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nobody knows ―

 

 どう考えても人間が造ったとは思えない巨石群に、蕾夏はいつもの如く、目をキラキラ輝かせていた。
 「凄いね…」
 「圧巻だよな…」
 「やっぱりこれって、宇宙人の力を借りて造ったんだと思う?」
 周囲に何もない広大な平地なので、もろに風が吹きつける。蕾夏は髪を手で押さえながら、隣でカメラを構える瑞樹を見上げた。
 「どうだろうな―――でも、この円陣は、空から見るのを意識して造ってるように見えなくもない」
 「空から撮りたいなあ…。お金あれば、セスナでもチャーターして、上から撮影するのにねぇ」
 「…飛行機恐怖症が、大胆なこと考えるよな」
 「う…、が、がんばるもん、いい写真撮るためなら」
 急に声に力の無くなった蕾夏に思わず笑ってしまいながら、瑞樹は、巨大なストーンヘンジの全景をフレームに収めた。
 曇り空を背景にしたストーンヘンジは、どこかミステリアスで、異世界的なムードがある。蕾夏の言う通り、やはりこの遺跡には、何か人間とは違う存在が関わっているのかもしれない…本気でそんな気がしてくる。
 もう少し、もう少し―――ジリジリしながらも、雲の動きをじっと待つ。やがて、雲の隙間から僅かに太陽の光が射し込んだ瞬間、瑞樹は背中を押されるようにしてシャッターを切った。
 ファインダーから目を外し、傍らの蕾夏を見下ろすと、蕾夏はまだ、雲間から射す光を背景にしたストーンヘンジに魅入っていた。
 「何、感じてる?」
 瑞樹が声をかけると、蕾夏は、魅入られた光景から目を離さず、うっとりした笑顔を浮かべた。
 「神様は実在するんだ、って信じたくなるような空気」
 「…やっぱりお前、コピーライターが向いてる気がする」
 「あはは、そうかなぁ」
 蕾夏の言葉は、いつも観念的で抽象的で―――そして、瑞樹が感じているものを端的に表している。きっと、他の人間にはわかり難い言葉…瑞樹の写真と同様に。
 風に舞った髪を掻き上げると、蕾夏はやっと視線を瑞樹に向け、ちょっと挑戦的に笑ってみせた。
 「―――じゃあ、いってみる?」
 「蕾夏からどうぞ」
 「ええー…、私から? …うーん、まずは、“広さ”。ここ、地平線の向こうまで続いてそうな、広い広い平地じゃない」
 「ストーンヘンジの、1つ1つの岩の巨大さ。1つ数十トンて言うからな―――でも、それを表すなら、もっと寄りたい」
 「人間が造ったとは思えないこのムードって、何からきてるのかな?」
 「あの、立ててある岩の上に横向きに乗せてある岩が原因じゃねーの? あんなもん、紀元前1600年なんて時代に乗せられるか? 普通」
 「ああ、そっか…。あの、きっちり乗ってるんじゃなくて、ちょっとずれた感じの不安定さが、ミステリアスでいい感じ」
 「…ほんとかよ。“第三者”でもそう感じるか?」
 瑞樹が疑うようにそう言うと、蕾夏は唇を尖らせてみせた。
 「撮ってみなきゃわからないじゃない?」
 「―――ごもっとも」
 「成田君!」
 少し遅れて来ていた時田が、背後から声をかけてきた。風が強いので、ざんばらに落ちている前髪が邪魔になるのだろう。歩きながら、久々にトレードマークになっているバンダナを巻こうとしている。
 「天気の具合、どんな感じかな?」
 「露出高めで、なんとか、って感じです」
 「うーん…もう少し晴れるの待つかなぁ。この辺りうろついてるから、10分ほど自由に撮ってていいよ」
 「じゃ、10分でここに戻ってきます」
 「うん―――ああ、そうだ」
 早くも場所を移動しようとしている瑞樹と蕾夏を、時田は呼び止めた。
 「今日の撮影は、“観光客を呼ぶためのキャンペーン用パンフレット”の写真だからね」
 「…わかってます」
 ニッ、と笑う瑞樹に呼応するように、蕾夏も微笑んだ。それを見て、時田は軽く頷き、もう行っていいよ、という風に手で追い払うような仕草をしてみせた。

 2週間前の混迷状態が嘘のような瑞樹と蕾夏の様子に、時田は苦笑とも羨望の笑みともつかない微笑を浮かべた。
 瑞樹の手には、今日はニコンの一眼レフが握られている。あのカメラを持つ時、瑞樹の中のモードが仕事に切り替わる。自分が撮りたい写真ではなく、人に見せるための―――第三者のための写真を撮ることを意識する。
 彼がライカを手にする時は、本来の自分に戻る時。カメラでビジネススイッチのオン・オフをしているらしい。教えた訳でもないのに、そんな方法も、何故か瑞樹は時田と似ていた。
 ニコンを手にした瑞樹は、蕾夏と頻りに何かを話し合いながら、先ほどとは別角度から、ストーンヘンジの全景をフレームに収めているようだった。試行錯誤しているように、何度かシャッターを切っている。やがて、もっと寄った状態で撮りたいと思ったのか、2人は観光客に紛れて、ストーンヘンジの見学順路をダッシュで突っ切っていった。
 ここの前に散々ソールズベリの街を撮ってきたのに、撮りたい、という本能はさっぱり疲弊していないらしい。若いなぁ…、と、全然疲れを見せない2人に、時田は感心してしまう。
 以前と同様に、まだまだ暗中模索状態。
 けれど、1つだけ違うこと―――それは、今は2人で一緒に模索しているということ。
 言葉などいらなかった2人が、言葉で今感じていることを確認しあって、何を伝えればいいのか、何を撮ればいいのか、必死に探し求めていること。

