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― ハーフ&ハーフ ―

 

 憂鬱な朝だった。
 歯磨きをしながら、ついため息をついてしまう。いやいや、ダメだ。こういう顔をすると、奈々美さんに呆れられてしまう―――和臣は、ぜんまいが切れかけたような力ない自分の顔を鏡に映し、シャキッとしろ! と心の中で一喝した。
 「あー、もうあんまり時間ないよね。カズ君、ほんとに大丈夫?」
 パタパタとスリッパの音を立てながら歩き回る奈々美のセリフに、「ごめん、全然無理。だからやっぱり帰ってきて」と言ってしまいそうになる。
 でも、そういうことを言うのは、大人気ない。もうすぐ人の親になろうというのに(いや、既になってるのか)、そんなことでは子供に全然示しがつかない。だから、洗い終わった顔をタオルで拭きながら、心にもないことを言うのだった。
 「やだなぁ。オレ、ちょっと前まではひとり暮らしだったんだよ? 大丈夫だって、心配しないでよ」
 …とても“大丈夫”と言えるような生活をしていたとは思えないのだけれど。
 「でも―――ああ、やっぱり、ちゃんと食事作って冷凍しといた方が良かったかなぁ…」
 「コンビニでお弁当買うから、平気だよ」
 「洗濯も、無理はしなくていいからね。ワイシャツも下着も、洗わなくても十分足りるから」
 「洗濯機と乾燥機の使い方はちゃんとマスターしたから、大丈夫だって。でも…うん、仕事できついようなら、お言葉に甘えてそうさせてもらうかも」
 「朝、1人で起きられる?」
 「奈々美さんのモーニングコールもあるし、大丈夫」
 「ほんとに?」
 「ほんとほんと」
 心配そうに見上げてくる奈々美に、大丈夫そうな笑顔を精一杯返す。
 「だから、心配しないで、ゆっくり羽根のばしておいでよ。地元の友達と会うのも、結婚式以来なんだしさ」

***

 「神崎さん」
 「…んあ?」
 「今度の企画会議の資料なんですけど…」
 後輩が、いつもと違う様子の和臣にちょっとびびりつつ、A4の紙の束をおずおずと差し出す。
 MSゴシック24ポイントで印刷された“企画書”という文字を見て、別世界に飛んでいた和臣の意識がやっとビジネスの場に戻ってきた。ボーっとした顔を慌てて引き締めた和臣は、彼から企画書を受け取った。
 「あ、ああ、ごめんごめん。で、どうだった? 予算の方、部長のOK下りたかな」
 「はい、なんとか。まだ、掲載してもらう雑誌の選定で困ってるんですけど…」
 「うん、それはまだいいよ。営業とかシステムの意見も聞いて、会議の中で絞り込んでけばいいから。いっぺんに全部決めて採決仰ぐ必要はないよ。前回の会議もそうだったでしょ」
 「ですね」
 ホッとしたように笑う彼を見て、ちょっと感動する。あー、オレも後輩からこんな顔されるような立場になったんだよなぁ、と。
 長いこと、企画部では一番年少者という不遇な立場に置かれ続けた和臣だったが、1月に中途採用でこの後輩が入って、めでたく“先輩”という立場へと昇格した。今年の花見大会で場所取りに走ったのは、和臣ではなくこの後輩だ。まだまだ、久保田に教わることの多い和臣だが、後輩ができると、ひと回り大きくなれた気分になるので、ちょっと嬉しい。
 8ページほどの企画書に細々とチェックを入れて、彼に返却する。どうもありがとうございました、と頭を下げる後輩を見送ったとこまでは、とても気分が良かった。
 が―――彼が席に着き、もう笑顔を作る必要がなくなると、途端にまた思考が別のところへと飛んで行ってしまった。

