←BACKStep Beat × Risky TOPNEXT→




penny rain ―

 

 ―――あれは、誰だろう?

 枝垂桜の木の下に寝転がって、こんこんと眠り続けている男の子。
 散り始めた花びらが、1枚、また1枚と、彼のまだあどけない頬や華奢な手足の上に舞い降りる。少し風があるのか、彼の独特な色合いの黒髪は、動いてもいないのに、僅かに靡いている。

 この子を、私は、知っている。
 横浜で会った、あの子―――8歳の頃の、瑞樹だ。
 綺麗―――思わず、時間も忘れて見惚れてしまう。
 瑞樹は、とても綺麗だと思う。カズ君とか、奏君や累君みたいないわゆる「綺麗な顔だち」とは全然違うけど…でも、綺麗だと思う。髪を掻き上げる仕草とか、相手を惹きつけて放さない目とか―――ああして、風にふわりと靡く髪の1本1本も、とても綺麗。ずっと見ていたくなる位に。
 穏やかな顔をして、眠ってる。良かった…今日は怖い夢、見てないんだね。

 ふと、誰かの気配を感じた。
 いつの間にか、女の人が1人、眠っている彼の傍らにしゃがみ込んでいた。
 知らない女性―――でも、この顔には、なんとなく見覚えがある。もっとも、知っている顔はもっともっと年齢を重ねた顔…病のためか、年齢のためか、この顔よりずっと頬が削げ落ちていて、目がくぼんでいて…。

 そうだ。
 この人は、倖さん―――瑞樹の、お母さんだ。

 瑞樹の寝顔を覗き込んでいる倖さんは、凄く辛そうな顔をしている。罪悪感、憎しみ、不安、恐怖…いろんな感情が混ざり合った、とても複雑な表情をしている。
 …何を、する気なの?
 やだ。お願い。瑞樹をそのまま眠らせておいてあげて。瑞樹はただ、あなたに存在を認めて欲しいだけなの。あなたのこと、まだ憎んでなんていない。
 だから、お願い。自分が苦しいからって、瑞樹の命を奪わないで。

 「瑞樹!」
 思わず、叫んだ。
 だって、倖さんの手が、瑞樹の首を絞めようとするから。
 「瑞樹! だめ、倖さん、駄目っ! お願い、やめて! 瑞樹から離れてっ!」
 慌てて駆け出そうとしたら、誰かに腕を掴まれた。もの凄い、力で。

 誰?
 掴まれた腕が痛い。掴まれた部分から、だんだん体が凍っていくような気がする。寒い…凄く、寒い。冷や汗が噴き出して、駆け出そうとした足は地面に釘付けにされてしまう。

 「―――なんで、俺の方は見てくれないんだよ」

 ゾッとするほど、低い声。
 どうしてあなたが、今、ここに出てくるの。

 「俺を見ろよ、藤井」
 「や…だ…」
 「俺の方を見ろって言ってんだよ」
 腕が引かれ、バランスを崩したところで肩を掴まれる。壁に叩きつけられて、背骨が軋むように痛んだ。
 顔を上げたら、もう目は逸らせなかった。剃刀の刃のように鋭い目で射すくめられる。
 「藤井―――俺は、最後に、何て言った?」
 「知…らない」
 「お前に斬られた俺は、お前に何て言った?」
 「やめて!」
 どうして? なんでこんなこと、思い出させるの? あなたが言った言葉なんて知らない。私は何も聞いてない。あなたのかけた呪縛なんて、もう私とは関係ない。

 「殺せよ」
 ナイフを握った右手の手首を、掴まれる。ぐいっと引き上げられた手―――ナイフの切っ先が、彼の喉元に向けられる。
 やだ。
 やめて。
 「殺せよ、藤井。そうすれば…」
 「いや!!」

 ――― そ う す れ ば ―――…。

 

