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01

: 生き残り (1)

 明け方の中途半端な時間に目を覚ましたせいで、少々寝坊をしてしまった。
 まだ半分寝ぼけ眼で1階に下りると、先生が厳しい顔をしてテレビを睨んでいた。
 「…おはよーございます」
 散髪をさぼったせいでほぼ肩につきかけてしまっている髪を掻き上げ、慎二は欠伸を噛み殺しながら挨拶した。すると先生は、厳しい顔のまま振り返り、慎二のトレーナーの裾をぐいっと引っ張った。
 「ばかもん。そんな顔しとる場合か」
 「…ふぇ?」
 「見ろ」
 指差されたテレビ画面に目を移した慎二は、そこに映し出されている光景に、眠気が一気に吹き飛んだ気がした。

 テレビの映像は、上空から撮影された、どこかの街だった。
 くっきりと鮮明なカラー映像。でも、もしこれがモノクロ映像だったら、慎二は、第二次世界大戦の記録フィルムだと信じ込んだことだろう。
 街は、あちこちから火の手が上がっていた。
 かなりの高度からの撮影でも、画面の3分の1近くが真っ赤な炎に覆われており、煙が周辺の建物の輪郭をぼやけさせている。とても冷静とは思えない現場記者の声が何かを必死に伝えている。画面左上の「8:18」というデジタル表示で、それがNHKで、しかも今が連続テレビドラマの時間帯であることが分かった。
 右上に表示されている白文字が、この地獄絵図のような映像が大地震によるものなのだということを語っていた。大地震―――これが自然災害だなんて。でも、今朝早く、地震らしき大きな揺れで目を覚ましたことを思い出すと、ああ、あれがそうだったのか、と納得せざるを得なかった。

 「ど…どこですか、これ」
 「神戸だ」
 「神戸? これが?」
 「今さっき、心配になって本間に電話してみたが、さっぱり繋がらん」
 去年まで、先生の画廊に絵を並べていた画家・本間は、昨年末に芦屋の辺りに引っ越した。六甲から見る夜景が好きな男で、これからは思う存分六甲から見た神戸を描くのだと張り切っていた。最後に会ったのは、引っ越し当日―――まだ、たった3週間前だ。
 「芦屋の方は、大丈夫なのかな…」
 「わからん。それに、あいつの絵の代金、今日振り込んでやる約束だったのに―――ATMなんか使えんだろう、これじゃあ。金のない状態で被災なんぞして、あの青二才が生き延びられるか怪しいな」
 「せ、先生…もうちょっと希望の持てる事言って下さいよ」
 「なぁに、大丈夫。俺が神戸まで行って見てきてやるさ」
 「―――やめて下さい」
 3日前、ぎっくり腰をやったばかりだと言うのに、どうやって神戸まで行く気なのか。慎二は、本気で立ち上がろうとする先生の肩を、少々乱暴に押さえつけた。
 「あ、あいたたたた…」
 「…ほら。まだ無理ですよ」
 「工藤っ、お前がそんなに冷たい奴とは思わなかったぞ。本間が餓死してもいいのか」
 ギロリ、と睨む先生に、慎二は負けた。はーっと大きな溜め息を一つつき、先生の前に手のひらを差し出した。
 「―――分かりました。オレが行って、本間さんの無事を確認してきます。代金と地図、貸してください」

***

 ―――っていうノリで来るような所じゃないだろ、これ。

 人間、ショッキングな光景をあまりに沢山見過ぎると、脳が麻痺を起こすのかもしれない。
 グラグラする頭を廻らせ、今歩いてきた道を振り返る。
 そして、認める。
 これが、現実だと。


 尾道から芦屋まではJRを使えばいい筈だが、ニュース映像を見てから2時間後、駅へ行ってみると、東へ向かう新幹線は広島でストップしているとのことだった。
 人々が駅でごった返す中、飛行機で大阪まで行って、そこから在来線で行ける所まで行く、という案を小耳に挟んだ。即方針転換したのが幸いして、その日の一番最後の便になんとか滑り込み、今更ホテルも取れないので、空港で一夜を明かした。
 実際に、本間の住む芦屋へと向かうことができたのは、翌早朝―――在来線は芦屋より3つ手前の駅までしか通じておらず、そこからひたすら歩いた。