 「こら、カズ」
 頭を軽く叩かれる感触に、我に返った。
 顔を上げると、久保田が呆れ顔で立っていた。いつの間にか、外回りから戻ってきていたらしい。
 「あ…、お帰りなさい、久保田さん」
 「お前なぁ…なんて顔してるんだ? 幽体離脱してどこに魂飛ばしてるんだよ。静岡か?」
 「…う…、そうかも…」
 久保田には全部お見通しだ。ちょっと顔を赤らめた和臣は、自分の情けない様子を誤魔化すように少し姿勢を正した。
 「1日目からそんなことで大丈夫か。土日挟んで、計…何日だ?」
 「…ちょうど1週間です」
 そう。今日から奈々美が1週間もいないのだ。
 今日は金曜日。明日土曜日の午前中から、奈々美の地元・静岡で、高校時代の同級生の結婚式がある。それに出席しがてらの帰省という訳だ。
 1人きりの土日なんて久々過ぎて想像できないが、幸い、今週末は展示会のため出社になっている。いつもなら辛い休日出勤が、これほどありがたく思えたことはない。
 「まあ、羽根をのばすのはお互い様だと思えばいいさ。カズも久しぶりに独身気分を満喫しろ。そうだ、たまには飲みに行くか?」
 やたら楽しげに言う久保田に、和臣は思わず口を尖らせた。
 「なんで久保田さんがそんなに嬉しそうなんですかっ。オレの不幸がそんなに楽しいなんて、酷いですよ」
 「だってなぁ…瑞樹が辞めて飲みに行く相手が1人減ったところに、木下が辞めちまったからお前らを誘うことも出来なくなっただろ? カズが1人で寂しく飯食わなきゃならないんなら、これを誘わない手はないだろ」
 「…佳那子さんを誘えばいいじゃないですか。毎日でも」
 「俺達2人で毎晩飲み歩いたら、2人揃って将来肝硬変間違いなしだぞ」
 久保田は相手によって酒の量を調節する。佳那子も女の酒豪は可愛くないからと控えめにする。けれど―――2人きりだと、それがなくなる。とことん、どこまでも、飲む。
 「…確かにそうですね」
 「そんな訳で、今晩は俺達に付き合え。な? 何だったら瑞樹とか藤井さんにも声かけるか」
 …それは、ちょっと、いや、かなり魅力的な話だったのだが。
 「いや、やめときます。オレ、今回決心してるんで」
 ぐぐっ、と机の上に置いた拳に力を込める。あっさり「そうします」と言うだろうと思っていたらしい久保田は、意外そうに目を少し丸くした。
 「決心?」
 「自立する決心ですっ」
 「……」
 力のこもった和臣の宣言に、久保田は怪訝そうに眉をひそめた。
 「…お前、自立してないのか?」
 「できてないです。“自立するぞ!”って気合入れないと、多分、奈々美さんいなければ前の暮らしに逆戻りです」
 前の暮らし―――それは、非人間的な暮らし、と言っても過言ではない。部屋の中はゴミだらけ、眠いと着替えもせずに万年床に倒れこみ、賞味期限もよく分からないままに適当なものを口にする生活なのだから。
 「家事も手伝うようになったし、奈々美さんてお手本もあるから、生活スキルっていうか家のことそのものは前よりやれるようになったと思うんです。ただ…なんていうか、精神面の自立度は、なんか前より下がった気がして。ほら、久保田さんだって、奈々美さんが1週間いないって聞いた途端、“そりゃ気楽でいいな”なんて言わないで“大丈夫か”って心配したでしょ」
 「…そりゃあなぁ。あんな顔で報告されりゃあ…」
 まるで死刑宣告を受けた受刑者のような顔で言われたのを思い出して、久保田は苦笑した。
 「精神的に自立してないなんて、男としてやっぱり、ちょっとまずいでしょう。だから、1週間、誰からも慰められずに、自力で孤独と戦おうと思って」
 「……」
 ただの帰省なのに―――しかも、期間は1週間で、その大半がどのみち仕事で留守にするというのに―――“孤独と戦う”。
 そこまでのもんでもないだろう、と思うのだが、特攻隊隊員並みの覚悟の表情で力説する和臣に、久保田は、
 「―――まあ…ほどほどにしとけよ」
 と励ます以外なかった。


