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quibbling ―

 

 累のフラットに向かうカレンの心情は、複雑なものだった。
 「もしかしてカレン、バイトの時間危なかった?」
 原稿の入った封筒を胸に抱いた蕾夏が、そう言って心配そうな目をする。
 カレンがずっと黙ったまま歩いているので、相当迷惑していると思ったらしい。カレンは、言いたい言葉を全部飲み込み、できるだけ自然な笑顔を作った。
 「ううん、大丈夫」
 「ほんと? ごめんねぇ…ほんとは累君とこ位、1人で行けばいいんだけど、前回瑞樹が結構拗ねちゃったから」
 「…あの人って、極端な位に、あたし達に見せる顔と蕾夏さんに見せる顔が違うのね」
 エレベーターが地階に着き、扉が開く。蕾夏が先に乗り込み、続くようにカレンも乗った。
 確かに、いつも単語レベルの言葉しか喋らず、少しのことでは表情も変えないあの瑞樹が、蕾夏に関してはまるで別人のような面を持っているのは、カレンも知っていた。が、いくら瑞樹が機嫌を悪くするからといって、こうして律儀にカレンに付き添いを頼む蕾夏も、ちょっとどうかと思う。
 黙ってりゃバレないのに―――そんな風に思いながら蕾夏の顔を眺めていたら、ほどなくエレベーターが累のフラットのある階に到着してしまった。
 「ねぇ、留守だったらどうするの?」
 振り返って蕾夏に訊ねると、蕾夏は困ったような笑みを浮かべた。
 「わざわざカレンについて来てもらうんだもの。家にいること位はちゃんと確認してるよ」
 「…そうなの」
 蕾夏と累が一緒にいるところを見るのは、過去に受けたショックを再現するみたいで、本当は辛い。カレンは、絞首台にでも上がる気分で、累の部屋の呼び鈴を押した。
 ほどなく、ドアの向こうに人の気配がして、鉄製の扉がガチャリと開く。中から顔を出した累は、ちょっと驚いたような顔をしていた。
 「こんにちは、累君」
 「いらっしゃい。あの…カレンも一緒だったの?」
 にこやかに挨拶する蕾夏に、累は戸惑ったような視線を向けた。そのことまでは電話で伝えていなかったらしい。帰りたいような気分が急激にせり上がってきて、カレンは居心地が悪そうにバッグを肩に掛け直した。
 「うん。1人では行くなって、瑞樹からの至上命令で。…ええと、これ、約束した原稿」
 そう言って蕾夏が差し出した封筒を受け取ると、累は急に目を輝かせた。
 「もう書けたんだ。あれからまだ1週間経ってないのに―――無理したんじゃない?」
 「将来がかかってれば、真剣になっちゃうもの。淳也さんには、まだ見せてない。累君がチェックした上で渡して」
 「うん、わかった」
 「じゃ、私はこれで帰るね」
 「え?」
 累とカレンの声が重なってしまう。目を丸くする2人をよそに、蕾夏は当然のように微笑み、小首を傾げるようにして肩にかかった髪を掃った。
 「プロラボ行って、出来上がったプリント取って来なくちゃいけないの。カレン、協力してくれてありがと」
 「…ちょっと…」
 「じゃあ、またねー」
 唖然とする2人を残して、蕾夏は去ってしまった。
 ―――ちょっと…ここ、まだ廊下じゃないの。あたしは何のために付き添いさせられたの??
 訳がわからない。「男性の一人暮らしの部屋に1人で上がりこむな」と瑞樹に言い聞かされている、と蕾夏は言っていたのに。廊下でさよなら、であれば蕾夏1人で良かったのではないだろうか。
 「ははー…、さてはカレン連れてくるための作戦だったのか」
 大分伸びてしまった前髪を指で掻き上げた累は、面白そうにくすくすと笑った。
 「どういう意味?」
 「まぁ、とりあえず、入りなよ。カレン来なかった間に、本も結構増えたし」
 意味がわからない、と言う顔をしているカレンの背中を押すようにして、累は彼女を招き入れた。
 考えてみたら、累の部屋に来るのは、随分久しぶりだ。そう―――蕾夏に初めて会った時以来だから、年明け以来になる。あれからというもの、来たくても来られなかった。また累の部屋で誰か女性と鉢合わせでもしたら、もう立ち直れそうになかったから。
 「前にカレンがここ来た時、偶然藤井さんが居合わせたの、覚えてる?」
 冷蔵庫を開けながら、累が、ちょうど今カレンが思い出していたことを口にした。
 「覚えてるけど」
 「あれで、カレンがここに来づらくなってるんじゃないか、って藤井さん気にしてさ。エンジェルの実家か外出先でしか原稿受け渡ししてくれなかったんだ。なのに今日来るって言うから驚いたんだけど―――なるほどね、カレンを連れてくるためだったんだ」
 「……え」
 いつもの指定席の巨大ビーズクッションに腰掛けたカレンは、驚いたように目を丸くして、冷蔵庫を閉めて振り返った累の顔を凝視した。
 累は、困ったやつ、とでも言いたげに笑いながら、缶ジュースをカレンに差し出した。
 「馬鹿だなぁ、カレンは…。僕にとってはカレンは妹も同然なんだから、何も気を遣う必要なんてないのに。第一、藤井さんにはちゃんと成田さんて彼氏がいるだろう?」
 ―――妹…。
 その代名詞に、気分が一気に落ち込む。
 けれど、それが事実だ。イギリスに来た16歳当初、カレンにとって奏は「友達」で累は「お兄ちゃん」だった。何故そうなったのか、いまだによくわからないが。
 受け取った缶ジュースのプルトップを開けながら、カレンは胸の中で、「妹」という言葉の痛みとなんとか折り合いをつけようと試みた。が、それに追い討ちをかけるように、累は一番触れられたくない話を口にした。
 「ところで、どう? 奏とはうまくいってる?」
 ジュースを口に運びかけた手が、止まる。
 「―――別れたの」
 ポツリ、とカレンが呟くと、今度は累が目を見開いてフリーズする番だった。


