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― 計画的反抗 ―

 

 その電話は、翌日にオフを控えた金曜日の午後に、いきなり瑞樹の携帯電話にかかってきた。

 『成田か? 僕や、分かるか?』
 「…その声は、木村か?」
 神戸時代の親友・木村からの電話だった。
 NPOの団体職員である彼は、やれ森林保護だ、やれ環境破壊防止デモだ、と言っては、日頃から世界中を飛び回っている。だから、滅多に顔を見ることはない。電話でさえ相当稀だ。前回の電話から、既に1年は確実に経過しているだろう。
 今回もどうやら、どこかへ旅立つ直前らしい。携帯電話から、微かに空港のアナウンスらしき声が聞こえてくる。
 「久しぶりだな。どうした」
 『すまん!!』
 突如、木村は、土下座するような勢いで謝ってきた。
 「は?」
 『すまん、ホンマにすまん。僕も教えたらあかんとは思ったんや。でも、武蔵を人質に取られて、やむにやまれず、教えてもーた。堪忍な、成田』
 「……」
 “武蔵”とは、木村家の愛犬の名前だろう。木村が昔飼っていた犬の名が小次郎だったから、多分間違いない。普通1代目に武蔵、2代目に小次郎なんじゃねーの、という細かい突っ込みは、まあいいとして…。
 分からないのは―――木村が何を、誰に教えたか、だ。
 「ええと…」
 『ドイツ行く前に、どうしても謝っておきたかったんや。時間ないんで、これで切るわ』
 「おい」
 『ホンマ、堪忍な』
 プツン、と電話が切れる音がして、ツー、ツー、という無機質な音だけが残された。
 「……?????」
 携帯電話片手に、瑞樹は首を捻る以外、どうしようもなかった。

***

 日中、冷房の効いた事務所で事務処理をやっていたせいか、夜になっても一向に冷える気配のないアスファルトの熱が、やたら体に堪える。これだから夏は苦手なんだよな…と心の中でひとりごちながら、瑞樹は重い足をひきずるようにして、自宅アパートの階段を上った。
 ―――そういえば、木村の電話…結局、何だったんだろう。
 昼過ぎにかかってきた電話をふいに思い出し、また首を捻る。
 仕事中は忙しさに取り紛れて忘れていたが、やっぱり気になる内容だった。こちらから電話をして確かめられればいいのだが、ドイツじゃ携帯も通じないだろう。まあ…いずれは何らかの形で、木村が何をあんなに謝罪していたのか分かるだろう。悩んでも仕方ないよな、と一応区切りをつけ、瑞樹はポケットから家の鍵を引っ張り出した。

 そして、次の瞬間。
 自分の部屋のドアの前に目をやって―――その場に固まった。

 「―――…」
 ドアの前に、少年らしき人物が1人、膝を抱えてうたた寝している。
 ナイキのシューズ、Gパン、同じくナイキのぶかぶかのTシャツ―――と足先から順に目で追った瑞樹は、抱えた膝の上に乗っかった頭を見て、それが誰なのかを瞬時に悟った。
 明るいブラウンの髪に混じった、金色のメッシュ。
 こんな頭をしているのは、瑞樹の知り合いの中では、1人しかいない。
 ―――木村…お前、なんてことをしてくれるんだ…。
 昼間の電話の意味を嫌という程理解して、一気に頭がガンガンしてくる。武蔵可愛さのあまり、と言っても、あんな電話じゃ済まされない話だ。
 ぎりっ、と奥歯を噛み締めると、瑞樹は少年の前に歩み寄り、金属製のドアを軽く蹴飛ばした。
 途端、びくっ、と少年の肩が跳ね上がり、メッシュの入った頭が驚いたように起き上がった。
 明るい色をした瞳が、瑞樹を見上げる。そして、憮然とした顔で自分を見下ろしている人物が瑞樹だと認識するや、彼はすたっ、と立ち上がり、場違いなほど屈託のない笑い方をした。
 「お帰り、兄ちゃん。結構遅くまで仕事するんやな。おかげで随分待たされたわ」
 「…こんなとこで何やってんだ、イズミ」
 怒りをなんとか抑えた声で瑞樹が言うと、イズミは、一切悪びれない口調でこう言った。
 「家出してきた。今晩、泊めて」