 その日の夜は、奈々美が前もって作っておいてくれた食事を温めて食べた。
 テレビを、いつもよりボリュームをちょっとだけ上げて眺めながら、いつもより速いスピードで食事を平らげる。会話がないとこんなに速く食べられるものなんだなぁ、と、ちょっと驚いた。
 いつもと同じように、おいしい料理だった筈。けれど―――なんだか、味が薄い気がした。
 ―――味気ない、って、本当に味が薄くなる現象なのかもしれないなぁ。
 食器を洗いながら、そんなことを思う。1人きりで食事をするのは相当久しぶりだが、味気なくはあるものの、耐えられないほどではなさそうだ。
 1人分の食器を洗い終わった時、電話が鳴った。
 猛ダッシュで電話口に駆けつけ、受話器を取る。“電話は奈々美の方から、夜10時台”と前もって決めていたから、奈々美からだと確信があった。
 「はいっ、神崎です」
 『カズ君? 私』
 自然と、顔が綻んでしまう。普段会社に行っている時と同じ時間しか離れていないのに、なんだかもの凄く久しぶりに声を聞いたような錯覚を覚えた。
 「うん。そうだろうと思った。今ちょうどご飯食べて食器洗い終わったとこだよ」
 『そうなんだ。私はお風呂上がったとこ。こっちは夕飯もお風呂も寝るのも早めだから、なんか困っちゃう』
 「何時頃寝るの?」
 『11時頃かな』
 「うわ、じゃあ、今日でもギリギリだね」
 時計は10時台後半を指している。もっと遅い帰宅だった場合―――夜の電話は、無理かもしれない。
 『だから、仕事で遅い時は、携帯メールでいいから連絡してね。こっちからもメールするから』
 「うん…そうだね。分かった」
 『やだ、そんな悲しそうな声出さないでよー。心配になっちゃうじゃないの』
 困ったような奈々美の声に、はっとした。いけない―――メールなんかじゃ絶対我慢できない、なんて、自立できてない証拠だ。
 「だ、大丈夫っ。そりゃ、声聞けないのは寂しいけどさ、メールで無事が確認し合えれば十分だよね」
 『そ、そうよね。まあ、たった1週間だし』
 慌てて優等生な返事を返したら、奈々美も何故か慌てたような声で、そう返した。

 実家の電話で、そう長電話をする訳にもいかない。5分ほど、他愛もない話をして、電話を切った。
 ―――み、短いよー。喋りたいことの5分の1も喋れてないよー。
 電話を切ったら、テレビの音がやたらと大きく感じた。部屋の広さまでなんだか広がった気がして、和臣は、一刻でも早く眠ってしまおうと、自棄気味にテレビのスイッチを切った。

***

 何故こんなに和臣が「自立、自立」と言い出したのか―――それには、ちょっとした訳があった。
 奈々美が「友達の結婚式、二次会も出たいから泊まってきたいんだけど」と言った翌日、和臣は、たまたま見ていたテレビで、恐ろしいことを知ってしまったのだ。

 『熟年離婚てやつですね』
 『ええ、そうなんです。最近多いとは思ってましたけど、まさか姉夫婦がそうなっちゃうとは思ってませんでしたねぇ』
 40代後半位の俳優が、トーク番組でそんな身内の話を披露していた。
 『義兄さんが定年退職した途端、これですよ。濡れ落ち葉とか言われて、さすがに気の毒だったなぁ。男って悲しいですよね、俺もそうならないように、嫁さんから自立しなくちゃなぁ』

