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― 12分の空白 ―

 

 その朝早く、久保田は1本の電話を受けた。

 『いいか、隼雄。お前は、絶対に、見るんじゃないぞ』
 「…見るに決まってるだろ」
 ネクタイを締めながら、知らず顔を顰める。
 「じっちゃんも肝に銘じておけよ。俺はリアルタイムで見てるからな。一言でも無茶な発言があったら、テレビ局に苦情の電話を入れてやる」
 『馬鹿者、生放送だぞ。お前が、電話する頃には、既にお茶の間に、流れた後、だ』
 電話の向こうの声は、妙に息が弾んでいる。そのリズムから、久保田の脳裏には、ルームランナーで走って体を鍛えている祖父の姿が浮かんだ。
 「もしかして今、ランニング中か?」
 『おお。いい勘しとるな。今夜の決戦に向けて、体力増強中だ』
 「…やめてくれよ。歳考えろって。脳の血管が切れてひっくりかえるじっちゃんなんて、テレビで見たくないぞ」
 『ふはははは、大丈夫大丈夫。今日命を落とすもんがいるとすれば、それは佐々木昭夫の方じゃ』
 「公共の電波を使って命かけた決闘なんかするなっ!」
 そんな馬鹿な、と思うかもしれないが、こうして釘を刺さないと、本当に何をやらかすか分からないのだ。この老人は。
 でも、何をやらかすか分からないという点では、祖父より佳那子の父の方が上かもしれない。今頃佐々木、どうしてるんだろう―――昨日の段階で既に顔色が悪かった佳那子を思い出し、カラッと晴れ上がった青空とは裏腹に、気分は余計陰鬱に落ち込んだ。

 今日は、久保田と佳那子が以前から恐れていた日。
 久保田善次郎vs佐々木昭夫の、生放送タイトルマッチ―――という訳ではないが、とにかく生対決の、当日だ。
 企画段階でぽしゃってくれないか、と娘も孫も切に願っていたのだが、悪ふざけの過ぎたプロデューサーがクビになることもなければ、流血沙汰がお茶の間に流れるのを心配したPTAからの抗議が殺到することもなく、この日を迎えてしまった。こんなことでは日本も終わりだぞ、と久保田は本気で日本の未来が不安になってきた。

 「いいか、じっちゃん。1つだけ、約束しろよ」
 『なんじゃ、言ってみろ』
 「俺と佐々木の名前は、絶対に出すな」
 『おー。努力はするぞ』
 弾んでいた息が、いつの間にか落ち着いている。その代わり、時々妙に力を入れたような、切羽詰った声が聞こえる。
 「…もしかして今、ダンベルでも持ち上げてるのか?」
 『今日は冴えとるなー、隼雄。あとは腹筋50回とエキスパンダー50回だ』
 ―――じっちゃん…一体、いくつだよ…。
 久保田がこの春29になったのだから、70をゆうに越している筈だ。下手すりゃ80近いんじゃあ…。
 本を愛するインテリな佳那子の父は、祖父よりひと回り以上年下だが、多分腕力では祖父に敵わない。流血沙汰になったら、ボロボロにされるのはあちらの方だろう。
 「…頼むから、佐々木先生の命にかかわるような怪我、させるなよ」
 あんな親でも、死んだら佳那子が悲しむ。ため息とともに、久保田は最後にそう祖父に念を押したのだった。