 ―――君達は、本能が求めるものを撮る。
 そして、僕は、“憧れ”を撮る。

 時田は、懐かしげな笑みを浮かべると、カメラを構えた。
 ファインダー越しに見つめた先にあるのは、ストーンヘンジでも、どこまでも続く平原でもなく―――被写体を追いかける、瑞樹と蕾夏の姿だった。

***

 「へーえ…今度は何の写真?」
 ダイニングテーブルの上にばら撒かれた写真を覗きこみながら、後片付けの終わった千里が訊ねる。
 「おととい行った、ソールズベリの写真。観光客を呼び込むためのパンフレットに使うつもりで撮ったの」
 記憶を頼りに写真を振り分けている瑞樹の代わりに、蕾夏が答えた。瑞樹の隣では、食後のアイスクリームを楽しみながら、淳也が写真を眺めている。
 「―――じゃあ、これと、これとでは?」
 瑞樹が、ストーンヘンジの写真を2枚手に取り淳也に差し出すと、淳也は真剣な目でその2枚を見比べた。
 1枚は、比較的近くから見上げるようにして撮ったもの。もう1枚は、周囲の平原もかなり入れて撮った遠景の写真だ。淳也は、しばし悩んだ挙句、遠景の1枚を指差した。
 「こっちかな。…写真そのものは、僕はこっちの方が迫力あって好きだけど、ガイドブックとしてはこの方が親切だと思う。どんな遺跡か、全体像がわかるから」
 「…なるほど」
 淳也の言葉に、瑞樹は難しい顔をして、2枚の写真をじっと見つめた。
 「やっぱり“迫力”よりは、“広さ”と“ミステリアスさ”か…」
 「思ったけど、ガイドブックの写真って、いわば“商品見本”だよね」
 淳也が選んだ遠景の写真の方を指で摘み上げ、蕾夏はそう言って写真の裏にペンでチェックマークを入れた。
 「こんなのありますよー、って写真で宣伝して、それ見て実際に訪れた人が、写真と実物見比べて“ああ、なるほど”となる方がいいんじゃないかな、きっと」
 「それはわかる。だから、“感動させる写真”じゃなく“興味を引かせる写真”が必要なんだろ。けどなぁ…」
 他の写真もいろいろ手に取りながら、瑞樹はますます眉を顰める。
 「同じ客引き写真でも、旅行代理店で見た屋久島のパンフレットの写真みたいなのもあるだろ」
 「ああ…あれはド迫力だったよねぇ。あれ見た瞬間に“もう、行くしかない!”って思った位に、凄いインパクトがあった」
 「あれは単なる“商品見本”とは思えねーよなぁ…。表紙だから、ちょっと用途が違うか」
 「うーん…じゃあ、こっちは“表紙”のつもり、こっちは“本文に載せるカット”のつもり、かなぁ」
 蕾夏も、他の写真に手を伸ばして、テーブルの上に並べ替えては試行錯誤を繰り返す。すっかり2人の写真の世界に入っていってしまった2人を見て、千里は苦笑し、淳也の肩を叩いてリビングへと促した。ちょうど、いつも見ているテレビドラマが始まる時間なのだ。

 「真剣なんだねぇ…」
 アイスカップを手にしたまま、リビングのソファに腰を下ろした淳也が、ちょっとダイニングの方を振り返るようにしながら呟いた。
 この2週間、淳也がこんな風に写真の意見を瑞樹に求められるのは、これで3度目だ。それまで一度としてそんな事はなかったので、少々面食らった。が、「第三者の視点を聞かせて欲しい」という瑞樹の説明を聞いて、なんとなく納得し、協力しているのだ。
 「あなたが雑誌の編集やってるのも理由のひとつじゃないかしら」
 自分の分のアイスを手にして座った千里のセリフに、淳也は目を丸くした。
 「雑誌で写真は見慣れてるだろうし、読者の視点にも敏感でしょう?」
 「そんなことまで考えてるのかい、あの子達」
 「2人とも、真剣よ。怖くなる位」
 2週間前の蕾夏を思い出して、千里は複雑な心境を表すような苦笑いを浮かべた。
 自分にできる事が何もなくて辛い、と、子供みたいに泣きじゃくっていた蕾夏―――乾いていた土が水を吸収するみたいに、千里の言葉をするすると吸収して、あっという間に消化してしまった。
 多分、根が真っ直ぐ過ぎるほどに真っ直ぐなのだろう。脆い子なんじゃないか、と千里は思っていたが、とんでもなかった。この子は、強い―――しなやかな、葦のように。
 強いから、誰にも気づかせない。自分が抱える、闇の部分を。
 だから、誰も気づかない―――真っ白で無垢に見える蕾夏が持つ、暗く、危険な部分を。
 「…千里? どうした?」
 「え? …ああ、なんでもないのよ」
 不思議そうな顔をする淳也に、千里は取り繕うように笑顔を見せ、テレビのスイッチを入れた。
 賑やかな音楽に、騒々しいセリフまわしに、千里は、あの日蕾夏の目の中に見てしまったものを、しばし忘れることにした。


