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06 : bitter & sweet (2)

 開け放った窓から吹き込む風が、トレーナー越しにも冷たく感じる。その冷たさに集中していた意識が途切れ、慎二はカンバスから目を離し、縁側の方を見遣った。
 光の感じが、既に夕方の色合いになっている。家の中で腕時計などしていないし、見渡したところに掛け時計も置時計もない。今、何時だろう―――最後に時計を見たのは、何時だっただろう?
 「あ、慎二。終わった?」
 ちょうど2階から下りてきたらしい透子が、外を眺めている慎二を見て声をかけてきた。絵筆を動かしている間は、透子は決して声をかけてこない。集中しているところを乱してはいけないと悟っているようだ。
 「透子、今、何時?」
 「んーと…4時半ちょっと前かな」
 「もうそんな時間か…」
 彩色に入ると、どうも周囲が見えなくなってしまう。慎二は、絵筆を置いて軽く伸びをした。
 「へー…、今回は森の絵なんだ。綺麗ー」
 慎二の背後に回って描きかけの絵を眺めた透子は、ちょっと嬉しそうな声をあげた。
 「今まで知らなかったの?」
 この絵は先週の日曜から描き始めていて、木炭で下絵を描いているところを透子も見ていた筈だ。今日も午前中から描いていたし―――透子がずっと絵を見ずにいたとは、ちょっと考え難い。怪訝な顔で背後に立つ透子を見上げると、透子はくすっと小さく笑った。
 「下絵の段階は、見ないようにしてるんだ。今日もある程度全体塗れるまで待ってたの」
 「なんで?」
 「私、慎二の絵の、色が好きだから。…万年美術3に言われても嬉しくないか」
 「そんなことないよ」
 ぺろっと舌を出す透子を見て、つい吹き出してしまった。
 「凄くダークな色使ってても、慎二の絵は、いつも優しい色してるね」
 「そうかな」
 「うん。夢みたいに優しいよ、いつも」
 そう言うと透子は、どこか夢見るような目つきで、描きかけの森の絵を眺めた。
 「ほら、芸術って、分かんないじゃない。落書きとしか思えない絵に億単位の値段がついたり。ギャラリーに並んでる絵も、100万の有名画家の絵より10万の若手の画家の絵の方が好みだったりするし。けど…私、慎二の絵だけは、分かるよ。見ていて幸せな気分になれる絵だもん。幸せが欲しい人ほど、きっと慎二の絵に惹かれると思うなぁ」
 「…な…なんか、くすぐったいな、そう言われると。あんまり売れる絵でもないのに…」
 本当にくすぐったさを感じてしまい、慎二は椅子の上で身じろぎした。
 慎二の絵は、常に1点はギャラリーにも置いてある。売れることもあるし、売れなければ2ヶ月を目途に引っ込めている。売れれば嬉しいが、売れなくてもホッとする―――どの作品も、それなりに思い入れがあって、手離す時は結構寂しい思いをするものだから。
 そして、客の動向などを見ていて分かったことは、どうやら自分の絵は、女性と子供にウケるらしい、ということ。
 慎二の絵のスタイルは、抽象と具象のちょうど中間をいくもので、パッと見で上手いと分かる写実主義の先生の絵とも、一体何を描いてるのか分からない抽象主義の本間の絵とも違う。勿論、慎二も先生も本間も、基礎であるデッサンをさせてみれば全員「達筆」だったりするのだが、作品として描く時は三者三様全く異なる絵を描く。先生の絵は幅広く多くの人に「上手い」と言われ、本間の絵は通ぶった客やシュール・レアリズムを愛する美大生などにウケる。そして慎二の絵は、女性と子供にウケるのだ。
 そんな訳で、慎二の絵を買って行くのは、女性客をターゲットとしたカフェや、子供の多く集まる病院などが多い。が、売れる頻度は低い。デッサン同様に「達筆」に描いている絵葉書の方が評判がいいのは知っていたが、売るために絵のスタイルを変えることはできなかった。
 「ねえ。こういうのって、どうやって描くの?」
 「どうやって、って?」
 「スケッチと違って、頭の中にあるものを描くじゃない、慎二の油絵。この森だって、頭の中にある森でしょ。どうやってこういう森をイメージするの?」
 「…うーん…なんだろう。日頃の積み重ね、かなぁ…」
 興味津々の透子の目に落ち着かない気分になりながら、慎二は首を傾げた。
 「例えば、この絵に関して言えば、夏に透子と一緒に森林浴に行っただろ? あの時感じた、木漏れ日が綺麗だなー、とか、ワサワサいう葉っぱの音が気持ちいいなー、とか…そんなのが体の中に積もっていって、ある日突然、よし描くぞ、って感じかな」
 「いきなり来るの」
 「割といきなりだね」
 「それじゃあ天啓みたいなもんだね。神様が“さあ慎二、今こそ描け”みたいな」
 「ハハ…、そんな崇高なもんじゃないよ」
 慎二にとっては日常的なことが、透子にはとてつもない奇跡に思えるらしい。目をキラキラさせる透子に、慎二は苦笑を返し、再び目を描きかけの絵に戻した。
 「ただ―――オレ自身は、弱い人間だからさ。いろんなものからパワーをもらって、絵を描いてる。そういう時は、天啓とかそういうのを信じる気になるかもな…」
 「パワー…?」
 「…1人でいると、立ち上がるのも歩くのも無理なんじゃないか、って、時々思う」
 慎二の顔が、なんとなく虚ろな表情になった。
 「世界中、生きてるエネルギーが氾濫してて、そういうパワーがオレのこと生かしてるんじゃないか、って―――森も、海も、空も…その辺に転がってる石も、オレにはないパワーを一杯持ってて、何のパワーもないオレにちょっとずつ力を分け与えて、生かしてくれてるんじゃないか、って」
 「…どうして?」
 「―――なんで、かな」
 「…私も、慎二を生かすパワー、持ってる?」
 不安そうな透子の声に、ぼんやりしかけた意識が引き戻される。慎二は背後を振り返り、透子の様子を窺った。
 その声のとおり、透子は不安げな顔をして、眉根を寄せていた。何に対してそれほど不安を感じているのか―――分からないが、慎二は安心させるようにふわりと微笑んでみせた。
 「透子は、もの凄いパワー持ってるよ」
 「…そう?」
 「透子と一緒にいて、透子が凄いとか綺麗とか感動したとか言う度、オレも沢山のイマジネーションもらってる。その景色からも…透子自身からも。透子は他の誰よりも、オレに絵を描かせるパワー持ってるよ」
 慎二がそう言うと、透子は照れたような、でも嬉しそうな笑顔を見せた。透子のこんな笑顔も、慎二の中で色に変換される。
 この笑顔の色は、柔らかなトーンの虹色―――出会った時、瀕死の蛍みたいに微かな光しか放たなかった透子だけれど、本来持っている光はとても豊かだ。懸命に生きるものが発するエネルギーを、慎二は日々、透子の中に感じていた。


