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― やさしい、うそつき ―

 

 小清水さゆみのインタビュアーを仰せつかった日の翌日の、金曜日。
 当然ながら、蕾夏は、小清水さゆみ関連の資料を読み漁る作業に没頭する羽目になった。

 ―――どうりで印象にないと思った…。
 映画化されたという彼女の処女作をぱらぱらと流し読みして、何故この中堅作家のイメージが自分の中で薄かったのかを、蕾夏ははっきり認識した。
 甘いもの嫌いの瑞樹が読んだら、あまりの甘さに失神しそうな位に、超甘々な恋愛小説。ショートケーキにメイプルシロップをぶっかけてジェリービーンズをトッピングしたような甘さだ。
 人の恋愛模様読んで、何が面白いんだろう―――そう思ってしまう蕾夏は、恋愛小説を基本的に読まない。だから当然、小清水さゆみのベストセラーも、名前は知っていても立ち読みすらしない。だから、小清水さゆみという作家のイメージが希薄だったのだ。
 映画の方は、公開前だし試写会は終わってるしでどうしようもないので、試写会へ行った瀬谷に説明してもらった。が、瀬谷の説明では全然映像が思い浮かばず、結局、インターネットで公開されていた予告編を何度も見てイメージを膨らませるしかなかった。
 …大丈夫かな、明日。
 ひたすら嬉しかった明日が、急激に不安になってきた。

 時計を確認すると、本日の退社時間午後6時を既に回っていた。今日は寄り道せず帰宅して、じっくり本を読むべきかもしれないな、と思った蕾夏は、帰宅準備を始めた。
 「藤井君」
 資料をトントン、と机の上で整えているところで、編集長に呼ばれた。ちょっと難しい問題にでも直面しているのか、いつもの温和な顔が数段険しくなっている。
 慌ててデスクへと赴くと、編集長が手にしているのは、昨日提出した例の自己啓発本を紹介する記事だった。…嫌な予感がしてきた。
 「はい」
 「ああ、藤井君。昨日のこの原稿なんですが…急で申し訳ないけど、もうちょっと膨らませてもらえますか。ちょうどこの1.5倍位のボリュームに」
 「えっ」
 嫌な予感が的中してしまった。いや、真っ先に想像したのは、原稿まるごと没を食らうというケースなのだが…ある意味、それよりこの方がハードかもしれない。
 「紹介予定の4冊のうち1冊に、盗作の噂が持ち上がりましてね。まだ業界内の噂どまりですが、ちょっと様子見をした方がよさそうです」
 「あ…そうなんですか」
 「で、急遽次号は3冊の紹介に変更なんですが、レイアウト上、どうしても1冊のボリュームを増やさざるを得ない状況でして…そんな訳で、週明けに再提出して下さい。小清水さんの取材やらで、大変だろうとは思うけど」
 「分かりました」
 ―――でも、これ以上、あの本について語ることなんてないよなぁ…。
 精一杯膨らませてあのボリュームだったのだ。似た言葉を並べるしかないのかなぁ、と内心ため息をつきつつ、蕾夏は編集長から原稿を受け取った。
 一旦原稿の上に落とした目を上げると、奥のミーティングルームからこちらへと向かってくる一団が、目に入った。
 先頭を歩く人物の顔は見えないが、恐らくは他社の人間。それに続いて、この会社の営業部の人間2名。そして、顔の見えなかった人物が、書類を持ち直して顔を上げた時―――危うく、受け取った原稿を取り落としてしまいそうになった。
 何故なら―――その人物は、蕾夏がよく知る人物だったから。
 「どうもお邪魔しました。失礼します」
 編集長と目が合ったその人物が、にこやかに挨拶した。
 「お疲れ様でした」
 同じくにこやかな編集長の挨拶に、彼の目が一旦前に向きかけた。が、何か引っかかるものを感じたらしく、その目は再び編集長の方へと戻った。
 そして、蕾夏の方へと向き直った編集長の背中越しに蕾夏の姿を捉えた途端―――彼の足がピタリと止まり、その目がこれでもかという程大きく見開かれた。
 「!!! ふ―――…」
 蕾夏の名前を叫びそうになる彼に、蕾夏は慌てて口の前で人差し指を立ててみせた。
 え? という顔をした彼は、それでも開きかけた口を急いで閉じた。まずい―――彼に分かる筈もないが、ただでさえ時田や淳也の知り合いだということで色眼鏡で見られてしまっているのだ。これ以上、関係者の中に知り合いが混じるのは、まずい。
 「あの、じゃあ編集長。私、明日の準備もあるので、これで失礼します」
 軽く頭を下げながらの蕾夏の挨拶は、いつもより少し声が大きかったと思う。けれど、編集長は特にそれを不審に思ったふしもなく、「はい、お疲れ様」と短く返事をして、再び仕事に戻った。