***

 「どうしたんですか、佐々木さん。顔色悪いですね」
 心配そうに背後をうろうろする樋沼を振り返り、佳那子は無理矢理笑った。
 「ちょっと、風邪気味で。大丈夫よ。バグは出さないように慎重にやるわ」
 「いえ、そんな…。無理しないで下さいよ。成田さん抜けてから、佐々木さんの負担が重くなってるんですから」
 「その分、樋沼が成長すりゃあいいんだよ」
 突如割って入った久保田にパコン、とファイルで頭を叩かれると、樋沼は申し訳なさそうに、その巨体を縮めた。いまだにミスが一番多いのはやっぱり樋沼なのだから、肩身が狭いのは当然だ。
 すごすごと自分の席に戻る樋沼を一瞥した久保田は、改めて佳那子の憔悴ぶりを見下ろした。
 「…きてんなぁ…」
 「…当たり前でしょ。胃が痛くて、朝食も抜いてきたんだから」
 「おいおい…こんなことで倒れたら馬鹿を見るぞ。少しは気を楽に持てよ」
 「そんなの無理よ」
 実は昨晩の夕飯もろくすっぽ食べられなかった。それほどに、佳那子のテンションはギリギリ状態なのだ。
 「午後9時なんて、ゴールデンタイムよねぇ。誰も見なけりゃいいんだけど」
 「その確率は絶望的に低いな」
 「ねえ、久保田」
 一応、樋沼の位置では聞き取れないだろうとは思うが、佳那子は僅かに声を小さくし、久保田を見上げた。
 「ちょっと今日、寄ってもいいかしら。一応録画予約はしてきたんだけど、到底1人で見る勇気がないのよ」
 「そりゃ、構わないけど―――今日はやめといて、明日以降、俺から結果報告受けて録画を見る、って方が、安全策なんじゃないのか、お前の場合」
 「久保田の結果報告を待ってる間のこの不安な状態がイヤなのよっ」
 ごもっとも。この分では、今夜も食事が喉を通らないだろう。全く―――佐々木昭夫も、娘の心情を察して、そんな番組は断ればいいのに。過保護で親バカで子離れの出来ない親の癖に、娘が心労で倒れてもいいのだろうか。
 「…よし、分かった。録画で胃炎起こしてぶっ倒れられても困るしな」

 そんな訳で、急遽、運命の生放送は、久保田の家で2人揃ってリアルタイムで見ることになったのだった。

***

 先に退社した佳那子を追いかける形で、定時を相当過ぎてから退社した久保田は、大慌てで自宅アパートの階段を駆け上がった。
 「もうっ。遅いわよっ」
 「悪い悪い」
 合鍵で先に部屋に入っていた佳那子は、久保田が玄関に入るなり、鍵をかけるのももどかしいといった勢いで久保田の腕を引っ張って行った。時計は午後9時5分前―――本当にギリギリだったのだ。
 「あいつらも見てるかなぁ…」
 背広を脱ぎながら、うんざりした口調で呟く久保田に、佳那子は麦茶をコップに注ぎながらため息をついた。
 「…少なくとも蕾夏ちゃんは見てるわね、きっと。SE時代と違って、終電ギリギリまで残業なんてしなくて済んでるみたいだから」
 瑞樹は、なにせフリーなので仕事の時間帯はバラバラだが―――なんだか、見ている気がする。
 テレビなんて滅多に見ない瑞樹だが、それが久保田と佳那子をからかう材料となれば、話は別。嬉々としてテレビの前に鎮座してるのではないだろうか。つくづく、一番知られてはまずい連中にバレてしまったものだ。もっとも、彼らでなくては、まず気づくこともなかったのだろうが。

