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06 : bitter & sweet (1)

 半分、意識が眠りの淵に落ちかけた時、ドアを叩く音に、慎二は現実に引き戻された。
 ―――…透…子?
 ぼやけた思考の中でもはっきり分かる、明らかな既視感(デジャヴ)―――ちょうど1年前、こんなシーンによく遭遇した。慎二は、目を擦りながらもベッドサイドのライトをつけ、眠気を追い払うように勢いよく起き上がった。
 ベッドを下り、部屋のドアを開けると…案の定、そこに透子が立っていた。泣き出しそうなのを耐えるように俯きながら。
 「透子」
 声を掛けると、耐えていたものが決壊したように、透子の大きな目から涙が零れ落ちた。
 「―――…っ、ご…ごめんっ」
 「…いいよ、謝らなくて」
 おいで、という風に手を広げてやると、透子はその手の中に収まって、慎二にしがみついて泣き出した。泣き声は決して立てない―――よく笑いよく怒る透子だけれど、泣く時はいつもこんな風だ。そんなに頑張るなよと言いたくなる位、感情を押さえ込もうとする。
 1階の玄関から、階段を伝って冷たい空気が上って来る。ドアから流れ込む冷たさに、今が2月という1年で一番寒い時期であることを思い出した。透子が泣き止む気配はないが、このままではまた風邪をひいてしまうだろう。
 慎二は、しがみついている透子をそっと引き剥がすと、透子の手を取ったまま、先に立ってベッドにもぐりこんだ。極力壁の方に体を寄せて、透子が入ってこれるだけの場所を作ってやる。
 「避難所よりは、狭いけど」
 苦笑混じりに慎二がそう言うと、透子は、涙を零しながらもくすっと笑った。そして、自分のために空けられた空間に体を滑り込ませた。


 ―――他人が見たら誤解するんだろうなぁ…。
 同じベッドの中、丸まってる透子に添い寝してやりながら、慎二は複雑な思いにちょっと眉をひそめた。
 目の下ギリギリまで布団の中に潜りこんでしまっている透子は、慎二からは目元と額しか見えない。その目元も額も、去年同じように添い寝した時と同じように見えるが…やっぱり、どことなく、同じではない。1年経った分、大人びた顔立ちに成長している。
 来年はもう、こうしてやるのも無理かもしれないな、と、ふと思う。
 いや…透子の方から来なくなるかもしれない。もしそうだとしたら―――来年のこの時期を、透子はどうやって乗り切るだろう?

 今から2週間ほど前―――震災から、ちょうど1年経った日。テレビでは盛んに“震災特集”をやっていた。追悼式典が開かれ、神戸のみならず日本中が喪に服してるみたいな1日だった。けれど…透子は、そうした式典には参加しなかったし、テレビの特番も見なかった。普段通り学校に行き、いつもの人気ドラマを見た。まるで、今日という日は、他の日と何ら変わりのない1日であるかのように。
 平日だからね、と周囲も半分納得していたが、休みの日になっても神戸に帰る気配すら見せない透子に、さすがの先生も首を傾げた。
 「両親と弟が亡くなった日だろう? 何もなしじゃあ、あんまりじゃないか?」
 別段、先生は意地悪な訳でも厳格な訳でもない。そう思うのが普通だろう。口さがない人になると、日々楽しそうに学校に通っている透子を見て、こんな陰口を叩いたりするのだ―――「両親も弟も死んだってのに、平然と新しい生活を楽しそうに送れるなんて、随分薄情な子だねぇ」。
 みんな、知らない。
 透子が今も、あの日見た光景から逃げ続けているということを。
 神戸に帰ろうとしないことも、極力震災の話題を遠ざけようとするのも、理由はただひとつ―――帰れば、現実を突きつけられれば、あの日の光景を画面上に再現されれば、嫌でも思い出すから。両親と紘太を見送った時の虚脱感、迫ってくる炎を目にしながら何も出来なかった時のあの絶望、そして…もう自分はひとりぼっちなんだ、と認めた時の、あの恐怖を。