 席に戻る時、肩越しに後ろを振り返ると、編集部の入り口で、彼と営業の2人が挨拶を交わしているところだった。
 一瞬、こちらに目を向けた彼が、書類を持つ手で階下を指すのが分かった。“下で待ってる”―――蕾夏が間もなく退社することは、ちゃんと彼にも聞こえていたらしい。安堵した蕾夏は、薄く微笑み、軽く頷いた。

***

 エレベーターを降りると、自動ドアのすぐ内側に佇む影が、蕾夏に気づいて動いた。
 「藤井」
 ほっとしたように微笑む彼に、蕾夏はすまなそうに両手を合わせた。
 「ごめんね。あんな態度とって」
 「いや―――それより、ビックリしたよ。ライターって出社してるもんなの? オレ、家でずっと原稿用紙に向かってる図を想像してたんだけど」
 「んー、専属は、半分社員のような扱いだから。それより、こっちもビックリしたよ。まさか由井君がうちに来るなんて」
 自動ドアを抜けながら蕾夏が言うと、由井は手にした封筒を目で指し示した。
 「打ち合わせだったんだ。上司が別件で不在だったから、オレが代理で来たんだ」
 「そうだったんだ。今も書籍販売部?」
 「うん。“月刊A-Life”の海外版をいくつか仕入れさせて欲しいんで、その関係で」
 さすがは書店国内最大手―――輸入本も手広く扱っているだけのことはある。ということは、もう暫くしたら、由井の勤め先に行けば、イギリス版の“A-Life”も入手できる訳だ。イギリス版で累が担当している連載モノの記事の続きを気にしていた蕾夏は、これはいい話を聞いた、と頭の片隅で思った。


 由井と実際に顔を合わせるのは、瑞樹と一緒にビデオレンタルの店で会った、あの時以来のことだ。
 会社を辞めてイギリスへ行く時も、帰国してライターの道を歩み始める時も、蕾夏はその都度、由井に手紙を書いていた。由井の方も手紙でそれに応じた。蕾夏がモノを書くのが好きだったことを知る唯一の友人は、蕾夏が選んだ新しい道を心から喜んでくれているようだった。
 同級生歴、9年。おかしな因縁で結ばれた2人を繋いでいるのは、何故かいつも手紙だ。


