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― 反旗を翻す ―

 

 金曜日の夜。
 父のお小言を覚悟していた佳那子を待ち受けていたのは、父の高笑いだった。
 「ふははははははは、愉快愉快」
 「―――…」
 帰宅早々、そう言って上機嫌に笑う父の様子に、一瞬、計画は失敗に終わったのだろうか、と首を傾げてしまった。が、事実は全く逆だった。
 「喜びたまえ、佳那子。牧野君は今日、総務部資料室に異動になったよ」
 総務部資料室―――その実態を父から聞かされてよく知っている佳那子は、その名称に思わず目を見開いた。
 父が勤める総研にあって、その部署は、別名“墓場”である。不祥事を起こした者が追いやられる場所で、その職務内容は“日経新聞のスクラップ作り”と“スクラップの整理”だけ。放り込まれたが最後、辞表提出まで1年持った者はいない、と言われるような場所なのだ。
 「…なんだってお父さん、そんなに嬉しそうなの? 牧野さんのこと、買ってたんでしょ?」
 買っているからこそ、あんな過去があるのに見合いを許し、しかも婚約までさせようとしたのではなかったのか―――あれはまだ今週の月曜の話なのに。
 「そりゃあ、嬉しいさ。わたしは長いこと、今日という日を夢見ていたんだからね」
 「…ちょっと、どういうこと?」
 眉をひそめる佳那子に、父は、着替えるより話が先だ、とでも言うように、スーツ姿のまま肘掛付の椅子に腰を下ろした。
 「―――つまり、だ。牧野君が佳那子との見合いを願い出て来た時から、わたしの方は、牧野君と佳那子を縁付かせるつもりなど微塵もなかった、ってことさ」
 「は!?」
 「当然だろう? まだ何も知らない佳那子を手玉に取った男だぞ。しかも、あんな恥さらしな真似をしておきながら、その後8年以上ものうのうと会社に居座りおって―――わたしの怒りを買ったと察するや否や、他の有力役員に取り入って、ちゃっかり居場所を確保してしまった。性格悪いわ手癖は悪いわ許しがたいダメ男だが、猫を被るのと計算を働かせるのだけは上手いからな。私生活での素行の悪さも想像はついていたが、尻尾が掴めなかったんだよ」
 「……」
 「あんなのを次長にしたら、うちの会社は終わりだよ。なんとかならないかと策を練っていたところに、運良く向こうから飛び込んできたって訳だ。いやぁ、笑いそうになるのを堪えるのは大変だったよ。どの面提げて“佳那子さんと真剣なお付き合いをもう一度お願いしたい”って? 全く、笑わせるよ」
 「……」
 「佳那子。父は信じていたぞ。あの牧野君が相手であれば、お前達も心置きなく叩きのめしてくれるだろうと。見合いをさせても、無視するばかりで一向に対策を講じないから、心配して婚約までちらつかせてみたが―――期待通り、いや、それ以上の結果だ。さすがはあのじいさんの孫だ、こういう奸計には長けてるな。ハハハ…」
 「―――…」

 怒りのあまり、声が出ない。
 握り締めた拳が、勝手に震える。引き結んだ唇も震えてしまいそうだ。なのに父は、そんな佳那子に気づいていない。

 確かに、佳那子にとっても牧野の失墜は胸のすく出来事だ。8年前の一件で退社すると思いきや、その後もずっとあの会社にのさばっていると聞き、憤りに体を振るわせた時期だってあった。でも、もうどうでもいいこと―――許せる筈もないが、世間知らずだった自分が馬鹿だったのだ。それに、嘘で固められていたとはいえ、それなりに楽しい夢も見せてもらった。もう、済んだこと―――再会せずに済めばそれでいい、と思っていたのだ。
 なのに…こんなことのために、二度と会いたくなかった男と引き合わせられたなんて。
 牧野の本性を知り抜いていながら、“大事な娘”と公言して憚らない娘を、あんな男に2人きりで会わせるなんて。
 しかも、そこに“結婚”なんていう人生の一大事を絡ませてくるなんて―――信じられない。娘の人生を、何だと思っているのだろう、このオヤジは。

 佳那子は、キレた。
 ただ怒りが頂点に達した訳ではない。それまで保っていた理性、常識を重んじる心、唯一の肉親である父に対する遠慮などなど、様々な自制心が、この一瞬に限界を越え、プチンと切れてしまったのだ。本当の意味でキレたのは、多分、この時が生まれて初めてだろう。

