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― 眠れるツワモノ ―

 

 朝食の席で父が発した一言に、佳那子は、口に運びかけたティーカップをソーサーの上に戻してしまった。
 「…ちょっと、待って。もう一度言って」
 「今日の夜、時間を空けろと言った。急な話で悪いが、見合いだ」
 「いきなり今晩!?」
 冗談じゃない。相手もあることなのだし、佳那子にだって仕事があるのだ。今までだって、少なくとも3日前までには予定を告げてきていた筈なのに…。
 「急に決まったんだから、仕方ないだろう? 大丈夫だ、相手は今晩で問題ないと言っている。佳那子はどうだ? 予定は入ってるのかね」
 優雅に紅茶を飲みつつ、そう言ってフッと笑う父の姿は、多分お茶の間の中年奥様方から見たら「ああ、佐々木先生って今日もダンディね」という姿なのだろう。が、娘の佳那子には、その姿はただの性悪の悪魔にしか見えなかった。
 「…大事な会議が定時後にある、って言ったら、どうするつもりなの」
 「佳那子には急遽、風邪をひいて高熱を出してもらう。見合いの時間まで部屋から一歩も出られないよう、原口に見張らせるかもしれないね」
 「な…なんてこと言うのよっ! 見合いのために会社をずる休みさせる親なんて許されると思ってるの!?」
 「お前の会社のシステム部が、定時後に会議を開いたことなどないじゃないか。そんなことはとっくに調査済みだ。少々わたしを見縊ってないかね」
 「…会議はないけど、今、仕事が結構忙しいの。急に言われても、定時退社なんてできないわよ」
 「ほー、じゃあ断るのか」
 ふふん、と父が鼻で笑った。
 「よもやお前が、この父を裏切って、あの久保田隼雄とあるまじき関係を続けているなどとは思わないがね。そういう反抗的な態度をとられると、さすがのわたしも疑いたくなるよ。そうそう、山田君のところの娘さんが、会社を辞めてしまって転職先を探している最中だったなぁ…お前の会社も、確かコールセンターの要員を1名募集していたと思うが」
 「あーあーあー、もう、分かりました。分かりましたから」
 つまり、スパイを社内に送り込んでやる、という意味だろう。全く…どこの世界に、娘の交友関係を調べるためのスパイを部下の子供にさせる親がいるというのだ。うんざりした佳那子は、うるさそうに眉を顰め、再びティーカップを手にした。
 「お父さんも懲りないわね。今回もどうせ向こうから断るに決まってるのに」
 全戦全敗しているのに、いまだに見合い話を定期的に持ってくるのだから、単なる意地としか思えない。しかし父は、涼しい顔でのたまった。
 「佳那子は元来、晩熟で世間知らずのお嬢様だからね。佳那子の知る範囲の中じゃ久保田隼雄なんぞが実物以上に良く見えてしまうのかもしれないが、レベルの高い男性に数多く会えば、あんなのは大したもんじゃない、といずれ目が覚める筈だよ」
 「―――おあいにくさま」
 目が覚める日なんて、永遠に来ない―――佳那子は、この6年で確信している。
 第一、父が言う“レベルの高さ”なんて、佳那子からすればただの世間体と見栄に過ぎない。これまで相当数の見合いを事務的にこなしてきたが、ほんの僅かでも好感の持てた男など、1人もいなかった。久保田と比較するまでもない。それ以前の問題だ。
 「で? 今回は何て人? 身上書が来てるんなら、さっさと出して」
 毎度のことなので、手続きも分かっている。写真と身上書を早いとこ貰って、今夜のための対策を練らなくては―――そう思った佳那子だったが、父から返ってきたのは、意外すぎる言葉だった。
 「いや、今回は、身上書も写真もないんだよ」
 「えっ?」
 「言っただろう、急に決まったって。用意する時間もなかったんだよ。大丈夫、今夜7時に、この店に行ってカウンターで名前を言えばいい。それでちゃんと、見合い相手と会える筈だから」
 そう言って父は、1枚のメモを佳那子の前に置いた。そこには、フレンチレストランらしき店名と住所と電話番号、それに午後7時という時間だけが書かれていた。
 「…ちょっと。相手の名前位、書いたらどうなの」
 いくらなんでも名前すら分からないのは無茶な話だ。しかし父は、妙に含みのある笑い方をして、
 「たまには、名前すら分からない相手というのも面白かろう。最近、見合いもマンネリ化してるからね。佳那子も十分、楽しんでおいで」
 と言うばかりだった。

