←BACKStep Beat × Risky TOPNEXT→




more and more and more ―

 

 受話器を置いた瑞樹は、まだ受話器に置いたままの手に額を押し当てて、深い深いため息をついた。
 頭の奥が痺れているような感じがする。
 今の精神状態を一言で説明するなら、おそらく「パニック状態」が一番近いだろう。にしても、こんなに静かで冷たいパニックがこの世にあるとは、想像したこともなかった。この状態で、蕾夏も一緒に千里や淳也と和やかに食卓を囲むなんて到底不可能―――時田の誘いは、まさに渡りに船だった。
 パブの店内に設置された電話ボックスから出ると、瑞樹は、先に席に着いている筈の時田を探した。広い店内を見回していたら、一番奥の席で、時田が手を挙げていた。
 「何でもいいって言うからギネスにしたけど、良かったかな」
 歩み寄る瑞樹に、時田はそう言って、テーブルの上のビールカップを目で指し示した。本来、ビールはあまり好きではないが、アイリッシュ・ビールは悪くない。瑞樹は、少しだけ口元に笑みを浮かべることで、了承の意を示した。
 「考えてみたら初めてだな。成田君と2人で飲むのは」
 「…そう言えば」
 「いつも藤井さんがいたからなぁ…」
 蕾夏の名前が出るだけで、静かで冷たいパニックが、その勢力を増してきそうになる。瑞樹は、相槌を打つことも放棄して、ギネスの入った陶器のカップを口に運んだ。
 時田が急に「飲みに行こう」なんて言い出した理由は、勿論わかっている。
 今日1日、我ながら、おかしかった。時田の指示が耳に入っているようで入っていない、露出計を読み間違える、三脚を倒しそうになる―――特に、蕾夏を帰してからは、おかしさに拍車がかかった。何をしたか全然覚えていない。間違いなく、ホビー雑誌の編集者とアートディレクター、それに主役であるジオラマの製作者を見送った筈だが、瑞樹の中では「気がついたら誰もいなくなってた」という状態だ。
 「…何があったか知らないけど…かなり、きてるねぇ…」
 同じくギネスを口に運びながら、時田がちょっと心配そうな視線を向けてくる。
 「もっとも、きてるのは、藤井さんも同じみたいだけど」
 「……」
 「喧嘩でもした?」
 時田の問いかけに、瑞樹は僅かに眉を顰めると、苛立ちを抑えこむように前髪を掻き上げた手で、ズキズキしそうな額を押さえた。
 「―――自滅したかも」
 「え?」
 「…蕾夏に、馬鹿な真似したから」
 必要最低限な瑞樹のセリフでは、なかなか推測が難しい。時田は、いろいろ考えを巡らせながら、瑞樹のばつの悪そうな顔をしばし凝視した。やがて、なんとなく事態を察することができると、時田は可笑しそうに笑った。
 「ハハハ…、なるほどねぇ、それで2人とも変だった訳だ」
 「…笑いすぎ…」
 「ああ、ごめんごめん。…でも、成田君が“自滅”したとは全然思えないよ。藤井さん、君が休めって言っても撮影に来たじゃないか。ああ見えて結構白黒はっきりした性格だから、君に愛想尽かしたんなら、今頃日本に帰ってるよ」
 深刻になり過ぎだ、と笑う時田を、瑞樹は思わず睨みつけてしまった。昨日自分がしたことを考えたら、そんな風に能天気ではいられないのだから。

 初めて本気で逃れようとしていた蕾夏を、無理矢理組み伏せた。
 最大限優しく接してもなお、一瞬体を強張らせてしまうような蕾夏なのに―――優しくどころか、指一本動かせなくなるほどの無茶をしてしまった。同意した上でも、あれではやり過ぎだろう。昨日のは同意とは到底言えないだけに、余計、罪は重い。
 普通の女性でも、酷いことをした、と罪悪感を覚えるだろう。けれど…蕾夏に対しては、ただそれだけでは済まない。

 もしも蕾夏が、昨日のことに、過去に受けた暴力をだぶらせてしまったのだとしたら。
 やっと忘れかけたあの恐怖を、再び甦らせてしまったのだとしたら―――それが、一番、怖い。