 忘れたフリをしなければ、新しい生活に没頭しなければ、生きられない。
 現実と向き合いながら生きている神戸の人々は、透子を非難するだろうか。…でも、生きてくれるのであれば、何だっていい―――慎二は、そう思う。

 死者のために、自分の未来を閉ざす。…そんなのは、見たくない。
 ―――…もう、二度と。

 ゾクリ、と、背筋が寒くなり、慎二は無意識のうちに透子の髪を撫でていた手を、反射的に引っ込めた。
 「……ッ」
 喉が、詰まる。今、一瞬考えてしまったことを頭から追い払うべく、透子には気づかれないように深呼吸をした。が、吐き出す息は、動揺した心の震えそのままに、震えていた。
 生き続けるために、逃げる。それを肯定するのは、案外、自己弁護のためなのかもしれない―――そう思うと、自嘲の笑いが体の奥からこみ上げてくる。
 少なくとも透子は、両親と紘太の死を受け入れている。本人はバレていないと思っているらしいが、透子がこの時期に限らず時々震災の日の悪夢を甦らせているのも、慎二は知っている。確かに透子は、今も神戸で復興に取り組みながら生き抜いている人に比べたら、現実から逃げていることになるかもしれない。でも、直面した現実の残酷さに比べたら、その位罪にはならないだろう―――透子は十分、戦っている。
 逃げているのは、自分だ。
 辛すぎる現実を受け止めるのが嫌で、逃げ出した。父から、母から、兄から、そして―――“彼女”から。あんなにも自分を必要としてくれた人たちから。そして今も逃げ続けている。東京に置き去りにしてきたものから、ずっと、ずっと。
 透子を保護する立場にありながら、透子よりも弱く、卑怯な自分―――苦い思いが、胸の奥の方に広がった。

 「―――ん…」
 突然、それまで大人しく丸くなっていた透子が、僅かに身じろいだ。
 当分寝付かないかと思ったが、2人分の体温は、思いのほか透子を安心させていたらしい。身じろぎはしたものの、透子は微かな寝息をたてて、眠っていた。
 透子の閉じた瞼の端から、涙がすっと流れ落ちる。
 「…眠りながら泣くなんて、器用だなぁ…」
 涙の筋を指先で拭った慎二は、僅かに微笑むと、身じろいだせいで布団から出てしまった肩を隠すように、布団を引き上げてやった。


 今は、何も考えない。
 透子―――失った家族のために一度は未来を捨てかけたこの子が、笑って未来を歩いていけるようにすること。それだけを考えよう。来年のこの時期を、透子がたったひとりで泣いて過ごさずに済むように、傍にいて最大限の愛情を注いであげよう。ボランティア精神などとは無縁な自分だけれど、透子にだけは、そうできる筈だから。
 そうして、いつの日か、透子が自分から神戸に赴いて、かつてそこにあった日常を懐かしむことができるようになったら―――その時、自分も、何かをクリアできるのかもしれない。
 何の根拠もないけれど…慎二は何故か、そんな気がした。


