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― 過去があるから未来がある ―

 

 『FAX見てもらえましたか?』
 「ええ、今見てます」
 手元のFAXに目を落としながら、瑞樹はボールペンのキャップをくわえて外した。
 「照明は?」
 『小清水さんの自宅、サンルームあってかなり明るいらしいんすよ』
 「じゃ、天候次第だな…」
 『注文多い人らしいんで、ご迷惑かけると思いますけど、よろしくお願いします。ほんと、成田さん引き受けてくれて助かりました』
 電話の相手―――“月刊A-Life”の専属カメラマンだという小松は、心底すまなそうな声でそう言った。
 とんでもない。むしろ礼を述べたい位だ。まさか、こんなに早く“月刊A-Life”の仕事を―――しかも、蕾夏と組む仕事が回ってこようとは、夢にも思っていなかった。昼に連絡をもらった時は、幻聴なんじゃないかと思ったほどだ。
 「新人なんで、仕事は何でもありがたいです」
 『いやー、新人なんて、そんな。弟子とらないんで有名な時田先生がアシスタントにした位だから、相当な腕前なんだろうって噂してる奴らも結構いますよ。あ、時田先生のアシスタントっていえば、うちに来てる藤井さんもそうっすね。彼女、アシスタントなんてできるんすか?』
 「…まあ、それなりには」
 『へー。見かけによらないっすね。風吹いたら折れそうな華奢で清楚な子なのに。でも、カメラに詳しいなら、同行取材の時助かるなぁ』
 そんな予定はまだないけど、と楽しげに笑う小松に、受話器を握る瑞樹は、知らず眉を顰めていた。
 ―――微妙に、面白くない。
 更に二言三言交わして、電話を切った。明後日の朝10時半、“月刊A-Life”にて打ち合わせ、取材は午後12時半から―――小清水某がいかなる顔をした人物か知らないが、とにかく面白いことになりそうだ。