***

 「ふーむ。また今回は新手の変化球できたな」
 今朝の一件を佳那子から聞かされ、久保田は難しい顔で唸った。
 折りよく、和臣が不在で久保田が社内にいる日だったので、ランチタイムを利用しての密談だ。大半の人間が外へ食べに行ってしまうので、こういう場合、社内に残って弁当などを食べる方が、密談には向いている。勿論、今日の2人もその方法をとっていた。
 「なんだお前、サラダとおにぎり1個だけか? ダイエットでもしてるのか」
 机の上に並んだ佳那子の昼食を見て、久保田が眉を顰める。そう言う久保田の前には、当然、ボリュームも栄養も満点の幕の内弁当が置かれていて、しかも既に3分の1ほど食べ進んでいる。
 「違うわよ。今晩のこと考えたら食欲湧かなかったのよ」
 「そこまで心配しなくても、佐々木はもう十分、見合いの達人だろ。何回目だ?」
 「…もう忘れた。でも、“久保田プロファイリング”は、ほぼ完璧に頭に入ってるわよ。そういう意味では、どんなタイプが来てもその場で対処できる自信はあるんだけど」
 「けど?」
 「お父さんの、あの含み笑いが不気味なのよねぇ…」
 ちょっとため息をついた佳那子は、そう言ってレタスを口の中に放り込んだ。
 「お見合いを受けないと色々面倒だしうるさいから、受けて向こうに断らせる方が断然得策だと思ってたけど…なんか、今回だけは、嫌な予感がするのよ。ほら、久保田の時にもあったじゃないの。一筋縄ではいかない相手」
 「…ああ…あれか。いたな。1人だけ」
 思い出して、久保田の眉間に、深い皺が寄った。
 久保田も、佳那子ほどではないが、相当数の見合い話を祖父から押し付けられている。どれもこれも大物の娘ばかりで、見合いそのものを断るのはほとんど不可能なのだが、久保田はこれまで、ほぼパーフェクトに近い確率で相手に断らせることに成功している。
 ただ、過去に1人だけ、例外がいた。さる大企業のお嬢様だったが、久保田を異様なまでに気に入ってしまい、なんと家出して久保田のアパートに押しかけてきたのだ。あらゆる手段を講じてなんとか追い出すことに成功したが、都合3日間にわたって久保田の家に居座った。あの時は、佳那子は拗ねるし善次郎は大喜びするしで、久保田は散々な思いをしたのだ。
 「見合い初体験な上に、実は初恋も未経験で、しかも年上だったからな、あれは…。けど、佐々木先生がそういう系統の男を連れてくるとは思えねーぞ?」
 「んー…、そうね。今までも全員、場慣れした“わきまえてる男”しか連れてこなかったし」
 「佐々木先生の出す条件クリアしてる男となると、そうなるのが当然だろ」
 社会的地位も高く、納得できるだけの高収入を得ていて、博識で経験も豊富な、見目も良い大人の男―――佳那子の父が理想としているのは、そういう男だ。遊び人は論外だろうが、恋愛の1つや2つ経験しているような男でなくては、まず見合いのセッティング前に候補から落としている筈だ。
 「でもねぇ…なーんか、怪しいのよねぇ。絶対何か裏がある筈よ、あの顔は。大体、名前も明かさずに見合いさせるなんて、いくらなんでもおかしいじゃないの」
 「確かになぁ…」
 名前すら明かさず、写真も渡さない見合い。
 どんな裏があるんだか―――幕の内に入っていた煮物を頬張りながら考えを巡らせた久保田は、ある可能性にぶち当たった。
 「―――佐々木の、知り合いかもな」
 ボソッと久保田が呟いた一言に、佳那子は目を丸くした。
 「知り合い? 私の?」
 「そう考えれば、辻褄が合うだろ。名前も顔も明かさないってことは、それを佐々木が知ってるからなんじゃないか?」
 「…そう言えば、そうね。でも、何だって教えないのかしら」
 「ただ驚かせたいだけかもしれないし、教えたらまずい相手なのかもしれないし」

