←BACKStep Beat COMPLEX TOPNEXT→






― DNA ―

 

 海が見えるね、という蕾夏の声に、瑞樹は振り返った。
 眼下に広がるビル群の向こう側―――確かに、海が見えた。と言っても、六甲山の頂上よりずっと低い位置なので、よく見える訳ではないけれど。
 「瑞樹って、港のある街が好きだって言ってたでしょ」
 「港のある街で生まれ育ってるからな」
 「倖さんも、港が好きだったのかな」
 ―――だって、この場所、自分で選んだんでしょう?
 「どうなんだろうな」
 …俺は、知らないから。あの女のことは、何一つ。

 考えてみたこともなかった。
 母の嗜好、母の経歴、母の家族―――人間としての、八代 倖のこと。
 他人より知らない人間みたいなその人の墓の前で、瑞樹の胸には、どんな感慨も浮かんではこなかった。


 8月に入って最初の土曜日。瑞樹は蕾夏を伴い、神戸を訪れていた。
 目的は2つ。1つは、死去から2ヶ月以上経つのにいまだ果たされていなかった、母の墓参りをすること。そしてもう1つは、12年ぶりに妹と再会し、自分が名づけた彼女の息子を見ることだ。
 母の墓は、神戸市近郊の高台にあった。
 なんでも生前、母本人が「私のお墓はここにして欲しい」と再婚相手の窪塚に言ったのだそうだ。勿論、窪塚としては、離婚したとはいえついこの前まで自分の妻だった女だから、九州にある窪塚家の墓に入れたかっただろう。なのに母は、離婚する際、財産分与の一切を断ってここに墓を作ることを頼んだというのだから、ちょっと驚きだ。
 八代家乃墓(やつしろけのはか)、と刻まれた墓石の裏には、母の名前だけが入っている。その前に丁寧に花を供えている蕾夏を見遣り、周囲を掃いて回っていた瑞樹は、なんとも複雑な心境になった。
 「“八代”、か…」
 無意識のうちに呟いた言葉に、蕾夏が振り返った。
 「え?」
 「あ…いや」
 蕾夏が振り向いて初めて、実際に口にしていたことに気づいた瑞樹は、きまりが悪そうに目を逸らした。
 「…俺、母親の旧姓、離婚して初めて知ったんだよな、と思って」
 「え、そうなの? 親戚とかは?」
 「母方は、見た覚えがない」
 「…そうなんだ」
 どこか虚ろな声で相槌を打つ蕾夏は、何かを迷ってるように、僅かに瞳を揺らした。倖の話になると、蕾夏はよくこういう目をする。どうすればいいんだろう―――そう、自分の良心に問いかけているみたいな目を。
 「―――八代って姓は、多分、倖さんの母方の姓だよ」
 まだ少し迷いを残しながらも、蕾夏はポツリと呟くようにそう告げ、まだ手元にあった花をこれまでとは反対側に供えた。
 「母方の?」
 「うん。…倖さんのご両親、離婚したんだって。倖さんが中2の時。お母さんの方に引き取られたって言ってたから…多分、八代っていうのは、お母さん側の姓だと思う」
 初耳だった。父からも聞かされた覚えがない。もっとも、瑞樹は母の素性など父に訊ねたこともないし、そうしたことを知りたがっていないことを父だって百も承知だから、特に何も言わなかったのだろうが。
 「お母さんも離婚後間もなく亡くなった、っていうし、兄弟の話はひとつも出てきてなかったから、倖さんの親戚は本当に誰もいないのかもしれない」
 「…そうか」
 天涯孤独の身であれば、母の親族に関する記憶が皆無なのも、当然かもしれない。それにしたって、他界したという母親の墓が、どこかにある筈だ。何故母は、この場所に、自分だけのための墓を作ったのだろう―――窪塚とも、父とも、母親とも決別して。

