←BACKStep Beat COMPLEX TOPNEXT→






― イイ女の条件 ―

 

 『まだ説得できないのかっ!?』
 寝起き早々、受話器から聞えたヒステリックな声に、久保田はうんざり顔であくびを噛み殺した。
 「2週間やそこらじゃ無理ですよ」
 『本当に説得してるんだろうな!? よもや、これ幸いと佳那子に手出しなど…』
 「してません」
 『お前じゃ埒があかんっ! 佳那子の居場所を教えなさいっ!』
 「ですから! 俺が訊いても教えてくれないって、もう7回も説明したでしょう!」
 『そんな言葉が信用できるかっ!!』
 ああ、もう。
 この状況で、何故そこまで疑うのか、理解できない。髪を掻き毟った久保田は、バタン! と部屋のドアを開けると、まだ慣れない廊下を一気につっきり、階段の手すりから身を乗り出して、吹き抜けの下を覗き込んだ。
 「…佐々木先生」
 地を這うような久保田の声に、内線電話に向かってまだ怒鳴っていた佳那子の父は、ハッとしたように2階を見上げた。そして、頭上から寝起きの不機嫌顔を覗かせている久保田を見つけ、より不機嫌そうな顔を返した。
 「とりあえず、同じ家にいるのに、内線で文句言うのはやめてくれませんか」

***

 「久保田っ」
 会社に着くなり、即、心配顔の佳那子が駆け寄ってきた。
 「…よぉ。おはよ」
 「デューク、元気だった!?」
 「……」
 ―――お前という奴は…。
 佳那子の自由を確保するため、文字通り“自らを犠牲にして”いる久保田のことよりも、愛犬の健康状態の方が気になるというのか。一瞬、怒りで頭の血管が切れそうになったが、必死に理性で押し留めた。
 「…元気元気。町内を猛スピードで走り回らされた。朝っぱらから、いい運動になったぞ」
 「そう」
 途端、佳那子の顔がホッと安堵したように緩んだ。
 「あの子、人見知りするし、私とこんなに長い時間離れてたことってないから、ストレスでおかしくなるんじゃないかと心配してたんだけど―――もう懐いちゃったのね。さすがは久保田だわ」
 「…そりゃどうも」
 犬の扱いで褒められてもなぁ、と肩を落とした久保田は、ふと佳那子の手元を見て、思わず眉をひそめた。
 「おい。なんだそりゃ」
 「え?」
 「え、じゃないだろ。なんなんだ、その大量の絆創膏は」
 佳那子の左手には、小さめの絆創膏が、計4箇所も貼られている。うち3箇所が指先だ。
 久保田の指摘を受けた佳那子は、ちょっと笑顔を引きつらせ、絆創膏だらけの手を背後に隠した。
 「あ、ああ…ちょっとね。慣れないひとり暮らしだと、色々と事故が起こるのよ」
 「…どんな暮らし方してんだ、お前は」
 「まあ、いいじゃないの。それより―――久保田の方は、大丈夫? その…お父さんのこと」
 周囲の耳を警戒して、佳那子の声のボリュームが、より絞られる。久保田は、嫌味ったらしく目を眇めた。
 「やっとそこに言及してくださいましたか」
 「…ごめんなさい…」
 「―――まあ、いい。俺は大丈夫だから、心配するな」
 「本当に?」
 「ああ。だから佐々木は、勝つことだけ考えてろ」
 久保田のその言葉に、佳那子は微かに微笑み、小さく頷いた。