 教えたらまずい相手―――。
 そんなの、いた?

 サラダを食べながら、佳那子はいろんな人物の顔を思い浮かべた。が、これといって引っかかってくる人物は、特に思い当たらなかった。

***

 指定された店は、名前から想像したとおり、フレンチレストランだった。
 「多分、予約が入ってると思うんですが…」
 「お名前をいただけますか?」
 「佐々木です」
 「はい、お連れ様がお待ちです。こちらへ」
 ―――なんだか、診察台に連れて行かれるような気分よねぇ…。
 フロア支配人について店内を進みながら、佳那子は複雑な心境で眉をひそめた。毎回、親も仲人も外した形での見合いだから、こうして店員に席まで案内されるのは毎度のことだが…今回ばかりは勝手が少々違う。席に着くまで、相手の顔すら分からないのだから。
 支配人に案内されたのは、窓際の席だった。奥の席に座るダークグレーのスーツ姿の男は、窓の外を眺めていて、顔が確認できない。ただ、その醸し出すムードに見覚えのあるような気がした。
 「失礼します―――お連れ様がいらっしゃいました」
 支配人が声をかけると、男の顔がこちらを向いた。
 その顔を見た瞬間―――佳那子の呼吸が、止まった。

 体温が、一気に下がった気がした。
 バッグのストラップに添えた指が、僅かに震える。来るんじゃなかった―――たった1秒で、そう後悔した。
 なんだってこの男との見合いを、よりによって父が承諾したのか―――理解に苦しむ。この男を一番罵っていたのは、誰あろう父本人であった筈なのに。久保田から知り合いかもしれない可能性を示唆された時、この男の顔が思い浮かばなかったのだって、それだけはありえないと心から信じていたからだ。

 蒼褪めた顔で立ち尽くす佳那子を見上げた彼は、8年前と変わらない、うわべばかりの完璧な微笑を佳那子に向けた。
 「やあ―――久しぶり」
 「…牧野さん…」

 牧野恭介。佳那子の記憶違いでなければ、佳那子の3つ年上の、現在32歳。
 佳那子にとっては、いわゆる“元カレ”である。

***

 牧野と佳那子の出会いは、8年前―――佳那子が大学3年の春に遡る。
 当時、父が勤める経済総合研究所に入って間もなかった牧野は、珍しく父が気に入っていた新人だった。同じ大学の出身ということもあったのだろうが、何より、顔立ちや背格好が自分と共通する部分があるのが気に入っていたのだろう。実際、牧野は、若い頃の父を彷彿させるスラリとした体型の、ノーブルな青年だった。
 佳那子自身が牧野に初めて会ったのは、父の経済関係の本が、売上50万部を突破した時のちょっとしたパーティーの席だった。目下の父の秘蔵っ子という形で連れて来られていたのだ。
 その若さを見縊られて随分と込み入った経済の議論を持ちかけられたりもしたが、牧野はそつのない笑顔で、それら全てに受け答えしていた。それでいて、僕はまだ若輩者ですから、と謙遜する際の牧野の態度は、心からそう思っているかのように謙虚で初々しい部分があった。だから、周囲の評価は総じて「頭は切れるが、まだまだ世間ずれしていない、可愛い奴」というものだった。
 佳那子も、牧野が佳那子に向ける、下心など全くなさそうな清潔で優しい笑顔に好感を持った。何より、あの父と対等に経済の議論が出来るだけの知識と教養を持ち合わせている点で、牧野に尊敬の念を抱いたのだ。
 そんな、プラスイメージがあったから、
 「僕もジャズには興味があるんだ。佳那子ちゃんにいろいろご教授願えるとありがたいな。どう? 今度ジャズライブにでも連れて行ってくれないかな。勿論、チケット代は僕が奢るよ。受講料と思って、黙って奢られてくれて構わないから」
 パーティーの帰りに牧野がそう言った時、あっさりそれをOKした―――その言葉が、佳那子の性格を十分に計算し尽した上でのものだということにも気づかずに。