 「……ああ、そう」
 やっとの思いで搾り出した声は、我ながらゾッとするほど、冷たく低い声だった。
 さすがに父も、佳那子の異変に気づいたらしい。上機嫌そうだった顔が、キョトンとした怪訝そうな顔に変わる。
 「佳那子? どうした? お前も牧野君がズタボロになって、嬉しいだろう?」
 「…あの男がホームレスになろうがマハラジャになろうが、私にとってはもう、どうでもいいことよ。私の人生に関わってこなくなれば、それで十分―――ずっとそう思ってきたのよ、この8年間。それにね、ずっと存在すら忘れてたのよ。お父さんがこんな馬鹿げた計画に、私を巻き込むまではね」
 そう言った佳那子は、ぎゅっ、と拳を握り締め、父を鋭く睨んだ。その迫力に、実の父も思わずたじろぎ、のけぞった。
 「なのにお父さんは、自分の腹の虫を収めるために、そんな私をあの男に引き合わせたのよ。…この1ヶ月、私がどんなに不愉快な思いしたか、お父さんには分からないでしょう? 胃が痛くて食事も半分しかとれなかったとか、仕事でバグを連発して上司に小言を言われたとか、そんな私の苦労なんて、これっぽっちも考えてないでしょう!?」
 「……」
 「―――もう、限界だわ」
 最後にそう呟いた佳那子は、佳那子の勢いに飲まれてしまっている父を無視するように、書斎を飛び出した。


***


 それから、1時間半後。


 「佳那子さーん」
 慣れない住宅街で彷徨っていた佳那子は、頭上から降ってきた声に、顔を上げた。
 数メートル先のアパートの2階の窓から、蕾夏が顔を出し、手を振っていた。一度も来たことのない場所で少々迷ってしまったが、どうやら蕾夏の家まで辿り着けたのだ、と分かり、佳那子は少し安堵した笑みを蕾夏に返した。
 エントランスを抜け内階段を上って2階に上がると、蕾夏は既に玄関のドアを開けて待っていた。ところが―――その蕾夏の背後に、思いがけない人物の姿を見つけ、佳那子は戸惑ったように眉をひそめてしまった。
 「あ…あら、成田が来てたの?」
 「え? あ、うん」
 佳那子の指摘を受けて、蕾夏は佳那子を部屋へと招き入れつつ、ちょっと気まずそうな笑みを浮かべた。
 「そろそろ帰る時間なんだけど、一応佳那子さんに事情を聞いてから帰ろうか、ってことになって、待ってたの」
 そうは言うが、時計は既に日付が変わるまで1時間を切っている。平日の仕事後だというのに、この時間にいる、ということは―――当然、泊まっていくつもりでいたのではないだろうか。明日は土曜日だし、その可能性は高い。
 「…もしかして私、凄くタイミング悪かった?」
 「別に。元々、終電で帰るつもりだったから」
 冷や汗をかく佳那子に、瑞樹はあっさりとそう返した。けれど、その言葉を100パーセント信じる気には、到底なれなかった。
 「ご…ごめんね。お父さんが把握してない女友達って、蕾夏ちゃんしかいなかったもんだから…」
 「だから、気にしなくていいよ、ほんとに。それより荷物置いて、ちょっと落ち着いた方がよくない?」
 蕾夏にそう言われ、やっと佳那子は靴を脱ぎ、初めて訪れた蕾夏の部屋へと上がり込んだ。

 蕾夏の部屋は、超シンプルと自負している佳那子の部屋に負けず劣らず、シンプルな部屋だった。
 装飾の類はほとんどなく、ベッド脇の壁に掛けられたコルクボードに、恐らくは瑞樹の作品であろう写真が何枚か貼られているのが唯一の装飾と言っても過言ではない。本棚の上にテーブルヤシが1つあるが、それ以外の観葉植物もない。乾燥中なのか、窓際に吊り下げられたドライフラワーがなければ、女性の部屋かどうかも判断が難しい位だ。
 それに―――何かの作業中だったのか、ローテーブルの周りには、大量の雑誌やスクラップブックが散乱している。多分、仕事のための資料なのだろう。蕾夏の職業を考えれば当然かもしれないが、どう見ても、つい今しがたまで恋人と2人きりでいたとは思えないムードだ。
 「…で? どうなったんだよ」
 コーヒーの準備をする蕾夏から佳那子に目を移した瑞樹の問いかけに、始終キョロキョロしていた佳那子は、慌てて居ずまいを正した。
 「あ、ああ―――牧野さんの件なら、おかげ様で片付いたわ。もう二度と馬鹿げた野望は持たない…と思う」
 「…ま、そりゃそうだよな」
 水曜の夜に目撃したものを思い出したのか、瑞樹はそう言ってくっ、と笑った。
 「けど、牧野さんが思いのほか簡単に倉木に引っかかっちゃったから、ちょっと意外だったわ。婚約にこぎつけそうだって時期に、しかも私の後輩と、なんて…随分うかつじゃない?」
 「似た者同士だからな、あれは。一晩のアバンチュールを楽しめりゃ、お互い他言は無用、で了解しあえるんだろ」
 「録音テープの中身、凄くビジネスライクだったよねぇ。“交渉成立、さあ行きましょか”って感じで」
 コーヒーメーカーのセットが終わったらしい蕾夏も、そう言いながら席に戻ってきた。中身があまりにも下劣だということで、佳那子は例の録音テープを聞かされていないのだが―――別の意味でも、聞かない方がいいかもしれない。聞いたら、月曜、倉木の顔をまともに見られないかもしれないから。
 「でも―――作戦通り上手くいったのに、こういう結果になってる、ってことは…どういうこと?」
 佳那子の斜め前に座った蕾夏が、そう言って佳那子の隣にチラリと目を移す。
 そこには、巨大なボストンバッグ―――そう。佳那子は、持てるだけの着替えをこれに詰め込んで、家出をしてきたのだ。


