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― スタートライン ―

 

 アメリカに渡った時、蕾夏の“異邦人”としての世界が、始まった。
 その世界は、13歳で終わり―――中2の春、また別の形での“異邦人”としての世界が、始まった。

 そして、その数ヵ月後―――あの、薄暗がりの中で。
 蕾夏は、また新たな世界への一歩を、踏み出してしまった。

 その後、10年以上、蕾夏が彷徨い続けることとなる、世界―――全ては、あの日、あの場所から始まった。


***


 「同窓会、夕方まであるんだったら、夕飯をうちで食べて行けばいいんじゃない?」
 母の当然すぎる指摘に、コーヒーメーカーにフィルターをセットしていた蕾夏は、何気ない表情で首を振った。
 「同窓会の中で色々食べておなか一杯になっちゃうと思うから。おなか空くまでこっちにいたら、帰るの遅くなっちゃうでしょ。取材の準備がほとんど手付かずで残ってるから、早く戻らないと」
 「ふぅん…まあ、宿題抱えた状態じゃ、落ち着かないでしょうね」
 「また改めて帰ってくるから」
 「その時は瑞樹君連れてくるんだぞ」
 母と娘の会話に乱入する父のセリフに、思わずがくっと肩を落としてしまう。
 「…お父さん。いつも思うけど、娘より瑞樹ってのは、ちょっと問題なんじゃない?」
 呆れ声で蕾夏が言うと、ダイニングテーブルの上でネガ整理をしていた父は、当然、という口調で反論してきた。
 「何が問題なんだい? 女の子は蕾夏で十分堪能したから、今度は男の子と十分語り合いたいと思うのは、自然なことだと思うけどねぇ」
 「会社の部下とかと十分語り合えばいいでしょ」
 「ああ、駄目駄目、カメラの話に全然ついてけない奴ばっかりで。カメラマンは飛び回ってて話す時間ないし」
 「…要するに、カメラ談義ができれば、誰でもいい訳?」
 「とも言いきれないよ。瑞樹君は、マニア度が適度で同じメーカー好きだから、理想的なんだよ」
 「…分かった。また声かけとくから」
 ―――実は駅まで迎えに来るんだよ、なんて言ったら、絶対駅に顔出すだろうな、お父さん…。
 口が裂けてもそのことは言えない。元々言うつもりもなかったが、うっかり口を滑らせないよう、蕾夏は心の中で再確認した。

 結局私は、ずっと親を騙してることになるんだな―――そんなことを思い、胸に小さな棘が刺さる。
 同窓会が終わった後、ここに戻れない、本当の理由。それは…もし万が一、同窓会で何かあって、自分が平常心でいられなかった場合のため。
 そんな時の自分の顔を、何も知らない両親には見せたくないからだ。

***

 卒業以来、初めて足を踏み入れる母校は、当時とほとんど変わっていなかった。
 「変わってないね」
 思ったままを口にすると、隣に立つ翔子の表情が曇るのを感じた。
 「…そうね」
 呟かれた返事は、掠れていた。心細げに蕾夏の手を握ってくる指先に、翔子は翔子で、やはりここには色々な思いがあるのだろう…と、蕾夏は思った。

 都内の中学校に比べてゆったりとした広い校庭、植え込みのジャスミンが自然と伝ってしまったコンクリートの壁、1年上の先輩達が整備した外壁沿いのトレーニングコース―――セピア色に色あせていた筈のものは、目にすると寒気がするほど色鮮やかで、大人になった自分が過去に紛れ込んだような錯覚を覚える。
 たった、2年。瑞樹と出会ってから今までの時間に比べてもなお短い時間しか、ここで過ごしていないのに―――そう考えると、囚われてきた自分の弱さに、自嘲の笑いすら浮かんだ。
 変わっていないのは、この景色だけじゃない。
 蕾夏の中にある“何か”も、全然変わっていない。
 校舎の壁が少し古びた感じになったのと同様に、その“何か”も、年月の中で小さくなってはきたけれど…根本的には、まだ何も変わっていないのだ。

 