 「…奈々美さん、“濡れ落ち葉”って、何?」
 自分も男なので、なんだか分からないがそういう悲しい立場にはなりたくないな、と切実に思った。だから、食後の紅茶を飲みながら、つい訊いてしまったのだ。
 「あー…うん、濡れ落ち葉ってのは、会社辞めちゃった旦那さんの形容詞の一種よ」
 「どういう意味?」
 「ええと…地面に落ちてる落ち葉って、乾燥してれば竹箒でさささっと掃けるんだろうけど、雨とかで濡れると、掃いても掃いても纏わりついてくるじゃない?」
 「うん」
 「会社人間で、仕事を離れた趣味も友人もない男の人なんかは、退職しちゃうと家にいる以外なくて―――ついでに、構ってもらえそうな相手も奥さんしかいないから、奥さんに纏わりつくんだって。…それで、濡れ落ち葉」
 「……」
 つまり。
 濡れ落ち葉とは、振り払っても振り払っても纏わりついてくる、ものすごーく鬱陶しい存在、という意味の言葉らしい。
 落ち葉、という響きは、ロマンチストな和臣にとって、非常に哀愁を帯びたものだ。落ち葉は、落ち葉であるだけで、とても物悲しい。なのに…纏わりついて鬱陶しがられる落ち葉なんて、悲劇だ。
 和臣の頭の中では、竹箒で掃いても掃いても取り除くことのできなかった濡れ落ち葉が、道路脇にどんどん堆積していってミミズなんかの寝床になるシーンが思い浮かんでいた。その様子は、物悲しいを通り越して、絶望に果てしなく近い様子だった。
 「…あ、あの、私が言った訳じゃないわよ? 私がそう思ってる訳じゃないんだから、そこのとこ、勘違いしないでね?」
 ショック、という顔をしている和臣に、奈々美が慌ててそう念を押した。
 それは分かっている。けれど―――…。

 この時和臣は、生まれて初めて、自分が会社を退職した直後の姿を思い浮かべてみたのだ。
 中高生時代は勉強に明け暮れ、大学時代は物珍しさにポカンとしているうちに終わり、社会人になってからは仕事と奈々美以外のことはほとんど考えずに生きてきた。はっきり言って和臣は、無趣味で仕事人間だ。唯一の趣味が奈々美、と言っても言い過ぎではない。そんな自分の熟年時代―――それは、明らかに、濡れ落ち葉と称される類の姿だった。
 『もうっ、いい加減にしてっ。子供だってもう大人になって自立してるのよ? やっと子育てから解放されたのに、どうして今更、私があなたの面倒を見なくちゃいけないのっ』
 なんて展開になったら―――2人でのんびり穏やかな老後を楽しむ前に、ジ・エンドだ。

 そんなの、絶対やだ。
 顔面蒼白になった和臣は、少なくとも奈々美に鬱陶しがられるような熟年にはなるまい、と決心したのだった。

***

 土日の休日出勤は、相当ヘヴィーな生活となった。
 朝、奈々美からのモーニングコールで目を覚ましたが、なかなか起き上がる気になれず、結局ギリギリの時間に起きて焼いてないパンと牛乳で慌しく朝食を済ました。
 昼休みはほとんど時間がとれなかったので、3時という中途半端な時間に、展示会会場の傍にある立ち食いそばでかけそばを流し込んだ。
 奈々美がいる時なら、いくら昼が不規則であっても、朝食をしっかり取っていた。なのに、それがないから、夕方にはダウン寸前状態だ。慣れとは恐ろしい―――独身の頃など、この土日とほぼ同じ食生活で、何ら問題がなかったのに。…いや、本当は問題は大アリだったのだし、問題だらけだったから入院する羽目にもなったのだが…少なくとも和臣は、そう感じていた。
 でも、一番大変なのが、夕飯。

 「…まずー…」
 レンジで温めたコンビニ弁当を半分ほど食べ進んで、思わず顔を顰めてしまう。
 考えてみたら、コンビニ弁当なんて結婚してから初めてだ。昼食にコンビニを利用することはよくあるが、そう言う場合、サンドイッチやおにぎりといったテイクアウトものを買うのが定番だから。
 ―――奈々美さんの手料理で、舌が肥えちゃったんだなぁ、きっと。前はこんなのでも、涙が出る位うまいと思って食べてた筈なんだけど…。
 やっぱり、慣れとは恐ろしいものだ。
 2日間、独身時代とほぼ同じ食生活に戻った和臣は、月曜日の朝には早くもうんざり気味になっていた。

