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― ひとつだけでいい ―

 

 「写真展?」
 「そう。11月の終わりに、2日間ですって」
 頷いた川上は、瑞樹と、少し離れて立つ桜庭の2人に、机の上のFAXを差し出した。そこには、見覚えのある時田の字で、その写真展の具体的内容が大雑把に記されていた。
 「この2日間、“フォト・ファインダー”関連の写真展を、本社ビル1階のギャラリースペースでやる筈だったんだけど…ちょっと企画の関係で2ヶ月ずれ込む羽目になったらしくて、時田君に話が行ったようなの。でも、さすがにあんな場所で時田君の個展をやる訳にはいかないんで―――その代わりに、時田事務所のフォトグラファー全員のグループ展をやるのもいいんじゃないか、という話になったそうよ」
 「…で、なんで、あたしや成田が呼ばれた訳?」
 腕組みした桜庭は、不本意そうな顔でチラッと瑞樹の方を流し見た。相変わらずな奴だが、その疑問は瑞樹も同じだったので、特に睨み返すでもなくサラリと受け流した。
 「時田君からの指示よ。作品選定や各メンバーとの連絡なんかの雑用は、新メンバーから順に2名選んでやらせて欲しい、って。一番最近メンバーになったのは成田さんだし、その前は桜庭さんでしょう?」
 「…そうだけど…」
 「なかなか全員集まることなんてないし、きっと、他のメンバーへの顔つなぎの意味もあるんだと思うわ。それに…桜庭さん、成田さんと険悪なムードだったから、それも心配してるんじゃないかしら」
 子供を諭すような川上の“お母さん”っぽい表情に、桜庭は思わず視線を落とした。瑞樹と桜庭の間が険悪なのは、自分の方に問題があるからだ、と、桜庭自身も自覚があるのだろう。
 瑞樹はこれも、涼しい顔でスルーした。それよりも、FAXに書かれた内容の方に集中していた。

 『テーマ:想い
  被写体は自由。想いを感じる写真を、1人1〜2点展示。サイズはS半切程度。額は不要。ボード状態で展示』

 ―――“想い”、か。
 ファジーなテーマだな、と思う。想いと言っても、その形は様々だ。恋人に対するもの、家族に対するもの、友に対するもの―――対象は人とは限らない。地球環境に対する想い、なんてのもあるだろう。
 スポーツカメラマンの溝口なら、どういう想いを撮るのだろう? 案外、仕事を離れたら、スポーツ以外のものも撮るのかもしれない。こんな風に、テーマはファジーにしておいた方が、いろんな写真が出てきそうで面白いな、と瑞樹は思った。
 「時田君曰く、プロになると、個人的に作品を作る時間や気力がなくなってきちゃうから、たまにはこういう発表の場を作って、仕事を離れた場での創作にうちこむのも悪くない、ですって。確かに、プロでフォト・コンに出す人も、写真家の数から考えると少ないものね」
 元“フォト・ファインダー”の編集者だけあって、川上はそうした裏事情も知っているらしい。苦笑混じりに川上がそう言った時、話を遮るように電話が鳴った。
 川上が電話をとることで、その話は終了となった。FAXをコピーしたものをそれぞれ手にして、瑞樹も桜庭も、川上のデスクの前を離れた。