 帰宅後、まずは風呂に入るのが、佐々木昭夫の習慣である。
 それを知る佳那子は、あの後、大急ぎで荷物を纏め、上機嫌で風呂に入っている父に、ドア越しに宣言した。
 「お父さん。私、これから家出するから」
 …こういう風にそのまんま宣言する辺り、佳那子らしい行動ではあるのだが―――家出とはただ事ではない。慌てふためく父だが、さすがに風呂場から飛び出すだけの厚顔さはなかったらしい。
 「ど、どういうことなんだ!? 何を馬鹿なことを言ってるんだ!」
 「さっき言ったまんまよ。もう限界なの。このままじゃ、お父さんの娘でい続けるだけの気力、私にはないわ」
 「何を―――そんなことを言っても、佳那子はわたしの娘以外の何者でもないじゃないか」
 「娘である前に1人の人間だってこと、忘れてない?」
 「何を言ってるんだ! 忘れている訳がないだろう!?」
 「とにかく―――私はもうイヤ。出て行きます。お父さんが考えを改めて、久保田とのことを認めてくれるまで、何があっても帰らないから」
 「ちょ…ちょっと、待て! 佳那子、待ちなさいっ!」
 風呂場で賑やかな音がするが、佳那子は、宣言し終わると同時に、脱衣所を後にし、家を飛び出していた。
 父は、佳那子の後を追えなかった。
 何故なら、風呂場のドアの前に、普段佐々木家の玄関に置かれている高さ1メートル80センチの巨大置時計が、ででんと鎮座していたからだ。


 「…それ移動させたのって…」
 「勿論、私。人間、追い詰められれば何でも出来るものね。あんな重たいものを動かせるなんて、自分でもビックリよ」
 「……」
 ふーっ、とため息をつき、淹れたてのコーヒーを口に運ぶ。そんな佳那子を眺めつつ、瑞樹と蕾夏は、思わず顔を見合わせた。全く…火事場の馬鹿力、とはよく言ったものだ。
 家を飛び出した佳那子が、まず最初に考えた行き先は、当然久保田の所だった。が…その考えは、すぐに否定した。父が一番最初に当たる場所は、恐らく久保田の所だろうから。
 次に考えたのが、どこかのホテル。けれど、見た目よりずっと脆い神経の持ち主である佳那子には、こんな精神状態のまま一晩ひとりきりで過ごすなんて、到底無理なように思えた。
 学生時代の友達は、連絡先を父も把握している。奈々美の連絡先は知らないが、身重の奈々美に迷惑はかけたくない。
 そして、唯一、思いついた先―――それが、蕾夏の所だったのだ。
 「…ま、予想はしてた裏事情だけど―――佐々木さんが家出するとこまでは予想できなかったな」
 瑞樹もコーヒーを口に運びつつ、そんなことを言った。それを聞いた佳那子は、さすがに目を丸くした。
 「予想、ついてた訳? 裏事情の方は」
 「まあな」
 「どうして」
 「佐々木先生の性格からして、許すとは思えねーだろ、あいつを」
 だよな、という顔で瑞樹が蕾夏の方を流し見る。蕾夏もそれに、軽く頷いた。
 「うん。だって、佐々木先生って、久保田さんのお爺さんに15年前貸した1万円のこと、いまだに“まだ返してもらってない”って根に持ってる位だもの。佳那子さんを泣かせた牧野さんのことなんて、もっともっと根に持ってて当然だよ」
 「えっ」
 嫌な汗が、背中を伝う。1万円の件は、確かに佳那子も知っているエピソードだった。が、それを、無関係な蕾夏が知っているということは―――恐らく父が、テレビでそれをネタにしている、ということで。
 ―――も、もう…恥晒しなんだからっ! そんな親だから、娘辞めたくなっちゃうのよっ!
 「でも、やっぱり許せないよねぇ…。何もなかったから良かったようなものだけど、これでもし佳那子さんが酷い目にでも遭ってたら、佐々木先生、どう弁明する気でいたんだろう?」
 佳那子の冷や汗も知らず、蕾夏は、ちょっと憤慨したように唇を尖らせ、コーヒーを掻き混ぜた。
 その表情を見たら―――父から真相を聞かされて以来、ずっと沸騰したままだったものが、少しだけ収まってきた気がした。一緒になって憤り、怒ってくれる人がいる…それだけで、随分と精神的に楽になるものなのだ。
 「で、佳那子さん、これからどうするの?」
 「…まだ、決めてない。でも、家に戻る気はないから、多分―――どこか部屋を借りて、念願のひとり暮らしをするつもり。でも、その前に…やっぱり、久保田に連絡よね」
 「…だよね」
 あの父のことだ。今頃、既に久保田に連絡をしているかもしれない。父がかけてくる可能性を考えて携帯の電源を切っているのだから、久保田も佳那子に連絡を取れずにイライラしているかもしれない。
 どうすればいいか、まだ頭の中は纏まっていないけれど。
 とにかく、久保田に連絡しなければ―――それからでなくては、何も始められない。そんな風に、佳那子は思った。