 久保田が着替えを終え、やっと麦茶にありつける頃に、時計の針が9時を指した。
 「あああ、やだ、始まっちゃった」
 「落ち着けよ、佐々木」
 2人揃って麦茶のグラスを手に、テレビの前に座り込む。チラリと佳那子の横顔を窺うと、既に蒼褪めている状態だ。プレッシャーや心配事に弱いタイプなので、仕方ないだろう。
 テレビ画面では、大げさな音楽に乗って番組タイトルが描き出されている。ライトを落としたスタジオに照明がともった途端―――久保田と佳那子は、手にしていたグラスを落としそうになった。
 「な、なんだ、こりゃあ!!!」
 「…は…恥ずかしい…」
 スタジオ内には観客が、いわゆる雛壇状態で100人ほど入っている。そして、その眼前に―――なんと、ボクシングやレスリングの試合よろしく、リングが組まれていたのだ。久保田の祖父と佳那子の父は、そのリングの中に設置された机と椅子におさまっている、という具合だ。
 番組スタッフの神経を疑う。いや、それより、そのセットに収まっている自分たちの身内が信じられない。
 「じっちゃんは、まあ、ああいうの嫌いじゃないけどな。し、しかし…佐々木先生、なんで断らねーんだよ!? キャラじゃないだろ」
 「おだてに乗りやすいから…」
 さっきまで蒼褪めていた佳那子の顔は、一転して真っ赤だ。NHKのお堅い番組に出て、生真面目に「日本経済の未来」などについて淡々と解説したりもする父なので、このバラエティ仕様は恥ずかしすぎるのだろう。
 『皆様、今晩は。今日の“TVバトル”は、1時間半の拡大バージョン。“ウィークエンド21”でお馴染みの経済評論家お二人の生バトルです』
 司会者らしき女性アナウンサーと男性タレントのブレストショットに切り替わったと思ったら、いきなりそんな説明が始まった。こんな時間のテレビは滅多に見ない久保田と佳那子なので知らなかったが、どうやら“TVバトル”というのは、毎週この時間にやっているレギュラー番組らしい。
 『では、赤コーナー! 元衆議院議員、経済評論家、久保田ぁー善次郎ぉー!』
 「…ボクシングって、赤と青、どっちがチャンピオンなの?」
 「赤コーナーだ。てことは、一応じじいがチャンピオン扱いなのか…年功序列だな」
 冷静さを装って、そんな分析をしてみる。そうでもしないと、この画像に耐えられないのだ。
 テレビ画面は、VTRに切り替わっていた。久保田善次郎の簡単な紹介VTRといったところだろう。大学生時代や新聞社の経済部に在籍中の善次郎の写真なども紹介されている。
 「あら。久保田に似てるわね、やっぱり」
 「…そうか?」
 「眉の形なんて、そっくりよ。ふぅん…久保田も70過ぎたら、あんな感じになるのね」
 「…やめてくれ」
 続いて、34歳で衆議院に初当選した時の映像に切り替わる。古い。もの凄く古い。いつの時代のフィルムなんだ。
 『衆議院時代の久保田氏は、“壊し屋”の異名をとっていました。久保田氏の乱闘によって議事が頓挫した議案は全部で7つ。2回連続当選した後、参議院へとその活躍の舞台を移した久保田氏は、この頃“瞬間湯沸かし器”という有名なあだ名をつけられるに至りました』
 かなり年代モノらしいカラーフィルムの中で、久保田を10歳老けさせたような久保田善次郎は、スチール椅子をぶん投げていた。蜘蛛の子を散らすように、他の議員が逃げていくが、画面の外からも椅子が飛んでいるところを見ると、助っ人が他にもいたらしい。
 「…こんなニュース映像見せられてた当事の有権者、なんで懲りずにじじいに投票し続けたんだろうな」
 「こういう風だから、逆に人気があったんじゃないかしら」
 実際、久保田善次郎は、その後も参議院でひたすら当選し続け、要職を歴任したりもした。画面では、そうした華々しい経歴と共に、善次郎のプライベートな写真なども紹介されていた。ジムで汗を流す映像、他の議員とチェスに興じている写真―――それに、家族写真。
 「げっ」
 それを見た瞬間、思わず久保田は声を上げた。
 写真は2枚。善次郎と、久保田が幼い頃に他界した祖母のツーショット写真。そして―――子供や孫をぞろぞろ並べて撮った、善次郎60歳の時の写真だ。
 映ったのは、僅か数秒のことだろう。けれど、久保田は一瞬で見つけてしまった。祖父の右隣で、もの凄く不機嫌そうに立っている、中学生か高校生の自分を。
 ―――ちょ…ちょっと待てっ! なんでこんな写真を出すんだ!? 勘弁してくれよ…!
 中学高校の久保田は、今とは違って丸刈り頭だったし、体つきももう少し小柄だった。多分、よほど注意深く見ていない限り、久保田の知り合いであってもまず気づくことはないだろう。でも…さすがに自分自身が画面に出されるとは思わなかった。頭がぐらぐらし始めてしまう。
 『続いて、青コーナー! ××総研役員、経済評論家、佐々木ぃー昭夫ぉーー!』
 久保田のパニックをよそに、番組は無情に進行する。
 屈強な体格だった若き日の善次郎とは対照的に、モノクロ写真の中の昭夫は、ひょろりと背の高い、いかにも勉強一筋といった感じの、神経質そうな青年だった。佳那子の美貌を考えれば分かるとおり、父である昭夫もルックスに優れている。案の定、大学時代はモテた、なんてエピソードが紹介されていた。
 「…で、引っかかっちゃったのが、母なのよね」
 「大学時代からの付き合いだったのか」
 「そう。後輩だったのよ。超のつくお嬢様で、大学卒業して、2年ほど花嫁修業して、ゴールイン。社会なんて1つも知らないまま結婚したから、ちょっと感性がずれてたわね」
 「お前の反面教師になってる訳だなぁ…」
 そういったエピソードも紹介されていた。若き日、大学の助教授として働いていた昭夫と、既に他界した佳那子の母のツーショット写真が映し出される。その映像に、久保田と佳那子は、同時に嫌な予感を覚えた。
 『愛妻家の佐々木氏ですが、現在は奥様の忘れ形見の娘さんを溺愛しているようです。お茶の間の奥様方にも人気の佐々木氏ですが、再婚の可能性を質問したところ、“考えたこともない”とのことです』
 という解説に乗って映し出されたのは―――佐々木家の親子3人のスリーショットだった。
 「きゃーっ!! ちょっと、やめてーっ!!!」
 恐らく小学生位だろう。お嬢様という単語がそのまま人間化したみたいな、おかっぱ頭の佳那子が、両親の間にちょこんと立っている写真だ。
 「…面白いほどに、両親の中間の顔してたんだなぁ、お前って」
 「いやーっ、やめてよーっ。もう、お父さんたら、どうしてこんな写真提供しちゃったのよっ!」
 メインのバトルが始まる前だというのに、既に2人揃って息も絶え絶え状態だ。手にしている麦茶の入ったグラスに口をつけることも忘れてしまっている。
 「と…とりあえず、落ち着け。麦茶だ。麦茶を飲んで、ちょっとクールダウンしろ」
 「そ、そうね…落ち着かないと。これからが本番なんだから」
 久保田の冷静な判断に従い、2人は麦茶を一気に半分ほど飲んだ。ただじっとテレビの前に座っていただけなのに、何故か息が上がっている。まるで激しい運動でもしたみたいな心臓の暴れ方だ。

