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― 晴れるといいね ―

 

 行ったり来たり。
 行ったり来たり。
 目の前を何度も往復する久保田の落ち着かない様子に、ベンチに腰掛けて脚を組んだ佳那子は、呆れたような顔になった。
 「…いい加減、落ち着きなさいよ、久保田。あんたがそんなに心配したって、どうしようもないでしょうに」
 「そうは言っても―――なあ、予定より10日早いって、何も問題ないのか? ちゃんと普通に生まれるんだろうな?」
 「だーかーら。さっき、ちゃんと説明したでしょうに。10日やそこらは正常の範囲内なの。早産って呼びさえしないんだから。問題があるとしたら、神崎やナナのご両親が間に合わないかもしれない、って問題だけよ」
 「でも、もう入ってから2時間以上経ってるぞ?」
 「…あのねぇ。ナナは初めてなのよ? そんな簡単に、ポンと生まれる方が珍しいわよ。うちの従姉妹なんて、陣痛始まってから12時間かかったんだから」
 「じゅ、じゅうにじかん…」
 久保田の顔から、血の気が引いた。12時間、ひたすら苦しみ続ける妻、というのにも血の気が引くのだろうが、こういう心配が12時間続くのにも血が引くのだろう。
 「まあ、とにかく。一度座りなさいよ」
 ポンポン、と自分の隣の席を佳那子が叩くと、まだそわそわした表情をしながらも、久保田は大人しく、その勧めに従った。

 クリスマスも過ぎ、今日で会社も最後、という年の瀬。
 仕事が忙しくてとても間に合いそうにない、という瑞樹と蕾夏を除き、退社後、4人でちょっとした宴会を催していたのだが―――まさか、乾杯直後、奈々美が陣痛に襲われるとは思ってもみなかった。
 和臣と奈々美が階段から落ちた時もそうだったが、久保田はどうも、こういうシチュエーションに弱い。日頃、ちょっとしたトラブルでオロオロするのは、むしろ佳那子の方が多いのだが、こういう場合に限っては立場が逆転する。
 で、この有様だ。

 「しっかし…カズも信じられない奴だよなぁ。木下と一緒につわり起こしたのにも驚いたけど…まさか、陣痛まで、なぁ」
 はあぁ、とため息をつく久保田と共に、佳那子も小さなため息をついた。
 「そうよねぇ…。あんな状態で、本当に最後まで立ち会えるのかしら」
 そう。和臣は今、廊下にも待合室にもいない。奈々美の出産に立会い、苦しむ奈々美を傍で励まし続けているのである。出産を待ちわびて廊下をウロウロする夫、という図は珍しくないが(だから、久保田がこの2時間で2回も“頑張って下さいね”などと声をかけられてしまうのだが)、最近は和臣のように立会い出産を希望する夫も少なくないらしい。なかなか良い心がけだ。
 だが、しかし。
 分娩室に入る前、久保田と佳那子が最後に見た和臣は、顔面蒼白状態でお腹を抱え「イタタタタタ」と言っていた。
 つまり、奈々美が「痛い」と言うと、頑張れと言いながら自分も痛がる、という行動パターンに陥っていたのだ。もしかしたら、本当に一緒に陣痛を起こしているのかもしれない。確かに励ましてはいるが、あれではあまり意味がないのではなかろうか。
 「まあ、いざとなれば肝の据わってるタイプだから、大丈夫だとは思うけど」
 「…だな」
 と、その時。
 廊下の奥にあるドアがいきなり開き、中から赤ん坊の泣き声が微かに聞えてきた。
 「―――…!」
 弾かれたように同時に立ち上がった久保田と佳那子は、慌ててドアへと駆け寄った。
 てっきり和臣が出てきたのかと思ったら、違っていた。ドアから出てきたのは、出産を担当していた温厚そうな顔の女医で、やれやれ、といった風に疲れた様子で肩を回しているところだった。
 「あ、あの…っ」
 佳那子が堪えきれず声をかけると、女医は回していた肩をピタリと止め、2人の方を見た。そして、その2人が奈々美に付き添ってきた2人だと気づくと、ニッコリと笑ってみせた。
 「無事生まれましたよ。元気で可愛い女の子です」
 「女の子…」
 将来、昭夫を上回る娘バカになるであろう和臣の姿が脳裏に浮かび、2人はちょっと途方に暮れたような声を漏らした。
 「それで、木下…いや、その、母親の方は」
 「ええ、お母様も大丈夫です。疲れてはいるみたいですけど、案外ケロリとしてますよ。ただ…」
 「ただ?」
 「ご主人が、ねぇ」
 苦笑と共に女医が口にした“ご主人”の一言に、嫌な予感がじわりとせり上がる。
 「カ…カズが、どうかしましたか」
 「奥様の陣痛が乗り移っちゃった状態で、2時間以上も“がんばれー”、“負けるなー”って励まし続けてましたから。生まれると同時に、ホッとしたのか腰砕けになっちゃって、今、奥様の隣に寝かされてるんですよ」
 「……」
 「今は奥様が“頑張って”って必死に励ましてますよ。いいご夫婦ですね」
 ―――…いいのか?
 顔を見合わせた久保田と佳那子は、ある意味予想通りな結末に、うんざり顔になってしまった。