 「開業早々、忙しそうじゃない」
 FAXの内容を再確認していると、急に声を掛けられた。
 目を上げると、さっきまでデスクで何やら作業をしていた女が、休憩中なのかノンビリ煙草を吸っていた。これが3度目の対峙―――桜庭咲子だ。
 初対面時も、前回も、桜庭はひたすら挑戦的で、ニコリともしない女だった。そして今日も同じ。不遜という言葉がピッタリな態度で、瑞樹を見上げている。奥の机には、いつも通り川上がいたりするのだが、第三者の有無はあまり関係ないようだ。
 「時田郁夫のネームバリューってやつ?」
 煙を吐き出しながら皮肉っぽく言う桜庭に、瑞樹は軽く片眉を上げると、
 「さあね」
 と短く答えて、またFAXに視線を戻した。
 「あたしなんて、最初の1ヶ月は、スーパーの広告1つきりだったのに。いいわね、偉い先生がバックについてると。こんなに待遇いいなら、あたしも弟子入りすれば良かった」
 「そう思うんなら、今からでも弟子入りすれば」
 そっけなくそう言い放つと、桜庭のムードがより険悪になった。
 「バカじゃないの。一人前にプロとして活動してる奴が、今更弟子入りなんてする訳ないでしょ。こう見えても、花に関しちゃ結構名前が売れてるんだから」
 「良かったな、売れてて」
 冷めた声でそう言うと、瑞樹は読み終わったFAXを机に置き、桜庭を見据えた。
 「―――で、何が言いたいんだよ」
 急に切り返された桜庭は、煙草を口に持っていこうとしていた手を止め、少し息を呑んだ。
 「…別に、言いたいことなんてない」
 「だったら、話しかけるな」
 「……」
 「だめでしょう、桜庭さん、(ひが)んだりしちゃ。同い年でもあなたの方が先輩でしょ。後輩は可愛がらないと」
 苦笑交じりの川上の声に、言われた桜庭より瑞樹の方が鳥肌が立った。冗談ではない。いちいち細かいことにつっかかっては喧嘩を売ってくるこの女に、先輩面されるなんて。
 が、その場の妙な空気は、突然響いた電話の音で寸断された。
 川上は受話器に手を伸ばし、桜庭はそっぽを向いて煙草を口にくわえる。瑞樹も、少々苛立ちながらも、FAXを折りたたんでデイパックの中に押し込んだ。
 「成田さん」
 もう用事もないし帰るか、と思ったところに、川上の声がした。
 「溝口さんから、お電話」
 「俺に?」
 受話器を差し出す川上に、眉をひそめた。珍しい。一体何の用事なのだろう、と不思議に思いながらも、瑞樹はその受話器を受け取った。
 「はい」
 『成田? 俺、溝口だけど』
 「ああ、お疲れ」
 『ちょっと訊くけど、お前って明日、何か予定入ってる?』
 「明日? いや、別に」
 『そうか! それじゃあ悪いけど、明日の昼から6時位まで、俺の後輩の代わりにロケアシスト頼んでもいいか?』
 「ロケアシスト?」
 つまり、誰かカメラマンがロケで―――スタジオとかではなく外で撮るのに同行して、アシスタントをやってくれ、という意味だ。
 「スタジオとかで助っ人雇えばいいんじゃねーの」
 『俺の後輩がその“スタジオで雇われた助っ人”な訳よ。今日のスタジオ撮影で脚立から落っこちて、全治3週間の骨折だとさ。あいにく明日は空いてるスタジオマンが1人もいないときてる』
 「ドジな奴…どこのスタジオだよ」
 『…おーまーえー、あんまし悪口言えないんじゃない? “STUDIO ACTS”だよ?』
 「……」
 古巣の名前を出されると、少々弱い。というか、最初にそれを言え、という感じだ。はあぁ、とため息をついた瑞樹は、こりゃ断り難いな、と覚悟を決めた。
 『そのカメラマン、“ACTS”しか使わないらしいんだよな、前から。だから本気で弱っちまってるんだ。今更アシスタントもないだろうけど、な? 頼むよ〜』
 「―――分かった。で? 場所は?」
 『屋内としか聞いてないんだよなぁ、だから雨天決行だって。まあ、細かい内容もこれからだから、また夜にでも携帯に電話入れるわ』
 また随分と中途半端な情報しかない状態で電話をしてきたものだ。まあ、相手が誰であれ、やる仕事は同じだ。了解した旨を溝口に伝えて、瑞樹は電話を切った。
 ―――土曜がインタビュー取材になっちまったから、明日1日、溜まってる写真整理をするつもりだったんだけどな…。
 ロンドンで撮った写真が、いまだに山積になっているのだ。今度蕾夏が来たら「まだこの状態のまんまだったの!?」と呆れられること必至ではあるが、写真整理よりはアシストの方が面白いのもまた事実だ。ま、いいや、と割り切って顔を上げると、煙草をもみ消している桜庭と何故か目が合った。
 桜庭は、なんだか妙に呆れたような顔をして、瑞樹を見ていた。無視しようかと思ったが、その態度があまりにもあからさまなので、完全無視も無理だった。
 「…なんだよ」
 不愉快そうに瑞樹が訊ねると、桜庭は、馬鹿にしたような笑い方をして、言い放った。
 「あんたって、見た目よりプライド低い」
 「は?」
 「カメラ構えてなんぼの商売してんのに、知り合って1ヶ月そこそこの溝口さんの頼みだからって、アシスタントなんて仕事引き受けちゃうなんて。どんな凄いカメラマンか知らないけど、同じ土俵で競り合ってる相手の手伝いするなんて、どうかしてるんじゃないの」
 「…そういうあんたは、アシスタント経験あるのかよ」
 「あるわよ。フリーになる前、撮影事務所で働いてたんだもの」
 途端、桜庭の眉間に深い皺が刻まれた。
 「あの事務所に3年いて、あたしがカメラ構えさせてもらえた回数、たった2回よ。その間に一般公募で4度も入賞してるってのに―――1つも賞取らなかった男の同期のアシスタントは、3年で9回。あたしは2回。…アシスタントなんてうんざりよ。あたしはセット組みしたりケーブルさばきしたりするためにこの業界入った訳じゃないんだから」
 「…なるほど。ご立派」
 軽く肩を竦めた瑞樹は、これ以上付き合ってられるか、とでも言いたげなそっけなさで桜庭に背を向けた。
 「何よ、ご立派って」
 「じゃ、川上さん。俺、帰ります」
 「ちょっと待ちなさいよ。どういう意味よ」
 桜庭完全無視でデイパックを肩に掛ける瑞樹に、意味が分からない、という顔をした桜庭は食い下がった。面倒だからスルーしてしまおうかと思ったが、つつかれ続けて苛立っていた瑞樹は、あえて立ち止まる方を選んだ。
 「どんな凄い賞を4回取ったんだか知らねーけど」
 小さく息をつき、最大限バカにした目で桜庭を見下ろす。
 「それを鼻に掛けて仕事をなめた結果が、3年で撮影2回、1ヶ月でスーパーの広告1つかよ。ご立派なプライドだな」
 「……」
 「プライド低くて結構だよ。俺は、撮影現場そのものが好きなんだ。カメラ持たせてもらえなくてもな」