 「お金にならない写真は、極力撮りたくないんだけどな」
 桜庭は、ため息混じりにそう言うと、苛立ったように机の上の煙草に手を伸ばした。
 「第一、“想い”って何よ。花専門のあたしに“想い”を撮れって言われてもねぇ…。あんたはいいわよね。なんでも撮るんだから、好きな被写体選べるじゃない」
 「あんたも自由に撮れば」
 嫌味な目を自分に向ける桜庭に、瑞樹は僅かに眉を上げ、そっけなくそう返した。
 「そんな訳にはいかないわよ。いくら仕事を離れるからって、自分のスタイルは崩したくない。だって、この写真展が仕事に直結する可能性だってあるのよ?」
 「主義に合わない依頼なら、断ればいいだろ」
 「そんな不遜な真似、出来る訳ないじゃない」
 「…不遜の塊に言われてもな」
 そう言って、不遜の塊を見遣る。勿論、自分のことと分かったのだろう。桜庭は、ムッとしたように肩をいからせたが、川上にあんなことを言われた後ということもあるのか、煙草を口にくわえることでその場をやり過ごした。
 「で…どうするの。とりあえず、全員に連絡?」
 指示に従う気などゼロの癖にそんな風に取り繕ってくる態度に、余計うんざりした。小さくため息をついた瑞樹は、貰った資料を折りたたみながら、つい、と顔を背けた。
 「俺1人で十分だ」
 「…悪かったわよ。ちゃんと協力するから」
 「何かあるたびに、“女だから任せてもらえない”だの“男だからって偉そうにしてる”だの言われるのはゴメンだしな」
 「……」
 瑞樹がイニシアチブを取れば、そういう反応になるのは目に見えている。桜庭も、瑞樹の言う意味を理解したのか、むきになって反論することもなく、唇を噛んで俯いた。
 暫く、そのまま、沈黙が続く。やがて顔を上げた桜庭は、珍しくしおらしい態度で口を開いた。
 「―――じゃあ、あたし、名簿の1ページ目のメンバー、担当する。出品可能かどうか聞いて、大体の作品点数を把握するとこまでやっとけば、当面問題ないよね」
 「…分かった。なら俺は、2ページ目の連中、担当するから」
 ―――最初からそうやって事を運べばいいんだよ。指示されなきゃ動けねぇ子供じゃあるまいし。
 全く、手のかかる奴―――疲れたようなため息を心の中でだけついて、瑞樹は、川上から渡された事務所メンバーの名簿の2ページ目を開いた。
 五十音順に並んだ名簿の、2ページ目1行目は、ちょうど桜庭だった。
 「桜庭は、当然、出すんだろ」
 瑞樹の問いに、桜庭は少し怪訝な顔をしたが、瑞樹の視線が名簿にいっていることで、その質問の理由を察した。
 「一応、そのつもり。でも…正直、何撮ればいいのか、まだ頭の中真っ白状態よ。作品数は1でカウントしておいて」
 「了解」
 ボールペンのキャップを外し、桜庭の名前の横に「1」と記入した。
 「成田は、何撮るの」
 同じように名簿の準備を始めた桜庭は、何を思ったのか、そんなことを訊いてきた。
 「さあな」
 「“想い”となると、やっぱり、人間? 家族とか、恋人とか。成田が時田賞取ったのだって、人物写真だったし」
 「…まだ、決めてねーよ」
 実際、まだ人物と決めたつもりもない。瑞樹は、それ以上この話を引っ張られたくなくて、短い返事で会話を断ち切った。

 “想い”。
 誰の、何に対する“想い”なのか―――今の自分が表現したい“想い”があるとすれば、それはどんな“想い”なのか。
 ファジーであるからこそ、己と向き合わなくては、答えが見い出せない。でも…今の自分には、今回のテーマはタイムリーなのかもしれない。
 壁にかかったカレンダーに、何気なく目をやる。今日は、金曜日―――明日は、火曜日にタイムアップで見られなかった残りのDVDを見ようと、昨晩の電話で話したばかりだ。
 ―――DVD見てる場合じゃないよな。俺も…あいつも。
 小さく息を吐き出した瑞樹は、心の中でそう呟いた。

***

 待ち合わせ場所に既に来ていた蕾夏は、瑞樹の姿を見つけると、ふわりと笑みを浮かべて軽く手を挙げた。
 「悪かったな。急に予定変えちまって」
 蕾夏の傍に駆け寄ると同時に、いの一番にそう口にした。が、蕾夏の方は、特に気を悪くしている様子もなかった。
 「ううん。私もこの方が好きだもん。DVDはいつでも見られるしね」
 「抜け駆けはしねーから」
 「当然。残りのやつの中に、確か“ニキータ”も“レオン”もあったじゃない。先に楽しむなんて、絶対許せないもん」
 リュック・ベッソン好きの蕾夏は、そう言って唇を尖らせた。ごもっとも。火曜日の夜は、結局“マトリックス”と“2010年”の2本で終わったのだし、その2本は、完全に瑞樹の趣味だ。
 2人は、この前見たDVDの映像の鮮明さなどをネタにしながら、どちらからともなく歩き出した。


