書いてるの」
 「あの“田舎で暮らす”の写真って、誰が撮ってるんですか?」
 「あれは、外部のカメラマンさんよ。本当は時田先生にお願いしたかったんだけど、ちょうどその頃、日本を離れてたから―――それ以外の商品の紹介写真とか、お店紹介の店内写真なんかは、うちの専属カメラマンが撮ってるの」
 「あ…専属カメラマン、いるんですね」
 ということは、専属カメラマンで間に合う部分は間に合わせてしまう、ということだろう。瑞樹が請け負うのは、大きな仕事だけに違いない―――新人の自分が携わるような記事とは無縁かもしれないな、と感じて、蕾夏はちょっと残念そうな顔をした。
 「そうそう、カメラマンといえば」
 ガラス張りの大きな扉を開けてエレベーターホールへと出ながら、津川は、それまでより少し小さな声で言った。
 「今度、時田先生の代わりに、先生のアシスタントだった人に特集記事の写真を依頼するらしいんだけど―――藤井さんも先生のアシスタントしてたのよね。てことは、もしかしてその人とも知り合い?」
 「……」
 知り合い―――というか、なんというか。
 咄嗟に、言葉が出てこなかった。
 「それは、まあ…一緒に仕事してましたから」
 なんだか、関係をはっきりさせるのはまずい気がした。蕾夏が曖昧にそうぼやかすと、津川は、ちょっと腑に落ちない顔をしながらも「そう」と相槌を打った。
 「だったら、もし社内でその人と顔合わせることになっても、あまり親しげにしない方がいいわよ。特に、瀬谷さんの前では」
 「は?」
 「実は、瀬谷さん、藤井さんが入るのをあまり歓迎していないらしいの」
 エレベーターのボタンを押しながら、津川は余計声を小さくした。
 「時田先生がロンドン本社の一宮さんの親戚だってことは、ここに何年かいる人間なら誰でも知ってるのよ。そういう親族関係を仕事に持ち込むの、瀬谷さんをはじめとする何人かは、凄く嫌がってるの。ビジネスライクじゃない、って。今回あなたが仮契約することになったのも、時田先生のお弟子さんが後釜に据わったのも、あの人たちからすると“日本支社を立ち上げた功労者のごり押し”と見えるみたい」
 「…そう、なんですか」
 つまり、日本支社の立ち上げ時に中心人物となって働いた一宮淳也が、その義弟である時田や、時田の関係者である瑞樹や蕾夏を、実力そっちのけで無理矢理ねじ込んでる、と思っている訳だ。
 分かる気がした。蕾夏自身、大学の頃、親のコネで就職するような同期生をあまり快くは思わなかった。何故なら、そういう子に限って、仕事に対してさしたる意気込みも夢も持っておらず、ただ楽に就職できるからその会社を選んだ、という感じの場合が多いからだ。
 「―――そういうハンデは、仕事で挽回するしかないですね」
 蕾夏のその呟きが辛うじてそれが聞こえたのか、津川は、ちょっと意外、という顔で蕾夏の顔を見つめた。
 「ハンデ…ハンデ、か。確かにそういう考え方もあるかな…。見た目より根性あるのね、藤井さん」
 「根性には結構自信ありますよ」
 ニッ、と笑って蕾夏が言うと、津川は余計意外そうな顔をした。

***

 上の階に上がりながら、津川は更に幾つかの話をしてくれた。
 例えば、この会社は即戦力を求めているから、他の出版社からのヘッドハンティングが多い、だから28の自分でも一番年下だ、とか(つまり津川は蕾夏の2つ上―――佳那子と同い年だった訳だ)。
 フレックスタイム制をとっているが、思い通りのシフトを組めたことなどほとんどない、とか。
 実は2年前まで女性の専属ライターがいたが、紀行ものの特集のために外部カメラマン同行で沖縄に飛んだら、その先でカメラマンといい仲になってしまって、契約を半分残して辞めて結婚してしまったとか。
 いちいち「そうなんですか」と相槌を打っていた蕾夏だったが、言葉を重ねる毎に、だんだん津川の言わんとしていることを理解して、なんとなく嫌な気分になった。
 ―――自覚はないのかもしれないけど…津川さんも“瀬谷さんをはじめとする何人か”と同じかも。
 その口調から、別に嫌味で言っている訳ではなく、無意識のうちに話しているらしいことは分かる。多分、津川の人となりは、人がよくて正直なのだろう。だから余計、ストレートに感じる―――いわくつきの新人ライターを、彼女がどう思っているか。
 だが、蕾夏は、こうした目には慣れている。
 帰国子女というだけで、男の子と親しく話をするというだけで、クラス中の女子生徒から言いようのない視線で見られた、あの頃―――だから、またか、と思うだけ。理由が多少納得いく分、今回の方が楽かもしれない。でも、また暫くは疲れるな、と覚悟しただけだ。