 世界中が、イマジネーションで溢れている。
 春の色、夏の色、秋の色、冬の色―――いろんな色が、慎二の中にある無彩色なカンバスを、鮮やかな色で染めていく。
 それを感じる時、慎二は実感する。ああ…生きてるんだな、と。オレを取り囲むこの世界は、ちゃんと生きてるんだな、と。そして慎二は、それをカンバスに写す―――筆先に、愛情を精一杯こめて。
 誰かに、分かって欲しくて。
 誰かに、気づいて欲しくて。世界がこんなにも、夢みたいな色で溢れかえっていることに。

 …誰かに?

 違う。分かって欲しい相手は、気づいて欲しい相手は、決まっている。いつだって。


 「あー、いけないっ。私、買い物行こうとして下りてきたんだった」
 急に、本来下りてきた用事を思い出したらしく、透子は慌てた口調でそう言うと、パタパタと玄関の方に走っていった。
 「何買いに行くの」
 「お醤油ー。昨日の夜、はるかさんが“明日の晩御飯分は微妙かも”って言ってたの。慎二、何かついでに買うものある?」
 「んー…、別に、ないかな」
 「じゃ、行ってきまーす」
 カラカラと、玄関の引き戸が開く音がする。それが閉まる音がする前に、慎二の意識は、再び描きかけの絵へと引き戻されていた。