 久々の「被写体を探すための散歩」に2人が選んだのは、原宿から表参道、神宮外苑までのコースだった。
 一応、メインの目的地は有名な“青山アパート”だが、途中、ちょっと変わった店や古い建物などもある。まだいちょうの色づく時期ではないが、神宮外苑のいちょう並木は青葉でも見事だ。ロンドンに発つ前にも来ているが、瑞樹も蕾夏も結構気に入っている撮影エリアの1つだった。

 「青山アパートって、取り壊し計画が出てるんだよね」
 洒落た看板にライカM4を向ける瑞樹の傍らで、蕾夏がぽつりと呟いた。
 「らしいな。どんなビルにする気が知らねーけど、もったいねぇ…」
 「だよねぇ。あれなくなっちゃうと、表参道の味わいって、相当削がれちゃうと思う。安全上問題あるのかもしれないけど…補強工事で何とかならないものなのかな」
 蕾夏は、古い建物を好む。建物に限らず、昔ながらの日本らしい風景が好きなのだと言う。
 浅草が好きなのも、その裏道などに息づく昔ながらの庶民生活に心惹かれるかららしい。一時期、欧米文化に囲まれて育ったからだろうか。風鈴や暖簾、すだれといった物を見る時の蕾夏の目は、ただ“好き”というよりも、憧れに近いものを滲ませていた。
 「…消えていくもんを惜しむ気持ちも、“想い”って呼べるよな」
 時田から突きつけられた課題を思い出し、歩き出しつつも、無意識のうちにそう呟いていた。昨日の電話で写真展の件を聞いていた蕾夏も、その呟きを耳にして、ふむ、と考えるように首を傾げた。
 「そうだよねぇ…。“想い”って、凄く広いテーマだね、改めて考えると」
 「自由度高くてありがたいけど、結構悩むよなぁ…」
 「瑞樹はどういうの撮りたいの?」
 「…いや、まだ、見えてこない。お前なら、何撮る?」
 「私? うーん…撮りたい“想い”、かぁ…」
 いざそう言われると、結構難しいものがある。唸ってしまった蕾夏だったが、ふと何かを思いついたらしく、顔を上げて瑞樹を見上げた。
 「よく、分からないけど―――やっぱり、人の、人に対する“想い”を撮ってみたいかな」
 「人に対する、か」
 「うん。人間て結局、人と人との触れ合いの中で生きていく生き物だから。どんな“想い”より、人に対する“想い”が一番強いんだと思う。思いやりとか、恋心とか、憧れとか―――そういう“想い”もある一方で、ネガティブな“想い”もあるだろうし。そういうのもひっくるめて、やっぱり…人が人を想う時のエネルギーって、特別だと思う」
 「…そうかもしれないな」
 瑞樹にとって、その言葉を理解できるほどに実感できる“想い”は―――1つしか、ないのだけれど。
 ふっ、と、息をつく。
 いけないと思いつつも、つい考えてしまう。馬鹿だな、と自分に呆れ、自嘲気味の笑いが口元に浮かぶ。何をそこまでこだわっているのか…この3週間あまり、何度も自己嫌悪に陥っている。
 「瑞樹?」
 「…ああ、いや、なんでもない」
 不思議そうな顔をする蕾夏に、瑞樹はそう言って、彼女の頭をくしゃっと撫でた。自分の無様なわがままぶりを、蕾夏に見せたくはない。
 「行こう」
 「…うん」
 納得したとは思えない顔の蕾夏だが、その場ではそれ以上何も言わず、瑞樹に促されるまま、再び歩き出した。

