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― ターゲット―

 

 10月まであと1週間に迫った、月曜日の朝。
 その日の佐々木家の朝は、佳那子の素っ頓狂な叫び声から始まった。

 「えぇ!? 婚約!?」
 「まあ、善は急げと言うからね」
 冗談ではない。佳那子は、素早く身を乗り出すと、ティーカップを持ち上げようとする父の腕を思い切り押さえた。
 「…ちょっと待ちなさい」
 「おや。父に向かって命令形かね、佳那子」
 「命令形にもなるわよ。誰が誰と婚約ですって?」
 「決まってるだろう。牧野君と佳那子だよ」
 「冗談でしょっ! この前のお見合いなら、私の方から断ったじゃない。双方の合意もないのに、なんで婚約なんて話になるのよ!?」
 「牧野君が断らなかったからね」
 「片方の合意じゃ意味ないでしょっ!」
 経済のことばかり考えすぎて、人間としての常識をどこかに落としてきてしまったのではないだろうか、この中年オヤジは。娘の抗議の声など全然耳に入っていないような涼しげな顔に、佳那子の頭はヒートアップした。
 「第一ね。お父さん、忘れちゃったの? 牧野さんがどんな酷いことを私やお父さんに対してしたか! それに…!」
 「まあ、とにかく」
 憤慨したように言葉を続けようとする佳那子を手で制し、父はにっこりと、悪魔のような笑みを浮かべた。
 「次の日曜にでも、また改めて席を作る。なに、婚約とは結婚の約束にすぎん。今すぐ結婚しろと言ってる訳じゃないんだよ」
 「約束すら嫌よ、あんな男。名前を口にするのも汚らわしいのに」
 「そうは言うが、来年春の人事では、うちのシンクタンクのナンバー3の座に収まろうかという逸材だよ。社長にも可愛がられててねぇ。そうそう、社長にも言われたよ。“牧野君を婿に迎えるなら、君の家も安心だね”ってね」
 「ちょっと! そんな話、勝手にしないでよ!」
 「わたしが言った訳じゃないさ。牧野君が嬉しさのあまり話して回ってるらしい。今じゃ、彼と佳那子が見合いをした件を知らん奴など、社内には誰もいないよ」
 ―――本物のアホンダラだわ、あの男…。
 思わず、ぐったりとしてしまう。
 あれ以来、牧野からは、2日おき程度に連絡が入る。佳那子は一切電話に出ないので、主に家政婦の原口が対応している。でも、そんなアプローチは、恐らくはカモフラージュに違いない。佳那子本人を攻めたところで仕方ないことを、あの男は重々承知しているのだから。
 将を射んと欲すれば、先ず馬を射よ―――父さえ落とせばゲームに勝てる、と彼は踏んでいる。見合い話を惚気て回っているのも、社内の人間や上司など周辺から地固めをしていって、佳那子の身動きをとれないようにしよう、という作戦なのだろう。
 「…あんなのをナンバー3に据えるんじゃ、お父さんのところも、もう終わりね」
 冷たく睨み据えてそう言うと、父は何故か、場違いなほどに楽しげな笑みを佳那子に返した。
 「とにかく、次の日曜は、空けておくように。ま…無駄な抵抗だとは思うが、抵抗したければ、悔いのないようしておくことだね」