 佳那子が家を出た後、佐々木昭夫が最初に怒鳴り込みに行った先は、当然、久保田の所だった。
 この時点では、久保田もまだその事実を知らなかったし、思いがけない話に唖然とするばかりだった。とにかく、佳那子の父を落ち着かせ、丁重にお引取り願って、佳那子からの連絡を辛抱強く待った。携帯の電源が切られているらしく、こちらからは連絡が取れなかったのだ。
 佳那子から、家を飛び出すに至った経緯を聞き、さすがに憤った。勿論、一番悪いのは牧野だろうが、そういう悪い奴を娘に近づかせるなんて、まともな親のすることとは思えない。久保田は、全面的に佳那子の家出に賛成した。
 しかし。
 あの父親が相手では、ただ応援しているだけでは済まされないことは、目に見えている。
 佳那子が家出した翌日には、佐々木昭夫の秘書をしている原口が、久保田の家にやってきて、ほぼ丸一日、居座った。そんな展開はお見通しだったので、佳那子の新居探しを頼んだ佐倉には「こっちから連絡するまで連絡は入れるな」と言っておいたから、問題ではなかったが。
 更に翌日の日曜日、今度は佐々木昭夫本人がやってきて、必死の形相で「佳那子を返せ」と詰め寄った。が、返すもなにも、今手元にいないのだから、どうしようもない。「新居の住所も教えてもらっていない、また連絡するから心配するなと言っていた」と、昨晩の電話の内容をそのまま伝えたら、昭夫はその場に崩れ落ち、泣き出してしまった。
 牧野の一件については、それなりに反省しているらしい。けれど。
 「だからと言って、わたしは貴様と佳那子の交際など認めんぞ!」
 結局、話はそこに戻ってしまう。時間を置いて様子を見ましょう、と言っても、その間にわたしが折れるとでも思っているんだろう、と完全に喧嘩腰だ。
 このまま月曜日になったら、どうなるか―――簡単に、予想がつく。
 佳那子は、いかに本人が不良に憧れていようとも、結局は超が付くほどの優等生だ。家出をしたって、会社をサボる訳ではない。いつも通り、出勤するだろう。となれば…昭夫が考えることは、ただ一つ。
 会社に先回りして佳那子を待ち、出勤してきたところを確保する―――そんな方法を考えているに違いない。
 「…分かりました。なら、こうしましょう」
 考えに考えた挙句、久保田は、ある提案を昭夫に持ちかけた。
 「佐々木が戻るまでの間、俺の身の潔白を証明するためにも、佐々木家で寝起きさせてもらいます。佐々木には、一度ちゃんと先生と話をするよう、会社で説得を続けます。だから―――彼女が納得するまでは、本人の気の済むようにさせてやってくれませんか」
 つまり、佳那子の一時の自由と引き換えに、いわば自分を人質として差し出したのだ。
 貴様なんぞと一緒に住めるか、とまたヒステリーを起こす昭夫だったが、
 「デュークの世話をする人間も必要なんじゃないですか?」
 の一言で黙ってしまった。デュークは、昭夫のウィークポイントだ。なにせ、飼い始めてからこれまでに、噛まれた回数が両手では足りない、と言うのだから。動物アレルギー気味の家政婦の原口妻は、餌だけは面倒見てくれるが、散歩など絶対にしてくれない。3つの時に犬に噛まれて以来、犬嫌いになってしまった秘書の原口は、言わずもがなだ。
 つまり、あの家でデュークを操れるのは、佳那子だけ。そして久保田は、そのデュークを、初対面で操った手腕の持ち主だ。
 勿論、そんな経緯を、昭夫が知る筈もない。が…主人の父親に牙を向く愛犬を連れて、ご近所をぐるりと回るだけの度胸はなかったらしい。渋々ではあるが、彼はその条件を飲んだのである。

 以来―――約2週間。久保田は、ほぼ毎日、佐々木家の客間で寝起きしている。
 毎日、ではないのは、仕事が深夜に及んだ場合や飲みに行って遅くなった日はパス、との取り決めをしたからだ。鍵を持たない久保田だから、そんな時間に家に入るためには、離れにいる原口夫妻か昭夫本人を起こす羽目になる。それはさすがに迷惑だから、と、そういう取り決めになったのだ。
 ただし、これは、翌日がきつい。昨日はどうしていたんだ、まさか佳那子の新居に泊まったんじゃなかろうな、と延々詰問されるのだ。だから久保田も、わざと深夜まで飲み歩く、なんて真似をする気にはなれなかった。