 同窓会会場は、3年の時の教室だった。
 「藤井」
 教室に入る前に、廊下の様子を窺っていた由井が目ざとく蕾夏と翔子を見つけて、駆け寄ってきた。この前会った時は仕事中のスーツ姿だが、今日は、大学時代に見慣れていたコットンパンツとチェックのシャツというスタイルだ。
 「辻が一緒に来てくれたんだ。良かった」
 まだ蕾夏の手を握ったままの翔子に目を向け、微笑む。が、そんな由井の表情が微妙に変わるのを察知して、慌てて翔子は、蕾夏の手をパッ、と離した。
 「…私も久しぶりだから、ちょっと緊張したのよ」
 「全く…何年経っても、辻は辻だな」
 高校に入ってからは何度も見かけた光景に、蕾夏は思わず苦笑した。翔子が蕾夏に甘えたり頼ったりするたびに、由井は毎回、こうして眉を上げて翔子を窘めていたから。
 「由井君も変わらないね、そういうとこ」
 「…誰のためだと思ってるんだかね」
 面白くなさそうに言い捨てた由井が、拳を軽く蕾夏の方に向かって突き出す。蕾夏はそれを笑いながら手のひらで受け止めた。パシン、と、スパーリングのしそこないのような乾いた音に、蕾夏は何故か、ホッと胸を撫で下ろしていた。
 ―――良かった。由井君、前と同じで。
 あの日聞いてしまった過去のあれこれに、由井の態度がよそよそしくなってしまうのではないか、と心配していたのだ。

 とりあえず入れよ、と促され、蕾夏と翔子は、教室のドアをくぐった。背丈はそれほど伸びていない筈なのに、何故かその入り口は、当時より随分と小さなものに感じられた。
 「おおっ! 辻さんと藤井だ!」
 「ほんとだ、藤井だー! 10度目にしてやっとの登場かよー」
 由井に連れられて現れた2人を見て、既に教室内でくつろいでいた連中が、あちこちから声を上げた。その中で、真っ先に駆け寄ってきたのは、銀縁の眼鏡をかけたこざっぱりした髪型の男だった。
 「やあ、藤井。やっと来てもらえて嬉しいよ」
 ニコリ、と笑う顔に当時の面影はあまりないが―――声に覚えがあった。この同窓会の日程を決める際、電話で話をしたから。
 「…委員長?」
 「そ。受験勉強ですっかり視力が落ちちゃってねぇ。花粉症だからコンタクトはヤバそうなんで、眼鏡を愛用してるんだ」
 委員長はそう言って、ちょっと恥ずかしそうに眼鏡を直した。眼鏡ひとつで、あの人の良さそうだった顔がこんな顔になるのか―――人の印象って案外簡単に変わるんだな、と、ちょっと驚いた。
 「藤井藤井、おれ分かる? おれ」
 「お前は全然変わんねーじゃん。僕も変わってないから分かるよね?」
 委員長を押しのけるようにして、その他数名がこぞってアピールしてくる。その全部が男であるあたり、蕾夏や翔子の学生時代のありようを如実に物語っている。
 男子の間でお姫様扱いされていた翔子は、元々女子からは一線を引かれてしまっていた。蕾夏も、2年の時の教訓でなるべく目立たないようにしようと心がけてはいたが、仲間はずれを嫌って興味のない話に無理に合わせるような真似はしなかった。結果―――3年時も、2人揃って女子からは浮いた存在のままだったのだ。
 今日も女性陣は、少し離れた所で身を乗り出すようにしてこちらを見てはいるものの、集まってくることはなかった。そこに集う顔を順に眺めてはみるものの、蕾夏には誰が誰やらさっぱり分からなかった。多分…彼女達の方は、蕾夏や翔子を覚えているのだろうけれど。

