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01

: 生き残り (2)

 何故自分がここに居るのか、透子は今ひとつ、よく分からなかった。

 ついこの前まで暮らしていた神戸の家とどことなく似ている、木造の古い家。
 飴色をした柱が、透子の部屋の柱と同じ模様をしているように見える。壁に掛かっているアンティークな時計も、祖父の店の真正面に飾ってあった時計と似ている―――そんな、神戸の家との共通項を見つけては、なんとなくホッとした気分になった。
 ホッとしたら、急激に眠くなってきた。
 「眠ってもいいよ」
 トロン、とした目になった透子を見て、ダウンジャケットを脱いでいた慎二がクスッと笑う。
 「昨日もあんまり眠ってないみたいだし、眠れる時に眠っといた方がいい」
 「けど…私、まだ“はじめまして、井上透子です”しか言ってへんよ、あのおじさんとお姉さんに…」
 「大丈夫。透子のことは、オレから2人に話すから」
 くしゃっ、と髪を掻き混ぜるように撫でられる。
 限界だった。透子は、慎二が脱ぎ捨てたダウンジャケットを引き寄せると、畳の上に丸まった。

 数秒後―――透子は、すーすーと穏やかな寝息を立てて眠っていた。


***


 「え…っ、寝ちゃったの? その子」
 慎二の足元で丸まっている透子を見て、お茶を運んできたはるかが目を丸くした。
 「うん。もう、傍目にも疲労困憊って感じだったからさ。自己紹介もまだだけど、いいよね、寝かせといても」
 「いいけど…その、工藤さんのダウンジャケットに包まってるのは、どういう意味?」
 「寒いんじゃないかなぁ。この家、古いから隙間風多いし」
 「古くて悪かったな」
 ごつん、と慎二の後頭部に拳がぶつけられる。頭をさすりながら振り向くと、自分の分の湯飲みを持った先生が、憮然とした顔で立っていた。
 「古いのは俺のせいじゃない。親のせいだ。尾道の街にはこういう風情が似合うと言って聞かないから、結局他界するまでの40年間、補修で凌いだんだぞ。それでこのレベルなら表彰もんだろう」
 「…そうですね」
 他界後の2年間は補修もしてないじゃないですか、という言葉は、寸前で飲み込む。とにかく一服しましょうよ、というはるかの意見に従い、大人しく和室のど真ん中に置かれた机の一角に腰を下ろした。ちょうど透子が寝ているすぐ隣に。
 ひとまず、3人でお茶を一口飲む。
 「あー…うまい。落ち着くよなぁ。お茶なんて、神戸行ってる間一度も飲んでなかった」
 ふんわりと幸せそうな笑みを浮かべる慎二に、お茶を淹れたはるかも笑顔になるが、ふと不思議に思って眉をひそめた。
 「3週間近くも、一体どこで寝泊りしてたの?」
 「避難所がほとんどかな。透子、かなり精神的にやられちゃってたから、一人にしておくと何するか怖くてさ。人数オーバーで避難所移動させられたけど、その時もやっぱりくっついてった」
 「…で? お前はその、透子ちゃん、だったか? その子を引き取ったと言っとったが」
 透子を起こさないよう気を遣っているのか、いつもより若干小さめの声で先生が切り出す。
 「引き取ったってのは、具体的にどういうこった? 養子縁組でもしたのか」
 「いや、まさか。後見人になったんです」
 「後見人?」
 「未成年後見人ってやつです」
 「透子ちゃんのご両親はどうしたの」
 事情を知らないはるかの質問に、慎二は表情を曇らせた。
 「…透子には、両親と8つ離れた弟がいたんだけど―――今回の震災で生き残ったのは、透子だけなんだ」
 「―――…」
 「父方も母方も親戚がほとんどいなくて、今、唯一残っている親族は、透子のお母さんの妹―――独身で、仕事のために1年の大半を海外で過ごしてるんだ。つまり、実質、日本に暮らしている親戚はゼロ。長田区でも一番火災の被害が激しかった所に家があったから、家財道具も財産も残らず灰になっちゃったし…」
 「そ…うなの…」
 まさに、一夜にして「全て」を失ったらしい透子の身の上に、はるかは消え入りそうな相槌を打ち、落ち込んだように視線を落とした。隣に座る先生も、軽く溜め息をついて眉を顰めた。
 「震災の5日後に、その唯一の親族だっていう叔母さんが駆けつけたんだけど、なんとか葬式出した日の夜には“今晩か明日朝の便でイタリアに戻らなきゃいけない”って言って」
 「酷い話だな。たった一人生き残った姪だろうが。仕事より優先するもんじゃないのか」
 「仕方ないんですけどね…透子に会ったの、あの時がまだ2回目だって話ですから」
 「…なるほど」
 「で…施設かどこかに入るしかない、って流れになりそうだったんだけど―――そういう施設も崩れちゃってて、すぐに入所できる状態じゃないし、そこの職員の人、ちょっと対応が横柄で、透子と喧嘩になっちゃったし…」
 「それで、工藤が後見人になることにした、と」
 「…まあ、そんな感じです」
 「―――お前にしては、随分思い切ったことをしたなぁ…」
 はあぁ、と大きな溜め息と共に、先生が感心したような呆れたような声で呟いた。
 「クラスの役員も、最後の最後まで“オレはいいです”って他の連中の影に隠れて前には絶対出てこん奴だったのに…町内会の空き缶拾いでも、突然消えたと思ったら仲間と缶蹴りに夢中になってたような、ボランティア精神の欠片も持ち合わせとらん奴だったのに…」
 「…今更そんな昔のことを蒸し返さないで下さい」
 ―――これだから、先生には頭が上がらないのだ。慎二は、クスクス笑うはるかに困ったような笑みを返す一方で、先生を睨むことも忘れなかった。
 「事実を述べたまでだ。そんなお前が、まさか親を亡くした子を拾ってくるとはなぁ―――どういう風の吹き回しだ?」
 「うーん…なんとなく、成り行きです」
 「そんなアバウトな」
 「―――あの…、オレ、ちゃんと透子の分も食費出しますから」
 急に表情を引き締めると、慎二は姿勢を正して先生を真正面から見据えた。
 「オレ、こいつの中学の先生にも会いました。その話だと、透子、結構成績良くて、震災がなければ地元の有名校受ける筈だったらしいんです。透子は進学は諦めるって言ってるけど…公立なら、オレでもなんとか行かせてやれると思うんです。授業料、ちゃんと払いますから…行かせてやって下さい」
 いつになく真剣な慎二の様子に、先生も、はるかも、面食らったように息を呑む。成り行きで、ここまで真剣になれるものだろうか、と、ちょっと、不思議に思う。
 ただ―――慎二が透子と過ごした3週間あまりの間に、彼らしか知りえないような出来事が、きっと山のようにあったのだろう―――それは、想像がつく。その出来事の多くが、おそらくは楽しいものではない筈だ。辛いこと、苦しいこと、憤らずにはいられないようなもの…そんな体験の積み重ねが、慎二を真剣にさせているのかもしれない。
 1分近く、沈黙が続く。やがて口を開いた先生は、腕組みをし、ちょっと渋い顔をしながらも、
 「…まあ、部屋は余っとるしな」
 と、慎二の願いを受け入れてくれたのだった。


