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― 永遠なんていらない ―

 

 「これからチェス対決なんて、気が滅入るよなぁ…」
 隣を歩きながらぶつぶつ言う久保田に、佳那子は、窘めるような視線を送った。
 「今回の件ではとってもお世話になってるんだから、久保田もちょっとは協力してよ」
 「はいはい」
 瑞樹のグループ展の帰り、他の4人と別れた2人は、善次郎の家に向かっていた。
 アルコールも入っていい気分になっているのだから、チェスの対戦なんて勘弁して欲しいところだが、佳那子も言う通り、善次郎には随分と世話になっている。わざわざ呼び出してまで対決を挑むというのも、滅多にないことだ。こんな時位、祖父孝行もしておかなくてはいけないだろう。
 「あ、そう言えば―――昨日、お爺様が、お父さんの所に陣中見舞いに行ったらしいの」
 今思い出した、という風に佳那子が言うと、久保田は一瞬足を止め、怪訝そうに眉をひそめた。
 「じっちゃんが? まさか」
 「でも、今日、出かける前に、お爺様の運転手さんから聞いたのよ。“きっとお二人のことを認めるよう、説得に行かれたんでしょう。良かったですね”って言われて、まさかと思いながら確認に行ったら、お爺様も行ったことは認めたわよ」
 「…で、結果は?」
 「分からないけど。私は、お父さんがまたお爺様に失礼な口をきいてないか心配したんだけど、お爺様は“嫌な顔はしたけど何も言わなかった”って―――何の話をしに行ったのかも、運転手さんの想像だけで、実際の所は分からないし」
 「…“説得”、なぁ…。ピンとこねーよなぁ…」
 思わず、首を傾げた。
 確かに善次郎は、今回は随分と協力的だが、決して積極的な訳ではない。この家に居たければ居ればいい、という姿勢ではいるものの、例えば「さっさと婚姻届を出してしまえ」なんて助言をする訳でもないし、九州の両親にこの件を話したりする素振りもない。基本的に傍観者の位置をキープしているのだ。
 そんな善次郎が、佳那子の父を説得しに、わざわざ出かけて行くなんて―――ちょっと、信じがたいことだ。
 それに…おかしな話といえば、もう1点。
 「―――なぁ、佐々木」
 「え?」
 「じっちゃん、今日、どこかに出かける予定でもあるのか?」
 唐突な久保田の質問に、佳那子はちょっと目を丸くし、それから首を傾げた。
 「ええと―――どうかしら。私は知らないけど。ああ、出かける前に見た時は、トランプ積み重ねてタワー作ってたわよ。部屋着で」
 「……」
 「それが、どうかしたの?」
 「…いや」
 なんだか、おかしい。
 やたらと、違和感を覚える。それは、1つ1つは細かい違和感だけれど―――それが集まると、不可解極まりない。
 じゃあ、具体的にどういう事情が隠れてると言うんだ、と言われると、久保田にも説明がつかなかった。なので、特に佳那子には何も言わないでおいた。何にせよ、祖父が協力的でいてくれることは大歓迎なのだから。

 しかし、その数分後。
 事態は、確かに、とんでもないことに―――しかも、久保田も佳那子も想像しなかった方向へと、いきなり転がりだした。

 

 善次郎の家は、都内の一等地にありながら、とんでもなく大きい。その重厚な門構えが見えて来た時、久保田と佳那子は、同時に足を止めかけた。
 「…あら? あれって、キクエさんじゃない?」
 「珍しいな、こんな時間に外にいるなんて」
 佳那子が指摘したとおり、久保田家の門の前で、割烹着姿でウロウロしているのは、どう見ても久保田家の住み込み家政婦であるキクエだった。
 キクエは、久保田が上京した頃には既にこの家の家政婦をしていて、当時は随分と世話になった。佳那子も、60過ぎという年齢がちょうど親と近い世代であるため、時々厨房に行っては世間話などをしているので、顔をよく覚えているのだ。
 「キクエさん」
 連れ立って門へと向かいながら久保田が声を掛けると、落ち着かない様子でウロウロしていたキクエは、ハッとしたように2人の方を振り返った。いつも陽だまりみたいに穏やかな顔が、今日は何故か、酷く動揺している。
 「あ、お、お帰りなさいませ」
 「どうしたんだ? こんな時間に」
 「お二人を待ってたんですよ」
 「え?」
 怪訝な顔をする2人に、キクエは、一度深く息を吸い込むと、重々しい声で告げた。
 「―――旦那様が、入院されたんです」

