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― しっぺがえしは自己嫌悪 ―

 

 「随分と怖い顔してるのねぇ、智哉君」
 企画書を手に眉を顰めている瀬谷を見て、白石が、異様にゆっくりした口調でそう言った。
 ちょっと嫌味なその口調には、理由がある。
 まず、ここが、洒落たバーのカウンター席である、ということ。
 更に、瀬谷の隣には、白石がいる、ということ。
 そして、今日は一応、瀬谷の誕生日祝いと称して白石がここへ誘ったのだということ―――つまりは、白石から言わせれば、今がいわゆる“デート中”だからだ。
 「こんな時にまでそんな顔しなきゃいけないほど、難しい仕事でも抱えちゃった訳?」
 「…んー…まあ、ねぇ…」
 曖昧に答えた瀬谷は、眉間に皺を寄せたまま、水割りに口をつけた。
 瀬谷は基本的に、仕事人間である。ライターという仕事に誇りなど微塵も持っていないものの、与えられた命題に沿って完璧な記事を仕上げてみせる、という職人気質な部分は人一倍あるのだ。誕生日なんて、成人した辺りから、もうどうでも良くなった。瀬谷にとって、そんなものより仕事が優先するのは、至極当たり前の事だった。
 「どんな仕事なのよ」
 同じライターとしての興味も手伝い、白石が、瀬谷の手元の書類を覗き込む。が、その一番上に書かれた題字を見た途端、その丁寧に整えられた細い眉を不愉快そうに歪めた。
 「“パラサイト・シングル”? やだ、そんな特集組むの? “A-Life”で」
 「12月号の特集の一環としてね」
 12月号の特集は、現代の20代・30代をテーマに、色々な社会現象を検証する特集なのだ。
 “月刊A-Life”という誌名は、そもそも“Aクラス”―――ワンランク上の生活を提案し応援する、といったコンセプトでつけられた名前だが、中身は単なる生活情報誌というより、日本の現代カルチャーを紹介し検証していく雑誌、といったスタイルをとっている。だから、スローフードだのカフェスタイルだのといった流行発信もしたりする一方で、税金とか保険なんていう硬い話扱うし、DINKSやパラサイト・シングルを扱ったりもする訳だ。
 「ふぅーん…そんなもんも扱うの。悪趣味ねぇ」
 「―――そう言えば君も、自宅通いの独身だったな」
 露骨に不愉快そうな顔をする白石を見て、瀬谷がポツリと呟く。途端、白石の頬がピクッと引きつった。
 「親と同居している、家事を親に任せている、家賃をほとんど払っていない、給料の大半を自分の好きに使える―――ってのがパラサイト・シングルの定義らしいけど」
 「けど…おかしな話よね。大学卒業したての新人君には、そんな言葉使わないでしょ。結婚適齢期が近づいた女ばっかりそういう単語を押し付けられるなんて、一種のセクハラよ」
 「…確かにね」
 そっくり同じセリフを、瀬谷は今日、編集部でも耳にした。津川のセリフだ。
 『通勤圏内に実家のある人って、大抵が自宅通いでしょ? 独立してないからって“寄生”呼ばわりされるのは心外だわ。結婚できない女の代名詞みたいに使われるし―――これってセクハラに当たらないのかしら』
 そう。こういう、白石や津川の反応が、瀬谷が悩んでいる理由。
 “月刊A-Life”の読者は、大半が20代・30代の女性だ。子持ちの専業主婦もいれば、新卒の新人社員もいる。そして勿論、自宅通いで勤めに出ている未婚女性も大勢いる。
 読者が不愉快にならないよう、配慮して欲しい―――それが、編集長が瀬谷に与えた、唯一の注意点。
 ―――“寄生”なんて単語使われて、不愉快にならない奴なんて、いるか?
 そもそも、この言葉の響きそのものがまずいんじゃないだろうか。そう思うと、どう書いても反感しか買わない気がしてきて、考えることも放棄したくなるのだ。
 「大体、自宅通いであることと結婚のこととは、全然別モノなんじゃないの? ひとり暮らしの独身だって大量にいるじゃないの。家に居座って甘えた考えでいるから結婚できない、なんて、単なる決めつけだわ」
 白石はしつこく“パラサイト・シングルな女性=結婚できない女”論に憤慨し続けている。瀬谷自身は、そんなこと、これっぽっちも思ったことはないのだが…誰かに何か言われた経験でもあるのだろうか。
 「やけにこだわるね。誰かにそう言われたとか?」
 「…親から言われたのよ」
 「―――なるほど」
 あまり深く突っ込むべき話ではなさそうだ。そつない相槌を打った瀬谷は、肩を竦め、何も聞かなかったように水割りを口に運んだ。
 ところが白石は、そこで終わりにしてくれなかった。
 「私だって、好きでパラサイト・シングルしてる訳じゃないわよ。そろそろ、そう呼ばれる身分とはおさらばしたいって思ってるんだから」
 「ふぅん」
 「…まるで他人事ね、その相槌」
 「他人事だからね」
 だって、そうだろ?―――そういう意味を含んだ目を、白石に向ける。
 ちょっと不満そうな顔をした白石だったが、異論はないらしい。ただし、きっちり報復の言葉を返すのは忘れなかった。
 「そうね。誰かさんは、もう二度と、本気の恋愛なんてしたくないんだものね」
 「……」