 「瀬谷さん、失礼します」
 コンコン、と2回ノックし、津川は資料室のドアを開けた。
 ドアの向こうに広がっていたのは、狭い中にギューギュー詰めされた書棚の列だった。その真ん中辺りで、雑誌を広げたスーツ姿の男の人が、津川の声に反応してこちらを見ていた。
 「例のライターさん、仮契約が決まったそうなので、お連れしました」
 「…あ、そう」
 フレームのない眼鏡の奥で軽く眉をひそめると、彼は雑誌を閉じ、蕾夏の方に向き直った。
 ―――え、“瀬谷さん”て、男の人だったの?
 “瀬谷さん”を何故か女性だとばかり思い込んでいた蕾夏は、目の前にいる男性が“瀬谷さん”だと分かり、ホッと胸を撫で下ろした。
 普通なら逆だろうが、蕾夏にとっては、同性である筈の女よりも、異性である筈の男の方が楽だ。女の子は難しくて、分かり難い―――植えつけられた苦手意識は、何年経っても消えてはくれないらしい。
 「藤井蕾夏です。よろしくお願いします」
 にこやかな笑みでペコリ、と頭を下げる蕾夏を、瀬谷という男は無表情に見下ろしていた。そして蕾夏が顔を上げると、その無表情を保ったまま、しずしずと頭を下げた。
 「…瀬谷智哉です」
 その声は、ちょっと、誰かに似ていた。誰だっけ、と記憶を辿った蕾夏の脳裏に、1人の人物が思い浮かんだ。
 ―――そうか。辻さんだ。
 眼鏡をかけている頭の良さそうな顔、という点でも共通しているのかもしれないが、声も少し似ている。瀬谷を見てホッとした理由は、男だった、という部分もあるが、幼馴染のお兄さんとどことなく似ている、という部分もあるのかもしれない。
 「君が書いたやつ、読ませてもらったよ」
 手にした雑誌を書棚に戻しながら、瀬谷は、あまり抑揚のない声でそう切り出した。
 「随分と情緒豊かな文章が並んでたけど―――君、ライターって仕事を勘違いしてるんじゃないかな」
 「…はっ?」
 「ライターに情緒なんていらない」
 再び向けられた瀬谷の目は、もの凄く冷たかった。
 「ライターは、“文章作成マシーン”だ―――それが、現実だよ。まあ、3ヵ月後が楽しみだね。君のライターに対する認識が、どれだけ改まってるか」
 「―――…」

 …ごめん、辻さん。似てるなんて思っちゃって。

 蕾夏は、瀬谷に対する印象を“辻と似てる人”から“性格が破綻した辻”に書き換えた。それにしても、自らの職業を“文章作成マシーン”と称するとは、随分と自虐的な人物だ。いや、それとも、自虐的であることに気づいていないのか。
 「私も、3ヵ月後、楽しみにしてます」
 ニッコリ、と蕾夏が微笑んでそう言うと、瀬谷と、背後に立つ津川が、少し驚いたような顔をした。
 「ライターが“機械”に過ぎないのかどうか―――しっかり見させていただきますね、瀬谷さんの作る文章を」

 ライターが“文章作成マシーン”だなんて、絶対嘘だ。
 蕾夏が憧れたライター。それは、とても情緒深い文章を書く、一宮 累というライターだ。時田の写真集に添えられた彼の文章は、とても温かくて、人間味に溢れていた。ああいう写真集が作りたい―――そう思ったからこそ、ライターという道を選んだのだ。
 人間は、機械じゃない。だから瀬谷が作る文章も、本人の言葉に反して、絶対「人間・瀬谷智哉」がそこに表れている筈だ。それを見つけて、突きつけた時…瀬谷は、何と言うだろう?