 「実はさ。近々、連絡しようと思ってたんだ」
 近くの喫茶店に入り、オーダーをして一息つくと、由井は開口一番そう言った。
 「そうなんだ。どうして?」
 蕾夏が訊ねると、由井は少し迷っているような様子を見せた。その様子に蕾夏が怪訝そうに眉をひそめると、やがて由井は、意を決したように告げた。
 「―――あのさ。実は、委員長が、この夏にでも久々にクラス会をやろうか、って言ってきたんだ」
 “委員長”というのは、中3の時のクラスの委員長を指している。中学3年間、ずっと委員長をやったというつわものなので、あだ名そのものが“委員長”なのだ。
 「委員長と今も付き合いがあるの?」
 「家が3軒向こうだからね…会いたくなくても、月に2、3度は会っちゃうんだよな。絶対来いよ、なんて釘刺された」
 「そっか。委員長のご近所さんも大変なんだね」
 中3の時のクラスは、委員長を筆頭に男女10名ほどが非常に仲が良く、現在も地元で時々集まっている。その連中の号令で、クラス会も定期的に催されている。頭の中で指を折ってみたら、今度がちょうど5回目だ。
 「それで、さ。…委員長が、今回は藤井の都合に合わせてやろうか、とか言ってるんだよ」
 由井の言葉が、ちょっと歯切れが悪くなる。
 「私の?」
 「…藤井だけだからさ。女の子の中で、一度もクラス会出てないのって」
 「……」
 思わず、息を、飲んだ。
 「…そ…う、なんだ」
 呟いたところに、オーダーしたコーヒーが運ばれてきた。少し動揺してしまった気持ちを落ち着かせるように、蕾夏は暫し黙って、コーヒーに砂糖やミルクを入れた。
 「―――あいつも、1回も参加してないって」
 ポツリと呟いた由井のセリフに、カチャカチャとコーヒーを混ぜていた蕾夏の手が、止まった。
 目を上げると、由井の視線も、自分の手元のコーヒーカップに落ちていた。
 「藤井と名前、並べて挙げられて―――心臓、止まりそうになった。“記憶の中で15歳で止まってるの、あの2人だけだから、30になる前には絶対参加させたい!”って」
 「…委員長が、そう、言ったの」
 「うん…言った」
 微かに手が震え、止めている筈のスプーンがカップに当たって小さな音を立てた。
 迂闊だった。彼がクラス会なんてイベントに顔を出す訳がないとは思っていたが…10年という歳月をかけて、そんな形で、2人だけ炙り出される結果になろうとは。
 「…分かった。仕事入らない限り、出るつもりだって伝えておいて」
 再びコーヒーをかき混ぜながら告げる蕾夏に、顔を上げた由井は、心配げに眉を寄せた。
 「いいの?」
 「集まりたい訳じゃないけど、一度くらい顔出さないと、委員長が可哀想だよね」
 「藤井…」
 それでも由井が心配げな理由は、蕾夏にもよく分かっている。コーヒーカップを手にした蕾夏は、僅かに笑みを口元に浮かべた。
 「大丈夫。参加するって言っておいて」
 言いながら、一瞬、瑞樹のことが頭を掠めた。瑞樹は、止めるだろうか―――うちのクラス会、いつも中学校でやるんだよ、と言ったら。
 学校―――卒業以来、一度も足を踏み入れていない場所。…多分、行けば、どこかに彼の存在を感じてしまうだろう。蕾夏にしたって、記憶の中の彼の姿は、15歳のまま止まっている。
 「…分かった。そう伝えておく」
 それでも、もう蕾夏が動じないことを察したのか、由井はそう言って、僅かに微笑んだ。

 お互い、コーヒーを口に運んだので、暫し会話が途切れた。
 いつもよりコーヒーが少し苦く感じるのは、やっぱり、完全には“大丈夫”と信じ切れない部分があるから、なのだろうか。舌に感じる苦味に僅かに眉をひそめた蕾夏は、一口飲んだだけで、またクリームをコーヒーに足した。
 「あの人と、上手くいってる?」
 再度スプーンを動かす蕾夏に、ふいに由井が、そんなことを訊ねた。
 「瑞樹のこと? うん、上手くいってると思うよ?」
 「そう。良かった―――大丈夫だろうとは思ってたんだ。だってあの人、ちょっと感じが似てたし」
 「え?」
 「覚えてる? 広瀬先輩。映研の。過去見た中では、あの人が一番藤井に合ってると思ったからさ、オレ」
 スプーンを置こうとしていた蕾夏の手から、スプーンがスルリと抜け出し、ガチャリと音を立てて落っこちた。
 あからさまなほどの、動揺の仕方。あたふたと、テーブルの上に落ちてしまったスプーンを摘み上げ、蕾夏は由井の顔を凝視した。
 「に、似てる!? 瑞樹が、広瀬先輩に!? どこが!?」
 「似てないかな。顔とか全然違うけど、藤井の隣にいる時のムードが、少し似てるようにオレには思えたんだけど。それにほら、静止画と動画の違いはあるけど、両方“カメラ”だし」
 「…うーん…」
 「惜しかったよなぁ、あの人…。彼女持ちでさえなけりゃ、藤井との間、取り持つつもりだったのに」
 残念そうな顔をする由井に、蕾夏の胸がチクリと痛んだ。広瀬との間にあったことは、由井にも話してはいないから。