 「しっかし…藤井、お前、全然変わんねーなぁ」
 植原という名の同級生が、感心したような声でそう言う。すると、隣の委員長も大きく頷いて同意した。
 「変わらないねぇ。セーラー服着せたら、そのままなんじゃない?」
 「女装の似合ってた由井ですら、これだけ成長したのになぁ…」
 「…誰が女装が似合ってたって?」
 ムッ、としたように由井が眉を顰めるが、15歳の由井 真少年は、学生服よりセーラー服が似合うようなルックスだったのだ。蕾夏はもとより、翔子までが思わず吹き出してしまった。
 「でも、藤井が変わらない一方で…」
 「うん…辻さんは、変わったよな…」
 委員長と植原の目が、蕾夏の隣に立つ翔子に向く。
 「お姫様が、女王様になっちゃったよ…」
 2人の落胆したような悲壮な声が、ハモる。笑ってしまいそうになるのを我慢する由井や蕾夏をよそに、当の翔子は「何それ」という顔でキョトンとした。
 「どういう意味よ」
 「うーん、なんというか…ツボなポイントが変わっちゃったのね、という意味かな」
 植原がそう言って、肩を竦める。それでもまだ意味が理解できない翔子の様子に、更に言葉を続けた。
 「つまり。あの頃の可憐さがどっかに行っちゃったねぇ、と言いたい訳よ。いや、ま、今も超絶美人なのは一緒だけどさぁ…藤井の背中に隠れてはにかんでた姿が可愛かったのになぁ、と」
 「…あら。植原君だって、中学の時のやんちゃ少年の方が良かったわ。頭も金色じゃなかったし、ピアスなんてしてなかったし。27にもなろうというのに、その服装はまずいんじゃないかしら。一体どこに勤めてるの?」
 「……」
 同じ刺々しい冷たい態度も、平凡な顔より美人にされる方が、より温度が低く感じるものなのかもしれない。翔子の冷ややかなセリフに、植原も、委員長や由井や蕾夏も、その場に凍りついた。
 「…言うねぇ。プリンセスは、そんなキツイこと言う人じゃなかったのに―――やっぱり、アメリカ留学の成果?」
 固まってる植原に代わって、委員長が茶化すようにフォローを入れると、委員長の方を流し見た翔子は、まるで勝利宣言するように女王様の笑みを見せた。
 「そりゃあ、男のあしらい方位は…ね。私もそれなりに、色々経験させてもらってきたもの」
 「―――…」
 どんなことを、“それなりに色々”経験してきたのだろう? 向こうでの生活についてあまり多くを語りたがらない翔子なので、蕾夏もその真相は知らない。
 「…由井君、あの意味、分かる?」
 こっそりと由井に確認すると、由井は、渋い顔をした。
 「…オレからは、ちょっと言えないよ」
 「言えないような経験、ってこと?」
 「…まあ、辻も、正孝さん離れしようと、努力してたってことだよ」
 「……」
 詳細は、聞かない方がいいかもしれない―――そう思ったのは蕾夏だけではないようで、委員長も植原も、翔子のアメリカでの男性関係には、一切突っ込みを入れなかった。

***

 参加した元クラスメイトは、結局男女合わせて19名だった。
 順に近況報告などをしてゆく。委員長は銀行に勤めているらしく、翔子に外見を散々に言われた植原は、どうやらデザインの仕事をしているらしかった。それぞれ職種も様々で、既婚者も4名おり、うち子持ちがなんと2名もいた。
 サンドイッチをメインに、ファーストフードで見繕ったポテトやお菓子をつまみつつ、飲める者はビールで、飲めない者はジュースやお茶を楽しむ。やはり、昔仲の良かった人間で固まってしまうものらしく、19人はいくつかのグループに分かれて話している感じになった。
 それらの面々の中に―――やっぱり、“彼”の顔は、なかった。
 実を言えば、教室に入って真っ先に確認したのは、そのことだった。委員長達にそつなく対応しながら、視線を教室の端から端まで瞬時に走らせ、“彼”がいないことを確認してホッと安堵していた。
 と、同時に―――ほんの少し、残念に思った。
 会えばきっと、平常心ではいられない。自分がどうなってしまうかも想像できない。けれど―――今日、会ってしまえば、一気に片が付いたかもしれない。その可能性を考えると…残念だ。少しだけ。