 「なんだかんだ言いながら、お父さん、結局は久保田を気に入ってるのよね」
 面白くなさそうに佳那子が言った一言に、コーヒーを口に運んでいた久保田は、危うくそれを吹き出しそうになった。
 「…は、はぁ!? なんだよ、そりゃあ!」
 「だって―――朝食の席で、日経新聞読みながら昨日の株価について意見を戦わせる…なんて、私相手じゃあり得ない光景よ? 私、経済には全然興味ないから、株の話されてもさっぱりだもの」
 「……」
 「結局、久保田のお爺様の件で、意地になってるだけなのよ、きっと。あの2人が仲良くなりさえすりゃ、問題ないのにねぇ…」
 「…それだけ、ってことも、ないと思うぞ」
 「え?」
 そう言ってずずっ、とコーヒーをすする久保田に、佳那子は怪訝そうに眉をひそめた。が、久保田は、それ以上何も答えなかった。

 佐々木家の書斎以外の部屋に足を踏み入れたのは、今回が初めてだ。
 リビング、ダイニング、和室、客間―――その全ての部屋に、必ずあったもの。それは、例の“TVバトル”にも出てきた、家族3人の家族写真だった。
 タンスの上に、カップボードの中に、テレビの横に…どこかしらに、何らかの形で、その写真が必ず飾られている。その置き方は、客に見せるため、という感じではない。多分、昭夫の目が届きやすいよう配慮された場所に飾っているのだ。
 佳那子のこれまでの見合い相手の身上書に触れる機会もあった。佳那子の味方でもある家政婦が、昭夫が癇癪を起こして投げ捨てたものを、全て拾い集めて保管していたもので、いずれ佳那子と久保田の交際が認められた時に盛大に裏庭で燃やそうと思っているらしい。
 どれも、社会的地位の高い、標準よりは上の見てくれをした男ばかりだった。
 でも―――それ以外にも、もう1つ、共通点があった。
 それに気づいた時、久保田は、何故昭夫がああも自分を敵視するのか、なんとなく理解した。佳那子の母が亡くなった時の状況を、以前、佳那子の口から聞かされていたから、余計に。

 ―――だったら尚更、俺が掻っ攫うより、他にないよな。
 佳那子を、自由にしてやりたい。それが、佳那子と出会った当時から今まで、久保田を突き動かしてきた一番の理由。
 まだ佳那子は、落ち着いて話せる状態にはない。いずれ―――そう、1ヶ月か2ヶ月して、双方の頭が冷えた頃を見計らって、一度じっくり、本音で話し合わせた方がいいだろう。久保田はそう考え、暫くは佳那子の家出にも、昭夫のヒステリーにも黙って目を瞑ることにしたのだった。


***


 ―――あーあ、やっぱり1日じゃ塞がらないか…。
 部屋に戻ってすぐ、恐る恐る絆創膏を剥がした佳那子は、まだ痛みを訴える指先を見つめて深いため息をついた。
 合計4箇所の切り傷。その理由は、至極簡単―――昨日、料理をしようとして、失敗したのだ。
 現在、佳那子は、2軒目のウィークリーマンションに引っ越している。会社から徒歩圏だった前の場所はなかなか良かったが、あまり一所に留まると、いつ気の変わった父が刺客を―――いや、興信所や原口を差し向けてくるか分からないので、佐倉のアドバイスに従うことにしたのだ。
 家出以来、ちょうど仕事も忙しかったので、食事は大抵、社内で弁当を注文するか外食かで済ませていた。が、それも今週からは一段落し、ついでに今度のウィークリーマンションはIHクッキングヒーター完備だった。ガスコンロよりは火加減がしやすそうだ、と踏んだ佳那子は、ついに自分で自分の夕飯を作ろうと決心し、昨日、それを実践した。
 そして―――見事、惨敗した。
 ピラフとサラダとコーンスープが、これほど大変なメニューだったとは―――計3時間の力闘の結果、残ったものは、黒焦げになったピラフもどきと、瑞々しさの足りないサラダと、異常にもったりしたコーンスープ。そして、包丁による切り傷4箇所だ。
 指の怪我は、SEやプログラマーにとっては死活問題だ。今日1日、キーを叩くたびに、絆創膏を巻いた指先にチクリとした痛みが走り、落ち着いて仕事も出来なかった。
 「参ったわねぇ…」
 洗濯は、コインランドリー初体験で何とかなった。全自動だから、佳那子が洗濯した訳ではないが。
 掃除は、家財道具がほとんどない、いわばホテルのような部屋なので、問題ない。管理人室ではたきと掃除機を借り、部屋をぐるりと掃除して回って、はい終わり。倒してしまいそうな古伊万里もないし、どけなくてはいけない荷物もないから、楽なものだ。
 問題は、唯一、自炊。
 包丁が使えない、火加減の見当がつかない、味付けが分からない。本を見ても同じにならないんだから、もう才能の問題なんじゃないの、と諦めに似た気持ちが湧いてくる。
 しかし。
 このままでは、まずいのだ。
 勉強とお稽古事と仕事は出来るけど、普通の女性が出来て当たり前のことが出来ないお嬢様のままでは、絶対に嫌だ。
 ―――でも…このまま自炊訓練を続けたら、そのうち両手が絆創膏だらけになっちゃうわね。
 真面目な佳那子だから、ここで「皮むきで指を切っちゃうんだから、皮むき器使えばいいじゃないの」とか「最初は包丁を使わないメニューを探して作ればいいのよ」といった柔軟な意見は、どうしても出てこない。
 うーん、と唸った佳那子は、ふとあることを思いつき―――やおら、新しい携帯電話を手に取った。