 「あー…、自分で自分に腹が立つ…」
 大きなため息とともに、思わずそんな言葉を吐き出す。時田は、しょうがないなあ、という顔で、そんな瑞樹を眺めていた。
 「僕にはむしろ、君は君自身の罪悪感で“自滅”しかかってるように見えるよ。君が“悪かった”と思うほど、藤井さんが傷ついたり苦しんでる様子はないけどなぁ」
 「…なんでわかるんですか」
 「藤井さんが君を見る目を見れば、そんなのすぐわかるさ」
 ニッ、と笑った時田は、またギネスのカップに手を伸ばした。
 「どうも藤井さんの事となると、極端な位に慎重で臆病だよなぁ、成田君は。どう見たって、彼女の目は君しか見てないし、それは多少の事ではびくともしない位に強固だと思うよ。それは君もわかってるだろうに」
 「―――そんなの、わからないですよ。俺、あいつの考えてること、わかってるようでわかってなかったし」
 そう。元々、それがきっかけだったのだ、昨日は。
 必要とされていないなんて―――蕾夏があんな風に思っているなんて、考えてもみなかった。同じ時田の言葉を聞いていながら、何故自分と蕾夏ではこうも捉え方が違うのか―――いや、違って当然なのかもしれない。立場も違えば性別も違う2人が、何もかも同じように考えると思う方が間違っている。
 全然、わかっていなかった―――そして、全然、わかってもらえていなかった。
 「ふーん…珍しく、意思の疎通ができなかった訳だ。なかなか興味深い話だ。聞かせてくれるかな」
 「興味本位の人間に話すような内容じゃないですよ」
 むっとする瑞樹に、時田は苦笑した。
 「興味と言っても、野次馬根性で訊いてる訳じゃないよ。本当に君が自滅の道を歩んでるんなら、僕にとっても他人事じゃない―――多分、人生最初で最後の“教え子”が、道を踏み外すのを黙って見てられないからね」
 ―――だったら、なんでそんな楽しげな顔してんだよ。
 ますますむっとして、誰が話すか、という気分になる瑞樹だったが、ふと、全ての事の発端に考えが及んだ時、気が変わった。
 「…大体、時田さんのアドバイスから始まってるんだよな」
 ぽつり、と呟くように瑞樹が口にしたセリフに、時田の目が大きく見開かれた。

***

 「…うーん…そうきたか…」
 新しいギネスをテーブルに置き、時田は難しい顔をして席についた。

 結局、瑞樹が事の次第を説明するには、ギネスビール3杯分の時間が必要だった。
 考えていることを第三者に理路整然と説明するのは、生来無口な瑞樹にとっては、かなり難しいことなのだ。蕾夏と軽口を叩きあっているのとは全然意味が違う。しかも相手は、師と仰いでいる人物なのだから、どうしても言葉を選んでしまう。
 それに、イギリスのパブは、セルフサービスだから、手元のカップが空になる度にカウンターへ注文しに行かなくてはならない。時田が席を立ち、暫くすると瑞樹が席を立ち―――気づけば、大した長さではない話に2時間近くかかっていた。