 「―――…っ!」
 ひきつけを起こしたように空気を鋭く吸い込んだところで、蕾夏はハッと目を覚ました。

 吸い込んだ息が、止まる。シンとした静寂の中、枕元の時計の針の音がやたらと大きく聞こえた。蕾夏は、寝間着の胸元をぎゅっと掴んだまま、少しずつ少しずつ、硬直しきっていた体の力を抜いていった。
 数分、そんな風にしていたら、やっと少しだけ落ち着きが戻ってきた。今、何時だろう、と考え、上半身を起こして時計を覗き込んだら、時計の針は午前2時を少し過ぎた辺りを指していた。
 無意識のうちに、右隣へと手を伸ばし、瑞樹の手を探す。けれど、隣に瑞樹はいなかった。
 瞬きをしたら、涙が零れ落ちた。それで初めて泣いていることに気づき、蕾夏は手のひらで涙を拭うと、のろのろとベッドから起き上がった。
 ―――久しぶりに見ちゃったな…、佐野君の夢。
 ぺたぺたと裸足のままロフトを下りながら、小さくため息をつく。
 自分が情緒不安定になっても仕方ないのに、やはり冷静ではいられない。瑞樹の方がよっぽど落ち着いている。いや…心の中ではどうなのか、本当はわからないけれど。
 「瑞樹…?」
 瑞樹は、階下のベッドの上に寝転がって、眠ってしまっていた。
 机の上のノートパソコンが、スクリーンセーバーの状態になっている。デスクライトも点いたまま―――多分瑞樹は、ちょっと休憩するだけのつもりで寝転がったのだろう。
 蕾夏は、瑞樹を起こさないように気をつけながら、ベッドを回り込んで机の傍まで行き、マウスを動かしてみた。
 表示されていたのは、蕾夏がロフトに上がる前に見たのと同じ、1通のメール―――蕾夏の眉が、悲しげに寄せられた。
 ―――瑞樹はあれから、これを見ながら何考えてたんだろう。
 蕾夏が知る限り、瑞樹の父からのメールは、これが初めての筈。最悪の内容も一瞬覚悟したが、そうではなかった。けれど、ある意味、このメールの方が、瑞樹にとっては残酷なメールかもしれない。
 瑞樹の母が、一時危篤状態にまで陥ったが、なんとか持ち直した、という内容。ただし―――もう、瑞樹の父の顔も、そしてついこの前まで夫だった人の顔も、覚えていないらしい。
 瑞樹の母は、忘れてしまったのだ。彼女が愛した人を。彼女を愛した人を。
 そして、たったひとりで解放されてしまった―――瑞樹が死ぬまで抱えていかねばならない、決して消えない記憶から。
 「大丈夫…」
 思わず口に出して、そう呟く。
 大丈夫。私も一緒に抱えていくから―――唇をきゅっと引き結ぶと、蕾夏はパソコンの電源ボタンを押した。
 「―――蕾夏…?」
 少し眠そうな声がしたので、慌てて振り向く。瑞樹は、既に、目を擦りながら半分体を起こしかけていた。
 「やだ、起こしちゃった? ごめん」
 「いや…目ぇ覚めて良かった。そろそろちゃんと寝るつもりだったから」
 あまり深く眠ってはいなかったのか、起き上がった瑞樹の口調は、意外にしっかりしたものだった。休止状態になったノートパソコンを閉じている蕾夏の頭を、ポンポン、と叩くように撫でる。
 「お前こそ、どうしたんだよ」
 「…ん、ちょっと、怖い夢、見ちゃって」
 「どんな?」
 「―――佐野君の夢。それと―――瑞樹が…」
 殺されちゃいそうになる、夢。
 そう言いかけて、蕾夏は口を噤んだ。
 けれど、大体の推測がついたのだろう。瑞樹は、口元だけでふっと笑うと、蕾夏を緩く抱き寄せた。
 「大丈夫―――あの女が忘れても、蕾夏が覚えててくれるから」
 「…うん」
 「ごめんな…お前、俺の分も悪い夢見てる気する」
 蕾夏は、何度か首を横に振ると、頬を瑞樹の胸につけるようにして、緩く抱きついた。
 瑞樹の胸に押しつけた耳から、鼓動の音が聞こえた。規則的な心音は、なんだか安心できる。もっとよく感じ取りたくて、蕾夏は瑞樹の背中に腕を回してしがみついた。

 ―――良かった…瑞樹はちゃんと、ここに、いる。
 背中を撫でる手も、髪に触れる唇も、感じられると安心できる。ここにいれば、大丈夫―――2人でいれば、どんな悪夢にも飲み込まれずに、穏やかに生きられる。
 時々、こんな風に、自分でもどうしようもなくなる。
 抱きついて、もっと抱きついて、陶酔したようなふわふわした気分を味わいたくなってしまう。
 もっとたくさん、瑞樹を感じて、消し去りたくなる―――この手を掴む、あの狂気の感触を。

 髪を撫でる手の動きに促されて顔を上げると、軽く唇を重ねられた。
 触れ合うだけの軽いキスを繰り返していると、だんだん夢と現実の境目が曖昧になってくる。悪夢がどこかへ追いやられて、優しい夢だけが現実になる。