 ―――もう、二度と…。
 今更そんな言葉でキレるほど、瀬谷も青くはない。自嘲気味な笑いに口元を歪めた瀬谷は、グラスに残っていた水割りを、一気に飲み干した。


***


 「…機嫌がいいわね、藤井さん」
 津川が唐突に呟いた言葉に、
 「えっ、そうですか?」
 蕾夏は、もの凄く機嫌が良さそうな笑顔を返してしまった。
 思わず、それを誤魔化すように頬を押さえる。駄目だ、あまりヘラヘラ笑いすぎると変人扱いされてしまう―――そんな馬鹿なことを考えるほどに、今の蕾夏は、放っておけば顔が笑ってしまいそうになるのだ。
 「その顔を“機嫌がいい”と表現せずに何と表現すればいいの、って位に、機嫌がいいわよ」
 「あー…ハハハ、そうですか」
 「何かいいことあったの? 彼氏と」
 「え?」
 全然方向違いの―――いや、そうとも言い切れないのだが―――ことを探られ、蕾夏は一瞬、キョトンとした顔をした。すると津川は、慌てたようにぶんぶんと首を振った。
 「あ、いえ、そそそそそうじゃなくて、ええと―――何でそんなに機嫌がいいのかな、と」
 「? なんでそんなに慌ててるんですか?」
 「何でもないのよ、何でも。それより…」
 「ああ。あの、この前撮影に同行したイメージスチールの選定が、今日終わったんです。で、私が書いた記事とピッタリマッチしてて、とてもいいムードに仕上がった、って編集長から褒められたから」
 「…っていうと、あの、ミニシアターの」
 「ええ」
 答えつつ、また笑顔になってしまう。
 モデルの件では、ちょっと思い出すだけで鳥肌もののトラブルがあったものの、先日の撮影で撮った写真は、どれも蕾夏のイメージ通りの写真だった。ゆったりとした時間の流れを感じさせるような―――セピア色した空気を思わせる、そんな写真。
 瑞樹の写真は、いつだって、蕾夏の目を通して世界を覗いたみたいに、蕾夏が感じたそのままを焼き付けている。今回も、いつも通りだった…ただ、それだけのこと。でも、それを第三者が認めてくれたことが、どうしようもなく嬉しくて仕方ないのだ。
 第三者が認めてくれる、ということは―――それが、2人で作り上げる写真集の第一歩であることを意味する。
 自分達以外の“誰か”に、自分達が見ている世界を表現し、理解してもらうための、第一歩―――こんな嬉しい出来事に、頬が緩まない筈もない。あまりにも嬉しかったから、さっき、慣れない携帯メールを瑞樹に打ってしまったほどなのだから。
 「今、ライターになって良かった、ってしみじみ実感してるとこなんです」
 満面の笑みで蕾夏がそう言うと、
 「そう―――良かったわね。最初の大きな仕事が、順調に終わりそうで」
 津川は、少しぎこちなさの残る笑みでそう言い、くるっと机に向き直り、仕事に戻ってしまった。
 勿論、この津川の妙な反応の裏には、以前、偶然出くわした備品庫での瑞樹と蕾夏の一件があるのだが―――そんなことを蕾夏が知る筈もない。津川のぎこちなさの意味が分からない蕾夏は、津川さんどうかしたのかな…と、首を傾げるしかなかった。