***


 ぐらぐらと肩を揺すられた透子は、はっとして、弾かれたようにガバッと飛び起きた。
 「きゃ…び、びっくりしたっ」
 柔らかな、鈴みたいな声が、肩を揺さぶった手を驚いたように引っ込め、そう叫ぶ。
 今、ここがどこなのか、一瞬判断ができなくなる。包まっていたダウンジャケットを畳の上に落としつつ、透子はぐしゃぐしゃになったショートボブの髪を掻き上げ、目の前にいる女性の顔をぼんやり眺めた。
 ―――お母さん?
 じゃ、ないよね。
 一瞬、母に似て見えた顔は、視界がはっきりしてくると、全く似ていない顔だと分かった。少し落胆したところで、思い出した。ここが、どこなのか。
 目の前の女性は、ドギマギしたように胸元を押さえつつ、慌てたように笑顔を作った。
 「透子ちゃん、お夕飯できたから―――あっちで一緒に食べましょう?」

 

 「すみませんっ、私、全然手伝いもしないで…っ」
 朱塗りのお箸を手にしながら、透子はひたすら恐縮していた。そんな透子に、向かい側の席に並んで座る“先生”と“はるかさん”は、気にするなと言ってくれた。
 「疲れてたのよねぇ。無理もないわよ。ずっと、ゆっくり眠れるような環境じゃなかったんだろうし」
 「部屋は工藤の部屋の向かい側にするけど、当面は布団とちゃぶ台で構わんかな。リサイクルショップにいいベッドと勉強机が入ったら買うつもりでおるけどな」
 神戸を離れる時に託された義援金で、そのベッドと勉強机は買えるんだろうか―――肉じゃがを頬張りながら、透子はそんな妙に現実的なことを考えていた。


