←BACK二十四季 TOPNEXT→

05 : 招かれざる客 (4)

 田村がバットを振り回した2日後、慎二と透子は揃って風邪をひいた。休日だというのに、2人とも不運続きだ。

 鼻をすすり上げながら、透子はこたつに入ってみかんを剥いていた。テレビのニュースを見てはいるが、熱で瞼が腫れぼったくなっていて、その内容はあまり頭に入ってきていない。
 そんな透子の傍で、慎二がぐったりとこたつの天板に頭を乗せている。まだ頭に包帯を巻いたままの姿は、風邪で高熱を出したせいで、余計痛々しくなっていた。熱はなんとか37度台前半まで下がったものの、まだ全身がだるくて仕方ない。
 「慎二。はい、あーん」
 透子の声に、慎二がほとんど条件反射で口を開けると、その口の中にみかんが一房放り込まれた。これまた条件反射のようにそのみかんを味わうと、慎二は少し考え込むように眉を顰めた。
 「…有田みかん?」
 「残念。三ケ日でした」
 「…ただでさえ熱で味覚麻痺してるんだから、無理だよ」
 「じゃあ次、有田みかんね」
 透子はそう言うと、あらかじめ剥いておいた有田みかんを慎二の口の中に放り込んだ。
 「―――うーん…オレには“みかん”としか言いようがないなぁ…」
 「三ケ日の方がスッキリ味で、有田の方がまったり味だと思わない?」
 そして透子は、スッキリ味の三ケ日みかんが好きなのだ。三ケ日みかんを二房いっぺんに口に入れ、透子はふふっと笑った。
 「やっぱりこっちが好きー」
 「…じゃあ、有田みかん貸して。オレ食うから」
 「うん」
 透子が有田みかんを慎二の目の前に置いた時、あるニュースがテレビで流れ、透子はその手を止めて、目をテレビに向けた。
 透子の視線を追うように、慎二も頭をもたげ、テレビに目をやった。そこには、どことなくロシアや北欧の王宮をイメージさせる、見事なイルミネーションが映し出されていた。
 「ああ…“神戸ルミナリエ”か…」
 「…うん」
 震災の犠牲者の鎮魂と神戸の復興のためのイベント“神戸ルミナリエ”のニュースだった。毎日大盛況で、旧居留地は見物客でごった返している、という内容で、光の彫刻が連なる中を人の波が酷くゆっくりと進んでいく映像が流れている。
 「…行きたかった?」
 じっとテレビ画面に見入っている透子の横顔を眺めた慎二は、ニュースが終わったところで、躊躇いながらもそう訊ねてみた。すると透子は、ちょっと驚いたような目をして慎二の方を見、続いてどこか寂しげな笑みを浮かべて、首を横に振った。
 「ううん。私はああいうの、ちょっとダメだから」
 「ダメ?」
 「…多分、私がひねくれてるだけだと思う」
 ぽつん、とそう言った透子は、慎二から目を逸らした。
 「4千人死んだ、5千人死んだ、って言われても―――私、お父さんとお母さんと紘太のことしか考えられない。何人死んだか、誰が死んだかなんて、もうどうでもいい。…心狭いなぁ、って思うけど…それが、本音なんだ」
 「…うん」
 「鎮魂だ復興だって言われても…なんか、気持ちにしっくりこない。私、両親と紘太は今もずっと私と一緒にいるって思ってるの。だから―――あんなイベント、何になるの? その日しか死んだ人の事思い出せないの? って―――大きく取り上げられるほど、どんどん冷めちゃう。…復興も、今そこにいる人にとっては大切なことだけど、私にはもう関係のないことなの。ビルが建っても、活気が戻ってきても―――私が帰りたい神戸は、もう、ないんだもん」

 透子が帰りたい神戸は、両親と紘太がいる神戸だ。
 しっかりものの母がいて、おおらかで優しい父がいて、透子にじゃれつく紘太がいる、あの神戸だ。
 もう、戻らない―――たとえ神戸そのものが生き返っても、透子が望む神戸はもう戻ってこない。それを悟った瞬間から、透子にとって神戸は「いつか帰りたい場所」ではなく「二度と帰りたくない場所」になったのだ。