 結局、和臣なり奈々美なりに会うにはまだ暫くかかるとのことなので、2人はひとまず、待合室で呼ばれるのを待つことにした。
 「あーあ…なんだか、ナナの妊娠に始まり、ナナの出産で終わった1年だったわよねぇ…」
 少々疲れた足取りで廊下を歩きつつ、佳那子がやれやれ、という口調で呟いた。
 「自分達にもそれなりにビッグ・イベントがあった筈なのに、締めくくりは結局、あの2人だなんてね」
 「…ま、それが俺達の運命なんだろう」
 苦笑と共にそう言った久保田だったが―――廊下を抜け、待合室に出た途端、その顔がギョッとしたように強張った。
 「……」
 「? どうしたの、久保田」
 「…すっかり、忘れてた」
 「え?」
 意味不明な久保田の言葉に首を傾げつつも、佳那子は久保田の視線を追った。そして、その先にある、待合室に置かれた大型テレビに目が行った途端―――佳那子の顔も、久保田と同じように引きつった。
 遅い時間であるため、ボリュームを相当絞られてしまった、巨大なテレビ。
 そのスクリーンには―――2人がよく知る人物が、交互に映し出されていた。
 何というタイトルか忘れたが、とにかく、数日前に収録された討論番組。出ているのは勿論、佳那子の父と、久保田の祖父だ。音声が絞られすぎて何を言っているのかは分からないが、どっちも、演台から身を乗り出して、唾を掛け合う勢いで舌戦を繰り広げている。
 「わ…忘れてたわ、私も」
 「こんなもんを、よりによって、こんな所で見る羽目になるとは…な」
 厄年なんじゃないか、と疑いたくなるほど無茶苦茶だった1年の最後を飾るには、これ以上のフィナーレはないかもしれない。2人は、無理にテレビに背を向けるようにして、待合室の椅子にドサリと座り込んだ。
 「それにしても…元気よねぇ、お爺様も。マスコミも病院に担ぎ込まれたって知らないから平気で使うんだろうけど…あんなにエキサイトして、また倒れたらどうするのかしら」
 「…だよなぁ」
 事の真相を知らない佳那子の言葉に、少々罪悪感を覚える。佳那子にだけは、笑い飛ばせる位の状況になってから話すつもりではいるが、昭夫には死ぬまで言えないだろう。久保田は、言葉を適当に誤魔化し、力ない笑いを返しておいた。
 「お父さんもお父さんよ。お爺様が意識を取り戻した時、まさに号泣、って感じで大泣きした癖に、元気になればあの調子なんだもの」
 「お互い様だろ。じっちゃんも嬉々としてそれに応じてるんだから。全く―――仲がいいんだか、悪いんだか。変な関係だよなぁ、あの2人…」
 「結婚式とか、大丈夫かしら」
 「…言うな。今から考えると、胃が持たないぞ」
 一瞬、“久保田善次郎vs佐々木昭夫”の討論バトルの会場となってしまう披露宴を想像してしまい、久保田はぶるっと身震いした。
 「ま…、当面は、年明けの顔合わせの心配だけしとけ」
 難しい顔になってしまった佳那子の頭にポン、と手を乗せた久保田がそう言うと、佳那子もちょっとだけ笑みを浮かべ、軽く頷いた。
 「上手くいくといいけど」
 「心配するな。ちゃんと約束しただろーが。最後まで、佐々木の味方をするって」

 年が明ければ、九州から久保田の両親が、佳那子とその父に会いにやって来る。
 無事ゴールインとなるまで、まだひと波乱、ふた波乱ありそうな気配はあるが―――久保田と佳那子の未来は、まあ、おおむね、見通し良好だ。