 『それでは最初のバトルのお題は、超タイムリーなお題、“そごう倒産”です。お二方、よろしいですね? では、レディー、ゴー!』
 カーン、というゴングの音と共に、バトルはスタートした。


***


 「も、もーだめー、わ、笑いすぎておなかが痛いよー」
 「無茶苦茶やるな、テレビ局」
 笑い転げる蕾夏の頭をぽんぽん、と撫でながら、瑞樹はテレビ画面に視線を据えたまま、カクテルバーをくいっとあおった。
 そう。久保田達の懸念したとおり、瑞樹と蕾夏は、この世紀のバトルを見ていたのだ。しかも、2人揃って、リアルタイムで。久保田と佳那子が見たら、顔面蒼白になること間違いなしの光景だ。
 「ボクシングのリング組んでるんなら、せめて“ラウンド1・ファイト”って掛け声にしろよ。気がきかねぇ」
 「実はボクシングを知らない人の企画なんじゃない? ねえ、それより、あの写真って、自分が選んで自主的に出したものなのかなぁ?」
 「そうなんじゃねーの。特に佐々木昭夫はナルシスト入ってるから、自分の写りのいいやつを細々選びそうに見える」
 「ナルシスト…入ってる、かなぁ? うーん、カメラはいつも意識してそうだけど。服装きっちりしてるし」
 「あんまり面影のない写真で助かったな、佐々木さん」
 おかっぱ頭の幼い佳那子は、今の佳那子のような“できる女”っぽい部分が欠片もない。しかも、ヒラヒラのレースの服を着ていたから、いつもシンプルな服装の佳那子とはまるで別人だ。会社の連中も何人かはこの番組を見ているかもしれないが、まずあれを佳那子だと思う人間は誰もいないだろう。
 「むしろ、問題は隼雄の方だよな」
 一瞬映し出された集合写真。瑞樹も蕾夏も、主役の右隣にいる無骨そうな少年に即座に気づき、大爆笑してしまったのだ。丸刈り頭の少年は、パッと見分からないかもしれないが、祖父の話をする時の久保田の表情そのままの顔をしていた。
 「明日、会社に行ったら、“瞬間湯沸かし器の孫”とか呼ばれちゃうのかな」
 蕾夏がウーロン茶のグラスに手を伸ばしながらしのび笑う。
 「…人生最大の屈辱だろうな、隼雄には」
 そう呟く瑞樹の表情は、少しも同情している風ではなく、むしろ楽しげだった。