 「よし…と、できたっ。瑞樹、お参りしよっ」
 話を切り上げるように、蕾夏はこれまでより大きな声でそう言うと、すっと立ち上がった。瑞樹も、手にしていた竹箒を置いて、蕾夏の横に並んだ。
 母の墓には、何故か菊ではなくフリージアが供えられている。母が好きな花なのだと蕾夏は言うが、そんな話も初耳だ。
 線香を供えるのも、墓石を水で洗い流すのも、瑞樹が考え事をしながら適当に掃き掃除をしている間に、全部蕾夏がやってしまった。蕾夏は何も言わなかったが、もしかしたら最初から、瑞樹には何もさせないつもりだったのかもしれない。瑞樹の心境を、よく分かっているから。
 「…やっぱ、何も感じねーなぁ…」
 真新しい墓石を眺め、ため息をつく。
 「死んだ、って連絡もらった時は、それなりに変な虚無感みたいなのがあったけど―――こうやって墓石になっちまうと、余計なんにも感じない」
 「でも、ほんの少し胸が痛かったのも、まだお墓参りにも行ってないな、ってちょっと罪悪感感じてたのも、事実なんでしょ?」
 「まあ、な」
 「じゃあ、それでいいじゃない」
 酷くあっさりした口調で、蕾夏はそう言った。
 「瑞樹が感じた虚無感も罪悪感も、瑞樹の“心”じゃなく、瑞樹の“遺伝子”が感じた悲しみかもしれないよ。だって、倖さんは、瑞樹のルーツなんだもん―――心とか頭とか、そういうレベルじゃないところで悲しみを感じても、おかしくないと思う」
 「…分かり難いな」
 「うん。自分でもそう思う。だから言われちゃうんだよね、観念的すぎる、って」
 くすっと笑った蕾夏は、視線を瑞樹の横顔から“八代家乃墓”と刻まれた文字に移した。
 「だから、“普通”に悲しまなくてもいいよ。ちょっとだけ胸が痛いんなら―――それを癒すために手を合わせれば、それでいいんだと思う。倖さんのためとか、子供としての義務とかじゃなく…自分を納得させるために」
 「―――…」

 この女の死について、瑞樹には何の感慨もない。死んだの、ああそう、というレベルの感情しか持てない。
 でも―――ここに眠っている人は、瑞樹に遺伝子を分け与えた人間。もうこの世にはいないけど、この人の一部は、まだ瑞樹の中で生き続けている―――瑞樹が好むと好まざるとに関わらず。
 疼いているのは、その遺伝子だろうか。
 心とは別の次元で、“お前のルーツの片方が死んだんだぞ”と訴えかけて、あの小さな小さな痛みを起こしていたんだろうか。

 完全に納得した訳ではないけれど、瑞樹は、蕾夏が手を合わせるのにつられたように、亡き母の墓前で手を合わせた。
 不思議なことに―――手を合わせて目を閉じた瞬間、八代 倖という1人の人間の死を、これまでで一番実感した。
 ああ、これが自分を納得させるってことなんだな―――曖昧な中にもそう思い、瑞樹は、ロンドンで訃報を聞いてからこれまでずっと刺さっていた小さな棘が消えていくのを感じた。

***

 「おーい、こっちだ」
 ホテルのロビーでうろうろしていたら、隣接するラウンジの方から声がした。
 見ると、背広姿の父が、窓際の席で半ば立ち上がりながら手を振っていた。まだ他の方向を見てキョロキョロしている蕾夏の肩を叩くと、瑞樹は父の方へと向かった。
 「こんにちは、一樹(いつき)さん。5月の時は、お世話になりました」
 少し遅れて瑞樹の後ろからついてきた蕾夏が、父の前でペコリと頭を下げた。父も、にこやかな笑顔で軽く頭を下げた。
 「あの時は悪かったね。飲めないとは知らなかったから、あんな店に連れてっちゃって」
 「いえ。ショットバーってほとんど行った事なかったから、面白かったです」
 “一樹さん”という呼び方は、帰国後神戸で会った際に決まったものだ。最初は“成田さん”と呼んでいたのだが、なんだか自分が呼ばれているみたいで妙な感じがする、と瑞樹が言ったせいで、そんな呼び方になってしまった。よく考えると、父のことを蕾夏が名前で呼んでる図というのも妙な感じなのだが―――…。