 ドラマも終わり、その後のニュース番組も終わったところで、淳也と千里は、そろそろ寝ようか、などと言いながらソファから立ち上がった。
 空になった2人分のアイスカップを手にダイニングに戻った千里は、そこに広がる光景に、一瞬、キョトンとしてしまった。
 疲れてしまったのだろうか。瑞樹も、そして蕾夏も、ダイニングテーブルに突っ伏して眠ってしまっていたのだ。しかも、テーブルの上に投げ出されたお互いの手を、指だけ繋いで。
 交際を始めたばかりのティーンエイジャーでもあるまいし…あまりにも微笑ましい光景に、思わず吹き出してしまう。
 圧倒されるほどに真っ直ぐで真剣で、微笑ましくなる位に子供なのに怖い位大人なところもあって、まるで身を寄せ合って震えている双子の捨て猫みたいに、お互いの温もりなしでは生きられなくて―――…。
 不思議な存在。瑞樹も、蕾夏も。
 「…風邪ひくんじゃないわよ? 2人とも」
 ポン、と2人の肩をそれぞれに軽く叩き、千里はそう声をかけた。返事などないと、わかっていながら。

 過去に何人も見てきた、心に触れられたくない傷を抱えている、子ども達―――彼らを彷彿させるこの2人には、明るい目をしていて欲しい。千里はそう願わずにはいられなかったのだ。


***


 楽屋でのドタバタしたムードを振り払うように、奏は、下手からフロアの中央を見つめて、一度深呼吸をした。
 外は3月。これから春だというのに、奏が着ているスーツは完全に秋の色合いをしている。ファッション業界は、実際の時間の流れとは異なる時間の流れの中にある。半年1年、現実世界とズレているのが当たり前。そんな訳で、奏が着ているこのスーツも、今年の秋冬用の“VITT”のコレクションなのだ。
 フロアに進み出て、真っ直ぐなランウェイに向かうと、一気に頭の中が空っぽになる。考えるのは、いかに上手く歩くかということ。そして―――人間・一宮 奏をいかに消し去るか、ということ。
 ショーを見に来る人間は、当然、奏のことなど見ていない。奏が着ている服を見ている。が、客以外にもクライアントや広告代理店の連中、モデル事務所の関係者、雑誌の取材の人間などなど、奏がどう歩くかを見ている連中が沢山来ているのだ。
 彼らが求めるソウ・イチミヤは、“Frosty Beauty”―――本来の奏の性格とは正反対な、クールで中性的な奴。間違っても、男っぽいターンの仕方などしてはいけない。
 あくまで優雅に、ノーブルなムードを醸しだしながら、奏はランウェイを颯爽と歩いた。ライトが眩しくて、熱い。けれど、その眩しさや熱さを顔には出さない。秋物にしては、このスーツは軽くて着やすいと思う。布地の動きが綺麗に出ているだろうか、と頭の片隅に思いながら、ランウェイの行き止まりで止まった。
 そして。
 見つけてしまった。一般客用の席の一番後ろに、何故ここに居るのか理解不能な2人が居るのを。
 「―――…!!!」
 冷やかな微笑が、一瞬、崩れそうになる。
 入口ドアにもたれて腕組みをしている瑞樹は、その僅かな変化に気づいたのか、奏の心臓がドキンと鳴ったのと同時に、可笑しそうに吹き出した。その隣に立つ蕾夏は、がんばれー、とでも言っているらしく、笑顔で手を振っている。
 ―――あ…あいつら、なんでここにいるんだよ…っ!?
 頭がパニックを起こしそうになったが、次の瞬間、蕾夏の横にカレンの姿を見つけ、なんとなく事態を察した。ポートフォリオを撮ってもらったお礼に、関係者用チケットを譲ったのだろう。それにしても、170センチ近い身長のカレンより、160センチに満たない蕾夏に先に目が行く辺り―――人間の目とは恐ろしいものだ。
 奏は、すぐに表情を元に戻し、あくまでも優雅にターンした。ポケットに入れている手のひらが汗ばんでくるが、それは顔には出さない。スーツのジャケットの裾を軽く靡かせつつ、ランウェイ上を颯爽と戻る。
 ―――カレン…余計な奴らに、余計なもん渡しやがって…。
 蕾夏の隣でニコニコしていたカレンに向かって、奏は心の中で、精一杯毒づいた。