 ジャズライブで、佳那子は何も牧野に教えることができなかった。
 出演者から演目、その曲の発生経緯から楽器の特性に至るまで―――牧野は、佳那子がそれについて説明するより一歩早く「そうそう、この曲ってさ…」と説明してみせたのだ。はっきり言って、佳那子の知識では追いつかなかった。
 牧野がその時披露した知識が、この日のライブのために前もって念入りに調査をして詰め込んできた付け焼刃的なものであったことなど、素直で人を疑うことを知らないお嬢様だった佳那子に見抜ける筈もなかった。佳那子は、あっけなく牧野が仕掛けた罠に落ちてしまったのだ。
 いかにも照れたような様子で想いを打ち明ける牧野に、佳那子は交際を快く承諾した。過去のボーイフレンドには悉く反対してきた父も、牧野に関してだけは「まあ、彼ならいいんじゃないか」と言ってくれた。ジャズライブから1週間後には、晴れて牧野は、父親公認の佳那子の彼氏という席に収まっていた。

 確かに当時、佳那子は牧野に恋をしていた。
 というより―――恋するよう仕向けられ、恋した後も牧野が巧みに佳那子に夢を見させ続けていた、というのが正しいだろう。
 言葉巧みに言いくるめられて、生まれて初めて男性に体も許してしまったが、その時は全く後悔しなかった。牧野は優しかったし、いつだって強引ではなかったから。勿論―――そう佳那子が感じるよう、牧野が巧みに誘導していたのだが。全ては牧野の手の上で転がされていただけ。牧野恭介という男の本性を、一切見抜けないままに。

 そんな関係が、2ヶ月も続いた頃。牧野の本性を、佳那子は初めて知ることとなる。
 デートの最中、食事中の席に突如、見知らぬ女が踏み込んできて、もの凄い剣幕で「これってどういうことなの!?」とわめきだしたのだ。
 何が何やらさっぱり分からない佳那子の目の前で、牧野は、場違いなほど冷静だった。佳那子に向かって“泥棒猫”などと悪態をつくその女性の頬を、牧野は表情一つ変えずに、手加減なしにひっぱたいた。
 「勘違いもいい加減にしてくれないかな。僕は最初から言った筈だよ? 君は本命にはなりえないって。それでもいいなら付き合ってやろうって」
 しかし、その女がわめき散らす言葉から想像できる2人の関係は、佳那子と牧野以上に親密だった。ほとんど通い妻と言っていいような関係―――佳那子はまだ、牧野の家にすら行ったことがないのに、その女は牧野の部屋の掃除をしたり洗濯をしたりしたというのだから。
 「あたしが恭介の彼女なんだと思ってたのに…っ! 恭介だって、あたしのこと好きだって言ったじゃないっ!」
 「ああ、好きだよ。君のその、愚かでコントロールしやすい頭と、自尊心を満足させてくれるだけの美貌はね」
 恐ろしいほど穏やかな笑みを浮かべて、牧野は言い放った。
 「利用して都合よく扱うには、君は最高の女だったよ。でも、この態度はいただけない―――残念ながら、これで君とも終わりだね」
 「ひ…酷いっ! じゃあ、この女が恭介の本命だっていうの!?」
 女に指差され、佳那子の体が強張った。自分以外の女がいたという事実より、彼女に見せる牧野の顔が、佳那子が知るそれとはあまりにも違いすぎたため、怒りよりショックの方が大きくて、身動きひとつ出来なかった。
 彼女の指先を追うように、牧野の目が佳那子を捕らえる。悪いことなんて1つも考えてないような、完璧な笑みを浮かべて。
 「まあ、そのつもりでいたよ。彼女は、結婚するメリットのある女性だからね」
 「……」
 「君より数段美人な上に、君以上に世間を知らなくて、君以上にコントロールしやすい女だ。しかも父親が僕の上司だし。でも、こんな醜態を君に晒されたのでは、僕の計画も水の泡だよ。…さて、この落とし前、君はどうつけてくれるのかな」