***

 『…ったく…思い切ったことをするなぁ、お前も』
 「―――ごめんなさい」
 『バカ、謝るな。俺がお前の立場でも、多分同じことするぞ。何か裏があるとは思ってたけど―――畜生、考えれば考えるほど、頭くるよなぁ…』
 案の定、父からの突然の電話に泡を食っていた久保田だったが、事の経緯を説明すると、家を飛び出したくなるのも無理はない、と言って笑ってくれた。軽はずみなことをして、と久保田に呆れられるのを一番心配していた佳那子は、その反応にほっと胸を撫で下ろしていた。
 『で―――問題は、これからどうするか、だよな。お前、長期に匿ってもらえる場所なんて、心当たりないだろ?』
 「ないわよ。それに、誰かの家に居候する気はないの。いい機会だから、ひとり暮らしをしてみようと思って」
 『ひとり暮らし? 佐々木が?』
 「ええ。ほら、私、家事全般が全然駄目じゃない? 前にナナにも言われたのよ。その…結婚するなら、少しはやっといた方がいいわよ、って」
 前から思っていたことではあるが、いざ口にすると、結構気恥ずかしい。語尾になるにつれ、段々声が小さくなってしまう。
 「で、でも、家にいると、民子さんが全部やっちゃうし、手伝おうとすると拒否されちゃうし―――だから、まあ、修行も兼ねて」
 『…ふーん、なるほど、な』
 久保田も、なんとなくむず痒いものを感じているのだろう。妙にそっけない声で相槌を打ち、咳払いまでした。
 『あー…、となると、明日は不動産屋めぐり、といきたいところだが―――俺はどうせ監視されてるだろうから、動けないよな』
 「大丈夫。自分で何とかするわよ」
 『…それは、却下。お前、不動産の相場なんて全然知らないだろ。敷金や礼金だって分かってねーよな?』
 久保田の指摘に、う、と言葉が詰まる。知る訳がない。新聞の折込広告も、物件の載った雑誌も、ほとんど見たことがないのだから。
 『うーん…瑞樹や藤井さんには、“牧野撲滅作戦”で随分力貸してもらったしなぁ…』
 「ナナや神崎に頼るのもイヤよ。それに、学生時代の友達は却下。すぐに包囲網敷かれるから」
 『…だな。分かった。ちょっとこっちで当たってみる。決まったら、藤井さんの携帯に連絡入れるから』
 そう言う久保田の声は、どうやら頼れる相手に心当たりがありそうな口ぶりだった。更に2、3の打ち合わせをし、電話を切った。勿論、電源も。