***

 それから、どれほど経っただろう。
 「―――く、ど、う、さん!」
 突然、耳元で大きな声がして、慎二は危うく絵筆を落としそうになった。
 半ば跳び上がるようにして振り返ると、そこには、呆れたような顔をしたはるかが立っていた。はるかの背後には、必死に爆笑するのを堪えている様子の透子が、スーパーの袋を手に台所へと消える姿が見えた。
 「もう…3回も呼ばないと気づかないなんて」
 「…ご…ごめん」
 ―――今ので寿命、確実に半年は縮んだな。
 あたふたとパレットと筆をイーゼルの足元に置きながら、慎二はそんなことを思った。昔、兄からも「お前は絵を描き始めると平気で食事も抜かすからなぁ」と言われたことがあったっけ―――そういう状態の時に、いきなり現実がガツンと割り込んでくると、心臓が誤作動を起こしそうになる。
 「本屋に行って、帰ってきたところでちょうど透子ちゃんとばったり会ったの。…叔父さんは?」
 「先生は近所の子供の剣道の試合を見に行ってるよ。そろそろ帰ってくるかな」
 そろそろ、なんて言いながらも、慎二はまたしても今何時なのか分かっていなかった。でも、透子が帰ってきたばかりということは、あれから30分かそこらというところだろう。
 「うちの両親、この前仲人した会社の部下の家に急に招待されて、今晩留守なの。私も夕飯、こっちにしていいかしら」
 「そう。いいんじゃない?」
 「じゃあ透子ちゃんと相談して、休日バージョンのご馳走を作らなきゃ」
 「お任せします。…あ、そうだ、はるかさん」
 ふいにある事を思い出して、慎二はさっそく台所へと向かおうとするはるかを呼び止めた。
 「ホワイト・デーのお返し、考えてくれたかな。今度の木曜日だろ?」
 「…あ…そ、そうね」
 忘れていたのか、はるかは急に落ち着きをなくしたような顔になり、手に持っていたバッグの金具を弄り始めた。
 「まだ、5日あるけど…今、決めないとダメかしら」
 「いや、オレは別にいいけどさ。透子も気にしてるし」
 「え?」
 金具を弄っていた手が、止まった。不思議そうに目を見開いたはるかは、少し眉をひそめた。
 「…透子ちゃん?」
 「ホワイト・デーのリクエスト訊いたら、はるかさんと同じものでいい、って。そう言ったはいいけど、はるかさんがなかなかリクエストの答え出さないから、密かに焦れてるみたいで」
 「……」
 「はるかさーん、昨日の残りの大根って、今晩使っちゃってもいいー?」
 ちょうどそのタイミングで、台所から透子がそうはるかに声をかけてきた。
 慎二から聞かされた話に、一瞬表情を失って固まっていたはるかは、その声に数度瞬きし、ぎこちなく背後に顔を向けた。
 「…うん、いいわよ」
 「わかったー」
 台所から帰ってくる返事は、無邪気そのものの声だ。はるかは、一度コクンと唾を飲むと、慎二の方に向き直った。
 「…どうかした?」
 さすがに慎二もはるかの妙な反応に気づき、怪訝な顔をする。が、はるかはすぐに表情を緩め、いつも通りの笑みを見せた。
 「いえ―――ごめんなさい、なんでもないの」
 「そう?」
 「ええ。…あの、じゃあ…今更で悪いんだけど―――お返しは、絵葉書でもいい?」
 「絵葉書?」
 「お花でも風景でも、何でもいいの。ハガキに1枚、絵を描いてプレゼントして欲しいんだけど…間に合う? 2人分」
 「ああ、絵葉書くらいなら―――じゃあ、2人の似顔絵描こうかな」
 「似顔絵も描けるの?」
 「路上で似顔絵描きやってた時代もあったからね」
 「…じゃあ、楽しみにしてるから」
 そう言って微笑んだはるかは、慎二にくるりと背を向けると、台所へと向かった。何も言いはしなかったが、唐突に向けられた背中だけが、やたらと何か言いたげに見えた。
 それでも慎二は、呼び止めることなく、はるかの背中を見送った。