 別れたのは、今から1週間前の休日―――奏は、時田と累の打ち合わせに顔を出してきたと言っていた。
 何の変哲もない、奏がカレンの部屋に来るいつもの夜と何ら変わりのない、夜だった―――あの瞬間までは。
 「ただの友達に戻ろう」と言ったのは、奏の方だった。
 元々、彼氏彼女などという間柄ではなかったから「別れる」という表現は正しくない。「ただの友達に戻る」―――奏の表現は、一番しっくり来るものだ。
 当然、理由を訊ねた。すると奏は、こう答えた。
 「…カレンは、累も大事にしてる友達だから、酷い事したくない。でも…オレ、今、何しでかすか自分でもわからないんだよ」


 「な…なんで? 奏がまた他の女の子にちょっかい出したとか?」
 「やだ、そんなのいつもの話よ。…累君、誤解してるの。あたしと奏は、累君が思ってるような“付き合い”じゃなかったのよ。だから…別れた、ってのは、本当は間違い。ただの友達に戻ったの」
 「…そうなんだ…」
 ひたすら驚くばかりだった累も、カレンのセリフに、2人の関係をおぼろげながら理解したらしい。だんだんと落胆した表情になり、最終的にはカレンより累の方がうな垂れてしまった。
 「やぁねぇ。累君が落ち込んでも仕方ないじゃない」
 「―――うん、そうなんだけど…やっと奏にも、遊びじゃない相手が出来たんだな、って嬉しかったからさ」
 まるで自分のことのような落ち込み方に、カレンは呆れたような顔をした。
 「時々思うけど―――累君って、ブラコン気味だよね」
 カレンがそう言うと、累は顔を上げ、目を丸くした。
 「そう?」
 「かなり、その傾向あると思うけど? 同じ顔してる双子のお兄さんなのに、奏が出てる雑誌とかせっせと買ってるじゃない。他の人が見たらナルシストと勘違いするわよ」
 「同じ顔ったって…僕と奏は、まるっきり違うよ? 奏って、綺麗だろ」
 「…何それ」
 「カレンには見えないかな、奏が持ってるオーラ」
 ジュースの缶を机に置いた累は、ベッドに腰掛けて脚を投げ出すと、ちょっと嬉しそうな顔をした。
 「子供の頃、僕はよく“ガイジン”とか“弱虫”とか苛められてて、そうすると奏が“弟に何するんだーっ!”ってすっ飛んでくるんだ。怒った時の奏のオーラって、凄いよ。炎みたいな赤がパッと一瞬光る感じがする―――本気になった奏のオーラは、いつも夢みたいに綺麗でさ、つい見惚れちゃうんだよな」
 「…ふーん…」
 「カレンも、綺麗だよ」
 楽しげな声のまま言われた言葉に、カレンの呼吸が止まりかけた。
 「カレンと奏は、どことなくオーラが似てる気がする。やっぱり、こういう華のあるオーラを持ってる人間が、モデルみたいな華やかな仕事に就くんだろうなぁ…」
 「―――そうかな…」

 ―――あたしには、累君のオーラの方が綺麗に見えるけどな…。
 綺麗…ううん、違う。累君のオーラは、優しい。ポカポカと温かい、癒されるようなオーラ。傍にいると、本当に癒される気がする。もしかしたらそれは、単にあたしが累君を好きだからなのかもしれないけど。

 奏となら、友達に戻れたけれど―――累とは、一度踏み外したら、もう、こういう優しい関係には戻れない気がする。
 寂しい―――もう、この寂しさを、奏で紛らすことは許されない。けれど、この優しい空気を、完全に失う位なら、累とは「優しいお兄ちゃんと妹」のままでいい。
 じゃあ、この寂しさは、どうやって紛らせればいいんだろう―――カレンは、缶ジュースをこくんと飲み込みながら、癒し方のわからない痛みも、胸の奥に飲み込んだ。