 ただ二股をかけられただけなら、まだいい。もっと酷い。最大級の侮辱だ。
 牧野は、佳那子を好きな訳じゃなかったのだ。見た目が良くて、扱いやすくて、自分の勤める会社の要職につく男の娘だから―――将来、結婚すればメリットのある女だから、本命とみなしていたに過ぎない。牧野が佳那子に見せていたのは、そういう目論見で、佳那子を陥落させるための顔に過ぎなかったのだ。
 この瞬間、佳那子もさすがに目が覚めた。父の前で申し開きしろと牧野に迫り、家へと引っ張っていった。
 牧野の方も、本性を見破られてしまっては、事を計画通り進めるのは無理と悟ったのだろう。素直に父に頭を下げた。ただし―――最後まで牧野は、狡猾だった。
 「実は、以前から親しくしている女性がいまして…僕はあくまで友人の1人と思っていたんですが、彼女の方は随分と思いつめてしまったらしく、今日デートの席に押しかけてきて、佳那子さんに失礼なことを…。少々問題のある女性なので、このままでは僕のせいで佳那子さんにも被害が及びかねません。結婚も視野に入れて真剣にお付き合いしていたつもりですが―――申し訳ありませんでした」
 あくまで、彼女が異常者で、自分たちは被害者だという姿勢を貫いた訳だ。佳那子が口を挟もうとしても、上手くあしらわれてしまうだけだった。
 勿論、父もそれを丸ごと信じた訳ではない。相手の女性に誤解させるような態度を君が取ったからだろう、と目を三角にして怒鳴った。見ず知らずの女性を気の毒に思って怒ったのではない。その女性を思いつめさせた結果、大事な佳那子に失礼な真似をさせてしまったからだ。
 異性関係に問題あり、という男は、父が一番嫌うタイプだ。「とてもじゃないが君を佳那子の相手とは認める訳にはいかないね」と父が宣言したことで、牧野と佳那子の関係は完全に終わった。

 以来、8年。佳那子は牧野とは二度と顔を合わせることはなかった。

 