 

 月曜日の昼は、展示会も終わり時間に余裕ができたので、いつものように久保田と一緒にファミレスのランチを食べた。朝、ぐずぐずしていたせいで朝食を抜いてしまったのは、奈々美にも内緒だ。
 ちゃんとしたものを食べたせいか、午後からの仕事ははかどった。抱えていた仕事が一段落し、ホッと一息ついて時計を見たら、ちょうど定時を少し回ったところだった。
 急ぎの仕事もないし、帰ろうと思えば帰れる。トントン、と書類を揃えた和臣は、しばし考えを巡らせた。
 ―――でも、早く帰っても、奈々美さんのお出迎えはないんだよね…。
 奈々美が留守になってから3日間、自分で鍵を開けて部屋に入る時の、あの寒々しい気持ちを思い出して、一気に陰鬱な気分になる。帰りたくない。それが正直な気持ちだ。
 「あら神崎」
 ぼんやりしていたら、どうやら帰るところらしい佳那子が、意味深な笑みを浮かべて近づいてきた。
 「珍しく早く終わったみたいじゃない。帰らないの?」
 「う…、今、帰ろうかどうしようか迷ってたとこで…」
 「4日目ともなると、そろそろきついんじゃない? ちょうど今日、久保田と飲みに行く約束してるんだけど、何なら神崎も来る?」
 帰りたくない気持ちを見透かされたみたいな誘いに、和臣はちょっと眉を上げた。
 「見せつけられるだけだから、やめときます」
 直後、ゴツン、と頭上に拳骨が降ってきた。
 「…そういう言葉は慎みなさいと、ナナにも言った筈だけど」
 冷ややかな佳那子の声に、思わず首を竦める。そうだった―――久保田との関係については、諸事情により社内では禁句なのだ。ちょっと痛む頭をさすりながら、和臣は小さく「ゴメンナサイ」と謝っておいた。
 「全くもう…寂しいからって、私達にあたらないで頂戴。久保田も、神崎の顔色が悪いって気にしてるのよ。素直についてきたらどうなの?」
 しょうがない奴、という顔で腕組みをする佳那子に、思わず「そうしようかなぁ」と言ってしまいそうになった。
 けれど。
 「―――いや、やっぱり、やめとく」
 「…あのね。貧血寸前の顔で、そんなきっぱり言わないでくれる?」
 即座に突っ込みが入ったが、和臣はキッ、と眉を上げて、佳那子を睨み上げた。
 「いーや、やめとくっ。自炊の自信がない分、せめてコンビニ弁当位笑顔で完食する根性がなきゃ、自立した男とは言えないでしょっ」
 「…コンビニ弁当食べた位で、自立した男とも言えない気がするんだけど…」
 ハードル設定が少々おかしいんじゃないか、と佳那子は言いたいのだが、精神的な余裕のなくなっている和臣にはさっぱり通じない。
 「だったら余計、コンビニ弁当位は食えなきゃダメなんですよっ!」
 ヒステリックに言い放つ和臣に、
 「…分かったわよ。でも、まあ…ほどほどに、ね」
 佳那子もそう励ます以外、道がなかった。