***

 ―――ええと、これがカレンダー用の写真で、これが月刊誌の写真…、と。
 受け取った10袋近い写真の束を確認しながら、蕾夏はプロラボを出て、昼下がりの雑踏の中を歩き出した。が、数歩歩いたところで、突然背後から肩を叩かれた。
 驚いて振り返った蕾夏は、そこにいた人物を目にして、一瞬だけ体を強張らせた。
 「…あ、びっくりした」
 「随分沢山あるんだな。手伝ってやろうか」
 「大丈夫。ちゃんと紙袋持って来てるから」
 「…さすが。用意周到。アシスタントは名ばかりじゃなかったんだ」
 「それより、どうしたの奏君」
 偶然通りかかったにしては、あまりにもタイミングが良すぎるし、モデル事務所からも広告代理店からも離れているこの辺りに、奏が出没するのも妙な感じがする。バッグの中から紙袋を引っ張り出しながら、蕾夏は眉をひそめて奏を見上げた。
 奏は、蕾夏が不審に思っているのを察したのか、苦笑いを浮かべてサングラスを外した。
 「ついさっきまで“VITT”の本社行ってたんだ。で…、郁と成田と入れ違いになったから、郁にあんたはどうしたのか、って訊いた訳」
 「それで、プロラボで待ち伏せしてたの?」
 「そんなとこ」
 「…呆れた。そんな事しなくても、夜、家に来れば確実に会えるのに」
 本当に呆れたようにため息をついた蕾夏は、プリントの袋を紙袋に突っ込み、ちょっと早足で歩き出した。すると奏は、その紙袋をひょいとひったくり、蕾夏の隣に並んで歩き出してしまった。
 ―――困るなぁ…、こういうの。
 正直、今、奏と2人きりになるのは気まずい。1週間前、何の悪意もない奏の手を反射的に払い除けて、手の甲にひっかき傷を作ってしまった。きっと奏は、蕾夏の妙な反応に疑問を感じているに違いない。
 それにしても、奏は何故こんなところで待ち伏せなどしていたのだろうか。何か用事があるのだろうか―――そう思って、奏の横顔をちょっと見てみたが、特に何かを話したそうな顔にも見えない。
 「…“VITT”に行った、って、ポスター撮りのスケジュールの話で?」
 話題に困り、そう話を振ってみた。
 今日、時田と瑞樹が呼ばれているのも、その件だった。4月末に撮る筈だったのが、スタジオや“VITT”側の都合で、5月の第1土曜日に変更になったのだ。
 すると奏は、ちょっと憂鬱そうな目を蕾夏の方に向けた。
 「そう。…実は、その話をしたくて、あんたを待ってたんだ」
 「え?」
 「―――どうなるのかな、と思って」
 「…やっぱり時田さん、まだ撮らないって言い張ってるんだ」
 そんな気はしていた。時田は、どうもその話題で蕾夏に追及されるのが苦手らしく、蕾夏の前では意図的に“VITT”の件の話を避けている節があるのだ。
 「郁は、オレのことは撮らないよ。前からそうだったから」
 「…時田さんはプロに徹したいタイプだから、家族を相手にはそれができないから、嫌なんじゃないかな」
 慰めるとも諭すともつかない口調で蕾夏が言うと、奏は複雑そうな表情をして、少し目を逸らした。
 「あいつは―――成田は、何て言ってる?」
 「瑞樹は…前回みたいな奏君は、もう撮りたくないって言ってる」
 「……」
 「奏君の仕事だから、私や瑞樹がとやかく言うべきことじゃないと思うけど…でも、私も、ああいう奏君だったら撮りたくないって思う。いくらあれがクライアントの要望でも、あれだったら奏君の顔したマネキンでも同じだもの」
 「カメラの前で自分の中を曝け出せって言うんだろ? 昔やったことあるよ。今よりずーっと売れてない時に」
 奏は、その時のことを思い出したのか、険しい顔をして吐き出すように続けた。
 「でも、マネージャーに言われた。“君はその整った顔が売りなんだから、そんな血気盛んなところは見せない方がいい、むしろ冷たい位に無機質な方がいい”―――実際そうだったよ。感情を全部押し殺して、ただの無機質な人形になりきったら、あっという間に仕事が増えたもんな」
 「…それは、奏君の内面を上手く引き出せるカメラマンがいなかったからなんじゃない?」
 「かもな。けど…それが現実だからさ。売れなきゃ、この仕事やってる意味ないだろ」
 「時田さんに撮ってもらえなくても?」
 奏の顔が、瞬間的に強張った。
 「違ったらごめん―――奏君、時田さんに撮ってもらいたくて、モデルになったんじゃない?」
 「―――…」
 奏の横顔は、何も答えなかった。その無言の返答が、蕾夏の言葉を肯定している。けれど、本当は蕾夏は、自分の言葉を心の中で否定していた。
 事実は、そんな単純な話ではないだろう―――本当はそれを、察しているから。
 でも、それを奏に伝えるつもりはない。ちょっと悲しげに目を細めた蕾夏は、奏から視線を外し、ちょっと俯き加減に歩き続けた。
 「…あんたは、成田より、郁が撮った方がいいと思う?」
 「―――わからない。時田さんが撮る奏君を知らないから。けど…そうするべきだと思う。これは、時田さんの仕事なんだもの」
 「…そうだよな…」
 どこかぼんやりした口調で相槌を打った奏は、結局そのまま、押し黙ってしまった。
 ―――こんなに、時田さんに認められたがってるのに…。
 時田に自分という存在をただ認められたいがために、悲しい位に屈折して頑なになってしまっている奏は、何故か蕾夏に、子供時代の瑞樹を連想させた。あの事件で完全に母との間に溝を作ってしまう前の、瑞樹―――自分の存在を、母に肯定されたかっただけの、あの8歳の瑞樹を。