 「つまり―――藤井さんは、君が“撮りたい”と思う写真には自分は必要かもしれないが、君が“撮らなくてはいけない”写真には、むしろ邪魔だと思った訳だ」
 眉根を寄せてビールカップを口に運ぶ時田に、瑞樹は疲れたように頷いた。
 「…まさか、そんな風に思ってるとは、一度も疑った事もなくて―――俺、あいつの何見てたんだろう、って、その部分でも自分に腹が立つ」
 「彼女、変わったとこってなかった? 大晦日を境に、何か変わった部分があった筈だけど」
 ―――それは、あった。特に、写真を撮りに行く時に。
 同じ被写体を追いかける時、蕾夏はどんどん、自分を抑えるようになっていった。一歩足を引いて、今感じているものを中途半端に飲み込んでいた。瑞樹はそれが、どうしようもなくもどかしくて仕方なかったのだ。
 「…時田さんも、気づいてましたよね」
 「―――うん、気づいてたよ」
 くすっと笑うと、時田はくつろぐように脚を組み、背もたれに深くもたれかかった。
 「ずっと見てたからね―――君達が仕事で撮りに行く先では、いつも。最初にロンドン市内を案内して回った時とは違って、藤井さんはだんだん自分を表現しなくなったし、君は片翼をもがれたみたいに、感情の行き場を失って困り果ててた。僕はそれを、“感じるものを1つに集約する”って課題に2人して悩んでるせいだと思い込んでだけど…どうやら、藤井さんだけ、全然違う方向に考えが流れちゃってたみたいだなぁ…」
 「時田さんは、どう思ってるんですか」
 「何が?」
 「俺が“感じるものを1つに集約”させるには、蕾夏は邪魔だ、って考えてますか」
 そもそも時田が、あんな抽象的な課題だけを出してヒントを何も与えなかったことが、蕾夏を追い詰めた部分もあるのではないだろうか。ちょっと睨むようにして時田に訊ねると、時田はニヤリと笑って見せた。
 「君は、どう思う?」
 「…質問に質問で答えるのは卑怯でしょう」
 「言っただろう? 僕は甘やかさないんだよ。君のことは君自身に答えを出してもらう―――こちらの種明かしは、その後だ」
 ―――ったく、食えねぇ奴。
 心の中で毒づきながらも、瑞樹は小さく息を吐き出すと、少し眉をひそめるようにして考えを口にし始めた。
 「―――俺は、蕾夏なしで撮ることなんて、まだ考えられない。仕事とかプライベートとか、そんな区別関係なしに…蕾夏が一緒でないと、俺、十分に感動できないから」
 「彼女がいると、感動が増えるって事かな」
 「そう―――いや、違う。増えるって言うから、蕾夏が誤解したのかもしれない」
 言葉は難しい。瑞樹は前髪を掻き上げ、更に眉を寄せた。
 「…俺は、何かを感じても、心の反応が鈍くて―――ああ、綺麗だな、と思うものがあっても、それをリアルに感じられない。シャッターを切るだけのものを感じ取る力が、まだ足りない。でも、蕾夏がいると、俺が微かに感じてたものを、もっとはっきり感じられるようになる。あいつがいると、おぼろげだったものが、一気にリアルになる―――…」
 「―――なるほどね」
 瑞樹の説明に何度か頷き、時田は考えをまとめようとするように、テーブルの上で指をトントン、と動かした。
 「つまり、だ。ラジオに喩えるならば―――藤井さんは、自分が一緒にいると“チャンネルが増えてしまう”と勘違いしてるけど―――君からすれば、君と藤井さんのチャンネルはいつも同じところに合っていて…いわば“ボリュームが上がる”、と感じてる訳だ」
 その喩えは、しっくりと瑞樹の感じているものに当てはまった。瑞樹は、テーブルの上に落とし気味だった視線を上げ、時田の目を見て軽く頷いた。
 「時田さんのアドバイスは、わかってるつもりだけど―――感じるもののどれか1つを選ぶにしても、俺1人じゃ、感じてるもの1つ1つが曖昧すぎて、到底選ぶなんてできない。…だから、時田さんの課題をクリアするためにも、蕾夏は必要だと思う」
 「―――うん。君は、ちゃんと見えてるね」
 満足そうな時田の笑みに、瑞樹は、自分が出していた答えが時田の狙いに適ったものだったことを悟った。無意識のうちに肩に入ってしまっていた力が、すっと抜ける。
 「そりゃあ君も、プロになるからには、いつまでも藤井さんに依存してるのはまずいと思う。でも―――まだ、その時期じゃない。テーマをしっかり意識した写真を撮れるようになるまでは、藤井さんの存在は絶対不可欠だよ。君は、ちゃんと見えてる。僕の出した課題をきちんと理解できてる。…じゃあ何故、藤井さんは間違ったんだと思う?」
 「…え?」
 思ってもみなかった質問に、瑞樹は、ちょっと目を丸くした。
 ―――何故、蕾夏が間違ったか―――…?
 咄嗟に、何も出てこない。困惑した表情で時田の顔を見返していると、時田はふっと笑った。
 「簡単なことだよ。君は、ちゃんとわかってる―――なのにそれを、藤井さんに伝えなかったからだよ」
 「―――…」
 「そして、君もまた、彼女が間違った方向に悩んでいることに気づけなかった。何故か? ―――彼女がそれを口にしなかったから。…君達に足りないのは、“言葉”だ」

 ―――“言葉”が、足りない…?

 「君達の関係に“言葉”は不要かもしれない―――けれど、時には口に出して相手にぶつけなくてはわかってもらえない事もある。君達はそれをおろそかにしがちなんだよ。…相手に自分の悩みを押し付けたくない、っていう気持ちはわかる。君も、そう思ったから藤井さんに何も相談しなかったんだろう。でもね―――彼女は、きっと、寂しかったんだろうと思う」
 「…寂しい?」
 「目に見える部分で、自分が必要とされているって実感が欲しかったんだろう。君が何を考え、何を悩んでいるのか、それをぶつけてもらいたかったんだと思う」
 「でも…それじゃあ、蕾夏に負担をかけてばかりで…」
 「彼女にとっては、負担じゃないかもしれないよ?」
 時田は、そう言って、軽く首を傾けた。
 「君が彼女に“すまない”と思ってることを、彼女が本当に負担と感じてるかどうか―――それは、定かじゃない。ここでも、“言葉”が足りないね。彼女の本当の望みが何なのか、ちゃんと“言葉”で受け取らないと」