***

 ―――マ…マジでオレ、奈々美さん帰ってくるまで、もたないかも…。
 水曜日の朝、枕元で鳴るモーニングコールの携帯電話に手を伸ばしながら、和臣は頭の片隅でそんなことを思った。
 なんとか通話ボタンを押し、携帯を耳に当てる。
 「…はい…」
 『カズ君? 私。おはよう』
 「…おはよー…。奈々美さん、元気?」
 『私は元気よ。カズ君は? 大丈夫?』
 ごめんなさい、死にそうです。
 とは到底言えない。留守中の妻に心配をかけるようでは、自立した夫とは呼べないのだから。無理矢理おなかに力を入れて、和臣は精一杯元気そうな声を演出した。
 「んー、まあ、そこそこ。毎日3食きっちり食べてるし、夜も早めに寝てるしね」
 嘘ではない。毎食ちゃんと食べている。朝は牛乳だけだし、夜はコンビニ弁当半分が限界なのだが、完全に抜いたのは月曜の朝食だけだ。夜早めに寝ているのも事実。ただし、一晩に4回も5回も目を覚ますから、ほとんど寝た実感がないのだけれど。
 胃がムカムカする。昨日の昼食も、きちんとランチを注文したし空腹感もあった筈なのに、実は半分ちょっとしか食べられなかった。ベッドに横たわっていても目が回ってる気がするのは、貧血状態なのかもしれない。
 『そうなの…良かった。私がいないせいで、カズ君が倒れたりしたらどうしようと思ってたんだけど』
 「あははは、そんなことないよ、大丈夫。あ、洗濯も昨日ちゃんとやったから。でも、ワイシャツのアイロンかけだけは無理みたい」
 『そんなの、やらなくていいから! 仕事で疲れてるんだから、無理しないでよ? ほんとに』
 「うん、無理なんてしてないから、安心して」