***


 『なあ、2科目赤点とるって、そんなにまずい事? 忍の中学時代ってどうやった?』
 「あー…、どないやったかね。そないな大昔のこと、とっくに忘れたわ」
 そう言って忍が力の抜けた笑いを返すと、受話器の向こうのイズミの声が、一段低くなった。
 『…怪しい。そうやって誤魔化す奴に限って、赤点なんて経験したことなかったりするもんや』
 「んな無茶な」
 『いーや、怪しい! けど、同情は受けへんからなっ。赤点も人生経験や。英語なんて追試も経験したし、課題提出も経験したし、一発でいい点数とった奴よりオレの方が、そんだけ経験積んだってことや』
 ―――つまり、赤点とった上に追試にも落ちて、罰として課題を提出させられた訳やな。
 と想像はついたものの、忍はあえてそれを指摘はしなかった。忍も、中1で英語につまずいた口なのだ。
 「で? 赤点については、もうええのやろ? イズミ君は何を憤慨してはるんですか?」
 手持ち無沙汰に、さっきまで読んでいた雑誌のページをパラパラめくりながら忍が訊ねると、1秒前の勢いはどこへやら、イズミの声が一気に沈み込んだ。
 『…母ちゃんが、怒ってもーてん』
 「舞さんが?」
 『母ちゃん、赤点なんて1回も経験してないんやって。オレ産む前に通ってた高校、県内一の名門校やったし、中学でも常に上位をキープしとったらしいから、まあそうやろな、とは思うけど』
 ―――へええ。妖艶美女で秀才とは、また神様も不公平なことするわ。
 働きながら大学を卒業したり、ファイナンシャル・プランナーの資格をあっさり取ったりしているのは知っていたので、馬鹿ではないな、と漠然とは思っていたものの―――つくづく、朝倉 舞は、中身と外身のギャップの激しい人物だ。
 「…まあ、舞さんからすると、“あたしの息子なんだから、やりゃできる筈なのよっ。あんたは努力が足りなすぎるのっ”ってな所なんやろね」
 舞の口調を真似て忍が言うと、よほど受けたのか、ゲラゲラという笑い声が受話器から響いた。
 『し、忍、よう分かってるわー。母ちゃん、それと全く同じこと言ったんやもん』
 「は…はははは、それはまた、偶然やね」
 『で、な。母ちゃんが怒ったせいで、オレの冬休みの計画が台無しやねん』
 「計画?」
 『本当はオレ、年明けにでも一度、忍に頼んでスキーに行きたいと思っててん。なのに、母ちゃん、冬休みの宿題全部終わるまではアカンって』
 「…えー…、それは、年内にも宿題終わらせとけば何も問題ないのと違うやろか」
 『無理無理。今年はもう2日しかないねんで?』
 「…ごもっとも」
 要するに、それがイズミがいきなり電話してきた一番の理由だったらしい。イズミが口を尖らせて拗ねている姿が目に浮かぶ。
 「そないにスキー、行きたかったんか」
 『…うーん、別に。クラスの友達が自慢するから、ちょっと興味持っただけなんやけど』
 「なんや。それだけかい」
 『けどっ。けど…せっかく、今年は忍がおるのに…』
 「……」
 『…別に、スキーでなくても構わへん。母ちゃんやなくて、忍にしか頼めへんこと、やりたかってん』
 「―――さよか」
 そんなことを言われると―――無理をしてでも連れて行ってやりたい、と思ってしまうのだけれど。
 それを口にする直前、忍の脳裏に、宿題を仕上げられずに舞に怒鳴られるイズミの隣で、「忍さんが勝手に連れ出すから」と同じように正座させられて怒鳴られている自分の姿がポン、と思い浮かんだ。
 ―――アカンな…さすがに。
 出かかった言葉を咳払いで誤魔化し、忍は、広げていた雑誌をパタンと閉じた。
 「あー、えーと…それやったら、他のことやったらアカンか?」
 『他のこと、って?』
 「ほら。イズミ君、この前“インドアプレーンが飛んでるところが見たい”言うてたやん? 飛ばすには広い部屋が必要やから、すぐにはちょっと無理かもしれへんけど―――まずは、組み立ててみる、っちゅーのはどうやろ」
 『えっ』
 イズミの声が、心なしか、パッと明るいものに変わった。
 「今はキットも売っとるし、イズミ君なら1日もあれば組み立てられると思うわ。ボクも久々に組み立てるんもええなぁ…」
 『やるっ!』
 あっという間に、返事が返ってきた。あまりの反応の良さに、提案した忍本人も、ちょっとビックリだ。
 『さすが〜、忍、分かってるわ。スキーなんて、忍やなくても車持ってる奴なら誰でも連れてってくれるやろうけど、そういうのこそ“忍にしか頼めへんこと”やろ?』
 「…そうかもしれへんね」
 そこまで深く考えた訳ではないのだが―――確かに、そうなのかもしれない。
 『ななな。オレ、頑張って、読書感想文だけでも片付けとくっ。だから忍、外で飛ばせるタイプのやつも組み立てさして』
 「ええけど…なんでまた」
 『だって、外で飛ばすやつなら、組み立てたその日に、すぐ家の外で飛ばせるやろ?』
 「ああ…そうやね。それやったら、今回はアウトドアだけにしとくわ」
 『ええー、なんで』
 「欲張ったらアカン」
 不服そうなイズミの声にクスリと笑い、忍はゆっくり、言い聞かせるように告げた。
 「楽しみは先にとっとけばええやんか。のんびり、1個1個作ってけばええねん。別に、急いで全部作らなアカン理由はないやろ?」
 『―――うん。そうやね』
 電話の向こうのイズミの気配が、ふわっと綻ぶのを感じた。
 ああ、ハルと会って、やっと落ち着いたんやな―――そう確認できた気がして、忍も微笑んだ。

