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07 : その想いの名前 (1)

 その年の夏は、荘太のインターハイ出場決定の報せから始まった。

 ここ数ヶ月の荘太の執念はすさまじく、傍にいるとピリピリしたムードがこっちにまで感染しそうなほどだった。だから、荘太のインターハイ行きが決まった時は、透子を始め周囲の人間は一様にホッとした。特に透子は、荘太がそこまで没頭している理由を察しているから、余計に。
 インターハイで優勝したら、好きな子に想いを伝える―――荘太は、そう言っていた。
 ―――もし、そのインターハイへの出場そのものが実現できなかった場合のこと、荘太のやつ、ちゃんと考えてんのかなぁ…。
 考えてる訳ないな、と思った。そんなことになったら、ショックで寝込むかも―――なんて密かに心配していたので、インターハイ行き決定には、心底安堵した。
 荘太の試合には、真奈美ほど熱心に同行する透子ではないが、インターハイという高校生にとっては最高峰の競技会となれば、話は別である。当然、応援に行こうと思った。
 だが―――…。

 「今年のインターハイ、山梨だから」
 荘太にサラリとそう言われて、一瞬、行くのをやめようかと思った。
 しかも、透子が応援すべき選手は、荘太だけ。古坂の方は、僅かに記録が及ばずインターハイ出場を逃してしまったから。荘太1人の応援のためだけに行くには、山梨はちょっと遠すぎる気がする。…荘太には、申し訳ないけれど。
 「…山梨…かぁ。と、遠いなぁ」
 「―――遠すぎて面倒、とか言わないよな」
 「……」
 「言わないよなぁ?」
 ピリピリした空気をそのままに凄まれ、透子は逃げられなかった。結局、古坂たち陸上部が使う団体割引に真奈美と一緒にもぐりこませてもらうことになった。
 往復の交通費と宿泊費は結構な出費になってしまうが、よく考えると“インターハイで走る荘太”を見られるチャンスは、一生のうちで今年と来年の2回しかないのだ。最初こそ、その遠さにちょっと乗り気じゃなかった透子だったが、そう考えたらだんだん楽しみになってきた。

 「遠路はるばる応援しに行くんだから、いい結果出さなかったら、ただじゃ済まないからね」
 夏休みに入る直前、チケットを渡された透子がそう言って軽く睨むと、荘太はニヤリという笑いで応えた。
 「当然だろ。俺は優勝しか狙ってないんだからな。見てろよ。1位取って、正々堂々告白してやるから」
 「…そのことだけど…何もさぁ、インターハイ優勝しなくても、告白なんてできるじゃない。何でこだわってるの?」
 猪突猛進型の荘太らしからぬ話に思えて、思わず訊ねた。すると荘太は、一瞬うろたえたような顔をし、それを誤魔化すかのようにぶっきら棒に答えた。
 「…男の意地、かな」
 「何それ」
 「透子には分かんねーよ」
 誰に対する、どういう意地なのかは、結局答えてもらえなかった。
 ただ、そう答えた荘太の顔に鬼気迫るものを感じて、透子は、荘太がもの凄く真剣であることだけを感じた。

***

 透子は、この夏休みは目一杯バイトをするつもりでいた。
 一応、大学進学に希望を変更した透子なので、3年になれば受験勉強のためにバイトは辞めざるを得ないだろう。大学の学費はある程度見通しが立ってはいるが、入学費や受験費用を考えると、今のうちに少しでも多く貯金しておきたい。おそらくこの夏休みが最後のまとまった休みになる筈だから、今まで以上に真面目にやろう。そう思っていた。
 ところが―――そう、思惑通りにはいかないのが、世の常。
 「やばいなぁ…」
 最終的に決まったシフト表を眺めながら、透子は溜め息をついた。
 シフトを組むのは、透子の都合だけを優先して組む訳ではない。他のアルバイトとの兼ね合いがある。実際に8月末までのシフトを組んでみたところ、お盆明け辺りまでは去年並みの時間しかバイトできないことが分かったのだ。
 つまり、夏休み前半が、暇。
 困る―――暇だと、誘惑が多くて。


