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02 : 坂の下二軒目の日常 (1)

 透子の1日は、ドアの向こうから聞こえるけたたましい目覚まし時計の音で始まる。

 「…ったく…もーっ…」
 ムクリ、と起き上がった透子は、まだ半開きの目を手の甲で擦りながら部屋のドアを開けた。ジリリリリ、という音が更に増す。
 向かいの部屋は、慎二の部屋。力任せにドアを押し開くと、ドアで封鎖されていた音の洪水が一気に廊下に流れ出す。全部で5種類の目覚まし音―――鼓膜が破れそうだ。
 その鼓膜の破れそうな騒音の中、幸せそうに眠っている慎二は、絶対どこかおかしいと思う。透子はズカズカと慎二の部屋に押し入り、慎二のベッドの周りに配置された5つの目覚ましに手を伸ばした。
 バン、バン、バン、バン、バンっ!!
 順番に、目覚まし時計の頭を叩くと、ピピピという電子音もジリジリというベル音も消えた。やがて、しーんと静まり返った部屋の中に、慎二のすーすーという寝息だけが残された。
 やっぱり今朝も、透子はキレた。
 ベッドの上に飛び乗ると、慎二の肩に届きそうな長さの髪を鷲掴みにする。ぐいい、とそれを引っ張りながら、透子は慎二の耳元で怒鳴った。
 「こんだけやっても起きられへんのやったら、最初から目覚ましなんてかけんといてんかっ!」

***

 「透子が来てから、工藤の寝坊率がぐんと減ったな」
 「…毎朝、容赦なく起こされてますから」
 ご満悦の顔をする先生を、慎二が朝食の味噌汁をすすりながら、恨めしそうな目で流し見る。その隣で、透子は時間を気にしながら朝食を平らげていた。
 「随分急いでるな。まだ始業時間には余裕があるだろうに」
 慎二の倍のペースで箸を進める透子の様子に、先生が不思議そうな顔をした。それでも手を休めず、透子は表情だけ笑顔に変えた。
 「これから試験の日まで、授業始まる前に自習することにしたの。朝の方が頭の働きがいいし」
 「そうか…もう2月も終わりだからなぁ。いよいよ追い込みだな」
 「追い込みどころか、あと1週間ちょいしかあらへんよ―――そんな訳やから、朝の後片付け、暫く免除してもらってもいいかなぁ?」
 まさか先生に代わってもらう訳にもいかない。透子の目は、自然、慎二の方に向く。ちょっと申し訳なさそうな顔の透子に、慎二は笑みを返した。
 「いいよ。…というより、朝はオレやるし。高校入ったって、透子よりオレの方が朝は時間の余裕あるだろ」
 「けど、何か手伝いしないと気が済まないし…」
 「はるかさんに頼んで、夕飯の後片付け全部任せてもらえば?」
 「あっ、そーか。そーやね」
 既に手伝ってはいたので、全部任せてもらう、という案が思い浮かばなかった。
 さっそく今晩頼んでみよう、と思いながら、透子は箸を置いて手を合わせ、丁寧に「ごちそうさまでした」と頭を下げた。“テーブルに並んだ食事には、透子が食べるまでに気が遠くなるほどの人々の労力がつぎ込まれているんだ。だから食事の挨拶は丁寧に”―――祖父がいつも口にしていた教訓だ。
 手早く洗顔を済ませ、髪を整えると、透子は慎二から借りている小ぶりなリュックを肩に掛けた。身につけているのは制服ではない。紺色のダッフルコートの中は、白のアーガイルセーターに濃紺のチェックのプリーツスカート―――2ヶ月もない中学生活のために制服着用を義務付けるほど、中学校側も無慈悲ではなかった訳だ。
 まだ食堂にいる2人に声を掛けた透子は、スニーカーに足を突っ込み、玄関の引き戸を引いた。まだ冷たい2月の空気が、戸口からひゅうと音を立てて入り込む。今日はちょっと冷え込んでるようだ。学校まで走って行こう―――透子は、トン、と玄関のたたきを蹴り、外に飛び出した。


 先生の家は、石畳で出来た坂道の一番ふもとの、角から二軒目にある。
 築40年を超える木造二階建てで、昔懐かしい木の門がある、なかなか趣のある家だ。
 木の門の右側には、木製の大きな表札が掲げられていて、他界した先生の父親の肉筆で“西條”と書かれている。そしてその隣には、少しこぶりな木の板が2枚掲げられていて、それぞれ“工藤”、“井上”と先生が筆で書き入れている。3枚の表札が掲げられた門は近所でもちょっと目を惹くらしく、透子もすぐ近所の人たちに名前を覚えられた。
 「透子ちゃん、おはよう。早いねぇ」
 数軒先の家の奥さんが、門の前の道を箒で掃きながら声をかけてくる。この家には、透子と同い年の男の子が住んでいるらしい。まだ顔は見たことがないが。
 「おはようございまーす」
 「冷えるねぇ。日陰は凍っとるかもしれんから、気をつけんさいね」
 「はぁい」
 透子は奥さんに軽く手を振って、目の前を走り去った。弾む息が白い。この分だと、学校前の坂道は凍っているかもしれない。