***

 「いらっしゃーい」
 「お邪魔し…ま…す…」
 出迎えてくれた奈々美を見た佳那子は、前回会った時とのあまりの違いに、最後まで挨拶を言い切る前に、思わず唖然とした顔で固まってしまった。
 「お…っ…大きくなったわねぇ―――おなかが」
 最後に会ったのは、奈々美が帰省して和臣が倒れてしまった、あの件の時かもしれない。
 当時も、ゆったりしたマタニティーファッションだった奈々美は、丸いおなかをしていた。が…今の奈々美は、体が小さいだけに、余計おなかの大きさが目立ってしまう。よくこの状態で歩けるものだ、と、同じ女ながらに感心してしまう。
 「体の3分の1位ありそう…」
 「まさか。そんな訳ないじゃない」
 「ナナが小さいから、そのくらいの比率に見えるのよ。そんなおなかして、家事なんて出来るの?」
 「全然平気よ。さすがにお風呂掃除とかはキツイから、カズ君に手伝ってもらってるけど。…それより、早く入って入って」
 よいしょ、と重たそうなおなかを抱えて部屋の中へと戻る奈々美に続き、佳那子も神崎家の玄関に上がりこんだ。
 「佳那子がついに自炊に目覚めたって聞いて、俄然張り切ってるのよ、私。ねぇ、そういうこと言い出す、ってことは、そろそろゴールインも近いの?」
 「…だと、いいんだけど」
 家出の件は、会社の人間には内緒だ。勿論、和臣にも。奈々美にも、ただ「料理の基本を習いたい」としか伝えていない佳那子は、曖昧に言葉を濁した。
 そう。今日は佳那子は、奈々美に料理のイロハの手ほどきを受けに、神崎家を訪れたのだ。幸い、和臣は土曜出勤で留守なので、どんな失態を演じようと、奈々美の胸に留めておいてもらえば済む、という寸法だ。
 「ちなみに、今までどんなの試したの?」
 「ええと―――ピラフとサラダとコーンスープと…目玉焼き」
 「…和食党の佳那子にしては、やたら洋風メニューね」
 「和食は自信がなかったのよ。なんかこう、細やかな動きが多そうなイメージがあって」
 「やだ、かつら剥きとか飾り包丁とかをいきなりやれ、なんて言わないんだから、まずは2人の好みにあったものから覚えた方がいいのに」
 かつら剥き。
 飾り包丁。
 ―――って、何だったかしら。
 高校時代の、家庭科の授業を思い出す。が、佳那子が経験したのは輪切りだけだ。正確には小口切りという切り方なのだが、その名称も佳那子の頭からは抜け落ちていた。
 「はい、これ」
 「あ、ありがと」
 奈々美が差し出したエプロンを受け取り、そそくさと身に付ける。奈々美も、また少し形の違うエプロンを身に付けたが、なんというか…やはり、現役の主婦は違う。大きなおなかにエプロンは苦しそうだな、と思うのに、その格好は、やたらと様になって見えた。今日初めてエプロンをしました、という感じの佳那子とは大違いだ。
 「…なんか、エプロンすると、ナナがひと回り大きくなったように見えるわね」
 「えっ、そーお?」
 少し伸びすぎた髪が邪魔なのか、奈々美は髪をひとつに束ねながら、軽く首を傾げた。
 「うーん…佳那子は逆に、エプロンすると、ひと回り小さく見えるわね」
 「……」
 佳那子の表情が、一気に沈む。しまった、と思った奈々美は、慌ててフォローに回った。
 「あっ、やだ、そんな顔しないでよ。大丈夫、佳那子って、コツコツ頑張れば何でもこなせる方じゃない? ほら、お茶やお花も、一通りは習って、ちゃんと最後までやり通したって言ってたじゃない」
 確かにそうだ。茶道も華道も、母の命令で小学生の頃からやらされ、一応、最低限やるべきところまではやり遂げた。が、どちらも本当は苦手だ。一番性に合っていた習い事は、多分そろばんだろう。剣山で指を突いてしまうような佳那子も、そろばんを弾くのは得意だったから。
 ―――なんだか、私って、女らしいこと全般になると、悉く不器用で下手で才能ないんじゃない?
 当時の不器用さを思い出したら、余計落ち込んできた。
 「ほらほら、しょげないのっ。佳那子はいつだって堂々としててくれないと、調子狂うわよ」
 「…台所に立つと、ナナの方が堂々として、私がいじける立場になるのよ」
 「じゃあ、久保田君に料理してもらう? あの風体でエプロンしてフライパン振るのよ? そんなの耐えられる?」
 「―――やめて。想像させないで」
 そう。やるしかないのだ―――佳那子は、覚悟を決めた。