 そのセリフに、桜庭がどう反応したかを、瑞樹は確かめなかった。桜庭が自分をどう思おうが、正直、どうでも良かったから。
 今度こそ、これ以上付き合う気はない。瑞樹は、桜庭の返事を待たずに、さっさと事務所を後にした。

***

 『ふーん…でも、なんでその人、そんなに瑞樹を敵視するんだろうね』
 「さぁな」
 『理由、訊いたの?』
 「いや。アルバイト時代に、何か因縁はありそうだけど、質問して蒸し返されるのも面倒だから」
 蕾夏に返事を返しながらも、つい顔が険しくなってしまう。傍らに置いたカクテルバーを一口飲み、瑞樹は疲れたようにベッドに寄りかかった。
 初対面時から嫌な奴だとは思っていたが、今日のはさすがにキレる寸前だった。
 瑞樹には、時田がバックについている、という意識はほとんどない。時田の後釜的な立場に立たされて、その名前の重さにプレッシャーは感じるものの、時田の元アシスタントだからといって特別優遇されている訳ではないと思うし(むしろ時田には頼みにくかった仕事を嬉々として押し付けられている気がする)、仕事に“時田賞”の名前が影響しているとも思えなかった。
 桜庭が、そういうありがちなパターンに瑞樹を当てはめて、揶揄することで内なる“何か”を解消しているのは、なんとなく分かる。似たような経験が、過去にもある。SE時代、唯一の同期だった小沢―――彼が「お前は恵まれすぎだ」とぶちキレた時が、まさにそんな感じだった。でも、同じことをされても、小沢には少し同情し、桜庭には同情の欠片も湧いてこない。それは多分、桜庭の方がより陰湿だからだろう。
 なんであんなに、つっかかってくるんだか―――過去の因縁を確かめたい気はするが、口を開けば嫌味しか出てこない女とじっくり話し込む気になど到底なれなかった。
 『瑞樹に告白して、フラれた女の子なんじゃない?』
 「ないない。それは絶対ありえない」
 『でも、瑞樹に告白したり言い寄ってきたりした女の人って、かなりの人数いたんでしょう? 顔を覚えていない子だっていて当然なんじゃない?』
 「俺に言い寄るタイプは、大体2、3種類に分類できるんだよ。桜庭はそのどれにも当てはまらねーから、絶対違う」
 『…ふーん…分類わけできちゃう位にいたのかぁ、瑞樹に言い寄る女の人って…』
 「…おい。変なところで引っかかるな」
 『そんな怖い声出さなくても、冗談だってば』
 むっとした声になる瑞樹に、蕾夏はくすくすと笑った。正直、過去のことはあまり言われたくない。蕾夏と出会う前の自分をスパッと切り離せたらどんなにいいだろう、と時々思う位に。
 『けど―――ふふふ、なんか、ちょっと、嬉しい』
 「何が」
 『瑞樹が、プロになってからも、アシスタントの仕事を気安く引き受けちゃったりすることが』
 「…よくわかんねーな。なんでそれが“嬉しい”なんだよ」
 『別にその桜庭さんをどうこう思う訳じゃないけど、ね。なんか…今の瑞樹、自由に息してる気がする。アマとかプロとか、そういう括りからも解放された位置で写真の世界を愛してるって感じがして、いいな、って』
 「……」
 『そういう瑞樹って、やっぱり好き』
 “好き”。
 単純なこの言葉ひとつで瑞樹を赤面させられるのは、世界中で蕾夏ただ1人に違いない。
 「…お前、明後日の仕事のせいで、かなり浮かれてるだろ」
 らしくなく顔が熱くなるのを誤魔化すように、少しつっけんどんに瑞樹がそう言うと、受話器の向こうの声は楽しげに笑った。
 『今日1日位、浮かれさせて。一番近かった夢だけど―――こんな早くそのチャンスに恵まれるなんて、すっごいラッキーだなって、神様に感謝してるんだから』
 「ああ―――凄いラッキーだよな」
 自然、瑞樹の口元も綻んだ。