***

 原宿駅から表参道をノンストップで踏破したら、少々疲れてしまった。いちょう並木へ行く前に、近くのカフェで一旦休憩を取ることにした。
 「奥の席のが良かったんじゃねーの」
 9月とはいえ、まだまだ陽射しは強い。けれど蕾夏は、窓際のカウンター席を選んだ。飲み物の乗ったトレーをカウンターに置きながらも眉をひそめた瑞樹だったが、蕾夏は薄く微笑み、小さく首を振った。
 「外を見ながらの方が、楽しいもの。スクリーンも途中まで下りてるしね」
 「ま、そうだな」
 カウンター席に並んで座ると、窓ガラスを挟んで道路と向き合う形になる。道行く人をぼんやり眺めながら、瑞樹はアイスコーヒーを、蕾夏はアイスカフェラテを飲んだ。
 こういう時、大抵色々話しかけてくる蕾夏なのに、今日は妙に大人しかった。カウンターに頬杖をついて、始終ぼんやり外を眺めている。
 「…どうした? そんなに疲れたか?」
 瑞樹が心配になって訊くと、蕾夏は、ハッとしたように瑞樹の方に顔を向け、慌てて首を振った。
 「う、ううん。そんなに疲れてないよ。ちょっと暑かったけどね」
 「けどお前、元気ないだろ」
 「……」
 蕾夏の表情に、翳りが差す。
 言おうか言うまいか迷っているように、僅かに眉を寄せる。けれど、瑞樹の視線が一向に自分の目から逸れないことに観念したのか、蕾夏は、手にしていたカップを置き、しっかりと瑞樹の目を見据えた。
 「元気がないのは、瑞樹の方だよ」
 「俺?」
 「さっきだって、なんか、ちょっと変だったし」
 やはり、納得してはいなかったらしい。そう―――2人ともおかしいが、よりおかしいのは、自分の方だ。瑞樹は、その罪悪感から、思わず視線を外してしまった。
 「…そんなに、変な態度とったか、俺」
 「うん。でも…さっきだけじゃ、ないよね。瑞樹の様子がおかしいのは」
 「……」
 「本当は、ずっと気になってたけど―――訊けなかったから、電話じゃ。この前も、なんかそんな事訊けるムードじゃなかったし」
 「―――…ハ…」
 やっぱりお互い様か、と、思わず小さな笑いが漏れる。その反応に、蕾夏は余計眉をひそめた。
 「何?」
 「…いや。こういう部分、嫌になるほど似てるよな、と思って」
 「似てる、って?」
 「一番気になってることは、最後まで訊けない性格」
 目にかかった前髪を掻き上げると、瑞樹は大きく息を吐き出し、逸らした視線を再び蕾夏に向け、その目を真っ直ぐに捉えた。
 「俺も、この3週間、ずっと気になってた。お前が何だってそう舞やイズミに気を遣うのか、その理由」
 「―――…」
 見つめ返してくる蕾夏の瞳が、僅かに揺らいだ。瑞樹の言葉に、心当たりがあるからだろう。
 「あいつらが押しかけてからだよな。お前が、仕事理由に会わなくなったの」
 「…仕事が忙しかったのは、嘘じゃないよ?」
 「それでも、会おうと思えば会えただろ」
 「…それは…」
 黒い瞳の揺らぎが、大きくなる。視線を瑞樹の肩辺りに逸らした蕾夏は、少し拗ねたような顔をした。
 「…それは、瑞樹も、同じなんじゃない? 私が家で仕事してたって、会いに来ること位、できた筈なのに…」
 「…ああ…俺も、同じだな」
 微かに口元を綻ばせた瑞樹は、蕾夏の額にかかった髪を掬い上げ、額に軽く、唇を落とした。
 普段だったら、こんな所でこんなことをしようものなら、即座に抗議のパンチが飛んできそうなものだが―――蕾夏は目を閉じ、黙ってそれを受け取った。
 多分…不安だったのだろう、ずっと。この前、備品庫で一方的な飢餓感を押し付けたのを除けば、恋人として蕾夏に触れるのは、この3週間でこれが初めてだから。額から唇が離れると、俯いた蕾夏は、その心細さを表すように、カウンターの上の瑞樹の手にほんの少しだけ指を絡めてきた。