 ただ、大切な人に、自分の方を向いて欲しいだけ―――その想いを感じて、蕾夏は切ない気分になった。

***

 “VITT”の社長室を辞した時田は、隣に並んだ瑞樹を見て、その表情を曇らせた。
 「成田君。…顔が怖いよ」
 「―――これで限界ギリギリです」
 不愉快さ100パーセントという面持ちの瑞樹は、そう言って、忌々しげにぶるっと頭を数度振った。
 社長室全体に香っていた、頭痛がしてきそうな甘い香り―――自社ブランドの香水だろうか。サラ・ヴィットの前に立っていたのはたかだか5分か10分だが、それだけでも服や髪に香りが染みついてしまった気がする。
 前回面会した時、真っ赤な爪をした指で喉元に触れられて以来、瑞樹の中のサラに対する印象は、見事な位に最低ランクだった。が、今日再会して、もうこの下はないんじゃないか、というところまで落ちきった。瑞樹は、女性の中でも特に香水のきつい女性が大嫌いなのだ。
 「君の好みじゃないのはわかるけど…この調子じゃ、将来心配だねぇ。クライアントがみんなサラ・ヴィットみたいな女性だったら、どうするんだい?」
 「言いなりになる位なら、仕事干されて餓死した方がマシだと思う」
 「…まあ、君らしいといえば、君らしい生き方だけど」
 苦笑した時田は、着慣れないスーツが鬱陶しいのか、まだロビーを完全には出ていないのに指を引っ掛けてネクタイを緩めた。
 「第一、俺が来る必要なんてなかったのに…」
 「そんなことないよ。実際に撮るのは君なんだから、可能な限りは顔出しておかないと」
 「―――まだそんな事言ってるんですか」
 うんざり、という顔をした瑞樹は、ため息をついて時田を睨んだ。
 「俺はもう撮らないって言った筈ですよ」
 「僕も撮らない。かと言って、君以外の人間では微妙なタッチの差でバレないとも限らない。君と僕とはアングルの好みや光の使い方が結構似てるんだ。他のカメラマンに頼む気はないよ」
 妙に淀みなくそう言いきった時田に、さすがの瑞樹も少々呆れた。
 「なんでそう、この件に関してだけ頑固なんだか…」
 「頑固―――まぁ、確かに、頑固かもしれないなぁ…」
 そう言って小さな笑い声をたてた時田は、それから暫く、何も言わずに瑞樹の斜め前をのんびり歩いた。
 実際、時田の“VITT”の写真に対する態度は、普段の彼とは似ても似つかないほどに頑なだ。もっとも、それが“VITT”社に対するものなのか、奏という被写体に対するものなのかは、毎日見ている瑞樹にも蕾夏にも、よくわからないのだが。
 チラリと、以前、蕾夏に聞かされた話が、頭を掠める。
 千里が、うっかり口を滑らせたらしい言葉―――それが意味するものが何なのか、瑞樹も、そして蕾夏も、それぞれに同じ推論に到達していた。その推論は、少なからず時田のこの頑なさと無関係ではないような気はするが…それでもなお、時田の態度は理解できない部分が多い。
 「…どうすれば、撮ってくれるかな」
 ふいに、時田が、そう呟いた。
 「え?」
 「君が奏君を撮ってくれる条件だよ」
 足を止め、振り返って瑞樹を見据える時田の目は、いつになく真剣だった。思わず瑞樹も、足を止めた。
 「君に撮ってもらう以外、道がないんだ。君が撮らないなら、この件は白紙に戻すしかない―――でも、いくら1週間延びたと言っても、撮影まであと3週間しかない。白紙撤回が許されないのは、君もわかるだろう」
 「…なんでそこまで、奏を撮るのを嫌がるんですか」
 「……」
 「それとも“VITT”の仕事自体に問題でも?」
 眉をひそめる瑞樹に、時田は、口元に微かに笑みを浮かべた。
 「―――ゲームだよ」
 「ゲーム?」
 「僕が撮れば、ゲームオーバー。僕は負ける。負ける訳にはいかない―――このゲームだけは」
 冗談で言っている訳では、ないらしい。
 時田の目は、これまでで一番鋭くて、ゾッとするような冷たさをその奥に秘めているように見える。彼が、そのゲームとやらを楽しんでいるとは思えない。心底、うんざりしている。けれど…ゲームを降りる訳にもいかないのだろう。それが、彼の意地なのかもしれない。
 時田の心の奥までも見通そうとするように、瑞樹は真っ直ぐに時田の目を見据え返した。が、時田の瞳は、変わらず瑞樹の目を捉え続けた。
 「―――俺は、“人形”を撮る気はないんです。それがクライアントの希望でも」
 やっと口を開いた瑞樹は、はっきりとそう告げた。
 「でも、“人間”の奏を撮ってもいいんなら―――それにあいつも同意するなら」
 「…わかった」
 瑞樹との妥協点が見出せて、安堵したらしい。時田は、ほっとしたように表情を緩めた。
 「僕は、それで構わない。“VITT”側が文句言っても、なんとかするよ。幸い、口は上手い方だから」
 「奏は?」
 「…なんとか、説得する」
 説得―――できるだろうか。
 時田が撮るためではなく、瑞樹が撮るために“Frosty Beauty”の仮面を取れ、と言われて、果たして納得するだろうか。あの奏が。
 「奏君を説得できたら、撮ってくれるね?」
 ―――全く、なんでこんな厄介なゲームに乗ったんだか…。
 思わず舌打ちしたくなる。けれど、白紙撤回すれば責任問題になるのも事実だ。
 大きなため息をひとつついた瑞樹は、最終的には「わかりました」と答えていた。