***


 「うわー…。凄い人だねぇ…」
 「ほんとに…」
 デパートの食品売り場の、日頃ならありえない盛況ぶりに、透子と真奈美は唖然とした表情のまま立ち尽くしていた。
 2月12日、振替休日の月曜日。
 それはつまり、今日が、バレンタインデー直前の最後の休日、ということだ。
 「―――お菓子業界の陰謀なのに…」
 「…じゃあ、透子はやめておく?」
 「ううん、買う」
 クスクス笑いあった2人は、女性客でごった返しているバレンタインチョコ売り場に足を踏み入れた。
 日頃洋菓子や和菓子の店が並んでいるその一帯は、通常売っている商品とは無関係に、全てがバレンタイン仕様になっていた。和菓子屋は和菓子屋で、バレンタイン用の和菓子なるものを売っていたりして、結構面白い。
 「先生には和菓子の方がいいかもなぁ…」
 和菓子屋のショーケースを覗き込みながらぶつぶつ呟く透子を見て、真奈美は、ちょっと躊躇いがちに訊ねた。
 「…ねえ。透子は、誰と誰に渡すの?」
 「ん? 慎二と、先生と、荘太と、古坂君」
 指を折りながら透子が答えると、真奈美の目が、少し動揺したように揺れた。
 「…その中に、本命チョコって、ある?」
 「本命チョコ?」
 思いもしなかった単語を聞いて、透子はキョトンとした顔をした。
 「どの人も、心から“あげたいなぁ”と思うからあげるよ? だから全員、義理チョコのつもりはないけど」
 「そう言うんじゃなくて、つまり―――あの…」
 「…ああ、つまり、告白の意味で送る相手、ってこと?」
 言い難そうにする真奈美の言葉を受けて、透子はそう先回りした。僅かに頬を染めた真奈美は、透子の言葉にコクンと頷いた。
 「そういうのは、ないよ」
 「―――そう」
 「真奈は? 誰にあげるの、本命チョコ」
 こういう事を訊くってことは、自分には本命チョコを渡す相手がいる、ということに違いない。それを証明するように、真奈美の頬は余計に赤くなった。
 「お父さん、なんてふざけた返事は禁止ね」
 「…それ、言おうと思ってたのに…」
 「だぁめ。…んー、もしかして、荘太?」
 つい、口にしてしまった名前。
 そして、次の瞬間―――透子は、自分が核ボタンを押してしまったことを悟った。びっくりしたように目を大きく見開いた真奈美は、直後、耳まで真っ赤になったのだ。
 「……」
 この反応を、肯定の意味以外に解釈するのは、不可能だ。
 聞くんじゃなかった、と後悔してももう遅い。元々、そうかなとは思っていたが、いざそれが確定されてしまうと、何だか退路を断たれたような焦燥感に襲われてしまう。
 つまり―――古坂は、真奈美が好きで。その真奈美は、荘太が好きで。でも、古坂を応援しているってことは、荘太は真奈美を好きじゃない…という訳で。
 ―――な…なんか、狭い世界の中で、とんでもないことになってるなぁ…。
 背中を、冷たい汗が伝った。
 「あ、あの、でも…告白、するつもりはないの。少なくとも、今年は」
 透子が言葉を発することができずにいると、真奈美が慌てたようにそう付け足した。
 「透子のおかげで、せっかく小林君と仲良くなれたのに―――告白なんかして、気まずい感じになるのが嫌なの。…小林君があたしのこと好きじゃないの、分かってるから。2年で同じクラスになれるとは限らないし、せめて1年の間は、今まで通りでいたい」
 「…そ…そう、なん、だ」
