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物言わぬ被写体を撮り終え、桜庭はホッ、と息を吐き出した。
ライトの中に浮かび上がる、真っ赤な1輪の薔薇。
“想い”―――誰の、誰に対する“想い”が、ここにこめられているだろう? 正直なところ…桜庭にも、分からない。いや、分かりたくない。
けれど、“想い”というテーマを考えた時、これ位しか浮かばなかった。桜庭にとっては、人生で一番嬉しかった時の思い出―――ノスタルジーに浸るには早過ぎる、けれど、もう鮮やかに思い出すには遠すぎる思い出だ。
もう、何年になるだろう? 未だにこだわっている自分は、滑稽以外の何者でもない。
けれど―――どんなに滑稽でも、そこは、桜庭の原点だから。
この1輪の薔薇に、“想い”をこめる。お願い―――もう1度、チャンスを頂戴、と。
***
時田事務所に登録しているカメラマン共同の写真展、前日。
既にそこは、戦場と化していた。
「なんだよ、ボードで展示かよ。額装しちまったじゃないか。額込みで展示させろ」
「お前、何5点も持って来てるんだよ。1〜2点て書いてあっただろ?」
「こら、その写真、この前の仕事の時ボツ食らった余りの写真だろ。ずるいぞ」
「何だって? 展示場所は抽選? そんな馬鹿な話があるか。話合いで決めろ」
出版社1階ロビーは、11人のカメラマンでごった返している。その中心で、桜庭は頭を抱えたい気分になっていた。
全員、プロである。
しかも全員、フリーである。
フリーの人間にとって、何が一番大変かというと、それはやはり“営業”だろう。どれだけの技術やセンスを持っていても、依頼してくれるクライアントがいなくては仕事にならない。そして顧客は、じっと待っているだけでは現れないのだ。
だから、個人的なグループ展であっても、妙に殺気立つ。
会場に足を運んだ人間が、そのままクライアントになる可能性だってあるのだ。少しでも目立つ場所に自分の写真を展示して欲しいし、作風の被る仲間の傍には展示したくない。そんな心理が働く。
で、この有様だ。
「あの…ですから、額は外して下さい。3点以上の人は2点選んで下さい。写真は仕事のものでも構いません。展示場所は、もめるから抽選にさせて下さい」
なんとか冷静な口調で、桜庭は纏めて答えた。
が、しかし。
「僕、あと30分で現場入りしないといけないんだよね」
「俺、42時間眠ってねーのよ。早く家帰って気絶したいんだけど」
「額は借り物なんだよ。持ち主、海外旅行中だから返せねーよ。額装NGなら、桜庭が預かれよ」
「そもそも、年末近い時期にこんなことやってる暇があるかってんだよなぁ」
全員、激務の合間を縫って、搬入に来ている訳だ。少々、テンションがおかしい。なんだってこんな忙しい時期にグループ展なんてやらなきゃならないんだ、という根本的な不満が噴出してくるのは当然のことだった。
大体、時田事務所に登録しているメンバーというのは、個性がきつすぎて撮影事務所などに属することができなかった連中が多い。
桜庭自身は、偶然知り合いだった溝口からの勧めで仲間に入った。溝口も、仕事上の仲間に勧められたという。このように、メンバーの大半は“アウトロー達の知り合いの輪”の中で引っ張り込み合った経緯を経て、時田事務所に流れ着いている。つまり、お互いに誰かしらと知り合い同士として繋がっているのだ。
だから、普段ならあり得ない程、遠慮がない。額を桜庭に押し付けようとしているカメラマンだって、桜庭とは直接の知り合いではないが、溝口とは結構親しい間柄だから、こういう無茶なことも平気で言ってしまうのだ。
となると。
この場を収められる人間がいるとすれば、たった1人―――唯一、時田本人の紹介で入ってきた、新人のみ。
桜庭がそう思った時、ガラガラガラ、という耳障りな音が響いて、蜂の巣をつついたような有様だったロビーが、一瞬シンと静まり返った。