***

 「…で、その後、説得してるムードってあるの?」
 「―――微妙」
 雨を避けるように手をかざした瑞樹は、目を細めて空を見上げた。
 灰色の空から、霧雨に近い細かな雨が、音も立てずに降ってくる。こういう雨が、一番濡れやすい。すっかり水分を含んだ前髪を掃い、ちょっと離れた所にある店舗の軒先にいる時田に目を向けた。
 「時田さん!」
 「んー…、ちょっと待って」
 三脚にカメラをセットしている最中だったらしい。時田は、三脚のネジをしっかり固定したところで、やおら顔を上げた。
 「オッケー、もういいよ。で、どうだい? 空の感じは」
 「見渡す限り雨雲」
 「そうか、それは嬉しいな。うーん、でもまだこの降りじゃあ“雨のロンドン”て感じではないな…まあ、いいか。もうちょっと雨が強くならないか、様子を見よう」
 ―――だから、なんで外で様子を見るんだよ。店ん中入るなりオフィス戻るなりすりゃいいのに。
 壁にもたれかかり、余裕の表情で天候が悪化するのを待ち始める時田を見て、雨に濡れてしまっていた瑞樹と蕾夏は、無言のまま顔を見合わせた。とにかく、これ以上濡れるのはちょっとまずい。時田同様、近くの店の軒先を、雨宿り場所として借りることにした。
 「―――微妙って、どういうこと?」
 濡れやすい霧雨を含んだ黒髪を軽くハンカチで押さえながら、蕾夏が困ったような顔で瑞樹を見上げる。それに答える瑞樹の表情も冴えない。
 「時田さんは説得する気だと思うけど…奏の方が、今、捕まんねーらしいから」
 「ふーん…そういえば、何かのショーがあるって聞いた気がする。…でも、あれからもう1週間でしょ? いくら撮影延びたって言っても、あと2週間だよ?」
 「明日からの土日休みが勝負かもな」
 雨足が、若干強まった気がする。瑞樹は、濡れないようデイパックに入れておいた一眼レフを取り出して、雨に煙る交差点にカメラを向けてみた。
 灰色の空に、石造りの街並み、黒っぽいアスファルト―――信号機の点滅だけが、妙に色鮮やかに映る。
 「…まだ、曖昧だよな」
 思わず、口にしてしまう。
 瑞樹がカメラを向けた方と同じ方向を見ていた蕾夏も、その言葉に合わせるように、ちょっと眉を寄せた。
 「こういう、何の変哲もない風景が、一番困るよね」
 「そうなんだよな…。1つに絞ろうにも、その絞りたいものが何なのかが、曖昧で」
 「何かテーマが決まっちゃうといいのかもね、瑞樹の中で。徹底的に道路を中心に撮るぞ、とか、空を中心に表現するぞ、とか」
 「ピンと来ねーなぁ…」
 こうしていると、目に見えるものより、雑踏の音や雨の匂い、時折避けきれずに頬を撫でていく霧雨の冷たさなどばかりリアルに感じてしまう。どうやら蕾夏もそのタイプのようで、こればっかりは、いくら2人で口に出して話し合っても、いい解決方法が見つからなかった。
 目に見えるものより、目に見えないものに対して感覚が鋭いタイプなのかもしれない―――時田が指摘したように。
 アングルを模索していたら、傍らから小さなくしゃみが聞こえた。瑞樹はファインダーから目を離し、寒そうに肩を縮めている蕾夏を見下ろした。
 「大丈夫か?」
 「う、うん…4月って言っても、やっぱり東京より寒いねぇ…」
 雨に濡れて、余計寒さを感じるのだろう。蕾夏はそう言って、軽く身震いした。
 あいにく上着の類は持ち合わせていない。ちょっと考えた挙句、瑞樹は蕾夏の肩に腕を回して、ちょうど肩を抱くようにした。途端、蕾夏の顔が赤くなる。
 「バ…、バカっ、時田さんいるじゃんっ」
 時田には聞こえないよう、ボリュームを思い切り絞って抗議する。が、瑞樹の方はいたって涼しい顔だ。
 「すぐ隣にいる訳でもあるまいし。第一、風邪ひくのとどっちがマシだよ」
 「風邪ひく方がマシ!」
 「…あ、そ。俺はお前に風邪ひかす方が嫌だ」
 それでも蕾夏が頻りに時田の方を気にするので、蕾夏の頭を半ば抱え込むようにして、時田の方を向けないようにした。「酷いっ」とジタバタする蕾夏越しに時田の方を窺うと、時田は、こちらを向いていない癖に、笑いすぎで肩が震えていた。…まあ、多分見ていたのだろう、一部始終。

 「―――ねぇ、瑞樹」
 抵抗しても無駄と悟ったのか、大人しくなった蕾夏が、瑞樹の肩口に頭をもたせかけながら、ためらいがちに口を開いた。
 「時田さんが撮る、っていう選択肢は、本当にもう無いのかな…」
 「そうだな―――白紙撤回まで覚悟してるんだから、難しいだろうな」
 「…なんか、切ない。奏君の気持ち考えたら」
 「……」
 「奏君は、ただ振り向いて欲しいだけなのに―――その気持ちを犠牲にしてまで、勝たなきゃいけないゲームなのかな」
 蕾夏の声が、落ち込んだような声色になる。
 瑞樹もそれは思っていた。時田が奏を撮ればそれで何も問題ないのに―――時田のわがままに、瑞樹も奏も振り回されている気がする。やってられるか、の一言で蹴れるものなら、今すぐ蹴ってやりたい、こんな話。
 けれど―――時田が、理由もなくこんな不条理な真似をする訳がない、というのも本音だ。よほどの理由があるのだろう。その理由さえわかれば、瑞樹も、奏も、案外納得できるのかもしれない。ただ…問題は、どうやら時田には、その理由を明かす気が全く無いらしい、ということ。
 「―――俺が、なんとか調べる」
 瑞樹は、呟くようにそう言って、蕾夏の肩に置いた手に少し力をこめた。
 「だからお前は、もうこの件には、関わらない方がいい」
 「…え?」
 思いもよらない言葉に、蕾夏が驚いたように顔を上げた。見下ろしてくる瑞樹の目が、思った以上に真剣なことに、更に驚く。
 「どうして?」
 「…うまく、説明できねーけど…」