 ここに来た目的は、勿論、海晴と12年ぶりの再会を果たすためだ。再会の場に父が立ち会うことになったのは、海晴がそう望んだからだと言う。そろそろ待ち合わせの時間だが、まだ肝心の海晴の姿は見えない。
 「あいつ、どうしたの」
 少し眉をひそめて瑞樹が訊ねると、父は曖昧な苦笑いを浮かべた。
 「まだ上の部屋にいる。晃が目が覚めたばかりで、むずかって大変だったんだ。あやして落ち着いてきたら、また下りて来ると言ってた」
 「ふーん…。親父、時間大丈夫かよ」
 「あと15分程度はな。それを過ぎたら、海晴が文句を言おうが、俺は会社に戻るぞ」
 そう、父は本日、土曜出勤なのだ。昔から使える人材は使い倒す会社だったので、この年齢でも相変わらず忙しいようだ。
 「親父に立ち会ってもらわなくても、お互い、顔位分かるのに」
 「海晴も、嬉しいのと同時に、不安なんだよ。15歳のお前で記憶が止まってるんだからな。…間を繋ぐ人間として、俺に立ち会って欲しかったんだろう」
 少し眉をひそめる瑞樹に、父は、気にするな、という風に軽く瑞樹の背中を叩いてそう言った。


 「で…、行ってきたのか。墓参りは」
 一通りの挨拶が終わり、瑞樹と蕾夏もコーヒーを注文し終えたところで、父が瑞樹に少し気遣わしげに訊ねてきた。
 「ああ。行ってきた。いい場所だよな、海が見えて」
 「だろう? 俺も知らなかったよ、あんな場所に墓地があるなんて。倖も多分、あそこから神戸港が見えるのが気に入ってたんだろうな。港を歩くのが好きな奴だったから」
 懐かしそうな父のセリフに、瑞樹と蕾夏は、少し息を呑んだ。
 「…港好きだったとは知らなかったな」
 「何故か、ね。神戸に転勤した時も、あれだけ嫌がってた割には、神戸港を1度散歩したら結構喜んでたぞ」
 「もしかして倖さんも、港のある街の生まれだったんですか?」
 蕾夏が訊ねると、父はちょっと目を丸くし、それから眉間に皺を寄せて、うーん、という感じに首を傾げた。
 「どうかな…。倖は、俺と知り合った段階で横浜に住んでたし。横浜で生まれ育ったのかもしれないけど、その辺はよく分からないな。結婚する時も謄本とか見せてもらってないし」
 「一樹さんも知らないんですか…」
 「知られたくなさそうだったからね」
 だからあえて訊かなかったんだ、と答え、父は少しだけ寂しそうに笑った。
 「まあ、俺も転勤の可能性はもうないし。神戸の土地柄も好きだから、倖が傍に来てくれてよかったよ。窪塚さんは、年内一杯で九州に引き上げようかと迷ってるらしいけどね」
 「は? 死ぬの分かってて神戸に移り住んだんだろ? あの人。根性ねーなぁ…」
 「看護をしてる間は気も張ってたんだろうけど、葬儀が終わってからはめっきり老け込んだらしい。…あ、来たな」
 父の視線が、瑞樹と蕾夏の背後に流れた。
 その視線を追うように振り返った瑞樹は―――その瞬間、心臓が、ドクン、といって止まるのを感じた。

 覚悟はしていたし、結婚した時貰ったハガキで確認してもいた。
 しかし―――実物は、想像以上にショッキングだった。
 海晴は、栗色の髪に緩くパーマをあて、後ろでひとつに束ねていた。淡いグリーン系のワンピースに、白のミュール。身長は、最後に見た時からほとんど成長していない。蕾夏より若干高いか、ほぼ同じ位だろう。
 ベビーカーを押しながら近づいてくるその姿は―――恐ろしいほどに、母と瓜二つ、いや、母そのものだった。
 顔は勿論、服装の趣味から髪型から、何もかも…。