 透子が連れてこられた家の主は、名前を西條寅之助といった。
 以前、祖父が「眉毛の長い人は頑固もんが多い」と言っていたが、その説が正しいとしたら、この人物は頑固者だろう。白髪と黒髪が1対3位で混じり合った灰色の髪をしていて、それと同じ色合いの眉毛は、太くて毛足が長い。自己紹介では51歳と言っていたが、もっと若くも見えるし、もっと上にも見える。痩せ型で、小柄だ。
 西條寅之助は、透子をここに連れてきた人物―――工藤慎二の、高校時代の恩師だという。
 元々、東京で高校の美術教師をしていたそうで、慎二とはその時、美術部の顧問として出会ったらしい。2年生の時には、偶然慎二のクラスの担任も受け持った。そんな訳で、高校時代の慎二をよく知る人物らしい。
 3年前、この家で一人暮らしをしていた母親が病気になったのをきっかけに、高校教師を辞め、故郷の尾道に帰ることを決意した。その際、定職にもつかずフラフラしていた慎二に声をかけ、尾道まで連れて来た。尾道でギャラリーを開くのが、昔からの夢―――そして今、実際に、尾道にギャラリーを開き、その2階では絵画教室を開いている。慎二も、そこで働いているのだ。
 前職が教師であるため、また、今から1年半前にあっけなく他界した母親も、そしてもっと前に他界していた父親も教師だったため、そして今の仕事も半分が「絵画教室の先生」であるために、彼は周りから常に“先生”と呼ばれている。この界隈で、ただ“先生”と言う時は、それは西條寅之助その人を指すのだそうだ。よほど有名人なのだろう。

 そして、透子が思わずご飯をおかわりしてしまったほどに料理が上手なこの女性は、“先生”の兄の娘―――つまり姪で、西條はるかと名乗った。
 色白でぽっちゃりとした丸顔、清楚な感じのストレートの髪、優しげで愛らしい顔立ちは、料理の上手さも手伝って「お嫁さんにしたいタイプ」と男性から言われそうなタイプに見える。実際、趣味は料理と編み物というのだから、将来、優しくて温かいお母さんになるのは間違いないだろう。
 はるかは、この家の住人ではない。
 はるかの家はこの家の隣にあり、はるかは当然、そこで寝起きしている。先生と慎二だけ、という男所帯のこの家の栄養状態を心配したのか、平日は、勤め先のデパートから帰ってくるとこの家に顔を出し、夕飯を作る。そんな日常を送っているのだ。
 よほど先生と慎二の料理の腕前に問題があるのか、と思ったら、事実はもうちょっと複雑だった。
 はるかの家は、両親と弟、そしてはるかの4人暮らしだった。が、2年前の春に、弟が大学に進学して広島の中心部で一人暮らしを始めてしまった。それと前後するように、はるかの父が単身赴任を命ぜられた。母がいなくては靴下のありかも分からないような父なので、火曜から金曜日の4日間、やむなく母は父の単身赴任先に出向いているのだ。
 そんな訳で、平日、はるかの家は、はるかの一人暮らしに等しい。一人で食事を食べるよりは…というのが、はるかが食事を作りに来る本当の理由のようだった。

 親子でも兄弟でもない3人に、また1人、全然接点のない自分が加わった、4人の食事風景。
 ヘンなの―――でも何故か、透子はホッとしていた。元々ある家族の団欒の中に割って入るなんて、なんだか悪い気がして絶対できない。でも、こういう輪の中になら、案外抵抗なく入っていけそうだ。


