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02 : 坂の下二軒目の日常 (2)

 夢は、いつも、優しい。
 泣きたくなる位に、優しい。


 「ねぇ、シンジ―――絶対に忘れない…?」

 試すように、からかうように覗き込んでくる瞳は、笑っているのに、一番奥底の部分では笑っていない。
 “忘れないで”―――それが、その瞳が本当に言わんとしていること。
 だから慎二は、真剣に誓う。真っ直ぐにその目を見据え、まるで神に誓うように。

 「…忘れないよ、絶対に」
 「ホントに?」
 「本当に」
 「じゃあ、もっと―――…」

 ―――モット、刻ミ込ンデ、私ヲ。

 モット、刻ミ込ンデ、アナタヲ。

 決して、忘れないように。
 離れてしまっても、この指を、この唇を、決して忘れないように。


 夢は、いつも優しい。

 そして―――とても、残酷だ。

***

 ―――…なんだか、人の気配がする。
 慎二は、僅かに覚醒した頭でそんなことを感じ、パチッと目を開けた。
 途端、その目に映ったのは―――自分の寝顔をまじまじと見ている、大きな2つの目のどアップ。
 「う、うわぁっ!」
 突っ伏していた机からがばっと飛び起き、慎二はドキドキする心臓の辺りを手のひらで押さえた。そんな慎二の反応に、机に頬杖をついていた透子は、むっとしたように眉を顰めた。
 「…何、その反応。店番しながら無防備に寝顔を晒してたのは慎二の方やのに」
 「だ、だからって…びっくりするよ。そんな間近から見られてたら」
 そう言いながら、時計を確認する。―――よかった、5分ほどウトウトしただけらしい。
 驚いたせいで、眠気は一瞬で吹き飛んだ。そして、頭がすっきりと覚めた途端、思い出した。透子がギャラリーに寄った理由を。
 「そうだ。透子、結果は?」
 慌てて確かめる。すると透子は、ニッ、と口の端を上げて笑ってみせた。
 「受かってたよ」
 「…そっか。おめでとう」
 勝気な透子の笑みに、慎二はフワリとした柔らかな笑みで応える。すると透子は、ちょっと不服そうに唇を尖らせた。
 「慎二、反応柔らかすぎー。もっと驚くとか、オーバーに喜ぶとかしてもいいのにー」
 「だって、担任の先生の話じゃ、透子はもっと偏差値高い高校狙える筈だったんだろ? それに度胸もあるから本番には強いしさ」
 「むー…」
 褒められても面白くないらしい。慎二はくすっと笑って、透子の額を指で弾いた。
 「そんな顔しない。今晩、先生とはるかさんも一緒に合格祝いやろう。何食べたい?」
 「…チャーハン」
 「…寿司とかステーキとか言ってくれないと、オレも結構がっかりするんだけど」
 慎二が眉を寄せると、透子はやっと満足したように笑顔に戻った。
 「じゃあ、お寿司」
 「―――もしかして透子、オレのこと苛めてる?」
 「もしかしなくても、苛めてる」
 ―――こういう、大人を食っちゃってるとこが、透子の透子たるゆえんだよな。
 思わず、苦笑する。10歳年下に苛められるなんて情けなさの極みだが、透子のこういう所は結構気に入っている。

 …でも。
 こんな時…一瞬、夢と現実の境目が、曖昧になる。

 ―――いや。それは、透子とは関係のないこと…慎二だけの問題だ。慎二は、透子には気づかれない程僅かに気を引き締め直し、この辺りに美味しい寿司屋ってあったかな、と考えをめぐらせ始めた。