 「あれ、透子。今日はバイトの日じゃなかったっけ」
 縁側で、シフト表片手にぼんやりしている透子を見つけて、慎二が少し驚いたように声を掛けてきた。
 「んー…、その予定だったけど、入れられなかった。他のバイトの子が、今日の方が都合いいって言うから。それに、明日からインターハイの応援行くんで、連続でバイト休みにしてもらったの」
 「ふーん。…じゃあ、うちの教室、来ない? 今日、人数少なくて寂しいから、透子来ると賑やかになっていいかもしれない」
 「……」
 透子にとっては、魅力的すぎる誘惑。
 ―――ああ、もう、駄目だって言うのにっ。
 去年体験した、大きな紙に子供達に混じって絵を描く、あの楽しさ。それを思い出して顔が綻んできてしまう自分を、慌てて心の中で窘めた。でも―――時、既に遅し。
 「うん、行くっ」
 心の中で“待った”をかけるより先に、口からそう返事が出ていた。正直すぎる自分の口が恨めしかった。


 “たえこ”―――その名を初めて耳にしたあの日から、透子は訳の分からない痛みを体の奥底に抱えている。
 誰にも相談できない類の痛みだ。何故なら、その痛みの正体を、透子自身、あまりよく分かっていないから。

 “たえこ”が誰なのか、慎二にとってどういう存在なのか、透子は知らないし、訊く勇気もない。でも、なんとなく察してはいた。その女性が、今、慎二の傍にはいないこと。そして…慎二がその人を、とても大切に思っているらしいことを。
 そして、7月5日に慎二が普段の慎二ではなくなってしまう理由がその人にあるということも、容易に想像がつく。まるで死んだように動かなくなっていた慎二は、夢の中でずっと、あんな切ない声で“たえこ”を呼び続けていたのだろう。去年も…その前も。
 慎二を、あんな風に変えてしまう人。
 今も夢に見るほどに、慎二の心の中に巣食っている人。
 その存在を思うと、胸が酷くざわめき、妙な焦燥感のようなものに駆られる。はるかと慎二の間のことを考えた時の数百倍、数千倍、激しい拒否感に襲われる―――それが、あれ以来、透子を苛んでいる“痛み”だ。
 なんだか、怖い。
 たかが女性の名前1つで、慎二の言葉1つで、こんなにも揺さぶられてしまう自分が、怖い。
 なんでこんな風に振り回されてしまうのだろう―――自分の変化に、透子は驚き、戸惑い、混乱していた。

 ―――慎二に、精神的に依存し過ぎなのかもしれないなぁ…。
 普通なら、家族とか友達とかにバランスよく分散されるものが、私は慎二にだけ向かっているのかもしれない。しっかりしてるつもりでも、こういう所で甘えが出るのかも。駄目だなぁ…。

 そう思った透子は、今年の夏は、なるべくバイトに専念することにした。そう、バイト三昧の日々を送ろうと考えたのは、金銭的な問題よりも、そうした心理的な問題の方が大きかったのだ。
 なのに―――思惑通りにはいかない、この、夏休み前半戦。…暇な状態で家にいるというのは、誘惑が多すぎて、本当に、困る。


 「…透子?」
 「―――なに」
 「なんか、妙に殺気だってない?」
 出かける仕度をしながら、慎二が首を傾げるようにして言う。言われて初めて気づいてが、どうやら眉間に思い切り皺を寄せていたらしい。慌てて透子は笑顔を作ってみせた。
 「別にっ。なんでもないよ」
 「ふーん…。あ、そろそろ行くから。汚れてもいい服にした方がいいよ」
 「ああ、うん、分かった」
 結構暴れん坊な1年生が入ってきたのだと、春頃聞いていた。クレヨンを持って突進してくるのだとか。一緒になって絵を描いていたら、お気に入りの白い服なんてあっという間にカラフル模様にされるだろう。洗濯しすぎで色がかなり落ちてきたTシャツに着替えようと、透子は2階に上がった。

 ―――ああ、もう、なんでこう意志薄弱かなぁ?