 気合を入れ直した蕾夏が、再び仕事に取り掛かり始めた時。
 「津川さん」
 瀬谷が、ふらりと津川の席までやって来た。
 「はい?」
 「読者メール、ちょっと見せて欲しいんだけど」
 この会社では、読者からの意見や感想、アンケートなどのメールは、データベース化して保管している。その管理をしているのは津川を含む社員数名―――メールアドレスなどの不正使用を防ぐため、社内の者でも、彼らの許可なく閲覧することは不可能になっている。どうやら瀬谷は、その読者メールを閲覧しに来たらしい。
 「構いませんけど…読者メールにどんな用事があるんですか?」
 「先月のメールで、今度の特集の参考になりそうなのがあった筈なんだ」
 「…今度の特集って、あれですか」
 途端、津川の口調がぞんざいなものに変わる。その変化が気になって、パソコンを睨んでいた蕾夏も津川の方に目を向けた。
 津川の表情は、露骨なまでに不愉快そうだった。日頃、割合クールで顔に感情の出ない津川にしては、珍しい表情だ。そんな津川の様子に、瀬谷は迷惑そうに眉を顰めた。
 「言っておくけど、特集を企画したのは、僕じゃないよ」
 「…ええ、分かってます。じゃあ―――ちょうど私、資料室に調べ物しに行きたかったので、ここ、使って下さい」
 抑揚のない声でそう言うと、津川は席を立ち、いくつかのファイルを手に去って行ってしまった。が、不貞腐れているとかそういうムードではないので、資料室に用事があったのは事実らしい。肩を竦めた瀬谷は、やれやれ、といった表情で津川の席に着き、読者メールをのデータベースを開いた。
 「瀬谷さん」
 「何」
 「今度の特集って、何なんですか? 津川さんがあんなにご機嫌斜めになるなんて」
 「ああ―――色々あるけど、“パラサイト・シングル”がメインかな」
 「…それで、どうして津川さんが不機嫌になるんですか?」
 「セクハラされた気分らしい。僕に言われても困るけどね。企画決めたのは、編集部の連中なんだから」
 「セクハラ?」
 パラサイト・シングルのどこがセクハラなのか、よく分からない。不思議そうに目を丸くする蕾夏に、瀬谷は、文字の羅列を追う目を一旦止め、蕾夏の方を流し見た。
 「“自宅通い・家事は親任せ・家賃不払い”っていうのがパラサイト・シングルの定義だけど、その定義に当てはまる成人独身女性、と言うなら、今年大学を出たばかりの新人も、定年間際のお局様も同じの筈だろう? でも―――世の中、どういう訳か、結婚適齢期前後の女性にばかりこの単語を使う傾向にあるからね。いわゆる“結婚できない女”の代名詞的な扱われ方だから、セクハラと感じるらしい。津川さんもその年代だからね」
 「でも…それは、マスコミとかが間違った取り上げ方をするからなんじゃないですか? 今度の特集って、まさかそんなのじゃないですよね?」
 「まさか。読者が不快と感じないような記事にしろ、ってのが編集長からのお達しだからね」
 「…まるで、瀬谷さんの本音のまま書いたら不快な記事になる、って言ってるみたいですね」
 その可能性があるから、編集長も釘を刺したのではないだろうか―――そう思ってボソリと呟くと、瀬谷の眉がピクリと動いた。