何の音だ、と全員が音の方に目を向けると―――そこには、マジックペンの入ったアルミ缶をガラガラ振っている瑞樹が、憮然として立っていた。
目の据わっている瑞樹は、醸し出すムードが、やたら威圧的で、怖い。一番新人の筈なのに、その場にいた全員は、そのオーラに思わず1歩、足を引いた。
「―――全く」
低く呟いた瑞樹は、先輩達を睨み据えた。
「プロの癖に、先生がいなけりゃ席順も決められないガキと同じかよ」
「……」
「ロンドンにいる時田さんに電話して、全員の展示場所、決めてもらうか? それでよけりゃ、とっとと名前書いて、作品置いてけよ」
ぱかっ、とアルミ缶を開けて、中身のマジックペンを作業台の上にぶちまける瑞樹の様子に、これは本気で時田に電話する気らしい、と察したのだろう。
「―――さて、と。そろそろ真面目にくじ引きするか」
先輩カメラマン達は、誰からともなく、桜庭が用意した抽選用のくじに手を伸ばし始めたのだった。
***
ボードに針金を取り付けながら、桜庭は、少し離れた所でボードを壁に括りつけている瑞樹を、不服そうに睨んだ。
瑞樹の足元には、既に針金を取り付け終わったボードが数枚、置かれている。それらは、勿論、瑞樹の作品ではない。既に会場を後にしてしまった、先輩カメラマン達の作品だ。
くじ引きで展示場所が決まった後、瑞樹は、用意してあった名札に名前を書かせ、ボードの裏に撮影者の名前を記入させると、全員帰してしまったのだ。本人は「出すぎた口をきいたお詫びに、展示作業は自分がやります」と言ったが、その表情から「お前らがやると時間がかかってしょーがねぇ。俺がやるから全員帰れ」が本音なのはミエミエだ。
「あたしも帰ればよかった」
不満たらたらの声でそう愚痴り、桜庭は針金をパチン、と切った。
「溝口さんが残ってくれるって言ってくれたんだから、お言葉に甘えりゃよかった。なんであたしがこんな作業やらなきゃいけないのよ」
「今からでも帰れば」
そっけない口調で答えた瑞樹は、掛け終えたボードの傾きを直し、新たなボードを手に取った。
「そんな真似、できる訳ないじゃない。一応、雑用係なんだし…」
「なら、文句言うな」
「それでも愚痴りたい気分だって言うのよっ。全員分の展示をやるなんて、ただの雑用の域を超えてるじゃないのっ。ほんと、あんたってプライドないんじゃない?」
「プライド?」
やっと振り返った瑞樹は、怪訝そうに眉をひそめた。
「プライドの問題か?」
「違う? あたし達は、そりゃキャリアはないけど、同じプロの土俵に立ってるんじゃないの。仕事でもないこんなことで、こんな雑用を自ら買って出るなんてバカみたい。新人には雑用押し付けとけばいいんだ、って頭の連中なんていくらでもいるんだから。そういう奴らを付け上がらせるだけじゃないの」
「…あんたと俺とじゃ、プライドに対する認識が違うだけだろ」
少し呆れた顔をした瑞樹は、そう言って再び壁に向き直った。
「何それ。どういう意味よ」
「新人は口出しするな、って好き勝手やられるより、こんな雑用1つと引き換えに俺の好きなように動ける方がマシだ、ってこと」
「……」
「第一、先輩格に気ぃ遣って穏便に済まそうとオロオロしてた奴に、“プライド”とか言われてもな」
「…あんたとあたしじゃ、辿ってきた経緯が違うんだから、仕方ないでしょ」
気まずそうにそう言った桜庭は、唇を軽く噛むと、新たなボードに針金を取り付け始めた。
プライドを保たなくては、潰される―――独立する前の桜庭は、日々、そう思っていた。
あいつらが差別をするのは、自分が女であるせいだ。女に負けるなんて男の沽券に関わるから…まともに勝負したら敵わないと思うからこそ、抑圧し、不当な扱いをするのだ―――そう思って、プライドを保ち続けなくては、馬鹿馬鹿しくてやっていられなかった。
馬鹿馬鹿しいけれど。
でも、誰が辞めてやるか、と。