***

 ショーが終わり、出演者全員が楽屋にはけると同時に、奏は服を着替えるのも忘れて外に飛び出そうとした。
 「奏? 売り物着たまんま、どこに行く気?」
 走りだそうとした奏のスーツの襟首を、誰かがはっしと掴んだ。怒気を含んだ声に、嫌な予感がして振り向くと、そこには“VITT”の社長兼デザイナーであるサラ・ヴィットが立っていた。
 女傑、という言葉がそのままピッタリ当てはまる彼女は、現役女性モデル達に囲まれてもなお見劣りがしないスタイルを保っている。さすがは元モデル―――会うたびに、いい女だよなぁと思ってはいたが、こうして比較してみると、45歳という年齢と外見の差には驚かされる。
 「建物からは出ませんから」
 「…ふーん。恋人でも見に来てた?」
 口の端を上げて笑うサラに、背筋がゾクゾクと寒くなる。
 小首を傾げた弾みに、サラの結い上げたブロンドの後れ毛が、パラリと首筋にかかる。なかなかセクシーで、奏好みなタイプかもしれない。もっとも、せめてあと15歳若ければ、の話だが。
 ―――そう、こういうのがオレの好みだった筈なんだけどなぁ…。
 「まあ、いいわ。1歩でもこの建物の外に出たら、専属外すわよ。いいわね」
 「…了解」
 サラの手が外れると同時に、奏は急いで楽屋を飛び出した。
 ところが―――廊下に出た途端、ショーに出ていた女性モデルとぶつかってしまった。
 実を言えば、彼女とは今朝楽屋入りする直前まで一緒にいたりしたのだが、ショーが終わるまでの関係なのは、お互い了承済みの筈だ。なのに彼女は、奏の顔を見るなり、嫣然とした笑みを浮かべて、甘えたような声をかけてきた。
 「あらやだ、奏じゃない。お疲れさまぁ。どこに行くのぉ?」
 「悪い。また後で」
 それ以上は完全無視で、彼女を押しのけて廊下を猛ダッシュした。憤慨したような声が追いかけてきたが、聞こえないふりをする。これで1人、仲間内に敵を作ったかもな…と思いながら。


 観客がゾロゾロと吐き出されるロビーに出ると、奏はキョロキョロとロビー内を見渡した。もう外に出てしまっただろうか―――そう思った時、人ごみの向こう側に、瑞樹の姿を見つけた。
 すぐ傍に蕾夏もいるだろう、と思って近づくと、予想に反して、蕾夏は瑞樹から少し離れた所に、ひとりで立っていた。その代わり、瑞樹の周囲にはカレンの他に奏も知っている女性モデルが2人いて、何やら黄色い声を上げていた。通りすがりにちらっと耳に挟んだ感じでは、つまりは「想像してたよりカッコイイ」と騒いでいるらしい。
 そんな彼女らを、瑞樹は「俺、英語わかんねーし」と嘘八百を言ってやり過ごしているようだ。何だかよくわからないが、カレンも笑顔でいるので、とりあえず彼らは放っておくことにして、奏は蕾夏の方に駆け寄った。
 蕾夏は、会場で手渡されたプログラムを眺めていたが、奏が近づいてくるのに気づくと、顔を上げてふわりと微笑んだ。
 「お疲れさま」
 「…あんた達が来るなんて、全然知らなかった」
 「私達も来ることになるとは思ってなかったよ。急にカレンがオフィスまで来て、とにかく来い、って」
 「あいつ…」
 思わず背後を振り返る。カレンはモデル仲間に、何やら自慢げに話している。その隣でうんざり顔の瑞樹は、もはやカレンもモデル達もどうでもいいらしく、彼女らを無視してこちらを見ていた。
 奏と目が合うと、瑞樹は軽く手を挙げてニッと笑ってみせた。
 ―――なんか、様になってるんだよなぁ、あいつがやると…。
 むっ、とする奏だったが、それを表に出すと余計格好が悪いと思い、同じように手を挙げてみせた。
 「あいつら、何してんの」
 カレン達を親指で指し示すと、蕾夏は困ったような笑みを浮かべた。
 「うん―――なんか、この前瑞樹が協力したカレンのポートフォリオ。あれ使って応募したオーディションで、カレン、1つ仕事が決まったんだって。瑞樹が撮った1枚が決め手になって。で…それを知った友達が、是非自分達も瑞樹に撮って欲しいって言って…まあ、ラッキーボーイみたいなもんかな」
 「へーえ…。で、なんであんたは、こんな離れたとこに?」
 「あの子達の視線が痛いから、逃げてきたの」
 「…ああ、なるほどね」
 今、その痛い視線は全然感じないが、大体想像はつく。うんざりなのは、瑞樹本人もそうだが、蕾夏にとっても同じなのだろう。
 「それより奏君。これって、誰が撮ってるの?」
 あまり好ましい話題ではなかったのか、蕾夏は唐突に話を変え、手にしているプログラムを指し示した。
 “VITT”秋冬コレクションのプログラムは、大半はイラストと文字で構成されているが、一部“VITT”の専属女性モデルの写真が3枚ほど載っている。蕾夏が指し示しているのも、そんな写真の1枚だった。
 「さぁ…オレも知らない。“VITT”の担当カメラマン、結構コロコロ変わるらしいし。社長のサラ・ヴィットって、元々モデルだし、実際全ての服をデザインしてるのって彼女だから、カメラマンの好みがうるさいんだ」
 「ふぅん…。私、てっきり、こういうのも時田さんが撮る契約になってるのかと思った」
 「郁はポスターだけだよ」
 「秋冬のポスターって、いつ撮ることになってるの?」
 「ええと…4月の終わり頃だったかな」
 「そっか。じゃあ、まだ私達こっちにいる頃だね」
 再びパンフレットに目を落とした蕾夏のセリフに、一瞬、胸の辺りが冷たくなった。
 ―――そ…っか、こいつら、5月の後半には、日本に帰るんだっけ…。
 当たり前のことなのに、すっかり忘れていた。あと2ヶ月と少しもすれば、もう手の届かないところへ行ってしまう―――急激に、変な焦りが募ってくる。
 「…あんたさ。この前の春夏コレクションのポスター、どう思った?」
 「んー、綺麗だったよ? でも、今日のステージの方が綺麗だった」
 「へぇ…。秋冬の方が色とかが好みだったかな」
 「え? ああ、違う違う」
 奏が誤解しているらしいとわかり、蕾夏は顔を上げ、苦笑した。
 「奏君自身の話をしてるの。奏君、やっぱり歩き方がプロだよねぇ…。ただ歩くだけなのに、一般人とは全然違うんだもの」
 「…そりゃ…まあ」
 「カレンから聞いた。奏君、本来はショーモデルなんだってね。“Frosty Beauty”も動いてこそ意味があるんだろうな、って思った」
 ―――それって、静止画像じゃ意味がない、ってことなんじゃないのかよ。
 褒められたのかけなされたのか、微妙な気分になる。
 「私は、日頃の奏君の方が、絵になると思うけどなぁ」
 「…えっ」
 「冷たい位に綺麗な顔なのに、まるで子供みたいな表情するでしょ、普段の奏君って。寂しがりやで甘えん坊なのが前面に出てて、やんちゃな男の子って感じ。…瑞樹も、そういう奏君なら撮りたかったって言ってた。私もそう思うなぁ…」
 「……」