 透子は、尾道の町が、すぐ好きになった。
 戦前からありそうな古い映画館、坂の上から見下ろすと幾重にも見える瓦葺の屋根、神社やお寺に続く長い階段、そして坂の上から望むことのできる尾道水道―――観光客も多いが、映画のロケなども多いらしい。
 そんな話を聞いたせいか、透子の目には、新しい“自分の町”は、至る所に映画のワンシーンが転がっているように見えた。

 早く高校生になって、制服を来て、この石畳の階段を駆け上ってみたいな―――当面の透子の夢は、そんなささやかなものだった。

***

 カリカリという、鉛筆を走らせる音が、幾重にも部屋中を埋め尽くす。
 やがて、無情のチャイムが鳴り響くと、その音がピタリと止んだ。
 「試験終了です。鉛筆を置いて、そのままお待ち下さい」
 監督教官のセリフに、全員、手を膝の上に下ろして、じっと待つ。落ち着いた表情の者、まだ未練がましく解答用紙の未回答部分を睨んでいる者、絶望的な顔をして顔面真っ青の者、色々いる。その中で透子は、比較的落ち着いた顔をしている方だった。
 「…あ、っちゃー、しまったー…」
 背後から、小さな呟きが聞こえ、透子はチラリと振り返った。
 やんちゃそうな顔をした男子生徒―――詰襟についた校章は、透子が編入した中学の校章だ。同じ学校の子だったのか…と、今初めて気づいた。
 答案用紙の回収を待ちながら回答を見直していた彼は、どうやら間違いを見つけてしまったらしい。まずったなぁ、という顔で髪を掻き毟っている。その様子が妙にコミカルで、透子はくすっと笑ってしまった。
 「……」
 それに気づいた彼が、目を上げた。
 “笑うんじゃねーよっ”。
 むっとしたように顰められた眉が、無言のうちにそう告げてくる。透子は、笑い声が漏れないよう手の甲で口元を押さえ、くるりと前に向き直った。


 入学試験は、それが最後の科目だった。やっと緊張の解けた透子は、昇降口でビニールに入れた靴を出し、上履きをリュックの中にしまった。このまま帰りにギャラリーに寄ろうかな、と思いながら。
 「おい」
 まさに一歩、歩き出そうとした時、背後から声を掛けられた。
 振り向くとそこには、さっきの同じ中学の男の子がいた。ちょっと憮然としたその顔に、透子は嫌な予感を覚え、眉をひそめた。
 「何?」
 「あのさ…最後の問題の答えって、イ? それともウ?」
 嫌な予感は見事に空振りした。どうやら彼は、しまったと言いながらも間違ったかどうかの確信がなかったらしい。透子はひそめていた眉を下げ、くすくす笑った。
 「私もあんまり自信ないねんけど…」
 「とりあえずどっちにした?」
 「私は“ウ”」
 「…ちくしょーっ、そうかー、やっぱり」
 ということは、彼は“イ”だったのだろう。悔しそうに頭を掻き毟った彼は、そのままうな垂れ、大きな溜め息をついた。やがて顔を上げると、踏ん切りがついたような顔をして、帆布で出来た鞄を斜め掛けにした。
 「―――ま、いいや。お前、“先生”んとこに住んでる奴だろ? 一緒に帰ろうぜ」
 ポン、と肩を叩かれ、ちょっと驚く。何故自分のことを知っているのだろう、と。
 「私のこと、知ってるの?」
 「んー? 知ってるよ。顔、何度か見てるし」
 先に立って歩き出してしまった彼を慌てて追いかけた透子は、その横顔をまじまじと見た。同じクラスにいる生徒ではない。全然見覚えのない顔だった。
 「私はキミのこと、全然見覚えないんやけど…誰?」
 「小林荘太。“先生”んちの7軒先の向かいの家」
 家の場所を言われ、あっ、と声を上げた。1週間ほど前声を掛けてくれた、あのおばさんの家だ―――同級生がいると言っていたが、それが今隣を歩いている少年らしい。
 「そうなんや! 私、井上透子。奇遇やね」
 「俺も驚いた。前の奴が振り向いたと思ったら、先生んとこの子だから」
 そう言って2人は、互いに屈託のない笑いを見せた。
 「小林君、バス使う?」
 大半の受験生がバス停へと流れていくのを見た透子は、彼を軽く仰ぎ見た。すると彼は、ちょっと眉間に皺を寄せた。
 「…それ、なんか、慣れない」
 「え?」
 「“小林君”っての。なんか気色悪い。俺、誰からも下の名前で呼ばれてるからさ。荘太でいいよ」
 「荘太―――…」
 ちょっと、懐かしい響き。
 “荘太”という名前は、“紘太”ととても似ている。コータ…呼びなれた名前。透子の口にも、“小林君”よりも“荘太”の方が馴染んだ。透子はニコッと笑うと、改めて言い直した。
 「荘太はバスで帰る?」
 「ん、よし。…今朝はバスで来たけど、歩いた方がいいや、こんな距離なら。朝と違って遅刻の心配もないし。透子は?」
 「うーん…そんなら、やめとこかな。私も歩く方が好きやし」
 当たり前のように“透子”と呼ぶ荘太がちょっと笑えたが、透子も“井上”と呼ばれるより、この方が馴染んでいる。2人は、他の受験生とは反対に、坂道を南下する方へと歩き出した。