***

 「ああ、もう、頭にくる…! なんであのアホンダラの正体を見抜けないのよ! もうイヤっ!!」
 「…まあ、ちょっと落ち着けや、佐々木」
 憤慨のあまり、カウンターをバシバシ叩く佳那子の手を、久保田が制した。これ以上やると、本当に器物損壊事件になりかねない。
 「お前ね。怒るのは当然だと思うけど、ちょっとペース速すぎだぞ」
 久保田の倍のペースで飲み進む佳那子の様子に、さすがに眉をひそめる。が、そんな佳那子は、久保田のその冷静な指摘に、酔いの回り出したらしい目を不機嫌に眇めた。
 「―――久保田。なんでそんなに冷静な訳? ちょっとは一緒に慌てるなり焦るなり怒るなりしてよ」
 「いや、慌てたり焦ったりはしてないけど、結構怒ってはいるぞ?」
 「顔に表れてないのよっ」
 「お前の飲むペースの方が心配で、安心して怒れねーんだよっ」
 今更確認するまでもなく、佳那子は酒豪だ。滅多に酔うことはない。
 ただ―――ピッチが速いのは、あまり得意ではない。適度な速度で、長い時間をかけて飲むのが一番合っているのだ。あまりにピッチが速いと、普段なら酔わない分量でも比較的早い段階でダウンしてしまう、ということを、この6年あまりの付き合いの中で久保田はしっかり頭にインプットしていた。
 「それに―――その話、ちょっと引っかかるもんを感じるから、手放し状態で怒ることも焦ることもできねー感じなんだよなぁ…」
 考え込むような口調で久保田が言うと、すっかり据わってしまっていた佳那子の目が、少しだけ丸くなった。
 「引っかかるもの?」
 「感じないか?」
 「…あまり、感じないわね」
 「佐々木先生、お前を挑発して、出方を見てる、って可能性はないか?」
 バーボンのグラスを傾けながらの久保田の言葉に、また佳那子の目つきが険悪になる。
 「何のために? お父さんは牧野さんの味方なのよ? あれだけ貶しておいて、手のひら返したように褒めちぎるんだもの、あったまきちゃうわよ。平然とした顔して騙すあの男も許せないけど、あっさり騙されるお父さんも最低! ああ、もー、思い出しただけで腹立ってくる…!」
 そう言ってくいっ、と残りのフォア・ローゼスを飲み干した佳那子は、ドン! とグラスを置いて、カウンターの端っこでグラスを拭いていたマスターに手を振った。
 「マスター、おかわり! 同じの、ダブルでね」
 2人には慣れているマスターも、さすがに唖然とした顔をしている。仕事で落ち込んだ時、2人の関係で色々問題が生じた時―――過去に何度もこの店で落ち込んだり泣いたりした佳那子だが、自棄飲みという方向に転じたのは今回が初めてなのだ。
 「お…おいおい、佳那子ちゃん。どうしたの、今日は。随分と荒れてるねぇ…」
 「荒れたい気分なのっ。大丈夫よ。今日はお父さん、仙台に出張してるから」
 「おい、佐々木、そういう問題じゃねーだろ」
 気圧されるマスターを助けるように久保田がフォローに回るが、既に酔っ払いへと転じつつある佳那子を前にしては無力だった。
 「もー、いいじゃないの、今日位、難しいこと考えずに好きなだけ飲んだってっ。ほらほら、久保田も飲んで」
 「…あのなぁ…」
 ―――まずいなぁ…相当キテるぞ、こりゃ。
 牧野との再会からこのかた、佳那子のストレスは凄まじかった。思い出すのも嫌な相手に再会した上に、何度も電話を寄こされたのでは無理もないだろう。そこにきて一方的な婚約を押し付けられようとすれば、この荒れ方も仕方ないのかもしれない。
 なんとかしないとなぁ…と思いつつも、とにかくその場を収めるため、久保田も残りのターキーを飲み干し、同じものをダブルで注文した。
 「そうそう。久保田はそうやってガンガン飲んでるのがカッコイイのよ。どんどん飲みなさい」
 「…お前は、その酒癖、治した方がいいぞ」
 途端に上機嫌になって明るく笑う佳那子の様子に、この後の展開がなんとなく読める。
 自分もちょっと、酔っておいた方が良さそうだ―――素面でこのテンションについていくのは無理だと悟り、久保田は、自分も“難しいことを考えずに好きなだけ飲む”ことにした。

 

 ―――そして、数時間後。


 「……ほら見ろ。結局、こうなるんだよ」
 もの凄く幸せそうに眠っている佳那子を見下ろし、大きなため息を一つつく。

 そう―――その後の展開は、2人の関係が始まったあの新人歓迎会の夜と全く同じだったのだ。久保田の方が酒量が少なかった分すぐに目が覚めたので、こうして久保田だけが冷静な状態に戻っている訳だ。
 久保田もそれなりに酔っていたので詳細が曖昧だが、今いるこの部屋は久保田の部屋でも佳那子の部屋でもないし、2人して何も着ていなかったりするので、何がどうなったかは一目瞭然だ。それでもきっちり布団を掛けて寝相良く寝ている辺りが、佳那子らしいのだけれど。
 まあ…仕方ない。日頃ストイックに生きているつもりの自分達でも、時にはこういうバカをやる必要はあるだろう。予想がついていたのに止めなかった自分も、実は牧野の存在にイライラを募らせていたらしいことに思い当たり、久保田は思わず苦笑した。