 …ほら。もう、大丈夫。
 こっちが、現実―――もう私は、誰も傷つけずに生きていける。

***

 「おはよーございまーす…」
 瑞樹と蕾夏がダイニングに行くと、既に朝食を食べ終わった千里が、1人で雑誌を読んでいた。
 「Morning. 日曜日とはいえ、今日はいつもの休みより遅いわねぇ」
 「昨日の撮影が、ちょっとハードだったからな…」
 まだ頭のすっきりしていない様子の瑞樹がそう言う。実際、ハードだった。スタジオのスケジュールの都合で、かなり大掛かりなセットの組み立てからリハーサル、撮影、そして解体までを、実質半日でやらなくてはいけなかったのだ。深夜1時に全ての作業が終了した時には、瑞樹も蕾夏もアートディレクターを初めとした担当者も、そしてクライアントの要求に振り回され続けた時田も、全員へとへとの状態だった。
 「時田さん、大丈夫かなぁ? 今日って累君と、写真集の最終打ち合わせするって言ってたけど…」
 蕾夏がちょっと眉を寄せてそう言うと、千里は、今思い出した、というようにポンと手を叩いた。
 「ああ、忘れてたわ。リビングにうちの双子が揃ってるの」
 「え?」
 「毎度のことよ。郁夫の写真集の出版直前になると、奏も必ず顔出すの。自分が最初の読者になるんだ、って決めてるみたいよ。変でしょ」
 困ったように笑う千里に、蕾夏は微かな笑みを返すことしかできなかった。
 ―――最初の読者に…か。
 チラリと瑞樹の顔を見上げると、蕾夏から話を聞いている瑞樹も、ちょっと複雑な表情をした。
 奏の気持ちは、奏にしかわからない。瑞樹も蕾夏も推測する以外ない。けれど、奏があんなに時田に撮ってもらうことにこだわっているのは―――…。
 「朝食は食べる? 2人が起きてきたらリビングに呼んでくれって淳也に言われてるんだけど」
 蕾夏の考え事を遮るように、千里が訊ねた。が、2人とも食欲がいまいち無い。あと2時間もすれば昼だから、と、2人とも朝食を断り、リビングに移動した。
 リビングには、一人掛けのソファに淳也が、3人位掛けられるソファに奏と累が並んで座っていた。2人が入ってきたのに気づいて、双子が同時に顔を上げる。
 「あ、おはよー」
 「……」
 にこやかに挨拶する累と、憮然とした表情で2人を見る奏を見て、蕾夏は思わず吹き出してしまった。
 「な…っ、なんだよっ」
 「お、面白いー…累君だけ、髪が伸びてる」
 ちょうど眼鏡を外していた累は、いつも以上に奏と同じ顔だった。ちょうど似た色合いの服を着ていたせいもあって、左右に並んだ同じ顔は、まるでコピーみたいに見える。唯一違うのは、髪。本来ほぼ同じ長さの似たようなカットなのだが、締め切りでも迫っていたのか、累だけが整っていないぼさぼさの髪になっていた。
 「なんか、2人揃うと、使用前・使用後みたい」
 「…何を使う前と後なんだよ」
 そう言ってムッとしたように眉を顰める奏の横で、累の方は楽しげに笑った。
 「あははは、このところ、散髪行く暇なかったからなぁ。でも、このまま伸ばしていくのもいいかなー、とか思うんだけど」
 「つまんねー…。累が伸ばすんなら、奏も伸ばせ」
 瑞樹のセリフに、今度は2人揃ってキョトンとした顔をした。
 「なんで?」
 「外見が瓜二つな方が、中身の違いがよくわかって面白いから」
 「…そういうもんかなぁ…」
 「バカ、こいつの言う事を真に受けたりするなよ」
 首を傾げる累の頭を、奏が軽く叩いた。同じ顔のボケとツッコミというのも、なんとも妙で笑える。またクスクスと笑ってしまった蕾夏は、そのままの流れで、話のついでのように切り出した。
 「ねぇ、奏君。写真集の最終打ち合わせには、毎回出てるって本当?」
 「え? あ、ああ…まぁな。郁も、累は写真のこと全然わからないから、写真の最終チェックで見てくれると助かる、って言ってるし…」
 「へぇ…、奏君が写真をチェックするの」
 「奏の写真を見る目は、郁のお墨付きだからね」
 何故か累が自慢げにそう言うと、言われた奏の方は、気まずそうに視線を逸らして、脚を組みなおした。そんな奏の変化に、累は全く気づいていないようだ。
 「奏は、郁の写真のファン第1号だもの。郁の写真の良し悪しは、きっと成田さんより理解してると思うよ」
 「…そうなんだ。よっぽど時田さんの写真が好きなんだね」
 なんだか、切なくなる。
 時田の写真が大好きで、彼の写真に関わってみたいと思っている、奏―――文章を添えるという事で、それを実現している累に対して嫉妬とも羨望ともつかない思いを抱いているのは確かだろう。でも、累の方はそれに全く気づいていない。それどころか、累からしたら、奏は「自慢の兄」なのだ。
 「あ、それより―――藤井さん。実は今、藤井さんが書いた“ロンドン滞在記”の一番最近のやつを、父さんに見てもらってるんだけど」
 「え?」
 累がさらりと言ったセリフに、蕾夏はぎょっとして淳也の方を見た。
 さっきから全然喋らないな、とは思っていたが―――確かに、淳也が黙々と読み続けているのは、蕾夏がいつも使っているノートだった。
 「き、きゃーっ、なんでそんなもん見せるのっ」
 「まぁ、いいじゃない。僕より長く文章の世界に携わってるんだから、文章読むのはプロだよ」
 「だから余計に嫌なんじゃないのーっ!」
 趣味で書いているものをプロになんて見せられる訳がない。蕾夏は大慌てで淳也の所に駆け寄って、ノートを奪い取ろうとした。が、読みながらもちゃんと話を聞いていたらしく、淳也は蕾夏の手を片手で制してしまった。
 「まぁまぁ…もうちょっとで読み終わるから」
 「やだーっ! 読み終わらないでっ、累君に見せてるだけでも恥ずかしいのにーっ」
 「うんうん。わかったから、もうちょっと待ってね」
 わかってないじゃない、と真っ赤になって慌てふためいている蕾夏の様子に笑ってしまいながら、累は瑞樹にチラリと視線を送った。それを見た瑞樹も、軽く片眉を上げ、肩を竦めてみせる。実を言えば―――もうこの件は、瑞樹と累の間では、数日前から計画済みだったから。
 「奏」
 ぼんやりと蕾夏の様子を見ていた奏は、瑞樹に声をかけられて、慌てて振り向いた。
 「暇なら、ちょっと顔貸せ」
 「…何だよ」
 「来ればわかる」
 なんだか裏のありそうな瑞樹の笑みに、奏が逆らえる筈もなかった。訝しげに眉をひそめた奏は、しぶしぶ重い腰を上げた。