 並んで模型飛行機を組み立てる忍とイズミに、「あたしだけ仲間はずれなんて、ズルイ」と舞が拗ねて拗ねて拗ねまくる様子を、ちょっと想像しなくもない。
 ―――もしかしてボク、朝倉親子のお守り役と違うやろか…。
 ふと、そんな考えがよぎって、複雑な心境にもなるのだが。
 青空の下、自分達が作った飛行機を3人で見上げる図は、なかなか悪くない―――忍は、そんな風に思った。


***


 「編集長、できました」
 今年最後となる原稿を、蕾夏は佐伯編集長に差し出した。
 編集長は、受け取った原稿をざっと流し読みし、改稿を指示した部分がちゃんと指示通りになっているかをチェックしているようだった。ドキドキしながら待っていると、やがて顔を上げた編集長は、ニッコリと笑って原稿を机の上に置いた。
 「ん、いいですよ。年末ギリギリまで申し訳なかったですね」
 「いえっ、そんなことないです。ありがとうございました」
 「はい。お疲れ様でした」
 ペコリ、と蕾夏が頭を下げると、編集長の手がよしよし、といった感じで、蕾夏の頭を撫でた。
 「……」
 ―――…し…しまった。
 年末のハードワークがやっと終わったせいで、緊張感が緩んでいた。編集長のこの癖を分かっているから、最近は一歩引くように注意していたというのに―――最後の最後で、大失敗だ。
 「し…失礼します」
 ちょっとよろけつつも、蕾夏がそう言って踵を返すと。
 「あ、藤井さん」
 唐突に、編集長が呼び止めた。
 キョトンとした顔で振り向く蕾夏に、編集長は、妙に晴れ晴れとした笑みを見せた。
 「前に藤井さん、言っていたでしょう? 君に似てる知り合いがいないか、とか、何とか」
 「は、はぁ…言いました、確かに」
 「僕もあれから時々、誰かいたかな、と気になっていたんですが―――ついに分かりましたよ」
 「えっ。やっぱりいたんですか!」
 「ええ。昨日、久々に実家に寄ったら、思い出しました」
 そして編集長は、悪びれない様子で、こう言ったのだった。
 「去年まで実家で飼っていた、チワワです。黒目勝ちな可愛いチワワで、僕も可愛がっていたんですが―――人間と犬といえども、表情が似て見えることもあるんですねぇ」

 

