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05 : 招かれざる客 (3)

 透子がギャラリーの外で両手に息を吹きかけていると、黒のダウンジャケットを羽織った慎二がやっと出てきた。
 「ごめん、待たせて」
 「ううん、いいよ。先生は?」
 「電話入る約束があるんで、もう少し残ってくって」
 「そう。じゃあ、先帰ろっか」
 すっかり日が落ちた中を、2人並んで歩き出した。
 午後7時ともなれば、冬のこの時期、数メートル先を歩く人の服装も判別つかない程に、辺りは真っ暗になっている。慎二は、つい先日回ってきた回覧板を思い出し、透子を見下ろした。
 「なんか最近、この辺りにも不審者が出てるらしいよ。被害者はいないけど、何件か目撃情報があるって。透子も、バイトのシフト、もうちょい早めてもらった方がいいんじゃない?」
 「うん…でも、中途半端に暗い時間に1人で帰るよりは、この時間帯に慎二や先生と帰る方がいい」
 そう答えつつ、透子がしきりに手を温めようとしているのに気づいた慎二は、透子の右手を手に取り、ダウンジャケットのポケットに突っ込んだ。途端、慎二の手の熱とポケットの中の温かさで、悴んでしまっていた指先がじんわりと温かくなる。
 「すごーい、あったかーい」
 「手袋使えばいいのに…小林さんとこのおばさんに貰ったんだろ?」
 「うーん…なんか、指先が無感覚になるのって、不便で。バスの定期出すにしても靴を履き替えるにしても、素手でないと上手くいかないんだ。不器用なのかなぁ…」
 「ハハ…、その気持ちは、オレも分かるなぁ」
 中学時代と違って、バス停へは小林家とは反対方向に向かうので、荘太の母に手袋の件を見咎められることはないが、せっかく貰ったのに使わないのは悪いなぁ、という気持ちは透子にもある。でも、思うように動けないのは苦手だ。冬が苦手なのも、寒さで体が動き難くなるからかもしれない。
 「あっ。そういえばね、うちのクラスの今西さんの弟が、慎二の絵画教室の生徒らしいよ」
 ふと学校で耳にした話を思い出し、透子は慎二を見上げた。
 「今西? いまにし、いまにし…ああ、達哉君のことかな」
 「そうかな。その子、図工が大嫌いで、夏休みの宿題をやらせるために慎二んとこに放り込まれたらしいけど、それ以来すっかり絵が好きになっちゃって、今では家でもスケッチブック離さないんだって。でね、この秋の写生会で描いた絵がすっごく褒められて、校長室の横に貼り出されたんだって。決して凄い上手な絵じゃないけど、ノビノビ素直に元気に描いてあったみたい。今西さん、びっくりしてた」
 「…ああ、それならやっぱり、達哉君だ」
 一連のエピソードに覚えがあるらしく、慎二は視線を前に向けたまま数度頷き、クスクス笑った。
 「あの子、絵を描くなんて女の子の遊びだと思ってたんだよ。なのにオレが先生だって言われて、カルチャーショック受けてた―――むしろ、驚かれたオレの方がカルチャーショックだよなぁ…」
 「あはは、確かにねぇ。―――でもさぁ…人に物を教える仕事って、やっぱり凄いねぇ」
 つられるように笑いながらも、透子は思わず、感嘆の溜め息を漏らしてしまった。
 「苦手なものを“好き”にさせるって、凄いよ。好きこそものの上手なれ、って本当なんだもん。ほら、私の英語もそうじゃない? ちょっと苦手意識あったのに、今の先生になってから、一気に成績上がったもん」
 「ああ、例の“雪国”?」
 「そう、“雪国”」
 透子のクラスを受け持っている英語の教師は、教科書からは絶対宿題を出さない、ちょっと変わった教師である。これまで出された宿題は、日本のヒット曲の歌詞を英訳させたり、逆に海外のロックなどの歌詞を日本語訳させたり。夏休みの課題は、川端康成の『雪国』を数ページ翻訳することだった。
 最初は面食らった透子だったが、そうした宿題や課題を通して、透子はだんだん「英語って面白い」と思うようになった。気づけば、今では5教科の中で一番好きな科目が英語になっている。
 「先生の良し悪しで、好きになったり嫌いになったりするんだから、先生って凄いけど怖い仕事だね」
 「んー…、確かにそうかもなぁ。でも、オレはあんまり、深刻に考えたことないよ。子供相手だし、絵だしね。子供と楽しく絵が描ければそれでいいや、って感じで」
 感心したような透子のセリフに、慎二は笑いながらそう答えた。本心なのか、照れ隠しなのか―――でも、慎二が、単に教えているのだけではなく、自分も一緒になって楽しんでいるのは、本当だろう。それは、夏に体験したあの授業を思い出せば、実感として納得できる。
 ―――いいなぁ、慎二みたいな仕事…。
 将来、自分が何になりたいかなんて、まだ全然見えてこないけれど―――自分の進むべき道を見つけて、その楽しさを子供にちゃんと伝えていける慎二は、透子の目にはとても眩しかった。実際にその眩しさを感じたみたいに、透子は、慎二を見上げる目を無意識のうちに細めていた。