***

 朝倉イズミ―――この存在は、瑞樹にとってはなかなか説明の難しい存在だ。

 家庭に問題を抱える同士の気安さからなのか、イズミの母・舞は、父親の分からない子供を身籠ってしまった時、誰よりも先に瑞樹に相談した。2つ年下の―――まだ中学2年生だった瑞樹に、だ。
 絶対に産む、と言う舞の言葉に、瑞樹は正直、賛成できなかった。瑞樹自身、予定外に出来てしまった子供だった―――瑞樹のせいであなたを選ぶことになった、と感情的に怒鳴る母を覗き見てしまった立場としては、予定外どころか父親も分からないような子供をまだ高校生の舞が産むことに、賛成できる筈もなかった。
 だから、舞の宣言通りイズミが生まれてからも、気になって時々、様子を見に行った。立派に育ててみせると啖呵を切った舞だが、実際子育てをしてみたら、辟易してイズミに辛く当たったりするのではないか…と心配だったから。そう、瑞樹はイズミの存在に、自分を投影していたのだ。
 それに、当時の瑞樹は、両親の離婚で妹と離れて間もなかった。ある意味、海晴を守らなくては、という義務感だけで生きていたような人生だったから、海晴のいなくなった虚無感は凄まじかった。母の再婚で海晴が神戸を離れてしまってからは、余計に。
 だから、自分が顔を見せると「にーちゃ、にーちゃ」と嬉しそうにじゃれてくるイズミの姿に、無意識のうちに妹の姿を重ねるようにもなった。大学進学で上京するまでの4年あまり、イズミは瑞樹にとって、失ってしまったものを思い出させてくれるような存在でもあったのだ。

 とはいえ、よくある話のように、情が移って本当の弟のような気がしてくる、なんてことはなかった。元々あの頃の瑞樹の中には、移るだけの情がなかったのかもしれないが。
 自分を投影したり、妹の姿を重ねたり…と、色々複雑な思いを抱いた存在だが、やっぱり説明する時は「知り合いの子供」としか言いようのない存在なのだ。