 「ねぇねぇ、委員長」
 主に蕾夏達と談笑していた委員長は、誰かに背中をつつかれ、さきいかを口にくわえたまま振り返った。
 声をかけてきたのは、蕾夏とはあまり親しくなかった女子生徒―――現在は、どこかの会社の秘書室にいるという、結構派手めな女性だ。名前は、さっき自己紹介の時聞いた筈だが、隣で翔子が何か喋っていたので、はっきりとは思い出せない。
 「ん、なに?」
 「もう1人の不参加メンバー、どうなったの?」
 「は?」
 「ほら、佐野君。藤井さんと佐野君だけだったから、5回記念に2人とも参加させてみせる! って勢いづいてたじゃない」
 ウーロン茶の入ったプラスチックコップを持つ手が、一瞬、強張った。
 が、表面上は、平然とした顔を維持する。とっくに慣れたことだ。特に、この教室にいると、まるでそうするのが当然のように、簡単に仮面が被れてしまう。蕾夏は、一瞬感じた動揺など微塵も顔には表さず、少し眉をひそめるようにして委員中の横顔を見つめた。
 「あー、佐野か。あいつの勧誘担当は、僕じゃないから。な、植原」
 委員長はそう言って、バトンタッチするように、隣に座る植原の背中をポン、と叩いた。
 結構ビールを飲んでしまっている植原は、早くも顔が赤くなってきている。でも、頭ははっきりしているらしく、委員長の言葉を継いで、何度か大きく頷いた。
 「うんうん、おれよ、あいつの担当は。てゆか、うちのクラスであいつの連絡先知ってるの、おれだけっしょ」
 「で、どうなったのよ」
 「電話したけど、通じねーの。ずっと留守電。長期旅行にでも行ってるのか、仕事で家空けてんのか――― 一応、留守電入れておいたけど、聞いたのかどうかは微妙」
 「なんだぁ…。佐野君参加すると思ったから来たのに」
 「片岡はあの頃から、佐野に興味ありまくりだったもんな。ざーんねん」
 そうそう、片岡さんて名前だった。
 ニヤリと笑った植原の言葉に、膨れっ面をしている女性の名前を思い出した。中3の時も、短めの髪に明らかにパーマと脱色を施していて、教師に睨まれているタイプの少女だったと記憶している。蕾夏や翔子を一番敵視していたグループの1人だ。
 「佐野に“化粧したりパーマかけたりしてる女とは遊びでしか付き合わねぇ”って言われて、お前、頭ストレートに戻しただろ。あれはウケたわ。で、真面目に付き合ってもらえたの」
 「…うるさいわよ」
 ムッ、と眉を顰めた片岡は、それだけ答えて、また自分の仲間の所へ戻って行った。
 「ははー。なるほど。努力の甲斐もなく、遊ばれて終わりか」
 片岡の反応を見て、植原はそう言って余計ニヤニヤ笑った。委員長も苦笑のようなものを浮かべる。
 が、蕾夏はさすがに笑えなかった。この手の話題は、佐野関係ではなくても好きではない。翔子も同様で、白けた表情でウーロン茶を飲み続けていた。
 「あの…植原って、そんなに佐野と親しかったっけ」
 表情の冴えない蕾夏を気にしつつ、由井が躊躇いがちに訊ねた。そう言えば―――植原は、佐野とは全く接点のない生徒だった気がする。席が近かったような記憶は、微かにあるが。
 すると植原は、またビールをコップに注ぎ足しながら、いやいや、と首を振った。