 こんな妙なすれ違いが、前にもあった。
 ちょうど、2年前―――相手の首筋に見つけたキスマークに、お互い、動揺してかき乱された時。あの時は結局、瑞樹が折れて決着をつけに行ったが、携帯電話という大義名分がなかったら、どちらもずっと真相を訊けないままだったかもしれない。
 あの頃はまだ、どちらも恋愛感情とは程遠い所にいたけれど―――あの頃からそうだ。
 他の人間のことならどうでもいい癖に、蕾夏のこととなると、瑞樹のこととなると、馬鹿みたいに臆病になる。抱えた不安を到底言えなくて、それを確かめるのが嫌で、逃げてしまう。

 「―――ごめん。私のは、ただの自己嫌悪」
 暫しの沈黙の後、ようやく口を開いた蕾夏は、ため息混じりにそう言った。
 「自己嫌悪、って…何で」
 「…舞さんやイズミ君に、嫉妬しちゃうから」
 蕾夏らしからぬ単語に、思わず目を丸くする。確かに、舞やイズミのこととなると、蕾夏は毎回、少々拗ねたりするが―――嫉妬、という2文字で表すほどのものでもなかったから。
 「時々ね、思うの。私、あの2人に比べると、瑞樹から遠いところにいるよなぁ…って。心の距離とか、物理的な距離の話じゃなくて―――持っているバックボーンのこと。…イズミ君ね。“お父さん”が何なのか自分にはよく分からない、って言うの。“お父さん”が分からないから、それに一番近い存在として“兄ちゃん”があるんだ、って。それ聞いてて、思い出したの―――瑞樹も、“母親”が分からない、って言ってたこと」
 「……」
 ちょっと、顔色を変えてしまった。不覚にも。イズミが似たような事を言っていたからではない。父親に一番近い存在が“兄ちゃん”―――今もそんなことをイズミが言っているなんて、少々まずいな、と思ったからだ。
 「…瑞樹もイズミ君も舞さんも、“家族”の中に疑問や寂しさや痛みを抱えて生きてきた人なの。だからきっと、瑞樹の痛みをあの2人は自分のものとして理解ができるだろうし、あの2人の寂しさを、瑞樹も自分に置き換えて理解ができると思う。なのに―――私には、できない。“家族”に疑問すら持ったことがない私には、瑞樹の痛みを想像することしかできないの」
 「そりゃあ…仕方ないだろ」
 「分かってる、仕方ないって。でも―――自信、なくなるの。瑞樹には、私より舞さんやイズミ君みたいな人の方がふさわしいんじゃないか、って」
 「―――バカ。んな訳、あるか」
 コツン、と蕾夏の額を弾く。ちょっと呆れたような声で。
 「だったら、俺も一生、蕾夏を理解できねーってことになるだろ」
 「…っ、そんなことっ」
 「第一、あいつらの方が理解できようができまいが、俺が話す気になったのは、蕾夏だけだし」
 「…それは…でも…」
 「“でも”じゃねーよ」
 「―――でも、だったらどうして、イズミ君達が帰っちゃった日、態度がおかしかったの?」
 ぐるりと、話が元に戻る。
 額を弾いた時のまま、蕾夏の額に触れさせたままだった手を、思わず引っ込める。今度は、瑞樹が言葉に詰まる番だった。
 「あの日からおかしかったのに…瑞樹、何も言ってくれないから、余計、落ち込んじゃった。久しぶりにイズミ君に甘えられて、瑞樹、イズミ君のこと考えて私と距離置いてるのかな、って」
 「…そんなんじゃねぇよ」
 でも、あの日の態度については、何も反論できない。あの日蕾夏は、イズミに抱きつかれて発作を起こしてしまったというのに―――自分は、目が覚めた蕾夏の言葉にも上の空状態で、碌に話もしないで部屋を後にしてしまったのだから。
 その次に会った時だって、蕾夏といても、手を握ることすらしなかった。付き合う前ならそれが当たり前だったが、恋人同士になってからは、少しでも触れていたいと瑞樹が望んだから、僅かな接触すらないなんて一度もなかった筈。だから、不自然に蕾夏と距離を置く瑞樹に、蕾夏が不審を抱くのは当然のことだ。
 「私だって、情けない自己嫌悪のこと、話したんだから。…瑞樹も、教えてよ」
 「……」