 ごめん―――心の中でだけそう告げながら、普段通りの、何ひとつ気づいていない顔を作って。


***


 ホワイト・デーは、非常に受身なイベントである。
 好きな男の子に勇気を持って告白する、なんて意味合いを持つバレンタイン・デーとは異なり、ホワイト・デーは基本的に「お返し」の日だ。チョコをくれてありがとう、という感謝の気持ちから来るイベントであるため、当然ながら、感謝していない男の子は何のお返しもしない。そして女の子の間での評判を一気に落とす訳だ。
 そうは言っても、男の子の中にも律儀な子はいる訳で、チロルチョコを配りまくった例の彼女は、10円のチロル数個でその数十倍のキャンディーやクッキーを釣り上げた。「ひっどーい、守銭奴!」とクラス中の女子が言ったが、「ウチの気持ちが伝わったんよ」と本人は平然としていた。
 荘太も古坂も、透子や真奈美以外からも多少チョコを貰ったようだったが、お返しは結局、透子と真奈美だけになったらしい。
 「ほい、お返し」
 「あ、サンキュ」
 というノリで渡されたものは、古坂からは可愛いラッピングのアーモンドクッキー、荘太からは何故か“ビスコ”だった。
 「…このビスコの意味は何なの」
 「大きくなれよー、って意味」
 「―――私よりあんたが食べた方がいいんじゃないの」
 背が低いことを気にしている同士は、直後、ビスコを巡って10分近く喧嘩になった。
 ちなみに、荘太から真奈美に渡されたのは“グリコ”だった。「1粒300メートルだから、これ全部食えば体育祭は楽勝だろ」と言われて、真奈美は可笑しそうに笑っていた。


 先生は透子に、ケーキを買ってくれた。
 「何がいいやらさっぱり分からんから、“高校生の女の子の間で一番人気のあるやつにしてくれ”って店の人に任せたら、これになった」
 と先生が言う通り、差し出された箱の中身は、最近学校でも話題に上っている人気のケーキだった。夕飯前だったけれど、その魅力には勝てずに即座に平らげてしまった。結果、夕飯はご飯をいつもの半分に減らす羽目になった。
 「…うー…、半分でも多いかもぉ…」
 「あんなボリュームのあるケーキを食ったんだ。当たり前だろうが」
 食事の進まない透子を見て、先生が呆れたような、けれどどこか楽しんでるような声で言う。
 「…いいもん。おいしかったから」
 「いいなぁ。私も食べたかったわ、そのケーキ」
 「はるかからは貰っとらんからな、チョコも和菓子も」
 けっ、と冷たい目を向ける先生を、はるかは「はいはい」と受け流し、肩を竦めた。
 「それより、工藤はちゃんとお返しはしたのか? お前は気がきかんから、忘れてるんじゃないかと気が気じゃなかったぞ」
 黙々と食事を続ける慎二に向けられた質問に、はるかと透子の箸が、同時に止まった。
 「ご心配なく。もう渡しましたよ」
 当の慎二は、涼しい顔でそう答え、お吸い物を美味しそうにすする。どんなもんを渡したんだ、と迫る先生に、慎二は楽しげな笑みを浮かべて「秘密です」と答えた。

 慎二の言う通り、慎二からのお返しは、夕飯前に既に渡されていた。
 「お返し、決まったよ。楽しみにしておいで」とだけ言われていた透子は、一体何を渡されるのか不安だったが、慎二から手渡されたものは全く予想もしていなかったものだった。
 渡されたのは、ハガキサイズの写真立てに入れられた、軽いタッチの水彩で描かれた似顔絵。
 猫のような、少しつり上がり気味の大きな目。小作りな鼻。ほど良い幅をもつ少し厚めの唇。勝気さを表す眉。伸ばそうとするたびに鬱陶しさに負けて切ってしまっている、ミディアムボブに整えられた茶褐色の髪―――透子の特徴を見事に捉えたその似顔絵は、何故か、透子の目から見てもとても魅力的な女の子に見えた。
 「オレの目から見た透子だから、透子が鏡で見る自分と違って当然だと思うよ」
 慎二にそう言われて、気恥ずかしいけれど、もの凄く嬉しかった。
 それと同時に、浮かんできてしまう、苦い好奇心。
 ―――はるかさんは、どんな風に描かれているんだろう…?
 慎二の目から見た、はるか―――気になったけれど、帰宅したはるかに慎二がそれを渡す時、透子はわざと席を外した。見ちゃいけない―――それを見るのは、慎二の心の中を盗み見るようなことだ。そう思って、透子は、自分の中の好奇心を抑えつけた。