 “言葉”で、想いを、望みを、受け取る。
 …そういえば。
 一番大切な言葉―――「好き」のたった一言も、最後の最後まで“言葉”にはしなかった。

 何が今、一番必要なのか―――瑞樹はやっと、はっきりと認識できた。

***

 パブを出たのは、日付けも変わろうかという時間になってからだった。
 「すみません―――おごってもらった上に、話まで聞いてもらう羽目になって」
 さすがに頭を下げざるを得ない。珍しくしおらしい態度をとる瑞樹に、時田はいつもの楽しげな笑い方をした。
 「なんか、気持ち悪いよなぁ…。成田君がそうやって頭下げてると」
 「―――二度とないから、堪能しといて下さい」
 「あははは、ごめんごめん、冗談だよ」
 ポン、と瑞樹の肩を叩いた時田は、ふと思い出したように、ジャケットの内ポケットに手を突っ込んだ。
 「そうそう―――いい機会だから、これ、渡しておくよ」
 「?」
 時田が差し出したのは、1枚の写真だった。
 訝しげに眉をひそめ、その写真を受け取った瑞樹は、一目見るなり写真を落としそうになった。
 その写真は、瑞樹と蕾夏の写真だった。
 多分、周りの雰囲気から言って、ミレニアム・カウントダウンの時の写真だろう。蕾夏が何かを指差し、瑞樹はそちらへ向けてカメラを構えようとしている―――横顔の、スナップ・ショット。
 「は!? こんなの、いつ―――…!」
 「ん? 時々撮ってるよ。課題を1つクリアしたら、お祝いにあげようと思ってたからね。そんな訳で、今日プレゼント」
 「…悪趣味…」
 「そんなことないよ。これも、僕が君達をイギリスに呼んだ目的の1つだからね」
 何だそれは、と瑞樹が目を上げると、時田は、どこか昔を懐かしむような目で瑞樹を見ていた。
 穏やかな―――けれど、どこか悲しそうなその目は、見覚えがある目だった。瑞樹のことを“両刃の剣”だと言った時―――自分もそれで自滅した、と語った時。時田はあの時も、この目をしていた。
 「言っただろう? 僕はスランプを覚えていた、と。君に“プロの視点”を教える見返りに、失った“本能”を君から学ばせてもらうよ、と。…君達2人を撮るのは、その一環だ」
 「…どういう…意味ですか」
 「僕はもう、本能では撮れない」
 きっぱりと言い放った言葉に、一瞬、背筋が凍りつきそうになった。
 「自滅してからずっと―――君のようには、もう撮れなくなった。仕事を離れても、もう本能では撮れない。本当に撮りたいと思うものが、もう僕にはないんだよ」

 さばさばした口調で語られることを、瑞樹は到底、信じられなかった。
 瑞樹は、時田の写真が、初期の頃の作品からずっと好きだった。おおらかで、のびのびしていて―――どことなく、懐古的で。一方では雑誌の撮影などの「商売」としての写真を撮りながら、こんな魂を揺さぶるような写真を撮れるなんて…、と、彼が内包している芸術性に感銘を受けていたのだ。
 プロとして活動すれば、勿論、自分の才能を「売る」のだから、次第に本能だけで撮る訳にはいかなくなるのは、わかる。瑞樹も今それを教えられているのだし、ある程度計算が必要なのも、仕方のないことだと割り切れる…いや、まだ割り切れていないが、そうしようと思っている。
 けれど―――本能で、撮れない? 仕事を離れても? それに―――…。

 「…撮りたいものがないのに…時田さんは、どうやって撮ってるんですか」
 やっとの思いで瑞樹が訊ねると、時田はふっと笑い、謎の言葉を口にした。
 「僕はいつも、“憧れ”を撮ってるんだ」
 ―――“憧れ”?
 「失ってしまった物達に対する“憧れ”―――かつての自分なら、こんな風景を見たらきっと涙を流しただろうな、とか、今ここに昔の自分がいたら、この人達と一緒に感動に打ち震えるんだろうな、とか…そんな想いで、シャッターを切っている。だから僕の写真は、どれもこれもみんな、記録フィルムの1コマを切り出したみたいな、セピア色したムードがあるんだと思う。ありがたいことに、それが支持されて、こうして一人前にやってけてるけどね」
 「…“今”の時田さんが感動する瞬間は?」
 「ほとんど、ない。そういう感情も、あの時、全部失ってしまったのかもしれないね」
 「―――それは…ずっと守りたかったものが、守れなかったから、ですか」
 昨日聞いた話が思い起こされ、瑞樹は思わずそう口にした。
 すると時田は、瑞樹が全て悟ったと感じたのか、薄く微笑んで、また肩をポン、と叩いた。
 「…おやすみ。早く藤井さんと仲直りするんだよ」
 「……」
 結局時田は、瑞樹の質問には答えず、ジャケットのポケットに両手を突っ込んで、瑞樹が向かうのとは反対方向へと歩き去ってしまった。


 一生、守り通したかった存在を失って、時田は、何も感じられなくなってしまった。
 もしも自分が蕾夏を失ったら―――きっと、同じようになるのではないだろうか。瑞樹には、そう思えた。

 蕾夏を失った、未来の自分―――それは、未来の話でありながら、母に感情の息の根を止められた、かつての自分を彷彿とさせた。

***

 地下鉄を降りた瑞樹は、いつもより早足で、家までの道のりを急いでいた。

 早く、話がしたかった。
 昨日、聞いてやれなかった蕾夏の“言葉”を、早く聞いてやりたい。
 でも、それ以上に―――“言葉”にすべきだったことを、早く“言葉”にして、蕾夏に渡したい。
 ちゃんと、捕まえたい。蕾夏のことも、自分のことも。