 「…どういうことなの」
 ワインがグラスに注がれるのを待って、佳那子は震える唇をようやく開いた。
 余裕の態度で腕組みしていた牧野は、そんな佳那子の表情を、どこか愉しげな顔で眺めていた。本性を口の端にだけ滲ませて笑うその顔は、牧野がちっとも変わっていないことを物語っていた。
 「まあ、そう慌てることもないだろう? せっかくの最高級ワインが台無しになる。とりあえず乾杯といこうか」
 「冗談はよして。あなたと乾杯するつもりなんて微塵もないわ」
 どんな料理を出されようが、一瞬でもこの男の手が触れたものは、一切口にしないと決めている。そんな経験はないが、目的のためなら薬を盛ることだって躊躇わない奴だと見なしているから。
 「そう思うなら、さっき案内された時点で回れ右して帰ることだって出来たんじゃないかな」
 「あなたの目的を見極めておかないと、後々馬鹿を見るのは自分の方だって分かってるから」
 牧野の目を見据えて佳那子がそう言い放つと、牧野は軽く眉を上げ、わざとらしい口笛を吹いた。
 「―――お姫様も随分と鍛えられたみたいだねぇ。よほど社会勉強をしたのか…それとも、誰かさんの入れ知恵かな?」
 あからさまなほどの、挑発だ。乗ってしまえば、そこにつけ入られる―――佳那子は、唇をきつく引き結んで、牧野の言葉を無言でやり過ごした。
 佳那子が何も答えないと察すると、牧野は肩を竦め、テーブルの上に置かれたままの佳那子のグラスに自分のグラスを軽くぶつけた。その場には似つかわしくない小気味良いガラスの奏でる音が響く。
 注がれていたワインを半分ほど一気に飲んだ牧野は、小さく息をつき、グラスを置いた。冷ややかな表情で指一本動かさない佳那子に目を向け、ふっと笑う。その笑いは、さっきとは違って、完全に牧野の本性そのままの笑い方だった。
 「7月の末だったかな―――見せてもらったよ。“TVバトル”とかいう番組」
 「……」
 「あれを見て、ピンと来た。まさか君が、あの久保田善次郎の孫といい仲になっていたとはね―――意外すぎて、笑ってしまったよ」
 思わず、息を呑む。まさかこんなところで、あの番組の話が出てくるとは思わなかった。顔色を変えてはいけない、と思うものの、既に佳那子の顔色は僅かに蒼褪めていた。
 「当然、反対されてるんだろうね、あの2人に。佐々木顧問、会社でも君の見合い相手を常に探し回ってるし。正式には交際を認められていないってところだろう。違うかな」
 「…だったら、何だって言うの。あなたには関係ないでしょう?」
 「確かにね。ただ、思ってもみなかった面白い展開に、久々にやる気になっただけだよ」
 「やる気?」
 眉をひそめる佳那子に、牧野の笑みが深くなる。
 「あの番組見てから1ヶ月ほど、久保田隼雄に関するリサーチをさせてもらった。悲しいかな、僕より役職も収入も卒業大学のレベルも下のようだけど―――どの辺りが君のお眼鏡にかなったのかな?」
 さすがに、佳那子の顔が一気に不愉快そうなものに変わった。一体どんな手口でリサーチしたのやら―――軽蔑しきった目になった佳那子は、馬鹿にしたような笑いに口元を歪めた。
 「そういうこと言う時点で、あなたは久保田の数段下よ」
 「人間性ってことかな」
 「テストの点数じゃ人間の優劣はつけられない、ってことよ。あなたは仮面で人を騙すことしか出来ない男だけど、久保田は素顔で人を魅了することの出来る男なの。勝負になるどころか、比較対象にすらならないわ」
 初めて、牧野の顔に不愉快そうな色が浮かんだ。
 が、それも一瞬のことだった。やれやれ、という風に肩を竦めた牧野は、完璧に計算された優雅な仕草で、再びグラスを手にした。
 「とにかく―――あの番組を見て僕は、どうやら君に親の反対を押し切ってでも一緒になりたい男が現れたらしい、と遅ればせながら気づいた訳だよ。俄然、興味をそそられた。父親に逆らうことを知らなかった君を変えた男だからね」
 「リサーチして、久保田が何者かは分かったんでしょ。もう興味は満たされたんじゃないの」
 「彼の方はね。でも、まだ満たされてない興味がある」
 「…何よ」
 「君に対する興味だよ」
 「―――…」
 ニッ、と笑う牧野に、佳那子は呆れたような顔をした。
 「…あなたね。別れる時に自分が何言ったか、覚えてないの? もう老化現象?」
 「覚えてるよ。“厳重に箱にしまわれたお嬢様を暴くゲームは、最高に楽しかったよ。暴いてしまえば、あとは面白くも何ともない―――計画は失敗に終わったけど、こっちもある意味助かったよ”。…確か、そんなセリフだったね」
 「覚えてる癖に、何今更馬鹿なこと言ってるの?」
 「当時の君は、面白くも何ともなかったよ、確かに。でも…今の君は、かなり興味をそそられる。久保田君の登場ですっかりじゃじゃ馬になった君を、どんな手段で馴らしていくか―――考えただけでゾクゾクするね」
 本当に愉しそうに目を細める牧野を見て、佳那子は、背筋が寒くなるような悪寒を感じた。
 そう―――この男にとって、男女の交際はいつだって“ゲーム”だ。どんな仮面を被って相手を騙すか、どんな手段で目的を遂げるか…そういう戦略を練って、ほくそえんでいる。そしてまた、この男は、新たな攻略しがいのあるゲームを見つけたのだ。佳那子という、とっくにクリアしたつもりでいたゲームを。
 「…それで、お見合い? 馬鹿馬鹿しい…あなただってお父さんに散々詰られた立場なのよ。忘れたの?」
 鳥肌のたった二の腕を軽くさすりながら、佳那子はあくまで冷ややかな視線を貫いた。けれど、牧野から返ってきたのは、自信満々の余裕の笑みだった。
 「僕は久保田君と違って、仮面を被れるからね。8年間、君に未練を持ち続けながらも、罪悪感から何も言う事ができなかった苦悩の男を演じること位、造作ないことだよ」
 「―――最低」
 「なんとでも。その結果として、こうして見合いの席を許してもらえた訳だからね。全く―――久保田君も、せめて僕の半分も上手く立ち回れれば、もっと簡単に君を手に入れられただろうに」
 瞬間―――佳那子の目が、一気に険しいものになった。
 おもむろに自分のグラスを手にした佳那子は、その中身を、向かいの席の男の顔に向かってぶちまけた。
 「……っ」
 景気良く散ったワインは、大半がテーブルの上に落ちたが、一部が男の顔を濡らした。さすがに顔を顰めた牧野の前髪から、赤紫色の雫が1粒、落ちた。
 「―――帰るわ」
 怒りを押さえ込んだ低い声でそう言い、佳那子は席を立った。しかし牧野は、クロスでワインを拭いながら、まだ余裕の笑みを浮かべていた。
 「…いじらしいね。愛する人を侮辱されて、キレちゃったのかな」
 「っ、あ、あなたね―――!」
 佳那子が完全にキレかけたその時、コンコン、という、窓ガラスを叩く音が、2人の間に割って入った。
 驚いて窓の方に目を向けた2人は、そこにいる人物の顔を認めるや、どちらも大きく目を見開いた。
 「く……」