 「あっ、私、後片付けやりますっ」
 食事が終わると、当然のようにはるかが台所に立ったが、透子はそれを追いかけて行って、さっそく選手交代を申し入れた。
 「そんな…いいわよ? 今日はまだ来たばっかりなんだし、疲れてるでしょ」
 「平気平気。仮眠してすっかり元気になったから」
 笑顔でそう言ってセーターを腕まくりした透子は、半ば強引とも言える態度で、はるかとシンクの間に割って入った。
 「それに、前から、夕飯の後片付けは私の担当やったから、夕飯食べた後にぼーっとしてるのは、なんや妙に落ち着かへんし」
 「…そう。じゃあ、洗い物はお願いして、私はお皿を拭き上げてくわね」
 納得したように笑い、素直に透子に場所を明け渡したはるかに、透子もニッコリと笑みを返した。
 ―――余計なこと、言っちゃったかなぁ。
 つい1ヶ月前まであった日常について透子が口にした途端、はるかの目が「しまった」という表情になったのを、透子は見逃さなかった。気を遣わせてしまったかも、と、片付け役を譲ってもらうために口にした言葉を、透子は少し後悔した。
 手早くスポンジに洗剤をつけ、油汚れの少ないものからいいテンポで洗い始める。そんな透子の横で、はるかは既に洗い上げてあった湯飲みなどをせっせと拭いて、カップボードに戻した。
 「今日の夕飯、口に合った?」
 きゅっきゅっと食器を拭きながら、はるかが訊ねる。透子は満面に笑みを湛え、ちょっとだけはるかの方を見た。
 「もう、すっっごい、おいしかった!」
 「本当?」
 「うん。はるかさんの手料理食べられるなんて、先生も慎二も幸せもんやなぁ、って、しみじみ思った。…あ、今日からは私も、その幸せもんの一人やね」
 「“慎二”…ああ、工藤さんのことね」
 一瞬、誰のこと? と思ったものの、すぐに理解できたらしいはるかは、不思議そうな顔で透子を見た。
 「ねぇ、透子ちゃん」
 「はいー?」
 「どうして、工藤さんについて尾道まで来ようって思ったの?」
 「どうして、って?」
 「だって、工藤さんとは全然面識がなかったんでしょう? それに、神戸には沢山友達もいたでしょうに…」
 お椀を洗う透子の手が止まった。
 透子の眉間に、うっすらと皺が寄る。記憶を辿るように目を細めた透子は、続いて、ちょっと首を傾げるようにした。
 「…うーん…なんでやろ…」
 「優しそうに見えた? それとも―――透子ちゃん位の年頃だと、工藤さんみたいなタイプってちょっと憧れるかな」
 「あはは、それはないなぁ。私の理想の男の人は、ジャッキー・チェンやもん」
 「…似ても似つかないわね」
 「でしょー?」

 透子の理想の男性像は、強くてパワフルで、それでいてユーモアのセンスのある人だ。顔もファニー・フェイスの方が愛嬌があって親しみやすい。まさにジャッキー・チェンが理想的。
 比べて慎二は―――10歳年下の透子から見ても、「しっかりしろ」と言いたくなるほど、パワーが足りない。
 確かに、顔は比較的整ってる。外国の血でも混じっているのか、髪の色も目の色も薄い色で、一見ハーフかと思うほどだ。でも、カッコイイというよりは綺麗と称されそうなその顔は、ひたすら優しそうで、あまり男っぽくない。背格好もヒョロッとしていて、スリムではあるが、力が強そうではない。あれで肩幅がもう少し狭かったら、透子の目には男とすら映らないかもしれない。

 「ねぇ、じゃあ、神戸にいる間の工藤さんってどんな感じだった?」
 はるかはどうやら、何か劇的なドラマがあって、透子が慎二について行くことを決意したと思っているらしい。ちょっと期待しているようなはるかの目を見て、透子は苦笑した。
 「慎二は、ずーっと、静かやったよ」
 「静か…」
 「うん。静かやった。静かに…ただ、ずっと一緒に居てくれた」