 「―――そんなに笑うことないじゃない」
 瑞樹が笑うせいで、喫茶店のテーブルがガタガタと小刻みに揺れている。ムッとしたように眉を顰めた蕾夏は、半ば突っ伏して笑いを噛み殺して肩を震わせている瑞樹の頭のてっぺん辺りを睨んだ。
 「第一っ。チワワに“いい子だねー”ってやってるに等しい編集長の行動を、最初に危険視して不機嫌になったのは、瑞樹の方だよ?」
 「あ…ああ、そうだよな。悪い悪い。くっくっ…ああ、おもしれー」
 「ムカつくーっ」
 スティックシュガーの空いた包みを丸めて投げる蕾夏を、顔を上げた瑞樹は、まあまあ、という風に手で制した。笑いすぎて涙目になっているところが、蕾夏としては余計許しがたい。
 「まあ、でも、良かったな。新しい職場最大の謎が、20世紀のうちに解けて」
 「…まあね。新世紀からは、編集長に変な警戒心抱かずに済むし」
 「それは、どうだかな。偏愛するチワワ愛好家もいるかもしれねーし」
 「…瑞樹…」
 「冗談だって」
 ―――時々、本気なのか冗談なのか、判断難しい時あるもんなぁ、瑞樹は。
 本当に冗談で言ってるんでしょうね、という顔で更に瑞樹を睨むが、瑞樹は涼しい顔でコーヒーカップを口に運ぶばかりだ。案外、事の真相が分かった今でも、編集長に対する警戒心は変わってないのではないだろうか。
 「で―――肝心の、年明けの仕事は?」
 もうチワワの件は蒸し返す気がないらしく、瑞樹が話を進めた。
 「今日出社した分を振り替えるから、8日の月曜日からになりそう」
 「豪勢だな」
 「そりゃあ、31日までみっちり仕事させられれば、ね。瑞樹は?」
 「俺は、3日の“I:M”の撮影が初仕事だな」
 「…やっぱり、来年も“I:M”から始まっちゃうんだ」
 「切られると思ったのになぁ…」
 瑞樹の表情が、少々渋くなる。
 グラビア写真を指示通り撮らなかったことで、担当者とちょっとゴタついてしまった瑞樹だったのだが、結局、“I:M”から契約を切られるようなことはなかった。何事もなかったみたいに、相変わらず細々した撮影を依頼される。ルミナリエ撮影が“I:M”での最後の仕事だろうな、と予想していた2人にとっては、ちょっと意外な展開だ。
 時田の体面のことを考えれば、ホッと一安心、といったところだが―――仕事の内容として考えた場合、瑞樹の心境は、少々複雑だ。
 「切られた方が良かったのかもな」
 「…やっぱり、合わない? “I:M”の仕事」
 蕾夏が眉をひそめると、瑞樹は、心配するな、という風に微かに笑った。
 「合わない訳じゃねーけど―――消耗する。蕾夏が、全然興味ない本の書評書かされるのと同じような感じかもな」
 「ああ…うん、なんか、分かる気がする」
 「でも、まだ、選べる段階じゃねーし」
 自分が、どこを目指すのか。
 題材も、媒体も、まだ見えてはこない。将来、どんなフォトグラファーになりたいのか。今はまだ模索している時期―――それは、瑞樹も蕾夏も同じだ。
 「うんざりしない程度にセーブしながら、撮り続けるしかないよな」
 「…ん、そうだね」
 2人は僅かに笑いあい、それぞれ、コーヒーを口に運んだ。
 「―――お前、そろそろ時間だろ」
 チラリと店内の時計を見遣り、瑞樹が言う。
 「あ、うん。…じゃ、出ようか」
 ―――今日、出社じゃなければ、もうちょっと長い時間、一緒にいられたんだけどな。
 チクリと、寂しさが胸を刺す。その痛みに少し表情を曇らせながらも、蕾夏はそれを振り払うように立ち上がった。


 2年前の帰省の今日も、東京駅は、こんな風にごった返していた。蕾夏の乗る在来線の乗り場へと向かう2人の足は、心なしか重かった。
 2年前と違うのは、瑞樹が神戸に帰省しないこと。この前仕事で神戸に行った際、父の家に泊まったのが、帰省代わりになってしまったから。それに、瑞樹も昨日まで仕事だった。移動距離と、3日から仕事ということを考えると、ほとんど疲れるために帰省するようなものだから、やめたのだ。
 「この後瑞樹、どうするの?」
 「適当に飯食って帰る」
 「じゃあ、夜は家にいるよね。だったら、前みたいに電話でカウントダウンしよう?」
 「…ほんと、お前、そういうの好きだよな」
 2年前、電話で新年のカウントダウンをした時のことを思い出して、2人の表情が綻ぶ。
 「4日は、ここまで迎えに来るから。その足で、何か映画観に行くか」
 「あ、それだったら私、“ダイナソー”観たいな」
 「…ディズニーだよな、あれ」
 「ああ、私もディズニーは趣味じゃないけど、今回のは恐竜のCG作品みたいだから―――あ、でも、もう終わってるかなぁ…微妙」
 「“13デイズ”が面白そうだけどな」
 「キューバ危機のやつだよね。それもいいなぁ」
 「…21世紀の最初に観る映画がキューバ危機、ってのも、妙な感じだけどな」
 「あはは、確かに」