***


 透子の合格祝いに、はるかは参加できなかった。
 『ごめんね。今晩、急に飲みに誘われちゃったの。お夕飯作れないけど、大丈夫?』
 夕方近くに電話してきたはるかは、透子の合格報告に喜ぶ一方で、心底済まなそうな声でそう告げてきた。
 「ううん、心配せんといて。先生も慎二も、私の合格祝いにお寿司屋さん行くって言うてるから」
 『そうなの。残念だなぁ…。今度の工藤さんの誕生日は、絶対私も参加するわね』
 「ん。2人でおいしいもん作ろ」
 更に二言三言、はるかと言葉を交わした透子は、受話器を置くと同時に、小さく息を吐き出した。
 ―――そっかぁ…はるかさん、社会人やもんね。飲みに誘われる位あって当然やってこと、すっかり忘れてたわ。
 透子がそういうことを失念してしまう程に、はるかは透子が知る限り、毎日きちんとした時間に帰宅していた。シフトの関係で遅くなることもあったが、仕事以外で帰宅が遅くなることは一度も無かった。
 でも…もしかしたら、透子が知らないだけで、今まではこういう日も結構あったのかもしれない。


 「いや。はるかが、職場の連中に付き合って帰りが遅くなるなんて、2、3ヶ月に1度位のもんだ」
 好物のウニの軍艦巻きを頬張りながら、先生は透子の考えをあっさり否定した。
 「酒があんまり好きじゃない上、宴会のノリも苦手でな。早いシフトの日は、女同士でケーキのバイキングなんぞに行くこともあるらしいが、飲むのは極力断っとるな」
 「ふぅん…じゃあ、きっと断り難い人の誘いやったんやね」
 「女だらけの職場だから、気苦労も多いんだろう」
 透子はまだ、はるかの職場に行ったことはなかった。お吸い物の椀を置いた透子は、隣に座る慎二を見上げた。
 「慎二って、はるかさんの働いてるとこ、行ったことある?」
 「んー? あるよ」
 「どんな感じ?」
 「うーん…若い子が多かったな。OL向きな婦人服売り場だから、まぁ、しょうがないんだろうけど」
 「やっぱり女の子ばっかり?」
 「だったね」
 「そっかぁ…」
 「なに? やけにこだわるね」
 慎二が不思議そうな目をする。ちょっと気まずくて、透子はまだお吸い物の椀を手にし、黙ってそれを口に運んだ。

 ちょっと、言えない。
 はるかが誰と飲みに行ったのかが気になるなんて。
 女の勘、なんて言っていいものかどうか分からない。が…透子はなんとなく、相手は男の人のような気がしていた。電話の向こうから聞こえるはるかの声が、なんだか少し、後ろめたさを隠してるように聞こえて。
 はるかさんって、彼氏とかいないのかな、なんてことが、突然頭をよぎる。
 先生と慎二に彼女がいないのは一目瞭然だが(プライベートタイムは、慎二はほとんど寝てるか本を読んでるかだし、先生は竹刀を振り回してるか新聞を読んでいる―――女性の影の欠片くらいあって欲しい位だ)、はるかとは夕飯時位しか接触がないから、分からない。そうか、はるかさんも私にとってはほとんど“知らない人”なんだ、と改めて気づき、透子はまた、ちょっと焦った。

 「そういやあ、小林さんとこの子も受かったんだってなぁ」
 気まずくなったところに、先生が意図せず助け舟を出してくれた。ほっとした透子は、喜んでそのネタに乗った。
 「うん。合格発表見に行った時、ちょうど斜め前にいた。信じられへんって言うて、何度も目擦ってたわ。けど…なんで先生がそれ知ってるの?」
 「家に戻った時、奥さんに声を掛けられたんだよ。“透子ちゃんとうちの荘太、高校でもご一緒させていただきますんで、よろしく”とか何とか」
 「ご一緒って…同じ学校行くだけやん…」
 オーバーな、と呆れ顔をする透子に、先生は更に付け加えた。
 「今日も本当は、小林さんとこと一緒に合格祝いしようかと思ったんだがな。荘太君が嫌がったから、計画倒れになった」
 「私も絶対イヤ!」
 「なんで?」
 きつい語調で拒否感を顕わにする透子に、慎二がまた不思議そうな目をする。そんな慎二を、透子はギロリと睨み上げた。
 「理由は訊かんといて」
 「ふーん…まぁ…いいけど」
 腑に落ちない顔でかっぱ巻きを口に運ぶ慎二。…荘太の母は、きっとこの脱力しきった姿を見ても「綺麗な男の人は、かっぱ巻き食べてるだけで素敵よねぇ」と言うのだろう。合格祝いの席で慎二をうっとり見る荘太の母―――そんな図を想像したら、その場で即座に嫌がった荘太の気持ちがよく分かる。

