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06 : bitter & sweet (3)

 4月。新学期のスタートと共に、クラス分け発表があった。
 「げ…、見事、まっぷたつ」
 透子と真奈美は3組、荘太と古坂は5組。思わず荘太が呻いたとおり、まっぷたつだ。
 「成績で分けたのかねぇ…」
 「古坂ぁ、寂しいこと言うなー」
 「でも、荘太もそう思うだろ?」
 古坂にそう言われてうな垂れるのだから、やっぱりそう思っていたらしい。透子がつい笑ってしまったら、うな垂れたままの荘太にギロリと睨み上げられた。
 「まっ、私は真奈と同じクラスになれたから、大満足ー。また1年よろしくっ」
 「うん、よろしくー」
 透子に合わせてニッコリ笑ってみせる真奈美だが、クラス分けの貼り紙を見た時、その表情が一瞬曇ったのを透子は見逃さなかった。やはり荘太とクラスが分かれてしまったことに落胆したのだろう。
 古坂がどんな顔をしたのかは見ていないが、きっと同じような顔をしたのではないかと思う。あからさまに残念がっている荘太より、そういう押し殺した落胆の方が痛々しく感じる。

 せめて、同じクラスの間は―――そう、真奈美は言っていた。
 古坂もきっと、同じだったと思う。4人で仲良くしているからこそ、せめて4人揃っている1年の間は、この関係に波風立てたくない。そう思って、真奈美に何もアクションを起こさなかったのだろう。そして荘太は、相手は不明だが、インターハイで優勝したら好きな女の子に告白すると言っている。
 なんだか、俄かに、嵐の予感。
 その渦中に自分がいないことは幸いだけれど―――2年生は、1年の時のようにただ無邪気に仲良くしてるだけじゃ済まなそうだな、と思い、透子はほんの少しだけ憂鬱な気分になった。