 番組は、気を持たせるように挟んだCMが終わり、本格的に1つ目の議題に関するバトルに突入していた。
 『そごうに雇用されておる人数がいくら甚大だからと言って、公的資金を投入するのはどうかと思うぞ。そんなことが許されるのなら、中小企業はつぶれても全然構わん、という論理になりゃせんか』
 これが久保田善次郎側の主張。
 『そごうの社員も、日本の経済を支える“消費者”であることを忘れてませんかね。何万人という消費者を一気に失業者にしてしまったら、それだけで日本経済は冷え込みますよ。公的資金投入は、日本経済のためです』
 これが佐々木昭夫の主張。どちらが正しいかなんて、経済に全然興味のない瑞樹や蕾夏には、さっぱり分からない。
 ただ、その論拠をぼんやり聞いていると、久保田本人の意見はどちらかというと佐々木昭夫に近いな、ということに、瑞樹は気づいた。
 大学時代、よく校内ディベート大会などで弁舌を競っていた久保田だが、そのネタは経済であることが多かった。バブルが弾けた時期だったので、経済学部の連中は結構熱くなっていたものだ。そんな時、久保田の主張は、常に「数年後の日本」に視点を置いたものだった。目の前の問題の解決よりも、この結果が5年後の経済にどう響くか、という方が久保田の優先事項。…まあ、経済に限らず、プライベートにしても仕事にしても、彼の考え方はいつもそうなのだが。
 『あんたのやり方をしとったら、日本の予算は能無し経営者を抱えた巨大企業の救済だけで破綻するぞ!』
 『それは極論でしょう! 経済社会も淘汰の世界なんだ、体力のない中小がつぶれていくのは、自然の摂理ですよ!』
 『あんたには情けというもんがないのかっ!』
 『あなたには自由経済の基本がないんですかっ!』
 両者のこめかみに血管が浮き始めた辺りで、ゴングがカーン、と鳴った。


 その後も、バトルは順調に続いた。
 さすがに経済評論家バトルだけあって、題材は経済問題が多い。マイクロソフトの独占禁止法違反事件について、ちょっと古いが山一証券倒産について―――議題は政治にも及んで、つい先日解散したばかりの森内閣の是非について、なんてバトルもあった。
 どの議題についても、なんで意見がこうもすれ違うんだ、という位、善次郎と昭夫の意見は対立していた。唯一、意見が一致したのは、大阪府知事に女性が当選した件で、揃って「けしからん」と発言した途端、雛壇の観客のうち女性50名から非難の言葉が浴びせられていた。勿論、蕾夏もテレビに向かってカクテルバーの蓋を投げていた。

 『あんたもしつこいですね! マクドナルドは戦略を誤ってるって、何度も言ってるでしょう、いい加減認めたらどーなんですかっ!』
 『うるさいうるさい! まだ結果は出とらんだろう! 貴様の理論は机上のもんにすぎんっ!』
 こんな感じで意見はすれ違ったまま、両者が血管が切れる寸前でゴングが鳴り、1ラウンド終了する。その繰り返しだ。議論が進むにつれ、両者の息は次第に上がり、血管が浮きっぱなしの状態になってきている。