 ―――言った方がいいのだろうか。
 今の奏には、時田以外にももう1人、振り向かせたい人間がいるのだ、ということを。
 今のまま言わずにいたら、蕾夏は奏に対する同情心から、下手に親身な態度を取ってしまうかもしれない。そうなったら―――奏は、余計傷つく。手負いの奏は、危険だ。なんだか、そんな気がする。
 言えば、蕾夏は奏を今以上に警戒するだろう。どんなに同情心が湧いても、自分から何かをしようとは思わない筈だ。その方が、蕾夏にとっては安全かもしれない。
 でも―――言う訳にはいかない部分が、1つだけある。
 もし、奏が自分を恋愛対象として欲している、と認識すれば―――蕾夏はきっと、また悪夢にうなされる。
 苦しめたくない―――悪夢の恐怖を知っている瑞樹だからこそ、余計にそう思ってしまう。

 瑞樹が、どう言って蕾夏を納得させればいいのか、と迷っていると、蕾夏はふっと表情を和らげ、言わなくていいよ、という風に指先を瑞樹の唇に触れさせた。ちょうど瑞樹が、蕾夏の言葉を遮る時に、そうするように。
 「―――うまく説明できないけど…奏君がらみ、でしょ?」
 「…まあな」
 「…わかった。私はなるべく、首突っ込まないようにする」
 やはり、何か嫌な予感を覚えているのだろうか。蕾夏は、素直にそう答えると、また瑞樹の肩の辺りに頭を預け、静かに目を伏せた。

***

 翌朝目が覚めると、案の定、蕾夏は前日の雨がたたって風邪をひいてしまっていた。
 「…37度4分、ねぇ…。今日も雨だし、出掛けない方が得策よ」
 体温計を確認した千里は、諭すようにそう言った。が、食欲も普通にあってふらつく感じもない蕾夏は、リビングのソファに沈みこんだ状態で納得いかないという表情を千里に返す。
 「熱あったって、咳もくしゃみも出ないし、元気なんだから平気なのに…」
 「このまま熱が上がったら、頭が痛くなるわよ? 悪い事は言わないから、家にいなさい。…ねぇ? 瑞樹」
 千里に同意を求められ、瑞樹も頷いた。
 「俺だけで大丈夫だから、お前は寝とけ」
 「でも、今日ってまたポートフォリオ頼まれてるんでしょ?」
 そう。また瑞樹は、カレンの仲間からポートフォリオ用の写真を撮ってくれと頼まれたのだ。なんでも、この前撮った2人もオーデションに受かったそうで、やっぱり瑞樹の写真はラッキーアイテムだ、と仲間内で広めてしまったらしい。仕事でもないのに、とうんざりした瑞樹だったが、金は払うから、と契約書まできっちり作ってこられてしまったので、もう断りきれなくなってしまったのだ。
 「…まぁ、なんとかなる。とにかくお前は寝とけよ」
 「つまんないー…。千里さんと淳也さんも留守だもの。…あーあ、しょうがないなぁ、累君に出された宿題でもやろうかなぁ」
 「―――寝なさい」
 千里にじっ、と見据えられる。
 「37度下回るまでは、書くのも禁止よ。Understand?」
 「―――Yes, ma'am.」
 観念したのか、蕾夏はため息混じりにそう答え、弾みをつけてソファから立ち上がった。


 千里と淳也は、遠方に住んでいる知人が大手術をしたとかで、朝早いうちに出かけてしまった。
 蕾夏は大人しく2階のロフトで眠っていたが、瑞樹が出かける昼前に、まるで目覚ましでもかけてあったみたいに目を覚まし、ロフトから下りて来た。
 「…もう出かける?」
 「ああ。…具合は?」
 「うん、平気。でも―――あと1時間位眠りたい気分だから、やっぱり留守番してる」
 念のため、手のひらを蕾夏の額に当ててみると、朝触った時よりは熱は下がっている感じがした。もう外出できるレベルなのかもしれないが、大事をとるに越したことはない。
 「野暮用がいろいろあるけど、まぁ、5時には帰れるかな―――お前も無理すんなよ」
 「ん、大丈夫。いい写真撮れるといいね」
 デイパックを肩に掛けた瑞樹は、外階段へ続くドアを開け、出て行こうとした。が、ふとそこで思い直し、見送りに出ていた蕾夏の方を振り向くと、少し熱っぽいその手を掴んだ。
 キョトン、と目を丸くする蕾夏を引き寄せ、軽く口づける。唇も少し、熱を帯びているように感じた。
 「…な、なに? どうしたの?」
 ちょっと顔を赤く染めた蕾夏は、動揺したような目で瑞樹を見上げた。
 「…いや、なんとなく」

 何でだろう? ―――正直、よく、わからない。
 ただ、なんだか離れがたくて。

 わからないままに、蕾夏の手を離す。手の中にあった温もりが消えたことに、瑞樹は酷い喪失感を覚えた。
 ―――無理にでも連れて行った方が良かったんだろうか?
 そう思った瞬間、ドアはパタン、という音を立てて、閉ざされた。