 そんなことを話しながらノンビリ歩いているうちに、家に着いてしまった。
 「あっ、サラダの材料って、冷蔵庫にもう入ってたよね。先作っちゃおうかな」
 「じゃあオレ、米研いどこうかなぁ」
 はるかが帰宅するまでには、まだ少し間がある。門扉に手を掛けながらそんな話をしていた―――その時。

 誰かの気配が、慎二の背後から迫ってきた。

***

 先に、その気配に気がついたのは、透子の1歩後ろにいた慎二の方だった。
 「?」
 眉をひそめて振り返った慎二が、次の瞬間、目にしたもの。
 それは、今まさに振り下ろされようとしている、木製のバットだった。
 「…っわあっ!!!」
 大慌てで、体を仰け反らせる。寸でのところで、バッドの先は、慎二が着ているダウンジャケットの前あわせ部分を掠めて、ガコンと音を立てて地面を叩いた。
 慎二の声とその音に、透子は驚いて振り向いた。そして、見た―――もの凄い形相をして、慎二と対峙している男の顔を。
 ―――あ、あ、あああああの人だっ!
 バイトを探して駅前をうろついていた時、喫茶店ではるかと話しているのを偶然目撃した、あの男。殺気を漲らせた表情と、すっかり着崩れたスーツ姿に、一瞬誰だか分からなかったが―――間違いない。あの時の男だ。
 整っていた男の髪形は、取り乱している気持ちを表すかのように乱れていた。肩で大きく息をしながら今殴り倒しそこねた慎二の顔を睨んで、ちっ、と舌打ちをすると、彼は再びバットを振り上げようとした。
 止めなきゃ、悲鳴を上げなきゃ―――そう思う頭とは裏腹に、透子は目と口を大きく開けたまま、その光景を見ていることしかできなかった。
 「う…わっ、田村さんっ! お、落ち着いて…」
 「うるさいっ! 貴様…貴様、よくも、はるかというものがありながら、そんな小さな子供にまで手を出せたもんだな…っ!」
 「え、えええ!? 何誤解してるんですかっ!?」
 「黙れ、この外道っ!」
 ぶん、と空を切る音がして、バットが振り下ろされる。慎二は間一髪のところでそれをかわし、家の前のアスファルトの上に転がった。
 「おかしいと思ったんだよ。あのはるかが“別れよう”なんて―――世間知らずでお人好しなはるかのことだから、どうせお前に騙されてるんだろうと思って、この1月余り、ずっと見張ってたんだぞ」
 「見張って、って―――…」
 多分、今、慎二の脳裏に浮かんでいるのは、透子と同じことだろう。
 ―――回覧板にあった「不審者」って、もしかしてこの人のことなんじゃあ…。
 「畜生、はるかが俺から離れられる訳がないんだ―――この野郎、騙しやがって…っ!!」
 「だから、誤解―――うわっ!」
 三度、バットが振り下ろされる。慎二はアスファルトの上に転がったまま、器用にそのバットを避けた。その段階まできて初めて、透子はハッと我に返った。