 無理です。
 何もかも全部が、無理だらけです。

 言いたいけれど言えない和臣は、奈々美の声がちょっと寂しそうだったことに気づくゆとりすら、既になかった。

***

 「ほら、カズ…飯食いに行くぞ」
 久保田に背中を叩かれ、和臣はノロノロと顔を上げた。その顔を見て―――久保田の顔が、引きつった。
 「ちょ…っ、お前、なんつー顔をしてるんだ!?」
 「え、おかしいですか」
 「おかしいというか…」
 魂の抜け殻というか、幽霊というか。
 顔色が悪いのも勿論だが、それ以上に、表情がおかしかった。目は精彩を欠き、虚ろで、口元も眉も気力ゼロといった感じ。奈々美の帰省から今日で6日目だが、体重も結構落ちているのではないだろうか―――僅かに肉付きが悪くなったように思える頬に、そんな心配もよぎる。
 「お前、今朝って朝食、ちゃんと食ったか?」
 「…無理やり牛乳飲んだけど、もどしちゃいました」
 「昨日の夕飯は」
 「コンビニ弁当のご飯部分だけ、半分食べましたけど…」
 「昨日の昼飯、ほとんど残してたよな―――おい、全然食えてないじゃねーか!」
 「…だって、食欲ないし、食べてもおいしくないんですよ…」
 憂鬱、といった表情でそう言い、和臣は大きなため息をついた。
 「何食べても味がしないんです。味覚異常にでもなったのかな、って位に。奈々美さんからの電話があると、ちょっと元気になった気はするんだけど…なんか寝つきも悪いし、眠ってもすぐ起きちゃうから、前日の疲れが全然取れないんです」
 「…お前…そりゃあ、どう見ても病気だろ」
 こんな顔にもなる訳だ。久保田は慌てて、和臣の隣の席に腰を下ろした。
 「悪いこと言わないから、木下に電話して、早めに帰ってきてもらえ。な?」
 「でも、カッコ悪いですよ。妻が帰省しただけで病気になる夫なんて」
 「カッコいい悪いの問題じゃないだろがっ。第一、大丈夫大丈夫と繰返しておいて、それを信じて帰ってきた木下が今の顔見たら、どう思うか分かるだろ? 下手すりゃ気絶するぞ」
 「…そ、それは…困るけど」
 「だろ? だからとりあえず、何か口に入れろ。お前、甘いもん好きだよな。エクレアとかどうだ。コンビニで買ってきてやるぞ」
 だんだん、弱っている雛に餌付けをする飼育係の心境になってくる。宥めるようにそう提案したが、和臣はふるふると首を横に振った。
 「…なんか、考えただけで吐き気してくる。昨日も、プリン食べて気分悪くなったし」
 「おいおい…」
 「だ、ダメだ…オレ、こんなんじゃ一生、自立した男になれないのかも…」
 追い詰められすぎたのか、和臣の目が次第に潤んでくる。確かに―――その姿は、自立した男の姿からは程遠くはある。
 「別に自立する必要なんてないだろが。そうやって自分にプレッシャーかけるから、食えなくなるんじゃねーか?」
 「でも、自立できてない男は、将来熟年になってから“濡れ落ち葉”になっちゃうんですよっ」
 「濡れ落ち葉?」
 「会社人間で趣味もないような男の未来予想図ですよっ。久保田さん、オレが奈々美さんに竹箒で掃かれちゃってもいいんですかっ」
 ―――こりゃ、相当キテんなぁ…。
 言ってることが無茶苦茶だ。何故奈々美が和臣を竹箒で掃くのだ。本物の落ち葉じゃあるまいし。
 第一、和臣の理論は根本的な部分で間違っている。熟年離婚に限らず、夫婦が駄目になるのは、夫が自立していない云々ではなく、愛情がなくなった、という基本中の基本の事情のせいだ。家事を何でもこなすスーパーご主人様でも、家庭サービスを欠かさない模範的マイホームパパでも、妻が「もうイヤ」と言えば離婚に到る。勿論、同じ理屈で、良妻賢母がいきなり離婚される可能性だって大いにあるのだ。
 多分和臣は、テレビか何かでそういう話を聞いて、感化されてしまったのだろう―――奈々美にべったり過ぎる自分を自覚しているから、なおさら。
 「…言わせてもらうが、カズ。お前らの場合、カズが一生今のカズのまんまでも、熟年離婚はあり得ないと思うぞ」
 ため息混じりに久保田がそう言うと、和臣はギロリと疑いの眼差しで久保田を睨んだ。
 「そんなこと、分からないじゃないですか」
 「本人たちには分からなくても、周囲の人間には分かるんだよっ。あーもう…とりあえず、お前、今日は半休とれ」
 純粋な親切心から、久保田はそう、和臣に言った。
 ところが―――…。
 「…えっ、半休?」
 「午後から休んで、ちょっと家で頭冷やせよ。こんな状態じゃあ仕事にもならないだろ。な?」
 「―――…」
 青白かった和臣の顔が、更に青くなる。

 午後から、半休。
 午後2時に家に着いたとしても、夜寝るのは11時か12時…それまでの時間、約9時間から10時間。それだけの長い時間―――家に、たった1人きり。

 想像した途端、血の気が、頭からサーッと引いていった。
 「!? お、おい、カズ!!」
 仰天する久保田の目の前で、和臣の体がグラリと大きく傾き―――椅子から転げ落ちた。