 芦屋が近づくにつれ、思った。
 これは、何かの間違いなんじゃないか、と。
 慎二は建築に詳しい訳ではないが、石を積むだけの雨の少ない中近東の家とは違い、日本の家屋は世界でもトップクラスで丈夫に出来ている、と漠然と認識していた。地理的に地震と火山と台風からは逃れられない国だから、家もそうした災害を想定して、頑丈に造られているのだ、と。
 その、頑丈な家が、こんな風に軒並みバタバタ倒れるなんて。
 10階建て以上のビルの真ん中あたりが、くしゃり、と潰れるなんて。
 子供の頃、仙台に住む祖父母の家が宮城沖地震で被災し、その数日後に見舞いに行った経験がある。あの時の震度はいくつだった? 震度5? 6? あの時だって、倒れたブロック塀にそれなりに恐怖を感じた記憶があるが―――今目の前にある光景は、その時と比較しても、同じ地震という名の天災による被害だとは到底信じられなかった。
 昨日の夜、そして今朝、空港のテレビ画面で見た光景の中に、今、自分がいる。
 ゾッとするほどのリアルさ―――なのに、どこかで、映画フィルムの中に紛れ込んだような錯覚に陥る。瓦礫の下にいるかもしれない家族の名を呼ぶ被災者の声に、また強烈なリアルを感じ、震えがきた。


 本間が住んでいる筈の木造2階建てのアパートは、全壊していた。
 パッと見た限り、1階建ての長屋が崩れたみたいに見える。1階部分が丸ごと押しつぶされてしまったかららしい。本間は1階に住んでいた筈だ。
 「本間さん」
 日頃の運動不足が、もろに脚にきている。疲労した脚がガクガク震えた。いや…むしろ、疲れより恐怖心の方からくる震えなのかもしれないが。
 「本間さん…! だ、誰か、本間さん知りませんか」
 アパート跡地の瓦礫の山の周囲で、素手で瓦礫を取り除いている人々に向かって、なんとか声を掛ける。すると、瓦礫の向こう側に回りこんでいた1人が、ひょっこり顔を出した。
 「…あれ、工藤?」
 埃まみれになったその顔は、眼鏡は割れているものの、間違いなく本間だった。震えていた脚から、一気に力が抜けた。
 「本間さん!」
 「いやー、工藤! どうした、なんでこんなとこにいるんだ」
 あ、すみませんすみません、と他の住人に断りを入れながら、本間は今にもへたり込みそうな慎二の方へと歩み寄った。既にどこかで手当てを受けたのか、破れたトレーナーの隙間から覗く左上腕部には包帯が巻かれているようだ。
 「先生に頼まれて、本間さんの様子見に来たんですよ。ほら、昨日が代金振込みの予定だったし…」
 「ああー! サンキュー、助かるわ。いや、なんせ急にこんな状態になったもんだから、財布も通帳も瓦礫ん中で…今、必死に探してたんだ」
 パン! と神棚に手を合わせる時みたいに手を合わせて拝む本間の明るい笑顔に、慎二はちょっと呆気にとられた。この状況でこれだけ明るくいられる精神力は、表彰ものかもしれないな、と。
 「でも、良かった。無事で」
 「24時間前までは無事でもなかったけどな。俺、あの辺に埋まってたから」
 「…やっぱり埋まってたんですか」
 「結構怖かったぞ、暗いし埃っぽいし―――でも、助け出されてみたら、隣の人も2階の人も埋まっててな。感覚麻痺したわ。多少の災害なら、掘り起こされて拍手喝采もんだろうけど、まともに逃げられた人間の方が少ない位だからなぁ…」
 「しかし、よく助かりましたね、これだけペシャンコの状態で」
 「なぁ。俺もそう思うわ。この状態で住人全員重軽傷で済んだんだから、うちのアパートはラッキーな方だよ」
 はぁ、と溜め息をついて元住居を振り返る本間は、一瞬、気を緩めたのかもしれない。
 ―――やっぱり、無理してるんだな。
 疲れたようなその背中に、明るいハイテンションは苦境を乗り切るための手段なのだと察した。無理にでも明るく振舞わなくては、この現実に立ち向かえない。落ち込んで座り込んでいる暇があるなら、埋まっている人の1人でも、家財道具の1つでも掘り起こさなくてはいけないのだから。
 「…本間さん、これ」
 忘れないうちに渡しておこう、と、慎二は、背負っていたリュックの中から、先生から預かった封筒を引っ張り出し、それを本間に握らせた。
 「とりあえず、売れた2枚の分。それと…これ」
 本当は出すべきかどうか迷ったが、本間の背中を見たら、無性に渡したくなった。慎二は、リュックの底に忍ばせてきたものを取り出し、本間に差し出した。
 「多分…全部、埋まっちゃってるんだろうから」
 「―――…」
 それを見た本間は、びっくりしたように目を丸くし、暫く言葉を失っていた。そんな余裕あるか、と怒鳴られるかな、と少し後悔しかけた慎二だったが、次の瞬間、本間は心から嬉しそうな笑みを浮かべた。
 「…やっぱりお前も、絵描きだなぁ…工藤」