 “マクドナルドの平日半額バーガーは正しい戦略か”は、なんとか取っ組み合いになる前に、ゴングが鳴った。
 そして、次の議題は―――なんでそんな議題になったのやら、“少子高齢化が日本経済に及ぼす影響について”だった。


***


 「嘆かわしいことですな」
 ふん、という鼻息が聞こえてきそうな憮然とした声で、久保田善次郎が言い放つと、
 「全くもって、遺憾なことです」
 佐々木昭夫も、深く頷きながらそう答えた。
 「おや、珍しく意見が一致しましたね。やはり少子高齢化は経済に悪影響を及ぼすとお考えですか?」
 議事進行を取り仕切っている感のある女性アナウンサーが、この議題は穏やかに進行しそうだな、と踏んだのか、少しほっとしたような表情でそう言葉を挟んだ。
 「そりゃあそうですよ。子供が減るということは、将来の経済の担い手が少なくなることですよ」
 「年金問題もあるしな。今のじーさんばーさんは幸せな方だが、20年後の老人は、もう危ないぞ。わしは既にじーさんで助かったが、あんたは不幸じゃな」
 扇子でパタパタと扇ぎながら善次郎がふふん、と笑うと、昭夫の眼鏡の奥の目が凶悪に細められた。
 「あんたは、年金以上の問題を抱えてるんじゃないですか? 長男家族は九州だし、次男家族は海外だし、娘夫婦もあんたの親類だと知れるのを恐れて北海道に行ってしまったらしいじゃないですか」
 「家族なんぞ、傍におらんでも構わん。秘書やらマネージャーやら、わしを取り囲む人間は大量におるからな。日々の生活には困らんし、孤独死なんて目にも遭う心配はないんじゃよっ。その点、お前さんは厳しいのー。嫁さんは死んどるし、娘はいずれは家を出る立場だし」
 「む…っ、娘が家を出るだなんて、誰が決めたんだっ!」
 “娘”、という単語は、昭夫の暴走スイッチのようなものだ。途端、昭夫のやや嫌味な口調が、ただ激昂した中年の怒鳴り声に変わる。
 しかし、善次郎はそれに動揺も見せず、涼しい顔でカラカラと笑った。
 「娘っちゅーのは家を出て行くものと決まっとるんじゃよ。娘は、他家の裾野を伸ばしていくために嫁に行くんじゃ。お前さんとこは息子がおらんかった段階でアウトじゃな」
 「そんなことを言ったら、娘しかいない家は全部アウトになるじゃないかっ! あんたね、男尊女卑にも程があるんじゃないですか!?」
 「ふははは、そりゃあ、娘しかおらん家庭はなんぼでもあるわな。けど、その娘が親に反発しまくっとる家庭は、さほど多くはないんじゃなかろうかと、わしは思うんじゃがな」
 「何を言ってるんだ。うちの娘は、わたしに従順だぞっ! 子供の頃からずーっとずーっと模範的な娘だったんだからなっ! それを邪魔してるのは、あんたんとこの孫でしょう!」
 「なんだと!? わしの孫を侮辱するのか、貴様はっ!」
 “孫”、という単語は、善次郎の暴走スイッチだ。扇子をパチンと閉じた善次郎は、おもむろに席を立った。スタジオ内がどよめく。
 「うちの孫はな、そんじょそこらの孫とは違う、超ハイクオリティでハイパワーなジャパニーズ・ビジネスマンなんだぞっ! 貴様の経済理論なんざ、うちの孫にかかったら一反もめんより薄っぺらなもんじゃっ!」
 何故善次郎の年齢で“ゲゲゲの鬼太郎”のキャラクターが比喩として出せるのか不思議だ。けれど、頭に血の上った昭夫には、もはやそんな疑問も浮かんでこない。
 「その割には、フツーの会社に、フツーに勤めてるじゃないかっ! 国会議員にしてみせると言っていた、あれは嘘かね、えっ!?」
 「馬鹿者、あやつはまだ修行中なんじゃよ! 貴様の娘だって、見合いを10回以上繰り返している癖に、いまだに独身のままじゃないか。少子高齢化は女性の結婚年齢が高くなってるのも1つの要因なんじゃぞ、なんとかせぇ!」
 「かっ、勝手なことをぬかすなっ! う、うちの娘はな、わざと見合い相手に断らせてるんだっ! あんたの孫も、この前7回目の見合いを断られたらしいじゃないかっ!」
 「あやつもわざと断らせてるんじゃっ! うちの孫はな、その辺の娘とやすやすと結婚させるわけにゃーいかんのだっ! 日本の未来を担う貴重な人材なんだぞ! だから貴様は、さっさと娘を嫁に出せ!」
 「あんたが今すぐ孫を結婚させりゃー済むんですよっ! さては、本音ではうちの娘を狙ってるんだな!? ぜぜぜぜ絶対、許さないぞっ!!」
 「なにおおおおおおっ!!!」
 「あ、あの、お二人とも、冷静に…微妙に議題からずれてってますし…」
 完全にびびってしまっている女性アナウンサーの代わりに、男性タレントが恐る恐る口を挟む。
 と同時に、善次郎と昭夫の殺気だった目が、そのタレントに向く。その殺気のあまりの凄まじさに、男性タレントの顔が「ごめんなさい」という顔に即座に変わった。