 ―――間違うな。あれは、あの女じゃない。海晴だ。
 椅子の背もたれに添えた手を、ぎゅっと握り締める。そうしないと、衝撃に耐えられない。
 あれは、海晴だ。成長した海晴なんだ―――動くこともできず、何度も何度も心の中でそう繰り返していると、握り締めた瑞樹の拳を、何かがふわりと包み込んだ。
 「……」
 はっとして、視線を移す。
 隣に座る蕾夏が、瑞樹の拳の上に手をそっと置いていたのだ。瑞樹と目が合うと、蕾夏は淡く微笑んだ。
 「別れた頃の面影、ある?」
 ―――別れた頃の…?
 もう一度、海晴に目を向けた。
 既に瑞樹たちに気づいたらしく、海晴は、ラウンジの入り口付近で立ち止まっていた。大きな目が更に大きく見開かれ、ローズに彩られた唇が僅かに震えている。泣き出しそうに寄せられた眉―――その表情は、瑞樹もよく知る、海晴が驚きのあまり泣きそうになっている時の表情だった。
 「ああ―――表情が、子供の時のままだ」
 そう口にしたら、口元が僅かに綻び、強張っていた体からすっと力が抜けていった。それに気づいたのだろう。蕾夏はにこっと笑うと、瑞樹の手をぽん、と叩いて先に立ち上がった。

 席まであと数メートル、という所で立ち尽くす海晴に業を煮やし、3人は海晴のもとに歩み寄った。
 海晴は、ますます瞳を揺らし、あと少しで泣き出してしまいそうな顔になっている。いざ、こうして対峙してみると、こんな海晴になんと声をかければいいのか分からない。瑞樹は、少し困った顔で海晴を見下ろす以外なかった。
 「…お兄ちゃん…」
 声が、震えている。容姿はすっかり成長してしまった海晴だが、声だけは―――母より若干高いその声だけは、14歳の時と全く変わっていなかった。
 「―――馬鹿、泣くな」
 軽く頭を小突いてやると、海晴は、泣き笑いのような顔をして小突かれた頭を押さえた。昔なら絶対、そのまま大泣きしていただろうに…やっぱり12年分、大人になっている。
 「来てくれて、ホントに嬉しい。凄く―――凄く凄く、会いたかったから、ずっと」
 「ごめんな。結婚式にも出てやれなくて」
 「ううん。分かってたから」
 無理だって、分かってたから。
 その理由は分からなくても―――お母さんがいる限りは、無理だって。
 口には出さない海晴のそんな言葉が、その大きな目から伝わる。瑞樹は、もう一度「ごめんな」と呟き、海晴の頭にぽん、と手を乗せた。
 「―――あ、もしかして、その人…」
 少し落ち着きを取り戻したのか、やっと笑顔を見せた海晴の目が、瑞樹の背後に佇む蕾夏に移った。勿論、海晴と蕾夏は初顔合わせだ。瑞樹は、急に注目されて少しキョトンとした顔になっている蕾夏を、軽く引き寄せた。
 「こいつが、蕾夏。親父から話は聞いてるだろ?」
 「…っと、はじめまして。藤井蕾夏です」
 慌てたように、蕾夏が頭を下げる。つられて、海晴も慌しく頭を下げた。