 「…やっぱり私って、自己中心な子供だね」
 暗くなってしまった空気を追い払いたくて、透子はちょっと笑ってそう言い、みかんを口の中に入れた。すっきりした酸味が、何故か苦く感じられた。
 そんな透子に、慎二はただ「そっか」と言っただけで、特に何も言わなかった。短いその返事は、まだ他人のことまで考えられない透子に、それで構わない、と言っているように感じられた。
 「それより慎二、年末年始は家に帰るんでしょ?」
 気まずさを隠すように、透子はさっさと話題を変えた。すると慎二は、有田みかんを頬張りながら、あっさり答えた。
 「んー…、毎年、帰ってないからなぁ。こっちに残るよ」
 「…えっ」
 毎年、帰っていない―――それは、年末年始に限らず、だろう。出会って間もなく1年になるが、この1年、慎二が東京に帰ったことなど一度もない。さすがに透子は目を丸くした。
 「どうして? お父さんとお母さん、心配してない?」
 「別に。たまに電話して、近況報告はしてるし。もういい歳だし、何も言われないよ」
 そう言われても、やはり透子には納得がいかなかった。
 確かに慎二は大人だけれど、兄が他界した今、両親にとってはたった1人の子供の筈だ。いくら大人でも、長年、一度も家に帰らないというのは、ちょっとまずいのではないだろうか。
 そう言えば、高校卒業後も、家を出て友達と共同生活をしていたと聞いた。まさか、その頃から帰っていないとは思わないが―――いや、もしかしたら、帰っていないのだろうか? ちょっと不思議な話だ。
 でも、なんだかそれを指摘するのは躊躇われた。触れてはいけない話題だと本能的に察していたのかもしれない。
 「じゃあ、年末年始は、どうするの?」
 「んー…、別に。適当だなぁ。イベントって言ったら、初詣と先生が“かきぞめ”する位かな。それに、今年はうちは喪中だからなるべく静かに過ごそうか、って先生は言ってた」
 「喪中って―――えっ、先生の親戚、誰か亡くなったの?」
 初耳だったので驚いてそう訊ねると、慎二はくすっと笑った。
 「何言ってるの。透子のご両親と、紘太君のことだよ」
 「―――…」
 「だから、初詣も三が日避けて、落ち着いた頃に行こうか、ってさ。…暇そうだから、日帰りでまたスケッチ旅行でもしようか」
 熱のせいか、いつもより虚ろな慎二の笑顔に、透子はうまく声が出てこなくて、同じく虚ろな笑いで応えた。

 ―――やっぱりここが、今の私の家だ。

 叔母に向かってぶつけた言葉は真実だったと、透子はそう、改めて思った。

***

 実際、年末年始は、静かに過ぎて行った。

 クリスマスには、真奈美を家に呼んで、はるかも加えて3人でケーキを焼いた。それを女3人で平らげてしまうという妙なクリスマスだったが、真奈美が楽しそうに声を立てて笑うのが嬉しかった。はるかも、ずっと先生に隠し事をしていた緊張感から解放されたせいか、よく笑った。
 「クリスマスイブは恋人と、なんて、テレビでも雑誌でも色々宣伝してるのに…はるかさん、女の子ばっかりで寂しくないの…?」
 事情を知らない真奈美がそう言うと、はるかはクスクス笑って答えた。
 「平気よ。だって、透子ちゃん曰く“そんな風潮は日本だけだ、あれはレストランとホテルのボーナスを狙った戦略だから、騙されたらダメ”なんですって。…でしょ? 透子ちゃん」
 思わぬところで暴露されてしまい、透子は顔を赤らめた。あまりにも現実的すぎて、ロマンチストの真奈美に呆れられそうだ。
 「ふふふ、透子って将来、やりくり奥さんになりそう」
 「そうねぇ。飴と鞭で旦那様を上手に操りながら、ちゃっかり貯金して家とか建てちゃうタイプかもね」
 真奈美とはるかに笑いながらそう言われ、余計顔が赤くなった。その後も2人は「将来の透子像」で盛り上がっていたが、透子自身は、結婚して家庭を持った自分なんて、到底想像がつかなかった。