 あまり2人には聞かれたくないから、と、洗面所を占拠して電話していた佳那子は、電話する前よりはるかに落ち着いた気分で、ドアを開けた。
 久保田がいれば、なんとかなる―――そんな気持ちになってくるから不思議だ。やっぱり久保田は、佳那子にとって最大の精神安定剤なのだろう。
 「ごめんなさいね、洗面所占拠しちゃって…」
 そう言って洗面所を出た佳那子だったが、予想に反して、瑞樹と蕾夏は玄関にいた。
 「あ、成田…。帰るの?」
 「ああ。隼雄に連絡取れたんなら、ひとまず一段落だろうし」
 既に靴を履き、デイパックを肩に掛けている瑞樹は、そう言って薄く微笑んだ。が、その微笑は一瞬だけのもので、佳那子から蕾夏に視線を移した瑞樹は、やけに神妙な面持ちで、蕾夏の顔を覗き込んだ。
 「―――じゃあ、帰る。ほんとに大丈夫か」
 「うん―――大丈夫。また明日、電話するね」
 「…分かった。じゃ」
 「うん。おやすみ」
 くしゃっ、と蕾夏の髪を掻き混ぜると、瑞樹は佳那子にも軽く会釈し、出て行った。
 ―――ああいうのを見ちゃうと、やっぱり、“親友”から“恋人”になったのは嘘じゃなかったんだ、って実感するわね…。
 やっぱりタイミングが悪かったな、と改めて思ったが―――それ以外にも気になる部分がある。
 「…蕾夏ちゃん、どこか具合でも悪かった?」
 玄関の鍵を閉めて戻ってきた蕾夏に、佳那子は思わず眉をひそめ、そう訊ねた。
 訊ねられた本人は、え? という顔をして、小さく首を横に振った。
 「ううん、別に? どうして?」
 「だって…成田、なんだか凄く、心配そうだったから。大丈夫か、って訊いてたし…」
 一瞬、蕾夏の顔色が、微妙に変わった―――気がした。僅かに瞳を揺らしたように見えた蕾夏だったが、それも一瞬のことで、すぐに苦笑を浮かべた。
 「ああ…うん、別に、大したことじゃないから。週明けに、瑞樹と一緒に仕事することになってるから―――そのことで、色々ね」
 「…ふーん…」
 さっき散らばっていた資料類は、その仕事のためのものだったらしい。が―――なんとなく、釈然としないものを感じる。
 まだ心配げな佳那子の表情に、佳那子が納得していないことを察したのだろう。蕾夏はくすっと笑い、明るい声を返した。
 「ほんとに、具合が悪いとかそういう理由じゃないから。だから、そんな済まなそうな不安そうな顔しないで、ゆっくりくつろいでくれていいから」
 「……」
 そんな顔をしてたのか―――ちょっと頬を染めた佳那子は、気まずくなって俯いた。
 考えていることが全て顔に出てしまう自分に比べて、蕾夏の本音は、全く見えない。けれど―――それをあえて暴くようなことはしたくない。蕾夏には敵わないな、と観念した佳那子は、大人しく蕾夏の厚意に甘えることにした。