 2人が受験した高校は、地元も地元、自宅から歩こうと思えば歩ける距離にある。
 高校生になったのに変わり映えがしなくて嫌だ、と言って、透子のクラスメイトにはあまり人気がなかったが、透子は迷わずこの高校を選んだ。
 先生は、広島の中心部にある、もっと有名大学への進学率の高い高校を勧めた。この高校もまぁ悪くない部類に入るが、編入試験の結果が思いのほか好成績だったので、もっと上を目指すべきだと考えたらしい。が、当の透子は、とてもそんな気にはなれなかった。
 遠くの高校に行くということは、それだけ交通費もかかるということだ。高校に行かせてもらうだけでも心苦しいのだから、出来る限り慎二に負担のかからない高校を選びたい。それに―――やっぱり、この町が好きだから。高校生活も、この町で過ごしたいと透子は思ったのだ。

 「なぁ。先生んとこにいる工藤さんが神戸から連れて来た、って母ちゃんから聞いたけど…工藤さんの親戚か何か?」
 歩き出して間もなく、荘太は、訊いていいものかどうか躊躇っているような口調で透子に訊ねてきた。
 「ううん。私と慎二は、神戸の被災現場で会うまでは、一度も会ったことなかった、赤の他人だよ」
 「えっ。知り合いでもなかったの?」
 「そう。なんや、家族亡くしてボーゼンとしてるところに偶然居合わせて、置いていくに置いていけなくなったらしいわ」
 「へえぇ…ふーん。あの人、案外、やる時はやるんだな。なんか悔しい」
 口を尖らせながら発せられた言葉に、透子はキョトンと目を丸くした。
 「悔しい? なんで?」
 「だってあの人、俺の母ちゃんが大ファンでさーっ。まるでアイドル見るみたいな目で見るんだぜ? ギャラリーでぼーっとしてる姿見ても“ああ、やっぱり綺麗な男の人は何やっても綺麗だねぇ”だって。アホかと思うぜ、ほんとに」
 あのおばさんが―――意外な事実に、ちょっと面食らう。人は見かけによらないものだ。
 そう言えば、はるかの家とは反対側の隣家の奥さんも、実は慎二のファンだとはるかから聞かされた。社会人の息子がいるような年齢だが、バレンタインデーに慎二にチョコレートを持ってきたというつわものだ。派手なラッピングのチョコを前にして、慎二はひたすら逃げ腰になりながらも、断るのは怖いので引きつった笑顔で受け取っていた。
 「そっか。慎二は“おばさまキラー”なんやね」
 「…おい。納得するなよな」
 「けど、良かったね。“杉さま”とか“ジャニーズ”とかに入れ込まれるよりは、格段に安上がりやない? ご近所にアイドルいると」
 「―――面白いわ、お前って」
 透子の発言にがくっとうな垂れた荘太は、それ以上その話は拒否するぞ、と言いたげに、すこし歩くスピードを速めた。お互い小柄な方だが、やっぱり男女では歩幅が全然違う。透子は慌てて、小走りに荘太に追いついた。
 「ねぇ、おばさんは広島弁やのに、荘太って標準語やね。どうして?」
 最初から気になっていたことを訊くと、荘太は、うな垂れていた顔を上げ、軽く肩を竦めた。
 「うん…俺、尾道生まれだけど、育ったのほとんど千葉だから」
 「えっ?」
 「母ちゃん、俺が4歳の時に大きな病気してさ、ほとんど入院してる状態だったんだ。兄ちゃんと姉ちゃんはもう大きかったから何とかなったけど、俺はまだ手が掛かるから、ってんで、千葉にある母ちゃんの実家に預けられてたんだ。病気が再発したり何だりで、結局、こっち戻ったのは小6の時かなぁ…。気がついたら、比較的標準語だった母ちゃんも、すっかり広島弁になってた」
 「そうなんや…」
 あっけらかんとした口調だが、その内容は結構ヘヴィーだ。透子は、みんな色々あるんだなぁ、と眉根を寄せた。
 「透子も、純粋な関西人じゃないだろ。言葉遣い聞いてたら分かる」
 「うん。7歳の時に東京から神戸に越したの。関西弁なんて喋られへんわ、と思ってたけど、結構うつっちゃうもんやね」
 「俺は全然うつらないなぁ…広島弁」
 順応性がないのかな、などと呟く荘太の横顔は、名前のせいか、どことなく紘太と似て見える。
 ―――良かった…友達になれそうや、この子なら。
 透子はホッと胸を撫で下ろした。