 「窪塚海晴です。おにい…あ、兄が、お世話になってます」
 「ごめんね、兄妹の感動の再会に、勝手にお邪魔しちゃって」
 「いえ、私も会ってみたかったんです。あの、それで…」
 「おい、海晴」
 何事かを蕾夏に話そうとした海晴を遮るように、視界の外で見守っていた父が、少し急いたような声をかけてきた。どうやら、タイムリミットが迫っているらしい。
 「悪いが、もう戻らないとまずいんだ。また夜にでも連絡するよ」
 「あ、うん。ごめんね、お父さん。忙しいのに無理言って」
 「気にするな。じゃあ、蕾夏さんと瑞樹も、またの機会に」
 そう言って軽く挙げられた父の手に、ラウンジの伝票がしっかり握られているのを見て、蕾夏が慌てた。
 「あ…っ! は、払いますっ!」
 「遠慮しなくていいよ、コーヒー代位」
 「そんなっ。私、ここは自分が奢るつもりでいたんです。部外者なのに顔だしちゃったから…貸して下さいっ」
 「ハハ…、年下の女性から、しかも息子の彼女から奢られる訳にはいかないよ」
 「でも払いますっ!」
 ヒラリ、と伝票を蕾夏では絶対届かない高さに掲げてレジに向かってしまう父を追いかけて、蕾夏はひたすら食い下がる。そんな蕾夏を見下ろす父は、酷く楽しげだった。
 「ほんと、面白いなぁ」
 レジ前でチラリとこちらを振り返った父は、意味深な笑みを浮かべて、そんなことを口にした。勿論、父は意図的に“面白い”という単語を使っているのだろう。瑞樹が蕾夏に対して使うその言葉の意味を、重々承知していながら。
 ―――…面白くねぇ…。
 瑞樹の眉がムッとしたように僅かに上がる。途端―――海晴が、我慢できなくなったように吹き出した。
 「…なんだよ」
 「う、ううん。ごめん。でも、お兄ちゃんのそんな顔、もしかしたら生まれて初めて見たかも」
 肩を震わせて笑う海晴は、うっすら涙すら浮かべている。
 「中学時代のお兄ちゃんのファンに、今の顔見せてあげたいなぁ。“親友とイギリスに行く”なんて言うから、すっかり男の人だと思い込んでた私ってバカみたい。お父さんから真相聞いて、貧血起こしそうになったんだから」
 「…うるさいぞ、お前」
 コツン、とまた頭を軽く小突くと、からかうような海晴の笑みが、どこか感慨深げな微笑に変わった。
 「―――“フォト・ファインダー”の写真、見たの。あの時、凄く納得した。ああ、お兄ちゃんが惹かれるのも無理ないな、って。美人とか可愛いとかそういうレベルじゃなく―――なんていうか、私も、凄く、惹かれたから」
 「…そっか」
 「良かったね。守る人が出来て」
 瑞樹は、海晴のその言葉に、苦い笑いを浮かべた。
 「―――今は、逆だけどな」
 今はむしろ、自分が蕾夏に守られている気がする。
 蕾夏がいなければ、こうして海晴と向き合うことすらできない。守られているのは、自分の方だ―――こんな日は特にそう強く感じて、瑞樹の胸は少しだけ痛んだ。