 そんなことを話しながら歩いていたら、あっという間に目的地に到着してしまった。
 切符を買った蕾夏は、改札の前で瑞樹の方に向き直り、何かを躊躇うように俯いた。
 「? どうした?」
 「…うん」
 不思議そうにする瑞樹に、蕾夏は意を決し、顔を上げた。
 「あの、瑞樹、見送らなくていいよ。私が瑞樹のこと、ここで見送る」
 「は?」
 「ほら、帰国して、瑞樹と一緒にうちの実家行った時…さ。瑞樹、私のこと、改札の手前で逆に見送ったじゃない?」
 あの時は、瑞樹が何故そんなことをしたのか、いまいち分からなかった。
 けれど―――今、逆の立場になって、その気持ちがよく分かる。
 瑞樹に背中を見せて、自分から立ち去ることが出来ない。寂しくて―――すぐに振り返って、もうちょっとだけ、と足を止めてしまいそうな自分が、情けなくて。
 そうした想いは、瑞樹にも心当たりがあったのだろう。なるほど、と納得したような顔になり、苦笑した。
 「珍しく、弱ってんな。何かあったか?」
 「…やっぱり、言霊かな」
 「え?」
 「口にしちゃうとね。隠すのが、難しくなるんだよ、きっと。…本当の望みを」
 「―――…」

 “もっともっと、一緒にいよう”。
 24時間一緒にいた、半年間…その時間に、戻れるなら戻りたい。甘えでも何でもいいじゃない、もう無理するのやめちゃおうよ―――そんな風に思った時もあった。何度も。
 でも、それを口にしなかったからこそ、耐えられたのかもしれない。この半年間。
 ちょっとでも口にしてしまうと―――少し会えなかっただけで、こんな風に弱くなってしまう。…やっぱり、言葉は、魔物だ。

 「…蕾夏?」
 「…何」
 「大丈夫か?」
 「だ、大丈夫っ」
 いつもとは違う自分を出してしまったのが恥ずかしくて、つい、目を逸らして、焦ったような口調になってしまう。
 「ごめん、最近、忙しくて電話ばっかりだったから、ちょっと弱ってただけっ。大丈夫だから、早く…」
 そう、蕾夏が言いかけた時。
 瑞樹の手が、蕾夏の頬を捉えて、顔を上に向かせた。
 「―――…」
 ふわりと落ちてきた唇に、一瞬、目を閉じるのも忘れてしまった。
 が、蕾夏が慌てて目を閉じる前に、瑞樹はぱっ、と離れてしまった。そして、蕾夏の耳元に小さく囁いた。
 「半年前の、リベンジ」
 「……っ!!」
 言葉を失う蕾夏に、満足したいたずらっ子のような笑みを浮かべると、瑞樹はくるりと背を向け、今来た道を戻り始めた。
 「み…瑞樹っ!」
 「またな」
 真っ赤になった蕾夏の顔を振り返ることなく、ひらひらと手を振ってみせる。それも、半年前のリベンジだと分かるから、余計真っ赤になってしまう。
 ―――こんなに経ってから仕返ししないでよっ、バカっ!!!
 しかも、あの時とは違い、ここは人通りの激しい東京駅なのだ。遠ざかる瑞樹の背中に、心の中であらん限りの悪態をつきつつ、蕾夏は熱くなった頬を両手で押さえた。

 やがて、瑞樹の背中が雑踏の中に紛れてしまうと。
 まるで、潮が引いていくみたいに、蕾夏の中の熱も引いていった。

 思わず、指先で、唇を辿る。
 「…ほんと…バカ」
 そう呟く蕾夏の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
 なんだか、切ないような、温かいような、不思議な感覚を胸の中に覚えながら、蕾夏はバッグを肩に掛け直し、くるりと踵を返した。


 今晩、夜空を見ながら2人でするカウントダウンの先には、新しい世紀が待っている。

 そんな特別な夜―――できれば星が見えたらいいな、なんて思いながら、蕾夏は軽い足取りで改札を抜けた。

 

――― "Step Beat COMPLEX" / END ―――  
2005.5.11


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