 とりあえず、2年進級までは、安泰らしい。思わずホッと胸を撫で下ろした。
 「じゃ、じゃあ、さっさと選んじゃおう! まずは荘太と古坂君の分から」
 妙なムードを払拭するように、いつも以上に明るい声で透子が促すと、真奈美も微笑んで「うん」と返事した。
 カラフルな包みが氾濫する中、なんとなく無言で、それぞれに目ぼしいチョコレートを物色していたが。
 「―――あたしね。透子も、小林君が好きなのかな、って思ってた」
 ふいにそう、真奈美が呟いた。
 とんでもない内容に、透子が目を丸くして振り返ると、真奈美はその顔を見てちょっと吹き出した。
 「やだ。透子ってば、超常現象でも目撃したみたいな顔してる」
 「…超常現象の方がまだマシだよ…。何それっ。ありえないよ、私が荘太を、なんて」
 「ん…今は、分かってる。でも、最初はそう思ったの」
 「なんで?」
 「だって―――小林君と、凄く仲良さそうだったし。それに、透子、言ってたじゃない。透子の好みはジャッキー・チェンだって。強くて、パワフルで、ユーモアのある人で、できれば顔もファニー・フェイスがいい、って」
 「……」
 「小林君、大きく分ければ、そのタイプだから―――だから、そう思ったの」
 指摘されて、初めて気づいた。
 言われてみれば確かに、荘太は、大分するならばそのタイプに分類される。顔立ちは明らかにファニー・フェイスだろう。力が強いかどうかは分からないが、敏捷なのは間違いない。クラスでも一番ノリのいい奴で、結構人気者だ。
 ―――でも…荘太にはなんか、好きとか、そういう感情、湧いてこないよなぁ…。
 いい奴だし、一緒にいて楽しいと思う。クラスの男子生徒では一番好きではある。が、恋愛感情の“好き”は、全く感じない―――感じなくて良かった。もし自分も荘太が好きだったら、ただでさえ冷や汗ものな4人の関係が、もっと冷や汗ものになっていた筈だ。
 「うーん…私が言った“好み”って、友達レベルの“好み”なのかもなぁ…」
 黄色い包装紙で包まれたチョコを手に取りながら、透子は軽く首を傾げるようにした。
 「よく考えてみたら、ジャッキー・チェンとか荘太みたいな系統とは、一緒にワイワイ遊ぶシーンはイメージできても、恋人同士になって手を繋いでるシーンとかは全然イメージできないわ」
 「…じゃあ、恋愛レベルの“好み”は?」
 「うーん…」
 ―――何も、思い浮かばない。
 中学の時に憧れていた人は、サッカー部のキャプテンで、いかにも爽やかな二枚目だったっけ。じゃああれが理想か、と言われると、それもピンとこない。漫画やドラマのキスシーンやラブシーンに自分と誰かを当てはめようにも、どれもしっくり来ない気がする。
 そんな事を考えていた時、ふいに、あるシーンが頭に甦った。
 去年の夏―――慎二と、海を見に桟橋まで行った時のこと。寒さに震えていたら、背後から抱きかかえられた、あのシーン。
 思い出したら、何故か、急に顔が熱くなってきた。
 ―――う…うわうわ、な、何で?
 「…透子? 顔、真っ赤よ?」
 「な、なんでもないっ」
 怪訝な顔をする真奈美から顔をそむけ、透子はまた、チョコレートの物色に戻った。
 思い出してしまったシーンを頭から追い払い、なんとかチョコ選びに集中しようとする。けれど、心臓のドキンドキンという音が耳の中で鳴り響いていて、焦る透子を酷く悩ませた。