 編入した中学のクラスメイトとは、あまり親しくなれなかった。
 多分、編入した際の先生の説明がまずかったのだと思う。透子が震災の被災者であること、家族を全て失ったことなどをきっちり説明して「皆さん仲良くしてあげてね」などと言ったのだ。確かに、1人だけ私服であることや、被災から編入までの間に遅れてしまった分の補習を受けることなど、事情を説明しておく必要があったのは確かだろう。けれど、その説明のせいで、クラスメイト達の透子を見る目は、自然、同情を伴うものになっていた。
 同情は、大嫌いだ。
 神戸でも、あらゆる人々から同情された。可哀想に、可哀想に―――近所の人が、ボランティアの人が、市の職員の人が、みんな同情した目で透子を見た。透子はその同情を、素直に受け取れなかった。
 同情することで、自分の方がまだマシだと安堵しているように、透子には見えた。ほら、あの子なんて、家族も家も全部失っちゃったんだよ。うちもお父さんが死んじゃったけど、まだマシだよね―――そんな風に。
 同情するということは、他者を憐れむだけのゆとりが自分にあるということだと、透子は思っている。そんな目で見られるのは、透子のプライドが許さなかった。

 慎二だけだった。
 一切、同情をしなかったのは。
 『オレ、一緒にいるよ。オレも一人だからさ』
 何故かそう言って、透子の隣に常にいてくれた。その目は、たった一人残された子供を同情している目ではなかった。ただただ、優しい目だった。

 「透子? 大丈夫?」
 訝しげな荘太の声に、透子はハッと我に返った。どうやら、神戸で過ごした頃の事を思い出して、ぼんやりしてしまっていたらしい。
 「うん、大丈夫」
 荘太は、少なくとも、透子の事情を知っているのに、同情めいたことを口にしていない。
 仲良くなれそうだ―――尾道に来て初めての友達が出来たことに、透子は温かい気持ちになれた。

***

 結局、荘太とお喋りをしながら地元の町まで歩いて帰ってきた透子は、慎二に試験の手ごたえを伝えておこうと思い、やっぱりギャラリーに寄ることにした。
 先生が開いているギャラリーは、先生の家からは徒歩10分ほどの所にある。より“観光地”している場所で、実際、美術に興味のある観光客が主なお客様になっている。
 有名画家の絵も結構置いてあるが、それ以上に特徴的なのが、地元の若手の無名画家の絵を、常に一定の数展示していること。時には有名画家の絵を全部引っ込めて、ギャラリー全体を展示スペースとして貸し出して個展を開いたりもする、なかなか冒険心のあるギャラリーとして、地元でも結構有名だった。
 2階では絵画教室もやっており、先生が教えている時は慎二がギャラリーを、慎二が教える時(小学生以下は慎二が教えている。何故なら、先生の顔は子供うけが悪いからだ)は先生がギャラリーを受け持つ。時々、どちらかが寝込んでしまったり急用が出来たりすると、絵を置かせてもらっている画家などが助っ人としてはせ参じる。透子からすれば全然儲かりそうにない仕事だが、美術と文学ゆかりの地だけあって、案外大人2人がまともに暮らしていけるだけの売り上げはあるらしい。