 大晦日の年越そばは、何故かラーメンだった。蕎麦が得意ではない透子にはありがたかったが、何故ラーメンなのか、その説明はなかった。
 おせち料理は、元日に、隣に住むはるかの一家が持参した。透子は頑張ってお雑煮を作り、総勢7名で新年の宴らしきものを催した。はるかの両親には時々会っていたが、大学生の弟には、この時初めて会った。はるかとは全然似ていない、ツンツンと逆立った短髪をしたもの凄く無口な青年で、透子もあまり話しかけることができなかった。
 2日に、先生の“かきぞめ”があったが、これは予想を大幅に覆された。
 てっきり、和紙に筆で今年の抱負などを書くあれだと思っていたのに、全く違っていた。“書初め”ではなく“描き初め”なのだ。
 「今年はいいモデルがいるからな。描き甲斐があるぞ」
 「うそーっ! こんなの聞いてないっ」
 「言ったら逃げるだろう。ほら、顔はそっち見て。もっと肩を下げる!」
 はるかに借りた振袖を着せられた透子は、結局、先生の“描き初め”のモデルにされてしまった。都合1時間、椅子に座ったままじっとしている羽目になったが、二度とやりたくないと思うほどに辛い1時間だった。
 その日はデッサンだけで、完成した絵を目にしたのは1月も半ばになってからだったが、30号ほどのカンバスの中の透子は、凄く凛としていて大人っぽく描かれていた。ちょっと気を良くしていたら、
 「ありのままじゃ子供っぽ過ぎるからな。ちょっとサービスしといたぞ」
 と先生に言われ、もの凄く落ち込んだ。
 モデルをやっている時は気づかなかったが、慎二も、振袖姿の透子をアクリル絵の具で描いていたらしい。後で見せてもらったら、慎二らしい柔らかなタッチで、透子そっくりの女の子が描かれていた。大きくて黒目勝ちな目を少し細めて笑っているスケッチブックに描かれた透子は、透子が自分で思っているよりも優しげで、どことなく寂しそうに見えた。
 きっと、先生に見せている顔と、慎二に見せている顔が違っているんだろうな、と思う。
 先生には、やっぱりちょっと距離があって、少し大人ぶった態度を取ってしまう。同情はされたくないし、気も遣われたくない、そう思って背筋をいつもピンと伸ばしている気がする。でも、慎二には―――いつも、弱い顔を見せているかもしれない。一番酷い顔を最初に見られてしまった人だから、気を張らずに弱くなれるのかもしれない。
 「…なんか、心細そうに見えるね、この私」
 ちょと笑いながら透子がそう言うと、
 「うん―――透子は時々、そんな風に見えるから」
 慎二もそう言って、微かに微笑んだ。

***

 『第1回進路志望調査/提出期限:1月22日(月)』
 新学期早々、手にしたプリントを見て、透子のみならず、クラス中の全員が固まった。
 「えー、という訳で、第1回調査だ。希望の進学先が既にある者はその校名と学部名を、進路のみ漠然と決まっているならその内容を書くように。2年のクラス分けの参考にするから、慎重に書けよー」
 「……」
 誰も、一言も発しない。
 ―――だ…だって、まだ1年生の3学期じゃない…っ!
 さすがは、進学校。まさかこんな早い時期に“進路”なんて単語を突きつけられるとは思っていなかった。しかも、その志望調査が、2年のクラス分けに影響するなんて―――俄かに頭痛がしてきて、透子はこめかみを拳で押さえた。

 