 「…とりあえず、飲め」
 ドン、とテーブルの上にウーロン茶の入ったグラスを置くと、立ったまま妙にキョロキョロと部屋中を見回していたイズミは、はっとしたようにローテーブルの傍らに腰を落ち着けた。
 「飲んだら、家に電話しろよ」
 少し突き放すように言うと、ウーロン茶をグラス半分程度まで一気に飲んだイズミは、しらっとした態度で答えた。
 「電話はするけど、帰らへんよ」
 「…ばあちゃん夫婦が、東京に住んでる筈だろ。送ってやるから、そっち行け」
 「いーやーやー。ここに泊まるっ」
 「…舞には何て言ってきたんだ」
 「母ちゃん、今日は仕事やってん。“東京行ってくる、住所はここや”ってメモ残してきた。まあ、母ちゃんの帰ってくる時間からやったら、追いかけてくるにしても明日やろけど」
 「喧嘩でもしたのか」
 「別に。ただの気まぐれや」
 「……」
 訊きたいことは色々あるが、面倒になってきた。ため息をついた瑞樹は、冷蔵庫から飲みかけのボルヴィックを取り出した。
 そう言えば、瑞樹が大学進学で上京した際も、時々瑞樹といる所を見かけて木村の顔を覚えてしまったイズミが、木村家に押しかけて「にーちゃんの住所を教えろ」と迫ったことがあった。昔から、高校の校門前で瑞樹が帰るのを待っていたり、よく行く神戸港の撮影スポットにいたりと、知る筈のない瑞樹の居場所に突然出没するような子供だったのだ。
 でも、瑞樹の上京後は、そんな性癖もすっかりなりを潜めていた筈だ。去年会った時だって、まるで反抗期の子供よろしく、すっかり生意気なガキに成長してしまっていたのに…。
 なんだって急に、ここまで来たのだろう―――母親と何かあったのか、と、やはりそこが気になってしまう。
 ボルヴィックを半分ほどあおり、また冷蔵庫に戻したところでイズミを振り返ると、ウーロン茶をほぼ飲み終えたイズミは、またキョロキョロと部屋中を見回していた。
 「…何か探し物か」
 その様子が、ただの物珍しさではなく何かを探しているように見えて、思わずそう訊ねる。するとイズミは、キョロキョロするのをぴたっとやめ、少し眉をひそめた。
 「なぁ―――姉ちゃんって、一緒に住んでへんの?」
 「は?」
 「この姉ちゃん」
 傍らに置いたリュックの中から、なんだか見覚えのあるデザインの学生手帳を引っ張り出したイズミは、その裏表紙を開いて瑞樹に突き出した。
 よく見えないので、ちょっと近づいてそれを覗き込む。するとそれは、あの“フォト・ファインダー”の受賞作品の紹介記事ページの切り抜きだった。ちょうど手帳に合わせたサイズに切り取られたその中央には、屋久杉を抱きしめている蕾夏がほぼ全身収まっている。
 「お前、よくこの写真見つけたな」
 「小学校卒業するちょい前、三ノ宮の駅前で、偶然おっちゃんに会ったんや」
 おっちゃん、とは、瑞樹の父のことだ。大学に入ってからだが、一度、父が海釣りに行く際、イズミも誘ったことがある。“にーちゃんのお父ちゃん”では長すぎるので、シンプルに“おっちゃん”になったらしい。
 「兄ちゃんは今、“フォト・ファインダー”で賞取って、イギリスにカメラの修行に行ってる、って教わったから、図書館でバックナンバー調べてん」
 「図書館―――って、お前、図書館の雑誌を切り抜いたのか!?」
 「へへへー、内緒内緒」
 ニンマリ、と笑うイズミに、頭がまた痛くなってくる。「バカ」と言って、メッシュの入った頭をゴツン、と殴った。
 「いてて…。それより、姉ちゃんは? 一緒に住んでへんの?」
 「住んでない」
 「ほんまに?」
 「この部屋見たら分かるだろ」
 どう考えても2人分とは思えない家財道具の量。女性の影が欠片もないモノトーンな色合い。よくある独身男性の部屋のような雑然としたムードはあまりないものの、それはどう見ても、男の一人暮らしの部屋だ。
 「…オレ、てっきり、兄ちゃんは姉ちゃんと結婚して、一緒に住んでるんかと思ってた…。なんや、違うんか」
 納得がいったらしく、イズミはそう言って、大きく息を吐き出した。その表情が、どこかほっと安堵しているように見えて、瑞樹は怪訝そうに眉を顰めた。
 「なんでそんな風に思ったんだ?」
 「―――別に。男の勘や」
 ボソリとイズミが呟いた時、聞きなれない音の着信音が部屋に響いた。瑞樹の携帯の古典的着信音とは違う、いわゆる着メロ―――何故か“ミッキーマウス・マーチ”だ。
 「あ、きっと母ちゃんや」
 そう言ったイズミは、リュックの中から小ぶりな携帯電話のような物を引っ張り出した。どうやら、携帯ではなくPHSらしい。
 恐らく、仕事から帰った舞が、イズミが残したメモを見つけて仰天して電話してきたのだろう。それにしても、今時、中学生でもPHSを持っているというのだから、全く生意気な話だ。
 ピッ、と通話ボタンを押すと、軽快なマーチがぴたりと止んだ。イズミは、何故か妙に楽しげな表情でPHSを耳にあてた。
 「はーい、もしもしー」
 『イズミ!? あんた、今どこにいるのっ!!』
 音量を大きく設定しているのか、電話の向こうの舞の声は、傍らにいる瑞樹にも完全に筒抜けだ。その声色から、相当怒り狂っているらしい舞の様子が見て取れる。
 「メモ残してきたやろー? 東京に来てん」
 『東京のどこよ!? 母さんとこじゃないじゃないの、この住所! 一体誰の家にいるのよ!?』
 「兄ちゃんの所や」
 『兄ちゃん、って―――成田君!? あんた、成田君の家にいるの!? 今!』
 「そうや。今兄ちゃん、オレの隣におんで。電話代わろか?」
 何事か舞が叫んだが、よく聞こえなかった。イズミは、依然楽しげな表情のまま、瑞樹にPHSをほい、と差し出した。
 「―――もしもし」
 『成田君!? ちょっと、どういうことなのよ!』
 「俺の方が訊きてーよっ。お前ら親子、どうなってんだよ」
 『どう、って―――成田君がイズミを招待した訳じゃないの? だってあの子も私も、成田君の住所知らなかったのよ?』
 「俺が招待する訳ねーだろっ! イズミが木村から住所を脅し取ったんだよっ! こっちは滅茶苦茶迷惑だっ!」
 怒鳴ったら、頭痛が酷くなった。思わずこめかみを押さえた瑞樹は、そもそもの原因であるイズミをギロリと睨んだ。
 『あらやだ、そうなの。ごめんね、変な疑いかけて』
 「…家出してきた、って言ってるぞ。何があったんだよ」
 『何もないわよ。今朝までいつも通り、フツーな生活送ってたんだから。喧嘩もしてないし、トラブルも起きてないのよ? もう…何が不満なのよっ。こんなメモ1枚残して出てくなんて、あんまりじゃない?』
 「…俺に言うな。本人に言え」
 愚痴られても困る。瑞樹は早々にPHSを耳から離し、イズミに突きつけた。
 ―――何がそんなに楽しいんだ、お前はっ。
 酷く上機嫌でPHSを受け取るイズミの心理が、さっぱり分からない。嬉々とした様子のイズミは、少し瑞樹に背を向けるようにして、再び舞と話を始めた。
 「もしもーし。……うん、堪忍な。……そんなん、電話では説明できひん。とにかく今は、兄ちゃんとこに来たかったんや。詳しい話は、顔見てから話す。―――はぁ? ばーちゃんのとこ? 嫌や、オレ、兄ちゃんとこ泊まる。母ちゃんが迎えにくるまで、ここに居座る。てこでも動かへんからっ」
 おい。冗談だろ。
 ギョッとして、イズミの背中を凝視する。
 「アホか、今日はもう新幹線ないやん。……うん…うん、分かった。逃げたりせーへん。約束する。…うん、待ってる。ほんじゃ、おやすみー」
 「……」
 ピッ、という音と共に、PHSは切られた。振り返ったイズミは、瑞樹にニッコリと笑いかけた。
 「母ちゃん、明日の昼までには迎えに来るらしいわ。そんな訳で、とりあえず今晩は泊めてもらうから」