歯を食いしばり、不満を飲み込み、高圧的な先輩達に頭を下げ続け、いつかは逆転する日が来ると来る筈もない日を信じてじっとじっと耐えていた―――そんな桜庭の悔しさを、この恵まれすぎた新人に分かる訳がないのだ。
―――だから、こいつが、キライ。
パチン、と、また針金を切る。針金のついていないボードが無くなった。
「終わったけど」
不貞腐れたような声のまま、桜庭が瑞樹の背中に言う。瑞樹も振り返らず、次のボードを手に取りながら、そっけなく返した。
「なら、帰れば」
「…手伝う。こっちの端からでいい?」
少しだけ振り向いた瑞樹は、バツの悪そうな桜庭の顔に、僅かに口の端を上げた。が、何も言わず、また作業に戻ってしまった。
―――それでいい、ってことだよね、きっと。
でも、わざわざ言葉で確認するのも癪だ。桜庭は、コの字型の展示スペースの片側へと移動すると、前もって壁に貼り付けておいた作品名や作者名の書かれた紙と、手にしたボードの裏に書かれたものを比較しながら、ボードを壁に取り付け始めた。
一番最初に手に取ったのは、偶然、溝口のものだった。
スポーツカメラマンの彼が、どういう“想い”を作品にするのか、桜庭も興味を持っていた。そして提出された作品は、スタートラインにつく前、アスリートが胸に手を当てて目を閉じている写真だった。
上手く走りたい―――それも、切実なる“想い”。もう1枚は、祈るような表情で競技者に声援を送っている女性の横顔の写真だった。これもまた、切ないまでの“想い”だろう。さすが、スポーツ写真に賭けている溝口だけのことはある。
赤ん坊を抱く母親の写真、手を繋いで歩く恋人同士の後姿、誕生日ケーキの超どアップ、と続き―――続いて手にしたのは、偶然、瑞樹の作品だった。
「―――…」
ボードを手にした桜庭は、怪訝そうに眉をひそめた。
写真は、大きな手のひらの写真だった。
何かを受け止めるかのような、もしくは、何かを包もうとしているかのような、大きな両手。写真に写っているのは、それだけだった。どういう意味だろう、と壁に貼られた紙を見ると、作品タイトルはこうなっていた。
『Special』―――特別、という意味だ。
「成田」
思わず声を掛ける。振り向いた瑞樹に、ボードを向けた。
「どういう意味? スペシャル、って」
「―――ああ」
ボードを一瞥した瑞樹は、自分が手にしていたボードを小脇に挟むと、自らも写真と同じ手の形を作った。
「どう言えばいいか分からねーから、そうつけただけ。名前のある“想い”じゃねーし」
「え?」
「やってみりゃ、分かるかも」
「……」
半信半疑で、桜庭もボードを脇に挟み、両手を広げてみた。
写真よりずっと小さな手―――女性にしては大きくて指も長くてしっかりしているが、写真の手を見た後だけに、改めて見下ろす自分の手は、なんだか頼りなくて、あまりにも無力な手に見えた。
もう一度、ボードの写真を眺める。
何かを受け止めようとする、何かを包もうとする、大きな手のひら―――写真の手は、とても力強くて、何かを一生懸命守ろうとしているように、桜庭には見えた。
何、とは、上手く名前を付けられないけれど…何かの“想い”が、確かにその手のひらが訴えている。きっと、名前のない“想い”なのだろう―――だから、“スペシャル”と、瑞樹はそれに名前をつけた。とても強くて、とても特別な、“想い”だから。
「…あんたって、意外な写真、撮るんだ」
「意外?」
「もっと、ドライな写真撮る奴だと思ってた」
思わず桜庭がそう言うと、瑞樹は怪訝そうに眉をひそめ、「そうか?」とだけ言って、また作業に戻ってしまった。
―――ほんと、調子、狂う。
視線を逸らした桜庭は、なるべく写真を見ないようにしながら、瑞樹のボードを壁に固定した。
『成田君て、一見、何考えてるのか分からない無表情な人だけど、よくよく話をしてみると、意外な位に真っ直ぐで純粋な人よ。サキちゃんが悔しがるのも分かるけど―――毛嫌いするのは、もったいないよ』
“STUDIO ACTS”に足繁く通っていた頃、瑞樹の姿を見かけるたびに眉間に皺を寄せる桜庭を、そう言って宥めたのは、サークルの先輩でもある琴子だった。