***

 結局、父が喫茶代全てを支払って会社に戻ってしまい、残された3人は改めて席についた。
 「ほーら、(ひかる)君。分かるかなー。晃君の伯父さんですよー」
 「おじさん…」
 ベビーカーの中の晃を抱き上げながら海晴が口にした単語に、瑞樹は複雑な表情になった。
 「…なんか、急に老け込んだ気分になるよな、その響き」
 「良かった。私、兄弟いないから、絶対“おばさん”て呼ばれることないもん」
 ふふっ、と得意げに笑って蕾夏がそう言うと、よいしょ、と晃を抱いた海晴が、意味深な笑みを浮かべた。
 「兄弟がいなくても、将来甥っ子ができる可能性はあるんじゃないかなぁ」
 「はい?」
 「ねー、晃君」
 「バカ」
 テーブルの下で、瑞樹の足が海晴のミュールの先を蹴った。どうやら、12年の歳月の間に、内気で兄に頼りっぱなしだった海晴も、なかなか食えない性格の母親に成長してしまったらしい。
 「はい。初お披露目です。窪塚 晃でーす」
 蹴られた足などものともせず、海晴は晃を瑞樹と蕾夏の方に向けるように抱き、その小さな手を掴んで、小さく手を振らせた。
 生後2ヶ月ちょっとの晃は、まだ首がしっかり据わっていないが、目はかなりしっかりしてきているようだ。見覚えのない2人を前に、キョトリとした顔をしている。
 「どお? お兄ちゃん。ハンサムでしょ」
 「…大福餅」
 感じたままを口にしたら、海晴に足を蹴り返された。と言っても、ミュールのつま先がスニーカーに当たった程度だが。
 「お兄ちゃん酷いっ。乳幼児なんて、みんなこんな顔なんだから。看護婦さんもご近所のママたちも、将来ハンサムになるねって凄く褒めてくれるんだからね」
 確かに、生後2ヶ月の割には目鼻立ちもしっかりしていて、テレビCMにでも出てきそうな感じではある。が、瑞樹の目で見ると、ふくふくした頬をした晃はどう見ても大福餅だ。
 「ね、蕾夏さん、どう? ハンサムだと思わない?」
 無情な兄は無視することにしたらしく、海晴は今度は蕾夏に目を向けた。
 それまで、じっと晃の顔を見つめていた蕾夏は、海晴に期待に満ちた目を向けられて、ちょっとたじろいだ。が、ほんの少しの間躊躇った後、ぽつりと呟いた。
 「―――瑞樹に、ちょっと、似てる」
 「は? 俺に?」
 「うん。目の感じが、似てる」
 「ほんとに?」
 海晴にとっても、意外な指摘だったらしい。晃を抱き直して、その顔と瑞樹の顔を何度も見比べる。
 「…あー…、ほんとだ。あのね、口元と鼻は彼に似てて、全体の顔立ちは私に似てる、ってみんなに言われるの。でも―――うん、確かに、こうやって見比べると、目はお兄ちゃんに似てる」
 「…俺、そんなでかい目、してないぞ」
 「大きさはね。でも、なんていうか…ムードが似てる、目の。お兄ちゃんの目って、お父さんともまた違った感じで、独特だものね。やだ、言われるまで気づかなかったぁ」
 「ご主人の目が瑞樹に似てるとか?」
 「ううん、全然。ふーん…不思議。私とお兄ちゃんって絶望的に似てないけど、やっぱり兄妹なのね…晃君の目が、お兄ちゃんに似るなんて。遺伝って不思議ね」
 大福餅と言われたことも忘れたみたいに、海晴は嬉しそうな顔で、晃の頬を指先でつついてそう言った。
 記憶の中の母と同じ顔、同じ姿をした海晴が、自分を彷彿させる目を持っているという赤ん坊を、あやしている。
 当たり前の光景―――でも、あり得ない光景。なんだか、騙し絵を見ているような錯覚を覚えて、瑞樹は居心地悪そうに目を逸らした。

 母に対して、家族という感覚を持った経験が、瑞樹にはない。父や海晴に対して漠然と感じていた血の繋がりも、母に対してだけは感じたことがなかった。もしかして自分は母の子供ではないのではないか…そんな疑いを持った時期も、幼い頃にはあったほどに。
 でも、目の前の光景に、瑞樹は実感せざるを得ない。母とは共通項がないように見える自分の中にも、母のDNAは、確かに受け継がれている―――そして、それと同じものが、海晴を通して晃にも受け継がれたのだ、ということを。
 初めて実感したその事実は、予測したほどの嫌悪感もない代わりに、ドラマにありがちな感慨もなかった。どうも自分は、母に関係する部分の感情が再生不能なまでに壊れているらしい―――今更、再生したいとも思わないが。