 昨日、ふと思い立ってリュックに突っ込んだ、買い置きしてあった12色の色鉛筆とスケッチブック。
 それを受け取った本間は、大役を終えてホッとしているような慎二に、埃や土がこびりついた手を差し出した。
 堅い握手を交わしたその手は、普段絵筆を握っている本間の手より、この体験がもたらしたショックの分、骨太になっているように感じられた。

***

 翌日。慎二の姿は、被災地の更に中心部にあった。


 昨日、長蛇の列に並んでなんとか先生に電話をし、本間が無事であること、代金をしっかり届けたこと、そしてもう暫くこちらに居ることを伝えた。
 『何を言ってるんだ、さっさと帰ってこい』
 「いえ、実は…本間さんが凄くお世話になってる人が、長田区に住んでるらしいんです。その人に、あの代金の一部を渡して欲しいって頼まれて…」
 『長田だと? お前も見ただろう、テレビで。長田は、あんな状態だぞ』
 先生の言わんとするところは、分かる。慎二もテレビで見ていた。長田区の惨状は。
 寝ぼけ眼で見た、あの光景―――真っ赤な火柱があちこちから上がり、業火にみるみるうちに飲み込まれていった街。あの時はわからなかったが、空港のテレビで同じ映像を見た時、アナウンサーはその街を「神戸市長田区」と説明をしていた。
 『第一、今晩一体どこに泊まる気なんだ。ホテルなんぞやっとらんだろう』
 「避難所の隅っこでも借ります。大阪でカロリーメイトを大量に買い込んであるんで、支援物資の横取りの心配もないですし」
 『それにしたって、顔も知らん相手をどうやって探す気だ。本間に行かせろ』
 「無理ですよ。本間さんだって被災して、自分のことで手一杯なんですから。…大丈夫、あのニュースの様子じゃ、新長田界隈はほぼ全員避難所だろうから、避難所めぐりしますよ。本間さんに似顔絵も描いてもらったし、きっと見つかりますから」