 よく見ると、男が手にしているのは、すぐそばのゴミ集積所に昨日から捨てられていた子供用のバットらしかった。剥がしかけて断念したらしい赤いシールと消えかけのサインペンの文字に見覚えがある。大人用よりは小ぶりで軽いとはいえ、頭にでもジャストミートすれば、それなりの怪我を負う筈だ。そのバットを、何度も慎二に向かって自棄になったように振り回し、慎二はそれを辛うじて防いでいる。
 ―――た…助けなきゃ、慎二を助けなきゃっ!
 またバットを振り上げようとする男の腕に、透子は無我夢中でしがみついた。身長差が身長差だけに、ほとんど腕にぶら下がっている状態だ。
 「やめてっ! 慎二、誤解だって言ってるやないっ、ちゃんと話を…」
 「うるさいっ!」
 腕の一振りだけで、透子は男の腕から振り落とされた。体がふっとび、慎二同様、地面に転がってしまう。
 「透子…! ダメだ、家の中に入って…!」
 背後で慎二の叫ぶ声がしたが、透子は諦めなかった。再び慎二に殺気を向ける男に気づき、その脚に思い切り抱きついた。
 「嫌やっ! 絶対慎二を殴らせへんからっ!」
 「…ッ、邪魔するな、このアマ―――!」
 ガツッ、と鈍い音がして、透子は蹴り倒された。
 蹴られた腕はさして痛くなかったが、また後ろに跳ね飛ばされた際、思い切り尻餅をついてしまったのが痛かった。その痛みに顔を歪めた時―――男の殺気が、自分の方に向けられていることに気づいた。
 ハッとして、顔を上げる。
 バットが、自分に向かって振り下ろされてくるのが、まるでスローモーションのように見えた。
 避けるには、あまりにも時間がなさ過ぎる。手で受け止めるには、その勢いが強すぎる―――どうすればいいか分からず、呼吸さえも止まったままその光景を凝視していた透子は、次の瞬間、誰かに肩を掴まれ、地面に押し倒されていた。

 「―――…ッ!」
 ぐるり、と視界が反転する。その中で透子が見たのは―――黒のダウンジャケットと、その背中に振り下ろされるバットだった。
 「し―――慎二っ!!」
 殴られた瞬間、自分を抱き抱えている慎二を介して、その衝撃が透子の体にも伝わった。肩甲骨の少し上辺り―――際どい位置を殴られて、慎二は、呻き声を噛み殺すように唇を噛んだ。
 透子には何も見えないよう、その顔を胸に押し付ける。とにかく頭を守るために、透子を抱えたまま極力体を丸めた慎二の上に、またバットが振り下ろされた。

 何も見えなくなった中、透子は、半ばパニック状態で、意味をなさない声を上げていた。
 それは、あの日―――激震で家の外に放り出された後、自分以外の家族がどこにも見当たらないことに気づいた時のパニックに似ていた。日常から非日常に突然放り込まれた恐怖―――何が起こっているのか、分からない。けれど、何か恐ろしいことが起きて、自分から大切なものを奪って行こうとしていることだけは間違いない。

 ―――助けて…!
 誰か、早く、助けて―――!!