***

 『え、イズミ君が?』
 「…そう。今、風呂入ってる」
 『ふーん、そうなんだ。良かったね』
 あっさりとした口調の蕾夏の相槌に、疲れ果ててベッドの上にぐったり横たわっていた瑞樹は、ムクリと上半身を起こした。
 「…は? 良かった、って?」
 全然良くないぞ、と眉をひそめてそう言うと、蕾夏は、当然でしょ、とでも言うように答えた。
 『だってイズミ君は、瑞樹にとっては弟みたいな存在でしょ。去年見た時は随分反抗的になっちゃってたけど―――中学生になっても慕って訪ねてきてくれるなんて、嬉しいじゃない』
 「嬉しくねーよ。そもそも、男親がいないせいで他人の俺に異常に懐きすぎで、困ってたんだぞ。去年、いっちょまえに反抗的なガキになってるの見て、やっとホッとしたところだったのに」
 『なんでホッとしたの?』
 「だって、舞が一生独身でいるとは思えないだろ。まだ若いんだし」
 『……』
 「そうしたら、俺よりその相手に懐かないとまずい。血の繋がりはどうあれ、そいつが正真正銘、イズミの“父親”になるんだから」
 『…そっか…』
 何故か、少し沈んだような声でそう呟くと、蕾夏はふいに黙り込んでしまった。
 蕾夏に関しては、結構勘が働く方だと自負している。今、蕾夏が何を考えているのかは分からないが、何か余計なことを―――瑞樹にとって望ましくないことを考えている、ということは、この沈黙から感じ取れるから。
 「…蕾夏?」
 ちょっと、語調を強める。
 余計なことを考えるな―――ロンドンにいた頃、何度か口にしたセリフ。それをその口調の中に感じたのだろう。電話の向こうで、蕾夏が苦笑するのが分かった。
 『ううん、なんでもない。確かにそうだよな、って思っただけ。…ねえ、でも、明日ってそんな風で大丈夫なの? 私、直接オフ会で構わないよ?』
 明日のオフ会は夕方6時集合だが、それより前に待ち合わせしてM4で街中を撮る約束をしていたのだ。
 「いや、大丈夫。昼までには解決する筈だから」
 『あまり邪険にしないでよ、イズミ君のこと』
 「分かってるって」
 『絶対だからね』
 「? やけに念を押すな。どうしたんだよ」
 常にないしつこさに眉をひそめた時、背後でガチャリと扉の開く音がした。
 「にーちゃーん。このバスタオルって、使ってもいーの?」
 2色の頭だけが脱衣所のドアの隙間から顔を覗かせ、バスタオルを瑞樹に向かって振っている。
 「勝手に使え」
 「あ、姉ちゃんと電話中? オレにも話させてよ」
 「生意気言うな。10年早い」
 「…ちぇ」
 つまらなそうに口を尖らせたイズミは、それでも電話にはそれほど執着がなかったのか、ぱっと頭を引っ込めてドアを閉めた。そのやり取りは蕾夏にも聞こえていたらしく、小さな笑い声が受話器の向こうから聞こえた。
 『イズミ君、あがったみたいだね。じゃあ、そろそろ切るね』
 「あ…ああ。悪いな、ゆっくり話もできなくて」
 『いつも話してるじゃん』
 それはそうなのだが―――あまり残念そうでもない様子だと、ちょっと面白くない。
 「明日にでもまた、電話するから」
 『うん。じゃ、おやすみ』
 「おやすみ」
 珍しく、瑞樹の方から電話を切った。切ると同時に―――ため息を一つ。
 電話を切られる音が辛いと感じるのは、“蕾夏不足”の状態だ。
 週に1度は会っているのに…足りない。前なら耐えられたものが、どんどん耐えられなくなりつつある。2人で渡英したことに後悔はないが、24時間一緒にいた点だけは、失敗だったかもしれない。
 声は毎日聞いているのに―――重症だな、と、もう繋がっていない電話を見下ろし、僅かに苦笑した。
 「兄ちゃん、空いたで」
 瑞樹の感傷を追い払うように、ガチャリとドアが開いて、髪の毛をガシガシ拭きながらイズミが出てきた。
 「あれ、電話、終わったん?」
 「…終わらせたんだよ」
 「オレがおるからって、遠慮することないのに」
 「ガキの前じゃできない話もあるからな」
 別にそんな話は何もないのだが―――軽い腹いせにニヤリと笑って瑞樹がそう言うと、イズミは、少し暗いトーンで「ふぅん」と相槌を打った。
 その反応に違和感を覚えた瑞樹だったが、再び髪を拭き始めるイズミの顔は、タオルに隠れてしまって、その表情までは窺えなかった。