 ―――なんで…こんなこと位で…。
 今感じたものから逃れるように、奏は咄嗟に、不貞腐れたような顔をしてそっぽを向いた。蕾夏はそれを、奏が照れてしまったのだと感じたかもしれないが、それでも構わなかった。

 …苦しくなる。
 どうしようもなく、苦しくなる。胸が痛くて、苛立ちがどんどん募っていって―――このまま放置したら、いずれ暴発してしまうんじゃないか、という位に、苦しくなる。
 何故、蕾夏なのだろう。
 しかも、何故、蕾夏の恋人が瑞樹なのだろう。
 何故2人揃って、こうも自分を掻き乱すのだろう―――自分は別に“人形”で構わないと思っていたのに。

 たまらない気分が、喉の辺りまでせり上がりそうになった頃、ふいに、背後から近づいてきたものに、ポン、と肩を叩かれた。
 「うわっ!」
 「…何だよ、その驚き方は」
 過剰反応して、今にも跳び上がりそうな声を出してしまった。慌てて振り向くと、そこに、呆れたような顔をした瑞樹が立っていた。
 「い…いや、別に、なんでもない」
 取り繕うように、ぶっきらぼうな口調でそう答えると、瑞樹は、変なヤツ、という顔をして眉をひそめた。
 「あの子達、どうなったの?」
 プログラムをパタン、と閉じた蕾夏が訊ねると、瑞樹の表情が一気にげんなりしたものに変わった。
 「…お前、途中でいなくなるなよ。カレンはさっぱりフォロー入れねーし、甲高い声の二重奏で頭割れそうになるし…」
 「だって、あの子達、私が瑞樹の隣にいると、すんごい嫌味な目つきでジロジロ見てくるんだもの。瑞樹ってあの手の女の子にすぐ興味持たれるから困っちゃうよ」
 「んなこと、俺が知るかよ」
 「―――で? どうなったの?」
 「…1枚ずつで手を打った。でないと、この先どこまでもついて来そうで、面倒だったから」
 「そっか。ポートレートのいい練習になるね。良かった」
 にっこり、と笑ってそういう蕾夏の額を、瑞樹は面白くなさそうな顔をして指で弾いた。くすくす笑う蕾夏の表情が、奏や他の人間に見せる笑顔よりずっと無邪気な気がして、奏はまた、たまらない気分に侵食されそうになった。
 「奏、お疲れっ」
 ちょうどその時、モデル仲間を見送ってきたカレンが、そう言って奏の背中をトン、と押した。振り向いた奏は、少しカレンを睨むようにして、今感じた暗いものを誤魔化した。
 「お前さぁ…一言位言っとけよなぁ。ポージングの時、一瞬フリーズしそうになっただろ」
 「ここ1週間、あたしを放っといて遊び歩いた仕返しよ」
 瑞樹と蕾夏には聞こえない位、小さな声でそうぴしゃりと言い放つカレンに、奏はますますムッとした顔になる。
 「人がショーのためにヨーロッパ中飛びまわってるの知ってて…」
 「ああら、そう。ごめんね。あたし今日はちょっと機嫌悪いのよ」
 本気で機嫌の悪いカレンの声。その拗ねたような顔が、イギリスに来たばかりの16歳当時の顔そっくりなのを見て、奏はカレンの不機嫌の原因を察した。
 その予想通り、カレンはチラリと奏の顔を見上げると、心細そうな声で告げた。
 「―――この後、累君も呼んで、4人で夕飯食べに行くことになってるの。累君、蕾夏さんに用事があるみたい―――奏、一緒に来るでしょ?」