 心の中で絶叫した時、透子の耳に、それまでとは違った衝撃音と、男の悲鳴が飛び込んできた。
 それは、聞き覚えのある鈍い音―――その音の正体に気づいているのか、透子を抱え込んでいた慎二の腕の力が、僅かに緩んだ。
 「…貴様、うちの連中に、一体なにしてるんだ…!?」
 ドスの効いた声に、透子は慌てて慎二の体越しに男の方の様子を窺った。

 そこには、木刀を手に全身に殺気を漲らせている先生の姿。
 先生が地面に突き立てた木刀の下には、先生の一撃で撃退された男が、無残な姿になって倒れていた。

***

 「透子」
 病院の廊下のベンチで膝を抱えて震えていた透子は、先生の声に顔を上げた。
 ぎこちない動きで、診察室のドアの方に首を向ける。診察室から半身を乗り出していた先生は、そんな透子の様子に苦笑しながら、軽くて招きしてみせた。
 「大丈夫だ。入っておいで」
 「…ほ…ほんと!?」
 「ああ。ちゃんと手当ても終わったから、おいで」
 透子はガタン、と音を立ててベンチから立ち上がると、慌てて診察室の中に駆け込んだ。
 診察室の中には、医師と看護婦が2名。それに椅子に座った慎二と―――ベッドの上に、例の男が寝かされていた。
 慎二は、頭に包帯を巻いていた。ダウンジャケットを脱いでコットンシャツ1枚になった首元から、どこを治療したのかガーゼが覗いていた。顔にも擦り傷があるし、手の甲にも大きなガーゼが当てられている―――あの手の甲の傷には覚えがある。透子を庇った時、地面で頭を打たないようにと透子の後頭部に回された左手だ。多分、地面で擦ってしまったのだろう。
 怪我の箇所の多さに透子が言葉を失っていると、慎二は、困ったような笑みを見せた。
 「透子…大丈夫?」
 「―――バ…バカ…っ、それは私のセリフでしょ…っ」
 また、涙が溢れてきた。透子は、絆創膏の貼られた手の甲で、溢れてきた涙をぐいっと拭った。
 「オレは大丈夫だよ。大した怪我じゃないから」
 「…キミね。呑気にしてるけど、大した怪我じゃなくて済んだのは、ひとえにキミがダウンジャケット着てたせいが大半だよ。頭もジャストミートせずに掠ったから軽傷で済んだんだ。もろに殴られていたら、いくら腐りかけのバットでもただじゃ済まなかったんだからね」
 医師にそう指摘されて、慎二は少し体を縮めた。いくら透子を庇うためとはいえ、バットを振り回す人間相手にひたすら丸まっていただけ、というのは、少々無謀な防御策だったらしい。
 「まあ―――キミよりあっちの方が、短期的には問題あるだろうけどねぇ…」
 医師の溜め息混じりの呟きに、その場にいた全員の目がベッドに寝かせられた男に向けられた。打ちどころが悪かった男は、慎二とは違い、脳震盪を起こしていた。既に意識は回復したものの、まだ夢うつつ状態である。
 ぼーっとしている男の顔を見たら、また怒りがこみ上げてきた。一瞬、先生がドアの横に立てかけている木刀を取り上げて男をメッタ打ちにする自分の姿が透子の頭をよぎったが、さすがに病院ではまずいと思ってやめておいた。
 「不審者情報が出とったから、門のすぐそばにある植え込みの中に木刀を忍ばせておいたのが、まさかこういう時に役に立つとはなぁ…」