***

 2月14日の校内は、表立ってはいつもと変わらないものの、なんとなく浮き足立ったようなフワフワした雰囲気が学校全体を覆っていた。
 透子と真奈美は、朝一番で、荘太と古坂にチョコレートを渡した。2人揃って、満面の笑みで喜んだ。
 「おおっ、さんきゅー」
 「開けてみれば?」
 「そうだな。古坂も開けてみせろよ」
 さっそく、荘太がチョコの包装紙をバリバリと開ける。一方古坂は、包装紙が破れないよう丁寧に開封する。全くもって、見た目も性格も正反対な2人だ。透子と真奈美は、こっそり顔を見合わせて笑った。
 「あー。安藤さんっぽい」
 真奈美の包みを先に開けた古坂が、嬉しそうな声をあげた。見れば、真奈美が選んだチョコはいわゆる“トリュフ”と呼ばれるものだった。微妙に種類の違うトリュフが6つ、丸い箱の中に入っている。関係を壊したくない、と言ったとおり、荘太のものも古坂のものも同じだった。
 「わはははは、透子っぽい!」
 透子の包みを開けた荘太が、大笑いした。真奈美の箱よりも立体的な箱の中身は、動物を模ったチョコだった。荘太の方は犬、古坂の方はカンガルーが入っていた。
 「なんで僕がカンガルーで、荘太が犬?」
 「古坂君、ハイジャンプ選手でしょ。ハイジャンプする動物はさすがに見つからなくて、同じ“跳ぶ”で、カンガルー。荘太は足速いから、犬」
 「ちぇー、ピューマとかチーターとかいなかったのかよ」
 「なかったもん。でも、可愛さからいくと、ポチが一番可愛いチョコだったよ」
 「人のチョコ指してポチとか呼ぶなっ」
 「小林くーんっ」
 動物チョコで盛り上がっているところに、クラスの女子の声が割って入った。
 声のする方に4人揃って目を向けると、教室の入口辺りに立っている女子生徒数名が、ひやかすような顔をして荘太を手招きしていた。そんな彼女達の向こうに、廊下で待つ女の子の姿―――どういうことかは、一目瞭然だ。
 荘太は、面倒そうに眉を顰め、髪を掻き毟った。そのまま無視するんじゃないかと一瞬ハラハラしたが、古坂が無言のまま肘で小突いたのに促され、仕方なさそうに立ち上がった。
 「人気者は辛いねー、小林君っ」
 「沢山チョコもらったら、ウチにも分けてー」
 囃し立てる女の子たちをしっしっ、と追い払っている荘太の姿を、透子はちょっと意外な思いで眺めた。
 ―――へーえ…人気あるとは思ってたけど、女の子にモテるとは思ってなかったなぁ…。
 でも、考えてみたら荘太は、まだインターハイには出ていないとはいえ、陸上部のスター選手になること間違いなしな奴なのだ。バイトの関係で最近はあまり練習を見に行くことはないが、よく見学に行っていた去年の春の段階でも、既に荘太の名前はギャラリーの声援の中に混じっていた。あれから1年近く経つ今なら、その数はもっと増えている筈だ。
 「…小林君、今までも何人かに告白されてるみたいよ」
 そう言う真奈美の小さな声に、透子はハッとして振り向いた。
 真奈美は、表面上は普通の世間話をしているような表情をしていた。しかし―――目だけが、いつもより暗い。そのことに気づいて、透子は俄かに焦りを感じた。
 「そ、そーなんだ」
 「うん。でも、全員断っちゃってるみたい。今日も何人かチョコ持って告白しに来るんだろうな…」
 「……」
 「…断るのは、好きな子がいるからかな」
 真奈美の視線が、机の上に置かれた真奈美と透子のチョコの上に落ちる。
 チラリと古坂の様子を窺うと、そんな真奈美の視線を追いかけるように、同じチョコに視線を落としていた。
 ―――う…うわぁ…。嫌なムード。
 あああああ、どーしよう。耐えられないよ、この雰囲気っ。
 冷や汗がこめかみを伝いそうになる。荘太、早く帰ってこないかな―――と、重苦しい沈黙の中、透子はひたすら、廊下にいる筈の荘太が戻ってくるのを願い続けた。

***

 「せんせー、ちょっといい…」
 夕食後、居間で新聞を読んでいる先生の所へと赴いた透子は、机の上にある四角い箱を見つけ、眉をひそめた。
 上品な柄の紙で包まれ、赤のリボンが結ばれたその箱は、明らかにバレンタイン仕様だ。
 「…それ、どうしたの、先生」
 「ん? ああ、これか」
 「はるかさんから?」
 「いや。そこに捨ててあるパッケージ見れば分かるぞ」
 先生がゴミ箱を指差すので、透子は首を傾げながら、ゴミ箱に無造作に突っ込まれていた宅配業者のものらしきパッケージを引っ張り出して見た。そして、その送り状に書かれていた送り主の名前に、心臓が口から飛び出しそうになった。
 「ま…“松原聡子”!? って、叔母さん!?」
 「透子の叔母さん以外に松原聡子って知り合いはおらんからな。多分、そうだろう」
 「ななななななんで!? なんで叔母さんが先生にバレンタイン・チョコ送ってくるの?」
 「知らん」
 険悪なムードしか醸してなかった先生と叔母の対面時のことを思い出すと、どう考えてもお互い悪印象を抱いているようにしか見えなかった。いや―――それとも、ひねくれ者の叔母は、あんな態度をとりながら実は先生に一目惚れでもしていたのだろうか。年齢差を考えると、それもちょっとありえない気がするが…。
 「まあ、お歳暮の代わりだろう。チョコの箱の方見ると、そんな感じだぞ」
 「え?」
 言われて見てみると、上品な包み紙の中央に、見事な達筆でこう記されていた。
 『義理チョコ在中』
 「…ごめんね、先生。変な叔母さんで」
 「構わんよ。なかなか笑わせてもらって、いい気分転換になったからな。…で? 透子の方の用事は?」
 「あ、そうだ。私もバレンタイン・チョコなんだ。と言っても、先生にはチョコじゃなく和菓子だけど」
 叔母の義理チョコに迫力負けしそうになったが、透子は慌てて、後ろ手に持っていた箱を先生の前に置いた。和風な包装紙で包まれたそれの中身は、バレンタインをイメージしたという桜色をした和菓子である。
 「ほほー、気がきくな。バレンタインに和菓子は初めてかもしれんなぁ」
 「えへへ。いつもお世話になってます」
 「さっそく明日にでも食わせてもらうよ。今日はもう遅いから」
 確かに、もう間食をするには遅すぎる時間だ。消費期限に気をつけといてね、とだけ先生に言い残し、透子は急いで2階に上がった。