 「全然親しくなかったよ。おれが親しかったのは、委員長とかノラちゃんとかエビス達だから」
 いずれもニックネームなので妙な感じだが、いわゆる“明るく活発な少年”グループの一員だった訳だ。
 「さっきの話は、おれが佐野の前に座ってたから知ってただけ。それと、ここだけの話―――あの頃、ちょっと片岡って色っぽいよなー、とか思って興味持ってたからさ」
 「…植原、趣味悪…」
 「ほっとけ」
 委員長の突っ込みに、植原は口を尖らせてぺしん、とその額を叩いた。
 「んで―――連絡先知ってんのは、実は偶然なのよ。おれ、高校卒業してから専門学校行ったんだけどさ、総合ビジネス学院、みたいな。そこの別の科に、佐野が通ってたんだよ。学校の食堂で顔合わせて、ビックリ。で、ちょうどクラス会近かったから、家の電話番号教えてもらったんだ」
 「あいつ、専門学校卒業する時、また家変わったんだろ? 今回も変わったんじゃないか?」
 事情をある程度知っているらしい委員長が言うと、植原は首を傾げた。
 「いやー、そりゃないと思うけど。実際、一昨年の時は電話で話もしたし」
 「あいつって結構、謎多い男だったからねぇ。中学時代だって、家知ってる奴、ほとんどいなかっただろ? それに、高校だってどこ行ったんだか…。なんか、頻繁に引っ越してるみたいだし、家族もいるんだかいないんだかさ」
 「そういうミステリアスなとこが、片岡みたいな奴の興味をひくんじゃない?」
 「ちゃんと働いてんのか?」
 「らしいよー。1年目はフリーターだって言ってたけど、一昨年は、何だったかな…音響だかイベントだか、そっち方面の仕事してるとか、何とか」
 「やっぱりミュージシャンは無理だったか…。バンドとかやってたから、そっち進むかと思ってたけど」
 「だねぇ。いい線いってたけど、ほら、あいつ、ケガが原因で腕傷めてたじゃん、左の」
 「……っ」
 さすがに、完璧な平静を保つのは、無理だった。ビクリ、と蕾夏の肩が跳ねる。
 「あれで、重たいエレキのネックを支えて弦を押さえる、ってのが厳しくなったらしーわ。まあ、趣味では続けてたみたいだし、元々プロになる気はなかったみたいだけど…案外、あわよくば、と思ってた口かもな」
 「クールに見えて、意外と自信家だったりするからな、あのタイプは」
 「―――いない人の噂話ばっかりするのって、下品だと思うわ、私」
 突如、委員長と植原の会話に、冷ややかな翔子の声が割り込んだ。
 その声に、2人はハッとしたように口を噤み、どちらからともなく「…すみません」と言ってうな垂れた。
 「…サンドイッチ、なくなりそうだぞ。藤井も辻も、もうちょっと食べたら? 取ってやろうか?」
 由井も、そう言ってさりげなく腰を浮かしかける。2人の気遣いを感じて、蕾夏の胸が痛んだ。
 ―――いけない。余計な気を遣わせちゃう。
 蕾夏は、咄嗟に笑顔を作ると、おもむろに席を立った。
 「ううん、私は、もういい。ちょっと外の空気吸いたくなったから、出てくるね」
 「あ、じゃあ、私も…」
 翔子が言いかけたが、蕾夏は首を振ってそれを制した。
 「ちょっと、電話もしてきたいし。ね」
 「……」
 由井と翔子の目が、心配そうに蕾夏を見つめる。けれど蕾夏は、大丈夫、というように笑みを返した。