 ―――綺麗…かぁ…。
 チラリ、と慎二の横顔を盗み見て、思う。
 荘太の母がそう言うほど、綺麗かなぁ? と。
 荘太も慎二のことを、「あの人だったら、母性本能くすぐられた女にすぐ拾われる」と言っていたが、それもちょっと首を捻る。母性本能とはどういうのを言うのだろう? こっちは眠くて仕方ないというのに、慎二のダメさ加減に呆れて目覚ましをバンバン止めたくなるのも、母性本能の成せる業なのだろうか。よく分からない。
 自分はまだ子供だから、大人の女の人が慎二のファンになる理由が、分からないんだろうか。
 ―――大人のはるかさんなら、分かるのかな。
 ふとそんな事を思った透子は、慌ててその考えを追い払った。
 なんだか、嫌だった。
 自分の身近にいる2人の間に、そういう話を持ち込むのは―――想像するだけで、理由(わけ)もなく、嫌だった。


***


 結局、はるかが帰宅したのは、午後10時を大きく回った頃だった。
 はるかが玄関を叩いた時、先生はお風呂に入っており、透子はお風呂あがりで頭をタオルで拭いている最中だった。自然、慎二が玄関の引き戸を開けた。
 「こんばんは。あの…透子ちゃんは…」
 「いるよ。透子に用事でも?」
 「これ、渡そうと思って」
 そう言ってはるかは、提げている小ぶりな箱を軽く持ち上げて見せた。どうやら、ケーキらしい。
 「あっ、はるかさん、お帰りなさーい」
 慎二に遅れて玄関に出てきた透子は、はるかが手にしている箱を見て、ちょっと首を傾げた。
 「あれ? はるかさん、今日ってお酒飲みに行ったんと違うの?」
 「うん。でもね、今日透子ちゃんのお祝いを一緒に出来なかったから、飲みに行く前に買っておいたの。時間経ってるけど、お店の冷蔵庫で保管しといて貰ったから、大丈夫よ」
 「うわー、ありがとう! さっそく食べるっ!」
 満面の笑みでそれを受け取る透子に、はるかは嬉しそうな、でも困ったような笑みを浮かべた。
 「いいけど、この時間からだと太っちゃうわよ?」
 「だぁいじょうぶ。私、食べても食べても太られへん体質やから。きっと燃費が悪い体してるんやと思う。睡眠も結構エネルギー使うって言うから、ちゃんと補給しとかなきゃ」
 「凄い理屈ねぇ」
 「食べていいでしょ?」
 期待に満ちた目で透子に見上げられ、慎二も苦笑を返した。
 「太るも痩せるも透子の自由なんじゃない?」
 「よーし、太ろっと」
 透子はそう言うと、さっそく食堂へと消えた。まぁ…実際には、ケーキ1つ食べたところで透子の体型には何の影響もないだろう。ダイエットとは無縁そうな細い体は、透子が言う通り、本当に燃費が悪いのかもしれない。
 「痩せの大食いって、ああいうのを言うんだろうな…」
 「羨ましいな…私なんて、食べたそばから太っちゃうのに」
 心底羨ましそうなはるかの声に、さっき寿司屋で先生から聞いたケーキバイキングの話が頭をかすめ、慎二は思わず小さく吹き出した。女の子ってのは矛盾してるんだなぁ、と。
 「なぁに?」
 多分、慎二が吹き出した理由の見当はついているのだろう。ちょっと睨むような目つきをするはるかに、慎二は口元に拳を当て、笑いを抑え込んだ。