 「ありがとうございましたー」
 ハンバーガーやシェイクの乗ったトレーを客に渡してニッコリ笑顔で挨拶した透子は、その客を見送る視界の端に、自分に向かって手を振っている一団を見つけ、目を丸くした。
 バイト先のファーストフード店の入口辺りに、荘太と古坂、その少し後ろに真奈美も揃って立っていたのだ。
 「え…ええ!? どうしたの、みんな揃って」
 「部活終わったから、ちょっと寄ってみたんだよ」
 荘太のセリフに、古坂と真奈美も頷いた。
 荘太や真奈美は、これまでにも何度かバイト先に遊びに来たが、2人揃ってなんてことはなかったし、ましてや古坂も含めて3人で、なんて初めてのことだ。まだ目を丸くしている透子の様子に苦笑した荘太は「何か飲もうぜ」と2人を促し、早速透子のカウンターに歩み寄ってメニューを覗き込んだ。
 「んーと…俺、シェイクのバニラ」
 「僕は、コーラ」
 「あたしは…ええと、ミルクティー」
 「…ご…ご注文繰り返します。シェイクのバニラ1つ、コーラ1つ、ミルクティー1つ。以上でよろしかったでしょうか」
 「はい、よろしかったですよー」
 ふざけたような荘太の返事にムッとしながらも、透子は手早くレジを打ち、商品を用意した。そんな透子の背後で、荘太と古坂が小銭を出し合っていて、真奈美もお金を出そうとするのを「いいからいいから」と断っていた。
 ―――うーん…ああして見ると、結構分かりやすいかも。
 さりげなく荘太と真奈美の間に入っている古坂―――いくら仲の良い荘太が相手でも、真奈美に接近されるのは困るらしい。いや…もしかしたら、古坂も疑っているのかもしれない。真奈美が好きな相手は、実は荘太なのではないか、と。
 古坂と真奈美は、お似合いだと思う。古坂には頑張ってもらいたい。でも―――真奈美が恋をしているなら、その恋を実らせて欲しいという気持ちもある。困ったなぁ、と、透子はこっそり眉を寄せた。
 バニラシェイクとコーラとミルクティーをトレーに並べ終わり、お勘定を済ませると、荘太がちょっと身を乗り出してきた。
 「なぁ。今、ちょっとだけ時間とれる?」
 「え? なんで?」
 「相談事。客、少ないし―――店内清掃のついでに、こっち出て来れないか?」
 ちらっとバックヤードに視線を走らせると、他のアルバイトの子はお喋りをしているし、店長は本部の人と電話をしていた。透子は小さく頷くと、台拭きを手にカウンターから出た。