 ―――だから、ついて来ようと思ったんだ。多分。
 自分でもよく分からないけれど―――そういうことなんだろうと、透子は漠然と思った。


***


 風呂から上がり、はるかに借りたパジャマを着た透子が2階の自室に現われた途端、布団を敷いていた先生と慎二が一斉に吹き出した。
 「なっ…何!?」
 「い、いや、だって…ねぇ、先生」
 「う、うーん、まあなぁ」
 いきなり笑われたことに目をまん丸に見開く透子を前に、先生も慎二もいまいち歯切れが悪い。でも、笑っている理由は、実にシンプルだった。
 あまりにも、サイズが大きすぎる。
 透子は、多分同じ中3の中でも小さい方だろう。その透子に、標準よりちょっと大きい位のはるかがパジャマを貸すのは、少々無理があったかもしれない。明らかにダボダボといった感じで袖も裾も余らせている透子の様子に、日頃は難しい顔をしていることが多い先生も、さすがに肩を震わせて笑ってしまう。
 「なんやの、もぉ―――あっ、布団! やだ、私、自分で敷こうと思ってたのにっ」
 不審気な目をしていた透子は、すっかり部屋が整っていることに気づくと、慌てたように中に駆け込み、最後に慎二が置こうとしていた枕をひったくった。
 「先生も慎二も、そんな風に気ぃ遣わんといて。布団敷く位、私でも出来るんやから…」
 「今日は特別。だってほら、1階から運んでくるのは、透子じゃ無理だろ?」
 「…背中に背負えば運べるもん」
 拗ねたように唇を尖らす透子に、慎二も軽く眉を上げた。
 「ふーん…じゃあ、今からまた布団下に下ろす?」
 「―――今更、いい」
 さすがにそこまで意地を張る気はなかったらしい。透子は、枕を抱きしめたまま、布団の真ん中にぺたりと座り込んでぷいっとそっぽを向いた。慎二と顔を見合わせて苦笑した先生は、そんな透子の頭をぽんぽん、と撫でた。
 「一人で眠れるかー? 寂しくなったら先生んとこ来てもいいぞー。慎二んとこよりは安全だからなー」
 「…先生。誤解を招くようなこと言わないで下さいよ…」
 冗談とは分かっていても、聞き捨てならない。慎二がむっと眉を顰めるのと同時に、そっぽを向いたままの透子がぽつりと呟いた。
 「どっちも“彼女のおらん独身男性”って点では同じやわ」
 「―――…」
 ―――き…きつい言葉だなぁ…。
 言葉通り“彼女のいない独身男性”である先生と慎二は、当然ながら、そのセリフにフリーズした。その気配を背中に感じた透子は、チラリと2人を振り返り、唖然とした表情で固まっている2人を確認すると、ニッと笑ってみせた。
 「…なぁんてね」
 「……」
 「大丈夫、一人で眠れるから、心配せんといて。ほらっ、2人とも、いつまで乙女の部屋を占拠してんの。はいはい出てって」
 「…どこに乙女がいるって?」
 憮然とした表情で呟いた先生に、透子が抱きしめていた枕が問答無用でぶつけられた。


 透子に部屋から追い出された2人は、寝る前に一杯、と言って、1階に下りた。
 缶ビールを1本冷蔵庫から取り出し、それを2つのグラスに分ける。寝る前の一杯は、いつもこの程度と決まっているのだ。
 「はー…、なかなか、頭の回転の速い子だな」
 さっきの憮然とした顔から一転、どこか愉快そうな顔をして、先生がグラスをあおった。
 「まだまだガキだが、大人を食っちまうようなところがある子だ。ありゃあ面白い」
 「そうですね」
 「しかし、子供は、立ち直るのが早いなぁ…。新しい生活に慣れるのも時間の問題そうじゃないか」
 「……」
 慎二は、曖昧な笑みで先生の言葉に応え、注がれていたビールの3分の1ほどで喉を潤した。

 透子は多分、先生にそう思ってもらいたいのだろう。
 震災で受けた傷から、子供ならではの無邪気さで急速に立ち直りつつある、明るくて元気な子供―――同情されるのが一番嫌だと、透子は言った。だからこそ、先生やはるかには、そんな無邪気な自分を演じ続けたいのだろう。

 慎二が透子を引き取った本当の理由は、引き取り手が居なかったからではない。
 施設の話なんて、本当は大した問題ではない―――先生やはるかに、ここに透子を置くことを了承してもらうために、そして透子に下手な同情などしないでもらうために、事実を少々オーバーに言っただけだ。

 本当は、慎二は、とても置いては来れなかったのだ。
 家族の後を追うと、思いつめた目でそう宣言した、透子を。


***


 世界が、回る。
 空と地面がぐるぐるに回る。今、自分がどっちを向いてるかも分からない。揺れる、なんて表現は甘すぎる。撹拌される―――まるで、ミキサーにでもかけられたみたいに。
 これは、何? 一体、何? どうしたの、何があったの、なんでこんなことになってるの―――疑問符ばかりが頭の中を占拠し、そんな言葉までもが掻き混ぜられる。何も分からなかった。ただ、振り落とされないようにと、ベッドのヘッドボードに必死にしがみつき、体を丸めていた。
 空を飛んだような気がして、その浮遊感にゾッとした。
 続いて、地面にたたきつけられるような衝撃―――あまりの痛みに、悲鳴も出なかった。倒れた体の上に、細かい木材や土ぼこりが降って来る。もう、ただ体を最大限縮めて、頭を抱え込むことしかできなかった。