***


 バン! とカウンターに叩きつけられた500円玉に、透子の顔から、一瞬営業スマイルが消えた。
 「バニラシェイク1つ」
 「……」
 ―――誰だっけ、この人。
 もの凄く挑戦的な目をした客は、透子の高校の制服を着ている。ほんのりお化粧をしているらしいその顔は、結構美人だけれど、透子には見覚えのない顔だった。パチパチと目を瞬いていたら、客は苛立ったように500円玉でカウンターをコツコツ叩いた。
 「聞こえなかったの? バニラシェイク1つ」
 「…あ、はい。210円になります―――290円、お返しです。少々お待ち下さい」
 慌ててレジを打ち、バニラシェイクを準備する。幸い、他のバイト仲間や客には不審に思われていないようだ。
 永遠にカウンターには戻りたくない気分だが、シェイクの準備などすぐできてしまう。覚悟を決めた透子は、口すれすれまでシェイクが注がれたカップに蓋をし、足早にカウンターに戻った。
 「以上でご注文の品はお揃いでしょうか」
 「あんたの友達の、安藤とかいう子のことだけど」
 接客トーク無視で、彼女はそう切り出してきた。
 真奈美の名前を出されては、無視できない。透子はレジから目を彼女の顔に移し、怪訝そうに眉を顰めた。
 「…真奈が、何か…?」
 「目障りなんだよね。もう陸上部の見学来ないように、あんたから言ってくれない?」
 高飛車に告げられた内容に、透子もピンときた。
 目の前の彼女―――透子は見覚えがないけれど、きっと真奈美は毎日見ている顔だろう。つまり、陸上部の練習を見に来ている3年生の連中だ。
 1年の時にも、真奈美から「2年の追っかけの先輩たちって怖いのよ」と聞かされていた。荘太や古坂は、当然友達である真奈美には頻繁に声をかけるし、練習が終わった後に一緒に帰ったりもする。そういうのが目障りらしく、よく見学中に厳しい視線を向けられたり、あからさまに悪口を言われたりするのだそうだ。透子も心配になって、一度、荘太に相談したことがある。が、荘太曰く「大丈夫、3年の奴らが睨みきかせてるから」とのこと―――事実、そうだった。この3月までは。
 が、上級生が卒業した今、去年の2年生は今では3年生、最上級生だ。真奈美は、クラスが離れた今も、頻繁に2人の練習を見学しに行っている。透子も一緒に行ってやりたいが、バイトがあってそうもいかない。特別扱いな上に1人きりでいる真奈美は、格好のターゲットなのだろう。
 「小林君も古坂君も、今年が正念場なんだからね。ああいうのが来ると困るのよ。もう来ないように言ってやって」
 「…真奈よか、あんたらの方が邪魔になってるんと違うの」
 カチンときて、思わずそんな言葉が漏れる。こういう時、関西弁が戻ってきてしまうのは、もはや喧嘩における透子の習性に近いかもしれない。が、標準語よりはドスがきくらしく、彼女の顔が俄かに引きつった。
 「…なんですって?」
 「そうやって周りで波風立てて、荘太や古坂君の集中力乱してるんは、あんた達の方と違うの。荘太や古坂君が、真奈がいて困るとでも言った? 違うんやったら、あんたのはただの僻みや。あんたも真奈も、ただあいつらを応援したいだけやろ? だったら、真奈とあいつらが仲良くて、何の問題があるの。それがあいつらの励みになってるんやったら、それでいいやないの。違う?」
 一切怯むことなく、上級生を睨み据える。透子は知らないだろうが、透子にこういう目で睨まれると、かなり気丈な相手でないと大抵は飲まれてしまう。今目の前にいる上級生も、その例外ではなかった。真正面から睨み据える大きな鋭い目は迫力がありすぎて、反論の言葉が出てこなくなる。
 完全に透子に飲まれてしまった様子の彼女に、透子は表情を一変させて、ニッコリと笑った。
 「あの2人がインターハイ行くの、私も楽しみにしてるんです―――だから先輩、一緒に楽しく応援しましょ?」
 「……」
 毒気を抜かれたような顔になった彼女は、うろたえたように視線を彷徨わせた後、カウンターに置かれたバニラシェイクをひったくると、店の外へと姿を消した。
 ―――なんだ、この程度で引っ込んじゃうの。根性ないなぁ…。
 どことなくガッカリという顔で彼女の背中を見送った透子は、大きな溜め息をついて、今の出来事を払拭するようにカウンターの上を台拭きでさっと拭いた。