 ―――見つからないかも。
 本間が描いた似顔絵をチラリと見遣り、慎二は眉をひそめた。
 忘れていた。本間の画風は、思い切りシュールレアリズムだ。こんなところで芸術性を発揮しなくたっていいのに、と思うのだが、慎二以上に芸術家肌な彼に「普通の絵を描け」と言うのは無理な相談なのだろう。この絵を見せて「知りませんか」と訊くのは無理だな、と慎二は思った。
 一応、名前と職業、それに大体の住所は聞いてある。それを伝えれば、地元の人同士なら分かる筈だ。慎二は、ボランティアなどが入って結構な混乱状態にある避難所の中を歩き回り、声が掛けられそうな、捜し求める人と同年輩の人物を探した。
 ほどなく、首からタオルを掛けた中年の男性3人組みが、避難所の入口付近で輪になっているのを見つけた。
 「あ、あのー…、ちょっといいですか」
 慎二が声を掛けると、男性陣はピタリと会話をやめ、胡散臭そうな目で慎二を見た。
 「…取材やったら断るで」
 「え、いえ、違います」
 取材―――その単語に男達の目つきの理由を察して、慎二は深く納得した。そう言えば、今日ここまで歩いてくる途中でも、上空を何機ものヘリコプターが飛び交っていたっけ…と思い出す。バラバラというプロペラの音に、瓦礫の下で助けを求める人の声が掻き消されるんじゃないかと心配になったが―――どうやら、そういう現実もありそうだ。
 明らかな標準語を話す自分を、どうやら彼らはマスコミの人間と誤解したらしい。慎二は、困ったように頭を掻いて、素直に素性を述べた。
 「オレ、人探しを頼まれて来たんです。でも、オレとは面識のない人で…地元の方なら分かるかな、と思って」
 「…なんや、そうかい」
 一般人らしいと分かり、彼らの警戒が緩む。ホッと胸を撫で下ろした慎二は、折りたたんだ似顔絵の裏側に書いてあるメモ書きを読み上げた。
 「ええと…若松町ってところでパン屋さんをやってらっしゃる、木下さんという男性なんですが」
 「―――ああ、木下ベーカリーのことか」
 途端、3人の表情が曇る。互いに顔を見合わせ、お前が話せよ、と譲り合ってるようだ。
 結局、慎二の一番近くに立っていた男性が、気の毒そうな顔で告げてきた。
 「木下さんは、昨日の晩遺体で発見されたわ。奥さんと子供は、たまたま明石の実家に帰省しとって無事やったけど…」
 「―――…」
 「あの一帯は、見渡す限り焼け野原や。もうなぁんも残ってへん―――残念やったなぁ、せっかく来てくれたのに」

***

 見渡す限り、焼け野原。
 誇張などではなかった。何もない―――僅かに、コンクリートや新建材で出来た壁が、所々に残っているだけだ。

 つい3日前までは、普通の生活が営まれていた街―――大半が木造家屋で、昔ながらの風情が残る街。そこかしこに、人の息遣いが、ありふれた日常風景が、極当たり前のように存在していた筈のそこに、今、そうしたものは一切なかった。
 いたるところで、死んでいた。
 別に死体が転がっている訳ではないが、それは肌で感じられる。今通り過ぎた真っ黒こげの木材の山の下でも、今目の前に迫ってきている骨組みだけ残った建物の中でも―――あちこちで、命が消えていた。芦屋で見た、瓦礫の下から人を助け出そうとする動きすら、ここにはもうなかった。
 「…酷いな…」
 思わず、呟いた。
 冬の太陽は、既に傾きつつある。慎二は、半ばうなだれるようにして、煤けた瓦礫が連なる中を歩き続けた。

 慎二は、昨日まであった日常が唐突に奪われる恐怖を知っている。
 生まれてからずっと一緒にいた人が、ある日突然いなくなる。彼らが語っていた夢や希望、彼らが語っていた未来は、もう絶対に来ない―――その事実を噛み締めなくてはいけない辛さを、よく知っている。
 自分が体験したあれと同じものが…いや、それよりはるかに苦しいものが、この街のいたるところで起きていると思うと、辛かった。来るべきじゃなかった―――そんな後悔が、次第に強くなっていく。
 第一、ここに来て、一体何をしようというのだろう? もう、本間に託された金を渡すべき相手は、ここにいないというのに。
 せめて生き残った妻と子供に渡せれば、と思ったが、既に遺体を引き取って明石に戻ったという。そこまで追いかけるのは、さすがに無理だった。…ならば、何故、ここに来てしまったのだろう?