***

 瑞樹にしては随分早い就寝になってしまった。
 床で構わない、というイズミの言葉を信じて、イズミは床で、瑞樹はベッドで寝ることになった。小さな頃ならベッドに一緒に寝かせてやるという方法もあったが、既に160センチ近いイズミが相手では、想像するだけで倒錯的な図になってしまいそうなので、やめておいた。
 「…なあ、イズミ」
 「ん?」
 「さっきの生徒手帳―――あれ、俺の中学と同じだった気ぃするんだけど」
 斜め下の床で、イズミがごそごそと動く気配がした。既に電気を消しているので表情などは見えないが、どうやらベッドに背を向けるような姿勢から、ベッドの方を向く姿勢に変えたらしい。
 「そうや。兄ちゃんと同じ学校や。しかもバスケ部や」
 得意そうなイズミの返事に、瑞樹はちょっとだけ頭をもたげた。
 「バスケ部?」
 「そ。10年以上経っても、相変わらずファンの子がめっちゃ見学に来てんで。あー、ああいうギャラリーの中に母ちゃんもおったんやな…と思うと、結構楽しいわ」
 「…けど、お前の今の家、俺の学区と違うだろ」
 イズミの家は、2つ隣の駅前の繁華街にある筈。瑞樹が住んでいたのは、山の手の住宅街だ。同じ中学の学区でないことは間違いない。
 「実はな、母ちゃん、オレが中学入る直前に、ついにマンション購入したんや。それが偶然、兄ちゃんと同じ学区やってん」
 「げ…持ち家か、ついに」
 「あの辺、結構高いんやってな。20年ローンやゆうてた。でも、凄いやろ」
 自慢げなイズミの言葉に、瑞樹も素直に、
 「そうだな」
 と答えた。確かに、凄い。けれど、あの舞ならいつかはやるだろうな、とも思う。当初の瑞樹の心配とは裏腹に、舞はもの凄い子煩悩なのだ。ちょっとでもイズミにいい環境で暮らして欲しいと思うからこそ、これから高校、大学と受験の続くイズミのために、静かな住宅地に移り住んだのだろう―――なんとなく、そんな気がする。
 「…オレな、兄ちゃん」
 ふいに、イズミの声が、真剣になった。
 少し息をひそめるような、そんな静かな声で、イズミはポツリと、呟くように語り始めた。
 「オレな。母ちゃんは、世界一の女やと思うんや」
 「……」
 「極上の美人やし、色っぽいし、性格もカラッとしてて、エネルギッシュで―――母ちゃんよりいい女は、どこにもおらへん。世界一、いい女やと思う」
 「…そうか」
 「だから―――母ちゃんには、世界一、幸せになる権利があると思う。世界一、幸せになってくれんと、困るんや」
 「…そう思うなら、家出なんてするな」
 「……」
 「舞の幸せも不幸も、今握ってるのは、お前だろ」
 「―――…」
 返事は、返ってこない。反論があるからなのか…それとも、反論できないからなのか。
 「…おやすみ」
 結局、随分と時間が経ってから、イズミはそれだけ言って、眠ってしまった。