 ベッドの上で上半身を起こすと、頭が僅かにクラクラした。床に落っこちていた上着をなんとか手繰り寄せた久保田は、その内ポケットから煙草とライターを引っ張り出し、口にくわえた煙草に火をつけた。
 煙と一緒に、ため息を吐き出す。煙の行方を目で追いつつ、アルコールで鈍った頭を、なんとかクリアにしようと努力する。
 ―――さて。これからするべきこと。
 時計に目をやると、午前1時だった。となると、終電はアウト。適当なところで佳那子を起こして、タクシーで送り届ける。その前に、電話をして家政婦の原口に謝っておいた方がいいだろう。
 今夜のことは、それで済むとして―――問題は、10月1日。次の日曜日。
 日付が変わって、既に火曜日…今日を入れても、あと5日しかない訳だ。焦る気持ちはないし、やはり引っかかる部分があるので“婚約”の2文字にはあまり問題を感じないが―――言葉の上だけとはいえ、佳那子が牧野と婚約の真似事をさせられるのは、さすがに避けたい。
 でも―――裏を探ろうにも、対策を練ろうにも、少々時間が足りない。
 牧野との見合い以来、何もやらなかった訳ではない。なんとか牧野の尻尾を掴んで佐々木昭夫の目を覚まさせてやろうと、様々に行動は起こしていた。が―――素人では限度がある。それに、久保田の動向を警戒してか、あれ以来の牧野の日常は極めて健全らしい。会社と自宅の往復運動と言っても過言ではないほどに。
 「うーん……」
 とにかく、時間がほとんどない。1人で考えつくアイディアは、限られている。

 …となれば。
 ブレインに力を借りるより、仕方ない。

 ―――不本意だが、しゃーねーか。
 サイドボードの上の灰皿に煙草の灰を落とした久保田は、煙草をくわえ直すと、放り投げておいた上着のポケットから、携帯電話を取り出した。
 恐らく、悪知恵を貸してもらうにはこれ以上の適材はいないであろうあの2人に、SOSのメールを打つために。