 「―――まあ、否定はしないけどね。今回は少々、悩んでる」
 「え? どうしてですか?」
 「パラサイトって単語が、どうにもね。“寄生”だなんて―――中身でどう建前をふりかざそうと、単語そのものが不愉快すぎるだろう?」
 確かに―――それは、言えるかもしれない。大体、“寄生”という言葉は、あまり良いイメージでは使われない―――というより、悪い意味合いでばかり使われる言葉なのだから。
 「ちなみに、藤井も定義に当てはまる1人かな?」
 「え、いえ…私は、ひとり暮らしなんで、定義には当てはまらないですね」
 「じゃあ、パラサイト・シングルに対しては批判的な立場にある訳か」
 「いえ、そういう訳でも…」
 上手い表現が見つからず蕾夏が言いよどむと、少し興味を覚えたのか、瀬谷はマウスから手を離し、体を蕾夏の方に向けた。続きを話せ、ということらしい。
 「…正直言うと、パラサイト・シングルって単語には、凄く疑問を感じちゃうんです」
 「疑問?」
 「親も子供も納得の上でなら、同居のまま過ごすのだって、別に悪いことじゃないんじゃないかな、って。お金で測れない部分って、色々あるでしょう? 同居することで精神的に安定する親子もいるし、家事やお金だけが“親を助ける”こととは限らないし」
 「…まあ…確かに、そういうケースもあるかもな」
 「それに、結婚できない人の代名詞、みたいに言うのも変ですよ。結婚“できない”って言う人は、結婚“したい”訳でしょう? そういう、まだ上手くいってはいないけど結婚して独立する気はある、って人まで、“寄生してる”って言うのは、ちょっと…」
 「やる気の問題か」
 「うーん…そういうことになるのかな。実態がどうか、ってことより、心根の問題じゃないかな、と。定義だけで測れるものじゃないのに、いろんな事情抱えた人を1つの単語に押し込めようとするから、津川さんみたいな人が怒っちゃうんですよ、きっと」
 「…難しいな、女心も」
 ううむ、と腕を組んで考え込んだ瀬谷は、眉間に皺を寄せて、そう呟いた。
 が、その呟きに、今度は蕾夏が眉を顰めた。
 「なんで女性に限るんですか」
 「え?」
 「あ、そうだ。ちなみに瀬谷さんは、ひとり暮らしですか?」
 唐突な言葉に、瀬谷はちょっと目を丸くした。
 「いや、両親や兄弟と一緒だけど」
 「なんだ。じゃあ、話は簡単じゃないですか。自分のこと考えればいいんですよ」
 「……」
 「瀬谷さんもパラサイト・シングルの定義に入ると思いますから、自分が書かれたら嫌な表現は避ければ、それでいいんじゃないですか」
 「―――…」
 そう。パラサイト・シングルとは、男性にも使う言葉なのだ。
 が、その部分が、今の瀬谷の頭からはすっぱり消え失せていたらしい。大きく目を見開いた瀬谷は、暫しの沈黙の後―――強烈に不愉快そうな顔をして、眉間に深い皺を寄せた。
 「…やっぱり、“寄生”って単語の響きが、良くないんじゃないか?」
 「定義じゃなく心根の問題だってことを訴えてあれば、不愉快な単語でもいいんじゃないですか? 心根に問題ありの人に警鐘を鳴らす、って意味で」
 「まあね」
 納得したような、納得してないような複雑な表情ではあるが、瀬谷は一応、そう相槌を打った。