***

 病院前には、前回の緊急入院とは違い、マスコミや関係者の姿は全くなかった。
 スタジオで倒れた時は、近くの大きな病院に運ばれてしまったのだが、今回は自宅ということもあって、ちゃんとかかりつけの総合病院だ。古い付き合いなので、そうした外部に対する対応も万全らしい。
 久保田も顔を知る善次郎の主治医の姿が見えたので、急いで声を掛けようとしたが、忙しいらしく、すぐに病室の中に消えてしまった。“面会謝絶”の札が、ドアが閉まる勢いで落っこちそうなほど揺れた。
 「あ、隼雄さん」
 廊下のベンチに座っていた男が、久保田と佳那子に気づき、立ち上がった。薄暗くて一瞬分からなかったが、どうやら善次郎の秘書―――というより、現在ではマネージャーに近いが―――である、荒木だった。
 「どういうことなんですか?」
 急いで駆け寄り、久保田がそう訊ねると、荒木は渋い表情をした。
 「いや、急なことで、わたしも混乱してまして…。スケジュール確認のためにわたしが伺った時点ではお元気だったんですが、夕方から急に体調不良を訴えられたんです。あっという間に意識も朦朧としてきて―――傍目にもただ事ではないな、ということで、急いでお運びしたんです」
 「で、状態は」
 「なんとも言えません。ドクターからまだ説明がないんです。元々肝臓を患っておられましたから、その病状が悪化した可能性も…」
 「し…信じられない。出かける前は、あんなにお元気だったのに…」
 孫である久保田以上に動揺している佳那子は、蒼褪めた顔でそう呟き、僅かに後ろによろけた。久保田は慌てて、佳那子の背中に腕を回して支えた。
 それにしても―――久保田も、信じられなかった。確かに、善次郎の年齢を考えれば、いつ倒れてもおかしくないのは前々から分かっていたし、持病の1つや2つあるのも覚悟していた。が…とんでもなく心臓の強い善次郎のこと、喫煙や飲酒のせいで肺や肝臓が多少どうなろうと、その生命力ですぐに復活するものだと思っていたし、事実、これまでもそうだった。
 面会謝絶、なんて札を掛けられたのは、これが初めてだ。
 これまでとは、何かが違う―――それだけは、嫌になるほど、よく分かる。でも、何がどう違うのかが分からない。その不安に、佳那子だけでなく、久保田の顔も僅かに蒼褪めていた。


 とにかく、主治医に話を聞かなければどうしようもない。荒木を含め3人は、それから暫く、廊下でイライラしながら、主治医が出てくるのを待った。
 やっと主治医が姿を見せたのは、久保田達が到着して15分も経った頃。
 「肝不全です。危険な状態は脱しましたが、僅かながら黄疸も出ており、まだ意識も戻りません」
 主治医の説明を要約するならば、つまりは、そういうことだった。
 「面会は…」
 「いえ…まだ、暫くは。日頃から久保田先生には、“意識のない状態の間は、本当の危篤状態にならない限り、面会謝絶にしてくれ。家族にも知らせてくれるな”と言われています。お孫さんも、そのことはご存知でしょう?」
 確かに、久保田もその言いつけは知っていた。健康を誇る善次郎流の美学らしく、意識不明のよれよれの姿を、自分の知らないところで晒したくはない、ということらしい。
 他の病院ならば、そんなわがままをいちいち聞く筈もないのだが、なにせこの病院は、設立にあたり善次郎が随分力を貸してやった病院である。面会謝絶の札1枚のこと位、喜んで聞いてくれるのだ。
 「あの、10日後位までには、なんとかなるんでしょうか…」
 秘書の荒木が、途方に暮れたような声を漏らした。
 「先生、暫く何もご予定は入ってませんが、10日後にあるんですよ、講演会が…。ご本人も楽しみにされてたので、なんとかそれまでに…」
 「んなこと、分かるわけないだろーがっ」
 何言ってるんだ、と苛立った声で久保田が言うと、荒木は慌てて口を噤んだ。そりゃあ、荒木の責務からすれば、現段階で講演会をキャンセルすべきかどうかは、重要なことなのかもしれない。が…善次郎は、意識不明なのだ。仕事のことなど話している場合ではないだろう。
 「とにかく、意識さえ回復すれば、あとは大丈夫です。根気強く待ちましょう。ただ…」
 「ただ?」
 「この状態が1週間続くようでしたら―――覚悟が必要かもしれません」
 “覚悟”。
 たった2文字の単語だが―――酷く重くて、陰鬱な単語だった。