 この幸運も、結局は時田や淳也の影響力のせいだ、と、桜庭は斬って捨てるだろうか。
 それでも、構わない。
 何が理由かなんて、どうでもいいこと。それを未来へと繋げられるかは、結局は自分次第―――相手を納得させるだけのものを、自分が持っているかにかかっているのだから。

***

 溝口からの電話は、結局、日付が変わる直前にかかってきた。
 その電話の中で溝口が口にしたカメラマンの名前に、瑞樹は、まさかと思いつつも、妙な予感を覚えていたのだが―――…。


 「え…っ、な、成田君!?」
 「―――安積さん…」
 翌日の昼、ロケ現場となった郊外の家で顔を合わせたカメラマンは、瑞樹の顔を見た途端、びっくりしたように目を丸くした。そう…彼を見た瑞樹がそうしたのと、全く同じように。
 2人は、互いの名前を口にしたまま、暫しその場で固まってしまった。
 何故なら、2人は古い顔見知りで、こうして顔を合わせるのはもの凄く久しぶり―――なんと、6年半ぶりだから。
 「い…いや、びっくりしたなー。溝口君から助っ人君の名前は聞いてたんだけど、成田ってそんなに珍しい名前じゃないから、まさかあの成田君だとは、想像もしてなかった」
 「…俺だって、そうですよ」
 最初の驚愕の波が引き始めると、2人はやっとそんな言葉を口にし始める。先に笑顔になったのは、安積の方だった。
 「そっかー…、成田君、カメラマンになってたんだ。全然知らなかった」
 「―――いや、なったのは、つい1ヶ月前なんです」
 「え、そうなの? “STUDIO ACTS”じゃもの凄く熱心にやってるように見えたから、卒業したらスタジオマンになるか撮影事務所に就職するかと思ってたのに」
 「色々、考えるところがあって」
 心底意外そうな顔をする安積に、瑞樹は曖昧な笑みを返した。

 安積は、瑞樹が“STUDIO ACTS”でバイトをしていた当時、よくスタジオを利用していた有名カメラマンのアシスタントだった男だ。
 瑞樹より5つ年上の彼は、瑞樹の目にはスタジオに出入りするアシスタントの中でも一番将来有望な人物に見えた。彼の方も、何か自分と通ずるものを瑞樹に感じたのか、スタジオに顔を出すと、必ず声を掛けてくれた。
 けれど、そんな関係は、ものの半年ほどで終わった。瑞樹が20歳になって間もなく、安積は独立し、北海道へ行ってしまったのだ。安積の師匠であるカメラマンはその後も何度かスタジオを利用したが、あれ以来、安積本人と顔を合わせることはなくなった。
 瑞樹の中で、安積は、理想とするアシスタント像として残った―――ある、1つのわだかまりを伴って。