 ―――お歳暮代わり、かぁ…。
 言われてみれば、確かにそういう面はある気がする。
 透子のクラスの女子生徒の中には、クラス中の男子生徒にチロルチョコを配った子もいた。先生にも同じチロルチョコだ。彼女いわく「ウチは先生にもみんなにも同じだけお世話になってると思ってる」から、差はつけないのだそうだ。ますますお歳暮っぽい感じがする。
 でも、今日、荘太を呼び出してチョコを渡していた子みたいに、本命チョコと呼ばれるものも、やっぱり存在する訳で。
 ―――真奈のチョコ…荘太は、お歳暮だと思ったかな。
 お歳暮代わりでも、古坂は嬉しかっただろうか。
 本命チョコしか存在しなかった時代とは違い、今のバレンタインデーは、なかなかに複雑だ。心を伝えるつもりで渡しても、単なる時節の挨拶としか受け取ってもらえないことも、実際にあるのかもしれない。それを思うと、なんだか切なくなった。

 部屋に一旦戻り、慎二に渡すチョコを手にすると、透子は慎二の部屋のドアをノックした。
 「慎二ー、ちょっといい?」
 「え? あ、うん、いいよ」
 少し慌てたような慎二の声が返ってきた。不思議に思いながらドアを開けると、慎二は机の前に座って、何かを慌ててしまっていた。
 「何? それ」
 困ったような笑いを見せる慎二の背後を、ちょっと身を乗り出して窺った。
 しまっていたのは、緑色の薄い箱らしい。リボンや包装紙が、傍らに無造作に置かれている。つまり、プレゼント―――今日この日に限って言えば、それはバレンタイン・チョコだと容易に分かる。
 「…あーあ、見つかっちゃったか」
 「え…っ、だ、誰から!?」
 思わずそう訊ねると、慎二は、困ったような笑い顔のまま、答えた。
 「はるかさんから」
 一瞬、心臓が止まった気がした。
 冷たいものが、みぞおちの辺りに広がる。やがて、心臓の音が不整脈でも起こしたみたいに不規則なリズムを刻んで耳の中に響き始めた。透子は、その音に抵抗するかのように、唾を一度飲み込んだ。
 「手作りで不恰好だから、誰にも見せるな、って言われちゃってさ。部屋で開けるしかなかったんだ」
 「―――なん、で、はるかさんが、慎二に?」
 「日頃お世話になってるお礼、って言ってたけど? オレからすると、むしろお世話になってるのはオレのような気がするんだけどなぁ…」
 「お礼、って…じゃあ、お歳暮みたいなもの?」
 「そうなんじゃないかな」
 ―――慎二のバカ…。ただの時節の挨拶のために、チョコを手作りする女の子なんていないよ…。
 女心の分からないヤツ、と、いつだったかも思ったことを、また思う。勿論、はるかはそう言っただろう。義理チョコを思わせるようなことすら口にしたかもしれない。でも―――これが、ただの挨拶や義理である筈がない。