***

 翌日の日曜日も、善次郎の状況に変わりはなかった。
 「…私、会社休もうかしら」
 相変わらず面会謝絶なので、待合室で自販機のコーヒーを飲みながら、佳那子がポツリと呟いた。
 「面会できなくてもいいから、何かあった場合に備えて、家か病院に詰めていたいのよ」
 「お前が詰めたところで、どうなるもんでもないだろうが」
 宥めるように久保田が言うと、佳那子は真剣な眼差しで久保田を見据え、眉を寄せた。
 「だって、もし、よ。もし―――病状がいきなり悪化して、九州のご家族を呼ぶ暇もなかったら、どうするの? 万が一、お爺様がたった1人で死ぬようなことになったら…」
 「家にも病院にも、荒木さんやキクエさん達が交代で詰めてる筈だから、1人ってことは絶対ない。安心しろ」
 「でも、“家族”がいないじゃないのっ」
 「……」
 「最後くらい―――家族が傍にいてあげなきゃ、可哀想よ。私はまだ家族じゃないけど…いずれは、お爺様の義理の孫になるんだから、雇用されてる人間とか、仕事関係の人間よりは、家族に近い人間だわ。そう思わない?」
 必死にそう言う佳那子に、久保田は反論はできなかった。
 佳那子の必死さの裏にあるのが、自分自身の体験であると―――母の死に立ち会えなかった、父ですらその瞬間傍にいてやれなかった、という苦い思いが、佳那子を必死にさせているのだと、痛いほどに、分かるから。
 でも―――久保田は、反論はしないまでも、賛成はしなかった。
 「…大丈夫。ほんの少しでも容態に変化があれば、俺の携帯に電話が入る手筈になってる。会社から病院まで、どんなに時間がかかっても30分程度だ。それで間に合わないほど切羽詰った状態なら、主治医の先生があんな風に言う筈ないだろ?」
 「…けど…」
 「大丈夫だ」
 まだ不安げな顔をする佳那子に、久保田は、安心させるような笑みを返し、その頭をポン、と叩いた。
 別に、強がりではない。何故か久保田は、自信があったのだ。
 今回がいつもとは違う、そういう違和感は覚えるものの―――善次郎の命に別状はない、という確信めいたものが、心のどこかにある。それがどこから来る確信なのかは、分からないのだけれど、それは、病院に駆けつけた昨日より今日の方が、もっと強くなっている確信だった。


 結局、佳那子も会社を休むことなく、月曜日、2人とも普段通り出勤した。
 折りしも、久保田も佳那子も、この週から仕事に忙殺される運命にあった。企画部が進めていた市場調査の結果が纏まり、来年開発するソフトの新機能の検討会が、今週末に迫っていたのだ。その検討会のメンバーに、久保田も佳那子も名を連ねている、という訳だ。
 それでも、病院側に頼んで、会社帰りには必ず病院に寄り、誰かしらに善次郎の様子を訊ねた。あんなはた迷惑な祖父でも、やはり意識不明という状態に平静ではいられない。特に佳那子は、母の時のことを重ねてか、食事も喉を通らないほど心配しているのだ。多少の忙しさを理由に、病院にまかせっきり、なんて気には、到底なれない。
 しかし、月曜日も火曜日も、そして水曜日も、善次郎に変化はなかった。

 「顔を見せてもらわなくちゃ、納得できません! どんな状態なのか、とにかく会わせて下さい!」
 水曜日の夜、淡々とした返答しかしない担当看護師に苛立ち、佳那子がついに声を荒げた。すると看護師は、慌てて主治医のもとに飛んで行った。
 駆けつけた主治医は、困りましたねぇ、という顔をして、一旦病室の中に消えた。が、いくら本人の希望だからと言って、このまま跳ね除け続けるのは無理と悟ったのだろう。
 「黄疸症状も改善しましたし、ほんの少しの時間なら―――ただし、久保田先生には内緒ですよ?」
 主治医はそう言い、2人を病室に入れてくれた。
 ベッドの上に寝ている善次郎は、呼吸器はつけているものの、顔色も寝ている表情も、普段と特に変わらないように見えた。ただ眠っているだけ―――そんな風にしか見えない。
 「…やっぱり、お爺様の顔って、久保田に似てるわね」
 機材が邪魔で、あまり近くには寄れない。少し離れた所から善次郎の寝顔を見た佳那子は、何故かそんなことを口にした。
 「そうか?」
 「徹夜明けの顔と、よく似てるわよ。やっぱり血の繋がりって凄いわね」
 「…テレビでエキサイトしてる時は、本当にこいつがあの温厚な親父の父親なのか、って疑う瞬間もあるけどな」
 九州にいる父を思い出して、久保田は複雑な表情で眉を寄せた。どちらかと言うと母に押され気味な父に似るのもあまり嬉しくないが、善次郎に似るのはもっと嬉しくない気がする。
 「でも―――俺の丈夫さもじっちゃん譲りだとしたら、じっちゃんは大丈夫だ。絶対、回復するさ」
 「…ええ…そうね」
 自慢じゃないが、丈夫さに関しては絶対的な自信がある。それは、佳那子も認めるところなのだろう。久保田の言葉に、ほんの少しだけ安心したように口元を綻ばせた。