 もう淳也も千里も帰っている時間ではあるが、さすがにこの時間では眠っているだろう。瑞樹は、玄関には回らずに、自分達の部屋に繋がる外階段へと向かった。
 「…瑞樹」
 微かに、自分を呼ぶ声がした気がして、瑞樹は、はっと顔を上げた。
 「―――蕾夏?」
 外階段の、最上段―――外壁に取り付けられたライトに照らされた中に、分厚いコートを着込んだ蕾夏が、膝を抱えて座っていた。
 「…お前、何やってんだ、そんなとこで」
 「瑞樹を、待ってたの」
 蕾夏は、何故かクスクス笑いながら、そう答えた。
 ―――この寒さの中で?
 思わず、呆れた顔になってしまう。
 でも―――それ以上に、嬉しかった。1分でも、1秒でも早く、蕾夏の顔を見て安心したいと思っていたから。
 「…ただいま」
 自然と、笑顔になる。
 「ん…、おかえり」
 それに応えるように、蕾夏の笑顔も柔らかなものに変わった。


***


 「…千里さんに見つけられちゃった」
 「何を?」
 「キスマーク」
 瑞樹は、デスクの上に置くつもりだったデイパックを、危うく床に落としそうになった。
 「きゃーっ! やだ、落とさないでよっ! M4が壊れちゃう!」
 「…そう思うんなら、このタイミングで、そういう話すんなよ」
 慌ててデイパックをキャッチする蕾夏を見下ろしながら、瑞樹は思わず額を押さえた。
 「そっか…お前のその服、なんか妙にサイズがでかいと思ったら…千里さんのか」
 「うん。朝、いきなり指摘されて、もう消えてなくなりたい位恥ずかしかった。初めてか、って心配するから、思わず素直に否定しちゃったけど…瑞樹、覚悟した方がいいよ。絶対何か言われるから」
 「…何をどう覚悟しろってんだよ…」
 何か言われる前から、既に言われ終わったと同じ位にダメージを受けた気分だ。大きなため息とともに、瑞樹はベッドにどさりと腰を下ろした。
 「私も時田さんに何言われてもいい覚悟してるから」
 コートをハンガーに掛け終わった蕾夏も、そう言いながら、瑞樹の隣に腰を下ろした。そのセリフに、時田が瑞樹を飲みに誘った事情を蕾夏が察しているらしいことが表れていて、瑞樹は思わず苦笑した。
 「じゃあ、俺だけ逃げる訳にはいかないな」
 「そうだね」
 くすっと笑うと、蕾夏は少し瑞樹との間合いを詰め、瑞樹の肩にことん、と頭をもたせかけた。
 珍しい仕草に、ちょっと驚く。蕾夏は、あまりこんな風に甘えてくることはなかった。まだ熱が引いていないのだろうか、と思い、蕾夏の手を握ってみた。
 「―――お前、何時間あそこで待ってたんだよ」
 熱の有無を測るどころではない。あまりの冷たさに、瑞樹の手までが凍りそうだ。
 「ん…3時間かな」
 「…バカ」
 たまらない気分を誤魔化すように、瑞樹は、ちょっと怒った顔をして、蕾夏の額を指で弾いた。その感触に、ちょっとだけ小さな笑い声を立てた蕾夏だったが、やがてポツリと呟いた。