***

 本日のメニューは、豆腐とわかめの味噌汁、肉じゃが、だし巻き玉子、ほうれん草のおひたし、という典型的和定食だった。
 奈々美が決めたメニューだが、これにはちゃんと、彼女なりの理由がある。味噌汁ではだしの取り方や豆腐の切り方、肉じゃがでは皮むきや煮物の基礎、だし巻き玉子ではフライパンを使った火加減のノウハウ、ほうれん草のおひたしでは栄養バランスについて教えよう…とまあ、そういうプログラムを立てていた訳だ。

 「はい、豆腐、半分に切ったから、こっちのやつを佳那子も持って」
 半分に切られた豆腐の片割れを左手の手のひらに乗せる奈々美を真似て、佳那子も同じように乗せてみた。
 「で、これを、こんな風に半分に切りまーす」
 「えっ」
 驚く佳那子の目の前で行われたことは、豆腐を水平に、半分の厚みに切る、という作業だった。しかも、手のひらに乗せたまま。
 「そんなことしたら、崩れちゃうわよ」
 「大丈夫大丈夫。大体真ん中かなー、って所に包丁をすっ、と入れて、静かに引けばいいだけだから」
 本当だろうか、と半信半疑ながら、言われたとおりにしてみた。すると、最初の目算ではちょうど半分の厚みだったものが、包丁を引くにつれ、だんだんと上へとカーブを描いて行き、最後には豆腐の側面ではなく上から包丁が抜ける、という事態になってしまった。
 「…手に刃が当たるのが怖くて、こうなるのね、きっと。まあ、慣れだから」
 「このままでもいいの?」
 「最初はそれでいいの。形じゃないから、料理は。えーと…じゃ、次は、縦に切るから。今度は簡単よ。ほら、こんな風に…」
 続いて行われた作業に、佳那子は危うく悲鳴を上げそうになった。
 奈々美は、手に乗った豆腐を、まるでまな板の上で切るみたいに、トントン、と縦に切っていたのだ。手のひらに対して垂直に下ろされる包丁は、佳那子の目には手を切り刻む凶器にしか見えない。
 「ナナっ、だ、大丈夫!?」
 「え、何が?」
 「だって、手!」
 「…ああ。大丈夫よ。あのね、包丁って、真っ直ぐ垂直に下ろすだけじゃ、切れないの。引くと切れるけどね。だから、引いちゃ駄目よ。上から豆腐を押すような感じで包丁を下ろして、そのまま引かずに抜く」
 「……」
 「…まな板でやった方が良かった?」
 「…間違って引いたら大変だから、そうさせてもらっていいかしら」
 結局、佳那子の豆腐はまな板の上に下ろされ、その上で犀の目に切られた。端っこの方は、力加減が分からずに崩れてしまったのだが―――まあ、その位は大目に見ても構わないだろう。