 広瀬は、蕾夏が大学1年の時、映画研究会のカメラマンを担当していた3年生で、蕾夏を随分可愛がってくれた先輩だ。
 16ミリカメラを手に、大学の構内をよく一緒に歩き回った。日が暮れるまで映画について檄を飛ばしたりもした。そんな時は、日頃張り詰めている気持ちがふっと緩んで、少しだけ本来の自分に戻れる感じがする―――蕾夏にとって広瀬は、過去最も“好きになれるかもしれない相手”だった。
 でも―――生まれかけた小さな“好き”は、恋心へと成長する前に、息の根を止められた。

 1年の冬、彼女と別れたという広瀬に、突然、告白された。
 好きだと言われて、抱きしめられて―――蕾夏は、フラッシュバックを起こしてしまった。広瀬を突き飛ばし、講義室の床にうずくまって、ガタガタ震えた。数年ぶりに経験する、本物のフラッシュバックだった。
 「事情を話してみる気にはなれないのか」…そう言って悲しげに眉を寄せる広瀬の顔は、今も覚えている。
 でも蕾夏は、広瀬には何も打ち明けられなかった。やっぱり私には、恋愛なんて無理なんだ―――絶望に近いものを感じながら、ただ「ごめんなさい」と言うことしかできなかったのだ。


 「―――あの頃、オレ、少し焦ってたから」
 コーヒーカップを置いた由井が、少し低い声で、そう漏らした。
 「…え?」
 「藤井を、誰かに託さなきゃ、って…焦ってたんだ、大学時代」
 「辻さんのことが、あったから?」
 高2辺りから、急激に蕾夏を束縛するようになった辻を、当時の由井はとても心配し、警戒していた。そのことを言っているのだろうか―――そう思ったら、意外にも由井は、首を横に振った。
 不思議そうな目をする蕾夏に、由井は、少し苦笑した。はーっ、と大きく息を吐き出した由井は、一度窓の外に目をやり、呟いた。
 「…オレさ。大学の第一志望校―――落ちたんじゃなく、受けてないんだ」
 「……」
 突然の由井の告白に、蕾夏の思考がストップした。
 コーヒーカップの取っ手に手を添えたまま、フリーズする。パチパチと目を瞬く蕾夏の頭の中で、今聞いたセリフがぐるぐる回った。
 「―――…え????」
 「受けてないんだ、最初から。だから、辻がアメリカ行き決めちゃったショックで落ちた、って藤井が思い込んでるのは、間違い。受けてないんだから、受かる訳ないんだよ」
 「な…なんで? だって、第一志望、模擬でもAランクだったじゃない。十分合格できた筈なのに、なんで…」
 「…藤井が受けないの、知ってたから」
 ドキン、と心臓が跳ねた。
 窓の外から視線を戻した由井は、動揺に瞳を揺らし始める蕾夏を見て、少し後悔したような目をした。それでも、コーヒーを一口飲んだ由井は、再び口を開いた。
 「…いつも、辻に言われた。“蕾夏と私、どっちが大切?”―――不安そうな、縋るような目をして、何度も訊かれた。…辻だ、って言ってあげられたら、辻はアメリカには行かなかったかもしれない。でもオレ、いつも答えられなかったんだ」
 「……」
 「オレは、辻の中の正孝さんより上にはいけなかった。辻と付き合う中で、それは嫌って位実感してたから、だから…アメリカに行くって聞いた時、別れよう、ってオレの方から言ったんだ。そしたら辻、凄く悲しそうな顔して、言ったんだ―――“行くのが蕾夏だったら、引き止めた?”って。…引き止めただろうな、って思う自分に気がついて、目の前真っ暗になった」
 「ゆ…い、君」
 「一番好きな女の子は、辻だったよ、ずっと」
 目を上げた由井は、ふっと笑った。少し、寂しそうに。
 「でも、一番大切な女の子は、藤井だった。いつだって。…その意味に、その瞬間まで気づいてなかったんだ、オレ」