 「「やかましい!! 邪魔をするなーーーっ!!!!」」


***


 「あれ?」
 息を詰めて成り行きを見守っていた瑞樹と蕾夏は、突如変わった画面に、一瞬、何が起こったのか分からなかった。
 テレビの電波テストの時のような、光の三原色のテストパターンと、テレビ局名がパッ、と表示され、それが10秒ほど続いたかと思うと―――鳩の図柄と一緒に、こんな文字が表示された。

 『少々お待ち下さい』

 「―――…」
 つまり。
 これは、生放送だから―――今、この平和な図柄の向こうでは、生ではお見せできない展開が繰り広げられている訳だ。
 「…何が起きてるんだと思う?」
 「まあ…想像はつくよな」
 「…あの司会者の男の人、大丈夫かな」


 お待ち下さい状態は、12分間にわたって続いた。
 あの後、スタジオがどういう展開になったのかを不謹慎にも楽しげに推理しあっていた瑞樹と蕾夏だったが、いい加減、待ちくたびれてきた。それに、そろそろ放送時間が終わってしまう。時計がかなり気になりだした時―――画面が、唐突に変わった。
 「あ、映った」
 映し出されたのは、“TVバトル”のスタジオだった。
 一見、何事もなかったかのように、整然としている。けれど―――まるで“間違い探し”のように、あちこちおかしな部分があった。
 男性司会者が、いない。
 特設リングのロープの一部が、妙な具合に歪んでいる。
 リングの上にあった筈の、善次郎の机がない。同じく、リングの上にあった筈の、昭夫が座っていた椅子がない。
 昭夫の眼鏡が消えている。そして、善次郎の羽織の片袖が、腕の付け根部分から、ない。
 椅子や机が欠けてしまった歪んだリングの上で、善次郎と昭夫は、お茶の間用のにこやかな笑顔を顔に貼り付かせて、並んで立っていた。その斜め前に立った女性アナウンサーも笑顔だったが、その笑顔は今にも泣き出しそうだった。
 『…えー…1時間半にわたってお送りした“TVバトル”、いかがだったでしょうか? 途中、お見苦しい点もあったかと思います。申し訳ありません。次週は、大学教授対ゼミ学生の本気バトルをお送りいたします。では皆様、ごきげんよう』
 深々と頭を下げるアナウンサーの後ろで、善次郎と昭夫は、ニコニコと手を振っていた。
 そして、仰々しいエンディング音楽とともに、番組は終了した。