***

 「ふーん…そりゃ、まずいなぁ」
 翌日の朝、登校時に透子から話を聞いた荘太は、難しい顔をして髪を掻き毟った。
 以前は自主的に朝練もしていた荘太だったが、ゴールデンウィーク前辺りから練習メニューを変えて朝練を取りやめた。朝練のせいで授業中の居眠りが増えてしまい、強制的に教師側からストップがかかったせいらしい。クラスが離れて話すことの少なくなった2人だが、こんな経緯から登校時は顔を合わせることが多くなった。
 「卒業した連中がいた頃は、その中に結構安藤を可愛がってる人がいて、割合いい雰囲気で見学してたんだよな。でも、その人が卒業しちまったからなぁ…。心配はしてたんだ。ほとんどの奴らはフツーだけど、あのお姉ちゃん連中は、他の高校の不良とかと繋がってるらしくて、ちょっとヤバイからさ」
 不良がバックについてる上級生に啖呵を切ってしまった訳だ。透子は荘太の話に、密かに冷や汗をかいた。
 「荘太や古坂君がビシッと言ってやる訳にはいかないの」
 「バカ。そんなことしたら、余計安藤が目をつけられるだろ」
 「うーん、そうか…」
 「…安藤には申し訳ないけど、暫く来ないように言った方がいいかもな」
 「それは―――…」
 それは、ちょっと、言えない。真奈美の荘太に対する気持ちを知っているだけに。
 荘太がインターハイに賭けていることは、真奈美も知っている。2年に上がってすぐ、透子が「そろそろ告白してみたら?」とそれとなく促してみたが、真奈美は力ない笑顔で首を横に振った。
 『今の小林君、それどころじゃないもん…。今はね、もう、ただ頑張って欲しくて、それで応援に行ってるの。好きとか嫌いとか、そういう話は、全部今期のシーズンが終わってからにする』
 健気にそう言う真奈美に、目をつけられてるから応援しない方がいい、とは、到底言えない。走ってる荘太が大好きなのだと、真奈美は言っていた。好きな人の一番輝いてる姿を見たいと思うのは当然だ。クラスも離れてしまった今、真奈美の唯一の時間を取り上げるのは残酷すぎる―――たとえ、危険があったとしても。
 「…私、バイトの時間、30分だけでも短くしてもらおうかな。最初だけでもいれば、多少違うかも」
 透子がそう呟くと、荘太は足を止め、険しい顔になった。
 「駄目だ。お前まで目ぇつけられるだろ」
 「もうつけられてるよ、多分。昨日来たお姉さんに結構言っちゃったもん」
 「だったら尚更駄目!」
 「じゃあ、どーすんの?」
 頭ごなしに禁止されて、透子はちょっと唇を尖らせて荘太を睨んだ。透子にじっと見据えられて、荘太も昨日の上級生同様、少し飲まれてしまったようにたじろいだが、それでも意見を曲げる気はないようだ。
 「―――だから。俺と古坂が、あんまり安藤に構わないようにすりゃいいんだ。古坂は不満かもしれないけど…透子も安藤さんにそう言っておけよ。あの子、予告もなしに突然態度変えたら、またリスみたいにビクビク怖がるだろうから」
 「…帰りに一緒に帰ったりも、ナシ?」
 「まぁ…暫くは、さ。インターハイ終わったら、古坂もそろそろ動くと思うし…」
 「……」
 ―――真奈が、嫌がらせにも耐えて見に行ってるのは、古坂君じゃない。あんたなんだよ…?
 そう、言ってしまいたかった。
 でも、言える訳がない。真奈美の気持ちは、真奈美のものだ。古坂の気持ちが、古坂の気持ちであるように。そして―――荘太には、荘太の気持ちがある。
 「…上手く言えるか、分からないよ…?」
 再び歩き出しながら、小さく呟くように念を押す。透子の返事が、一応自分が出した解決方法を容認するものだと分かり、荘太はホッとしたような顔をした。
 「悪いな。俺たちが人気者なせいで」
 「…バッカじゃないの。調子に乗るなっ」
 茶化すように言う荘太に、思わず悪態をついてしまったが。
 真奈美が危険に晒されそうなのは、やっぱり荘太達が陸上部のスター選手だからだ。恋も、好きになる相手によっては、クロスカントリー並みの険しい道になるんだなぁ、と、透子は小さく溜め息をついた。

***

 真奈美は、透子の説明を、少しうな垂れて聞いていた。
 「…分かった。少し、気をつけるようにする。もしも先輩たちがあたしに何かして、小林君や古坂君に迷惑かかっちゃったら大変だものね」
 「あの…私、バイトの時間ずらそうか? 30分位なら一緒に見学できるよ?」
 一応、そう言ってみたら、意外な反応が返ってきた。真奈美は、どこか疲れたような笑みを浮かべ、視線を逸らしたのだ。
 「…そんなの、小林君が絶対反対するに決まってる」
 「―――…?」
 「大丈夫。透子は、心配しないで」
 再び透子の方に目を向けた真奈美は、それ以上透子には心配させまいとしているかのように、ふんわりとした笑みを無理矢理作っていた。


 心配するな、と言われても、心配になってしまうのは、仕方ない。
 数日後、バイトの時間を30分遅らせてもらい、透子はこっそり、陸上部の見学の様子を見に行った。
 真奈美の姿が見当たらず、最初は慌ててしまった。が―――その姿を、他のギャラリーからは離れたグラウンドの隅っこの方に発見し、透子はなんとも言えない気分になった。
 そして、そんな真奈美の様子を、ランニングしながら時々確認している古坂にも気づき、もっと複雑な気分になった。