 頭が、グラグラした。
 どう考えればいいのか―――何を口にしたらいいのか、何一つ思い浮かばない。動揺が大きすぎて、思考がついていかない。
 出会ってから12年、由井との間に築いてきたものが、あまりにも強固すぎて…今更、頭の中で構築し直すなんて不可能に思える。昨日まで兄弟だと思ってた人から、実は他人なんだ、と告げられたのに匹敵するショックかもしれない。

 「大学入ってから暫く、じっくり考えたんだ。オレはどうしたいんだろう、って。正孝さんと藤井の関係が危険なら、自分が強引にでも引き剥がせばいいんじゃないか、なんて思った時期もあったよ。でも…結局、それだけはできない、と思った。だから、焦ってたんだ。誰でもいい、誰か藤井を正孝さんから奪ってやってくれ、って。でないと…それだけはできない、と思いながらも、自分で手を下しそうな気がして、怖かったから」
 「…どうして…それだけはできない、って思ったの…」
 「オレが親友のラインを越えたら、負けると思ったんだ」
 「…誰に」
 「―――佐野に」
 「……」
 「お前のソレは本当に友情か、男と女に友情なんて成り立たない―――そう言ったあいつのセリフを、オレが親友のラインを越えたら、実証することになると思ったんだ。藤井が必死に守ったものを、オレが壊すなんて、できない。絶対に。…藤井に一人暮らし勧めた時に、正直、オレもホッとしたんだ。ああ、これでやっと、オレは藤井の友達のポジションを貫くことができる、って」
 「―――…」
 「…泣くなよ…藤井…」
 途方に暮れたような由井の言葉で、初めて気づいた。
 いつの間にか、頬に、涙が伝っていたことに。
 「藤井が泣けるようになったの、オレ、嬉しいけど…泣かれると困るよ。泣かせたくて話したんじゃない。藤井が、本当に自分を託すことができる相手を見つけてくれたこと、オレがどれだけ嬉しく思ってるか、分かって欲しかったんだ」
 「…うん…でも…」
 「でも、じゃなくてさ」
 「……」
 分かる。由井が、瑞樹の存在を喜んでくれているのは。その表情から、声から、そうとはっきりと分かるから。
 でも―――涙は、止められない。
 痛くて、痛くて、痛くて―――今にも気が違いそうなほどに、胸が痛くて。気づいてからの4年間、それまでと変わりなく傍にいてくれた由井のことを思うと…その優しさと、すぐ隣にいて何も気づいてやれなかった自分に、どうしても止められない。
 「それに―――佐野に対する意地がなくても、さ。オレ、やっぱり藤井とは友達が一番いいと思ってたんだ。気づく前も、気づいてからも…勿論、今も。一度だって、オレが成田さんの立場になりたいと思ったこと、ないよ。それだけは信じて」
 指で涙をはらうと、少し視界が晴れた。クリアになった視界の中で、由井は、どこか困ったような笑みを浮かべて、蕾夏が泣き止むのを待っていた。
 「うん…ごめん。泣いたりして」
 まだ涙は止まらないけれど、なんとか口元にだけ笑みを作った。自分の気持ちを理解してもらえたと分かって、由井はやっと、少しほっとしたような顔になった。
 「社会人になってから、少しは恋もしたけど―――まだ、藤井にとっての成田さんみたいな人には、出会えてないんだ。もしこの先出会えたら…その人に話してもいい? あいつのことも、藤井のことも、辻のことも…さ」
 微笑む由井に、蕾夏は何度も、何度も、頷いた。由井にも、そんな相手が、早く現れて欲しい―――そのことを、これほど強く願ったのは、今日が初めてだ。