***

 「…あれ? 瑞樹と奏君は?」
 ようやく淳也から滞在記のノートを取り返した蕾夏は、2人の姿が欠けているのにやっと気づいて、目を丸くした。
 「うん。なんか、用事があるみたいで、2階に上がってったよ。それより、こっち」
 累はそう言って、自分の隣の席をぽんぽん、と叩いた。どうやら「座れ」と言っているらしい。
 瑞樹が奏に、何の用事なのだろう。もしかして、時田のことで何か言うつもりなのだろうか―――2階の方がはるかに気になったが、累のいつになく強気な目つきが心に引っかかってしまい、蕾夏はやむなく、言われた通りに累の隣に座った。
 文字を読むために眼鏡をかけていた淳也は、ため息と共に眼鏡をはずし、背もたれに深くもたれかけた。素人の趣味の紀行文を随分真剣に読んでいたんだな、と少し驚いてしまう。
 「―――どう? 父さん。感想の方は」
 累がそう訊ねると、淳也は、テーブルに置いていたコーヒーに手を伸ばし、一口だけ飲んだ。ほっと一息ついたところで、どことなく満足げな笑みを浮かべる。
 「うん…悪くないね。独特の色彩感覚があって、面白いよ」
 「だよね? 良かった、僕だけの思い込みだったら、どうしようかと思ってた」
 「特に、あの雨の表現が良かったなぁ…」
 ―――うわ、ちょっと、待って。
 雨の表現、という淳也の言葉に、心臓が止まりそうになる。どこのことを言っているのかは、自分が書いたものなのだから、すぐにわかる。蕾夏が一番、観念的過ぎてまずいかな、と思ったところなのだ。
 「日本の小雨と、ロンドンで体験した小雨を、面白い対比で描いてたよね。“東京のオフィス街に降る小雨は、かさかさに乾いた都会を潤す恵みの雨。ロンドンに降る小雨は、霧の多いロンドンの空気をギュッと搾って出来た雫のようなもの”―――面白いよなぁ。湿気を含んだ空気を“搾って”雨になるんだよ。思いつかないよなぁ、普通」
 「…すみません…私、ちょっと変なんです…」
 思わず身を縮めてしまう。でも―――仕方ない。それが蕾夏の素直な感想だったのだから。

 1週間ほど前の朝の体験が、問題の箇所だった。その朝は霧が多くて、例のごとく視界が悪かった。瑞樹と2人で、本来降りるべき駅より3駅手前で地下鉄を降りて、時田のオフィスまでのんびり歩いていた。すると、ハイド・パークにさしかかったあたりで、ポツン、と雨が降ってきたのだ。
 霧が、空中に留まりきれずに、凝縮されて地面に落ちてきたように感じた。こういう小雨を「ペニー・レイン」と言うんだろうな、と、瑞樹が呟いていた。
 東京にいた時、少々の雨では「水」を強く感じることはなかった。なんだか、乾いたアスファルトにどんどん水分が吸収されていく気がして―――どしゃ降りにでもなってくれないと、この乾きは潤わない気がして。でも、ロンドンの雨は、ほんの僅かの雨でも、強く「水」を感じる。1滴の雨粒でも、空気は十分潤う感じ―――この“感じ”というのが厄介で、それを文章に書きたくなるから、自分の文章は観念的と言われてしまうんだろう、と、蕾夏は思った。

 「何で謝るのかなぁ…? 褒めてるんだよ、僕は」
 笑いを含んだ淳也の声に、蕾夏は不思議そうな目をして、顔を上げた。
 「文章なんていうのは、技術的な部分はなんとでもなる。本をよく読む人間は自然と上手い文章を書くようになるし、下手な文章も数をこなせばそれなりに読めるものになる。ただ―――言葉のセンスってのは、持って生まれた才能みたいなものでね。蕾夏は、いいセンスを持ってるよ。この小雨の表現は、ロンドンの空気を感じるじゃないか」
 「…そ…うかなぁ…」
 「全部この調子だと、確かに訳わかんない文章になるかもしれないけど―――大丈夫、蕾夏の場合、他のとこは結構普通に書いてるし、読みやすいよ」
 「それは多分、累君の指導の賜物だと思うんだけどなぁ…」
 「それもあるけど、まぁ、これだけ書いてればね」
 淳也はそう言って、もう1つの一人掛けのソファを目で指し示した。そこには、数日前に蕾夏が累に貸した、ロンドンに来てからこれまでに書いた滞在記、ノート計8冊が積まれていた。確かに、こんな短期間にこんな分量を書いたのは、生まれて初めてだ。というより、こういう長文自体、書いたのは大学のゼミのレポート以来かもしれない。
 「で…だね。蕾夏は、帰国した後のことって、もう考えてるのかな?」
 唐突にそう言われ、蕾夏は目を丸くした。
 「え、と…、まだ、具体的には全然」
 「これは提案なんだけど―――ライターを目指してみたらどうかな」
 「ライター?」
 考えてもみなかった職種を挙げられ、蕾夏の目が尚更丸くなる。
 ライター、と言ったら、累だ。思わず累の方を見たが、累はニコニコしているだけで、淳也の突拍子も無い提案に一切異論を唱える素振りがない。
 「え、えっと、あの…私が、ライター? ライターってあの、累君がやってるみたいに、雑誌の原稿書く仕事でしょう?」
 「そうだよ。編集部の出す企画に沿って、取材をして、それを文章にまとめる仕事。うちの場合、専属ライターを雇って月給制で支払ってるけど、フリーのライターもいる。コピーライターなんてのもいるよね」
 コピーライター。
 その単語に、ちょっと心臓が高鳴る。
 瑞樹に事ある毎に言われていた言葉だから。「お前って、コピーライターの素質があるかもしれない」と。
 「累がね、蕾夏の言葉のセンスを、ただの趣味に終わらせるのは嫌だって言うんだよ」
 「え…?」
 淳也の言葉に驚いて累の方を見ると、累は照れたような笑みを見せていた。
 「うん―――最初にあの“写真集”見せてもらった時から、面白いもの書くな、って感心してたんだ。…藤井さんは、全然興味ないかな。ライターの仕事って」
 「きょ…興味、っていうか…」
 どう言えばいいのだろう。蕾夏は、暫く言いよどんだ挙句、ちょっと言い辛そうに口を開いた。
 「ライターがどうこう、って言うよりも―――私、瑞樹の写真と関わりのある仕事に就けるなら、その道を選びたいから」
 「……」
 蕾夏のセリフを聞いて、累は少し真顔になり、淳也と顔を見合わせた。
 気を悪くしちゃったかな、と気まずい気分になる蕾夏をよそに、淳也と累は、何故か満足げに笑みを交わしていた。そして、再び蕾夏の方に向き直ると、累は言い含めるように、ゆっくりした口調で告げた。
 「成田さんの写真と、思い切り関わりがあるよ」
 「…えっ」
 「写真集だよ」
 「写真集?」
 「郁の写真集に僕が文章をつけてるように、藤井さんも将来、成田さんが出す写真集に文章をつけるんだよ。趣味じゃなく、書店に並べる“作品”として、さ」
 「―――…」