 「…先生、帰ったら家の中にしまっておいて下さいよ…。悪用されたらどうするんですか」
 「竹刀で応戦してやるわ」
 「…やめて下さい」
 木刀の行方を巡って、先生と慎二がローテンションな攻防を繰り広げていると、急に診察室のドアが勢い良く開いた。
 「工藤さんっ!」
 予想通り、はるかだった。
 診察室に飛び込んできたはるかは、真正面に座る慎二の満身創痍の姿を見て、顔を一気に蒼褪めさせた。
 「な…何なの、その痛々しい姿は…!?」
 「ハ…ハハ、いや、ちょっと、やられちゃって」
 「ああ、もう…っ!」
 蒼褪めていた顔が、今度は一気に真っ赤になる。まるで信号機だ。その変化の唐突さに慎二や透子が驚いているのをよそに、はるかの視線は、ベッドに寝かされたあの男に向けられた。
 「―――田村さん」
 ゾクリ、と、背筋が寒くなるような、低い声。
 はるかとは思えない凄みを全身から発しながら、はるかはベッドへとツカツカと歩み寄った。一瞬、看護婦が制止しようとしたが、その凄みに思わず手を引っ込めてしまったほどだ。
 はるかの声に、田村と呼ばれた男は、僅かに体を起こしかけた。まだぼんやりした顔はしているが、一応、周囲の会話位は理解できているらしい。
 「は、はるか…す…済まない、俺は―――わああぁ!」
 弁明しかけた田村は、はるかにスーツの胸倉を掴まれ、情けない悲鳴をあげた。その引きつった頬を、完全にキレてしまったはるかの手がひっぱたく。
 「何度! 何度言ったら分かるんですかっ! 私のことはもう放っておいてってあれほど! あれほど! あれほど言ったのに…っ!!」
 「わ、分かった、分かったから、落ち着いて…」
 「工藤さんこんな目に遭わせて、落ち着いていられる訳ないでしょう!?」
 バシバシ叩くはるかに、田村は完全に防戦一方になっている。日頃のはるかからは想像もつかない暴走ぶりに、先生も慎二も、勿論透子も、唖然とするしかなかった。
 「―――工藤。お前、もう大丈夫なら、透子連れて帰っておけ。詳しい話は、はるかが落ち着いてから聞いておく」
 「…そうですね」
 先生の勧めに頷き、慎二はよいしょ、と立ち上がった。すると医師が、少し困惑した表情で慎二を引きとめた。
 「ちょっと、待って。…キミ、この後、どうするんだい?」
 「? どうする、って…何が、ですか?」
 「あの田村って人のことだよ。状況から見て、暴行事件として通報した方がいいと思うんだけどねぇ…」
 「……」
 医師の言葉に、慎二は、少し表情を硬くして、まだはるかに叩かれ続けている田村の方をチラッと見遣った。透子にも、緊張が走る。そうだ―――事態は、刑事事件として扱われてもおかしくないレベルなのだ。
 慎二は、暫く田村の様子を眺めていたが、やがて小さく溜め息をついて、軽く首を振った。
 「…いえ。オレは、被害届けは出しません。喧嘩みたいなもんですから」
 「いいのかい?」
 「ハイ」
 解せないという顔をする医師に、慎二は微かに笑みを返した。
 「二度と透子やはるかさんに手をあげないでくれれば…もう、いいです」