 ―――言えない。いや、言いたくない。
 蕾夏の自己嫌悪など、瑞樹の抱える事情に比べたら、可愛いものだ。瑞樹が抱えているものは、もっと―――複雑で、厄介なシロモノだから。
 話し出したら、きっと、止まらなくなる。余計なことを―――蕾夏の傷をむしかえすようなことを、きっと口にしてしまう。

 「…瑞樹?」
 “話してよ”。
 そう促すように、蕾夏が眉をひそめ、瑞樹の目を覗き込む。黒曜石にも似たその瞳に、瑞樹が勝てる筈もなかった。
 「―――悪い。場所、変えよう」
 こんな雑然としたカフェの一角で、話す気にはなれない。瑞樹は、低くそう言い、まだほとんど手付かずだったアイスコーヒーに手を伸ばした。
 眉をひそめた蕾夏だったが、確かにここは深刻な話をするにはふさわしくない、と納得がいったのだろう。同じく、ほとんど手付かずだったアイスカフェラテのストローに、大人しく口をつけた。

***

 「前来た時はいちょうの見頃だったけど、こういう緑のいちょうも悪くないね」
 夏終盤の太陽を遮るいちょうの枝葉を見上げながら、蕾夏はそう言って微笑んだ。
 やはり、神宮外苑のいちょう並木と言えば、11月から12月だろう。9月である今は、外苑に用のある通行人が行き交うだけで、観光客の姿はほとんどいない。
 「いちょう並木って、大正時代に出来たんだってね。100年近い樹齢かぁ…凄いね」
 いちょうの木に寄りかかり、蕾夏はちょっと嬉しそうな顔をした。多分―――蕾夏には、感じ取れているのだろう。このいちょうの木が発する“生命”のエネルギーが。その背中から、幹に押し当てた両の手のひらから。
 葉と葉の間から射し込む光が、風の動きに合わせて、蕾夏の肩の辺りを撫でる。こんな時…何故か、蕾夏が、触れてはいけないものに見えてしまう。
 だからこそ、思わず、手を伸ばした。
 不思議そうな目をする蕾夏の肩を、軽く木の幹に押し付ける。肩に置かれた手の温かさに、なんとなく意味を察したのか、蕾夏はそっと目を閉じた。

 今、自分の中にあるのは、この“想い”だけに違いない―――感触を確かめるように、触れるだけの口づけを繰り返しながら、それを実感した。
 何を撮るか、まだ決めてはいない。けれど―――自分自身の“想い”を被写体に込めるのであれば、きっと蕾夏以外のものは撮れない。人が人を想う時のエネルギーが自分の中にもあるとすれば、その全ては、この想いだけに使ってしまっているから。
 同じことを、蕾夏にも求めるのは、エゴだと思う。
 蕾夏は、感情も愛情も、自分よりずっと豊かで贅沢だと、瑞樹は感じている。そんな彼女に、その全てを自分のために使え、と言うのは、わがままが過ぎる。…分かっている。こんな風になる自分の方が、間違っていることは。
 どうか、している―――本当に。