***

 「―――どう思う?」
 「…どうって…」
 久保田から一連の説明を受けた瑞樹は、言葉を濁して、隣に座る蕾夏の方をチラリと見た。
 蕾夏の方も、瑞樹と似たような、なんとも複雑な表情を浮かべて、瑞樹の方をチラリと見た。
 「…どう、って言われても、ねぇ…?」
 「なんだよ、2人してはっきりしねーなぁ」
 「…っつーか、あんたも大概、分かってんじゃねーの」
 ピスタチオナッツを口の中に放り込みつつの瑞樹の言葉に、久保田は僅かに眉をひそめた。
 「何を、どういう風に?」
 「なんか裏があるよな、ってこと」
 「あ…ああ。変だとは思う。佐々木の話じゃ、二股騒動発覚した時の佐々木先生のご立腹振りといったら、そりゃ凄まじいもんだったらしいからな。いくら8年経ったからって、見合いさせた上に婚約まで許すか? って疑問だけは、どうしても残る」
 「だろ?」
 「けど、佐々木先生も焦ってるだけかもしれないだろ」
 昨晩―――というか、時間からしたら今日早朝―――佳那子をタクシーで送りながら考えたことを、もう一度頭の中で組み立てつつ、久保田は説明を続けた。
 「あの人は、政治経済に関しては冷淡と言われる位に冷静で、鋭い分析をするけど…こと、娘のことになると、ダメ親父5人持ってきても敵わねー位にダメだからな。“契約”全うが近づいてきて、だんだん余裕なくなってる可能性はある。それに―――牧野は結局、大目玉食らいながらも、あの会社に居座っただろ? あの計算高い男が、激怒させた上司をそのままにしてたとは思えない。信頼回復のために、時間かけてコツコツ働きかけてたことは十分考えられる。8年かけりゃ、どんな慎重な人間も騙されるかもしれないだろ」
 「……」
 「それに、もしかしたら俺を嵌める気なのかもしれないし。俺に妨害工作させて、その証拠を掴んで“契約”を無効にしようとしてるとか…」
 「―――ま、確かにな」
 と言いつつも、瑞樹の顔は、あまり納得している風ではなかった。蕾夏も、頷きながら聞いてる割には、表情は冴えない。
 「…なんだよ。お前らの意見を聞かせてもらいたくて頼んだのに、俺の話だけ聞いてたんじゃ意味ねーだろ」
 むっ、とした表情で久保田が苦言を呈すると、また目を合わせた瑞樹と蕾夏のうち、蕾夏の方がようやく口火を切った。
 「…あの、私の個人的な意見だけど、ね。多分―――佐々木先生、牧野さんのこと、許してる訳じゃないと思う」
 「へ?」
 「むしろ、その逆。滅茶苦茶、怒ってる気する。もしかしたら、当時以上に」
 「―――…」
 怒りまくっているのに―――見合いを許して、あまつさえ婚約までさせようとしている? そんな馬鹿な。
 想定外な意見に唖然としている久保田をよそに、瑞樹と蕾夏の中では、その推測があらかた出来てしまっているらしい。一体どういうことなのか説明を求めようとした久保田だったが、
 「…まあ、何にせよ、その婚約の話をひっくり返してみりゃ、真相は明らかになるんだろ」
 という瑞樹の言葉に、それを遮られた。
 「え? あ、ああ…そうだな」
 「なら、事情を考えるのは一旦置いといて―――しっぽ掴まれねーような妨害工作を練った方が得策なんじゃねーの?」
 「…そりゃ…そうだが」
 「だろ」
 反論できない。久保田は、はぁ、とため息をひとつつくと、やっと手にしていた水割りのグラスに口をつけた。勿論、頭を働かせるために、今日は目一杯セーブしたペースだ。
 「でも、なぁ…一番いいのは、牧野の素行の悪さを証明して、佐々木先生の目を覚まさせることなんだろうけど―――敵もなかなかしっぽを出さないんだよな」
 「久保田さんが動くことは想定してるだろうから、当然じゃない?」
 「…だよな」
 「となると―――やっぱり、罠、かな」
 さらりと。
 呆れるほどさらりと、その外見にそぐわない単語を口にした蕾夏は、僅かに口の端を上げ、瑞樹を見遣った。
 「佳那子さんて、あらゆる意味でハイレベルでしょ。で、牧野さんは、実態はともあれ、名目上は佳那子さんの婚約者候補―――そういう男の人を罠に嵌めるのにピッタリな人、私、記憶にあるんだけどな」
 「ああ、俺も記憶ある」
 瑞樹も、蕾夏の思いつきの内容を察しているのか、ニヤリと笑う。その2人の笑みに―――久保田の背筋を、冷たいものが伝っていった。
 ハイレベルな女の、婚約者候補。そういうシチュエーションにピッタリな逸材―――確かに久保田にも、覚えがあったのだ。
 「ま…まさか…」
 「良かったな、隼雄。あんたの周りに、使える奴が大勢いてくれて」
 より笑みを深めた瑞樹は、もう1個、ピスタチオを頬張り、密議に本腰を入れるべく脚を組みなおした。
 「さて―――本格的に、計画を練りますか」


***


 ――― 一体、どういうつもりなのよ、久保田の奴。
 目の前のグラスに注がれる赤ワインを見るともなく見つつ、佳那子は不愉快そうに、眉をひそめた。
 「それにしても嬉しいね。君の方から誘ってくれるなんて」
 向かいの席に座る男の自意識過剰な笑みに、ゾッとしたものを感じる。久保田の指示でなければ、二度と会う気になどならなかっただろうに…。
 「…婚約なんてことになる前に、一度話をしておかないと…と思って」
 前もって用意した言葉を口にしながら、佳那子は、我ながらわざとらしいな、と思うような笑顔を作ってみせた。
 牧野の笑みも、それに負けないほどにわざとらしい。もっとも、この男の演技以外の笑みなど、見たことがない気もするのだが。