 シャワーを借りて着替えをし、バタバタと寝る準備をする。女友達の家に泊まった経験もほとんどない佳那子にとっては、結構新鮮な経験だ。
 「佳那子さん、ベッド使ってもいいよ?」
 物入れから冬用の掛け布団を引っ張り出しながら、蕾夏が言う。が、佳那子は首を振った。
 「そんな訳にはいかないわよ。それに―――ちょっと、使い難いものがあるわ」
 「え?」
 「だって、成田が泊まってくことだってある訳でしょ?」
 少し茶化すように佳那子が言うと、蕾夏は耳まで真っ赤になった。珍しい位に分かりやすい反応に、佳那子は思わず声をたてて笑ってしまった。
 結局、大して眠れるとも思わないから、ということで、2人とも床で眠る、という選択になった。ローテーブルを片付け、クッションやら掛け布団やらを工夫して、2人分の寝床を作った。
 「なんか、修学旅行みたいねぇ…」
 「うん…そうだね」
 電気を消すと、ますます修学旅行のような感じがする。共にひとりっ子で、ひとりでいることに慣れた同士だから、余計くすぐったさを感じるのかもしれない。佳那子も蕾夏も、ついクスクスと笑ってしまった。
 ひとしきり笑いあい、やっと静かになった頃。
 「―――ねぇ、佳那子さん」
 ふいに、蕾夏が暗闇の中で口を開いた。
 その口調が、先ほどまでのものとは少し違う感じがして、佳那子は、見えないなりに、闇の中の蕾夏の顔を凝視した。
 「なに?」
 「うん、あの―――凄く馬鹿馬鹿しい質問かもしれないけど、いい?」
 「? いいわよ。何なの?」
 「…あのね。佳那子さんと久保田さん、例の“契約”を全うした暁には…やっぱり、結婚するんでしょ?」
 「え…っ、あ、ああ、うん、そうね。父を認めさせる、ってことは、つまりはそういうことだから」
 “永遠の愛を誓える相手としか、交際は認めない”―――父は、そう言っていた。勝手に決めるな、と腹が立つのも事実だが、相手が久保田であるなら、その条件は全く問題ない。お互い、はっきりと言葉に出したことはあまりないが―――多分、父に“10年、時間を下さい”と土下座したあの時から、2人のゴールは結婚であることが、2人の間でも、父や善次郎の間でも、暗黙の了解となっていた気がする。
 「それが、何?」
 「―――なんで“結婚”なのかなぁ」
 「え?」
 「佳那子さんにしても奈々美さんにしても、どうして“結婚”したいのか…その辺が、私にはよく分からないんだよなぁ…」
 表情は分からないが、蕾夏の声は、本当に困ってるような、理解できないような声だった。
 「一緒にいたい、ってことなら恋人で十分だし、一緒に住みたいだけなら同棲って手もあるじゃない。籍を入れて、夫婦って形になる、その意義がどこにあるのか…なんか、分からない。子供が欲しいとか、そういうことかな」
 「…私は、そこまで具体的に考えてないわよ? 好き合った同士なら、最終的には結婚したい、って思うのが、極自然な流れだとは思うけど」
 「自然、かぁ…」
 微かな衣擦れの音がする。どうやら、蕾夏が寝返りを打ったらしい。
 「ね。結婚する、ってことは、“家族”になる、ってことだよね」
 「家族? あー…そうね。確かにそうとも言うわね」
 「血の繋がらない人と“家族”になるって―――どういう感じなんだろう」
 「……」
 「血の繋がる家族と同じように、思えるものなのかな。それとも―――また、全然違った感じの“家族”なのかな」
 そんなこと―――想像したこともない。父と母以外を“家族”と思ったことなど一度もないし、久保田の顔を思い浮かべても、やはり“家族”とは思えない。結婚して、法的な“家族”になったら…久保田を“家族”と思うようになるだろうか?
 「…“家族”って、何なんだろう」
 佳那子が答えられずにいるうちに、蕾夏がポツリと、呟くようにそう漏らした。
 「血が繋がってても、“家族”として機能してない家族もあるし―――血が繋がっていなくても、“家族”に匹敵する想いを抱くような関係もある。血が繋がらない同士が、書類1枚で“家族”になったりもする。…なんだか、不思議だよね」
 「…どうかしたの? 蕾夏ちゃん」
 「ん…、最近、“家族”について、色々考えさせられることが多かったから」
 暗闇の中で、蕾夏が苦笑する気配を感じた。
 「もしかして、成田とそういう話にでもなってるの?」
 思わずそう訊ねたら、今度は、はっきりとした笑い声が返ってきた。
 「あはは…、違うよ。瑞樹も私と同じ。私達は、恋人とか結婚とか、そういうのはどうでもいいの。一緒にいられればいいだけだから」
 「……」
 「だから、私達にとっては、佳那子さん達は凄く不思議なの。どうして親に認められる必要があるんだろう? って。認められなくてもいいから、一緒にいる方がいいんじゃないかな、って」
 「…確かに…そうかも、ね」
 ―――でも、私達は、それじゃ駄目なのよ。
 誰からも後ろ指さされることなく、正々堂々と付き合えるのでなくては、納得できない。一緒に住むならば、同棲ではなく結婚という形の方がいい―――それが、2人の本音。…結局は、揃って優等生ということだろう。
 「…蕾夏ちゃん達みたいになれると、いいんだけどね」
 佳那子は口元を綻ばせ、そう答えた。

 ―――だって、成田と蕾夏ちゃんは、私や久保田にとって、勝ち取りたい自由の象徴なんだもの。

 ただ一緒にいられれば、形なんてどうでもいい―――そうきっぱりと言い放てるだけの揺るぎない想いと、常識も規範も飛び越えてしまうような自由さ。
 あの2人のようになりたい―――それは、佳那子も久保田も口にはしていないが、常に胸の内にある、密かな憧れだった。

***

 久保田からの連絡は、翌朝早く入った。
 一晩寝床を借りた礼を蕾夏に何度も告げた佳那子は、ボストンバッグを抱えて、言われた喫茶店へと向かった。内心、少しばかり、複雑な思いを抱きながら。
 何故、複雑な心境になったのか。それは、久保田が助っ人を頼んだ相手が原因だ。