***

 ―――マジで、連れてきた方が良かったかも…。
 撮影の終わったフィルムを抜き取りながら、瑞樹はうんざりした気分になった。

 時田に借りたスタジオ内には、カレンと先日撮影してやったモデル2名、加えて新たなモデルが3名―――合計5名の女性モデルがいる。大して広くもない空間に、男は瑞樹1人きりだ。
 それだけでも耐え難いのに、この5人がやたらと喋る喋る―――しかも、会話は全て英語。この拷問のような状態でもなんとか撮影がまともに進んだのは、瑞樹がカメラを構えている間だけは、全員がシンと静かになるからだ。その辺りはまあ、プロならではと言えなくもない。
 「お疲れさまぁ。あと1人、頑張ってね」
 瑞樹からフィルムを受け取ったカレンが、そう言って艶やかな笑みを浮かべる。
 「…もう二度と請け負わねーから」
 「だぁいじょうぶ。そうそうラッキーは続かないから。今回の3人のうち、誰か1人でもオーデションで落ちたら、成田さんの写真伝説もストップするから安心して」
 話を広めるな、という意味なのをさっぱり理解してくれないカレンに、いい加減、説明する気も失せてくる。瑞樹は大きなため息をつき、前髪をぐしゃっと乱暴に掻き上げた。
 第一、瑞樹の写真でオーデションが通った理由を、瑞樹はおぼろげながら推測できている。
 瑞樹は、被写体が誰であれ、ファインダー越しに見つめた先にいるその人間の中に、ひたすら蕾夏を探して撮っている。そのため、瑞樹が撮った写真には、本来の彼女達のキャラクターとは大きくかけ離れたものが写っている。
 写っているのは、どことなく蕾夏を彷彿させる、彼女達の表情―――彼女らの他の写真とのギャップに、クライアント側も興味を覚えるのだろう。ラッキー・フィルムの実態は、案外そんなものだと思う。
 「ねぇ、最後の人撮影し終わったら、みんなでどっか遊びに行かない?」
 「ご冗談」
 「えー、蕾夏さんと一緒じゃない日なんて、滅多にないじゃないのー。遊ぶんなら今日がチャンスよ」
 「遊びたくねぇから、パス」
 「つまんないなぁ。今日ってこれから暇なのに」
 「奏にでも相手してもらえ」
 フィルムを取りに作業台へ向かう瑞樹が、そっけなくそう言い捨てる。いつも以上のハイテンションだったカレンが、その一言に一瞬表情を曇らせたが、疲れていた瑞樹は、それに気づかなかった。
 さっさと撮って、調子が悪いライトを修理して、立ち寄らなくてはならないプロラボに顔を出して―――とにかく、早く帰りたい。やっぱり連れて来れば良かった、とまた後悔のような思いが湧いてきて、瑞樹は苛立った手つきで、作業台の上のフィルムをひったくった。
 「…っと」
 ちょっと乱暴な扱いをしたせいか、フィルムのすぐ傍に置いてあった雑誌が、バサリと音を立てて床に落ちてしまった。
 モデル達の誰かが持ってきたものだろうか。随分古いファッション雑誌だ。古本でも買ってきたのかな、と思いながら、瑞樹は床に落ちた雑誌を拾い上げた。
 そして、その表紙を見た瞬間。
 何かが、頭の中で、チカッと光った気がした。

 表紙の写真は、寒気がするほどの美女だった。
 ゴージャスな巻き髪は見事なブロンドで、大きくて切れ長の目はガラス玉のような輝きを持った明るいブラウン。この雑誌の当時の流行なのか、口紅は不健康なパープルカラーで、何か混ざっているのか金粉でもまぶしたみたいにキラキラ光っている。メイクには詳しくない瑞樹なので、それがどういうメイク技法なのか、見当もつかない。
 彼女は、口の端を綺麗に上げて、微笑んでいた。カメラのレンズを真っ直ぐに見据えて。

 ―――誰だ…? これ。
 表紙の美女を見つめたまま、瑞樹は眉根を寄せた。
 何だろう―――何故か、ひっかかる。知らないモデルなのに、どことなく見覚えがある気がして―――なんだか無性に、胸騒ぎがして。
 「カレン」
 つまらなそうにしているカレンに、瑞樹はその表紙を掲げて見せた。
 「これ、誰だ?」
 「え? ああ―――それは、サンドラ・ローズ。伝説のモデルよ。ほら、あそこにいる彼女がサンドラの熱狂的なファンなの。その本も彼女のコレクション」
 “あそこにいる彼女”には興味がないので、そちらには目を向けない。瑞樹はもう一度表紙の中のサンドラを見据えた。
 「伝説のモデル?」
 「70年代の後半かな、彗星の如く現れて、2年ほど荒稼ぎしたと思ったら、突然この業界から消えたの。アメリカじゃ相当な地位までいった筈なんだけどね」

 その時。
 バラバラだったジグソーパズルのピースが、面白い位にピタリと嵌ったような気がした。

 見覚えがあると感じたもの―――それは、この“目”だ。
 瑞樹はこの目を知っている。忘れようもない―――ファインダー越しに見たあの目は、このサンドラの目と同じだった。
 70年代後半―――たった2年で消えたモデル。その時間的な符合に、瑞樹の推測は確信に変わりつつあった。

 「…さっき、この後暇だって言ってたよな」
 雑誌を作業台に置いた瑞樹は、カレンを流し見ると、そう言ってニッと笑った。
 「前言撤回―――遊んでやるよ。暇だなんて言うんじゃなかった、って後悔する位に」


***


 久々に訪れた時田のフラットで、奏はコーヒーカップを手にしたまま、向かい側に座る時田の目を見据えていた。
 奏の顔は、無表情だった。
 ただ黙って、時田の言う事を聞いているだけ―――感情を押し殺さなければ、爆発しそうだ。だから、カメラの前に立っているつもりで、ただの“物体”になりきる。