***

 帰り道、慎二は終始、無言だった。
 ただ、さっき同様に、透子の手をポケットに突っ込んで、ポケットの中でずっと指先を握っていてくれた。透子はなかなか涙が止まらなかったが、その手の温かさで、家に帰り着く頃にはなんとか落ち着きを取り戻すことができていた。
 その日の夕飯は、結局、買い置きしてあったカップ麺で済ませた。先生もはるかも帰って来ないし、どのみち食欲も湧かなかったので。

 「…あの人、何なの…?」
 カップ麺を、気の進まない箸運びで食べながら、透子はやっとその言葉を口にできた。
 透子の隣でカップ麺をすすっていた慎二は、一瞬箸を止め、言うのを躊躇うかのように沈黙し続けた。が、やはり説明しないのはフェアじゃないと思ったのか、やがてその疑問に答え始めた。
 「―――はるかさんの、元恋人だよ。はるかさんのデパートに出店してる婦人服ブランドの社員で…最近、別れたんだ」
 「…時々、はるかさんが帰ってくるのが遅くなってたのって、あの人が原因?」
 「うん」
 「…でも…なんであの人が、慎二を殴ろうとする訳?」
 「―――ほら、聡子さんが来た時、はるかさんのトラブル解決のために助っ人に行っただろ? あれが原因」
 要領を得ない透子の顔をチラリと見て、慎二は大きく溜め息をついた。
 「…つまり。はるかさんは別れたい、田村さんは別れたくない、で揉めて。だからはるかさんは、“新しい彼氏”って名目でオレを連れてった訳。それで田村さんが諦めると思ったし、実際“納得してくれた”ってはるかさんは言ってたんだけど―――どうやら納得してなかったんだな、あれは」
 それを聞いて、透子の顔が一気に険しくなった。手にしていた箸を憤慨したようにカップ麺の縁に置き、眉を吊り上げた。
 「酷い…! じゃあ、慎二は本当にただ巻き込まれただけじゃない!」
 「…まぁ、でも…田村さんに嘘ついたのは事実だしね」
 「でも、こんな怪我させられて…っ。そりゃ、私が止めに入ったから余計、怪我しちゃった部分はあるけど…っ」
 「い、いや、それはいいよ。そんなことで泣いたりするなよ」
 また大きな目に涙を溜め始める透子に、慎二は焦ったように箸を置き、その背中を軽くさすった。
 「でも…っ、でも、慎二がこんなに沢山怪我して…っ」
 「―――仕方ないよ。最初にはるかさんの相談に乗ったのはオレの責任だし、田村さんは田村さんで本当にはるかさんが好きだったんだし、はるかさんはそれでも、やっぱり田村さんと別れる方をどうしても選びたかったんだし…仕方ないよ」
 「じゃあ、せめて、ちゃんと警察に通報すればよかったじゃない。はるかさん、もう田村さん好きじゃないんでしょ? だったら、田村さん捕まっても誰も苦しまないじゃない」
 半ば泣きじゃくりながら透子がそう訴えると、慎二は困ったような微笑を見せた。
 「…それは…できないよ」
 「どうして?」
 「―――田村さん、結婚してて、子供がいるんだ。…2歳と、3歳」
 透子のしゃくりあげる声が、止まった。
 思わず顔を上げ、びっくりしたように目を見開いたまま、慎二の顔を凝視する。田村は、結婚していて、子供もいる―――つまり、それは…。
 「…不倫、だった、ってこと…? はるかさん」
 「―――途中まで、知らなかったんだって」
 「……」
 「酷いと思う。でも…こっちも騙すような真似したんだ。…田村さんの子供を“犯罪者の子”には、やっぱり、できないよ」
 「―――慎二、優しすぎるよ…」
 目を瞬くと同時に、大粒の涙が零れ落ちた。

 自分を庇って、こんな怪我をして。
 完全にとばっちりなのに、その相手を訴えることもせずに。
 何故、こんな風に、優しくなれるのだろう? 武器を持った相手に、武器で立ち向かうような真似は絶対できないタイプなのに…何故、こんな風に強くなれるのだろう?