 「お久しぶり」
 先に喫茶店で待っていたその人物は、佳那子が現れると、どこか茶化すような笑みを浮かべて席を立った。
 「佳那子姫がとうとう父上に反旗を翻したって聞いて、おせっかいながら力を貸しに来たわよ」
 「…よろしく」
 一応、不自然ではない笑顔を返して会釈する。が―――正直なところ、佳那子はこの人物が苦手だ。
 佐倉みなみ。久保田の大学時代の同級生。そして、しっかりと確認した訳ではないが―――ただの同級生ではなく、一時期、久保田と恋人同士の関係にあった人物だ。
 「さて…再会早々で悪いんだけど、さっそく行動を開始させてもらってもいいかな」
 佳那子が席につく前に、佐倉はそう言って、テーブルの上の伝票を手にした。一瞬、キョトンとした佳那子だったが、別に疲れている訳でもコーヒーが飲みたい訳でもないので、素直に同意した。
 伝票をヒラヒラさせながら、佐倉は佳那子を追い抜き、レジへと向かう。その歩き方も、やはり現役モデルだけのことはあって、なんとも様になっている。
 ―――こんなハイレベルなのと付き合ってた訳よね、久保田は。
 自分のハイレベルさも忘れて、そんな嫉妬めいたものを覚えてしまう。こういう感情が湧いてくるから余計、佳那子は佐倉が苦手なのだ。
 「まずは、携帯ショップね。プリペイド式でもPHSでもいいから、父上とは切り離された連絡手段を確保しないと、今後大変でしょ」
 「そうね。でも―――佐倉さん、不動産にも詳しいの? 久保田が助っ人頼むって言った時、全然佐倉さんのことは思い浮かばなかったんだけど…」
 「あっは、あたしは不動産とは無関係。ただ、地方や海外のモデルがショーのために東京に来た時、ホテルじゃ高いってんでウィークリーマンションなんかを紹介してるのよ」
 「ああ、なるほどね」
 「久保田君との交際が認められるまで帰らない、って啖呵切ったんだって?」
 喫茶店を出たところで、佐倉は佳那子を振り返り、ニッ、と笑った。
 「長期になりそうなら、ちゃんとしたアパートも考えるけどね―――捨て身の戦法に出たなら、2、3ヶ月が勝負でしょ。ウィークリーにしといて良かった、って結果になるよう、あたしも応援するから」
 「…ありがと」
 ―――本気で応援してくれるのかなぁ…この人。
 いつも、からかうような笑いを佳那子に向けてくる佐倉の本心は、言葉通りとは受け止められない時がある。初対面の、多恵子の葬儀の時から、ずっと。
 佐倉に会うと、どうしても多恵子を思い出してしまう―――その部分でも佳那子は、なんとなく佐倉が苦手なのだ。

 

 行動を開始してからの佐倉は、当事者の佳那子が唖然とするほどに、精力的だった。
 まずは、携帯ショップに行って、プリペイド式の携帯電話を購入させた。着信専用に近い使い方しかしない佳那子だから、これで十分だ。
 次いで訪れたのは、そのショップからもほど近いウィークリーマンション。
 「1K家具付、駅から徒歩1分でお薦めだけど、テレビ局のある駅ってのはちょっと問題かもね。まあ、ここは最後の移動先と考えれば…」
 「移動先?」
 意味が分からず佳那子が聞き返すと、佐倉は当然といった口調で返した。
 「1週間か半月で、ウィークリーマンションを転々とした方がいい、ってこと。会社を辞める訳にも県外に逃亡する訳にもいかないんだから、慎重にしないと」
 「……」
 まるで犯罪者の逃亡生活だ。でも…確かに、一理ある。