 人を、恋う。
 そのレベルの差こそあれ、透子も過去に少しは体験した気持ち。
 けれど、透子が中学生の頃に持った恋心は、もっと明るくて、無邪気で、一方的なものだった。ただ勝手に憧れて、ただ勝手に想いを募らせただけ。相手に振り向いて欲しいとも思わなかったし、相手が誰を想っているかなんてどうでもよかった。そんな話は、次元が違うと思っていた。
 だから、正直なところ、真奈美の切なさが、古坂の苦しさが、透子には実感を伴っては分からない。分からないからこそ、余計に辛い―――切ない。なんとか全員が笑顔で終われる道はないのかと、胸が痛くなる。

 あんな苦しそうなの、私には、無理かもしれない。
 勉強やバイトや家の事には人一倍バイタリティがある方と自負しているが、こと恋愛となったら、根性は全然ないかもしれない―――体験がないところに、こんな切なすぎる構図を目の当たりにしてしまうと、つい、そう思ってしまう。

 恋が甘いものだなんて、嘘だ。
 人を恋う気持ち―――それはきっと、もの凄く苦い気持ちに違いない。


***


 「ええっ! それ、売っちゃうの!?」
 6月も半ばを過ぎた、ある朝。登校前、居間に置かれている大きな絵を見た透子は、もの凄く残念そうな声を上げた。
 思わず鞄を投げ出して駆け寄る透子に、絵を梱包していた慎二は苦笑を返した。
 「まだ売れるとは限らないよ。とりあえずギャラリーに並べるだけ」
 「えー…、やだなー、売れちゃったら。その絵、最近では一番のお気に入りだったのにー…」
 慎二が梱包しているのは、春先に描いていた50号の森の絵だった。油絵を描いても、思い入れが強いものはギャラリーに並べない場合もあるので、この絵が出されるとはちょっと想像していなかった。
 「この前並べたスイートピーの絵が、お手頃なサイズなんで思いのほか早く売れちゃって。このサイズが売れるとはちょっと思えないけど、ま、一応」
 「他にないのぉ? 並べる絵」
 「小品ならすぐ描けるけど、手持ちは切れてるんだ」
 「売れなければいいなぁ―――っと、そういうこと言っちゃまずいんだよね」
 失言、という風に肩を竦めた透子は、それでも残念そうに、半ば紙に包まってしまっている絵を指先で撫でた。慎二の絵が売れるのは嬉しい。自分が好きな絵を、見知らぬ誰かも好きになってくれた、そう思えば客に親近感も湧く。でも…ああ、持って行かれちゃった、という喪失感の方が大きい。それは、作者である慎二にもある感覚だと、以前苦笑混じりに言われた。
 「小さな絵を速攻で仕上げるからさ。その間売れなかったら、また引っ込めるよ。はい、手どけて」
 まだ絵を撫でている透子の手をさりげなくどかすと、慎二は手早く絵を梱包してしまった。
 「もー…、常時30点展示とか先生言ってるけど、それなら慎二の絵が売れた分、先生の絵を補充すればいいのに」
 「先生の手持ちも切れてるんだ」
 「一杯あるじゃない。納戸に」
 「あれは先生のお気に入り。絶対に売らん! って一歩も譲らないから」
 「これだって慎二のお気に入りでしょ。もお、慎二、譲歩しすぎっ。もっと自己主張しないと」
 憤慨したように言う透子に、慎二は困ったような笑顔だけを見せ、特に反論はしなかった。

 譲歩しすぎ、自己主張が足りない―――それは、慎二が先生にも日頃から言われていることだ。
 怒るべきところで怒らないのは、叔母の聡子が来た時に証明済みだし、暴力にはひたすら防御で対応するのも田村の襲撃の際に証明済みだ。もっと怒れよ、もっと抵抗しろよ、という突っ込みは、先生からすればもはや日常茶飯事だ。
 透子も時々、そんな慎二にイライラすることがある。慎二の弱さを、そこに見る気がして。
 と同時に、妙に感心してしまう時もある―――慎二の強さも、そこに見る気がして。
 引き取り手がいなくて、困った存在だった透子。「あんたが何とかしてやってよ」という周囲のムードに、困ったような笑顔で応えていたのは…もしかしたら、慎二の弱さ。
 でも―――「オレと一緒に尾道行こうか」。本当にそう口にできてしまうのは、もしかしたら、慎二の強さ。
 慎二の強さは、葦や柳の木に通じる強さだ。1年共に過ごして、透子にもそれがなんとなく分かってきた。