 ふいに、中途半端な沈黙が訪れる。
 慎二と視線が合ったはるかは、少し動揺したように瞳を揺らし、その視線から逃れるように目を伏せた。スプリングコートのボタンを気まずそうに弄り、言葉を探す。やがてはるかは、少しだけ目を上げ、慎二の表情を窺いながら口を開いた。
 「…ごめん、なさい」
 「え?」
 「今日遅くなった理由、気づいてるんでしょう…?」
 「―――…」
 そんな気はしていたが、やっぱりそうだったか―――慎二は軽く溜め息をつき、眉根を寄せた。
 「オレに謝ることなんて…」
 「うん…でも、ごめんなさい。今までも散々心配かけたのに、ちっとも前に進めなくて」
 「トラブルにでもなってるの」
 一瞬、はるかの顔が強張った気がした。が、はるかはすぐに微かな笑みを作り、小さく首を振った。
 「―――大丈夫。私の気持ちは固まってるから。まだ少し時間はかかりそうだけど…ちゃんと自分で決着をつける。だから、叔父さんには何も言わないで」
 「…うん、わかってる。先生に言う気はないよ」
 慎二が微笑むと、はるかもホッとしたように表情を緩めた。
 「ありがとう。それだけ伝えたかったから―――じゃあ、おやすみなさい」
 「うん、おやすみ」
 くるっと慎二に背を向けたはるかは、玄関を出て行った。そのまま隣の家に帰るのだろうと思って見送っていたら、その足がピタリ、と止まり、再度慎二の方を向いた。
 振り向いたはるかは、ちょっと躊躇うような顔をしていた。
 「…あの…工藤さん」
 「? なに?」
 キョトン、と慎二が目を丸くすると、はるかの躊躇うような顔が更に逡巡の色を濃くする。そんなはるかを見て、慎二は余計、怪訝そうな顔をした。
 コートの前襟を握り締めるはるかの指が、僅かに血の気を失う。やがてはるかは、諦めにも似た笑みを浮かべ、血の気を失った指を離した。
 「…いえ、なんでもないわ。おやすみなさい」
 くるりと踵を返し、門から出て行く。
 喉まで出かかった言葉を、また今日も、奥底に飲み込んで。


***


 透子の合格発表の6日後が、慎二の誕生日だった。
 高校入学前の春休み。今日は水曜日―――ギャラリーと教室も休みで、先生は1階で、日頃溜めてしまっているデスクワークをしているし、慎二は自分の部屋でスケッチに色を入れている。考えてみたら、先生や慎二の休日に透子も家にいるなんて、これが初めてだ。春休みに入るまでは、透子は学校に行っていて留守だったから。
 ―――何作ろうかなぁ…。
 透子は、ベッドにうつ伏せに寝転がって、はるかに借りた料理の本をめくっていた。今日の夕飯の―――つまり、慎二の誕生パーティーの料理を思案しているのだ。
 早めに帰宅できるシフトにしてもらったはるかは、自宅のオーブンでミートローフを作ると言っていた。じゃあ自分は、スープとサラダでも作るのがいいんだろうか。
 ―――そうだ。慎二のリクエストも訊いておかなきゃ。
 ふと思い立ち、透子は体を起こして、向かいの慎二の部屋に向かった。
 慎二の部屋のドアは、僅かに開いていた。窓も開けているのか、薄く開いたドアの隙間から、3月の優しい風が廊下へと流れてきていた。
 「慎二…?」
 そっと、ドアを押し開けてみる。
 慎二は、眠っていた。
 スケッチブックを手元に投げ出したまま、ベッドに仰向けに倒れこんだ姿で、すっかり寝入ってしまっていた。
 無理もない。透子も眠気を覚えるほどに、今日はいい陽気だ。くすっと笑った透子は、ベッドの縁からずり落ちてしまいそうになっているスケッチブックを手に取り、机の上に置いた。
 窓から差し込む光の中、寝息すらたてずに静かに眠り込んでいる慎二は、瞬きしている間に消えてしまうんじゃないか、というほど、頼りない存在感しかないように見える。自分も痩せすぎだと思うが、慎二も痩せすぎなんじゃないだろうか―――やはり、今日の夕食は、ボリューム満点の具がたっぷり入ったスープがいいかもしれない。
 そう言えば何を描いていたのかな、と気になり、透子は、机に置いたスケッチブックに目を落とした。が、その題材に、思わず眉をひそめた。