 瑞樹の写真集に、私が、文章をつける―――?
 いつか本屋さんに並ぶ瑞樹の写真集に、私の文章が添えられるの? 累君の文章みたいに。

 考えた事もなかった。
 確かに、瑞樹の写真にいい文章を添えたいとは思った。けれど、それはあくまで趣味の話。自分の文章が売り物になるとは思えなかったし、自分で見て楽しめればそれでいいと思ったから。
 けれど―――その可能性を、実際にその道で生きている2人に指し示されると、心がグラつくのも事実で。

 いつの日か、本屋の店頭に、瑞樹の写真集が並ぶのが、私の夢だった。
 でも、もし累君の言うようなことが可能なら―――いつの日か、本屋の店頭に、2人で作り上げた写真集が並ぶことを、夢見ることができるのかもしれない。
 もしそれができるのなら、目に見える形で瑞樹の仕事に関わる事ができるんだ…。

 背筋が、ゾクゾクした。
 言葉にならないほどの、高揚感―――蕾夏は、累の目を見つめたまま、膝の上に置いた手が微かに震えてしまうのを止められなかった。
 「…勿論、他の職業に就いて、成田さんの写真集にだけ参加する、って方法も悪くはないけど―――その1冊だけで終わらせるのは勿体無いよ。それにね、ライターって雑誌とかポスターとかCMとかに関わりがあるから、結局はカメラマンと共通項の多い職業なんだ。直接的ではないけど、成田さんと関わる仕事ができる可能性はかなりあると思う」
 畳み掛けるようにそう言うと、累は、まだ少し震えている蕾夏の両手を取り、ぎゅっと握り締めた。
 「半人前の僕じゃ、大したことできないと思う。けど―――父さんなら、力になってやれると思うんだ。急ぐことはないけど、成田さんと2人で、どういう仕事やっていくのかよく話し合ってみてくれないかな」
 「…で…でも…、私、文才なんて、あるんだかないんだか…」
 「大丈夫。他の人が何て言おうと、僕と父さんは認めてる。それに…成田さんも」
 「え?」
 「最初にこの件、僕に切り出してきたのは、実は成田さんの方なんだ」
 思いがけない話に、蕾夏は目を見開いた。
 「成田さん、言ってた。藤井さんの言葉は、いつも観念的で曖昧で―――でも、怖い位に真実を端的に表してる、って。…その言葉に、賭けてみない?」
 「……」
 ―――私なんて、瑞樹の写真のこと考えるだけで精一杯で、毎日他のこと考える余裕なんてないのに…。
 自分の知らないところで、瑞樹が自分の未来を考えていたのだという事実に、蕾夏は何をどう感じればいいのかわからないほど、動揺していた。
 動揺のあまり、唇が震える。
 今、ここに瑞樹がいたら、きっとまた抱きついて泣いてしまうのだろう―――累に手を握られたまま、蕾夏はそんな事を思っていた。