 けれど―――木曜日の夜も、善次郎の意識が戻ることはなかった。
 1週間、という宣告の日が近づくにつれ、不安はますます募った。

***

 「あらまぁ、もうお食べにならないんですか?」
 キクエの心配そうな声に、佳那子は曖昧に笑みを返し、半分しか食べていないトーストの乗った皿を、少し脇に押しやった。
 「ごめんなさい。食欲がなくて…」
 「旦那様の心配をなさるのも無理はありませんけど、佳那子さんが倒れられては元も子もありませんよ?」
 「でも…」
 今日は金曜日―――暦も今日から12月だ。明日になれば、主治医の宣告した1週間になる。
 “覚悟”と言っていたが、それが何を意味するのかは、佳那子にも漠然と分かっていた。つまりは、このまま目の覚めない状態が続くこと―――下手をすれば、このまま一度も目覚めることのないまま、命を落とすかもしれない、ということだ。
 「もし、このまま、なんてことがあったら…」
 「大丈夫ですよ。旦那様は強運の持ち主でいらっしゃいますから。あと最低でも5年は生きると、ご本人もおっしゃってましたし」
 佳那子を元気付けるためなのか、本当にそう信じているからなのか、キクエはいつもと変わらない明るい声でそう言った。
 「それに、万が一、本当にそんなことになったとしても、旦那様には何一つ悔いはないと思いますよ。旦那様は、お若い時も今も、常に毎日を満足しながら生きてらっしゃる方でした。いつお迎えが来ても“しまった”と思いたくないから、だそうで―――長い人生を考えて、やりたいことを我慢して慎ましく生きるよりは、いつ何があってもいいよう、自分に正直に生きたい、というのが口癖でしたから」
 「…自分に、正直に…」
 そうかもしれない―――善次郎という人は。
 久保田にしても佳那子にしても、「将来」とか「後々」なんて言葉を使って、長いスパンで物事を考える傾向にある人間だ。だからこそ、一時の激情に駆られて突っ走るより、10年なんて長い時間を費やして父や祖父を認めさせようとしたりする。その前提には、その10年に続く長い長い時間があると、そう信じて疑わないからだ。
 でも、考えてもみなかった。
 10年経った、その先に―――幸せな未来もなければ、やり直すチャンスももうない、なんて事態があり得るなんて。

 『蕾夏ちゃんはどうして、半年我慢することより、成田と一緒に行く道を選んだの?』

 1年前、蕾夏がイギリス行きを決めた時に訊ねたことが、ふと脳裏に蘇った。
 あの時、蕾夏は、一瞬キョトンとした顔をして、それから普段通りの、あの柔らかな笑い方をして、こう言ったのだ。

 『それ以外の選択肢は、私の中には、どう考えてもなかったから』
 『え…?』
 『たとえ何を捨てることになっても、この先の半年間を瑞樹と共有できない以上の不幸は、私にはないから。何が一番の幸せなのか、って考えたら、すぐ答えが出たの』
 『…でも、随分、刹那的じゃない? 蕾夏ちゃんも、成田も』
 『刹那的じゃ、いけない?』
 『……』
 『人間の命だって限界があるし、気持ちも心もずっと同じとは限らない―――永遠なものなんて、本当は1つもないんじゃない? 刹那刹那を大切にする…その積み重ねが、“永遠”に繋がるんだと、私は信じてる』

 ―――お父さんも、一杯、後悔してたものね。
 母が亡くなった時、生きているうちにああしてやればよかった、こうしてやればよかった、と、毎日のように言っていた父。
 平凡な毎日が、明日も明後日もずっと続いていくと信じていたからこそ、伝えたい想いも伝えず、かけるべき言葉もかけずにいた。まだ間に合うから、まだ時間はあるから…と。そして―――間に合わなかった。

 このままで、いいの?
 万が一、このまま、お爺様が息を引き取るようなことがあったら―――お爺様は、いいかもしれない。でも…私は? 久保田は? …お父さんは?