 ―――瀬谷さんの場合、どっちだったんだろう?
 その複雑な表情を見て、チラリと思う。
 定義でいけば、確かにパラサイト状態らしい瀬谷だが―――心根の問題と考えた場合、一緒にするな、と怒る立場だったのか。それとも…やっぱり、寄生状態だったのか。
 ―――嫌いな香水褒めちゃったりして、結構信用ならない部分あるから、案外心根に問題ありタイプだったりしてね。
 内心、そんなことを思って、思わずクスクスと笑ってしまいそうになる。その笑いを辛うじて抑えた蕾夏は、ふと瀬谷の視線があらぬ方向に向いているのに気づき、キョトンとした顔になった。

 瀬谷の視線は、蕾夏の机の上に置かれた本に、釘付けになっていた。今日の昼休み、本屋で買ったばかりの文庫本で、仕事とは関係ない、蕾夏の私物だ。
 その本の表紙を凝視する瀬谷の顔は、いつもの瀬谷とはまるで違っていた。
 棒切れでも飲み込んだかのように、感情の抜け落ちた、凍りついたような表情―――いつもの皮肉っぽい笑いも冷徹な無表情もなく、ただ…全ての機能が停止したみたいに、その本を見つめ続けている。
 「瀬谷さん?」
 「―――え…」
 名前を呼んだら、やっと、少しだけ表情が戻る。凍り付いていた瀬谷は、ハッとしたように視線を揺らし、僅かに蕾夏の方を見た。
 「“蘇芳(すおう)せな”の本が、どうかしたんですか?」
 蘇芳せな。比較的若手に属する作家で、そこそこ人気もある。机の上にあるのは、その最新作を文庫化したものだ。
 「…あ、いや」
 自分が、蘇芳の本を凝視していた自覚など、なかったらしい。取り繕うように、ほんの少しだけ口元に社交辞令の笑いを見せた瀬谷は、もう一度、件の本に目を向けた。
 「同世代の作家の本なんで、気になっただけだよ」
 「へえ。てことは、私ともあまり変わらない歳なんですね、蘇芳せなって」
 「ファンとか?」
 「いえ、特には。1作目の―――ええと、何だったかな、賞取ったやつ。あれが好きだったんで、その後1冊か2冊買ってみたんですけど、1作目と比べてイマイチだったんで、暫く買うのやめてたんです」
 「じゃあ、何故?」
 「裏表紙のあらすじ読んだら、なんかちょっといつもと違うみたいなんで―――あの、ほんと、どうかしたんですか?」
 何故こうも、この本にこだわるのだろう? 不思議に思って訊ねたが、
 「―――いや、別に」
 短くそう答えた瀬谷は、ついっ、と視線を逸らすと、そのままパソコン画面に向き直ってしまった。
 そしてそのまま―――二度と、蘇芳せなの本について口にすることはなかった。


***


 翌日の土曜日。
 自室のベッドに横たわり、本を読むともなしに広げていた瀬谷は、ぼんやりと前日の会話を思い出していた。

 「心根―――ねぇ…」

 現在、瀬谷の収入は、新人ライターの蕾夏よりもはるかに多い。一般の同世代サラリーマンより若干多い位かもしれない。
 兄弟は、社会人2年目の弟が1人。両親は健在。母は専業主婦で、父はまだ現役で働いている。弟も給料から若干ながら金を出しているので、瀬谷が家に入れている金などたかが知れている。
 家事一切を手伝ったことは、ほぼゼロ。台所は女の居場所だ、と豪語する母親なので、瀬谷も弟も、本当に台所に足を踏み入れたことがないのだ。
 自宅は、勤め先まで公共交通機関で30分と好条件。大学なんて、もっと近くて、歩いて15分で行けた。だから、家を出てどこかでひとり暮らしする、なんて考えたことはない。
 そして、結婚して家を出る―――その計画も、ゼロだ。特定の女と付き合う気もないのに、ましてや結婚なんてする気がある訳がない。一方両親は、結構口うるさく「早く結婚しろ」とせっついていたりする。

 ―――真性パラサイト・シングル、決定。
 津川や白石が目くじら立てるのを、半ば馬鹿にして見ていたというのに―――まさか自分の方が、真性のパラサイトだったとは。なんだか、久々に落ち込んだ。

 これでもいっぱしに、家を出、結婚し、独立した家庭を持とうと思った時も、あったのだけれど―――今更だ。苛立ちを覚えた瀬谷は、手にしていた本を乱暴に閉じると、ごろりと寝返りを打った。
 と、その時、枕元に放り出しておいた携帯電話が鳴った。
 休みの日に、珍しい。誰だろう、と手に取って液晶を覗き込むと、“白石”と名前が表示されていた。
 数日前の夜、誕生日祝いと称して飲みに行った時のことを思い出し、面倒だな、と一瞬思った。が、ああした話題を理由に避けるのもまた面倒なので、結局、通話ボタンを押してしまった。
 「―――はい」
 『智哉君?』
 「ああ。どうかした?」
 『ちょっと、出てこれない?』
 いつもより、僅かに硬い、白石の声。
 なんだか、嫌な予感がした。