 「…………」
 直後―――瑞樹と蕾夏が、堪えきれずに大爆笑したことは、言うまでもない。


***


 『空白の12分間! 経済界のドンと討論番組のカリスマの対決に、一体何があった!?』

 翌朝、電車の中で、他人が読むスポーツ紙の見出しを見た久保田は、思わずその場にへたりこみそうになった。
 しかも小見出しで「久保田孫と佐々木娘に謎の因縁!?」なんてものがついていた日には、新聞をひったくってびりびりに破いてやりたい気分になった。
 ―――畜生、あのじじい…っ! 確かに名前は出してねーけど、写真は出すわ話題に出すわ、リークしまくりじゃねーかっ!
 昨日の佳那子など、あまりの状況に、途中から硬直したまま動かなくなってしまったのだ。番組が終わると同時にパッタリと倒れたから、ギョッとして抱き起こしてみたら、高熱を出してダウンしていた。慌てて車で家まで送り届けたが、助手席でずっと「もうイヤ、あの家に帰りたくない」とぐずって大変だったのだ。
 こんなことで、マスコミが自分たちの身辺に及ぶとは思わないが、少なくとも興味を持ったメディアがいくつかはあった、ということは、小見出しが証明してしまっている。これからはそっち方面にも気を配らなくてはいけないのか―――自分達は、極平凡な恋愛がしたいだけなのに、と、久保田は憂鬱な気分になった。


 「あ、久保田さん。おはようございます」
 会社に着いてすぐ、和臣が、少しぎこちない声色で挨拶してきた。
 「おう。おはよう。木下の調子はどうだ」
 「えっ? え、ええ、元気ですよ。動かなすぎるのもまずいんで、今週からスイミングスクールのマタニティコース行ってます」
 「そうか。良かったな、辞めた甲斐があって」
 「…あの…久保田さん」
 スタスタと自分の席に進む久保田の後を、和臣が何か言いたげについてくる。
 「ん? なんだ?」
 「えーと、えーと、その―――昨日…」
 「昨日?」
 つい、眉がピクリと動いてしまう。反応してはまずいと思うのに…やはり、昨日の今日では、まだ冷静さを欠いているのだろう。
 その反応には、和臣も気づいたようだ。何を言おうとしたのかは不明だが、とにかく久保田にそれを言うのはまずそうだ、と判断したらしく、慌てていつものようにへらっと笑った。
 「い、いえいえいえ、何でもないです、何でもっ。オレの勘違いでした」
 「そうか」
 「じゃ、失礼しまーす」
 日頃頭なんて下げない奴なのに、ペコリとお辞儀をして自分の席に戻っていく。
 ―――こりゃあ、見たな、あれを。
 苗字が2人揃って同じだし、短い時間とはいえ写真を出されてしまったし。気づくのは当然かもしれない。この会社の何人があれを見たのだろう―――考えたら、頭がズキズキしてきた。

 鞄を席に置いてシステム部に向かうと、佳那子は既に出社していた。
 「よ、佐々木。大丈夫か?」
 机に突っ伏していた佳那子は、久保田の声にむくりと顔を上げると、陰鬱な顔を彼に向けた。
 「…おはよう。言っとくけど、今の気分は過去2番目に最低よ」
 1番目は当然、最初の朝帰り事件の時だろう。無理もない、と久保田は眉を寄せた。すると佳那子は、久保田の目の前に、自分の携帯電話をずいっ、と突きつけた。
 「?」
 「今朝、届いたの」
 携帯の液晶画面は、メールの本文表示状態だった。嫌な予感はしたが、久保田は少し腰を落として、その画面に目を凝らした。

 『昨日はお疲れ様でした。心中お察しします。悪知恵が必要な時は、いつでも相談乗らせていただきます』

 「…藤井さんか」
 「…他に誰がいるって言うのよ」
 憮然とした声で佳那子が言う。確かに、他にこんなメールを送る人間はいないだろう―――もう1人を除いて。
 「安心しろ。俺も被害者だ」
 そう言った久保田は、今度は自分の携帯電話を佳那子に突きつけた。
 「え?」
 「もう1人から、今朝届いたんだ」

 『ゴシップ記事デビュー、おめでとう。まあ、がんばれ』

 「―――…」
 「…俺たちって、不幸だよな、結構」
 「…かなりね」
 それぞれに携帯電話をパチンと閉じ、久保田と佳那子は、深い深いため息をついた。


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