単に、琴子の贔屓目に過ぎない、と思っていた。瑞樹に興味を持つモデル連中は、誰一人瑞樹にそうした評価を下す奴などいなかったし、琴子以外のスタジオマン達も「よく働くけど生意気で癇に障る奴」と言っていたから。
時田事務所の仲間となってからも、その印象は変わらなかった。桜庭が食って掛かっても、それがどうした、と涼しい顔ばかりして、眉一つ動かさない。先輩カメラマンに嫌味を言われても、傷ついた顔もしなければ、反発心も一切見せない。こいつには心なんてないんじゃないか、そう思う位に。
けれど―――…。
“フォト・ファインダー”で時田賞を取った、あの写真―――あれを撮ったのが、こいつだなんて。
この、温かい手のひらの写真を撮ったのも、こいつだなんて。
なんでこいつが、こんな写真を撮るんだろう。それが悔しいから、余計―――こいつが、キライ。
「…っ! イタっ!!」
鋭い痛みが、右手の指先に走った。思わず桜庭は手を引っ込め、ボードを床に落としてしまった。
顔を歪めながら右手を確認すると、人差し指の指先が、針金で引っ掛けたらしく、結構派手に切れてしまっていた。真っ赤な血が滲み、みるみるうちにそれが赤い水滴となって浮いてくる。
「…ったー…」
傷口を口に含んで、その場しのぎの消毒を試みる。口内の温かさで、傷口が余計痛んだ。
すると、そんな桜庭の目の前に、何かがすっ、と差し出された。
「……?」
小ぶりなサイズのバンドエイド。
驚いて目を上げると、それを差し出しているのは、瑞樹だった。その顔は、普段と変わらない無表情のままだ。
「貼っとけよ」
「…大きなお世話」
「シャッターを切る指だろ。プロなら、何があっても傷つけるな」
「……」
言われてみれば―――全くもって、その通りだった。気まずそうな表情になった桜庭は、差し出されたバンドエイドを渋々といった態度で受け取った。
「…あんた、用意良すぎじゃない? 男のくせして」
ちょっと悔しくて桜庭が言うと、瑞樹は何故かふっ、と僅かに笑った。
「前に、持ってなくて焦ったことがあったからな」
「…ふーん」
―――そう言えば、前にも、こいつに傘借りたっけ。
用意周到な奴―――眉を顰めた桜庭は、瑞樹にくるりと背を向け、バンドエイドの包み紙をびりっ、と破いた。
***
写真展1日目は、そこそこ天候にも恵まれた。
桜庭は、当番を交代するために午後3時頃会場を訪れた。本当なら1日目と2日目で当番を分けたいところだったのだが、今日も明日も中途半端に仕事が入っていたので、このような形になってしまったのだ。
「どう? 調子は」
歪んだボードを直している瑞樹に訊ねると、瑞樹は「まあまあ」と答えた。
実際、今も5人ほどの客が、ずらりと並べられた写真に見入っている。無名の集団のグループ展だが、客の入りは決して悪くはないようだ。
「小林さんの写真が、結構うけてる」
「へーえ…やっぱり、ああいうのがうけるんだ。ロマンチックだからかな」
小林の写真、というのは、2点とも結婚式のワンシーンを切り取った写真である。元々、結婚式場と提携しているカメラマンなので、結婚式を題材に選ぶのは当然だろう。今も、カップルとおぼしき若い2人組が、小林の写真の前で長いこと立ち止まっている。どうせ、写真のシーンと自分達を重ね合わせて、うっとりしているのだろう。おめでたいことだ。
時田事務所の概略や、出品者の略歴などを載せたチラシは、予想より残り少なくなっていた。桜庭は、瑞樹にその場をもう少し任せることにして、近くのコンビニにチラシをコピーしに走った。
正味、10分少しかかっただろうか。コピーを終えて会場に戻ると、展示場所の入り口辺りが、やたら賑わっていた。
5、6名の男女が、何やら楽しげに話している。年頃からいったら、桜庭と同世代辺りだろう。
「……?」
瑞樹の姿を探すと、その男女の中心にいた。彼らに取り囲まれている瑞樹は、常にない穏やかな笑みを見せていた。どうやら、瑞樹の知り合い達が、誘い合って写真展を訪れたらしい。