 夏休みに入ってから、そろそろ2週間。
 暇にしてたら、新しい絵をギャラリーに入れるよ、と言われて、慎二にくっついて行って手伝ってしまった。
 暇にしてたら、日本海見に行かない? と慎二に誘われ、先生に車を借りて日帰りで日本海を見に行って磯遊びまで楽しんでしまった。
 その都度、去年も感じたあの最高に穏やかで柔らかいものを感じて、とても幸福な気分になった。そして、次の瞬間、その穏やかな気分を壊してしまうだろうものの存在を思い出して、不安と苛立ちに苛まれた。
 あれ以来、慎二との時間は、ただ穏やかなだけでは済まない、混乱を伴う時間になっている。…きっと今日も、そんな1日になるのだろう。

 今年の夏は、まるで絵の具を滅茶苦茶にパレットにぶちまけたみたいな、混乱だらけの夏だ。
 自分だけじゃない。荘太も、真奈美も、古坂も、なんだかごちゃごちゃしている。異常気象なのかも―――なんて馬鹿なことを考える自分が、なんだかおかしかった。


***


 ギラギラした太陽に、1日分の体力全てが奪われたような気分に襲われる。
 透子は、手にしていたうちわで陽射しを遮ったが、そのうちわをも太陽の光は貫いてくるような錯覚を覚え、頭がクラリとした。暑い―――夏は比較的得意な透子だが、それにしても、暑すぎた。

 高校総体の陸上競技メイン会場は、高校生らしき観客とその親位の世代の観客でほぼ満員になっている。暑さ対策のために入口で配られた青いうちわが、スタンド全体を青に染めていて、なかなか壮観だ。
 男子100メートルに出場した荘太は、予選、準決勝と順調に勝ち進み、無事決勝に残ることができた。
 決勝進出タイムをずらっと並べてみたところ、荘太は3位のタイム―――それが分かっているのか、決勝進出が決まった瞬間も、トラック上を歩く荘太の顔はいまいち冴えない表情をしていた。準決勝が終わった後、ちょうどこちらを仰ぎ見た荘太に向かって激励のつもりでスポーツタオルを振って見せたら、一応ピースサインを高々と掲げて応えてはくれた。が、その目は、地区予選の時の目とはやっぱり違っていた。

 「あ…あたし、やっぱり、見るのよそうかな…」
 隣の席の真奈美が、そんなことを言って腰を浮かす。透子は思わず真奈美の服を掴み、立ち上がるのを阻止した。決勝が始まるまで、あと10分少々に迫っているのだ。
 「気持ちは分かるけど、落ち着きなよ。決勝見なかったら、何しに山梨まで来たのか分かんないじゃない」
 「でもぉ…なんか、あたしが見てない方が勝つ気がするんだもの」
 「そんなバカな話、ある訳ないでしょーが。…あ、ほら、荘太たち出てきたよ」
 フィールドに現れた荘太を指差して透子がそう言うと、暑さで真っ赤になっていた真奈美の顔が、一瞬緊張で蒼褪めたように見えた。今からこんな風じゃあ、スタートと同時に心臓発作でも起こすのではないか―――透子は、真奈美の横顔を眺めつつ、密かに苦笑した。
 ランニングに短パンの上からトレーニングウェアの上着だけを羽織った姿の荘太は、第3コースのスターティング・ポジションへと移動し、そこでウォーミングアップを始めた。準決勝後の、ちょっと焦っているようなムードが心配だったが、遠目で見る限り、荘太はいつも通り落ち着いているようだ。これなら、ベストの走りができそうだ。ちょっと、ホッとした。
 透子たちより数列前の観客席で、陸上部の連中が荘太に向かって声援を送っていた。古坂のひょろっとした後姿も、その中に混じっている。
 ―――古坂君が近くの席じゃなくて、幸いだったかも。
 覚悟を決めたように、きゅっと唇を硬く引き結んでいる真奈美を見、頭の片隅でそう思う。荘太のためにこんな顔をする真奈美を見たら、きっと古坂は辛い思いをするだろうから。
 「…ねぇ、透子」
 「ん?」
 「小林君、勝つかな」
 「どうかなぁ…決勝進出タイム1位の人って、予選段階でも荘太より速かったんだよね。データだけ見たら、ちょっと危ないかもしれないなぁ」
 「…勝って欲しいなぁ…」
 ウォーミングアップ中の荘太から目を離さず、想いの全てを籠めるみたいにそう呟く真奈美に、透子はちょっと、複雑な気分になった。
 荘太が、この勝負に何を賭けているのかを知ったら―――真奈美は、荘太の勝利を祈ったりするだろうか?
 古坂は、荘太の心づもりを知っているんだろうか? もし知っているとしたら…どんな気持ちで今、観客席に座っているだろう?
 複雑だよなぁ、と、思わず眉根を寄せた。が、すぐにその複雑な思いを振り払った。部外者の自分が気に病んでも仕方ない―――負けた方がいい勝負なんてない。今は純粋に、荘太が勝負に勝つことだけを祈ろう。
 「…荘太が実力出し切れば、大丈夫だよ」
 安心させるかのように透子がそう言うと、真奈美は蒼褪めていた顔を少しだけ赤らめて、はにかんだような笑みを見せた。