 3ヶ月後、笑うのはどちらか―――蕾夏は、いつになく挑戦的になっている自分に苦笑しつつ、更に笑みを深めた。

***

 その後、簡単な社内の案内や書庫の説明などをされた蕾夏は、少々フラフラになってミーティングルームに戻ってきた。
 ―――あ…、まだ、これを持って帰るっていう重労働が残ってたんだった。
 テーブルの上にドン、と乗せられているノートの山と契約書を見て、疲れが一気に襲ってきた。はーっ、と大きくため息をついた蕾夏は、バッグの中から用意してきたナイロンバッグを引っ張り出し、ノートをその中に詰め込んだ。別段こういうケースを想定していた訳ではないが、ロンドンでの半年の生活で、プロラボから出来上がったプリントを大量に持ち帰ったりする時のために常に予備の袋を携帯するのが癖になってしまったのだ。
 「ああ、終わりましたか」
 ミーティングルームの中を覗き込んだ佐伯が、よいしょ、とナイロンバッグを持ち上げた蕾夏に声を掛けてきた。振り返った蕾夏は、疲れ果てた顔を一瞬で消し去り、なるべく元気に笑った。
 「はい。津川さんが、もう今日はこれで帰ってもいいとおっしゃったので、そろそろ失礼しようかと思うんですけど」
 「いいですよ。今日は早く帰って、ゆっくり休んで下さい。瀬谷君は結構人使いが荒いですからね、明日からはハードですよ」
 「あはは…そ、そうですね」
 思わず笑顔が引きつってしまう。これは、明日からの日々に、相当な覚悟をしておかなくてはいけないのかもしれない。
 「じゃ、お先に失礼します」
 「はい、お疲れ様」
 お辞儀する蕾夏に、佐伯は最後まで穏やかにそう挨拶し、自分のデスクへと戻って行った。
 ―――うーん…締め切り間近で、一番ピリピリしてる時の筈なんだけどなぁ…。
 この人が演じる「締め切り直前の修羅場」は、なんだか小春日和のピクニックみたいなムードだ。部下に切羽詰った状態が伝わらずに記事が落ちたりしないんだろうか。少々心配だ。

 「津川さん、お先、失礼します」
 編集室の入り口に近いブロックにいる津川に声をかけると、険しい顔で机に向かっていた津川が顔を上げ、口元だけに笑みを浮かべた。
 「お疲れ様。明日からよろしく」
 「はい」
 笑ってはいるが、目が、怖い。目だけが仕事モードから離れていないのがよく分かる。…どうやら、締め切りに間に合いそうにない状況の記事は、津川が担当している部分らしい。それを証明するように、津川の視線は、挨拶が終わると同時にせわしなく手元の原稿へと戻った。
 声掛けなきゃよかったかな、と少し後悔しつつ、蕾夏は荷物を持ち直し、ガラス扉の取っ手を押した。
 直後、扉が、入って来ようとした人にぶつかってしまった。
 「…っと」
 「あ、すみません」
 津川の様子に気をとられていて、人がいることに全然気づかなかった。慌てて相手を確認した蕾夏は、次の瞬間、あまりのことに言葉を失った。

 ―――みっ、瑞樹っ!? えええ!?

 今まさに入って来ようとしていたのは、瑞樹と、1週間ぶりに会う時田その人だったのだ。確かに、今日ここに時田と一緒に挨拶に来るとは言っていたが―――まさか自分がいる時間帯と重なるなんて、夢にも思わなかった。それは瑞樹も同じなのだろう。ビックリ顔で、その場に固まっている。
 「み―――…」
 “瑞樹”、と呼びかけそうになった蕾夏は、斜め後ろからいくつかの視線を感じ、慌てて口を噤んだ。その視線の中には、津川のものもある筈だ。
 『もし社内でその人と顔合わせることになっても、あまり親しげにしない方がいいわよ』
 ―――はい、そうですね。
 小さく息を吐き出した蕾夏は、よそ行きな笑顔を咄嗟に作り、瑞樹ではなく時田の方を向き、頭を下げた。
 「お久しぶりです。凄い偶然ですね」
 「ああ。僕もさすがにビックリしたよ。もう佐伯編集長との話は終わったのかい?」
 「はい。あの…ちょっと急ぐので、お先に失礼しますね」
 本当は色々話をしたいが、周囲の目が気になりすぎる。特に時田は有名人だ。少々不自然かもしれないが、早く話を切り上げた方が得策だ。
 その辺りの事情は、時田にも察することができたのだろう。ペコリ、とお辞儀をする蕾夏に、時田は苦笑を返し、「じゃ、また」と言って蕾夏の肩をポン、と叩いた。

 開いたドアの間から時田が編集室へと入ってくる、それに続いた瑞樹と、入り口のカウンター前ですれ違った。
 瑞樹が事情を察してくれたかどうか―――他人行儀な態度を不審に思わないか、ちょっと心配だった。蕾夏は目を上げ、瑞樹の表情を窺った。
 見下ろしてきた瑞樹の目は、怪訝な表情はしていなかった。その代わり、少し心配げに、蕾夏に問うていた。
 ―――第一歩は、踏み出せたか?
 声には出さない言葉と同時に、瑞樹がカウンターの下で、手を差し出した。蕾夏は、津川達には見えないであろうその場所で、差し出された手に一瞬だけ手を絡め、微笑を返した。
 蕾夏が無事、仕事を得られたとその笑顔から読み取ったのだろう。瑞樹も笑みを返してくれた。

 まだ、“仮”ではあるけれど―――大丈夫。必ず、繋げてみせる、その先へ。
 どうやら険しい道のりになりそうではあるが、瑞樹が“最強の女だ”と太鼓判を押してくれた自分なのだ。何でも乗り越えられる―――そう信じられた。


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