 “オレも藤井も、次の一歩を踏み出す時期なんだよな、きっと”。
 どういう意味?―――“内緒。…いつか、藤井が忘れた頃に教えてあげるよ”。

 一人暮らしを決意した時、由井が呟いた言葉の意味が、やっと、分かった。分かったから、余計―――由井との間にあった12年という月日の重さに、胸が痛んだ。

***

 物思いに耽っている頭に、車内アナウンスが割り込んできた。
 降りる駅だと気づいた蕾夏は、慌ててバッグを肩に掛け直し、電車を降りた。
 人の波に乗ってゾロゾロと改札へと流されていきながら、つい、ため息が出てしまう。頭が、重い―――小清水さゆみの作品に没頭するなんて、到底無理な状態だ。

 あれから、泣き止むまで、ひたすら由井に宥められた。
 その後、少し互いの近況報告などをして、駅で別れて―――その場ですぐに、瑞樹に電話をかけてしまった。
 無性に会いたくて、仕方ない。明日になれば、インタビュー現場で会えるのだと分かっているけれど…一刻も早く会わないと、どうにかなってしまいそうな気がして、気が急いた。なのに…3度かけた電話は、無情にも留守番電話サービスに繋がってしまった。
 ―――タイミング悪いなぁ、もう…。
 撮影現場から戻っている途中なのか、それとも事務所に移動している最中なのか。今日は諦めて帰って仕事をしろ、という神様からのお達しなのかもしれない、と思った蕾夏は、仕方なく帰宅の途に着いたのだ。

 でも、やっぱり、気持ちは、晴れなくて。
 ―――もう一度、電話してみようかな。
 改札を抜けながらそう思った蕾夏は、人ごみを避けて壁際に寄りながら、バッグから携帯電話を取り出した。
 すると、携帯の小窓に「着信アリ」と表示されているのに気づいた。どうやら、電車の中で鳴っていたのに、全然気づかなかったらしい。慌てて携帯を開き、着信履歴を確認すると―――瑞樹の名前が、3回連続で表示されていた。
 「……」
 まるで、鏡みたいだ。思わず苦笑してしまう。蕾夏からの着信履歴を見て、向こうも慌ててかけてきたのだろう。手にしていた傘を腕にかけると、蕾夏は迷うことなく、瑞樹に電話をかけた。
 コール2回ほどで、電話は繋がった。

 『―――はい』
 「…瑞樹―――…?」

 受話器から聞こえる瑞樹の声を耳にした時―――何故か一瞬、涙が出そうになった。


***


 ―――…眩しい…。
 眠りの淵に陥っていた蕾夏は、ふいに、瞼を刺す青白い光を感じて、目を開けた。
 「……」
 いつの間にか、雨が止んだらしい。窓から射し込む月明かりを嫌うように、寝返りをうとうとする。が、体に巻きついた腕に動きを制限されてしまって、できなかった。
 僅かに身を捩って、瑞樹の肩の辺りをトントン、とつついた。すると、重く閉ざされていた瞼が、それに反応してピクリと動いた。
 「…瑞樹…眩し…」
 「―――ん…」
 眠そうに目を開けた瑞樹も、月明かりの眩しさに眉を寄せた。
 蕾夏の体に回していた腕を解き、半身を起こした瑞樹は、僅かに隙間の開いていたカーテンを閉めた。途端―――鋭い光が遮られ、部屋はまた薄闇に包まれた。
 「何時…?」
 蕾夏の問いに、窓際にある時計に目を凝らすと、時計の針は午前零時を回っていた。
 「…日付変わったとこ」
 「まだ、そんな時間だったんだ」
 「いつ、雨上がったんだろ…」
 呟きながら再びベッドに倒れこんだ瑞樹は、ぼんやり天井を見上げた。けれど、雨がいつ止んだかなんて、全然記憶にない。覚えているのは、この部屋に入った時には、結構強い雨が窓ガラスを叩いていた、という事だけだ。
 「いつだろうねー…」
 枕に半分顔を埋めてしまっている蕾夏も、当然、覚えていない。眠りついた記憶もないのに、外界のことなど、覚えている筈もない。
 暫しぼんやりと、眠りつく前に思いを馳せる―――でも、何かに急かされたみたいに抱き合った記憶以外、何も思い出せない。…どのみち、それ以外、重要なことなんて何もない。外の天気も、明日の予定も、今はなんだか、どうでもいい。