***


 「なんでオレがこんな真似しなきゃならないんだよ」
 椅子の上に乗った奏は、不満たらたらに愚痴をこぼしながら、口にくわえていた釘を摘み、壁に打ち込もうとした。
 「バカ、そこじゃねーよ。もっと上」
 「あー、そーかよっ!」
 同じ「バカ」でも、瑞樹に言われると、他人に言われるより腹がたつ。奏は自棄になったようにそう言うと、今釘を打とうとした場所より少し上に釘を打ち付けた。
 「あんた、自分でできるだろ、こんな大工仕事。なんでわざわざオレを呼ぶんだよ」
 「他人の部屋に勝手に入る訳にいかねーだろ」
 「オレと累の部屋なんだから、オレが許可すりゃ済む話なのに」
 「それに、奏の方が、俺より背が高い」
 「高いって、たった2センチか3センチだろっ!」
 「いいから、これ掛けろ」
 そう言って瑞樹は、紐を取り付け終わった額を奏に差し出した。ガラスは入っていないので軽いが、そこそこの大きさがあるので、受け取る時、一瞬バランスを崩しそうになった。
 今打ち付けた釘に、額の裏に取り付けられた紐を掛ける。左右バランスが取れたところで、奏は椅子から降りた。
 「これでOK?」
 パンパン、と手をはたいて瑞樹を返り見たが、瑞樹は無表情に額を見上げ、しばし黙ったままでいた。それにつられるように、奏も額を見上げる。
 飾られたのは、この家の近所にある運河を撮った写真―――どこかで見たな、と思ったら、前に瑞樹の写真をいくつか見せてもらった時、奏が一番好きだと言っていた写真だった。それに気づいた奏は、訝しげに眉をひそめた。
 「…なんでこの写真を、この部屋に飾ることになったんだよ」
 「この前、累に頼まれたから」
 「え?」
 目を丸くする奏に、写真から目を離した瑞樹はふっと笑ってみせた。
 「中身が正反対のくせに、やっぱり双子だよな」
 ちょっとうろたえたように視線を彷徨わせた奏は、かなづちをベッドの上に放り出して、椅子にドサリと座り込んだ。
 一方の瑞樹は、もう用事は終わっただろうに、特に自分の部屋へ行く様子も1階に戻る様子も見せずにいる。奏が放り出したかなづちをツールケースに収納し、それを机の上に置くと、自分はベッドに腰掛けてしまった。
 「…あいつら、一体何の話してるんだよ」
 瑞樹が奏にこんな雑用をさせたのは、奏をあの場から引き剥がすために違いない。奏が、どこか恨めしそうな目で睨みながらそう言うと、瑞樹は表情も変えずにサラリと言った。
 「蕾夏の仕事の話」
 「…って、ライターの件?」
 「まぁな」
 趣味で終わらせたくない、という、累の言葉を思い出す。なるほど、累だけでは、力になれることは限られているから、淳也を巻き込もうという算段なのだろう。その点は納得がいった。が、納得いかない部分もある。
 「その話なら、別にオレがいたってよかっただろ」
 思わずむっとして奏が口を尖らすと、瑞樹は肩を竦めた。
 「俺もお前も部外者だろ」
 「部外者に聞かれちゃまずいような話なのかよ」
 「…ま、お前が聞いて面白くねー話も出るみたいだし」
 「…なんだよそれ」
 その問いに、瑞樹は答えなかった。でも、奏ももう答えを聞く気にはなれない。聞けば面白くないだろう、という話をわざわざ聞いて、本当に面白くない気分になるなんて、馬鹿がすることのように思えたから。
 「…あんたって、なんか、余裕ありげだよな」
 思わず、口調が不貞腐れたものになってしまう。たった3つ離れているだけなのに、なんだか随分自分が子供に思えるのが癪で仕方ない。
 が、瑞樹にとっては意外な指摘だったらしい。瑞樹は、奏の言葉に少し目を丸くして、首を傾けた。
 「余裕?」
 「オレがあいつのこと好きだってわかっても、全然余裕かましてるだろ。オレじゃあいつを振り向かせられないって、たかをくくってんのかよ」
 「ハ…、まさか。そんなんじゃねーよ」
 苦笑した瑞樹は、そう言って視線を逸らすと、どこか遠くを見ているような目で、暫く黙り込んだ。
 何を考えているのか―――静かに一点を見据える瑞樹は、妙に深閑としたムードがあって、声をかけるのがためらわれる。奏も、何も言えずに、ただ黙って瑞樹の答えを待つしかなかった。
 「―――別に余裕かましてる訳じゃないけどな」
 やがて口を開いた瑞樹は、奏の方には目を向けず、相変わらず遠い目をしたままだった。
 「前に、蕾夏の親友が、蕾夏に向かって俺を譲ってくれって言ったことがあったんだ」
 「…えっ」
 意外な話に、ぎょっとしてしまう。
 なんだか、想像がつかなかった。瑞樹と蕾夏の間に、そんなエピソードがあるなんて。相思相愛、誰からも認められて、邪魔をしようとする人間なんか1人もいない―――そんな図式しか浮かばなかった。
 「そ…それで、何て言ったんだよ、あいつ」
 「―――俺は蕾夏のものじゃないから、譲るなんてできない、って答えたらしい」
 「……」
 「俺も蕾夏も、自分の意志で一緒にいる。相手に束縛されたり所有されてる訳じゃない。だから、もし蕾夏が俺をそいつに譲るって言っても、俺はそいつのものにはならない。蕾夏も、俺が蕾夏を誰かに譲るって言っても、そいつのものにはならない―――そう言ってた」
 やっと視線を奏に向けた瑞樹は、口元にだけ微かに笑みを浮かべ、奏を見つめた。
 「あいつは俺を、信用してくれた。だから俺も、あいつを信じてる。それだけだ」
 「……」

 反論どころか、なんの相槌も、打てなかった。
 譲れ、と言われて、嫌だ、というのが普通の反応。彼氏彼女という代名詞のもとに、自分の領域に相手を囲い込む、それは別に驕った考えではない。世の中の大半の男女がやっている恋愛だ。
 それを―――こんな風に簡単に覆してみせるなんて。
 相手の「一緒にいたい」という意志を信じきっていなければ、そんな風には言えない。誰が言い寄ろうが、どんな困難が降りかかろうが、相手の意志は変わらないと思うから言える言葉。そして―――それでも相手の気持ちが変わった場合は、それも運命と受け入れられるだけの覚悟がなければ、言えない言葉。
 思い知らされる―――蕾夏の瑞樹に対する想いと、瑞樹の蕾夏に対する想いを。

 「奏」
 ショックを受けたように、どこか虚ろになっていた奏は、瑞樹に声をかけられて、やっと目を上げた。
 「諦めろ、とは言わない。ただし―――あいつを傷つけたら、絶対に許さない」
 「…傷つけるような真似、する訳ないだろ。相手は好きな女なのに」
 「―――好きな女を傷つけて満足する奴も、世の中にはいる」
 瑞樹の目が、急に暗く陰る。背筋がぞくっとするようなものを感じて、奏は体を強張らせた。
 何故だろう。
 あの時感じたのと、同じ種類の、焦り。
 屋上で、隠れて聞いていた会話―――“佐野”という名前が出た時の、あの嫌な予感。今目の前にある瑞樹の暗い目は、何故かその時のことを思い出させた。
 「…もし…オレが何か間違ったことしでかして、あいつを泣かせたりしたら…?」
 渇きを増す喉を、一度、唾を飲んで潤し、そう訊ねてみる。
 すると瑞樹は、冷たい笑みを浮かべた。
 「―――その時は、俺がお前を殺す」
 「……」