***

 男子100メートル決勝は、合計8名で争われる。
 第3コースのスターティング・ポジションに立った荘太は、武者震いに似た感覚を覚えて、早く走り出したくてうずうずしていた。
 荘太にとって、走るのはもはや本能の世界だ。ただ何となくランニングするのも好きだが、こういう勝負の場で走る時の高揚感と陶酔感は、一度覚えてしまうと病みつきになる。もしかしたらそれは、走ることに限らず勝負であれば何でもそうなのかもしれないが。
 きっと自分の祖先は、慎ましやかに木の実を採って生きてた種族ではなく、獣を追って森を走り回っていた種族だろうな、と、なんとなく思う。闘うことに快感を覚えるタイプ―――血とエネルギーがあり余ってるタイプだ。
 「そんなに余ってるんだったら、月1位で献血に協力してやれば?」と、体重が基準値に満たなくて献血ができない透子に言われたのを思い出し、荘太は、足首をぐるぐると回しながらつい笑ってしまった。大分するなら、透子も絶対狩猟民族タイプだろう。去年の体育祭での闘志剥き出しな走りを見れば、一目瞭然だ。
 ―――あいつの祖先は、どんな種族かな…。
 ふと、脳裏に思い浮かぶ顔。と同時に、荘太の顔が険しい表情に変わった。

 …負けない。
 負ける訳にはいかない。たとえ意味がないことでも―――これは俺の、男としての意地だ。
 勝負の相手は、準決勝1位のタイムを叩き出した第5コースの選手でもなければ、“あいつ”でもない。敵は、“自分”だ。

 『位置について』

 無機質に思える声が響く。
 荘太は、はぁっ、と一度大きく息を吐き出すと、ゆっくりとスターティングブロックに足を乗せた。
 頭を、空っぽにする。
 余計なことも、大切なことも、全部全部頭から追い出して、空っぽな自分になる。残されるのは、己の本能だけ―――その時、荘太は、風と一体化できる。トップスピードに乗って、誰よりも速く駆け抜けることができる。

 『用意―――…』

 パァン! と、ピストルの音。
 それと同時に、荘太は、風と同化した。

 

 ピストルの音と同時に、スタンド全体から、一斉に歓声が上がった。
 「行けーっ、荘太!!」
 半ば、観客席から腰を浮かすようにして、透子は手をメガホン代わりにして叫んだ。隣で真奈美も何か叫んでいたが、自分の声で掻き消されて聞き取れなかった。
 スターティングブロックを蹴って跳び出した荘太は、あっという間にトップスピードに乗った。予選や準決勝の時とはまるで違う走り―――絶妙のスタートを切れたことも、その後の加速が上手くいったことも、一目瞭然だ。
 スタート直後は真横に一直線に並んでいた8人の選手は、30メートルを過ぎたところで上位3人と下位5人に分かれ始め、50メートルを過ぎる頃には荘太と第5コースの選手の一騎打ちの様相を呈した。荘太よりはるかに体の大きな5コースの選手は、その長いストライドを生かしてダイナミックな走りをする選手だ。けれど、その選手よりピッチの狭い荘太も、一歩も譲らない。両者ほぼ横並びの状態で、残り10メートルを切った。
 ―――がんばれ、荘太! あと一息!!
 声に出すだけの暇はなかった。荘太と5コースの選手は、それぞれ少しでも先にゴールしようと、上半身を精一杯前へと傾け、トップスピードに乗ったままゴールインした。透子の目には、ほぼ―――と言うよりも、全く同時にゴールしたように見えた。
 「どっち!?」
 「わ…分かんない…」
 肉眼では分からないレベルだ。透子と真奈美は、拳を握り締めたまま、慌てて電光掲示板へ目を移した。