***

 翌日。昼までに迎えに来る、と言っていた舞は、なかなか現れなかった。
 まあ、神戸から東京まで、新幹線で移動するだけでも3時間ほどかかる。更に東京駅からここまで移動しなくてはいけないから、よほど早い新幹線で来ない限りは、昼ギリギリになるのは当然かもしれない。
 「お前、舞が迎えに来たら、素直に帰れよ」
 瑞樹がネガの整理をするのを興味津々で見ているイズミを、軽く睨む。けれどイズミは、あくまで涼しい顔だ。
 「まあ、そんなに慌てることないって。母ちゃんかて、わざわざ東京まで来て、オレ連れて帰って終わり、じゃ面白くもなんともないやん。東京見物もしたいし、ばあちゃんとこにも顔出さないとあかんし―――その間、ここ泊めてもらうのも悪くないなー、とか思うしー」
 「バカ。俺は追い出すからな」
 「冷たぁ…。あ。あれか。姉ちゃんが泊まりに来るとか、そーゆー約束でもしてるとか」
 「そういう問題じゃねーだろっ。お前、昨夜言った話、全然理解してねーだろ。そもそもお前が家出したこと自体」
 「なぁなぁ。今日ある“オフ会”って、どんなの?」
 ―――聞いちゃいねぇ…。
 はあぁ、とため息をついた瑞樹は、もうイズミは放っておいて、ネガ整理に没頭することにした。
 「なあ。“オフ会”って?」
 「…飲み会みたいなもん」
 「姉ちゃんも来るの」
 「まあな」
 「オレもそれ、出たい」
 「は!?」
 さすがに聞き捨てならない。ネガを放り出してイズミを睨むと、イズミはニコニコ笑いながら恐ろしいことを言い出した。
 「ああ見えて母ちゃん、飲み屋とかバーには絶対連れてってくれへんから、そういう場所にめっちゃ興味あるんや。その“オフ会”に行かせてくれたら、今晩は母ちゃんと一緒にばあちゃんの家に泊まる。な? 大人同伴なら構へんやろ?」
 「んな条件、飲めるかっ! 大体、舞がOKする訳ねーだろ!」
 「いややー、オレ、行きたいー。どーしても行きたいー」
 駄々を捏ねてる姿は、「やだー、にーちゃと一緒にねんねするー」とぐずった子供時代と大差ない。性格変わってねーな、とその姿を見て改めて実感した瑞樹は、この場での性急な説得は無意味だと悟った。
 「…まずは、舞に了解取れ。それから考える」
 「ほんまに? それやったらオレ、ちょっと母ちゃん迎えに行ってくる」
 言うが早いか、もう立ち上がる。慌てて、そのTシャツの裾を掴んだ。
 「こら。迎えに行くって、どこに行く気なんだ」
 「駅。母ちゃんの行動パターンは大体読めるんや。オレの勘では、そろそろこっちの駅に着く頃やと思うから、迎えに行ってくるわ」
 「…とか言って逃げる気じゃねーだろーな」
 「…信用ないなぁ…。荷物全部置いてくから、それでえーやろ?」
 そう言うとイズミは、Gパンのポケットから小銭入れや鍵まで引っ張り出して、全部テーブルの上にぶちまけた。確かに…これなら、必ずここに戻ってくる以外仕方ないだろう。
 「―――分かった。PHSだけは持ってけ」
 迎えに行ったイズミが迷子になったのでは元も子もない。テーブルの上に投げ出されたままだったPHSを、瑞樹がイズミに押し付けると、それを受け取ったイズミは、「じゃ、行ってきまーす」と言って、さっさと出て行った。