 はぁ、と溜め息をついた時、俯いたまま歩いていた慎二の目に、煤で真っ黒になった看板のようなものが飛び込んできた。
 「…“木下ベーカリー”…」
 辛うじて読める字。
 顔を上げると、そこにはかつての“木下ベーカリー”が、その焼け焦げた屍をさらしていた。
 別に、奇跡的にそこだけが焼け残っている、なんてエンディングを期待していた訳じゃない。
 でも、実際に目にすると、ああやっぱりな、と一気に脱力感が襲ってくる。これじゃあ助からない訳だ―――諦めにも似たものがじわりと胸に広がる。慎二は、ほんの少しだけ姿勢を直し、斜めに傾いで地面にめりこんでいる“木下ベーカリー”の看板に手を合わせておいた。
 本間に、どう伝えよう? これから芦屋に戻るべきなのか、それとも、少し落ち着いた頃に改めて伝えるべきなのか―――なんとなく後者の方がいい気がする。どちらにせよ、電車はストップしているのだから、西宮まで車に便乗させてもらうか、歩くしかない。
 帰ろう。そう決意した慎二は、顔を上げた。

 と、その時。
 俯いて歩いていた時には気づかなかったものに、慎二は気づいた。

 “木下ベーカリー”の、隣。やはり同じく、原形を留めないほどに焼け落ちてしまった家の前に、一人の女の子がうずくまっていた。
 いくつ位なのだろう? 顔が見えないので、よく分からない。が、背格好からして小学校高学年から中学生といったところに見える。学校の体操服なのか、紺色のスウェットパンツと白のトレーナーを着ているが、トレーナーの方はあちこちに泥や煤がついて、白とは呼べないものになりつつある。
 彼女は、うずくまったまま、動かなかった。
 いや―――微かに、肩だけが動いている。小刻みに震える肩…泣いている。抱え込んだ膝に額を押し付けるようにして、声を上げずに。
 思わず慎二は、周囲を見回した。けれど、彼女の関係者とおぼしき人物は見当たらない。どうやら、彼女は一人ぼっちのようだった。

 こんな光景、芦屋でも、今日ここに来るまでの間にも、いくらでも見た。
 子供が見つからないと言って嘆く母親。崩壊した自宅に戻り呆然自失状態になっている出張先から戻った会社員。その都度、心を痛めはしたが、足を止めるには至らなかった。あまりにもそんなシーンが多すぎて、感覚が麻痺していたのかもしれない。

 なのに。
 何故か慎二は、その子が気になった。
 他の家族はどうしたんだ、という点が気になったのかもしれないし、単純に彼女が“子供”である点が放っておけなかったのかもしれない。でも、そういう分かりやすい理由以上に―――なんだか、不思議な予感を覚えていた。