 そこに描かれていたのは―――何故か、一面のひまわり畑だった。
 おそらくは鮮やかな空色に染められるのであろう、まだ白いままの空。その下に、どこまでもどこまでも続くひまわり畑が広がっている。何故、春なのに夏の花を描くのだろう…透子は首を傾げた。
 ひまわりだけが彩色されているその絵を、なんとなく、指でなぞる。その中に1ヶ所、気になる部分を見つけて、透子はスケッチブックに目を近づけた。

 ―――これ…女の子…?
 画面の中央よりやや右寄りの、ひまわり畑のかなり奥の方に、人影のようなものが描き込まれていた。かなり遠くにいるらしく、それが人かどうかも微妙なほどに小さい姿だが、なんとなく女の子のように見えた。
 誰だろう―――慎二の空想の登場人物だろうか。
 何故か、凄く、気になった。

 「―――…ん…」
 背後で、慎二が身じろいだ。
 ハッと我に返った透子は、慌ててスケッチブックを机の上に戻し、そっと慎二の部屋を出た。
 何故なのだろう―――なんだか、見てはいけないものを見てしまったような気がした。

***

 透子が階下に下りると、先生は眼鏡をかけて、電卓を叩いているところだった。
 「先生」
 その手が止まるのを待って透子が声をかけると、先生は帳簿に何やら書き込みつつ、顔を上げた。
 「どうした?」
 「…うん…別に。ちょっと、休憩しないかなと思って」
 「そうだなぁ―――じゃあ、お茶淹れてくれるか」
 「うん、わかった」
 ホッとした笑みを見せた透子は、台所へ行って、手早くお茶の準備をした。昼に沸かしてポットに入れておいたお湯は、まだ大半が残っている。3人揃って、それぞれの作業に集中していたらしい。
 「―――ねぇ、先生。先生って、慎二のこと、高1の時から知ってるんでしょう?」
 お茶の注がれた湯飲み2つをお盆に乗せた透子は、居間に戻るなり、そう話を切り出した。
 「ん? ああ、そうだよ。美術部に入部してきた時だから…高1の4月か。ああ―――ちょうど今の透子と同じ位だったんだなぁ。早いもんだ」
 透子から湯飲みを受け取った先生は、そう言って懐かしそうに笑った。
 「慎二って、どんな生徒やった?」
 「そうだな―――なんて言うか、フワフワした奴だったな」
 「フワフワ?」
 「あの頃から、男か女かわからん綺麗な顔立ちをしとってな。本当ならもっと目立つんだろうに、それが全然目立たない―――いるのか、いないのか、注意しとらんと分からん位に、存在感のない奴だった」
 「大人しい生徒だったってこと?」
 「いや、大人しい、って訳じゃあないなぁ、ありゃあ―――人懐こい奴だったよ。友達も多かったし。話しかければふんわり笑って答えるし、質問があれば自分で手を挙げて訊いてくるし…まあ、普通の生徒だ。少々時間にルーズで、自分が興味を覚えると、団体行動無視でふらふらーっと別の方向へ行っちまう奴で、よく行方不明になっとったけどな。そんなところは、今も変わらん―――神戸に行ったと思ったら、ふらふらーっと透子について行きよって、さっぱり帰って来んかったからな」
 確かに、変わってないかもしれない。透子はクスクス笑った。
 「先生、慎二の親って会ったことあるの?」
 「あるよ。親父さんの方だけだけどな。ギャラリーがオープンする時、わざわざ東京から手土産持って来て下さった。立派な紳士だったよ。工藤にどことなく似とったな」
 「お母さんは?」
 「おふくろさん、なぁ…」
 先生の顔が、急に渋い顔に変わる。
 「おふくろさんは、もう長いこと病気らしいなぁ」
 「…えっ」
 意外な話に、透子の目が丸くなった。お母さんが、病気―――そんな話、一言も聞いていない。
 「病気、って…どこが?」
 「―――透子は、工藤に兄貴がいたのは知ってるか?」
 透子が頷くと、先生は「そうか」と言って、大きく息を吐き出した。お茶を一口すすり、また溜め息をつく。
 「…急性白血病でな。気づいた時には、手遅れだった。工藤やご両親は骨髄移植のための検査入院もしたんだが、移植の前段階の化学療法で白血病細胞を完全には叩けなくて―――結局、移植を試すこともできないまま、入院から僅か1週間かそこらで息を引き取った。まだ21歳だったし、ご両親にとっては自慢の息子だったらしくてな…それをきっかけにして、おふくろさんは倒れちまって、その後は入退院の繰り返しだ。精神的なもんだろう」
 「で…でも、それって、もう10年近く前の話やない? それなのに、まだ…?」
 慎二は今日、25歳になる。慎二の兄は、慎二が16の時に亡くなったと聞いた。であれば、もう9年前の話だ。
 「…いや…俺も、よくは知らん。母親の話は、それ以来、タブーになったからな」
 再びお茶をすすった先生は、疲れたように眼鏡を外した。
 「兄貴が死んでからだな。工藤の放浪癖が酷くなったのは。授業中でも、構わず行方不明になっとった―――結局、大学に進学もせず、就職もせず、家も出てフラフラしとったよ。よほどショックだったんだろう…近所でも評判の、仲のいい兄弟だったらしいから」
 「…そうなんや…」
 透子は、思わずうな垂れた。声も、酷く落ち込んだ声しか出せなかった。