 「…オレ、優しいだけが取り得だから」
 再び泣きじゃくる透子の頭を撫でながら、慎二はそう言ってふわりと笑った。

***

 はるかが挨拶に来たのは、翌日の夜だった。

 「透子ちゃんは、怪我の具合は…?」
 「うん、私は平気」
 部屋で宿題をやっていた透子は、はるかが差し出すケーキを受け取りつつ、心配させないよう笑顔を作った。
 透子は、脚を少し擦り剥いたのと、手の甲を大きく擦り剥いた以外は、特に目立った怪我はなかった。慎二に抱きかかえられていたからこそ、この程度で済んだのだろう。
 はるかは、一睡もしていないような、疲れきった顔をしていた。聞けば、今日は会社も休んだのだという。
 「工藤さんと透子ちゃんには、本当に迷惑かけちゃった…ごめんね」
 「―――あの人、もうはるかさんのこと、諦めた?」
 「ん…もう、大丈夫」
 さすがにあんな真似をしたのでは、もう関係の修復は不可能と悟ったのだろう。田村はもう「やり直そう」とは言わなかったらしい。
 「でも、私、分かんない―――はるかさん、どうしてあんな人と…その、あの人って…」
 「…奥さんも子供もいるのに?」
 透子が言わんとするところを察し、はるかはクスッと笑った。
 「なんで―――なんで、かなぁ…」
 疲れたようなため息を一つつくと、はるかは、透子のベッドにどさりと腰掛けた。柔らかそうなモヘアのセーターの裾を少し弄りながら、はるかは、どこか虚ろな表情で話し出した。
 「…田村さんと会ったのって、去年の今頃なの。私、ちょうどその頃、凄く辛いことがあって―――精神的に参ってたのよ」
 「辛いこと…?」
 「…好きで、好きで、どうしようもなく好きな人を、必死に諦めようとしてたの」
 ドキン、と心臓が跳ねた。
 思わず、はるかの顔を、これまでより真剣な目でじっと見据える。でも、はるかの虚ろな表情からは、今感じた以上のことを読み取ることはできなかった。
 「―――逃げたかったんだと思う。田村さん、昨日はあんなだったけど、日頃は凄くスマートで優しくて、うちの売り場でも憧れてる子が多いのよ。そういう人に誘われて…寂しくて寂しくて仕方なかった心の隙間、埋めて欲しくなったんだと思う。…それが、始まり」
 「…そう…なんだ」
 「でもね、結婚してるって知ったのは、透子ちゃんがこの家に来てからよ。知ってたら、付き合わなかった。それだけは信じて欲しいの。…すぐ別れようって思った。けど、その頃にはもう、情が移っちゃってた。心がグラグラしてる時に―――運悪く、見られちゃって」
 「え?」
 「工藤さんに…田村さんと一緒に、ホテルに入るところを」
 「―――…」
 「…工藤さんは、ああするべき、とか、こうするべき、とか、何も言わなかったわ。ずっと、叔父さんにもうちの親にも秘密にしてくれた。離婚するって田村さんの言葉を信じて待つ覚悟を決めた時も、何も言わなかった。…でも…やっぱり、私には不倫なんて無理だったみたい。春頃から、別れる、別れないでゴタゴタして―――結局、こんな風になっちゃった」
 自嘲気味な虚ろな笑い声を立てると、はるかはまた、大きな溜め息をついた。
 「―――大人になるって、汚いことね」
 「……」
 「好きな人がいるのに、何故その人だけを求めて努力できないのかしら。透子ちゃん位の頃はそれが当たり前だったのに―――寂しさに勝てない自分が、どうしようもなくイヤ」
 そう言うとはるかは、顔を上げ、机の前に座る透子を見てふっと微笑んだ。
 「子供の前でする話じゃない、って、叔父さんに釘を刺されたけど―――透子ちゃんには、話しておきたかったの」
 「…どうして?」
 「ん…なんで、かな。…透子ちゃんは、私の憧れだから、かなぁ…」
 ―――憧れ…?
 透子が驚いて目を見開くと、はるかはその笑みを更に深めた。
 「なれるものなら、透子ちゃんになりたい―――純粋で、真っ直ぐで、エネルギーに溢れてて。だから透子ちゃんは、私みたいな大人にはならないで。…ね?」
 どう、答えればいいのだろう。
 戸惑った透子は、ただ、曖昧な微笑をはるかに返すだけにしておいた。そうしている間も、頭の中には、さっきのはるかのセリフが何度も繰り返し甦っていた。


 ―――“好きで、好きで、どうしようもなく好きな人を、必死に諦めようとしてた”―――…。


 きっと、慎二のことだ―――その言葉を口にした時のはるかの目に、声に、表情に、透子はその事実を、なんとなく感じ取っていた。


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