***

 「うん、だからさ、ここの部分がもう少し具体的だと伝わり易いんだよね。比喩じゃなく、もっとストレートな表現に置き換えてさ…」
 「うんうん」
 パブの一角の、向かい合った席で、それこそ額がくっつきそうな位に身を乗り出して話し合う累と蕾夏を眺めて、カレンの表情はどんどん沈んでいった。
 蕾夏の隣には瑞樹、累の隣には奏、そのまた隣にカレン、という状態で、軽めの夕食をとってはいるものの、累のミートパイと蕾夏のハンバーガーズ&マッシュは、まだほとんど減っていない。瑞樹が注文時に蕾夏に「パスタは頼むな」と釘を刺していた意味が、よくわかった。
 「いつもこんななのかよ」
 パスタをほぼ全部平らげつつ奏が訊ねると、なかなか減らない蕾夏の皿からマッシュポテトをつまみ食いしていた瑞樹は、軽く肩を竦めた。
 「何かに熱中する時は、俺も蕾夏もこんなだからな」
 「…累もそのタイプだよな、昔から」
 本を読み始めると、食事の時間も忘れ、日が暮れて字が読みにくくなっていることにも気づかずにひたすら読んでいた累を思い出し、奏は改めて、呆れたように傍らの双子の弟を眺めた。
 「―――累君、随分熱心に、蕾夏さんが書いたもの見てあげてるみたいだけど…蕾夏さんて、小説家かプロのライターにでもなる気なのかしら」
 ずっと沈んでいたカレンが、やっと口を開く。が、瑞樹は、その言葉に眉根を寄せた。
 「別に、そういう訳じゃねぇと思うけど」
 「じゃ、何でせっせと累君に文章見てもらってるの?」
 「趣味だろ」
 「趣味?」
 「こいつ、俺の写真使って“写真集”作るのが趣味だから」
 「???」
 「ありがと〜、助かっちゃった」
 瑞樹の言う意味がよくわからず、奏とカレンがキョトンとしていたら、話が終わったらしい蕾夏がホッとしたような表情でそう言った。
 「どういたしまして。その代わり、藤井さん、また小説の方のアドバイス頼むね」
 累が笑顔でそう言うと、何故か、蕾夏だけじゃなく瑞樹までもが顔を引きつらせた。
 「…累、お前、まだあれ書いてんのかよ」
 「ん? 書いてるよ? あの雑誌の投稿締め切り、毎月15日だから、今のペースでいくと5月か6月には出せるかな」
 「…私達が日本に帰っちゃってからの投稿になるんだ…」
 「あ、そうだね。もし何かの間違いで入賞して雑誌に掲載されたら、成田さんと藤井さんにはちゃんと送るから、楽しみにしててよ」
 「―――…」
 にこにこ笑いながら言う累とは対照的に、何故か瑞樹と蕾夏は、沈んだ表情でそれぞれの飲み物を口に運んだ。なんだかよくわからないが、どうやら累が書いている小説は、2人にとっては歓迎できないシロモノらしい。
 「―――あ。ジュースなくなっちゃった。頼んでくるね」
 「…俺も行く」
 ちょうど瑞樹も、飲んでいたギネスがなくなったらしい。蕾夏に続いて、瑞樹も席を立った。
 2人が席を離れると、これ幸いと、カレンが奏の肩越しに累に声をかけた。
 「ねぇ。さっき累君が見てあげてたのって、何なの?」
 「ああ、あれ? 藤井さんが書いた、ロンドン滞在記。雑誌でもたまに見かけるよね、海外での暮らしをリポートするような記事。そんなやつだよ」
 「彼女、なんでそんなもの書いてるの?」
 「んー、趣味、かなぁ? 成田さんの写真に文章をつけて、そういう滞在記を作りたいみたいだよ」
 「…趣味で、そんなのやってるの。変なの…」
 つまらなそうにそう言うと、カレンはそっぽを向いて、食べかけのパスタをまた口に運び始めた。

 ―――オレも相当バカだけど、カレンも相変わらず、バカだよな…。
 不愉快そうに、けれど、それ以上に寂しそうに顔を背けるカレンを横目で見て、奏は妙な同情心を覚えた。
 累の好みは知り尽くしているから、カレンでは無理だろうということは、奏にだってわかっていた。でも、結果をはっきりさせずにいたら、次のステップにも進めない。とっととアタックすりゃいいのに、馬鹿な奴、と常日頃思ってきたが―――。
 まさか、自分が同じ立場になるとは、想像していなかった。
 可能性ゼロの相手を、欲しがってしまう。…なんて馬鹿なんだろう。自分も、カレンも。