***

 「見合い?」
 「ですって」
 コーヒーカップを口に運んだ白石は、あっさりした口調でそう言った。
 「今までも来てたけど、断ってたのよね。でも、ま…いい歳だから、そろそろ1回位はしてみてもいいかも」
 「へえ」
 「…相変わらず、他人事ね」
 白石の冷ややかな声に、
 「他人事だろう?」
 当然のように、瀬谷はそう答えた。
 白石とは、ずっとこんな関係だった。お互い、複数の異性の“親しい友達”を持っていたし、白石にはれっきとした恋人がいた時期だってあった。つかず離れず、干渉せず、お互い楽しむためだけにいる“都合のいい相手”―――それが、2人の関係の全てだ。
 「あのね、智哉君」
 呆れたような、どこか苛立ったような表情の白石は、カップをやや乱暴に置くと、瀬谷を真っ直ぐに見据えた。
 「あなたはどうだか知らないけど―――私は、ひとかけらの恋愛感情もなくこんな関係続けられるほど、割り切った女じゃないわよ」
 「…え?」
 「いつかは遊びが本気になる日が来るかも、って…期待しなかった、って言ったら、嘘になる。お互い、他にも遊び相手はいるけど…私にとって智哉君がそうであるように、智哉君にとって一番は私なんだ、って自信もあった。寄り道も何度かはしたけど、いつかは、って―――時間が経てばいずれは、って、どこかでそう思ってたわよ」
 ―――そんなこと、今更言われても。
 どう答えろというのか。遊びでいい、と言ったのは、そもそも白石の方だ。セフレなんていう今時の言葉を使ったのだって、白石の方だった。1人に縛られるのは嫌なの、自由に恋愛を楽しみたいの、と言ったのは、今目の前で泣くのを我慢してるみたいな顔をしている、この女の方だったのだ。
 「…今まで言ってきたことと、言ってることがまるで違うんじゃないか?」
 思わずそう言うと、白石はカッとなったように顔を上気させた。
 「言葉にしなくちゃ分からない訳? 智哉君は!」
 「察しろ、って?」
 「そうよ! 少なくとも、昔の瀬谷君は、人の気持ちにもっと敏感だったわよ!」
 “瀬谷君”―――昔の呼び方で呼ばれて、背筋にむず痒さが走った。やめて欲しい。当時の呼ばれ方をすると、あの頃に戻ったような錯覚に陥る。
 「…たった1回の挫折を、ここまで引きずるなんて…馬鹿みたい」
 吐き捨てるように、そう、白石に言われて―――さすがに、瀬谷の顔色が変わった。禁句だった。まさに。
 「立ち直るまで待ってようって思ってたけど…もう、限界。遊び相手なら、私以外にも沢山いるでしょ。私は降りさせてもらうわ」
 「―――どうぞ、ご勝手に」
 驚くほどすんなり、そう返事していた。
 瀬谷だって、白石にはそれなりに、恋愛感情に近い好意を持ってた筈だが―――今更こんなことを言われ、なおかつ、癒えきらない傷を馬鹿にされた今では、むしろ憎しみさえ感じる。白石が全て知っているからこそ―――自分の気持ちを一番理解していると思っていたからこそ、余計に。
 「遊びでいい、って君が言うからこそ、付き合ってきたんだ。結婚する気のない男が、結婚願望の塊になった女と遊べる訳ないだろ。こっちから願い下げだ」
 「…ああ、そう」
 低くそう言うと、白石はバッグを掴み、ガタリと音をたてて立ち上がった。
 「最後のコーヒーは、奢りなさいよね」
 「ああ」
 「誕生日にあげたもの、返せなんて言わないから、私も返さないわよ」
 「ああ」
 「…智哉君」
 不貞腐れたようにそっぽを向いていた瀬谷は、ため息を一つつき、白石を見上げた。
 白石は、涙を飲み込むように唾をコクリと飲み込むと、乾いた声で、告げた。
 「最後に、教えてあげましょうか? あなたが藤井さんを気に食わない、本当の理由」
 「…残念ながら」
 瀬谷は、皮肉っぽく口の端を上げた。
 「そんなもの、教えてもらうまでもなく、とっくに知ってるよ」


 『今、ライターになって良かった、ってしみじみ実感してるとこなんです』

 昨日、津川に声を掛ける前に偶然聞いた蕾夏の言葉が、耳に蘇る。本当に嬉しそうな、幸せそうな笑みと一緒に。

 瀬谷は蕾夏に、“あいつ”を重ねているのだ。
 “書くことが、好きなんです”―――そう口にする時の“あいつ”の目と、蕾夏の真っ直ぐな視線が、あまりにも似ているから。

 かつて、瀬谷を裏切り、羽根を残らず毟り取り、もう二度と這い上がれないところまで追いやった人―――瀬谷を襲った、たった1度の挫折。その時の傷は、今もなお、瀬谷を蝕んでいるのだ。


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