 「―――瑞樹…ごめんね」
 「……」
 意味不明の謝罪に、瑞樹は眉をひそめ、蕾夏の肩を押し戻して顔を上げさせた。
 蕾夏は、悲しそうに眉を寄せていた。泣いてはいなかったが、危ないところなのだろう。僅かに瞳が潤んでいる。
 「…なんでお前が謝るんだよ? お前に酷い事したの、俺の方だろ」
 「ううん。瑞樹は何も酷い事なんてしてない。瑞樹に酷い事したのは、私の方だよ」
 「してねぇって」
 「瑞樹の言葉、ちゃんと理解してなかったもの」
 「……」
 「瑞樹の話、瑞樹の気持ち、ひとつも聞かないで、1人で馬鹿みたいに(ひが)んで―――瑞樹、いつも私しかいらないって言ってくれてたのに、その言葉否定するみたいな事、言っちゃって…瑞樹に、あんな辛そうな顔させた。ごめん―――ほんとに、ごめん…」
 「そんな」
 そんな事ない―――謝る必要なんてない、と言いそうになって、瑞樹は思い止まった。
 謝る必要はない、という答えは、謝罪の気持ちを全然受け止めていない。だから、申し訳ない、という気持ちが、いつまでも行き場を失くしてしまうのだ。
 瑞樹は、涙を耐えている蕾夏を安心させるように口元をほころばせ、蕾夏の頭をくしゃっと掻き混ぜるように撫でた。
 「…もう、いいから」
 「……」
 「今、わかってくれてるんなら、それでいい。…もう、“いない方がいい”なんて馬鹿な事、二度と言うなよ」
 「…うん」
 ほっとしたように、蕾夏の表情が和らぐ。それを見て、瑞樹も笑みを深くした。
 髪を撫でる手に、しばし身を委ねるようにしていた蕾夏だったが、やがて、表情を引き締め、真剣な眼差しで瑞樹を見上げてきた。
 「…ねぇ。今度は、瑞樹の話、聞きたい」
 「俺の話?」
 「うん。…瑞樹の本音が、聞きたい。瑞樹が仕事で撮る写真に、私がいた方がいいのか、いない方がいいのか」
 「…ああ、そのこと」
 さっき和んだ空気が突然ピン、と張り詰めたので、何事かと思った。もう答えの準備できている内容で、かえって瑞樹はほっとしてしまった。
 「お前は…たとえば、プロになる写真は1人で撮りたい、って俺が言ったら、どうする?」
 意地悪をするつもりはないが、試しにそう訊いてみた。
 一瞬、蕾夏の表情がピクン、と強張る。が、蕾夏は、少し寂しそうな笑みを浮かべ、真っ直ぐ瑞樹の目を見つめ返した。
 「…それは、寂しいけど、仕方ないと思う。でも、だからってもう“一緒にいない方がいい”なんて思わないよ。私には、もっと大事な役割もあるから―――ヘイスティングズに行った時みたいに、瑞樹が撮りたい写真を自由に撮るには、私が必要でしょう?」
 「当たり前だ」
 「なら、大丈夫」
 瑞樹の即答に、蕾夏は嬉しそうに笑った。
 「瑞樹にとっては、あの写真の方が、仕事より何より大事な写真だもの。…もう、見失わないよ」
 「―――そうか。良かった。思い出してくれて」
 蕾夏に応えるように笑みを返した瑞樹は、デスクの引き出しに手を伸ばし、今朝、蕾夏が目を覚ます前に見ていた1枚の写真を引っ張り出した。まだ、蕾夏には見せていない写真―――というか、あんまりなので、捨ててしまおうと思っていた写真だ。
 「これ。どう思う?」
 「?」
 キョトンと目を丸くして、蕾夏はその写真を受け取った。
 写っているのは、ハイド・パークの芝生地帯―――見覚えのあるアングルだ。そう…ロンドンを初めて回った時に撮ったのと、同じ。蕾夏も気に入っていて、ロンドンに来てからの“写真集”の1ページ目に貼ってある写真だ。
 でも―――同じ写真でないことに、蕾夏はすぐに気づいた。
 「…なんか…足りない…?」
 「何が?」
 「なんだろう―――何が、って言うんじゃなくて…全体的に、弱い、のかな。ピントがぼけちゃったみたいに―――“写真集”に貼ったあの写真と同じアングルなのに、なんかこう、くるものが、弱い」
 「…わかってんじゃん」
 ポン、と蕾夏の頭に手を乗せる。え? と不思議そうな目を向けてくる蕾夏を見下ろして、瑞樹はニッ、と笑った。
 「これ、この前お前が、ボルヴィック1本と引き換えに俺ひとりでハイド・パーク撮影させた時の写真」
 「―――え…っ」
 「…弱いだろ。2人で撮ったやつより。まるで、2人で撮った時の写真を、水で薄めたみたいに」
 蕾夏の目の表情が、変わった。
 瑞樹が言わんとするところを、理解したのだろう。不思議そうだった表情が、だんだん、意味を飲み込みつつある表情になっていく。
 「もしかして…増える、って、こういう意味なの?」
 瑞樹は、言葉では答えずに、笑みでそれに答えた。
 「じゃあ、5足す5が10になるんじゃなくて―――最初から2人とも、10感じてるの? 瑞樹は、私がいてもいなくても、10感じてるってこと?」
 「そう。ただし―――俺ひとりじゃ、うっすら感じてるだけ。…十何年も感情が死んでた俺じゃ、まだはっきり感じられねーんだよ」
 「……」
 蕾夏の唇が、何か言いたげに薄く開かれる。が、瑞樹はそれを指で制した。
 言いたいことは、わかるから―――瞬時に、少し悲しげになった、蕾夏の目を見れば。
 「…ごめんな。ちゃんと、言葉に出して言っておけば良かった。俺が何も言わないから―――お前のこと、不安にさせた」
 瑞樹の言葉に、蕾夏ははっきりと首を横に振った。
 何かの痛みに耐えるかのようにきゅっと唇を引き結ぶと、蕾夏は突然立ち上がり、瑞樹の頭を自分の胸元に押し付けるようにして抱きしめた。思ってもみなかった行動に、瑞樹の心臓が、一瞬、大きく脈打った。
 初めてかもしれない―――こんな風に、瑞樹の方が抱きとめられるのは。
 ふわふわしたセーターに包まれると、なんだかとてつもなく安心できる。心が凪いでいく感じがする―――思わず、目を閉じて、その心地よさに陶酔してしまいたくなるほどに。
 「…いっぱい、いっぱい写真を撮り続けたら―――他の人達に伝えたいたった1つのもの、見つかるかな…?」
 「―――俺は、そう信じてるよ」
 「間に合うかな、3ヶ月で」
 「間に合うように、死に物狂いで撮ればいいって」
 「ごめん―――2ヶ月、無駄にさせちゃった」
 「…バカ。無駄になんて、なってねーよ。こうやってすれ違わなかったら、気づけなかったもん、一杯あるだろ」
 「―――うん…そうかもしれないね」