 「…奏」
 なんとなくカレンの横顔を見ていたら、累がトントン、と奏の肘のあたりをつついた。
 「ん?」
 「これ、ちょっと見てくれないかな」
 小声でそう言う累の手には、紺色の表紙のアルバムがあった。
 「何、これ」
 「藤井さんが作った、成田さんの“写真集”。昨日一晩、ちょっと借りてたんだ」
 “写真集”。
 さっきの瑞樹の言葉を思い出し、奏はちょっと表情を変え、累からアルバムを受け取った。
 「成田さんの写真に、藤井さんが短文をつけてるんだ。なんか、日本にいた頃から、こうやって“写真集”作るのが趣味だったらしいよ」
 「ふぅん…」
 表紙を開くと、そこには、極端に低い視点から撮った、芝生地帯を真っ直ぐに貫く小道の写真が貼られていた。そして写真の下に、手書きの極々短い文章が貼られている。
 「…どう思う?」
 累の問いかけを無視して、奏は、無言のままページをめくった。
 ちょっと長めの紀行文のようなもの、1ページ目同様のキャッチコピーのような短文、詩のような韻を踏んだもの―――バラエティ豊かな文章が、瑞樹が撮ったどこか荒削りでインパクトの強い写真1つ1つに添えられていた。
 それを順々に見ていくうちに、奏は、背筋にゾクゾクとしたものを感じ始めた。

 どう、表現すればいいだろう。
 奏は、累とは違い、文章の世界には疎い。昔から、累は文学系に強くて写真や美術には弱く、奏はビジュアルな世界に強くて文字の世界に弱かった。だから、蕾夏の文章の良し悪しはわからない。おそらく累に、瑞樹の写真の良し悪しがわからないのと同様に。
 ただ―――この写真と文章は、一対だ、と思った。
 写真と文章、両方で、ワンセット。片方だけでは曖昧だったものが、もう一方を添えることでくっきりとクリアになる。
 面白い―――こういう、不思議な一体感を持つ写真と文章は、初めてかもしれない。感心する一方で、また胸がキリリと痛くなる。
 こんなところでも、この2人はシンクロしているのか、と。
 恋愛関係を抜きにしたとしても…瑞樹と蕾夏の繋がりが解けることは、ない。奏が入り込む隙間など、どこにも見当たらない―――…。

 「…わかるよね、奏なら。昔から僕ら、同じ絵本が気に入って、よく取り合いしてたから」
 累の言葉に、奏はやっと目を上げた。
 累の目は、いつもの優しげな目つきとは違い、野心を感じさせるほどに意欲的だった。その目に背中を押されるようにして、奏は僅かに頷いてみせた。
 「藤井さんが僕に文章指南を願い出てるのは、僕が郁の写真集に添えてる文章を、彼女が気に入ってるからなんだ。あんな風に、成田さんの写真に文章が添えられたらなぁ、って言って―――でも、それは全部、彼女の“趣味”に過ぎないんだ」
 「……」
 「僕は、“趣味”で終わらせたくない」
 小さな声ではあるが、決意を表すように、累の言葉はきっぱりとしていた。
 「彼女、元々文章には苦手意識があるらしくて、成田さんの写真に言葉を添える以外では、全然文章書かないんだ。でも―――本人は気づいてないだろうけど、彼女には、独特の言語センスがあると思うんだ。成田さんの写真限定の“まぐれ”な筈がない。持って生まれた言葉のセンスがあるからこそ、こういう面白いものが作れるんだよ」
 「…あいつの…成田の写真が、文章抜きでもどこか光ってる部分があるのと同じように…ってことか?」
 「うん、多分。だから―――郁が、成田さんの写真を“素人の趣味”で終わらせたくない、って思ったのと同じように、僕も、藤井さんが紡ぐ言葉を、“趣味”で終わらせたくないんだ」
 「……」
 「幸い、本人も、書くのは楽しいって言ってるしね。何ができるか、まだ全然わからないけど…でも、郁が成田さんに道を示すための道しるべになってるみたいに、僕は藤井さんに道を示してやりたいんだ。まだ、本人も気づいてない道を」

 こんなに生き生きしている累を見るのは、初めてかもしれない。
 子供の頃から、奏の陰に隠れているような、臆病な弟だった。物静かで、どこか浮世離れしていて、人と積極的に関わるのが苦手で―――奏みたいにアグレッシブに生きられたらいいのに、が口癖な奴だった。
 その累が、こんな風に積極的に、赤の他人のために動くなんて…よほど、惚れこんだのだろう。まだ秘められたままの、その才能に。ちょうど、これまでアシスタントを置かなかった時田が、たった1枚の写真で瑞樹の才能に惚れこんでしまったのと同じように。
 「…そ、か。それで、そんなに熱心に見てやってんのか」
 微かに笑みを浮かべて奏が言うと、累は、ちょっと嬉しそうに笑った。
 不貞腐れているカレンの視線が、一瞬、こちらを向いたのを感じたが、カレンにこの話を説明する気にはなれなかった。
 男女の間のそれとは、ちょっと質は異なるけれど―――才能に惚れこむ、というのも、恋の一種と言えなくもない。累が関心を持っているのは、女性としての蕾夏ではない、蕾夏が秘めている才能だよ、と説明することなど、カレンにとっては無意味だろう。
 ―――オレとカレンの間に恋愛感情があれば、全て丸く収まったんだろうけどな…。
 神様は、そういう安易な道は用意してくれなかったようだ―――再びパスタをフォークに巻きつけながら、奏は自嘲気味な笑みを浮かべた。