 「けど、成田君がこの世界入ってなくて、オレも東京に戻ってなかったら、一生会わないまま終わったかもしれないよなぁ」
 「確かに。…安積さんはいつ、東京に戻ったんですか」
 瑞樹が訊ねると、安積は、昔と変わらない、どことなく少年ぽさを残した笑みを浮かべた。
 「1年前かな。元々定住する気なかったし、子供が学校に通ったりする年齢になる前に、と思ってね」
 「子供…」
 「2つなんだ。オレそっくりな男の子だよ」
 勿論、瑞樹の知る安積は、子供どころか結婚してもいなかった。6年半の間に結婚し、子供をもうけたということだろう。親と若くして死別したので、早く自分の家族が持ちたいと言っていた安積だが、その夢をちゃんと叶えていたらしい。
 「琴子さん、元気にしてますか」
 当然のように瑞樹がその名を口にすると、安積の笑顔が、突然、その顔から抜け落ちた。
 少し驚いたように目を見張った安積は、まじまじと瑞樹の顔を見つめた。その様子に、瑞樹も怪訝そうに眉をひそめ、安積の顔を凝視した。
 「……? え?」
 「あ、いや―――ああ、そうか。なんだ。成田君は知らなかったのか」
 気まずそうに目を逸らした安積は、どこか力の抜けたように笑い、髪をかき混ぜた。
 「知らなかった?」
 「琴子のことだよ」
 「安積さんと一緒に北海道へ行くって、本人から聞いたけど…」
 そうではなかった、ということなのだろうか。嫌な予感に、俄かに心臓が鼓動を速めた。

 琴子―――瑞樹より2つ年上の、安積の恋人。
 “STUDIO ACTS”の正社員で、スタジオマンとしては紅一点だった。さばさばした性格、人を和ませる温かい笑顔―――琴子はそういう、感じの良い女性だった。
 カメラマンとして独立することを目指している同士だった安積と琴子は、親友のような関係を保ちつつ、恋人としても寄り添っていた。心と心が繋がってるみたいな2人の恋愛関係は、恋愛全てに冷淡になっていた瑞樹の目にも、唯一、憧れの関係として映っていた。
 恋愛なんて、一生ごめんだと思う。けれど…安積と琴子のような恋愛があるならば、自分もいつの日か、安積にとっての琴子のような相手をみつけられるのかもしれないな―――そんな淡い期待を抱きながら、瑞樹は2人の関係を見守っていた。2人は、瑞樹の理想のカップルだったのだ。
 少なくとも…あの日までは。

 「…北海道に連れてったんじゃ、なかったんですか」
 訊ねつつ、安積の顔を覗き込む。逸らされていた視線が合うと、安積は観念したようにため息をつき、苦笑のような笑みを浮かべた。
 「―――琴子とは、北海道に行く前に、別れた」
 「…は?」
 「勿論、北海道までついてきてくれ、って話はしたよ。でも、断られた」
 「どうして…」
 「…成田君さ。琴子に、告白されたんだろ? オレが北海道に行ってて留守の間に」
 「……」
 「琴子から聞いた。琴子の惨敗に終わったらしいこともね。…琴子、言ってた。オレは琴子を必要としていて、成田君は琴子を必要としてない―――それが分かっているのに、それぞれを想う重さは同じだから、選べない、って。だから、どっちも選ばない…一旦、自分の気持ち、リセットして生き直したいって。…琴子らしいだろ?」

 声が、出なかった。
 閉じ込めていた苦い思い出が蘇る―――琴子がスタジオを辞める1週間前、琴子と自分の間に起きた、ある事件が。


 『あたしだって、ダメだって思った。何度も何度も。…でも、止められない―――好きになる気持ち、止められないの』
 だから、帰らないで―――抱きしめて。今日だけでいいから。