 一応、荘太たちが座る席のテーブルを軽く拭き、その隣のテーブルを拭き始める。他のバイトの子もこうして友達が来てカウンター外に連れ出されることが時々あるから、まず見咎められることはないとは思うが、念のため。
 「で…何? 相談事って」
 「今日配られた、アレ」
 「…ああ、アレ」
 進路志望調査だ。透子の眉間に深い皺が寄る。
 「お前、どう書く?」
 「私? もう決まってるよ。就職」
 透子を除く3人は、透子の返事に顔を見合わせ、同時に深いため息をついた。
 「―――やっぱりそう来たか」
 「? なに、まずいの?」
 「いや―――安藤がさ、透子は大学に行くって思い込んでたらしいんだ。…だよな?」
 荘太に話を振られて、真奈美はちょっと頬を染めて、うろたえたように頷いた。
 「うん…だから、透子はどこの大学受けるか決めてるのかな、って思って―――陸上部終わった後、そんな話を2人にしたら、2人は“透子は就職する気かもしれない”って言って」
 「なんで私が受けるつもりの大学なんて気になったの」
 「…だって、同じ大学書けば、同じクラスになれる確率、高くなるかな、と思ったんだもの」
 「……」
 そう言ってますます赤くなる真奈美に、透子は感動すら覚えてしまった。思わず台拭きを放り出して、座っている真奈美の頭をぎゅーっと抱きしめた。
 「もーっ! 真奈ってばなんていじらしいこと言ってくれるのっ」
 「きゃああっ! と、透子っ、恥ずかしい…っ」
 「―――お前ら、何レズってるんだよ。あぶねー」
 荘太の呆れ声に、透子はキッ、とその顔を睨んだ。
 「男に女の友情は分からないのっ」
 「へーへー、そうですか。どうせ男の友情はドライだよ。なー、古坂」
 「あはは、まあね」
 「古坂君は、行くとこ決めてるの?」
 まだ真奈美の頭を抱きかかえたまま透子が訊ねると、古坂はちょっと首を傾げるようにしながら、コーラをトレーの上に置いた。
 「うーん…まあ、一応はね。家から通える範囲内にある大学狙う予定。一人暮らしの自信ないし」
 「真奈は?」
 真奈美が答えられるように頭を離すと、真奈美は赤くなった頬を手のひらで覆い、古坂同様、少し首を傾げるようにした。
 「…まだ、決めてないけど―――同じ、かな? 短大もいいかなぁ、と思って、迷ってるの」
 「そっかぁ、みんな地元派なんだねぇ」
 「おい。俺にも訊け、俺にも」
 話を纏められてしまった荘太が、不機嫌顔で透子の制服を引っ張った。予想通りの反応に、透子はニッと笑った。
 「ああ、ごめん。荘太もいたんだっけ。どうするの?」
 「…貴様…まあ、いい。俺は、絶対関東の大学に行く。どこでもいい、関東なら」
 「え…、じゃあ、一人暮らし?」
 「いや、じーちゃんとばーちゃんとこに居候するんだ」
 ―――ああ、そっか。
 言われてみれば、納得だ。
 荘太は早く家を出たいと言っていたのだから、地元の大学など受ける筈もない。小6になるまで暮らした千葉の祖父母の家の方が、荘太にとっては居心地がいいのだろう。千葉から通えるとなれば、その周辺の大学ということになる。
 無意識のうちに、真奈美の表情を窺ってしまう。真奈美は、既にその話をここまでの道中で聞いていたのか、あまり驚いた顔はしていなかった。が、荘太の顔を眺めているその目は、どことなく寂しそうに見えた。そんな真奈美を古坂がどんな目で見ているのかは、さすがにちょっと確認するのが躊躇われた。
 「けどなぁ…俺の場合、頭が足りねーんだよなー、頭が。透子、要らねーんなら、その賢さ、少し分けて」
 「体育以外で5を1つでも取ったらね」
 賢さなんてどうやって分けるんだ、と突っ込みを入れつつもそう言ってやると、荘太はがっくりとテーブルに突っ伏した。そんな荘太をよそに、真奈美は心配げな目をして透子を見上げた。
 「―――ねぇ、透子。本当に就職しちゃうの?」
 「ん…そのつもり」
 「でも、慎二さん、20歳までは後見人でいてくれるんでしょ? お母さんに聞いたら、後見人は教育の義務もあるって―――だったら、短大くらいなら」
 「そうもいかないよ。高校行かせてもらっただけでも、本当にありがたいと思ってるんだから」
 「……」
 「あー、ごめん、そろそろ戻らないと」
 これ以上、この話を引き伸ばしたくなくて、透子はそう言って話を切り上げ、3人のいるテーブルから離れた。何か言いたげな視線が追いかけてきたが、努めて無視した。

 真奈美の言うことも、分からないではない。
 最初の手続きをする時に、家庭裁判所の係官に説明された。未成年後見人は、普通は親が持っている“親権”というのを親に代わって持つのだ、と。“親権”という言葉は、ドラマでもよく出てくるので知っていた。離婚する時に子供を巡って両親が争う、あれだ。
 “親権”―――子供を養い、教育する権利と義務。法律の上では、慎二は間違いなく透子の“親代わり”だ。

 本当は、ちょっと「人に物を教える仕事」というものに、魅力を感じていたのだけれど。
 もしもそれが、イコール“教師”であるならば、高卒では無理だろう。それは、透子にもよく分かっているけれど。
 でも、いくら法律で決められたことだからと言っても、甘えるにも限度がある―――慎二は、“親代わり”ではあるけれど、“親”ではないのだから。