 惜しむように、もう一度触れてから、離れる。
 至近距離で開かれた蕾夏の目が、戸惑ったように揺れていた。からかう以外で、こんな風に外でこんな真似をするなんて珍しいから。
 「…瑞樹…?」
 「―――悪い。ほんと、どうかしてる」
 はぁ、とため息をついた瑞樹は、額と額とコツン、と合わせた。
 「明日…お前、同窓会だろ。中学の」
 「うん」
 「それまでは、言いたくなかったから」
 僅かに、蕾夏の表情が翳る。瑞樹を苛んでいるものの正体が、どこに繋がっているか…その言葉からなんとなく感じられたのだろう。
 「…でも…気になるよ」
 「……」
 「聞かせて」
 まだ、迷いはある。けれど―――思い切って瑞樹は、重い口を開いた。
 「―――お前さ。この前…イズミが馬鹿な真似したせいで、ぶっ倒れた時。眠っちまう前に自分が何言ったか、覚えてるか?」
 「…えっ」
 全く記憶にないことだった。蕾夏は、驚いたように目を丸くし、数度瞬いた。
 「わ…たし、何か、言った?」
 「イズミが、似てるって」
 「…誰、に」
 「―――奏に」
 「……」
 手の置かれた肩が、一瞬、強張った。
 完全に、無意識の言葉だったのだろう。けれど、蕾夏の目は、予想だにしない名前に驚いている目、という訳ではなかった。恐らくは…言葉にはしなくても、そう思ったことは何度かあったのだろう―――イズミがどこか、奏と似ている、と。
 「ご…ごめん。イズミ君と奏君、全然違うのに…」
 考えが上手く纏まらないながらもそこまで言った蕾夏は、ハッ、と表情を変え、瑞樹の腕の辺りを押して額を離した。
 「あ、あの、イズミ君が私に抱きついたの、本当に、変な意味はなかった筈だから! あんな風に倒れちゃったのは、実際、寝不足とか色々重なって体調悪かったせいなの。もし瑞樹が、その事と奏君の時のことを結びつけて考えてるんだったら―――」
 蕾夏が何を心配しているのかは、十分分かる。微かに笑った瑞樹は、緩く首を振った。
 「そんなことは、考えてない。心配すんなよ」
 「…ほんと?」
 「ああ」
 「…じゃあ…どうして、そんなに、辛そうなの」
 「―――ああ、お前がやたらイズミを気にかけるのは、イズミに奏を重ねていたからか…って、思ったから」
 蕾夏が、はっきりと息を呑むのが分かった。
 自覚があったからなのか、指摘を受けて気づいたからなのか―――どちらにせよ、見開かれた目は、瑞樹の言葉を否定はしていない。ズキリと走る胸の痛みに、瑞樹は思わず、苦しげに目を細めた。
 「…自分よりイズミを優先してくれ、って、お前、言っただろ。もし奏と重ねてなければ、あそこまで自分を押し殺すことはなかったんじゃないかと思えて―――…分かってる。そうやって、自分を傷つけた相手でも、相手が抱えた傷を思って心を痛められるのが、お前なんだって。でも…」
 「……」
 「でも……」

 どう、表せばいいのか、分からない。
 苛立ったように髪を掻き混ぜた瑞樹は、上手く言葉に出来ない憤りを伝えるように、蕾夏の肩を引き寄せ、抱きしめた。
 「―――瑞樹…」
 途方に暮れたような声に、掻き抱く腕に力をこめる。戸惑ったように背中に回された手に―――少しだけ、頭の中が、クリアになった。