 ―――久保田っ!?
 な、なんで…なんで久保田がここにいるのっ!?

 事態が飲み込めない。半分立ち上がった姿勢のまま、佳那子は唖然とした表情で、窓の外で悪びれない笑みを浮かべて手を振る久保田の顔を凝視した。牧野がどんな顔をしているかは分からない。そんなものを確認する余裕もなかった。
 「お、お客様、大丈夫ですか?」
 佳那子にワインをかけられた牧野を気遣って、店員が飛んでくる。その声で、佳那子もやっと牧野の方に目を向けた。
 「あ…ああ、大丈夫だよ、ありがとう。僕よりテーブルクロスの方が被害を受けたようだね。申し訳ない」
 牧野は、営業用といった笑顔を咄嗟に作り、店員が手にしたタオルを取ってテーブルクロスを丁寧に拭き始めた。
 「いえ、お客様、そのままにしておいて下さって構いませんから…」
 「そう? ああ、でも―――この状態では食事は無理そうだから、クロスを変えてもらってもいいかな。これは、クロスを汚した分の代金として取っておいて」
 そう言って、さりげなく1万円札を店員に握らせる。全く…どこまでも計算高い男だ。
 「いいえ、それには及ばないわ。私、これで失礼させていただくから…」
 佳那子が言いかけた時、また窓ガラスがコンコン、と鳴った。
 牧野の顔に、苛立ちが浮かぶ。眉をひそめた牧野と、まだ混乱状態の佳那子が窓の方を見ると、久保田がニヤリ、と不敵な笑みを浮かべていた。そして、手にしていたメモ帳らしきものを、2人の方に向けた。