 今度こそ、本当に、背筋が凍った。
 この前は、冗談で済んでいた。傷つけたら殺される覚悟をしとけ、と言われはしたが、軽く受け流していた。
 けれど―――瑞樹のこの殺気は、本物だ。

 相手を威嚇するには十分すぎる殺気に、奏はぶるっと身を震わせた。それを見て、自分が本気であることを奏が感じ取ったと判断したのだろう。瑞樹は殺気を消し、ニヤリと笑った。
 「第一…あいつは“棘姫”だからな。ヘラヘラ女遊びに現を抜かしてたお前じゃ、まず無理だ」
 「な…っ、なんだよ、“棘姫”って」
 「下手に触ると、こっちが怪我するってこと」
 「???」

 「おーい、奏!」
 瑞樹の謎のセリフに眉をひそめていた奏は、階段を上りながら自分を呼ぶ累の声に反応して、ドアの外を覗くように身を乗り出した。
 顔を出した累は、ニコニコと機嫌のいい顔をしていた。多分、蕾夏が話を前向きに受け止めてくれたのだろう。なんだか複雑な心境だ。
 「紅茶淹れたから下りてこいって、父さんが―――あ! 飾ってくれたんだ、この写真!」
 ドアの隙間から、壁に掛けられた写真を見つけた累は、パッと表情を明るくして、ずかずかと部屋の中に入ってきた。
 「うわー、やっぱりいいよな、この写真。ありがとう、成田さん、わざわざ引き伸ばしまでさせちゃって」
 感激の面持ちで瑞樹に礼を述べ始める累を横目に見ながら、奏はさりげなく、ドアの外に半身を乗り出し、階下の様子を窺った。
 まだ淳也と話しているのかと思われた蕾夏は、意外にも累の後を追うように2階に上がってきていた。ちょうど廊下に顔を出した奏と、階段の最後の1段を上がりきった蕾夏が鉢合わせになってしまった。
 「あ、奏君。瑞樹は?」
 「…こっちにいる。下の話、終わったの?」
 「うん」
 にこっと笑った蕾夏の笑みが、いつもより更に柔らかで、かつ不思議な艶を帯びているように見えて、奏は一瞬ドキリとした。
 が、すぐに気づく。この微笑は、奏に向けられている訳ではない。扉の向こうにいる瑞樹に向けられているのだ、と。
 「…あんた、ライター目指すんだって?」
 せり上がりそうな暗い感情を押し殺して、奏はそんな事を訊ねた。すると蕾夏は、ちょっと驚いた風に目を丸くし、いつもの蕾夏らしい笑顔を見せた。
 「やだ、誰から聞いたの? あ…累君から? それとも瑞樹?」
 「累から前に、そんなような話を聞いたから。…で? やるの?」
 「ん…そのつもり。夢が1つ、できたから」
 「夢? どんな?」
 「ナイショ」
 くすくすと、小さな笑い声をたてる蕾夏に、胸がまた痛む。
 どうせ、瑞樹と関係した夢、なのだろう―――それが、容易に想像できて。
 「―――あんたってほんと、残酷な位に、あいつ以外は見てくれないんだな」
 思わず、呟く。聞こえるか聞こえないか位の、小さな声で。
 ところが。
 その言葉を呟いた途端、蕾夏の顔から、笑みが消えた。
 笑顔を失った顔が、強張る。奏の目を見つめた蕾夏の黒い瞳が、何故か動揺したように僅かに揺れる。何かを言おうとしたように薄く開いた唇は、言葉を紡がずに引き結ばれてしまった。そのあまりにも急な変化に、奏の方が慌ててしまう。
 「ど…どうしたんだよ、急に」
 「―――あ…、ご…めん。なんでもないの」
 まだ少し瞳を揺らした蕾夏は、気持ちを切り替えるように一度目を伏せると、改めて笑顔を作った。が、どこか力がなく、弱々しい笑顔に見える。
 「なんでもないって事ないだろ。何かオレ、気ぃ悪くすること言った?」
 思わず手を伸ばして蕾夏の腕を掴もうとした。
 すると蕾夏は、まるで弾かれたように体を引くと、伸ばされた奏の手を払いのけた。まるで、触れられるのを恐れるかのように。その瞬間、蕾夏の爪が、奏の手の甲を引っかいてしまった。
 「……ッ!」
 「あ、ご、ごめんっ!」
 奏が僅かに顔を歪めるのを見て、蕾夏は慌てて奏に近寄り、今払いのけたばかりの奏の手を、両手で取った。
 「大丈夫? ごめん、爪伸ばしてるつもりはなかったんだけど―――傷になってない?」
 「……」

 ―――なんなんだよ…。
 混乱する。拒絶されたと思ったら、こんな風に傷の心配をされる。払いのけた筈の手を、自分の方からこうして手に取っている。
 払いのけたのは、なんでだ?
 オレに触られるのが嫌だからだったんじゃないのか?
 なら、どうしてこんな風に平然と手に触るんだよ―――本気でオレのこと心配してるとしか思えない、そんな目をして。