 それから佐倉が佳那子を案内したのは、全部で4ヶ所のウィークリーマンション。
 全部、佳那子の定期券で賄える範囲内にある辺り、どうやら前もって久保田に自宅と会社の所在地を確認していたらしい。佐倉は仲介業者としてもかなり腕が立つのではなかろうか。
 そして結局、当面の住みかとして佳那子が選んだのは、会社から徒歩圏内にあるマンションだった。
 「最初のうちは、興信所なんかを使って会社を張り込ませるかもしれないから、そういう目を盗んでダッシュで駆け込める場所の方がいいと思って」
 「…なかなか佳那子姫もしたたかじゃない」
 クスクスと笑う佐倉の言葉に、佳那子は今日何度目かの苛立ちを感じた。以前から思っていたのだが、なんだか今日は文句を返さずにはいられない。
 「―――それ、やめてくれない?」
 「え?」
 「“佳那子姫”っていうの」
 憮然とした顔で佳那子が言うと、一瞬キョトンとした佐倉は、続いてあっけらかんとした笑い声をたてた。
 「あははは、なに、姫君扱いがイヤな訳?」
 「…なんか、馬鹿にされてる気がするわ。そりゃあ私は、佐倉さんに比べれば自立してないし器用でもないだろうけど…」
 姫君、という響きは、その裏に“世間知らずのお嬢様”といった揶揄があるように思えてしまう。お嬢様という単語は、佳那子にとってはコンプレックスの象徴なのだ。
 けれど佐倉は、違う違う、という風に手を振ると、契約が終わったばかりの佳那子の仮住まいのベッドにドサリと腰を下ろし、余計笑みを深くした。
 「あたしが“佳那子姫”って言った意味は、お嬢様、って意味じゃないわよ? 久保田君の佳那子ちゃんに対する態度が、姫君にかしづく従者みたいで笑える、って、生前の多恵子から聞いたことがあったからよ」
 「…そんなことも、ないと思うけど」
 「あるある。あの万人に等しく優しい久保田君が、佳那子ちゃんの前では笑っちゃう位に弱いもの。過保護なのは父上じゃなくて久保田君なんじゃないの、って皮肉りたくなる位、佳那子ちゃんを箱入りにして大事に大事にしてるわよ」
 「……」
 「つまり、あんないい男に特別扱いされてる、って意味で使ってるんであって、馬鹿にしてるつもりは全然ないの。OK?」
 ―――それは、分かったけど。
 少し不愉快そうに眉をひそめた佳那子は、佐倉の笑みを避けるように、目を逸らした。
 そんな佳那子の反応を見て、少し意外そうに目を見張った佐倉だったが、その理由に思い当たった時―――思わず、吹き出していた。
 「…はーん、なるほどねぇ。佳那子ちゃんてば、変な心配をしてるんだ?」
 「…っ、べ、別に、心配なんて、」
 「ダメダメ、顔に書いてあるもの。“佐倉さんてば、もしかして久保田に今でも未練があるのかしら、親切そうにしながら、実は私のこと邪魔な女だって思ってたりして”、とか何とか思ってるんでしょ」
 …それに近いことは、ちょっと、考えていたかもしれない。佳那子は少し顔を赤らめ、佐倉を軽く睨んだ。
 すると佐倉は、ふぅ、と息を吐き出し、まるで愛しい子供でも見るような目で、立っている佳那子を見上げた。
 「そういうのをね、邪推って言うの。あたしの久保田君に対する想いは、大学時代にキレイさっぱり無くなったから」
 「……」
 「それに―――今、好きな奴、いるしね」
 「えっ」
 仕事が命、一生男なんていらないからお嫁さんが欲しい、と言っていた佐倉なのに―――ちょっと意外な話に、佳那子は目を丸くした。
 冗談かと思ったが、佐倉の笑みは、それが真実であることを物語っていた。ふふっ、と笑った佐倉は、軽く肩を竦めた。
 「と言っても、片想いな上、叶う見込みもゼロなんだけどね。…ま、とりあえず、そういう事だから、変な邪推はご無用よ」
 「…ごめんなさい」
 「ん。あたし、佳那子ちゃんのそういう素直なとこ、大好きよ。久保田君なんかじゃなく、あたしが飼ってあげたくなっちゃう位」
 弾みをつけて立ち上がった佐倉は、そう言って佳那子の頭をくしゃくしゃっと撫でた。
 「か、飼う、って…猫じゃないんだから」
 「ふふふ、そうね」
 同性に頭を撫でられて複雑な表情をする佳那子に、佐倉はちょっと笑った後、僅かに真剣な目になった。
 「―――がんばんなさいよ。本当に」
 「……」
 「久保田君にとっては、多分佳那子ちゃんが、人生唯一、本気で恋をした相手だと思う。そして多分…あの手の男は、そういう相手を見つけるのが凄く苦手なのよ。博愛主義が過ぎて、特別が見つけられないタイプ―――あたしもそうだから、よく分かる。だから…頑張って。久保田君のためにも」
 「―――ええ…、ありがとう」
 やっと佳那子は、心からの感謝と共に、極上の笑みを返すことができた。
 その笑みにつられるように、佐倉もニッコリと、ファッション雑誌で見る佐倉以上の笑みを浮かべてみせた。

 ―――そうよ。頑張らないと。
 ずっと久保田ばかり頼ってきたけれど―――私も、もっと戦わないといけない。お父さんと。

 久保田とのことを認めさせる最後の一手は、絶対に自分が打ってみせる―――そんな決意を胸に、佳那子は、初めてのひとり暮らしをスタートさせることになった。


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