***

 数日後、透子は何故か、担任に呼び出された。
 バイトの時間が迫る中、急いで職員室に行った透子は、担任が手にしている物を見て、一体何の用なのかを察して表情を曇らせた。
 「井上。これ、工藤さんには相談したか?」
 「―――いえ」
 担任が手にしていたのは、透子が昨日提出した進路志望調査票。「就職、地元希望」と書かれたそれを掲げた担任は、酷く渋い顔をした。
 「やっぱりな。西條先生もいらっしゃるのに、1年のうちからこんな志望を提出させる訳ないと思ったんだよ」
 「…あの…うちの“先生”、ご存知なんですか?」
 「知ってるよ。西條先生は、俺が高校生の時、新任教師として入ってきた先生だったからな」
 漬物石で頭を殴られたような衝撃に、透子はよろりと後ろによろけた。まさか、こんな所にも「先生の生徒」がいたとは。
 「赴任当時は古文の先生でなぁ。居眠りしてると竹刀の寸止めをやるもんだから、クラス中緊張してたよ。いい先生だったけど、まさか東京行って美術の先生に転身するとは思わなかった」
 「…そ…そーですか…」
 「―――あのな、井上」
 話が脱線しかけたのに気づいたのか、担任はごほん、と咳払いをして、話を戻した。
 「お前の気持ちは、分からんでもない。でも―――お前はまだ16なんだ。大人に相談したり援助を頼んだりするのは、全然“甘え”じゃない。いいか。就職するにも、保証人として工藤さんなり西條先生なりにサインを貰う必要があるんだぞ。他人だからと遠慮してるようだが、他人だからこそ相談するのが筋なんじゃないか?」
 …確かに、一理あるかもしれない。透子はうな垂れ、視線を床の上に落とした。
 「…相談したら…進学しろ、って言われる気がするんです」
 「だろうな。特に西條先生はそう言うだろう。お前は成績もいいし、勉強するのが好きなタイプだから」
 「―――でも…血も繋がらない人に迷惑かけてまで、大学に行く意味なんてあるのかな…」
 「…その答えは、今すぐ見つかるとは限らないだろう?」
 そう言って溜め息をついた担任は、調査票を透子に突っ返した。
 「いいか。今がまだ1年の3学期だってことを忘れるな。最終的な進路を決めるまで、まだ猶予はある。とにかく―――まずは、工藤さんに相談するのが先決だ」
 「……」
 「とても大学までは面倒見切れない、と言われるかもしれないし、そう言われても、3年生になった時どうしても大学に行きたいという結論が出るかもしれない。進学させてやる、と言われても、3年までに進学する意味が見つからないで、結局就職することになるかもしれない―――何にせよ、結果が出るのは、もっと先だ。まだ保護者の判断も仰いでないうちから、可能性の芽を摘んだりするな」
 「―――…はい」

 こういう時、思い知らされる。自分はまだ子供なのだと。
 慎二や先生が、闇雲に自分の意見を押し付けてくるような大人でないことは、ちゃんと分かっていた筈なのに―――ちゃんと透子の意思を尊重してくれると、分かっていた筈なのに。就職するにも進学するにも“保護者”の同意が必要な年齢であることも忘れ、必死に大人になろうとして…。
 どの道を選ぶにしても、いざその時になれば自分ひとりの問題ではないのだ。そんな当たり前のことに、透子は気づき、打ちのめされた。