 ―――“助けて”。
 “助けてあげて、その子を”。
 誰かが、そう言って、慎二の背中を押したような気がして。


 「…あの…キミ、大丈夫?」

 慎二は一歩踏み出し、彼女にそう、声を掛けていた。


***


 「帰ってこんなぁ…」
 新聞をバサバサと広げつつ、先生が溜め息混じりに呟く。その言葉に、味噌汁のための出汁をとっていたはるかの眉が、ピクリと動いた。
 「…ねぇ、叔父さん。本当に連絡もないの? 全然?」
 疑いを含んだ声でそう訊ねて振り返る。すると先生は、疑われた事に憤慨したように眉を顰め、バサリと新聞をテーブルに置いた。
 「ないと言ったら、ない。電話の1本もありゃあ、はるかにだってちゃんと言うぞ」
 「…だって…もう3週間近いのよ? 電話だって、かなり復旧してきてるって言うじゃない。実際、芦屋で本間さんに会った時には連絡を入れてきたんでしょう? あの状況で連絡できたのに、どうして今、何も連絡がないのよ」
 「そんなこと俺が知るか」
 「まさかとは思うけど…電話も出来ないような状況なのかしら。大怪我したとか、病気になったとか」
 そんな慎二の状況を想像して、はるかの顔が僅かに蒼褪める。お世辞にも頑丈とは言えない慎二だけに、そんなシーンは容易に想像できてしまうから。
 「…とにかく、工藤は“もう暫く”と言ったんだ。あいつの言う“暫く”がどの位なのか分からんが―――本間にも連絡がつかない以上、待つしかないだろうなぁ…」
 「そんな呑気な…」
 呆れたような顔をするはるかに、先生は、適当に苦笑を返しておいた。
 実際のところ、はるかとは違い、先生に悪い予感は全くなかった。
 昔から慎二は、どことなくフラフラした奴だった。2週間帰ってこなくても、まぁそんなこともあるか、と思えるようなタイプ―――部のみんなで写生をしに行っても、必ず行方不明になって集合時間にも間に合わなかったよなぁ…と、かつての慎二を思い出す。だから、今回も、みんなが探すのを諦めた頃にフラリと帰ってくるのではないか―――そんな気がしていた。
 とはいえ、そろそろそれも限界だ。
 「1ヶ月経ったら、さすがにちょっと心配だからな。そうなったら警察に届け出てみるさ」
 はるかはまだ納得がいかないようだったが、この家の主である先生がそう言うのであれば、第三者のはるかがとやかく言える訳もなかった。

 溜め息をついたはるかが、ちょっと予定より長く沸騰させてしまった出汁を慌ててコンロから下ろした時、玄関の引き戸がバンバンバン! と3回叩かれた。
 「―――!」
 ハッとして、はるかと先生が顔を見合わせる。磨りガラスの入った引き戸を、拳で軽く3回叩く―――それは、慎二のいつもの癖だから。
 行動は、はるかの方が早かった。出汁の入った鍋を火を止めたコンロに戻すと、脇目もふらずに玄関に飛んでいく。先生も少し遅れてそれに続いた。
 「せんせーっ、オレですー、慎二ですー」
 玄関の灯りをつけると、磨りガラスの向こうに慎二らしき人影が見えた。あたふたと玄関のたたきに転がり出たはるかは、大急ぎで鍵を開けた。
 ガラリ、と引き戸を開けると、間違いなくそこに、慎二が立っていた。
 「工藤さんっ!」
 「…あ、はるかさん、ただいま」
 「た…っ、ただいまじゃないわよっ! 一体どこで何してたの!?」
 鬼の形相で見上げてくるはるかに、出て行った時より若干やつれた感じになった慎二は、たじたじといった感じで後退った。日頃温厚なはるかの豹変に、笑顔がさすがに引きつる。
 「おー、工藤、遅かったな」
 はるかの背後から悠然と現われた先生に、慎二は引きつった笑顔を元に戻した。
 「すみません、ちょっと遅くなっちゃいました」
 「本間の恩人に金は渡せたのか」
 「あー…、それは、また、後で。あの―――それより、大事なご相談が」
 近寄りすぎていたはるかをさりげなく玄関の中へと押し戻した慎二は、少し視線を落として、まるで落ち着こうとしているかのように小さく息を吐き出した。そして、何かを決意したかのように顔を上げると、くるりと背後を振り返った。
 「大丈夫だよ、おいで」
 誰か後ろにいるらしい。先生とはるかは、同時に眉をひそめた。
 慎二に呼ばれた“誰か”は、躊躇っているのか、なかなか姿を現さない。焦れてきた慎二が、「ほら、早く」と言ってその腕を掴み、半ば無理矢理自分の横に引き寄せた。

 現われたのは、ペルシャ猫とよく似た目をした、中学生位の女の子。

 「すみません。オレ、この子引き取っちゃったんで―――今日からここに住まわせてもいいですか?」

 全然悪びれない様子で、慎二は笑顔でそう言った。


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