 そう―――きっと、無駄なことなんて、1つもない。
 すれ違うことも、感情をぶつけ合うことも、泣くことも笑うことも。どれもきっと、何かの糧になっている筈。
 もっともっと、2人で撮り続ければ―――もっともっと、2人で言葉を重ねていけば、きっと、見つかる。時田が言うような写真を撮るためのヒントが。

 途中、こんな風に大きな迂回路に迷い込んだとしても―――それもきっと、見つけたいものを見つけるためには、必要な寄り道。
 瑞樹も、蕾夏も、何故かそんな風に思うことができた。

***

 シャワーから上がってロフトを覗いてみると、フロアベッドの中央で膝を抱えた蕾夏が、天窓越しの月を眺めていた。
 蕾夏は、不思議な笑みを湛えていた。何の笑みだろう―――嬉しいとも、楽しいとも違う、静かで、穏やかで、愛しいものでも見つめるような微笑。
 「…そんなに綺麗か? 今日の月」
 声をかけると、蕾夏は、瑞樹の方を流し見た。月に向けていたのと同じ笑みを浮かべて。
 「そうでもない。でも…なんか、見ていて、ほっとするような月だったから」
 「そっか…」
 「――― 一緒に見ないの?」
 階段から上に上がって来ようとしない瑞樹に、蕾夏は不思議そうに小首を傾げた。
 ここ2ヶ月、2人は、下のベッドは使わずに、いつもここで並んで眠っていた。1人1人で眠るより格段に良く眠れたし、それに―――やっぱり、2人で居るのは心地よい。たとえ眠っている間であっても。
 2ヶ月、当たり前の習慣となっていたこと―――だから、何故今更瑞樹が上がって来ようとしないのか、蕾夏にはよくわからなかった。
 「…俺、今日は下で寝るから」
 「え?」
 「その方がいいだろ」
 「どうして?」
 ちょっと心配そうに眉を寄せる蕾夏に、瑞樹も強硬な態度は取りにくかった。小さく息をつくと、瑞樹はロフトに上がり、蕾夏の傍に腰を下ろした。
 「ね、なんか、あったかい月でしょ?」
 蕾夏が天窓を指差して、また微笑む。つられて視線を向けると、天空の月は、淡いオレンジ色のような光を放っているように見えた。冴え冴えとした青白い光とは違い、確かにその月は、あたたかな温度を感じさせる。
 「…ああ、ほんとだ」
 瑞樹も、ちょっと笑みを浮かべて、傍らの蕾夏に視線を移した。が、無防備に晒された蕾夏の首筋を見て、その笑みが消えてしまった。
 さっきまではセーターで隠されていた部分に残る、昨日自分が蕾夏にした事を思い出させる印―――罪悪感が、また押し寄せる。
 「―――蕾夏、熱は、もう大丈夫か?」
 「え? あ、うん。大分良くなったよ。一晩寝れば、もうピンピンしてると思う」
 「そ…か」
 念のため、額に手を当ててみたが、確かに平熱と変わらない程度まで、熱は下がっているようだった。ほっと安堵の息をつくと、瑞樹は視線を逸らし、蕾夏の髪を軽く撫でた。
 「…ごめんな、昨日。無茶させて」
 少し掠れ気味の瑞樹のセリフに、蕾夏は、ぱっと顔を瑞樹の方に向けた。
 「二度とあんな真似、しない」
 「……」
 幾分俯き加減の瑞樹の横顔を、蕾夏は、少し悲しげな顔で見つめていた。が、やがて、視線を逸らすと、暗闇の中を真っ直ぐに見据えた。