 電話って誰とだ、もしかして彼氏か、と騒ぐ委員長と植原を適当に誤魔化し、蕾夏は急ぎ、教室を出た。
 すぐに出て行かなくては―――どうにかなってしまいそうだった。

***

 校舎を出た蕾夏は、外壁にもたれかかると同時に、大きく息を吐き出した。
 体の内側に、嫌な感じの震えを感じる。吐き出した息も、少し震えている。口元に手を置いて、その震えがおさまるのをじっと待つ―――慣れたことだが、久しぶりすぎて、上手くできそうになかった。

 2年生の文化祭。
 蕾夏は、佐野が率いていたバンドの演奏を、生徒会役員の一員として、ステージ袖のカーテンの陰で聴いた。姿は、見なかった。見たくなかったから。ぎゅっとカーテンを握り締め、半ば震えながら聴いた。
 “あの日”より前、リハーサルを兼ねた演奏の時とは、明らかに違うアレンジ。その理由は、訊かずとも分かった。時折、不自然に滑る音の理由も、よく分かった。
 でも―――同情なんて、感じなかった。自業自得だ、ざまみろ、という気持ちも湧かなかった。
 何も、感じなかった。感じられなかった。心が、死んでいたから。

 ―――じゃあ…少し、胸が痛むってことは、それだけ時間が経った、っていう証拠なの…かな…。
 もう一度、大きく息を吐き出して、そう思う。
 そう。それだけの時間が、経ったのだ。
 蕾夏の中で15歳のまま止まっていた少年は、中学を卒業し、高校を経て、専門学校に行き―――大人になって、社会人として生きている。委員長や植原の話を聞いたおかげで、それが分かった。ずっと目を逸らしてきたせいで実感できなかった時の流れが…やっと、実感できたのだ。
 来て良かった―――棘が刺さったような痛みを感じながらも、蕾夏はそう思った。
 あれは、過去のこと。もう、遠い昔のこと―――もう終わったことだ。

 髪を掻き上げた蕾夏は、顔を上げ、体を起こした。
 一度、深呼吸をし、視線をはるか遠くに向ける。その先にあるのは―――“あの日”から一度も足を向けなかった場所だ。
 不思議なほど、不安はない。が、鼓動がだんだん速くなるのは分かる。歩き出しながら、無意識のうちに胸の辺りを押さえていた。
 何の部活だろうか。体育館からは、賑やかな掛け声とボールの弾む音が聞こえる。日曜日でも練習してるんだな…なんてことをぼんやり考えながら、その前を横切る。
 そして―――体育館脇の倉庫に、行き着いた。

 嫌になるほど、変わっていない。
 錆付いた引き戸も、砂埃がこびりついて意味をなさなくなった小窓も…変わっていない。まるで時が止まったみたいに。
 取っ手に手を掛けた蕾夏は、力を込めて、引き戸を引いてみた。
 昔もそうだったが、やっぱり開き難い。ガタガタと音をたてながら、少しずつ扉が開いていくと、真っ暗闇だった倉庫の中に、9月の光が少しずつ射し込んでいく。倉庫内の埃が舞っているのが、光の中に見えた。
 「―――…は……」
 やっと扉を全開させた蕾夏は、小さく息をついた。改めて開いた扉の前に立つ。あの日―――憤りに体を震わせながら、そうしたように。

 あの日。
 ここに、佐野が、いた。
 悠然と煙草を口にくわえて、まるで蕾夏がここに来ることを予期していたかのように、硬い表情で自分を睨み下ろす蕾夏を、無表情に見上げていた。
 この壁に、押しつけられて。
 この地面に、引きずり倒されて。
 何度となく叩かれ、押さえつけられ、好き勝手に蹂躙された。その理由も、分からないままに。

 でも―――もう、誰も、いない。
 ここにこうして立っていても、もう誰も傷つけたりしない。
 だから、もう誰にも刃を向けなくていい―――もう二度と、あのゾッとする感触を味わう必要はないんだ…。


 5分ほど、そうして立っていただろうか。
 体育館の方が、なんだか騒がしくなってきた。どうやら、部活が終わったらしい。我に返った蕾夏は、ふっ、と薄く微笑み、扉に手を掛けた。
 もう十分だ。早く戻ろう。そう思って扉をガタガタと引き始めた時―――蕾夏は、あるものを見つけ、その手を止めた。

 本来なら、こんな場所にあるべきではない、もの。
 いや、ここに限らず、学校内のどこにも、こんなものがあってはいけない筈の、もの。

 恐る恐る、倉庫の中へと、足を踏み入れる。
 そこはちょうど、あの日、佐野が座っていた場所。その地面に―――地面に押しつけてもみ消した後のような煙草の吸殻が、1つ、落ちていた。
 煙草は、完全には消えていなかった。急いで地面に押しつけ、確認もしないまま立ち去ったような―――そんな感じがする。
 「―――…」
 …偶然?
 現役の生徒の誰かが、たまたまここで煙草を吸っていて、誰かの気配に気づいて、慌てて逃げた…?
 それとも―――……。
 「…佐野、君」
 ―――いや。そんなこと、ある筈がない。
 ある…筈が、ない。