 そして―――静寂が、きた。


 透子は、自宅の前の道路の上にいた。
 しがみついていたヘッドボードは、透子から少し離れた所に転がっていた。ベッド本体は、見当たらない。一体自分は、何故ここにいるのだろう? 自分の部屋で寝ていた筈なのに…何故、外にいるのだろう?
 頭が、ズキズキする。ガラスの破片が手や腕に刺さって痛い。ああ、私、部屋の窓を突き破って外に放り出されたんだなぁ、と、妙に冷静に分析する。じゃあ、部屋は、窓は、家は、どうなったんだろう。
 やっとそこに考えが及び、ふらつきながらも顔を上げた時。
 透子はそこに、瓦礫の山と化した自分の家を見つけた。

 そこから先は―――あまり、覚えていない。
 必死だった。
 とにかく、必死だった。
 瓦礫を、ガラスで怪我した手で1つ1つ取り払い、父と母と弟の姿を探した。訳の分からない言葉を叫びながら、狂ったように瓦礫を掴んでは放り出していた。何分、何十分、何時間そうしていたのか、全然覚えていない。この時間の記憶は曖昧で、周りで何が起きているのかも、隣の家や向かいの家がどうなっているかも、全然わかっていなかった。

 ふと気づくと、暗かった空が明るくなっていた。
 「透子ちゃんっ!」
 突然、名前を呼ばれて顔を上げた。
 向かいの家の、ミヤマ靴店の奥さんだった。ネグリジェ姿の奥さんは、頭から血が出ていて、その血が固まりかけていた。その足元には、ミヤマ靴店のご主人と、飼い猫のチロがうずくまっている。でも、大学生の息子さんの姿が見えなかった。
 「おばさん…」
 「透子ちゃんっ、お父さんは!? お母さんは!? 紘ちゃんはどうしたの!?」
 「い…いないの…」

 いない。
 お父さんもお母さんも、コータもいない。

 ダメだ、頭が回らない。それってどういうこと? 誰もいないって、私しかいないってどういうこと? なんでみんないないの? どこにいるの?

 …やっぱり、この瓦礫の下にいるの?

 ―――どんな状態で、こんなところにいるの―――…?

 ぞくっ、と、寒気が背中を駆け上がる。悲鳴を上げた透子は、助け起こそうとしたミヤマ靴店の奥さんの手を払い除け、自分の家の瓦礫に飛びついた。
 「コータっ!!!」
 何故か一番に、紘太の名を叫んだ。
 「コータ! コータ! 返事して、コータっ!」
 絶対、生きてる。
 紘太は小さい。どっかの隙間にもぐりこんで、絶対生きてる。必死に呼べば、きっと返事をしてくれる―――トーコ、って。いつものあのちょっと舌足らずな喋り方で、トーコって返事してくれる。
 「と…透子ちゃんっ。無理や、あんた一人じゃなんともできひんって。大人呼んでくるから、こっち来とき! あんたも傷だらけやないのっ」
 奥さんが透子のパジャマを引っ張る。でも、この場を離れるなんて無理だ。透子はなおも紘太の名前を呼び、瓦礫を掴んでは放り出し続けた。

 と、その時。
 瓦礫の下から、かすかに、子供の泣き声が聞こえた―――気が、した。

 透子の目が、大きく見開かれる。やっぱり、紘太だ。紘太がこの下で泣いてる。どこか怪我して、助けて欲しくて泣いてるんだ―――透子はそう思った。
 「お、おばさんっ! コータがっ、コータが泣いてるっ! 泣き声が聞こえる…っ!」
 振り返った透子がそう叫んだ時、ミヤマの奥さんは、全力で透子を抱きかかえ、瓦礫から引き剥がした。
 「おばさんっ!?」
 「だ…駄目や…」
 「え?」
 「あかん! 火が来るっ!」
 “火”?
 それが火事を意味するとはすぐに理解できなくて、透子はキョトンとした顔をした。その一瞬の隙をついて、透子は通りへとずるずると引きずり出された。
 「あんたっ、手伝って!」
 さっきまでうずくまっていたミヤマのご主人も、奥さんとは反対側から透子を抱きかかえる。反対の腕には、猫を抱きかかえていた。…息子さんの姿は、やっぱり、ない。
 「い、いや…コータが…」
 「諦めるんや、透子ちゃん! このままここにいたら、透子ちゃんも助からん。早よ逃げるんや!」
 「やだっ! やだ―――やだやだやだ、離して、離してっ、おじさん離してっ!! コータ! コータっ!」