 「―――今、気づいた」
 額にかかった前髪を無造作に掻き上げながら言う瑞樹に、蕾夏は少し、頭を浮かせた。
 「何…?」
 「このベッド、俺のより、ひと回り小さい」
 「そりゃあ、私のだもん」
 そう言ってくすっと笑う蕾夏の髪が、蕾夏の肩や腕を隠している。手を伸ばした瑞樹は、邪魔な髪を指ではらった。
 「狭くて、窮屈?」
 「…狭くて、快適」
 「あは…、そんなの、聞いたことないよ」
 「じゃ、お前は?」
 「んー…。狭くて、快適」
 狭いと、それだけ、お互いが近くなるから。
 「…やっぱ寒そうに見えるな」
 むき出しになった肩を、軽く撫でられる。
 「見えるんじゃなくて、寒いよ」
 「ずっと?」
 「ううん。今だけ―――瑞樹と、離れちゃったから」
 離れてる。10センチほど。
 髪をはらった瑞樹の手に、そのままその肩を抱き寄せられる。隙間が埋まり、何も身につけていない背中に手のひらの温度が直に押し付けられた。あったかい―――重なる体温に、蕾夏は安堵したように目を閉じた。
 「…あ、しまった」
 「え?」
 「肩に」
 肩とも腕ともつかない辺りを、指が辿る。記憶の片隅に、同じ位置に覚えた微かな痛みがあった。
 「…ノースリーブ着ないから、いい」
 「―――お前、今日、変」
 「うん…、変、かも」
 髪に感じていた吐息が、首筋に流れる。くすぐったくて体を捩ったら、その少し後、胸元に小さな痛みが走った。一瞬、文句を言おうかと思ったけれど―――やめた。ノースリーブを着てもなお見えない場所だから。
 「瑞樹…、眠らないの」
 「…目、覚ましたから、もったいない」
 「…瑞樹も変だよ、今日」
 「―――かもな」


 何があったの、とか、何があったんだ、とか。
 実は今日、とか、実は昔、とか。
 聞きたいこと、言いたいこと、それだけで一晩潰れてしまうほどにお互い沢山あるのだけれど―――それより今は、抱き合うことの方が重要。…そんな自分達を、人は笑うだろうか。
 罪悪感も、後悔も、今の自分を構成する重要なパーツだ。
 そんな自分を抱きしめてもらうことで、背負った罪に、少しだけ耐えられる気がする。痛いけれど、やりきれないけれど、その罪も丸ごと抱きしめてもらえるなら…きっと、傷つけることも、こうして生まれ変わるためには必要だったプロセスなのだと、自分に言い聞かせることができる。甘すぎるのかもしれないけれど…今は、そうすることしか考えられない。

 ―――ほら見ろ、男と女の間には友情なんて成り立たないんだよ、ってバカにするかな。佐野君は。
 辛うじて残っている思考の片隅で、蕾夏はふと、そんなことを思った。
 由井は、自分にも蕾夏にも嘘をつくことで、蕾夏が守ろうとしていた友情を、最後まで守った。じゃあ、瑞樹と自分は? …それを考えた時、一瞬、佐野が嘲笑う声が聞こえた気がした。