 『はじめまして、牧野恭介さん。久保田隼雄です』

 「―――…」
 さすがに、牧野の顔にも、驚きの表情が現れた。佳那子に至っては呆然状態だ。
 確かに久保田には、牧野とのことを話したことがある。父が異常なまでに佳那子を束縛するようになった理由のひとつが、牧野との一件だから。けれど―――当然久保田は、牧野の顔を知らないし、今日の見合い相手が牧野であることも知らない。恭介という名前だって知らない筈だ。
 驚きに2人が言葉を失っていると、久保田は、不敵な笑みをキープしたまま、メモ帳を1枚めくった。

 『興信所の人間に周囲を嗅ぎ回らせる位なら、直接話をしに来ればいいのでは。とりあえず、目障りなので、調査は今すぐ終了して下さい』

 更にもう1枚。

 『これ以上怒らせるようなら、法的手段に出させてもらうぞ、アホンダラ』

 「……」
 アホンダラ、って―――…。
 思わず、吹き出す。それまでの口調が丁寧だった分、最後の一言は笑えた。肩を震わせて笑う佳那子とは対照的に、当の牧野は憮然とした表情だった。
 少し冷静になったら、大体の事情が理解できた。多分久保田は、最近、自分の身辺をウロウロしている興信所の人間の存在に気づいていたのだろう。そこにきて、今回の不可解な見合いのセッティング―――牧野との過去のいきさつを知っている久保田は、それらの接点にいるのが牧野であることを、昼の密談で密かに嗅ぎ取っていたのに違いない。
 牧野はいまや、自らも経済雑誌に記事を出すほど、経済界では知られた人物だ。下の名前位、佳那子が言わなくてもすぐに調べがつく。あとは、裏づけだけ―――この場にきて、店の人間に確認をとれば済むことだ。
 全く―――久保田らしい。

 佳那子と牧野の反応に満足したのか、久保田はメモ帳をスーツのポケットに突っ込むと、ヒラヒラと手を振って歩き去ってしまった。乱入してくる気は、さらさら無かったらしい。もっとも―――乱入される以上に、インパクトは強かったが。
 「…嫌味な男だな」
 「牧野さんほどじゃないわよ」
 佳那子の言葉に大きなため息をついた牧野は、事態を飲み込めずにいる店員の方を向いて、
 「悪いけど、やっぱりクロスを替えてくれるかな」
 と指示した。
 再び椅子に腰掛け、クロスで濡れてしまったネクタイを拭いながら、まだ立ったままの佳那子を見上げるその顔は、さっきより幾分か作ったものではなくなっていた。
 「2人分のフルコースをフイにするのは勘弁して欲しいな。ここはひとまず、デザートまで付き合ってもらえないか」
 「そんな義理はないわ」
 「君だって、相手にワインをぶちまけた上に、見合いの途中で逃げ帰ったと言われるのは嫌だろう?」
 「……」
 「…分かった。今日に限って、不本意ながら負けを認めよう。今日は、時事問題以外の話題は無しにしよう。それでいいかな」
 さっきの一件で、牧野が久保田に飲まれ気味になっているのが感じられる。とりあえず今日は、事を荒立てるような真似はしないだろう―――佳那子は覚悟を決め、ストン、と腰を下ろした。
 「言っておくけど、今日帰ったら、即座にこの話は断るわよ」
 「構わないよ」
 ふっ、と笑った牧野は、挑戦的に目を細めた。
 「僕は僕のゲームを遂行するまでだから」

 大丈夫―――久保田がいれば、どんな窮地に立たされても、上手く切り抜けられる。

 「ゲームオーバーはそう遠くないと思うわよ。アホンダラの相手をいつまでもできるほど、私も久保田も暇じゃないから」
 不思議なほど落ち着いた気持ちで、佳那子は牧野にそう返してみせた。


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