 「…売れちゃったら、それも運命だよね」
 麻紐で縛られた絵を見下ろして、透子は諦めたように呟いた。
 「…うん。それも運命だよ」
 ポン、と絵を軽く叩き、慎二もそう言って微笑んだ。

***

 その絵は、号数が大きいこともあり、慎二の絵にしては少し高めの値段がつけられた。
 ギャラリーを入ってすぐの所に掛けられた絵は、ガラス越しに通りからでも見ることができ、幻想的な緑のグラデーションが道行く人の目を惹いた。透子も気になって、バイト帰りにギャラリーに寄ると、まず最初にその絵がまだ掛かっていることを確認するようになった。そして、前日と変わらずに絵が見えると、ホッと胸を撫で下ろした。

 そんなことが2週間ほど続き、カレンダーが7月に変わった頃だった。

 

 「たっだいまー…」
 バイト帰り、ギャラリーのドアを開けた透子は、そう声を掛けようとして、思わずその最後の方を飲み込んだ。
 事態も分からないうちから感じる、ピンと緊張した空気―――ソロソロとドアを閉めると、入口付近にいた先生が、透子の腕を掴んで「静かに」というように口の前で人差し指を立ててみせた。
 そっとギャラリーの奥の商談スペースを見ると、50歳前後の恰幅の良い男性と慎二が、険悪なムードで対峙していた。おそらく男性の方は、その態度から見て客だろう。
 「もう一度言うがね。君はあの絵を売るつもりがあるのかないのか、どっちなんだ?」
 溜め息混じりに、客がイライラした様子で慎二に詰め寄る。慎二は、硬い表情のまま、低く答えた。
 「…勿論、売るつもりで展示してます」
 「だったら10万で買うと言ってるんだ。売るのが筋だろう」
 客が口にした値段に、透子が顔色を変えた。
 先生ではなく慎二に商談をしている、ということは、当然例の森の絵のことだろう。だとすると、客が提示している値段は、先生と慎二で相談してつけた値段の半額以下だ。
 つまり客は、慎二の絵を買い叩こうとしている訳だ。侮辱だ、と、透子の顔が憤りに赤らんだ。無意識のうちに、商談スペースに歩み寄ろうとしていたらしく、先生に更に強く腕を掴まれた。
 「君は完全な無名画家なんだろう? そりゃ、あの絵は気に入ったよ。是非欲しい。けどねぇ…あの値段はいくらなんでも身の程知らずなんじゃないか? 例えば、有名な絵画展で賞でも取ってりゃ考えるけどねぇ。取ってるかい?」
 「…この10年、どこにも出品してませんから、当然取ってません」
 「バカ、高校時代に全国規模の絵画展で大きな賞を取っとるだろうが」
 我慢できないのは先生も同じらしく、透子を引き止めつつもそう口を挟む。そんな先生を慎二は一瞥し、例の困ったような笑顔を浮かべて「まぐれですよ」と小さく返した。透子も知らなかったが、まぐれだろうが何だろうが、どうやらそういう事実はあったらしい。
 「無名無冠の絵に10万より上は出せんよ。だが、あの絵は欲しい。この大きさだとなかなか気軽に買う客もいないだろう? いい商談だと、僕は思うがね」
 とことん失礼な客だ。もう我慢できない、と、透子が先生の腕を振り解こうとした時、慎二が大きな溜め息をついた。
 「―――ですから、僕の方ももう一度言います。その値段ではお譲りできません」
 慎二とは思えないほど、きっぱりした口調と、鋭い視線で。
 「絵を10万でお求めでしたら、10万以下の正札のついている絵を選んで下さい。あの絵は正札より1円高い値段でも安い値段でも売る気はありません。あれが僕がつけたあの絵の値段です」
 「ほう…随分強気だな」
 客も少し、慎二の様子に飲まれた感じだ。腕組みをし、脚を組み直して、少し背を反らすようにしてはいるが、さっきまでの皮肉っぽい調子が声から消えかけている。けれど慎二は、特に憤慨した様子もなく、まるで自分の気持ちを確かめながら口にするみたいに、訥々(とつとつ)とした口調で続けた。
 「…僕は、元々、売るために絵を描いてるつもりはないです。伝えたくて―――僕が見てるもの、感じてるものを伝えたくて、僕の体の一部を切り取るつもりで描いてます。…もし自分の体を切り取って売るとしたら、たとえどんなに価値のない人間でも、自分がつけた値段以下の値段では絶対売らないと思います。だから…僕は、あの絵をあの値段より下では売りません」
 「―――…」
 「すみません。気に入ってくださったのは嬉しいですけど…売れません」
 ポツリポツリと、呟きを重ねるようにそう告げると、慎二は座ったまま客に頭を下げた。