 「あら。晃君たら、蕾夏さんを気に入ったの?」
 海晴の声に、どこかに浮遊しかけた意識が引き戻された。
 見ると、海晴に抱かれた晃の目は、蕾夏の方をじっと見ている。何に反応しているのか、手も蕾夏の方に伸ばして、もどかしそうに動かしている。
 「蕾夏さん、抱っこしてみる?」
 「えっ!」
 海晴がサラリと口にした言葉に、蕾夏はギョッとしたように目を見開き、ぶんぶん首を振った。
 「だ、だって…まだ首据わってないんでしょう!? 私、赤ちゃん抱っこしたこと、1度もないんだけど…」
 「大丈夫、はい、腕出してー」
 ―――おいおいおい、本当に大丈夫か?
 席を立ち、海晴が差し出すに任せて恐る恐る晃を受け取ろうとする蕾夏を見ながら、瑞樹は内心、ハラハラした。赤ん坊は、思いのほか重たいのだ。慣れない者がいきなり抱き上げると、赤ん坊に負担のかかる抱き方になってしまったりするかもしれない。
 けれど、心配は杞憂に終わった。こわごわではあるが、蕾夏は海晴の指示に従って、ちゃんと晃を抱きかかえることができた。肩にも背中にも力が入りまくりで、かなりぎこちなくはあるが。
 「う…っわー…、結構重いんだ」
 「大人と違って、子供は全体重預けちゃうから。…うん、やっぱり蕾夏さんのこと気に入ってるみたい。この子、人見知りが激しいのに、凄く機嫌がいいもの」
 海晴がそう言った時、海晴の席に置いてあった携帯電話が鳴った。電話かと思ったが、どうやらメールの着信音のようだ。
 蕾夏に晃を預けたまま、海晴は慌てて携帯を取り上げ、メールを確認した。そして、その内容を一瞥した途端、ちょっと難しい顔をした。
 「どうした?」
 「あ、ごめんなさい。彼からのメールだったの。うちの会社の方の経理、私が一手に引き受けてるんだけど、なんだかトラブルになってるみたいで―――ごめんね。私、ちょっと電話してくるから、晃君のこと、少し預かっててくれる?」
 「えっ」
 言うが早いか、海晴は携帯片手に、ラウンジの外へと駆け出してしまった。よほど急ぎの用事だったのだろう。あの運動の苦手なのんびり屋の海晴が、結構な勢いで遠ざかっていく。
 「う、嘘…っ。困るよ、このままなんて。大丈夫なの? この抱き方で」
 「まあ…大丈夫だろ。晃も機嫌良さそうにしてるし。とりあえず疲れるから座れよ」
 「うん」
 慌てふためきながらも、蕾夏はそろそろと腰を下ろした。ちょっとした振動で晃が泣き出すんじゃないかとヒヤヒヤしたが、蕾夏に抱かれた晃は、超ご機嫌状態だ。
 「人見知りが激しい、って…ほんとかよ」
 「ねぇ。すっごく人懐っこいと思うんだけど…」
 「あっ、こいつ、何胸なんか触ってんだ。やめろ」
 「海晴さんと間違えてるんじゃない? 赤ちゃんなんだから仕方ないじゃない」
 「ガキでも、男は男だろ」
 「…乳幼児にそういうこと言うの、やめようよ」
 瑞樹を軽く睨んだ蕾夏だったが、
 「あれっ」
 ふと、瑞樹の肩越しにガラス窓の外に目をやり、小さな声を上げた。
 「? どうした?」
 「えっ。あ、うん、今、外に…」
 「外?」
 瑞樹も、蕾夏の視線を追って、ガラス窓の方を振り返る。
 窓の外は、4車線の広い道路と歩道になっていて、ひっきりなしに人や車が行き交っている。軽く左右に視線を走らせたが、特に瑞樹が気になるようなものは、何もなかった。
 「外が、どうした?」
 「あ、あれ…? 見間違いかなぁ? 今、確か…」
 言いかけた時。
 「アーーーー」
 蕾夏の腕の中の晃が、唐突に泣き声を上げた。
 ビックリして、2人の視線が窓の外から晃に移る。つい数秒前までご機嫌だった晃は、何故か、イヤイヤをするように手を小さく動かしながら、駄々を捏ねてるみたいに泣いていた。
 「ど、どうしたの!? 私、何かした!?」
 「…俺たちの注意が他に逸れたのが嫌だったんじゃねーの。わがままな奴…」
 「どうしようー。よしよしよし、泣かない泣かない」