 全身が総毛立つのを感じる。ぶるっ、と身を震わすと、蕾夏は踵を返し、扉を閉めることなく、倉庫を後にした。

 あり得ない。絶対に、あり得ない。
 けれど―――蕾夏の直感だけは、そこについさっきまで佐野がいたのだ…と、揺るぎない確信を持って、そう訴えていた。

***

 「…私、駅に瑞樹が迎えに来るから」
 ちょうど、由井や翔子と行く手が分かれる交差点で、蕾夏はそう言って、足を止めた。
 由井と翔子も足を止め、蕾夏の方に向き直った。2人の顔は、どちらも酷く心配げで、このまま蕾夏を帰してしまっていいものか、と迷っているような顔だった。
 「ほんとに大丈夫か? なんなら駅まで送るよ、大した距離じゃないんだからさ」
 「よかったら、うちに寄ってからにしない? 成田さん来るなら、成田さんも呼べばいいんだし…」
 口々にそう言ってくれたが、蕾夏は僅かに微笑み、小さく首を横に振った。
 「ううん―――大丈夫。だいぶ、気持ちの整理ついたから」
 「でも…」
 「来て良かった」
 由井の言葉を遮り、蕾夏はきっぱりとした明るい声でそう言った。
 「佐野君のあれからの歩み、聞かせてもらえて良かった、って思うよ。時間は止まってなかった―――佐野君は佐野君で、ちゃんと別の人生を歩んでたんだ、って分かったもの。あの場所にも行けたし…その上で、こうして話ができるってのは、大進歩だと思う」
 「…無理してないか?」
 「…大丈夫。本当にそう、思ってるから」
 「―――もし無理してても、成田さんの前では、するなよ」
 ぽん、と由井の手が、頭の上に乗せられる。翔子はまだ心配そうだが、由井の表情は落ち着きを取り戻していた。瑞樹に任せれば大丈夫だ、と信じているからだろう。
 「ん…心配、しないで」
 2人にそう言い、なるべく元気そうな笑顔を作った。更に二言三言、言葉を交わし、3人は別々の方向へと散って行った。


 なんだか、気が急いていた。
 いつもより速い足取りで、駅までの道を急ぐ。何も考えたくなかったから、頭の中でずっと、同窓会の最後に植原が歌っていたJ−ポップのサビの部分ばかり、何度も何度も繰返していた。
 ―――早く、瑞樹に、会いたい。
 1秒でも早く…会いたい。瑞樹の顔を見て、駆け寄って、そして―――…。

 「―――あ…」
 駅の改札脇のベンチ。
 そこに座る人影を見つけた蕾夏は―――反射的に、走り出した。
 「瑞樹!」
 まだ聞こえるかどうか微妙な距離だが、精一杯の声で名前を呼ぶと、改札の方を眺めていた瑞樹の顔が、蕾夏の方に向いた。
 今、自分がどんな顔をしているか、全く分からない。けれど―――蕾夏を見つけた瑞樹の表情を見て、なんとなく、分かった。決して明るい顔をしている訳じゃない…むしろ、悲壮な顔をしているのだろう、と。

 息を切らして瑞樹のもとに駆け寄った蕾夏は、お互い何も言わないうちに、瑞樹の腕の中に飛び込んだ。そして、思い切り、瑞樹に抱きついた。
 瑞樹の腕が、包んでくれる。宥めるように髪を撫でられて、今にも震えだしてしまいそうに強張っていた体から、すっと力が抜けていくのを感じた。
 「―――おかえり」
 耳元で囁かれた声に、無言で頷く。何度も。飲み込んでいた涙が、堰を切って溢れてくるのを感じながら、蕾夏はより強く、瑞樹にしがみついた。


 ―――あの日、あの場所から、世界は始まった。
 でも、今、私がいるのは、佐野君が私を突き落とした世界とは違う、新しい世界。
 1人で苦しまなくていい世界―――瑞樹がくれた、瑞樹から始まった世界だ。

 ああ、帰ってこれたんだ―――抱きしめてくれる腕の存在にそれを実感して、蕾夏はやっと、素直に涙を流すことができた。


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