 「―――私ねぇ。実は、瑞樹に1つ、隠してた事があるんだ」
 唐突な蕾夏の言葉に、瑞樹は、俯いていた顔を上げ、すぐ隣に膝を抱えている蕾夏の横顔を凝視した。
 「え?」
 「…私の体に触れた人って―――途中までなら、佐野君以外に、もう1人いる」
 心臓が、一瞬止まった。
 なんだか、とんでもない告白が始まったような気がする。止まった心臓が、直後、うるさい位に鼓動を速める。嫌な予感がする―――蕾夏の言葉から連想される人物は、たった1人しかいないから。
 「…誰だよ」
 「―――辻さん」
 予感的中。
 あの野郎、という気分と、ああやっぱり、という気分が同時に湧いてくる。思わず瑞樹は、ため息をついて、髪をぐしゃっと掻き上げた。
 「…大学1年の時、2つ上の先輩に告白されて…抱きしめられて、またフラッシュバック起こしちゃったの。凄く優しい先輩で、大学中の人気者で、私もとっても信頼してた人だったのに…駄目だったの。私、もう一生こんな風なのかも…って、悲しくなった。好きになってくれる人傷つけて、ずっと自分の殻の中閉じこもって―――好きになってもらう資格なんて、私にはない、って思ったの」
 蕾夏はそこで言葉を切り、辛そうに目を伏せた。
 「だから―――辻さんにキスされた時、これまでずっと辻さんには助けられてきたし、辻さんのことは嫌いじゃないし…辻さんが私を必要としてるんなら、ちょっと怖いの位我慢しなきゃ、って思った。その先もずっと、我慢しなきゃ、って思い続けた」
 その先ってどこまでだよ、と聞きたいような、聞きたくないような気分になる。が、蕾夏が黙ってしまったので、瑞樹は、ちょっとその顔を覗きこむようにしながら、先を促してみた。
 「―――で?」
 目を上げた蕾夏は、チラリと瑞樹の方を見、ばつの悪そうな顔をした。
 「…服脱がされそうになった段階で、気持ち悪くなって、辻さん突き飛ばして洗面所に駆け込んで、吐いちゃったの」
 「―――…」
 「…辻さん、女性恐怖症になったかも…」
 ―――それは…ちょっと、同情する、かも。
 好きな女に、突っぱねられるならまだしも、気持ち悪くなって吐かれてしまったのでは、ちょっと立ち直れないかもしれない。
 「酷いでしょ」
 眉を寄せてそう言う蕾夏に、頷くことも首を振ることも、さすがにできない。
 「―――“好き”って人に言われるたびに、夢を見るの。抱きしめようとするその人に向かって、ナイフを振り上げてしまう夢。…辻さんも、例外じゃなかった。私、辻さんのこと、夢の中で何度も何度も殺してたの」
 「…おい…」
 「辻さんだけじゃない。野崎さんだって、私、夢の中で何回かナイフで刺してる。怖くて怖くて…気づくと手にナイフ握ってて、無我夢中で振り上げてるの。目が覚めると、まだその感触が手に残ってる気がして、擦りすぎて真っ赤になる位まで手を洗うの。血が落ちない…手についた血が、まだ落ちない、って」
 「おい…やめろって」
 瑞樹は、思わず蕾夏の頭に手を伸ばし、宥めるように髪を撫でた。
 痛々しすぎて、我慢できない。何故蕾夏は、今、そんな話をするのだろう?
 「―――ねぇ、瑞樹」
 蕾夏は、自分の髪を撫でる瑞樹の手を取ると、その手のひらをゆっくり、自分の頬に押しつけた。
 「私、瑞樹を、夢の中で傷つけた事、一度もないよ…?」
 瑞樹の目が、大きく見開かれた。
 考えたこともなかった。でも―――そうだ。瑞樹だって、そうされてもおかしくなかったのだ。
 「初めて手を握った時も、初めてキスした時も…瑞樹に何されても、本当に怖いって思ったこと、一度もない。昨日だって、最初はほんの少し怖かったけど、あとは全然―――怖くも気持ち悪くもなかったの。もし私が辛そうな顔してたんだとしたら、それは瑞樹が辛そうな顔してたからだよ」
 「俺が?」
 「いつも、苦しいの」
 蕾夏の目に、涙が浮かんでくる。
 「瑞樹がいつも、私に“怖いか”って訊くたびに―――瑞樹、辛そうな顔するから、苦しくなるの。私の体は、まだ佐野君のこと思い出して時々怖がるような仕草するのかもしれない。けど…私の心は、怖いともやめて欲しいとも思ってないから。いつも、瑞樹に抱きしめて欲しいって思ってるから…苦しくなるの」
 「…蕾夏…」
 「信じて」
 瞬きと同時に、涙が零れ落ち、頬を伝った。
 「瑞樹にどんな風にされても、私は、瑞樹の傍からいなくなったりしないよ」
 「……」
 「辛いなんて思ってない。幸せだって思ってるの。信じて―――私も、瑞樹しかいらないんだ、ってこと」


 ―――俺、本当に、蕾夏の何を見ていたんだろう…?

 自分が差し出す手を握り返してくれる蕾夏がどんな思いでいたか、理解しているようで、全然わかっていなかった。
 佐野が与えた呪縛に囚われた蕾夏にとって、自分という存在がどれほど稀有なものなのか、全然わかっていなかった。
 籠の鳥で構わないという辻の手を振り払った蕾夏が、何を求めていたか―――ちゃんとわかっていた筈なのに、蕾夏の傷と自分の抱える狂気にばかり気を取られて、見失ってしまっていた。

 いつだって蕾夏は、待っていたのに―――ただ1人、抱きしめて欲しいと思える人が、自分を抱きしめてくれるのを。


 どちらからともなく、唇を重ねた。
 羽根みたいに軽い、淡い触れ合いなのに、それでも泣きたくなる位に満たされた気分になるのは―――きっと、想いのバランスがとれているから。
 誰ともバランスが上手くとり難い2人なのに…2人の間では、とれるから。与えたい愛情と、欲しいと思う愛情の、バランスが。

  「奇跡」としか呼べないものが、この世には本当にあるんだな―――そんなことを、この瞬間、瑞樹も、そして蕾夏も思っていた。


←BACKStep Beat × Risky TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22