 オロオロしながらも、蕾夏は晃を宥めようと晃の背中をトントンと叩いてみたりするが、慣れていない上に、さっきまで大人しかった晃がもぞもぞ動くせいで、上手く抱くことすら難しい。
 「ちょっと、貸してみろ」
 困り果てている姿が見ていられなくて、瑞樹は思わず、腕を差し出していた。
 おっかなびっくり、といった感じで、蕾夏が晃を手渡す。それを受け取った瑞樹は、
 「よ…っ、と」
 ひょい、と晃を抱き上げると、ぽんぽんと背中を叩いてみせた。すると―――晃が、ピタリと、泣き止んだ。
 「―――…」
 「なんだ。聞き分けのいい奴だな」
 泣き止んだ晃は、やっぱり蕾夏の方がいいのか、瑞樹に抱かれながらも、蕾夏の方ばっかり見ている。けれども、居心地が悪そうにはしていない。
 「…ていうか瑞樹、妙に手慣れてるね」
 「別に慣れてないぞ。まあ、イズミん時に、半ば無理矢理お守りさせられたりしたけどな」
 「えっ、そうなの?」
 「男手のない家だから、顔出すとやらされたんだよ」
 イズミ―――瑞樹の知人、朝倉 舞の息子だ。
 大学進学で上京するまでの4年あまり、瑞樹は時々、幼い親子を心配して舞とイズミのところを訪ねていた。その際、舞の腕力では絶対無理な“たかいたかい”なんて芸当までやらされた。2歳児のイズミに“たかいたかい”をして落っことしたことは、その後2年間に渡ってチクチクといびられる材料となったりもしたのだ。
 「ふーん、そうなんだ」
 「…なんだよ。なんか言いたそうだな」
 曖昧な言葉で相槌を打つ蕾夏に、瑞樹は眉をひそめた。が、蕾夏はそれに対して何も言わず、視線をちょっと落として首を振った。
 「…ううん、なんでもない」
 「ほんとかよ。お前、舞のことになると、ちょっとおかしくなるからな」
 蕾夏は、瑞樹の過去の女性関係をとやかく詮索するタイプではないのだが、どうも舞に関してだけは、妙な反応を示すことがある。舞は確かに瑞樹に好意を抱いていたらしいが、瑞樹の方はそんな感情ゼロだった、と何度も説明しているのに―――何故蕾夏が舞にこだわるのか、瑞樹にも今ひとつ理解できない。
 「別におかしくなる訳じゃないもん。それとも、私がおかしくなるような心当たりが、何かあるの?」
 「ある訳ないだろ、バカ。そういう、らしくねーこと訊くこと自体、おかしいって言うんだよ」
 「そんなことっ」
 少しむきになったように蕾夏が言いかけたその時、蕾夏の髪が、くいっと何かに引っ張られた。
 見れば、いつの間にか、晃が蕾夏の髪の端をちょっとだけ掴んでいた。単に、海晴とは全然違う髪質に興味があるのか、それとも自分の方を向いて欲しくてやってるのかは定かではないが、数本の髪をしっかりと掴み、くいくい引っ張っている。
 「ん? なぁに? どうかしたの、晃君」
 なんだか呼んでるみたいに感じるその仕草に、蕾夏は、瑞樹の腕の中にいる晃の顔を覗き込むように、顔を近づけた。
 そして、次の瞬間。

 ちゅ。

 そんな音がしそうな晃のキスが、よりによって蕾夏の唇にお見舞いされていた。

 「………………」
 その刹那―――その場の空気が、凍りついた。

 

 

 「ごめんねー、お待たせして。…あら?」
 やっと電話が終わって戻ってきた海晴は、困ったような笑顔で晃を抱っこしている蕾夏と、不貞腐れたようにそっぽを向いている瑞樹を見比べ、首を傾げた。
 「あの…どうかしたの?」
 「え? あー…、うん、なんでもないよ」
 「でも、お兄ちゃん、なんだか機嫌悪そうなんだけど」
 「あはは…、本当に、なんでもないの」
 ―――ただちょっと、失言をしちゃっただけで。

 『…やっぱり、瑞樹の甥っ子だね。女泣かせなDNA、なんとなく感じるもん』

 テーブルの下で、瑞樹が蕾夏の足を軽く蹴った。
 その勢いでぐらりと体が傾く蕾夏だったが、腕の中の晃は、ひたすらご機嫌で、蕾夏の髪の毛を弄って遊んでいるのだった。


←BACKStep Beat COMPLEX TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22