 透子には、痛いほど分かる―――つい昨日まで傍にいた大切な人が、ある日突然、いなくなる恐怖。信じられなくて、認めたくなくて、その死を受け入れるにはもの凄い努力が必要なこと。
 慎二が感じたであろう痛みは、透子も感じた痛みだ。いや…今もまだ、感じ続けている痛み、と言った方がいいのかもしれない。
 ―――でも。
 息子を失って体調を崩した母を、慎二は、心配していないのだろうか?
 こういう場合、残された家族3人、力を合わせて悲しみを乗り越えるのが普通なのではないだろうか。何故慎二は、同じ東京にいながら、家を出てしまったのだろう? …ちょっと不思議だ。

 「けど、工藤も、一見変わっとらんが、やっぱり変わったなぁ…」
 感慨深げな先生の言葉に、透子は、うな垂れていた顔を上げた。
 「俺の知らん間に、あいつも色々な経験をしたんだろう。いろんなアルバイトもしてたようだし、恋人もいたようだしな」
 「…どんな風に変わったの?」
 透子が眉をひそめると、先生は、困ったような笑みを見せた。
 「一言では説明できんな」
 「……」
 「俺に言えるのは、昔の工藤なら、偶然知り合いになっただけの子を引き取ったりはしなかったことと―――昔以上に、あいつの存在感が薄くなったことだな」
 「…薄い…」
 「ある日突然、ふっといなくなるような…そんな気がしてな。時々、心配になるよ」
 「―――…」


 “―――生きなきゃ、って、思う”。
 “兄貴が生きられなかった分、オレは生きなきゃ、って思う”。
 だから頑張って生きようと言った慎二は、とても力強かった。一本、しっかりとした軸が体の中心に通ってるみたいに、はっきりとした存在感を持っていた。
 でも―――さっき、ベッドの上で眠っていた慎二は、なんだか消えてしまいそうに見えた。それは、慎二の頼りない外見のせいなのかと思ったが…違うのかもしれない。

 …どっちが、本当の慎二?
 先生が知らない数年間、慎二は、どんな人生を歩んでいたの?

 ―――何故、私を引き取ったの―――…?

 最初からずっと感じていた疑問が、説明のつかない不安を伴って、また頭に甦る。
 …でも、いい。どんな理由があろうと、慎二が好きだし、先生が好きだし、はるかが好きだし、この町が好きだ。拾ってくれたのが慎二で良かった、と、心から思える。


 何からくるのか分からない不安を、透子は、口にしたお茶と一緒に飲み込んだ。
 過去は、どうでもいい。明日も明後日もこの生活が続いてくれること…それが一番大切だと、透子は思った。


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