 「透子ちゃん」
 夕食後、洗いものをしている透子の隣に、はるかが並びかけてきた。
 ちょうど絵葉書のことを考えている最中だった透子は、突如頭上から降ってきた声に、びくん、と肩が緊張してしまった。それを悟られたくなくて、慌てて顔を上げて笑顔を作った。
 「何?」
 「今日は私にも手伝わせて。お皿の数、いつもより多かったし」
 透子の返事を待たず、はるかは食器を拭くふきんを手にして、洗い上げられた大皿をキュッキュッと拭き始めた。なんだか気まずい気がしたが、手伝ってくれると言うのを制止する訳にもいかず、透子はそれを黙認した。
 暫しの間、お互い無言で、それぞれの作業を続ける。先に口を開いたのは、はるかの方だった。
 「―――ねぇ、透子ちゃん」
 「ん? 何?」
 「工藤さんに、お返しは私と同じものがいい、って言ったって聞いたけど―――どうして?」
 どくん、と心臓が大きく脈打った。が、それを悟られないよう、即座に返した。
 「別に―――私も全然、何がいいか思い浮かばなかったから。はるかさんが選んだものでいいや、と思っただけだよ」
 「…そうなの?」
 「うん」
 右頬の辺りに、はるかの視線を感じる。けれど、そちらを見るのが怖くて、透子はスポンジを持つ手を止められなかった。
 「…あのね、透子ちゃん」
 「うん」
 「もし―――もし、私が工藤さんのこと好きだって言ったら…透子ちゃん、イヤ?」
 「―――…」
 さすがに、無視はできなかった。透子は洗いものの手を止め、はるかの顔を凝視した。
 「…好きなの?」
 はるかの目を真っ直ぐに見据えて、訊ねる。はるかは、うろたえたように瞳を揺らしたが、透子の視線から逃れることはできず、小さく頷いた。
 「ほ、本当はね、この前のバレンタインに、ちゃんと告白しようと思って―――でも、言えなくて。工藤さん、気づいてる様子もないし…だから、ホワイト・デーのお返しにデートか何かに連れて行ってもらって、その時にでも…と、ちょっと思ってたんだけど、まだ凄く迷ってたの」
 慌てたような口調で、けれども居間にいる先生や慎二には絶対聞こえないような小さな声で一気にそう言ったはるかは、最後にふっきれたような笑みを透子に返した。
 「だから―――透子ちゃんのリクエストがあって、良かった。歯止めになったから。うん…やっぱり、もう少し、工藤さんに言うのは待つわ」
 「…なんで、待つの?」
 「ん…、色々、あるのよ。気持ち的に」
 よく分からないが、透子は一応「そうなんだ」と相槌を打っておいた。するとはるかは、少し心配そうな顔になって、透子の目を覗き込んだ。
 「あの…透子ちゃん。…いいかな。私、工藤さんのこと、好きでも」
 ―――そんなの、とっくに知ってたよ。
 そう言おうかと、一瞬思って…やめた。透子は、口元に僅かに微笑を浮かべ、はるかから目を逸らした。
 「別に、いいんじゃない? 慎二は私の家族でも恋人でもないし」
 「でも…家族代わり、でしょう?」
 「―――家族に、“代わり”なんていないよ」
 ポツリと呟いた言葉は、自分でも驚く程、低くて冷たかった。