 わかめを刻んだり、だしをとったりする作業は、奈々美の指導で比較的スムーズにいった。
 わかめやたまねぎを刻む際、食材を押さえる指は丸めておく、という基礎中の基礎を何度も奈々美から叩き込まれた。結果、一番怖い指先の怪我の心配だけは、なんとか克服できそうだと思えるようになった。
 が、包丁の中で、一番厄介な作業が、まだ残っていた。

 「はい、次は、じゃがいもの皮むきね」
 ごつごつと不恰好なじゃがいもを取り出した奈々美は、まずはお手本、と言って、じゃがいもに包丁の刃を差し入れた。
 「慣れない間は、多少分厚くてもいいのよ。こうやって刃を入れて、この皮を親指で右に送ってくような感覚で、包丁を進めていくの。うーん、包丁を進める、っていうより、じゃがいもを回す、って感じかな」
 「こ…こう?」
 緊張の面持ちの佳那子が、包丁をじゃがいもの皮に差し込もうとしたら―――つるっ、と手が滑って、じゃがいもが飛んでいってしまった。
 勢い余った佳那子の包丁は、そのまま佳那子の左手にざくっと刺さりそうになった。悲鳴を飲み込んだ佳那子は、あと3センチ、という際どいところで、なんとか包丁を止めることができた。
 「きゃーっ! か、佳那子! やだ、何やってるの!?」
 「い、言われたとおりにしようと思ったのよっ」
 「力入りすぎなのよ。もっとリラックスしてっ」
 「刃物持ってるのに、リラックスなんて出来る訳ないじゃないのっ」
 ドキドキドキ。心臓が凄い勢いで暴れている。じゃがいもを持っていた左手も、包丁を握っている右手も、ガチガチに固まり、微かに震えてさえいた。
 「いいから落ち着いて! ほら、深呼吸深呼吸、はい、吸ってー、吐いてー、吸ってー、吐いてー」
 奈々美に促され、素直に深呼吸を繰返す。が、多少震えは収まるものの、ドキドキは一向に止む気配はなかった。
 「だ…駄目だわ。私、やっぱり才能ないのよ。じゃがいもの皮むきなんて高度な技術、身に付ける前に指の1本や2本切り落としちゃうのよ、きっと」
 「そんな弱気なこと言わないのっ。あー…でも、そうね。ただのスライスでも指切っちゃう人に、いきなり皮むきはキツイかな」
 うーむ、と眉間を寄せた奈々美だったが。
 「…あ、そうだ」
 何かを思い出したのか、ふいにキッチンを離れ、どこかへと消えてしまった。そして1分後、平べったい水色の箱を手に戻ってきた。
 「あのね。結婚祝いに、友達に貰ったんだけど―――佳那子にあげるわ。どうもこういう物って重なっちゃうみたいで、他にもあるから」
 「え?」
 そう言って奈々美が箱を開けると、中には、果物ナイフと皮むき器、キッチンバサミの3点が収められていた。いわゆるキッチンツール・セットだ。
 「ほら。このピーラーを使えば、安全に皮がむけるから」
 皮むき器を手に取った奈々美は、そう言うと、佳那子が飛ばしてしまったじゃがいもをシンクから取り上げた。
 さっさっと皮むき器を引くだけで、あっという間に皮がむけていく。こんな器具は、授業では習わなかったし、家政婦の原口も使っていない。佳那子は、呆気にとられたような顔で、見る見るうちに皮のむけてしまったじゃがいもを凝視した。
 「…ね。こんな風に。今度からは、これを使うといいわよ」
 「―――ねえ。こんな器具、主婦になっても使っていいの?」
 「当たり前じゃないの。なんで?」
 「その…なんか、邪道なのかな、とか不安になって」
 「邪道なんかじゃないわよぉ。凄い人になると、包丁を一切使わない、って人もいるらしいわよ? ほら、テレビショッピングなんかで見る、マルチカッターってやつ。あれで何でも切っちゃうから、って。キッチンバサミでわかめ刻んじゃう人も見たことあるわよ」
 「……」
 「…もしかして佳那子、本に“小さじ1杯”って書いてあったら、計量スプーンの小さいやつできっちり測ったりするタイプ?」
 まさに、その通りだった。
 食材を切るのは全て包丁、調味料は計量スプーンで測り、液体は計量カップで測る。それが常識だと、そう思いこんでいた。が、考えてみたら、原口が計量スプーンを使っているところなど、見たことがあっただろうか?
 「食材は、切れてさえいれば何で切ってもいいんだし、味付けも、舐めてみておいしければ、それでOKでしょ」
 くすっと笑った奈々美は、ぽんぽん、と佳那子の背中を叩いた。
 「リラックス、リラックス」
 「…そうね」
 ―――計量カップ1杯半を1杯と4分の3にしちゃったからって、ああ失敗、やり直し、と思う私が馬鹿なのよね。