 「…奏君? 聞いてるかい?」
 あまりにも奏が何も反応を示さないので、時田は訝しげに眉をひそめた。
 奏は、深く息を吐き出すと、“物体”から“人間”に戻った。コーヒーカップをソーサーに戻し、俯く。うな垂れたその姿は、なんだか叱られた子供みたいに見えた。
 「―――もう1回、要約して言ってくれよ」
 俯いた奏が、ポツリと答えたのは、それだけ。時田は、ちょっとため息をつくと、請われた通り要約した。
 「つまり―――今度の“VITT”の撮影も成田君に任せるけど、彼は“人間”の奏君しか撮らないと言っている。クライアント側への説明は僕がなんとかするから、奏君は彼のイメージする通りにやってあげて欲しい。…そういう事だよ」
 「―――…」
 端的な時田の要約を聞いた奏は、時田には見えないところで、体の奥から湧き上がる苛立ちに耐えるために、唇を噛みしめていた。

 ―――つまり、あんたは今回も撮らない、ってことだよな。
 一番問題な部分をあっさりスルーされてしまったが、スルーされた分だけ、その事実は奏を打ちのめしていた。

 プロになる前の時田は、よく奏や累を撮ってくれた。旅行先で、家の中で、庭先で、学校の運動場で―――雑誌の編集という仕事の合間合間に一宮家を訪れては、奏や累の成長していく姿をカメラに収めていた。
 別段、ありがたいとも妙だとも思わなかった。叔父が甥っ子の写真を撮るのは普通のことだ。ただ。両親や友人が撮った写真より、時田が撮った写真は格段に奏達の写りが良いので、自然と奏は、時田が撮ってくれるのがなんとなく楽しみになった。
 プロになった時田の、初めての風景作品を目にした時は、全身に震えが走った。
 自分の叔父はこんな人だったのか、と改めて認識して、そんな人物に日常的に撮ってもらえていた自分達は相当ラッキーな人間だと思った。時田に撮ってもらえる、という特典だけでも、一宮家に引き取られた価値はあった、という位に。
 17歳の時、モデルのスカウトに迷わずOKしたのは、時田という存在があったからだ。いつか時田に、仕事で自分を撮って欲しい、そう思ったからモデルになったのだ。
 なのに―――時田は、なんとか時田に撮ってもらえるレベルにまで這い上がった奏を、何故か撮ろうとはしてくれなかった。訳がわからなかった奏は、ただ憤ることしかできなかった。

 この、2年間。
 ある事実に気づいてしまってからの、2年間。
 時田は、知らないだろう―――奏が時田に対して抱いていた思いの正体を。

 「…なぁ、郁」
 顔を上げた奏は、暗い目で時田の目を見据えた。
 「オレが“人形”やめて“人間”としてのオレをカメラの前で表現したら―――そしたら、あんたも、撮ってくれる訳?」
 「……」
 「成田じゃなく、あんたが撮る、っていう選択肢はゼロ?」
 奏に、疲れたような暗い目を向けられた時田は、硬い表情でその目を見つめ返していた。
 やがて、小さなため息をついた時田は、まるで聞き分けのない子供を諭すような口調で告げた。
 「―――奏君が、僕の写真を気に入ってくれてるのは、凄く嬉しいよ。僕に撮ってほしい、って気持ちもよくわかってる。けど―――今回だけは、勘弁してくれないかな。今回だけは撮る訳にはいかないんだ」
 「なんで」
 「…すまない。僕のわがままなんだ。いつか撮れる日が来ると思う。でも、今回は」
 「嘘つくなよ」
 テーブルの上に置かれた奏の右手が、心情を表すかのようにぎゅっと握り締められた。
 「嘘つくなよ。オレのことなんか、一生撮る気ないくせに」
 「奏君…」
 「今回だけじゃない。今までだってそうだったし、これからだってそうだ。郁はオレを撮りたくないんだよ。撮る気なんてはなからないんだ。オレが超一流になろうが、お偉いクライアントが大金を積もうが、郁はゴマンといるモデルの中で、オレだけは撮らないんだ」
 「それは誤解だよ。なんでそこまで思いつめるんだ? 家族は撮り難い、ただそれだけだよ、今まで撮らなかったのは」
 困ったような時田の表情に、奏の感情が、許容量を超えた。
 「―――違うだろっ!!」
 バン! とテーブルを叩いた奏は、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。あまりの勢いに、時田も言葉を失った。
 「違う…違う、違う。あんたはそうやって、いつも言い逃れをするんだ。でも、違う! 郁はそんな理由でオレを撮らないんじゃない!」

 やめろ、と、頭の片隅で、もう1人の自分が叫ぶ。
 でも―――もう、止まらない。

 「そんなに―――そんなに、似てるのかよ、オレは! 郁の…郁、の―――…」

 時田の目が、何かを察知して、大きく見開かれる。
 「―――奏君…?」
 「……」
 わななく奏の唇に、時田の顔が、次第に蒼褪める。
 「―――奏君? 君は、何を、知ってるんだい―――…?」

 

 力任せに開け放ったドアが、バタン! と鋭い音をたてた。
 「奏君!!」
 背後から、時田の声が追いかける。
 けれど、奏はもう立ち止まらなかった。さしてきた傘を手にするのも忘れて、玄関の外へ飛び出し、走り出す。

 止まれない。

 もう、止まることなど、できなかった。


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