 その日の夜も、善次郎の容態に変化はなかった。
 そして佳那子は―――その夜、1本の電話をかけた。


***


 翌土曜日、久保田と佳那子が病院に到着すると、既に昨夜の電話の相手は、病院に到着していた。
 「あの、ですから…久保田先生のご希望で、どなたにも会わせる訳には…」
 「ええい、お前では埒が明かない。主治医を呼んできなさい、主治医を」
 病室の前で、看護師に掴みかかりそうになっている父を見つけ、佳那子は慌てて駆け寄った。
 「お父さんっ。何やってるのよ、病院で」
 「お…おお、佳那子か」
 現在家出中の娘の姿に、父のテンションは一瞬で落ちた。主治医を呼びに行く看護師に見向きもせずに、気まずそうにスーツの襟をただし、わざとらしく背筋を伸ばした。土曜日は休みの筈なのにスーツ姿、ということは、会社以外の仕事が、この後入っているのだろう。
 「爺さんが倒れたと聞いて、念のために…な。まんざら、他人でもないし」
 「…そういう天邪鬼な性格が損をしてるって言うのよ。つまりは、お爺様の容態が心配で来たんでしょう?」
 掴みかかるような勢いで看護師に迫ってた癖に―――冷ややかな目で佳那子が言うと、昭夫はゴホン、と咳払いをし、少し遅れて来た久保田の方に目を移した。
 久保田も、実は午後から出社である。互いにバリッとしたスーツに身を包んだ2人は、一瞬、同病相哀れむような目をした。
 「で…どうなんだ。爺さんの容態は」
 もう一度咳払いをした昭夫が、よそよそしい態度で訊ねる。久保田も、若干のやりにくさを感じつつ、口を開いた。
 「…あまり、いい状態とは言えません。今日1日、容態に変化が見られないようなら、九州の両親にも連絡を入れるつもりです」
 「それは―――もう、目を覚まさない、ということかね」
 「…主治医の話では」
 「…なんだか、信じられんな」
 そう呟いた昭夫は、大きなため息を一つつき、口元を手で覆った。その顔は明らかに動揺しており、僅かに蒼褪めてさえ見えた。
 お茶の間の討論番組ファンにとっては、信じられない話だろう。久保田善次郎が重体、という事態に、あの佐々木昭夫が笑うどころがショックで色を失うなんて―――。そう言えば、以前倒れた時も、同じ番組収録現場にいたからとはいえ、関係者以外で駆けつけたのは、唯一、昭夫だけだった。全く…なんとも、不思議な関係だ。善次郎と昭夫というのも。
 「―――あ、これは、佐々木先生」
 先ほどの看護師が呼んだのか、主治医が、カツカツと足音を立てて歩いてきた。多分、初対面だろうとは思うが、主治医の方は当然有名人の昭夫を知っていたのだろう。昭夫の顔を見つけるなり、軽く会釈をした。それに応えて、昭夫も姿勢を正した。
 「主治医の大友です。久保田先生のお見舞いですか」
 「いや、見舞いという程では―――それで、久保田さんの容態は」
 「透析なども続けて、比較的安定はしてますが…意識が回復しない状態で、もう1週間ですからね。ご高齢であることも考えると、非常に難しい状態です」
 「そんな馬鹿な。1週間前までは、何とも…」
 「しかし、事実、このような状況ですし」
 「…とにかく、顔を見なければ、話にならない。10分でもいいから、中に入れないのかね?」
 苛立った様子でそういう昭夫に、主治医は困ったような視線を、久保田と佳那子に向けた。が、2人も、善次郎の現在の様子を目で確かめたがっているのが明らかだった。
 「―――仕方ありませんね」
 ため息をついた主治医は、また「少しの間だけですよ」と言いながら、病室のドアを開けた。そのことに、久保田は一瞬、おや、と眉をひそめた。
 一時的とはいえ同居している佳那子ならまだしも、明らかにテレビで敵対関係にある昭夫まで入れるとは―――ちょっと意外だ。が、それよりは善次郎の容態の方が気にかかる。特に指摘することもなく、久保田も病室内へと足を踏み入れた。