 ―――やっぱり。
 やっぱり、はるかさんは、慎二が好きなんだ―――…。

 予感していたものが、現実となって目の前に突きつけられる。透子は、僅かに唇を噛み、机の上の箱から視線を逸らした。
 「…で? 透子、用事って、何?」
 慎二は、透子の心の変化に気づいていないらしい。そのことに少しホッとしながら、透子は目を慎二に向けると、手にしていた箱を差し出した。
 「―――私も、バレンタイン・チョコ」
 「え…、透子が?」
 「うん。…去年はちょうど、尾道に引っ越したり何だり、バタバタしてる時期だったから、すっかり忘れてたけど」
 「そっか…。ありがとう」
 ふわりと微笑むと、慎二は透子のチョコの箱を受け取った。
 「開けていい?」
 「うん、いいよ」
 透子に確認を取った慎二は、机の上にあったはるかの箱や包装紙を少し脇にどけて、透子の包装紙を器用に開け始めた。古坂のように丁寧に慎重にやっている訳ではないし、かといって荘太のようにバリバリ乱雑に開ける訳でもない。まるで包んだ本人のように手際よく解いていく。手先が器用なのかな、と、その様子を眺めながら透子は思った。
 全ての包装を解き終えた慎二は、中から出てきたチョコを見て、吹き出した。
 「あはははは…、なるほど、そうきたか」
 「…気に入った?」
 「勿論」
 透子が慎二のために選んだのは、ペンシル型のチョコだった。
 シガレットチョコのペンシル版、とでも言うのだろうか。輸入物で、1箱に6本の色鉛筆型のチョコが入っている。1箱が結構安かったので、色違いの計3種類全てを買って、1つに包んでもらったのだ。
 「ありがとう。大切に、1日1本ずつ食べる」
 「18日かかるよ?」
 「長く楽しめるし」
 そう答える慎二の笑顔は、本当に嬉しそうな笑顔だった。その笑顔に、胸の辺りがふわっと暖かくなったような気がする。
 「ホワイト・デーにはお返しするよ。何がいい?」
 包装紙を畳み始めた慎二は、当然、という口調で透子にそう訊ねた。
 ホワイト・デーのことなど頭になかった透子は、突然の質問に目をキョトンと丸くしてしまった。
 「お返し、って…例えば?」
 「食べ物でもいいし、どっか連れてくんでもいいし」
 「いいよぉ。大した金額のチョコじゃないもん」
 「金額の問題じゃないだろ? オレ、プレゼントとか考えるの、苦手だからさ―――透子の希望通りのもん、お返しするよ?」
 ―――そんなこと、急に言われても…。
 困った。バレンタイン・チョコを誰かに渡すのは初めてではないが、そのお返しが何がいいか、なんて訊かれたのは初めてだ。何も返してくれない男の子が大半だったし、返してくれるとしたらそれはクッキーかキャンディーと相場が決まっていたから。
 無難に、クッキーかキャンディーって答えようかな―――半分、そう思いかけた透子だったが、ふとあることが気になり始めた。
 「…ねぇ。はるかさんは?」
 「え?」
 「はるかさんは、お返し、何がいいって言った?」
 「いや、まだ、教えてもらってないよ。3月14日までに考えておくって言ってたけど」
 「……」
 ―――それならば。
 「じゃあ…私も、はるかさんと同じもので、いい」
 「同じもの?」
 「うん。はるかさんがリクエストしたもの、私にもお返しでくれれば、それでいいよ」
 「透子オリジナルのリクエストはないの?」
 「うん」
 そんなんでいいの? と笑う慎二に笑みを返しながら、透子の胸は、チクチクと痛んでいた。


 ―――私って、ずるいヤツかもしれない…。

 慎二は、私のものじゃないのに。
 それどころか、私が本命チョコ渡す相手ですらないのに。


 “はるかさんと同じものにして”―――もうこれで、慎二ははるかに、透子に返せるような物しか返せない。
 咄嗟に働いてしまった計算の狡猾さに、透子は自分でも愕然としていた。


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