 そして。
 そこに、信じられないような結果を見つけ、暫し呆然としてしまった。

***

 グラウンドの隅っこにぼんやり佇む荘太を見つけ、透子と真奈美、そして競技終了と同時に合流した古坂は、どう声をかけるべきか悩んだ。
 こういう場合、男同士の方がいいんじゃないだろうか。そう思って、透子は古坂の顔を見上げた。なのに古坂は、とんでもないという風に首を横に振り、一歩後ろに後退してしまった。ならば、日頃から練習を見学している真奈美に、と思ったら、真奈美も同じタイミングで後ずさりしていた。
 「…ずるいよっ」
 小声で、2人に苦言を呈する。が、2人はひたすら首を振って、透子に「早く行け」という手振りをするばかりだ。日頃、さして仲良さげなところもない癖に、こういう時だけ妙に同じ行動をとるのだから、ずるいと思う。
 ―――仕方ないなぁ…。
 諦めた透子は、すうっと空気を大きく吸い込むと、
 「おーい、荘太っ!」
 大声で、荘太を呼んだ。
 Gパンのポケットに手を突っ込んだまま、荘太はこちらを振り返った。気の抜けたようなその顔は、泣いていたり自棄を起こしていたりという様子はないが、いつもの荘太の明るさはほとんどなかった。
 「おー…、3人とも、お疲れ」
 そう言う声も、やっぱり気が抜けたような感じだ。
 透子は、次にかけるべき言葉を探したが、なかなか見つからなかった。そうしているうちに、透子の背後にいた古坂が、幾分引きつり気味の笑顔で口を開いた。
 「あの…元気、出せよ。ほとんど1位も同然だったじゃないか」
 「……」
 「う、うん。100分の1秒なんて、誤差の範囲内じゃない…かな」
 古坂の言葉を受けて、真奈美もそう付け加えた。
 優勝した第5コースの選手のタイムは、10秒59。荘太のタイムは、10秒60―――荘太は、100分の1秒の差に泣いたのだ。
 「それに、10秒60って、お前のベストタイムより100分の2秒遅いだけだろ。ほぼベスト状態が出せたんだから、良かったよ。…な?」
 「―――ハハ…」
 古坂の慰めに、荘太は、疲れ果てたような笑いを漏らして地面を蹴った。
 「実力が出せなかったなんて思ってないぜ? 今日の走りが、俺の出せる限界ギリギリの力だよ―――運がよければ1位になれたかもしれないけど…タイム自体には、何も文句はない。後悔はない」
 「……」
 「…けど、2位じゃ、意味ねーよ」
 俯き、地面をがしがしと蹴りながら、荘太はそう、吐き捨てるように呟いた。
 「1位以外なんて、意味がない。1位と差がなくたって、2位は2位だ。100分の1秒に泣くのが嫌なら、もっと大きな差をつけられる力がありゃいいんだ。それだけの差がつけられなかったのは…俺に、力がなかったからだろ」
 「…そんな、卑下したようなこと言うなよ…」
 「―――卑下なんかじゃない」
 古坂に低くそう告げた荘太は、おもむろに顔を上げた。
 荘太の目は、何故か、透子の方を真っ直ぐに見ていた。いつもより鋭いその目と目が合ってしまい、透子は思わず息を呑んだ。
 「…透子には、分かるだろ」
 「―――…」
 「1位じゃないと、意味がない」
 まるで透子にそれを訴えるみたいに、荘太はそう、もう一度強い調子で繰り返した。

 『インターハイ優勝しなくても、告白なんてできるじゃない。何でこだわってるの?』
 『…男の意地、かな』
 『何それ』
 『透子には分かんねーよ』

 ―――分かんねーよ、って言っておきながら、今度は“分かるだろ”って…?
 何それ。いくらなんでも調子良すぎない?