 善次郎の様子は、水曜日の夜と、ほとんど変わりがなかった。
 相変わらず、ベッドの周りには色々な装置や器具が置かれており、すぐ傍にまで近寄ることはできない。3人は仕方なく、善次郎の足元あたりから、善次郎の顔色や様子を確認するしかなかった。
 「でも…この前より、ほんの少しだけ、顔色がいいみたい」
 ほんの僅かな変化に気づき、佳那子は善次郎の脚を布団越しに軽く叩いた。トントン、と2回―――起きて下さいよ、とノックでもするかのように。だが、その刺激に善次郎が反応することはなかった。
 「…本当に、昏睡状態なんだな」
 話には聞いていたことを、目で確かめて、納得せざるを得ないのだろう。昭夫は、また口元を手で覆い、善次郎の顔から視線を逸らした。
 「今思い起こしてみると、爺さんが訪ねて来た日の話も、なんだか暗示めいてるな」
 「え?」
 「…孫も心配しているが、このまま娘と反目しあったままでいいのか―――人間、明日には何が起こるか分からんぞ。そう言っていた」
 「……」
 「まさか、そう言った本人が、こんなことになるとはな…」
 知らなかった話に、久保田と佳那子は、思わず顔を見合わせた。あの善次郎が、そんな話をしに佐々木家に行っていたとは―――全くの予想外だ。
 「…それで、その後、どうしたんだ? 久保田隼雄。佳那子を連れ出して、結婚式の手筈でも整えたか」
 疲れ果てたような声で、昭夫はそう言い、陰鬱な目を久保田に向けた。
 こんな場所で一体何を、という顔をする佳那子を制し、久保田は落ち着いた声で答えた。
 「いえ。特に何も」
 「何も?」
 「何も。一応…お互いの気持ちの確認のために、指輪を買っただけで、法的手続きは何もとってませんし、うちの両親にも何も知らせてしません」
 意外そうに眉をひそめる昭夫に、久保田は、我ながら優等生だよな、と心の片隅で思いながら、苦笑を返した。
 「先生と完全に敵対するとは言いましたが―――先生を無視するつもりはありません」
 「……」
 「あれ以来、佐々木が、時々とても寂しそうな目をするので―――やはり、一存で事を進めるのはよくない、と思ったんです。だから、頃合を見計らって、今度は佐々木抜きで、先生と一対一で話し合おうと考えてました。ただ…その前に、こんなことになってしまって」
 「…そうか…」
 呟くようにそう言うと、昭夫は大きく息を吐き出し、壁に寄りかかった。そこには、この前、頭の血管が切れそうな勢いでNOだけを突きつけてきた父の姿は、まるっきりなかった。
 「―――君も知っていようが、わたしにとっては、今では佳那子が全てだ」
 「…はい、知ってます」
 「妻については、後悔がいっぱいある―――お嬢様育ちで、元来おっとりしていて、苦労の似合わない人だっのに、若い頃は随分と苦労もかけたし、テレビなどに出るようになってからは、普通の人間なら無縁なまま済むような気苦労もさせた。他人に世話されるのが嫌で、講演先にまで連れて歩いた。…そんな人生で、果てにはたった1人で死んでいって…妻は、幸せだったんだろうか。もっと穏やかに、ただ微笑んでいれば幸せに暮らせるような、そんな人生があったんじゃないか―――そう思うと、やりきれない。妻が生真面目で従順で素直な女で、わたしに一切逆らうことのない人だったから、余計に」
 「……」
 「…佳那子も、同じ道を辿るんじゃないか。そう思えて、不安で不安で仕方ないんだよ」
 父のその一言に、黙って聞いていた佳那子は、思わず顔を上げ、目を丸くした。
 「佳那子は…妻と、よく似ている。一見気が強そうなのに、中身はどうしようもなく弱い。世間知らずで、惚れた男には従順で、人が好過ぎるから、すぐ騙される。家事はまるで出来ない、マスコミや講演会といった派手なことも苦手だ。そんな姿が、若い頃、無理に家事をやろうとして怪我をしたり、慣れないマスコミ対応を笑顔でこなしたり、講演会に黙ってついてきた妻の姿と、どうしても重なるんだ」
 「お…父さん…」
 「…婿養子をとって、あの家で、何不自由ない生活を送らせたいと思った。わたしの手元なら、家政婦もいるし、住む家に困ることもない。家計のきりもりで頭を悩ますなんて、佳那子には似合わないと思った。他家に嫁いで、嫁姑問題でもめさせるのも嫌だし、跡取りを生むことを強要されるのも可哀想だ―――どれもこれも、わたしの実体験だよ。妻にさせてしまった苦労を佳那子に重ねて、それを恐れてたんだ。大事に大事に育てたから余計…不安だったんだよ」

 そんな風に父が思っているなんて、考えたこともなかった。
 頭が、混乱する。思わず、うろたえた目を久保田に向けた佳那子は、久保田の表情が思いのほか穏やかなのを見て、ちょっと驚いた。
 ―――久保田は、気づいてた、ってこと…?
 そういえば―――佳那子が家出して間もない頃、昭夫と善次郎が和解してくれれば、それで問題は全て解決するのに―――と佳那子が言った時。“それだけってことも、ないと思うぞ”と、久保田は言っていた。1ヵ月半、寝起きを共にする中で、父の隠れた本音を、久保田は見抜いていたのかもしれない。