―――そう言えば、当番交代に合わせて、元同僚が来るって言ってたな。
だから、多少交代時間に遅れても構わない、と昨日言われたのを思い出した。多分、この連中がそうなのだろう。
取り囲む男女の中には、臨月間近といった感じのお腹の大きな女性もいる。その彼女を支えるようにしている青年は、アイドルかと思うほどに顔立ちの整った人物だ。その隣に立つ男は、比較的長身な瑞樹以上に背が高く、がっしりとしている。その男に寄り添う女性は、すっきりとした顔立ちの中性的な美人だった。
なんというか―――目立つ連中だ。こんなのが勢揃いしてる会社というのも凄いな…と、感心したように心の中で呟いた桜庭だったが。
中性的美人の隣に目を移した、次の瞬間―――心臓が、ドクン、といって、止まった。
瑞樹の隣で、ふわっとした柔らかな微笑を浮かべている、少女。
いや、少女ではない、のかもしれない。けれど、桜庭の目には、その外見は少女と表現したくなる外見だった。そう…写真で彼女を見た時にも、そう思ったように。
―――あの…“フォト・ファインダー”の写真の子だ。
屋久杉の幹を抱きしめ、天使のような微笑を浮かべていた少女。その彼女が、現実となって、目の前にいた。
ドキドキと、心臓がうるさく鳴る。何を動揺しているのだろう―――自分でも、その理由はよく分からない。思わず胸を押さえた桜庭は、チラシを入り口脇のテーブルの上に置き、彼らの背後を横切った。
「やっぱりプロ集団だけあって、“フォト・ファインダー”の時とはレベルが違うな」
通り過ぎる時、あの背の高い男が感心した声でそう言うのが聞えた。どうやらこの連中は、瑞樹が時田賞を受賞した時の写真展も見に来ているらしい。桜庭は、背後の会話に注意しながら、さりげなく反対側の壁のボードの歪みなどを直しているフリをした。
「プロなのにタダで見せていいの? 私、プロの写真展て、お金払って見るもんだと思ってたわ。ね、カズ君」
「うん、オレもそう思ってた。こんなロビーみたいなところで、ご自由にお入り下さい状態だとは思わなかった」
「まだ個展開けるレベルじゃないからな。俺にしろ、他の連中にしろ」
「で、成田の写真はどれなのよ」
「これ」
瑞樹の写真は、入り口から5点目と6点目だ。何故桜庭が覚えているかというと、入り口から7点目が桜庭の写真だから―――そう、悲しいことに、あの手のひらの写真と桜庭の写真が並んでいるのだ。
手のひらではない写真の方は、古びた映写機と、フィルムを掛け替えている年老いた映写技師の写真だった。
「なんだ〜、藤井さんの写真じゃないんだ〜」
酷くガッカリした声が、背後から聞える。さっきの大柄な男の声ではないから、あのアイドル青年の声なのだろう。
「なんでだよー。藤井さんの写真だったら、焼き増ししてもらおうと密かに企んでたのにー」
「こらこら、神崎、早いとこその妙な信仰心捨てないと、ナナに捨てられるわよ」
「ええー、だってー」
「おお、これって映画館の映写室の中だろ? どうやって撮ったんだ」
アイドル青年は、よほど残念だったのか、まだぐずぐず言っている。が、それ以外の人間は、既に彼を無視している状態だ。
「仕事で入ることがあって、その時頼んで、別の日に改めて撮り直した」
「へーえ…さすがは映画フリーク」
「けど、瑞樹の写真―――やっぱり、変わったよなぁ」
大柄な男が、どこか嬉しそうな声でそう言った。
「なんていうか…あったかくなったよな。やっぱり藤井さんの影響か?」
「や、やだな、違うよ」
大柄な男の言葉に、これまで黙っていた声が答えた。
高くも低くもない、耳に心地よい声―――あの子だ、と、さっき見た微笑を思い浮かべた。
「こういう部分、元々瑞樹にあったけど、今まではそれが出てこなかっただけだよ。…ね?」
「…知らねぇ」
「えー、私はやっぱり、藤井さんの愛の力だと思うけどなぁ」
「ちーがーいーまーすー」