 瓦礫だらけの通りを引きずられて行きながら、透子が最後に見た光景。
 それは、透子の家の数軒向こうから迫ってくる、真っ赤な真っ赤な炎だった。


***


 激しいノックの音に、慎二は驚いて飛び起きた。
 ベッドサイドのライトをつけて、咄嗟に時間を確認する。午前1時―――まずい、一番危ない時間帯だ。
 ノックの意味を悟った慎二は、ベッドの外の寒さに身を縮めながらも、大急ぎでドアを開けた。途端―――透子が、慎二に飛びついてきた。
 「透子…」
 透子は、激しく震えていた。
 慎二の胸に押し付けられた顔は、全く見えない。が、泣いてるのはすぐ分かる。慎二はドアを閉め、透子と目の高さを合わせるかのように、床に膝をついた。自然、慎二の胸に抱きついていた透子は、その顔を慎二の肩口に埋める形になった。
 「…怖い夢でも見た?」
 ぽんぽん、と頭を撫でてそう訊ねると、微かに頷く。
 「そっか…一人で寝るの、あれから初めてだもんな」
 避難所では、いつも隣り合わせで寝ていた。慎二のダウンジャケットのどこか一箇所を必ず握り締めて、擦り寄るようにして眠っていた。それでも、怖い夢を何度か見て、日付けが変わって暫くした辺りに飛び起きたりしていた。でも…そんな光景は、避難所のいたるところで見られたのだ。
 「わ…っ、私が死ねばよかった…っ」
 慎二にしがみつきながら、透子は何度もしゃくり上げ、なんとかそう言葉を紡いだ。
 「なん、で…なんで、私だけ生きてるの…? コータは死んだのに、お父さんやお母さんも死んだのに、なんで私…」
 「…それは、仕方ないよ…」
 「私が死ねばよかったんだっ。コータ見殺しにする位なら―――ま、まだ、7つだったのに…コータ…」
 「…うん…もっと、泣いていいよ」
 「コータ…コータ―――…」
 透子は、うわ言のように紘太の名を呼ぶ。慎二の肩に目元を押し付け、熱に浮かされたように泣き続けた。

 慎二が知る紘太は、もう動かない紘太だけだ。
 辛うじて人間だと分かるレベルの、小さな小さな体―――でも、紘太の顔なんて、そこから読み取ることはできなかった。ただ、真っ黒な人型の物体が横たわっていただけ…透子の両親も、程度の差はあれ、同じだった。
 笑ってる紘太、泣いてる紘太、透子に甘えて後ろからついてくる紘太―――そんな紘太を、慎二が知ることは、永遠にできない。

 「…オレもさ、思ったよ」
 慎二は、泣きじゃくる透子を緩く抱きしめ、囁いた。
 「兄貴が死んだ時―――あの兄貴が死ぬ位なら、オレが死んだ方がマシだった、って。兄貴の病気治すのに、オレの血が全然役に立たないって分かった時、自分が凄く情けなかった…兄貴が助かるためなら、骨髄液だろうが全身の血だろうが、なんでもあげたのに、って」
 慎二の兄は、白血病で若くして亡くなっている。そのことは透子も聞いていた。が…慎二がそんな風に思っていたとは、この時まで知らなかった。
 「…今、は? 今は慎二は、どう思ってるの?」
 「―――生きなきゃ、って、思う」
 その言葉に、透子はゆっくりと顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、慎二をじっと見つめた。
 「兄貴が生きられなかった分、オレは生きなきゃ、って思う。…きっと神様は、透子に“生きろ”って言ったんだよ。生きられなかったお父さんやお母さんや紘太の分…3人分も幸せになれって言って、透子だけは助けたんだよ」
 「―――…」
 「辛いけど…生き残るのは、とっても辛いけど―――頑張って生きようよ、透子」

 慎二は、どこか悲しげな、でも柔らかな笑みを浮かべ、透子の頭を撫でた。
 そんな慎二に、透子は小さく、でもはっきりと頷いた。


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