 久保田とのことを認めさせる最後の一手は、絶対に自分が打ってみせる―――家出をした時、そう自分に誓った。
 ならば―――今、父を説得するのは、自分しかいない。佳那子は、一度唾を飲み込むと、父の方にしっかり向き直った。

 「…お父さんは、お母さんを幸せにしてやれなかった、って後悔してるみたいだけど―――私は、お母さんは、死ぬまでずっと幸せだったと思ってる」
 壁に寄りかかり、俯いていた昭夫は、佳那子の言葉に、驚いたように顔を上げた。
 「余命がない、って分かった時、お母さん、私にもお父さんにもそれを言わず、最後までお父さんの傍にいることを選んだでしょう? それはつまり…それが、お母さんの望みだったからだと思うの」
 「…いや、それは…」
 「絶対そうよ。多少苦労しても、辛い思いしても、お母さんはお父さんと一緒にいる事を選んだ―――それは、お父さんの傍にいるのが、お母さんの“幸せ”だったからよ。お母さんの幸せそうな顔、何度も見てるから…分かるの。だからお父さんは、お母さんを幸せにできなかった分も私を…なんて、思う必要ないわ。私は、私の分の幸せだけあれば、それでいいの」
 「……」
 父の目が、動揺に揺れていた。
 きっと―――幸せだった、の一言もないままに別れてしまったから、自信がなかったのだろう。苦労をかけた、という後悔ばかり空回りして、それが歪んだ形で育ってしまったのだろう。そんなことが…佳那子にも、やっと今になって分かった気がする。
 「私の幸せは、久保田と一緒に、独立した家庭を築くこと。そして…お父さんとも、久保田の家族とも、仲良く過ごすことよ。自分達だけ独立した気になって、あとはどうでもいい、なんて思えない。認めてもらって、仲直りして、その上で新しい一歩を踏み出せなくては、本当の“幸せ”じゃないのよ」
 「…優等生な意見だな」
 「―――親の意向を無視できない優等生に育てたのは、お父さんでしょう?」
 くすっ、と笑って佳那子が言うと、昭夫も疲れたような苦笑いを浮かべた。その反応で、佳那子は、父に言いたいことは伝えられた、と感じた。
 「…10年契約の時、お父さんは“永遠を誓える相手でなければ、交際は認めない”って言ったけど―――私、“永遠”なんていらないわ。そのことに、この6年半で、やっと気づいたの」
 「……」
 「“永遠”なんてものを信じて、“今”をおろそかにしたら―――きっと、後悔する。だって、お父さんだって今、後悔してるじゃない? 後悔してるから、今日、ここに来たんでしょう?」
 佳那子とも久保田とも反目したまま、善次郎が二度と目を覚まさないようなことになったら―――それを考えたからこそ、来たのだろう、父は。佳那子も、そう思ったからこそ、電話をしたのだ。
 「もし“永遠”があるのなら、“今”を大事にしていった、その積み重ねの果てにあるんだと思う。…そうやって、時を重ねていきたい相手は、私にとっては久保田なの。お母さんにとって、お父さんがそうだったように」
 「……」
 「認めてください―――お願いします」
 苦い表情のまま壁にもたれている父に、佳那子はそう言って、ゆっくりと頭を下げた。
 善次郎の時もそうだったが―――父に頭を下げて何かを頼むのは、これが初めてかもしれない。なんだ、こんなことすらしてこなかったのか…そう思い当たり、自分の意固地さに、佳那子は内心苦笑した。

 父は、頭を下げる佳那子に、なかなか返事をしなかった。
 困惑したような、どう答えるべきか躊躇っているような、そんな表情をしたまま、娘の頭の辺りを見つめている。見かねて、久保田は口を開いた。
 「佐々木の―――佳那子さんのことは、絶対に俺が守りますから」
 「……」
 「親との間に何かあっても、必ず佳那子さんの味方をして、最後まで一緒に戦います。経済的にも、先生には及ばないかもしれませんが、できる限りのことはします。仕事の忙しさで家庭を顧みられないことがあっても、その穴を埋めるだけの自信はあります」
 「…しかし、佳那子は、絶望的に家事ができないぞ」
 頭を下げたままの佳那子の肩が、ピクリ、と動いた気がした。それに気づきながらも、久保田は苦笑を昭夫に返した。
 「幸い、頑丈にできてますから、多少の失敗作で腹壊すようなことにはならないと思いますよ」
 「…そうか」
 はーっ、と大きなため息をついた昭夫は、暫し口を閉ざし、やがて、やっと久保田の方に目を向けた。
 「それなら、後は任せよう」
 あっさりと。
 あっけないほど、あっさりと、昭夫はそう言った。その一言に、佳那子はビックリしたように頭を上げ、久保田は満足げな笑みを浮かべて頭を下げた。
 「―――ありがとうございます」
 「うむ。その代わり―――佳那子。早いうちに、家に帰ってくるんだぞ」
 「……」
 呆気にとられたまま、声も出せずにいる佳那子に歩み寄ると、昭夫は子供を宥めるようにポンポン、とその頭を叩いた。
 「どうせ結婚したら家を出るんだ。独身の間位、大人しく家にいなさい」
 「…ごめんなさい…」
 「こ、こら、謝るなっ。かえって嫌味だぞ」
 「ごめんなさいっ」
 ―――おいおい、親子揃って、泣き出すなよ。
 どちらも涙声になる佳那子と父を眺めつつ、久保田は苦笑した。
 まあ―――何にせよ、やっとまともにお互いの本音をぶつけ合うことができて、良かった。これもある意味、じっちゃんのおかげだよな―――と善次郎の方を見遣った久保田だったが。
 次の瞬間。
 信じられないものを目撃して、その場にフリーズした。