***


 それから、数時間後。
 自宅のベッドで目を覚ました和臣は、涙でぐしゃぐしゃになった奈々美の顔がすぐ傍にあるのを見て、喜ぶより先にびっくりしてしまった。
 「な、な、な、奈々美さん!?」
 「…カズ君…」
 奈々美は、掛け布団の上に投げ出された和臣の手を握って、ボロボロに泣いていた。
 「あ、神崎。目覚ましたの」
 ひょい、と寝室のドアから顔を覗かせたのは、佳那子だった。その背後に、久保田の姿もある。そういえば―――会社で倒れて、久保田に付き添われて自宅まで運ばれた記憶が、切れ切れにあった。
 「…ええと…オレ、どうしたんだっけ」
 「ストレスからくる胃炎と貧血で、俺の目の前でぶっ倒れたんだよ」
 忘れたのかお前、とでも言うように、久保田が憮然とした声で簡潔に説明した。
 「で、久保田が会社の車で家に送り届けて、私がナナの実家に電話してナナを呼び戻したって訳。今、夕方の6時よ」
 「もう…っ。カズ君、平気じゃないんなら平気じゃないって言ってよっ。佳那子から電話あった時は、本当に心臓止まっちゃうかと思ったんだから…っ」
 呆れたような佳那子の言葉を受けて、奈々美が涙を手の甲で擦りながら愚痴った。まだ半分夢見心地でその様子を見ていた和臣は、奈々美の顔が数日前とはちょっと違っていることに、初めて気づいた。
 「あ…っれ、奈々美さん、なんか―――やつれた?」
 痩せたとかくまが出来たとかいう訳ではないが…泣いていることを差し引いても、随分と疲れ果てた、げっそりした顔をしている。勿論、和臣ほどではないが、日頃丸顔で血色の良い奈々美だけに、突然の面やつれは顕著だ。
 「うん、実は…実家戻ったら、この6日間で2キロも痩せちゃったの」
 バツが悪そうに言う奈々美に、和臣の目が丸くなった。
 「に、2キロ!? 奈々美さんの体で2キロも痩せたら―――ちょ、ちょっと待って、おなかの赤ちゃんは…」
 「あっ、そ、それは大丈夫。栄養はちゃんと取ってたし、お風呂とか入るとおなかの中でよく動いてるしね」
 「そ、そう…良かった。でも、どうして?」
 「ん…。多分、だけど―――ストレス、かなぁ」
 ちょっと赤くなった奈々美は、入り口の辺りに立つ第三者2名の方をなるべく見ないようにして続けた。
 「その、ね。実家に帰った日はまだ良かったんだけど…2日経ち、3日経ちするにつれ、もう家のことが気になって気になって―――カズ君、今頃何食べてるんだろう、毎晩ちゃんと眠れてるかしら、なんて。毎晩、なんだかよく眠れなくて、食事してもいまいち味がしないの」
 「……」
 「でも、電話口ではカズ君、“大丈夫、大丈夫”って繰返してたから―――ちょっと、拗ねてたの。なんだ、私いなくても普通に生活できるのか、カズ君は、って。そしたら、なんだか自分の存在価値全部が無くなっちゃったように思えて…余計、やつれちゃったの」
 「だ…っ、大丈夫なんかじゃないよ、本当はっ!」
 冗談じゃない。和臣は必死に首を振った。
 「大丈夫じゃないけど―――オレ、ただでさえ奈々美さんより人生経験少なくて頼りないし、その上、奈々美さんが帰省しただけで食事も喉に通らないようじゃ、自立した一人前の男って言えないよな、と思ったから…」
 「うん、分かってる。でも、カズ君は別に一人前の男になんてならなくていい。ううん、なっちゃイヤ」
 「え?」
 「…私も、全然駄目なの。カズ君が、何をおいても私を優先してくれないと―――私がいなきゃ死んじゃうようなカズ君でいてくれないと、私、自信がなくてすぐいじけちゃう前の私に戻っちゃうのよ。呆れる位にカズ君が“奈々美さん命”でいてくれないと、まともな生活送れなくなって、こんな風にやつれちゃうの。私も一人前じゃないのよ」
 握っていた和臣の手を更にぎゅっ、と強く握ると、奈々美の目からまたボロボロ涙が零れ落ちた。
 「だからね。また今回みたいに私が留守にしたら、私がいなくて死にそうに寂しい、って沢山沢山電話してきてね。そうしてくれなきゃ、不安で不安で駄目になっちゃうから」
 「…奈々美さぁん…」
 和臣の方も、とうとう泣き出した。2人は、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、寂しかったよー、と言い合ってひしと抱き合った。

 別に一人前の大人じゃなくたって、いいじゃないか。
 半人前と半人前を足して、一人前の夫婦になってれば。

 「…バカップルって、こういうのを言うのね」
 「佐々木…それは言わずもがなだぞ」
 寝室の戸口に立つ久保田と佳那子は、感激の涙にむせび泣くカップルを冷ややかに見下ろしながら、そんなことを密かに呟いていた。


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