 心臓が、暴れる。
 さっき自分を拒絶したこの手を、今度はこっちから振り解きたくなる。
 けれど、振り解けない。この白い手は、ずっと欲しかった手―――触れたかった手だから。

 「あー…、ちょっと赤くなっちゃったね。痛い?」
 「…いや…なんともない」
 「奏君、近々手がアップになるような仕事ってある?」
 真剣な眼差しで訊ねてくる。それで理解できた。しつこい位に心配する、その理由が。
 奏は、強張りきっていた肩の力を抜き、気づかれないように小さく息を吐き出した。乱暴にならないよう、蕾夏の手から右手をスルリと引き抜き、笑みを作ってみせる。
 「大丈夫―――そんな仕事、特にないし。あってもこの程度なら、今日の夜には消えるだろ」
 「そ…か。良かった。モデルさんは体が資本だから、気をつけないと。ほんと、ごめんね」
 心底済まなそうにする蕾夏に、駄目押しのように笑みを返し、奏は彼女の横をすり抜けて、階下に下りた。
 もうこれ以上、蕾夏の傍にはいたくなかった。

***

 一宮家を後にして間もなく、パラパラと雨が降ってきた。
 「あ、しまったなー…。雨降ってきちゃったよ、奏。どうする?」
 空を見上げて眉をひそめた累は、このまま地下鉄の駅までダッシュした方が早いか、それとも家に引き返して傘を借りた方がいいか、頭の中で計算していた。
 奏なら駅までダッシュを選ぶかな、と思っていたが、一向に返事がない。不審に思った累は、傍らを歩く奏に視線を移した。
 「奏? どうかした?」
 奏は、俯いていた。
 横からでは全く表情が窺えない位、下を向いて歩いている。奏らしくない歩き方に、累は奏の肩を掴み、足を止めた。
 「奏―――…?」
 奏の顔を覗きこんだ累は、驚きの余り、目を大きく見開いた。
 「そ…う? な、なんで、泣いてるんだよ…?」
 自分と同じ、明るいブラウンの瞳から、瞬きとともに涙が零れて、奏が着ているパーカーの裾の辺りに落ちる。奏の涙を見るのは、もう何年ぶりだろう―――泣くことの少ない気丈な兄だったから、もう思い出すこともできないほど昔のような気がする。
 「奏、どうしたんだよ? 誰かに何か言われたのか?」
 「―――なんでも…ない」
 低くそう呟いた奏は、ぎゅっと唇を噛むと、急に顔を上げた。
 パーカーの袖口で涙を拭うと、涙に負けまいとするみたいに、じっと前を見据えて歩き出す。その方向は、累が想像した通り、地下鉄の駅の方角だった。
 雨粒がいつも同じ長さにキープしている金色の髪にくっついて、キラキラ光る。累は、再び隣を歩きながら、その光景に見惚れていた。

 ―――やっぱり、奏は、綺麗だ。
 僕と同じ顔だけれど、奏の方が何倍も、輝いて見える―――特に、今の奏は。

 苦しそうな奏が、今までで一番綺麗だなんて、おかしな話だ。けれど累は、地下鉄の駅に着くまでずっと、いつもより早足で颯爽と歩く奏を、夢でも見ているような目で見つめ続けていた。


***


 「…あ、雨」
 ロフトに上がって、サボテンのテラリウムに水をやっていた蕾夏は、天窓に水滴がついているのを見て、そう呟いた。
 「累君達、傘持ってったかな…」
 「奏なら、地下鉄までダッシュだろ」
 「うん、そうだね」
 なんとなく想像がついて、くすっと笑ってしまう。蕾夏は、水差しを床に置くと、フロアベッドに寝転んで天窓に降る雨を見つめている瑞樹の傍に、そっと腰を下ろした。
 「ありがと…瑞樹」
 「何が?」
 「私、自分の先のこと、何も考える余裕なくて…瑞樹が累君とそんな相談してたなんて、なんか、恥ずかしいよ」
 「―――バカ。俺の先のことで余裕なくしてるお前のこと、俺が考えなかったら不公平だろ」
 呆れたような瑞樹の声に、蕾夏は力ない笑いを返した。その妙な反応に、瑞樹は僅かに眉をひそめた。
 「…どうした? 何かあったか?」
 「……」
 「さっき、廊下で奏と何かもめてたみたいだけど」
 「…うん」
 蕾夏の表情が曇る。
 言うべきか否か迷うように、蕾夏は瞳を揺らした。が、瑞樹が手を伸ばして、蕾夏の髪を指に絡めると、それに促されたような気がして、つい口を開いてしまった。
 「なんでもないの。ただ―――奏君が、佐野君と似たようなこと、言ったから」
 佐野、という名前に、瑞樹が眉を顰めた。
 「…やっぱり私、奏君て怖いかもしれない」
 「…蕾夏…」
 「どうしよう…奏君のこと、傷つける夢見ちゃったら…」

 力なくうな垂れる蕾夏を見て、瑞樹は体を起こし、その頭を抱き寄せた。
 瑞樹の手が、蕾夏の髪を、宥めるように撫でる。その感触に、蕾夏は目を閉じて、全てを委ねた。


 ―――怖い。
 奏君は、やっぱりどこか佐野君を彷彿とさせて、怖い。私を傷つけるんじゃないか、そんな気がして、怖い。
 その不安が、また悪夢になるかもしれない。奏君に向かってナイフを振り下ろす悪夢になって、また私を苛むかもしれない。

 瑞樹に抱きしめられてる時だけ、優しい夢が見られる。
 ―――もう、悪夢は、見たくない。


←BACKStep Beat × Risky TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22