 結局、絵は売れなかった。
 客が、あの絵は10万に値しないと判断したのか、単に今更買うとは言い出せない周囲の空気に気圧されたのかは、分からない。ただ、ギャラリーを出て行く時、入口のところで先生と透子がもの凄い目で睨んだのを見て、立ち去る客の歩幅がそれまでの5割増しに広がったのは間違いない。
 「小さめの絵が完成しそうだし、今週中にはこの絵、引っ込めるよ。…良かった。透子の気に入ってくれてる絵が、売れなくて」
 慎二はそう言ってふわりと微笑んだが、透子の気持ちは複雑だった。

 届いて欲しかった。あの客に。
 慎二がこの絵に籠めたもの―――慎二が自分の一部を切り取るようにしてこの絵に託したもの。自分だって、それを完全に受け取れきれているとは思わないけれど…その欠片だけでも、あの客に届いて欲しかった。

 何故なのだろう?
 深い深い森の絵―――透子はその中に、“生きようよ、透子”と言ったあの慎二の言葉が籠められているように感じられた。


***


 ドアの外で、無数の目覚ましが鳴り響いている。
 透子はムクリと起き上がり、眠い目を擦りながら部屋を出て、慎二の部屋のドアを開け放った。もう1年以上続いている日常―――今では、ほとんど条件反射で起き上がっているのに近い。
 奥から順番に、目覚ましの頭の部分を叩いていく。順番に大人しくなっていく目覚まし時計に比例するように、透子の頭も次第に覚醒していった。
 「…慎二ーぃ、朝だよーぉ…」
 最後の1つを止めながら声を掛ける。と同時に、ふあぁ、と欠伸をした。
 昨日は、あまり眠れなかった。バイト帰りに遭遇してしまった、慎二と客の思わぬやりとりが、何度も頭をよぎってしまって。日頃、ほとんど自己主張しない慎二だけに、たまにああいう強い態度を見ると、ちょっと驚く。そして…ちょっと、落ち着かない気分になってしまう。なんだか妙に胸がざわめいて、思い出すだけで眠ろうとする透子を邪魔した。
 当の慎二の方は、全然起きる気がなさそうだ。透子が呼んでも、身じろぎひとつしない。唇を尖らせた透子は、寝ている慎二の肩をゆさゆさと揺すった。
 「しーんーじー。起きて」
 「……」
 返事なし。
 なんだか、いつもと違う―――そう思った途端、透子の脳裏に去年のことが甦り、眠気が一気に吹き飛んだ。
 慌てて、慎二の机の上に置かれた卓上カレンダーに目をやる。今日は何日だったっけ―――確認して、胸がドキンと音を立てた。
 「…7月、5日…」
 すっかり、忘れていた。
 けれど、日付けを確認したら、思い出した。去年、バツ印を打ち忘れられていた日―――7月のカレンダーの、5という数字。慎二が、いつもの慎二ではなくなってしまった日だ。
 「…慎二」
 ベッドの傍らに膝をついて、眠っている慎二の顔を覗きこんでみた。
 慎二は、死んだように眠っている。透子が呼ぶ声など一切聞こえないかのように。いや…周りの音など一切シャットアウトしているかのように。息もしていないんじゃないか、と一瞬不安になり、口元に耳を寄せてみた。微かな息遣いを耳にして、ホッと安堵した。