 『一度だけ、我慢してあいつを誘い出してくれ。それで多分、全ては決着する筈だから』
 昨晩、先に退社した筈の久保田からかかってきた電話の指示通り、佳那子は昨晩のうちに牧野に電話した。
 何を話せばいいのやら、さっぱり分からない。ただ、この店に呼び出して、適当に時間をつぶしてくれればいい、後はその場の流れに任せてくれればいいから、と言われたのだが―――入店から5分経った現段階では、何も起きてはいない。
 昨日は、前日の飲みすぎと暴挙が災いして、あまり頭がよく働いていなかったのだが、久保田が誰かと待ち合わせをしていたらしいことは分かっていた。一体、誰に、何の目的で会っていたのだろう―――それが、今度の婚約の件と関わっていないとは、どうしても思えない。

 「話すって、何を話すのかな。僕の方には、何も話すことはないよ?」
 ワイングラス片手にしれっとした態度でそう言う牧野は、確かに外見だけ見たらかなりハイレベルだろう。が、佳那子からすれば、外見が良ければ良いほど、内なる悪魔を隠すための皮に過ぎないように見えて、吐き気すら覚える。
 「私の方は大アリよ。牧野さんとのお付き合いは、とっくに断ってるでしょう? それがなんだって婚約なんて話になるの」
 「正攻法で攻めたところで、君が落ちないのは目に見えてるからね」
 「卑怯な戦術に出たって、落ちないもんは落ちないわよ。今度の日曜日だって、時間を作るつもりなんて毛頭ないわ」
 「ふぅん。それならいいよ。君の不在中に、僕が好きなように事を進めるだけだから」
 こともなげに言う牧野に、さすがに佳那子も我慢できず、眉を吊り上げた。
 「あなたね―――仮にも、結婚しようっていう相手なのに、その意思を微塵も考慮しないなんて、どうかしてるんじゃないの? その先の人生、どうやって結婚生活を送る気よ?」
 「尊重してたら、君を落とすことはできないだろう? 昔と違って、すっかりじゃじゃ馬になってしまったようだから」
 ―――本当に、最低だわ、この男。
 この前、久保田が突きつけた“アホンダラ”のメモを、もう一度この男の鼻先に押しつけてやりたい。運ばれてきたオードブルを、半ば自棄になりながら食べつつ、佳那子は、もう何か起きるまで口をきくのはよそう、と思った。喋れば喋るだけ、腹が立つだけだ。