―――ふぅん…やっぱりあの女の子、成田の彼女なんだ。
そうだろうな、とは、“フォト・ファインダー”の写真を見た時から予想していた。ファインダー越しに、撮り手の被写体に対する憧れ、愛情、もどかしさ、優しさ―――そんな“想い”が溢れてきているような写真だったから。
元々瑞樹がどういう人間だったのかは、よく分からない。けれど、写真が目に見えて変わってきたのは、彼女の影響らしい。あの瑞樹を変えた女性―――そう思うと、余計心臓が暴れた。
背後の連中は、続けて、例の手のひらの写真も見ていた。どうやら評判は映写機よりこっちの方が良いようで、特にお腹の大きな女性がやたらと「素敵」を繰返していた。
やがて、瑞樹の写真を見終わると、彼らはそれぞれに分かれ、気になる写真をぶらぶらと見て回りだした。
何となく観察していると、どうやら夫婦らしいアイドル青年と妊婦の2人は、やっぱり小林の結婚式の写真に貼り付いていた。大柄同士のカップルは、スポーツに関心があるのか、溝口の写真の前で何やら話し込んでいる。
あとの2人はどうしたかな―――と視線を巡らすと。
「どうした?」
瑞樹の声が、背後から聞えた。
そっと振り返ると、瑞樹とあの写真の女性は、先ほどとほとんど変わらない場所に立ったままだった。
「あ…うん。あの、この写真」
彼女が指さしたのは―――桜庭の写真だった。さすがに、さっきとは違った意味で、桜庭の心臓がドキンと鳴った。
黒背景の中、ライトを浴びた、1輪の真紅の薔薇。花瓶もなく、葉もなく、本当に茎と花だけを捉えた1枚だ。カメラマン仲間は、昨夜、この写真を見て「意外に桜庭も情熱的だねぇ」とからかってきた。どうやら薔薇という素材から、色恋沙汰を連想した上での言葉らしい。
恋愛中らしい2人だから、薔薇の写真に目をつけたのだろうか―――少しうんざりした気分で背後の会話に耳を傾けた桜庭だったが。
彼女が発したセリフは、桜庭の予想を大きく裏切った。
「何ていうか―――切ない写真だよね」
「切ない?」
「うん。なんか…必死さっていうか、壮絶さを感じる。背景のせいかもしれないけど―――見てて、苦しくなる」
「……」
桜庭の背筋が、冷たくなった。
ドキドキしていた心臓が、すーっと、冷たくなる。歪みを直すためボードに添えた手が、微かに震えてくる。
「こういう“想い”もあるんだな、って思って、ちょっと悲しくなった。―――私の気のせいかな」
「…いや。俺も、そう思う」
「ほんと?」
「ああ。なんか―――ここに写ってるのは、“届かない想い”のような気がする」
―――だから。
何も知らない癖に、こんな風に、一番指摘されたくない真実を、不意を打って、指摘してみせるから。
だから―――こいつは、キライだ。
***
会場を後にした桜庭は、繁華街を暫くうろつき、やっと店を開けたばかりのショットバーに飛び込んで、強めの酒を数杯あおった。
ささくれ立った気持ちがある程度誤魔化せる位には酔っ払ったところで、店を出る。目的地に着いた時には、午後9時を回っていた。
歩いている間に、少しは酔いが醒めた。少し熱を帯びた息を吐き出した桜庭は、ショートヘアを掻き上げ、顔を上げた。
古びたアパートの、2階。その一番端の窓。
いつもなら真っ暗なままのその窓に―――灯りが、ともっている。
「……」
それに気づいた瞬間――― 一気に、酔いが醒めた。
カメラバッグを肩に掛け直すと、桜庭は、全速力で階段を上った。
短い廊下を突っ切り、一番道路側のドアの前に立つ。そこで一度深呼吸をし―――トントン、とドアをノックした。
暫しの沈黙の後、ドアの向こうで、人の動く気配がする。魚眼レンズの色が微妙に変化したところを見ると、来訪者の姿を確認したらしい。直後…ドアが、ガチャリと開いた。
「…なんだ。サキか」
「こんばんは」
桜庭がぎこちない笑みを投げる。が、部屋の主は、面倒そうに眉を顰めただけで、勝手に入れとばかりにドアを開け放して、自分は部屋の中へと戻ってしまった。