 分からない。荘太が一体誰に対して意地を見せようとしてるのか。告白するならさっさとすりゃいいのに、と、荘太らしくない回りくどい行動にイラつく。そういう意味では、全然分からない。
 でも―――分かる。1位でなくては駄目なのだということは。
 惜しかろうがなんだろうが、結果は結果だ。勝負ごとの結果は、その字の如く勝つか負けるかしかない。荘太は勝利しか―――1位しか狙っていなかったのだから、それ以外では意味がない。荘太は、2位になったことで落ち込んでいる訳ではない―――全力を出し切り、今の自分では満足のいく走りができたにもかかわらず、それでもまだ「惜しくも2位」止まりにしかなれなかった自分に、腹を立てているのだ。
 100分の1秒差じゃ仕方ないよな、なんて自分を慰めるより、惜しかった結果をバッサリ斬り捨てる方が、ずっとずっと荘太らしい。
 そう思ったら、知らず、口元が綻んだ。
 それで、荘太も分かったのだろう。透子には分かってもらえた、と。荘太はニッと口元に笑みを浮かべて、透子の微笑に応えた。

 「安藤さん?」
 その時、驚いたような古坂の声が割って入り、透子はハッとして背後を振り返った。
 真奈美は、この場から立ち去ろうとしているかのように、出口の方へと歩き出しかけていた。古坂に腕を掴まれて、辛うじて踏み止まった感じに見える。その顔は、真夏だというのに青白く見えた。
 「真奈…どうしたの? 顔色悪いよ?」
 暑い中、ずっと応援していたので、具合でも悪くなったのだろうか。透子はそう思って眉をひそめたが、真奈美は微かに微笑むと、古坂の手をやんわり振り解いて、歩き去ってしまった。
 「ちょ…っ、ま、真奈ー? 大丈夫ー??」
 驚いて真奈美の背中に声をかけたが、真奈美が振り返ることはなかった。古坂も、そんな真奈美を追って出口の方へ走って行ってしまった。

 ―――何…? 真奈、一体どうしちゃったの…?

 真奈美に古坂が追いつき、何か話しかけているのが辛うじて見えたが、すぐに角を曲がってしまって、2人の姿は消えてしまった。透子は、暫しその方向を呆然と眺めていたが、ふとある事に気づき、荘太の方を振り返った。
 荘太は、驚いたような顔をして、その場に立ち尽くしていた。何故真奈美がいきなり立ち去ってしまったのか、荘太にも皆目見当がつかない様子だ。
 「…なんだ? あれ。安藤さん、どうかしたのか?」
 「……」
 透子は、荘太に曖昧な笑みを返し、また真奈美たちが去った方向に目を向けた。


 真奈美たちの残像を追いながら、透子は無意識のうちに、真奈美を自分に、自分をはるかに、荘太を慎二に置き換えて考えていた。
 そして、思い出す―――慎二とはるかが、透子には内緒で田村の話を相談し合っていた頃の、自分の気持ちを。
 “大人の話”…そんな単語を頭に思い浮かべ、酷く嫌な気分になった。取り残されたような寂しさを感じて、大好きなはずのはるかに、言いようのない暗い感情を抱いた。嫉妬? 疎外感? …あの頃のあの気持ちは、何という名前だろう? とにかく、透子はとても辛かった。はるかと慎二がいる世界に、自分だけが入ることができないような気がして。

 『透子には、分かるだろ』
 さっきの、荘太のセリフ。…そして、それに応えてしまった自分。
 ―――もしかして真奈美は、荘太と自分のあのやりとりに、傷ついてしまったんだろうか…?


 春先に感じていた、嵐の予感。なんだか、部外者だった筈の自分が、そのど真ん中に放り込まれたような気がする。
 嫌な予感が、胃の辺りから胸へとせり上がるのを感じる。透子は、戸惑ったように視線を地面に落としてしまった。


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