 バタン! と玄関のドアが閉まると同時に、どっと疲れが襲ってきた。脱力した瑞樹は、思わずぐったりとベッドに頭をもたせかけてしまった。
 ―――全く…何のために家出なんてしたんだ? あいつは。
 家出をしておいて、迎えに来る母親を駅まで迎えに行く息子。…変だ。もの凄く矛盾した図だ。そもそも、何が原因で家出なんて思いついたのだろう? そこが分からないから余計、イズミの行動は理解不能だ。
 もう、なんでもいい。とっとと迎えに来て、とっとと連れ帰ってくれ―――そう思いながら額にかかった前髪を掻き上げた時、玄関の呼び鈴がけたたましく鳴った。
 「……?」
 反射的に、起き上がる。
 イズミが出て行ってから、まだ1分少々しか経っていない。戻ってきたのか…それとも、偶然、このアパートのすぐ傍で舞と鉢合わせしたのだろうか。
 もう一度、呼び鈴が鳴った。どのみち、イズミである確率は高いので、瑞樹は弾みをつけて立ち上がると、玄関に向かった。
 イズミが出て行ったまま、鍵をかけてもいなかったドアを、開けかける。途端―――玄関の外からつっこまれた手が、そのドアをぐいっと勢い良く引いた。
 「イズミっ!!!!」
 「うわっ!」
 怒鳴り声と共に乱入してきたのは―――何故か、舞だった。
 モノトーンのホルターネック・ワンピースに身を包み、ウェーブのかかった髪を器用に結い上げた舞は、怒りが頂点に達した顔で、瑞樹を完全に無視してずかずかと玄関内に入ってくる。その背後にも傍らにも、彼女を迎えに行った筈のイズミはいなかった。
 「イズミ! どこにいるの、出てらっしゃい!!」
 「お、おい、舞…」
 「ちょっと、成田君っ。イズミはどこなのよ!」
 「舞! 靴!」
 必死の形相だった舞が、瑞樹の指摘を受けて、初めて自分の足元を見る。そして、ハイヒールを履いたままフローリングの床に上がっていることに気づき、俄かに顔を赤らめた。
 「…あらやだ。ごめんなさい」
 「ったく…落ち着け、少しは」
 すれ違いざまに、ちょうど耳の位置で舞が怒鳴ったせいで、片耳だけキーンと耳鳴りがしている。迷惑そうに耳の辺りを擦る瑞樹をチラリと見て、舞はそそくさとハイヒールを脱いだ。
 「イズミだったら、ついさっき、舞を迎えに行くっつって、出てったけど」
 靴を玄関に置いたところで瑞樹がそう言うと、振り返った舞は、意外そうに眉をひそめた。
 「迎えに? あたしは会ってないわよ」
 「時間から見て、その辺ですれ違ってる筈だけど」
 「逃げたのかしら―――あ、荷物はあるわね。全く、何やってんのかしら、あのバカ息子は…」
 「しかし…子供の勘も凄いな」
 少し感心したように瑞樹のセリフに、眉間に皺を寄せていた舞は、キョトン、と目を丸くした。
 「勘、って?」
 「イズミ。いつ来るか分かんねーのに、“オレの勘ではそろそろ来るから、迎えに行く”って言って、出てったから」
 「何言ってるの。あたし、何時にここに着くか、昨日の電話でイズミに伝えておいたのよ?」
 「……」
 一瞬、思いもよらない言葉に、思考が停止しかけた。
 「仕事で何度も東京には来てるし、隣の駅にはうちの会社の営業所もあるから、新幹線のダイヤから時間足してって、ほぼ今頃になるってイズミに言っておいたの。聞いてないの?」
 「…聞いてねぇ」
 「変ね。どうして―――…」
 首を捻りかけた舞だったが、ふと何か思い当たるふしにぶつかったらしく、パッと目を見開いたかと思うと、
 「…あー、そうか! そういうことね! あははははは」
 と言って可笑しそうに派手に笑い出した。
 「やぁっと分かったわ。なんだってイズミがあたしに迎えに来させたのか。やーねぇ、子供の癖に、こんな姑息な手使うなんて」
 「は?」
 「分からないの?」
 …全然分からない。
 何がそんなに面白いんだ、という顔をして立っている瑞樹を見上げて、舞は面白がるようにクスクス笑った。
 「つ、ま、り―――イズミは、あたしを成田君に引き合わせたかったのよ」
 「はぁっ!?」
 「会って、私達によりを戻して欲しかったんでしょうよ、きっと」
 「…ちょっと待て。もともと、戻すような“より”なんてないだろ」
 「ふーん。でも、考えたわね、イズミの奴。あたしと成田君をくっつければ、一挙両得ってところか―――全く、親の気持ちを綺麗に無視してくれちゃって」
 ―――おい。人の話を聞け。
 全然聞いてないところは、親子揃ってそっくりだ。瑞樹は、苛立ったように髪を乱暴に掻き混ぜた。
 そんな瑞樹を、ちょっと思案顔で見上げていた舞は、突如、何かいいことでも思いついたかのように、昔と変わらない妖艶な笑みに口の端を吊り上げた。
 「でも、まあ―――せっかくイズミがお膳立てしてくれた機会だから」
 その声に、ゾクッ、と背筋が冷えた。
 そっぽを向いていたせいで気づかなかったものに瑞樹が気づくより、舞の方が早かった。素早く瑞樹の首に腕を回した舞は、押し倒さん勢いで瑞樹の唇に自らのそれを重ねた。
 「―――…ッ!」
 即座に舞を押しのけたが、時既に遅し。引き剥がされた舞は、手の甲で忌々しげに唇を拭う瑞樹を見て、あはは、と声を立てて笑った。
 「東京までわざわざ足を運ばせられたんだもの、この位の手間賃はいただかないとね。あー、久々の感触だった。成田君、ケチだから滅多にさせてくれなかったものね」
 「…っかやろ、勝手にやるなっつっただろ! 次やったら本気で殴るぞ!」
 「あらやだ。キス1つでこんなにうろたえちゃって。ふーん…恋をして成田君も変わったのねぇ。うん、いい傾向だわ」
 ―――付き合ってらんねぇ。
 キレそうになる寸前の自分を抑えるためにも、はーっ、と大きく息を吐き出した瑞樹は、舞の体を面倒臭そうに脇へと追いやって、玄関に向かった。
 「え、どこ行くの?」
 「…イズミ探してくる」
 「探しに行かなくたって、どうせこの建物のどっかに隠れてるに決まってるわよ。いずれ戻るから、大人しく待ってましょ」
 「このままここに居たら、マジでキレるしかなくなりそうなんだよっ」
 「ちょっと待って。なら私が探しに行くから、成田君はここに―――」