「いつ帰ってきたの?」
玄関うちに入りながら桜庭が問うと、彼は冷蔵庫を開けながら、そっけない口調で答えた。
「今週の、頭」
「今回は長かったんだね」
「まあな」
「体、壊さなかった?」
「別に。…サキ、麦茶でいいか?」
「あっ、いいよ。あたし、自分でいれるから」
慌てた様子でグラスを取り出す桜庭を、彼は軽く首を傾げるようにして見、それから麦茶の入ったボトルをシンクに置いた。そして、けだるそうな足取りで、ワンルームの床の上にドサリと腰を下ろした。
CDデッキからは、軽快な洋楽のロックが流れている。投げ出された彼の足が、そのリズムに合わせて、時々揺れる。リズムを取ってるんだな、と気づき、桜庭はちょっと口元を綻ばせた。
が―――その足元に転がっているものを見て、その微かな笑みが、一瞬にして消えた。
随分古い号の、“フォト・ファインダー”―――瑞樹の写真が載っている、あの号だ。
麦茶のボトルを冷蔵庫に戻しながらも、桜庭の視線は、床の上に散らばった雑誌の中の1冊から離れなかった。
「…相変わらず、片付いてない部屋だよね」
わざとらしくそう言うと、桜庭は、すぐ傍に無造作に置かれていた音楽雑誌を拾い上げた。
「母さんも言ってた。ヒロの部屋って、いつ見てもぐちゃぐちゃしてるって。時々こうして来て片付けてやらないとさ、あんた、いずれゴミの山に埋もれて窒息するんじゃないの」
バサバサと音を立てながら、次々雑誌を拾い集めた桜庭は、最後に、彼の足元に置かれていた“フォト・ファインダー”を拾い上げた。
「…これ、まだ捨てないの?」
拾い上げながら、チラリと彼の顔を見て、小声で訊ねる。
彼は、閉じていた目を薄く開け、桜庭の手元にある“フォト・ファインダー”を一瞥した。が、桜庭の言葉には答えることなく、その手から“フォト・ファインダー”をバッ、とひったくり、本棚の一番下にそれを押し込んでしまった。
―――そんなに…。
そんなに、あの写真に魅せられてる訳?
嫉妬や疑問が、胸の内で複雑に渦巻く。
カメラマンになったきっかけを作ったのは、彼なのに―――誰よりも桜庭の才能を認め、桜庭の写真を見るのを楽しみにしてくれていたのは、彼だった筈なのに―――あの写真を見て以来、まるで何かにとり憑かれたみたいだ。
「…あのさ」
―――もし。
「あんたが執着してる、あの写真―――…」
もし、教えたら。
“あの写真撮った奴、あたしと同じ事務所使ってるよ”―――そう言ったら…何と言うだろう?
「…なんだよ」
訝しげに眉をひそめる彼の声に、言葉に詰まる。
怖くて、口にできない。どれだけ努力しても動かすことのできなかった彼の心を、一瞬にして奪い去ったあの写真のことなんて。
「…なんでもない」
それしか、言えなかった。
すると彼は、余計眉をひそめつつも、
「―――サキは昔から、そんな風だよな」
と言い捨て、また目を閉じてしまった。
―――届かない…。
届かない、この想い。
あたしは、何を望んでるんだろう? この、“元・弟”に。
また家族としての絆を取り戻すこと? それとも、新しい関係を築くこと? それとも…弟になる前の関係に戻ること?
雑誌を掴む手が、震える。裏表紙に食い込んだ指先が、ズキリと痛んだ。
前日、針金で怪我した人差し指の先が、痛い。瑞樹に差し出されたバンドエイドを外した指先が、痛い。その痛みに、胸が、変な感じに締め付けられた。
“元・弟”を魅了した写真を撮った、あの男を―――あたしは、妬んでるんだろうか。
あたしの居たかったポジションに涼しい顔で常に居座る、あの男を、憎んでるんだろうか。
それとも…届かない想いをあの写真から感じ取った、あの男に―――憧れてるんだろうか。
自分の気持ちが、分からない。
桜庭は、唇を噛み締めると、その混乱を追い払うように、手にしていた雑誌をドサリと机の上に置いた。
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