 ショックだった。
 安積というパートナーがいながらそんなことを言ってくる琴子が、信じられなかった。何故―――あんなにも信頼しあえる相手がいるのに、何故。
 安積がいながら自分に縋ってきた琴子は、瑞樹に、一番思い出したくない女を思い出させた。父と窪塚、どちらも切り捨てられなかった女―――あの母を。琴子に母を重ねて、憤りで、体が震えた。
 だから瑞樹は、恐らくは一番琴子が望まない形で、琴子の望みを叶えた。
 必死に請わない限り指一本触れなかったし、好きだと何度も口にする琴子を最後まで冷め切った目で見下ろし続けた。お前が“恋”と呼んでいるそれは、単なる低俗な欲望に過ぎないものなのだと思い知ればいい―――そう思いながら。

 北海道に行くと聞いて、当然だと思った。
 琴子は、あの時、血迷っただけなのだ。モデルやら学校の連中やらに言い寄られている後輩に、ちょっとした好奇心がうずいただけ。もう二度と、道を見誤るな―――そう思いながら、瑞樹は琴子を見送り、あの日のことは記憶の奥底に封印した。やっぱり、女なんて…恋愛なんて碌なもんじゃないな、という苦い思いと共に。


 「じゃあ、その…琴子さんは?」
 「故郷の福井に戻って、実家のカメラ屋を継いだよ。結婚もして、子供も生まれたらしい。年賀状のやり取りしかしてないけどね」
 年賀状のやり取りだけ。
 あんなにも信頼しあっていた恋人同士が―――1年に1度、葉書を取り交わすだけの関係になってしまった。
 当時なら、そんな結果にも、所詮恋愛なんてものはその程度なんだ、と冷めた感想しか抱かなかっただろう。でも…今は、違う。蕾夏と出会ってしまった、今は。
 「…必要だったのに、なんで」
 何故、手放せたのか―――思わず眉を寄せて訊ねると、安積は小さく笑い、どこか遠くに目をやった。
 「オレも、小さい人間だったってこと」
 「え?」
 「オレがいるのに他の奴も好きになった琴子を、結局オレも、前と同じ気持ちでは想えなかったんだよ。努力すれば、なんとかなったかも。でも…まだ、ガキだったからなぁ、オレ」
 「…俺がいなけりゃ、今頃琴子さんと一緒にいたかもしれないのに」
 「あはは、成田君の責任じゃないよ。君、モテてたし。あれじゃ、女に辟易するよなぁ…。琴子がどの程度本気だったかも、多分気づかなかっただろう?」
 苦い味が、口の中に広がった気がした。琴子が、どの程度本気で自分を好いていたのか―――それは、もしかしたら、瑞樹にとっては一番触れて欲しくない部分だったかもしれない。
 「2年付き合ってたオレと…半同棲してたこのオレと、同等だなんてさ―――想像できなくて普通だよ。でも、琴子は、好きになったら真っ直ぐに思いつめちゃうタイプだからね。…逃げ場、なかったんだと思う。リセットする以外」
 「…後悔とか、しないんですか」
 「琴子を引き止めなかったこと? ないよ」
 安積は、あっさりそう言った。
 「結局お互い、ちゃんとしたパートナーを見つけなおして、今それぞれに幸せだし。琴子と付き合ってたことも後悔してない。琴子とのことがなけりゃ、今の彼女とも出会わなかったかもしれないからね」
 「……」
 「過去があるから、今のオレがいる。…今のオレがあるから、その先のオレもある。無駄な過去なんて、1つもないよ。そう思わない?」
 「―――そうですね」

 …そうかも、しれない。
 あの頃の自分なら、そんな風には思えなかったけれど―――今なら、そう、思える。どんな過去があろうと、それが今の瑞樹を形成するパーツであるなら、きっと受け入れられる―――そう言ってくれる存在を得てしまった、今なら。

 瑞樹が、少し苦い思いを噛み締めながら微かに微笑むと、安積も笑い返した。
 「…さて、と。じゃあ、さっさとセッティングやろうか」
 その一言で、琴子のことは、もう二度と話題にはのぼらなくなった。