 気負いすぎていたのかもしれない。
 苦手意識があるから、出来ない自分にコンプレックスを感じているから、出来なければ結婚しても上手くいかない気がしていたから。
 原口だって奈々美だって、いきなり料理の達人になった訳じゃない。何度も失敗を繰返して―――時には、佳那子がやってしまったように、指を包丁で切ったり、じゃがいもを飛ばしたりしたこともあったかもしれない。そうやって、少しずつ上達していったのだろう。
 味が濃すぎたな、と思ったら、水で薄めればいい。
 具材が大きすぎたな、と思ったら、ちゃんと火が通るよう多めに火を入れればいい。
 冷静になって考えれば、至極当たり前なこと。けれど―――苦手意識からすっかり萎縮していた佳那子にとっては、なんだかそれが、天啓のようなものに感じられた。


 最終的に出来た和定食は、お世辞にも良い出来とは言えなかった。
 すっかり同じ段取りで作った筈なのに、奈々美のだし巻き玉子は綺麗な黄色をしていて、佳那子のそれは半分茶色く焦げていた。肉じゃがは、じゃがいもが崩れすぎていたし、ほうれん草のおひたしも水っぽかった。

 「いい女への道は、まだまだ遠いわねぇ…」
 形の崩れた豆腐を口に運びながら、佳那子はため息をついた。パニックにならなくなった分、確かに進歩したかもしれないが―――奈々美のフォローがあってこれでは、1人でこのレベルを作れるようになるまで、一体どれだけかかるのやら。
 「やぁね。佳那子、今でも十分、いい女じゃないの」
 パクパクとだし巻き玉子を頬張りながら、奈々美が眉根を寄せる。が、佳那子の表情は今ひとつ暗い。
 「いい女でもなんでもないわよ。どーでもいいことばっかり出来て、肝心なことが出来ないんじゃ」
 「まあ―――確かに“料理の腕はいい女の条件”なんて言う人もいるけどね。佳那子の場合、あまり上手くならない方が、逆にいい女かもよ」
 「え?」
 「だって佳那子、出来すぎな部分があるじゃないの」
 そう言った奈々美は、からかうような笑みを佳那子に向けた。
 「美人で、優秀で、性格も良くて―――その上、家事まで完璧だったら、ただの可愛くない女よ。ドキドキしながら包丁握ってる佳那子の方が、断然、いい女よ」
 「……」

 そんなものなんだろうか―――何だか、上手いこと持ち上げられただけのような気もするが。
 そう思いながらも、悪い気はしなかった。
 不良になりたい、なんて思ってしまう優等生な自分なのだから、劣等生な部分があった方が、自分らしい―――そんな風に思って、佳那子はちょっと、愉快さを覚えてさえいたのだった。


←BACKStep Beat COMPLEX TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22