 「前から不思議に思ってたんだけど」
 ギャラリーまであと数百メートル、という辺りまで来て、荘太が口火を切った。
 「あのギャラリーに置いてある有名画家の絵って、どうやって入手してるんだろう? 透子、知ってる?」
 「うん。先生の話だと、先生と凄く親しい、腕のいいバイヤーさんが東京にいて、その人が入手したもんを先生の画廊で売ってるんやって。自分で買い付けてくれば売り上げと仕入れの差がまるまる儲けになるけど、買い付けの中心はやっぱり東京やから、足代とか労力考えたら、マージン払ってでもバイヤーさんと契約した方がいい商売やって言うてた」
 「へぇ…。あの先生、結構商売きっちり考えてるんだな。近所じゃ“儲け無視の芸術バカ”って思われてるのに」
 「…そういう部分も、あるにはあるよ」
 そういう部分があるからこの年齢まで独身なのに違いない、と透子は睨んでいる。
 「慎二も先生みたいになりそうやなぁ…。心配やわ」
 透子が眉を寄せると、荘太は、そんな馬鹿なとでも言いたげな笑い声を上げた。
 「ハハハ、同じ芸術バカでも、先生と工藤さんじゃ全然違うじゃん。あの人だったら、母性本能くすぐられた女にすぐ拾われるって」
 「そうかなぁ…」
 優しいけど頼りにならなそうな慎二を、結婚相手として真剣に考える適齢期の女性なんて、本当に現われるだろうか?
 今あの家に強盗が押し入ったら、先生は竹刀で応戦するだろうし、自分も鍋やフライパンを投げつけて抵抗するだろうが、慎二は真っ先に縛り上げられそうな気がする。結婚したからって、性格が変わる訳がない。慎二は慎二だ。一家の大黒柱と呼ぶには、その姿は弱い。余りにも弱すぎる。

 ―――でも。
 そんなことないんじゃない、という自分も、どこかにいる。
 慎二が、ただひたすら優しいだけで、全然頼りにならない男だなんて―――そんなこと、ないんじゃないかな、と。
 血の繋がりもない、それどころか面識すらなかった子を、引き取る。そんな決断、なかなか出来ることじゃない。「オレと一緒に尾道行こうか?」と提案してきた慎二の声は、優しかったけれど、一切の迷いや心の揺らぎは感じられなかった。透子が「絶対イヤ」とでも言わない限り、力づくでも連れて行こうという確固たる意志が感じられた。
 正直なところ、慎二のことは、よく分からない。
 そうだ―――考えてみたら、出会ってからこれまで、慎二自身のプロフィールなんて、ほとんど訊かずに過ごしていた。
 先生の生徒だったことは知っている。兄が白血病で亡くなったことも知っている。元々は東京にいたことも分かっている。でも…それ以外、慎二の“何”を知っているだろう?
 毎日一緒に寝起きしているのに、全然知らない。
 そのことに改めて気づき、透子は今更ながらショックを受けた。

 また考え事に没頭して無口になってしまった透子を、荘太が訝るように眺めているうちに、2人はギャラリーに着いてしまった。
 ガラス窓越しに、中を覗いて見る。平日のせいか時間帯のせいか、客はいないようだ。
 そのまま、ドアを開けようと手を伸ばした。が、それを荘太が制した。
 「今は邪魔しない方がいいよ。帰ろう」
 思わぬ制止に、透子は目を丸くして、荘太を振り返った。
 「え? どうして?」
 「ほら」
 荘太が指差す方に、視線を移す。
 ガラス窓から見える、客と商談するためのソファの上―――慎二が脚を組み、スケッチブックを手にしていた。
 ちょっと遠いので、表情はよく分からない。が、慎二がスケッチブックに何かを真剣に描いているのは、遠目でもはっきりと分かった。ピン、と張り詰めている、慎二の周りの空気―――それは、透子がまだ一度も見たことのないものだった。
 「芸術家が製作に没頭してる時は邪魔しちゃいけない、って、父ちゃんが言ってた」
 「お父さんが?」
 「死んだ俺のじいちゃんが、趣味でよく絵を描いてたらしい。絵に没頭している時に声かけると、もの凄く不機嫌になるって言ってた。どうせ続くのは2、3時間だから、ああいう姿見たらそっと静かに回れ右するのが一番いいんだってさ」
 「ふぅん…」
 それは荘太の祖父が短気な性格だからなんじゃないか、という気もしたが―――それでも透子は、もうギャラリーのドアを開ける気がなくなっていた。

 ―――なんだか、知らない人みたい。

 ううん、ほとんど“知らない人”なんだ、慎二って。

 家族がいなくなった今、一番自分に近い人だと思っていた慎二が、実は全然知らない人だった。
 その当たり前の事実に、透子は、なんだか無性に寂しさと焦燥感を覚えていた。


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