 ―――どうして…?
 無意識のうちに、眉根を寄せてしまう。
 去年は、間違いない。同じ7月5日だった。その前の年は知らない。けれど、先生は“同じ日だったかもしれない”と言っていた。7月5日…一体、慎二にとって何に当たる日なのだろう? 何故この日だけ、こんな、半分死にかけたみたいな状態になって眠り込んでしまうのだろう…?
 他界した兄の命日だろうか、と、ふと思う。が、その可能性はすぐに打ち消した。もしそうであれば、先生が知っている筈だ。細かい日付けまでは覚えていないにしても、まさに先生が担任を務めていた時のことなのだから、時期位は覚えているだろう。
 透子がまだ会ったことがない、慎二の両親に関する日だろうか? 慎二は、兄の話はしても、父や母の話は一切しない。何か深い事情があるのかも…とは思っているが、その一端が今日という日付に隠されているのだろうか?

 分からない―――慎二のことは、時々、酷く謎めいて見える。1年以上一緒に暮らしていても、慎二のことはほとんど分かっていない気がして、時々不安になる。
 「…目、覚ましてよ…」
 どうしようもなく、不安で。
 透子は、眠っている慎二の髪を、指で梳いた。どこか触れていないと、慎二がどこかに消えてしまう気がして、怖い。

 「―――…」

 ふと、慎二が、何かを言った気がした。
 「慎二?」
 改めて身を乗り出し、慎二の顔を覗き込む。眉間に皺が寄ってはいるが、目を覚ました訳ではないようだ。寝言だろうか。
 「何? 慎二」
 「……」
 聞こえない。透子は、何とか慎二の声を聞き取ろうと、更に耳を慎二の口元に近づけた。
 そして。
 空気の揺らぎの中に消えてしまいそうな微かな声が、透子の鼓膜を震わせた。


 「―――…たえこ…」


 鼓動が、凍りついた気がした。
 何故か、分からない。でも―――何故か。
 「―――だ…めだ、たえこ。ここに…」
 「……」
 「…ここ…に―――…」
 慎二の手が、何かを求めるように、掛け布団の縁を彷徨う。
 唇が、震える。
 なんだろう、これ―――何か、何か、聞いてはいけないものを聞いた気がする、不安。透子は、唾を飲み込むと、震えてしまいそうになる手を慎二の手の方へとゆっくりと伸ばした。
 「…ここに、いるよ…?」
 声は、既に震えていた。そのことにドギマギしながらも、そっと、慎二の手を握ってみた。
 慎二の手は、一瞬だけ、透子の手を握り返した。極々、弱い力で。
 「慎二―――…?」
 …何か、返してよ。
 けれど、慎二からの返事はなかった。慎二は、表情を和らげると、また寝息すらたてずに、静かに眠り込んでしまった。


 ―――震えが。

 …全身に、震えが、くる。

 透子は、慎二の手から自分の手を引き抜くと、弾かれたように立ち上がって慎二の部屋を飛び出した。半開きにしたままだった自分の部屋のドアの中へと体を滑り込ませ、バタン、と音を立ててドアを閉める。慎二の部屋のドアを閉めたかどうか定かではないが、確かめるゆとりはなかった。
 全身が、震えた。慎二が握り返した手だけが、異様に熱い。それ以外の部分は、まるで真冬の朝のように冷たい―――凍り付いてしまったかのような心臓を中心に、じわじわと冷たさが体全体を侵食していくようだ。
 握られた手を胸に押し付け、透子はドアの内側に、ずるずるとへたり込んだ。沢山の不安と、沢山の嫌な予感に、凍った心臓が刺々しい鼓動を耳元で打ち続ける。何故か、口の中に耐え難いほどの苦味が広がった気がした。


 “たえこ”。
 ――――誰……?


 分からない。でも、本能が、告げていた。
 “たえこ”―――それが、慎二の夢の中に巣食っている、ただひとりの女性(ひと)の名前なのだ、と。


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