 そんな訳で、無言の時間が10分ほど続いた頃。

 「―――あっれぇ、佳那子さん?」
 突如、耳に馴染んだ声が頭上から聞こえてきて、佳那子はギョッとして、顔を上げた。
 そして、目を向けた先―――牧野の背後2メートルほどの所に立つ2人の人物を見た時、あまりのことに、口にしていたワインを吹き出してしまいそうになった。
 「やー、奇遇ですねー。佳那子さんもこの店に来てたなんて」
 「かっ…神崎!? そ、それに…」
 和臣は、まだいい。何故いるのか謎だか、とりあえずいい。それより、その隣にいる奴の方が信じられない。
 「びっくりですねー。あたしも、まさか佐々木先輩がいらっしゃるとは思わなかったですー」
 「……」
 キョンシー…じゃなくて、倉木。
 この取り合わせは、あり得ない。しかも、両者ニコニコ笑顔で並んで立ってるなんて、絶対あり得ない…筈だったのに。
 実際、和臣と倉木は、機嫌良さそうな笑顔で、並んで立っていた。瑞樹が仕掛けた罠に嵌って、被害者女性集団から地獄のような攻撃を受けて以来、すっかり覇気をなくして小さくなっていた倉木だが、今和臣の隣にいる彼女は、かつて和臣を追いかけていた時と同じ位、異様にイキイキした目をしている。
 一体、どういうことなのか―――声が出ずにいる佳那子をよそに、事態の飲み込めない牧野は、怪訝そうに突然の闖入者達を見上げた。
 「…ええと、佳那子さん。お知り合いかな?」
 「あっ、わたくし、佳那子さんの会社の後輩で、神崎と申します。こちらも同じ会社の更に後輩」
 営業トークの時の声色になった和臣が、アイドル度100パーセントな笑みを浮かべて、牧野に会釈した。そして、和臣に促されるままに、倉木も目一杯ワカイコぶった笑いで頭を下げた。
 「倉木ですー。ねね、佐々木先輩、こちらはどなたなんですかー? いかにもヤング・エグゼクティブって感じの二枚目ですねー」
 倉木の目が、さっきより更に輝きを増している。何をそんなに期待しているのか―――まあ、分からない訳ではないが、牧野と特別な関係だと思われるのは心外だ。
 咄嗟に「全然関係ない人よ」と返そうとした佳那子だったが、牧野の方が一歩早かった。
 「僕は、牧野恭介と言います。佳那子さんのお父上の部下で、もうすぐ佳那子さんの婚約者になる予定なんですよ」
 「ちょ…っ、牧野さん! 勝手な、」
 「へえぇ、そうなんですか」
 冗談よしてよ、という佳那子の声は、今度は倉木によって遮られた。
 倉木は、牧野の自己紹介を耳にした途端、余計興味深そうな目になった。一瞬前までより、どこか含みを持たせたような口調―――まるで、獲物を目の前に品定めしてるような、そんな目で、牧野の頭のてっぺんからつま先までを眺めている。
 まあ、倉木のことは、どうでもいい。それより、何故この2人がここにいるのかが問題だ。
 第一、奈々美は知っているのだろうか。内緒ならば、バレた時大変なことになる―――事態の異常さのあまり、そんな方向違いな心配をした佳那子が、改めて口を開こうとした時。
 和臣の背広の胸ポケットから、着信音が響いた。
 「…っと、失礼」
 何か言いかけた佳那子を手で制すると、和臣は携帯を取り出し、電話に出た。
 「はい、神崎です。―――はい、あ、お疲れ様です」
 どうやら、会社からの電話のようだ。緊張した顔になった和臣は、牧野や佳那子に少し背を向けるようにして、携帯電話を更に耳にくっつけた。
 「はい…はい…えっ? 社内デモ用のソフトですか? あー、いやそれは、オレじゃちょっと―――あ、ちょうどいい」
 クルリ、と振り向いた和臣は、携帯の受話器部分を、指で塞いでいた。
 「佳那子さん、ごめん。ちょっと外、出られる?」
 「え?」
 「社内デモ用ソフトがバグってたらしくって、明後日の研修会で講師役務める子が、画面フリーズしたまま動かない、って泣いてるんだ。悪いけど、外で対応してあげてくれる?」
 それは大変だ。確か、担当の子は、コールセンター2年目の大人しそうな女の子だった。きっと心細い思いをしているのだろう。
 「分かったわ。…そういう訳だから、牧野さん、ちょっと外すけどいいかしら」
 既に腰を浮かしつつ佳那子がそう言うと、突如、チャンスとばかりに倉木が口を挟んできた。
 「あっ、あの、あたしが代わりに、お相手してますっ」
 「え?」
 「神崎さんも出て行っちゃったら、あたしも1人になっちゃうし…牧野さんも、1人じゃお暇でしょう?」
 「…まあ、そうね」
 「構いませんか?」
 期待でキラキラと輝きを増した目を牧野に向けてくる倉木に、さすがの牧野も、ちょっと気圧された。
 「あ、ああ…構わないよ。佳那子さんの後輩なら、僕にとっても全くの他人ではないんだし」
 「ありがとうございますー。じゃ、佐々木先輩、心置きなくバグ対応に旅立って下さいー」
 「―――そうさせてもらうわ」

 …ある意味、あっぱれ。
 この度胸のよさは、一種の才能だろう。ささ、早く早く、と携帯片手に店外へと促す和臣について行きながらも、佳那子は、早くも何かを牧野に話しかけ始めている倉木を振り返り、感心したようなため息をついてしまった。