***

 その日の夜、夕飯も入浴も終わってから、透子は慎二の部屋のドアをノックした。
 「慎二…ちょっと、いい?」
 「んー? いいよ」
 ドアを開けると、部屋の電気は既に消されており、ベッドサイドの灯りだけが点いていた。何か本を読んでいたらしい慎二は、透子が入ってくると同時にベッドの上に起き上がった。
 「どうした? 怖い夢でも見た?」
 「ううん、そうじゃないの。あの―――…」
 まだ少し、迷いがあった。それでも透子は、思い切って今日突っ返された調査票を慎二に差し出した。
 怪訝そうな顔でそれを受け取った慎二は、ベッドサイドの灯りの中でそれに目を落とし、直後、眉をひそめた。
 暫く、黙って、志望記入にあたっての注意点などを丁寧に読んでいた慎二は、やがて目を上げ、透子を見据えた。
 「透子は、就職したいの?」
 「…そう、しようと、思ってる」
 「そうじゃなくて―――就職すべきだ、じゃなく、就職“したい”と思ってる?」
 透子の瞳が、揺れた。
 唾を飲み込み、視線を少し落とす。自分に正直に―――そう心の中で繰り返し、一度、小さく息を吐き出した。
 「―――分からない。ただ…1つ、ぼんやりした夢は、最近、見えてきたかもしれない」
 「夢?」
 「…私、慎二みたいに、子供に何かを教える仕事をしてみたい」
 意外な答えだったのか、慎二は驚いたように目を見張った。
 「私が教えられるものなんて、まだ何もないんだけど、でも…慎二が絵の苦手な子に絵の楽しさ教えてるみたいに、私も何かの楽しさを教えて、それを好きになってもらえるような仕事がしたいの」
 「…そうなんだ」
 真剣な眼差しでそう語る透子に、慎二はふわりとした笑みを返した。
 「まだ教えられるものがないなら、それを見つけないといけないんじゃない?」
 「…うん。私も、そう思う」
 「高校の3年間で、見つかる?」
 「……」
 …無理、だろう。高校を卒業してすぐ就職するとしたら、それは透子の望むような仕事ではない筈だ。透子は、無意識のうちに唇を噛んでいた。
 「―――けど…大学に行っても、見つからないかも」
 「見つかるかもしれないだろ?」
 「そんな、見つける時間の延長のために、慎二に迷惑かけるなんて」
 その言葉は、想像通りだったのだろう。慎二はクスリと笑うと、ベッドから下り、書棚の引き出しの中から1冊の通帳を引っ張り出した。それを開いて中身を確認すると、無言で透子に渡した。
 「これ、透子から預かってる通帳」
 「?」
 色から見て、バイト代を振り込んでもらっている口座の通帳だろう。家計や学費の足しにしてもらうために、慎二に預けっぱなしにしてあるのだ。訝しげに眉を寄せた透子は、受け取った通帳に目を落とした。
 そして、そこに印字された金額に、目を丸くした。
 「な…何なの、このお金!? 200万超えてるじゃない!」
 「端数部分が、透子のバイト代を貯めてってる分で―――それ以外は、聡子さんから」
 驚きのあまり、通帳を落としそうになった。あの叔母からとは、どういう意味なのだろう?
 「ほら。透子が住んでた家が建ってた、あの土地。透子の言葉を尊重して、聡子さんに贈与はしたけど―――その代わり、200万、逆に聡子さんから透子に贈与してもらったんだ。税金で目減りしたけどね。実質的には売買みたいなもんだけど…贈与の方が納税手続きが短期間で済むからって」
 「……」
 「聡子さん、ホッとしてたよ。透子に何もしてやってないこと、あの人なりに気にしてたから」
 唖然としすぎて、声が出ない。
 叔母が、透子のことを気にしていたなんて。何もしてやっていないと、罪悪感を持っていたなんて。9月に来た時の態度からは、そんな様子、微塵も感じられなかった。むしろ、不仲だった母の死を悲しいとも思っていないし、その子供である自分にも一切関心はない、という風に、透子の目には映っていたのだ。
 「透子が相続した財産を売って得たお金なんだから、好きに使えばいいよ。大学行ってもいいし、一人暮らしする準備金にしてもいいし。とにかく…オレに迷惑かけなくても行けるってことだけ、覚えてて」
 「―――う…ん」
 まだ呆然としたまま、返事をした透子は、胸の奥がチクンと痛むのを感じた。

 …あんな態度ばっかり、取るんじゃなかった。

 誤解されやすい、不器用な人なのだと見抜けなかったのは、自分が子供だからかもしれない。
 それでも、もうちょっとマシな接し方があったんじゃないか―――透子は少しだけ、後悔した。

 

 電話をしても捕まらないことの多い叔母なので、悩んだ末透子は、叔母が拠点としているアメリカのマンションに宛てて手紙を出した。慎二から話を聞いた、感謝している―――要約すれば、そんな内容。
 手紙を書き上げた日は、偶然、震災からちょうど1年だった。なんだか不思議な気分を味わいながら、透子はその手紙を郵便局に出した。
 返事が届いたのは、2月も半ば近くなってから。届いたのは、絵ハガキだった。

 『こっちもいい投資ができたわ。頑張って稼いで、素敵なマンション建てさせてもらいます。
  数十年後に神戸に住みたくなったら、1部屋貸してやってもいいわよ』

 「…やっぱり、この人とは合わないかも…」
 サンフランシスコの写真の裏に書かれた文字を睨んで、透子は呆れたような、でも笑うのを堪えているような声で、そう呟いた。


←BACK二十四季 TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22