***

 撮影は、夕方から降り出した雨で照明の調整に苦労させられたものの、予定より早いペースで進んだ。
 スタジオに機材と車を返却し、一旦事務所に寄ろうと地下鉄からJRに乗り換えた瑞樹は、その時になって初めて「しまった」と思った。
 ―――安積さんに、桜庭のこと、訊いてみりゃよかった。
 ドアに寄りかかり、心の中で軽く舌打ちをする。でも―――桜庭が敵視してくる理由など、今はどうでもいい気がした。桜庭に睨まれようが殴られようが、瑞樹にとっては痛くも痒くもない。もう、放っておこう…そう考え、瑞樹はため息とともに目を閉じた。
 桜庭のことを頭の中から消し去る位、簡単だ。
 消えてくれないのは、安積との再会で思い出してしまったもの―――かつて、琴子が瑞樹に告げた言葉だ。


 ―――…成田君、恋したことないのね。
 恋をしたら、触れたくなるのは当たり前なのに。恋をした人に、抱きしめられてキスされたいって思うのは、低俗でもなんでもない―――心が欲しい相手だからこそ、余計にそう思うものなのに…成田君は、それを知らないのね。
 人間の心なんて、本当は脆くて弱くて矛盾だらけで―――そんな弱い生き物だから、一人じゃ寂しくて生きられないのよ。成田君は、それを知らないから、強くいられるんだね。

 弱い成田君になれる相手、いつか、見つけて。
 そういう人が見つかったら、少しだけ、あたしの言葉も思い出して―――あたし、本当に、成田君が好きだったよ。


 脆くて、弱くて、矛盾だらけの自分になれる相手―――そんなもん要らねぇよ、と、あの時思った。
 でも、今の自分は、ただ1人の前では脆くて、弱くて、矛盾だらけの自分になってしまう。情けない位に、弱い―――きっと、あの時の琴子より、安積より、誰よりも弱いだろう。
 想像することもできない。蕾夏と、年賀状のやり取りだけの関係になるなんて。
 ―――でも、安積さんと琴子さんは、そうなっちまったんだよな…。
 結構、ショックだ。しかも、そうなった責任の一角を自分が担っていると思うと…余計に、たまらない。

 蕾夏に、会いたい。
 あっけなく途切れてしまった安積と琴子の絆、そのことに対するやりきれない罪悪感―――そんなものを思えば思うほど、会いたくて仕方ない。今すぐ会わないと、どうにかなってしまいそうな位に。


 ガクン、と大きく体が傾いて、瑞樹は慌てて目を開けた。
 気づかなかった。たった10分少々なのに、考えに耽りながらいつの間にかうたた寝していたらしい。見れば、ちょうど池袋の駅だった。少々バツの悪い思いをしながら、瑞樹は急いで電車を下りた。

 改札を出たところで、駅の時計で確認すると、8時を回ったあたりだった。
 ―――あいつ…仕事、終わってるよな。
 そんなことが、頭を掠める。
 予定変更。事務所に寄るのは中止。とりあえず電話をしよう―――そう思って、携帯電話を胸ポケットから取り出した瑞樹は、携帯のライトが淡く点滅しているのを目にして、少し目を丸くした。
 マナーモードにしていて、着信があったことに全然気づかなかったらしい。慌てて着信履歴を確認すると、不在着信の主は、全て蕾夏だった。
 30分足らずの間に、3回も電話してきている。何かあったのだろうか―――人と雨を避けるように駅の外壁にもたれた瑞樹は、蕾夏に電話をかけてみた。
 『―――こちらはNTTドコモ留守番サービスセンターです』
 「……」
 お馴染みのアナウンスに眉をひそめた瑞樹は、1分ほど待って、もう一度、かけてみた。が…やはり、留守番電話になってしまう。
 ―――あいつ、一体どこにいるんだ?
 もしかしたら、蕾夏も移動中なのかもしれない。全く、タイミングが悪い―――苛立ったように髪を掻き上げた瑞樹は、携帯をパチンと閉じ、胸ポケットに放り込んだ。

 電話が繋がるまで、待つ余裕すらない自分に、呆れてしまう。
 でも、待てない―――くるりと踵を返した瑞樹は、今出たばかりの改札へと戻っていった。


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