 「――――――…………」

 や……。
 やられた―――!!!!!!

 「…あー、お二人さん」
 動揺しまくる内面をなんとか笑顔で包み隠し、久保田は、既に鼻をぐずぐず言わせている昭夫と佳那子の背中をポン、と叩いた。
 「病人もいることだし、感動の涙にむせび泣くのは、廊下にしてくれませんか」
 「あ…ああ、ごめんなさい」
 佳那子の方がいち早くその言葉に反応し、ほら、という風に父を促した。
 「俺はもうちょい、じっちゃんの顔、見てくから」
 多少引きつり気味の笑顔で2人にそう言うと、久保田は2人を廊下に出し、急いで病室のドアを閉めた。ついでに、鍵もかけた。
 大股でツカツカとベッドに歩み寄り、邪魔になっている機材を無造作に脇に追いやる。そして、横になっている善次郎のすぐ横に立つと、おもむろに呼吸マスクを外した。
 「―――おい、じじぃ」
 地を這うような久保田の低い声に、善次郎の目が、パッチリと開いた。そして、頭上から睨みつける孫の顔を見つけるや、ニンマリ、と策略家らしい笑みを満面に浮かべた。
 「良かったのー。上手いこと、事が運んで」
 「良かった、じゃねーよっ! 何、あの2人が気づいてないのをいいことに、Vサインなんかしてるんだよっ!」
 廊下に聞えないよう、極力ボリュームを絞りつつも、久保田は怒りのあまり声を荒げることを止められなかった。顔を真っ赤にして怒る久保田の様子に、善次郎のニンマリ笑いはすぐに引っ込み、不満そうな表情に取って代わった。
 「…なぁんじゃ、その反応は。わしが死にかけんと、親子喧嘩の幕引きひとつ、まともにできなかった癖に―――もっと感謝してもよかろうに」
 「そういうことを言ってるんじゃねぇっ! 本気で心配したこの1週間、どうしてくれるって言うんだ!?」
 「なんじゃ。本当にさっきまで気づいてなかったのか。お前もまだまだじゃの。ふははははは」
 がっくり。
 まさしくそんな感じで、久保田は前につんのめり、頭を押さえた。
 「…ちょっと待て。どっからどこまでが、グルなんだよ」
 「そんなの決まっておろうが」
 「…主治医の先生はそうだよな。秘書の荒木さんもか」
 「甘い甘い。キクエさんも運転手も、ぜーんぶグルじゃよ」
 「…だから、完全オフの日なのに、運転手が来てたのか。病院に運ぶために」
 「どうだ、わしと長い付き合いだけあって、どいつもこいつも役者じゃろうが」
 「……」
 「ちなみに、1週間、ばっちり人間ドッグに入って、肝臓は弱っておるが他はまだまだ元気と診断が下ったぞ。いや、快適な入院生活じゃったな」
 ははははは、と高らかに笑う善次郎の横で、久保田は、頭を抱えたまま動けなかった。
 ―――あの2人には、絶対、言えないよな…。
 廊下で感激の涙を流しているであろう親子を思い、気が重くなる。
 「ま、とりあえず、わしはもう暫く“意識不明”でおるからな。今お前が“じっちゃんが目を開けたぞ!”なんてやったら、不自然極まりないからな。お前もあの2人も帰ってから、“奇跡の生還”を果たすから、その時は盛大に喜ぶんじゃぞ」
 「―――…おおせのままに」

 もう、怒る気力も失せた。
 ぐったりしたまま、辛うじて手を挙げて応える久保田に、善次郎はよっしゃよっしゃと満足げに頷いた。


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