***

 「…何、考えてるの?」
 カレンに問われ、奏は、地面に向けていた目を、やっとカレンに向けた。
 店の前で瑞樹や蕾夏と別れ、地下鉄の駅で累と別れ、今は、カレンと2人きりで、夜のロンドンをぼんやり歩いている。
 「…オレとお前って、なんで一緒にいるんだろう、って考えてた」
 思っていたことをそのまま言ったら、カレンは、疲れたような笑いを浮かべ、落ちていた石を自棄気味に蹴飛ばした。
 「あっは…、あたしも同じこと考えてた」
 「ほんとかよ」
 「ほんとよ。恋愛感情なんてないのに―――他に、抱きしめたい、抱きしめて欲しい相手が、ちゃんといるのに…なんであたし達、一緒にいるんだろ? 恋人でもないのに、なんで平気でキスしたりセックスしたりできるんだろう…」
 「へーえ。カレンらしくない発言だよな」
 「そう?」
 「お前だって、オレと同じこと言ってたくせに。恋愛とそーゆーのは別物だって。楽しめればそれでいい、って」
 「そう思ってたわよ。でも、見解が変わったの。…あんたのせいでね」
 思わず奏は足を止め、カレンの顔を凝視した。
 それに合わせて足を止めたカレンは、意味がわからないという顔をする奏を見て、皮肉っぽく笑った。
 「気づいてないの? …奏、最近、あたし抱いてる最中も、どっか上の空よ。楽しんでなんかいない―――全然」
 「……」
 「奏が、女弄んで楽しんでる風じゃなくなっちゃったら、気がついちゃった。あたしも全然、楽しくないって」
 ―――楽しくない。
 そんなこと、もうとっくに気づいてた。
 カレンだけじゃない。他の女友達の誰とも、楽しめない。相手だけが一方的に楽しんで、奏の心はただ冷えていくばかり―――だから今日廊下でやったみたいに、今朝までベッドを共にしていた女をぞんざいに扱っても、心も痛まない。
 「…じゃあカレンは、なんでオレと一緒にいるんだよ」
 「奏はなんであたしと一緒にいるの?」
 「そんなもん、わかんねーよ」
 「…じゃあ、多分、あたしと同じね」
 クスッと笑ったと思うと、カレンはふいに奏の首に腕を回し、きつく抱きついた。
 よく考えたら、部屋の外でこういう真似をするのは、初めてかもしれない。こういう真似は、愛し合っている恋人同士がするもの―――そんな気が、なんとなくしていたから。
 「あたしも、奏も、寂しいから一緒にいるのよ」
 「…寂しいから?」
 「うん。…欲しい物が手に入らなくて、こうして抱き合いたい人と抱き合えなくて、寂しいから―――でも、あたし達は、他の寂しい人達みたいに、その寂しさにじっと耐えるなんてできない。人肌の温かさを知ってるから、それに逃げちゃうのよ。前からあたしは、そうだったんだと思う。あたしは、寂しくて―――累君とこうしたくて、でもそんな事したら“友達”の累君まで失っちゃうからできなくて…誰かに、温めて欲しかったの。…奏も、そうなんじゃない?」
 フワフワするカレンの髪を頬に感じながら、奏は、何かに耐えるように、唇を噛んだ。
 「ああ―――そうかも、しれないな…」

 こうして抱きしめたい存在は、他にいる。
 けれど…彼女を抱きしめる奴は、もう他にいる。決して自分ではない。
 カレンと一緒にいる理由。それは、お互い、手に入らないものを求めている寂しさを紛らすために、誰かの肌の温もりを求めているからだ。

 ちょっと体を離すと、カレンは、彼女らしくない儚いキスを、奏の唇にした。
 「…これは、累君にできない分のキス」
 「これが? …随分、カレンぽくない、清楚なキスだなぁ…」
 「うーるーさーい。あたし、累君が初恋なんだもの。―――奏も、いいよ。あの人にする代わりに、あたしにキスしても」
 「―――…」
 奏の中で、何かのスイッチが入った気がした。
 奏は、カレンの髪を掴んで上を向かせると、強引に唇を重ねた。今も心臓の鼓動と同時に、絶えることなく血を吹き出している見えない傷を、なんとか癒そうとするように。


 今までに何度だってしてきた、ありきたりなキス。
 2人以外、誰も知らない―――それが、今までとは違う意味を持つ、キスだということを。


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