 玄関扉を押し開けた瑞樹の腕を、舞が横から掴んだ、その時。
 開いたドアの向こうに、今まさに呼び鈴を鳴らそうとしていた人間が立っていることに気づき、2人はその場に固まった。

 でも、一番固まっていたのは、ドアの外にいた本人だろう。
 バツの悪そうな顔をしているイズミの背中に軽く手を添えるようにしてそこに立っていたのは、驚きにキョトンと目を丸くした、蕾夏だったのだ。

 言葉にしがたい空気が、4人の間に流れる。
 驚いた顔のまま、瑞樹を見上げて。
 続いて舞の顔に目を移して。
 そして最後にもう一度瑞樹の顔を見た蕾夏は、やがて、不自然なほどにニッコリとした笑みを―――そう、本気で作った時のあの笑みを浮かべてみせた。
 「下で、イズミ君と偶然会っちゃったんで、お届けにあがったんだけど」
 ぽん、とイズミの背中を1回叩いて。
 「…お取り込み中みたいだから、ここで失礼します」
 「―――……」


 ここからの瑞樹の行動は、素早かった。
 空いてる方の手で蕾夏を引っ張り込むと、舞の手を振り解き、その背中を押して外に追い出す。
 その一連の動作をものの3秒で完了すると、バタン! とドアを閉めた。結果―――5秒後、廊下には、呆然とした状態の朝倉親子と、ガチャンと鍵がかけられる音だけが残された。

 「……」
 ドアの内側では、どういう修羅場が展開しているのやら―――2人の関係を間近では見てこなかった朝倉親子には、さっぱり想像がつかない。
 「…これもあんたの計画の内なの? イズミ」
 やっと呆然状態から立ち直った舞が呆れたように言うと、イズミは、気まずそうにチラリと目を上げた。
 「…んな訳、ないやん…。まさか姉ちゃんが来るなんて思ってなかったし」
 「全く―――おかげで、荷物全部部屋の中に置きっぱなしのまま、親子揃って廊下に閉め出し食らっちゃったわよ? どう落とし前をつけてくれるのかな、イズミ君?」
 ツン、と頬を舞につつかれ、イズミは不貞腐れたようにそっぽを向いた。そんなイズミの様子に、舞はクスッと笑い、メッシュの入った不思議な色合いの髪をくしゃくしゃっと撫でた。
 「…急にどうしちゃったの。蕾夏さんの写真眺めてるだけじゃ物足りなくなった? それとも、また“お父さんが欲しい”症候群が久々にぶり返しちゃったの?」
 「……」
 「タンスの上の成田君の写真、突然しまったりするから、何があったのか気になってたけど―――何か話せない事でもあった? ここ2週間のイズミ、本当に変だったわよ?」
 「…別に…なんも、あらへん」

 ―――何があったかなんて、母ちゃんには言いたない。

 奥歯をぎりっと噛み締める。そっぽを向いたままのイズミは、母を困らせていることに罪悪感を覚えながらも、決して本音は口にしなかった。


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