***

 「おーい、透子」
 背後から名を呼ばれ、透子はノロノロと後ろを振り返った。
 そこには、トレーニングウェア姿の荘太の姿があった。透子の姿を見つけて、駆け寄って来たらしい。声を掛けつつも、足はその場で駆け足している。
 「何してんだ?」
 「―――海、見てた。荘太は?」
 「俺は見ての通り、休みの日の自主トレ」
 桟橋の辺りが荘太の自主トレコースになっているとは知らなかった。知っていれば別の場所に行ったのに―――内心、舌打ちをしてしまう。
 日曜日の午後、乗客を乗せて船が出てしまった後の桟橋は、閑散として静かだった。ちょうど、去年の夏の初め頃、慎二と一緒にここで海を見た時と同じように。あの時に感じたものをもう一度感じたくて来たけれど、同じ場所とは思えない位、桟橋から見る海は味気なく感じられた。来るんじゃなかった―――ちょっと、後悔した。
 「…私も走ろっかな」
 「はぁ?」
 「うん。自主トレ、付き合う。手加減して走ってよ」
 軽くアキレス腱を伸ばす運動などをして、透子は荘太が足踏みしているところまで駆け寄った。そんな透子を変なヤツ、という顔をして眺めていた荘太は、それでも追い返す気はないらしく、透子がリクエストしたとおりかなりスピードを落として走り始めた。
 「土日もこうやって練習してるんだ」
 少し感心したようなニュアンスを含んで言うと、荘太は得意げな笑みを浮かべた。
 「先月位からな。今年は是が非でもインターハイ行くぜ。今、滅茶苦茶燃えてるから」
 「ふぅん…。凄いモチベーションじゃない。何かあった?」
 「ちょっとな。目標立てたんだよ」
 「目標?」
 走りながらなので、息が弾んで声が裏返ってしまった。舌を噛まないよう気をつけながら首を傾げると、荘太はニッと笑って、前方に目を向けた。
 「インターハイで優勝したら、告白するんだ」
 荘太の宣言にギョッとして、透子は思わず足を止めてしまった。
 「は!? 告白!?」
 「こらー、足を止めるなっ」
 「あ、ああ、ごめん」
 慌てて、再び走り出す。けれど、突然聞かされた話に、心臓が変な風にドキドキしていて、さっきよりも走りにくかった。
 「告白って…アレ、だよね。好きな女の子に、っていう」
 「他に何があるんだよ」
 「いや、うーん…例えば、“実は俺、宇宙人なんだ”とか」
 「バカか。そんな訳あるか。っていうか、そういう告白を一体誰に何のためにするんだよ」
 「…だよねぇ」
 怒ったように眉を顰める荘太の横顔をチラリと盗み見、透子は小さく溜め息をついた。
 「…なんだよ。その溜め息は」
 「うん…まあ、いろいろ」

 …真奈―――じゃ、ないよなぁ。相手は…。

 胃が痛くなりそうだ。自分を除く3人全員の気持ちを、自分1人だけが把握している状態―――キツイなぁ、と思うと、溜め息の一つも出てくる。
 荘太だって、大切な友達だ。好きな子にアタックしようと言うのなら、それも応援したい。真奈美も応援したいし、古坂も応援したい。でも―――どれひとつ、両者大満足、という結果が有り得ないのが辛い。
 「お前は、どうだよ」
 手抜きのスピードを保ちつつ、荘太はそう言って透子の方を流し見た。手抜きと言えども、透子はそこそこ本気を出して走らなくてはいけないスピードだ。
 「どう、って、何がー?」
 と返す声は、どこか力が抜けてしまったような、やっぱり裏返った声になってしまった。
 「お前は好きな奴とかいないのか、って意味」
 「うーん…」
 いないよ。
 即答できる筈の答えが、何故か、出てこない。
 「お前もさぁ、工藤さんに懐くのはいいけど、あの人に彼女とか出来たらどーすんの?」
 「……」
 「ブラコンに当たるのかファザコンに当たるのか知らねーけどさ。…ああやって、切なそーな顔して海見てる位なら、さっさと彼氏作って、青春謳歌しちまえば?」
 「…別にそんなんじゃないもーん」
 ムッとしたように眉を上げた透子は、そう言って荘太の後頭部を平手でバシッと叩いた。
 「イッテーっ!」
 「疲れた。もうついてけない。バイバイ」
 荘太のランニングコースから外れ、透子は大廻りして今来た道を引き返し始めた。叩かれた後頭部を押さえながら、振り向いた荘太が怒鳴る。
 「図星指されたからって逆ギレすんなっ! だからビスコがお似合いなんだよっ!」
 ―――うん。分かってるよ。
 それまでよりむしろ速いスピードで走る透子は、心の中で荘太にそう返していた。

 分かっている。ガキだってことは。
 荘太に、真奈に、古坂君に出来ることが、何故はるかさんにだけ出来ないんだろう?

 はるかさん、頑張って―――そう言えない自分が、どうにも嫌で仕方なかった。


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