 …でも、違う。
 違うよ、佐野君。
 恋人であると同時に、一番の親友でもある―――そんな関係だって、存在する。
 たとえ遠い未来、こうして体温を分かち合うことも、キスをすることもなくなったとしても―――友情は、残る。きっと、死ぬまで。そう信じることができる人だから、この手を握ることができたんだ。
 …そうだよね―――…瑞樹。


 「…私…どこにも、行かないよ…」
 無意識のうちに、呟いていた。
 「恋人、だけど、親友、だから―――たとえ未来に何が起きても、瑞樹の傍、離れない。…だから、瑞樹―――そんな、不安そうな顔、しないで…」

 その言葉に、今日初めて、安堵したように微笑する瑞樹を見て。
 やっぱり佐野は間違っている―――そう確認できた気がして、蕾夏もほっとしたような笑みを見せた。


***


 「…お疲れ様でした」
 「―――お疲れ」
 小清水さゆみ邸を退出した瑞樹と蕾夏は、路上で互いの健闘を称えあって、手をハイタッチの要領でパン、と合わせた。ただし、その勢いは、あまりにも弱かった。
 どちらの顔も、かなり疲労している。
 別に、昨晩のことが原因でもなければ、今朝盛大に寝坊して打ち合わせに遅刻するのではと焦ったせいでもない。ついでに言うなら、昨日それぞれにあった苦い再会も原因ではない。疲労の原因は、今の小清水さゆみのインタビューだ。


 『何故人は恋愛小説を好んで読むのか、って? そんなの決まってるじゃないの。現実の恋愛が、ドラマみたいには面白くもなんともないからよ。山もなければ谷もない、関東平野みたいに真っ平らで、平々凡々。それが現実の恋愛よ。現実の恋愛じゃね、人類の恋愛欲求は満たされないようにできてるの。それを満たすのが、恋愛小説よ。分かる?』

 まあ、人間も結局は、動物の一種だから。
 心と心の繋がりとかコミュニケーションとか色々言うけど、最終的には体の相性で決まるのよ。シンプル・イズ・ザ・ベスト。寝てみて、相性良ければ、その相手選ぶのが正解よ。
 運命の赤い糸だの恋愛の障壁だのと言ってる人もいるけど、あれは幻想。事態を複雑に考えることで、平凡な恋愛を無理矢理盛り上げてるのよ。そういうスパイスがないと持たない位、現実の恋愛は、退屈なものなの。
 だからこそ、運命の赤い糸に結ばれた2人が命果てるまで試練を乗り越えながら悲恋を貫き通すような恋愛小説が、バカウケするんでしょうけど。
 でも、フィクションだからいいのよね、それは。現実にそんなのがいたら、究極の勘違いカップルよ。


 「…なんか、ばっさりと袈裟懸けに斬られたような気がしたのは、私の気のせいかなぁ…」
 「―――気のせいだろ」
 自分達だけじゃなく、久保田や佳那子も含め、4人まとめてばっさり、な気がするのだが。
 いや、そんなことは、どうでもいい。
 問題は、そんなことじゃあないのだ。

 問題は、恋に恋する乙女からも、現在恋愛中の女性からも、等しく非難を浴びそうな“恋愛のカリスマ”の恋愛談義。これをどうやって、読者の共感を呼ぶような記事に無理矢理仕立て上げるか、ということ―――嘘八百並べ立てない限り、永久に不可能なミッションのような気がする。
 そしてもう1つは、被写体からのヒステリックな撮影位置指示のせいで、左斜め45度からのブレストショット以外存在しない写真の中から、紙面に盛り込む3枚をどうやって選び出すか、ということ―――同じショットばかり3枚並ぶ図を考えると、頭痛がしてくる。
 「…どうしようね」
 疲れ果てた顔でチラリと瑞樹を見上げる蕾夏に、瑞樹は、考えることを放棄した顔で、
 「…知らねぇ」
 と答えた。

 同時にため息をついた2人は、明日の日曜日は、どうやら心穏やかな休日とはいかなそうだな―――と覚悟したのだった。


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