***

 店の外に出るとすぐ、和臣の足が止まった。
 「…ここまで来れば、いいかな?」
 「えっ」
 謎の言葉を呟いた和臣は、店の入り口脇に身を寄せると、らしくない不敵な笑みを浮かべて、携帯電話を佳那子に突きつけた。
 「?」
 「もう切れてます」
 「は!?」
 「ごめん。バグの件は、真っ赤な嘘なんだ。電話してきたのは、別の場所に待機してる久保田さん」
 突然出てきた久保田の名に、佳那子の目が最大限大きく見開かれた。
 「ど…っ、どういうこと!?」
 「しーっ、声が大きい大きい」
 静かに、というように口の前で指を立ててみせる和臣に、条件反射的に佳那子も口を噤み、背を縮める。が、それで疑問が消えた訳ではなかった。
 「―――どういうことよ。説明して」
 「つまり。牧野さんを嵌めるための作戦なんだ、これ。あ、オレは、佳那子さんが牧野さんを嫌ってて、婚約させられそうになってる、って話しか聞いてないんだけどね」
 「……」
 「オレの役目は、倉木さんをここに連れてくること。結構、怪しまれないかヒヤヒヤしたよー。成田のせいで大変な目に遭っただろうから、罪滅ぼしにいいとこ連れてってあげるよ、って言って、なんとか連れてきたんだ」
 「…いいとこ、って…」
 「―――“超ハイレベルな女の人にゾッコンの男の人がいて、彼女の方はその男をあまり良く思ってないから、略奪しても多分文句は言わないよ?”…ってこと。倉木さん、略奪愛が趣味なんだ。しかも、女から“盗る”ことよりも、男の目をその女より自分に向けさせるのが楽しいんだってさ」
 「……」
 ―――なんて女なんだ、倉木。
 もう、みなまで聞かずとも、作戦は想像がついた。つまり、倉木の新たなターゲットとして牧野に引き合わせた訳だ。
 頭がグラグラしてきた。全く――― 一体誰が、こんな馬鹿なアイディアを思いついたのやら。
 「…あのね。倉木さんレベルで落とせる相手じゃないわよ、あいつは。百戦錬磨の詐欺師なんだから」
 思わずこめかみを押さえつつ佳那子が言うと、和臣はチッチッチッ、と指を振ってみせ―――突如、地面にしゃがみこんだ。
 「神崎?」
 「佳那子さんも来てみれば分かるよ」
 腰を屈めた和臣は、そう言って、今出てきた店の中へと、ソロリソロリと戻り始めた。何をする気なのか分からないが…佳那子も一応、同じように姿勢を低くし、和臣の後に続いた。
 このフランス料理店は、入り口と店内の境目辺りに、ちょうど成人女性の胸の高さ位の仕切りがあり、その上にアイビーなどの植え込みが作られている。腰を屈めた和臣はその端辺りからそっと店内を覗き込み、佳那子を手招きした。
 訳が分からないものの、佳那子もその背後から、こっそり覗き込む。さっきまで自分達がいた窓際の席がよく見え、牧野の背中と、やたら楽しそうな倉木の顔がはっきり見てとれた。
 「―――これが、何?」
 「佳那子さん達の席の、こっちから見ると斜め右後ろの席。見える?」
 「……」
 和臣に言われたとおり視線を動かした佳那子は―――そこにいるカップルを見て、危うく大声を上げそうになった。
 「―――………!!!!!!」
 「…という訳」