 「…俺、ちょっとおかしいんだ」
 「え?」
 「奏の名前を出された時―――多分、嫉妬した」
 「嫉妬、って…奏君に?」
 「…かもしれないし…その先にいる、“あいつ”かもしれない」
 腕の中の蕾夏の肩が、ピクリ、と動いた。“あいつ”―――名前を出さずとも、分かるだろう。
 「奏をイズミに重ねて気を遣ってるお前が見てて…堪らなくなった。“あいつ”がお前に与えたのは、“愛”なんかじゃない、“呪縛”なのに―――奏だって、お前をあんな目に遭わせた奴なのに―――なんでだ、あいつらなんて放っておきゃいいだろ、俺以外のことなんて考えんな、…って」
 「……」
 “あいつ”の話題を出されて、少し動揺している蕾夏を宥めるように、髪を指で梳く。いや…こうやって宥めているのは、自分自身のことかもしれない。
 「…俺には、人が人を想う時のエネルギーを実感できるような“想い”なんて、蕾夏に対する“想い”しかない。でも…だからって、お前にも同じことを求めるのは、エゴだよな」
 その言葉に、蕾夏は驚いたように顔を上げた。大きく見開いた目で瑞樹を見上げ、背中に回した手で瑞樹のシャツをぎゅっと掴む。
 「わ…私だって、そんな“想い”、瑞樹に対する“想い”しかないよ?」
 「…分かってる。でも、お前も言ってただろ。“想い”には、ネガティブなもんもあるって」
 「……」
 蕾夏の唇が、微かに震える。
 そんな蕾夏の様子に、瑞樹の胸に、後悔に似たものが広がった。思わず、蕾夏から体を離し、目を逸らした。
 「“あいつ”に対する“想い”は、お前にずっと巣食ってる。巣食って…そのエネルギーが、ガキに抱きつかれただけで倒れたり、憎むべき相手に妙な罪悪感を抱かせたりしてる。あの時…それを実感して、苛立ったんだ。ここには奏も“あいつ”もいないのに―――俺しか、いないのに…」

 何故、まだ、蕾夏を縛りつける。
 嫉妬に近い、苛立ち。蕾夏はまだ、佐野の呪縛から解放されていない。どんなに瑞樹が愛しても、一時は忘れることができても―――ちょっとした刺激で、それはすぐに顔を出し、蕾夏を縛りつける。忘れるな―――自分が受けた傷を、自分が犯した罪を忘れるな、と。
 蕾夏の心の中が、自分という存在だけで埋めてしまえればいいのに。
 なんて、勝手な発想―――呆れるほどのエゴイズムだ。でも、瑞樹があの時感じた苛立ちは、限りなくそれに近い。自分という消しゴムで、蕾夏を苛む過去を全て消し去れたらいいのに…と。

 「…“想い”を減らすのには、時間が要る。分かってたのに―――お前にエゴを押し付けて縛りつけそうになったんだ。今すぐ忘れろ、俺のことだけ考えろ、って。…そんな自分が、怖かった。また会ったら、同じ衝動に駆られそうで」
 「…だ…から、会いに来れなかったの…?」
 「―――ごめんな」
 「…そんなこと…」
 その言葉と同時に―――蕾夏の頬を、涙が伝った。
 蕾夏は、離れた瑞樹の背中にもう一度手を回すと、その胸に額を押しつけた。
 「ご…めん…、瑞樹…」
 「―――なんで、お前が謝るんだよ」
 「…わかんない。でも…ごめん…」
 「…謝るな」
 くしゃっ、と、蕾夏の髪を撫でた。すると蕾夏は、余計、額を強く押しつけてきた。
 「私も…1つしか、いらない」
 「……」
 「瑞樹を想う“想い”しか、いらない―――傷つくのも、幸せを感じるのも、泣くのも、笑うのも…瑞樹のためだけでいい」
 「…傷つけたり泣かせたりするのは、歓迎できねーよ」
 くすぐったくなるようなセリフに、瑞樹はふっ、と笑い、茶化すように呟いた。少し和やかになった瑞樹の声に、蕾夏もそっと、顔を上げた。
 涙で目を潤ませながらも、蕾夏の口元は、微かに綻んでいた。自然―――どちらからともなく、軽くキスを交わした。

 

 もしも私が、佐野君のかけた呪縛から、どうしても逃げられなかった時は。
 その時は―――瑞樹が、私を、縛りつけて。
 瑞樹だけのことしか考えられないように、決して誰にも奪われないように―――がんじがらめにして。

 そんな蕾夏の言葉に、世界最大級の殺し文句だな、と言って、瑞樹は笑った。


 佐野との記憶を“過去”にするための、第一歩になるかもしれない、同窓会。その瞬間まで―――あと、1日だった。


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