 あれは。
 あれは、どう見ても―――いや、変装をしているから絶対とは言えないが―――でも、どう見ても…瑞樹と、蕾夏だ。

 蕾夏の方は、背中を向けているので、顔は見えない。が、珍しく一つに束ねた髪の艶や色は明らかに蕾夏のものだし、首の細さとか肩幅の狭さとか…とにかく、骨格全体が蕾夏としか言いようがない。一瞬見えた横顔から察するに、どうやら、やぼったい眼鏡などもかけているようだ。
 そして、向かいに座る瑞樹は…店内だというのに、キャップを、つばを後ろに向けて被っている。サングラスをしているし、黒っぽい服装だし、髪も撫で付けてキャップの中に収めてしまっているから、一見、誰だか全然分からない。が…頬杖をついている仕草が、やっぱり瑞樹だ。
 「な…な…何、やってるの、あいつら…!」
 人の命令で動くとは思えないあの2人が、あんなベストポジションにしゃしゃり出ている…ということは、この茶番劇の仕掛け人があの2人であることは、もはや疑いようもない。知らず、声が震える。
 「倉木さんが押せ押せムードになったところで乱入して、インタビューすることになってるんだ」
 「インタビュー?」
 「このレストラン、結婚式場としても使われることが多いらしくてさ。一応、架空記事のタイトルは“若いカップル客が夢見る理想的なウエディングの食事”なんだけど―――本当の目的は、仲睦まじい写真を撮ること」
 「……」
 「ついでに言うと、佳那子さんが置いてきたあのハンドバッグ。あの中に、久保田さんが長時間録音できる録音機を仕込んでて、既にスイッチオンしてる筈。色々、楽しいことが吹き込まれてると思うよ?」
 「…………」
 何が録音されるのやら、分かったものではないが。
 そのテープと写真が、どんな風に使われるのかは―――過去に瑞樹が行ってきた報復措置の数々を思い出せば、なんとなく察しがつく。
 「ちなみに、今後の予定としては、佳那子さんには急遽オレと一緒に会社に戻ってもらって―――あとは倉木さんの腕の見せどころ、ってとこ。しつこさでは多分、彼女より上はいないと思うから、今晩中に面白い写真も撮れるかもね。オレと久保田さんもデジカメ持って張り込むから、期待して待っててねー」

 ―――終わったわね。牧野さん。
 今後、牧野が辿るであろう運命を思い、佳那子は、ザマミロというどす黒い喜びと、ご愁傷様、という気分を同時に味わった。


***


 その後については、簡単に触れるだけにしておこう。

 その日撮られたスクープ写真は、2枚。1枚は、倉木が満面の笑みで牧野の腕に抱きつき、牧野もプレイボーイらしくそつない笑みを浮かべている、レストランでのツーショット写真。そしてもう1枚は、一体どうやって撮ったのやら―――明らかに、牧野と倉木のキスシーンの写真だった。しかも、背後に怪しげなホテルの看板が入ってる辺り、うかつとしか言いようがない。
 1日おいて、金曜日の朝。出勤した牧野を待っていたのは、全社員の冷たい視線。
 その理由は、明らかだ。全社員が毎朝欠かさず目にする1階ロビーの掲示板に、この2枚の写真がデカデカと引き伸ばしされて掲載され、しかもその脇には、こんなタイトルの記事まで貼られていたのだから。

 『スクープ! 次期次長候補のエリート・牧野恭介氏の華麗なる日々 佐々木顧問愛娘との婚約は出世のための偽装結婚か!?』

 「…ちょっと、牧野君」
 掲示板前で固まっていた牧野は、部長に背中を叩かれ、別室に連れて行かれた。
 部長や専務ら、大半の幹部が集まる中、目の前に置かれたのは、何故かカセットデッキだった。
 「今朝、匿名で送られてきたテープなんだがね。明らかに君の声で、誰か女性と会話してるところが入ってるんだが―――その、なんというか…佐々木君の娘さんを冒涜するような、聞くに耐えない内容ばかりでね」
 「……」
 「…今から再生するから、1つ1つ、弁明してもらえないかね」


 ついでに牧野には、屈辱的なオチがついている。

 「え? 牧野さん? ああ―――もうやめましたぁ。あの日1回限りですぅ。なんか、佐々木先輩を侮辱するような発言繰返してるのもムカついたし、それに―――やっぱりベッドインしてみないと分かりませんねぇ、男は。いろんな女手玉に取ってるから、さぞかし楽しませてくれるのかなー、と期待してたのに、情けないったらありゃしないですよ。性格悪くても相性良ければ続けようかなー、とか思ってたのになぁ。ねぇ、どっかに精力的で二枚目な美人な彼女持ちの男、いません?」


 こうして、悪は―――もとい、牧野は滅びたのだが。

 この件をきっかけに、新たな展開になろうとは―――さすがの久保田も、そして佳那子本人も、予想だにできなかった。


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