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07

: その想いの名前 (2)

 透子がカステラとビードロの箱を持って悩んでいると、背後から肩を叩かれた。
 パッと振り向くと、そこには古坂が立っていた。どうやら一人らしく、周囲には荘太の姿も、それ以外の親しい仲間の姿も見えなかった。
 「井上さんも一人?」
 「うん。あ…、真奈は今、家に電話しに行ってるの。うちのクラスの他の子と一緒に。お土産、何がいいか訊くみたい」
 「ふーん…井上さんも家へのお土産選び?」
 「ううん。今選んでるのは、はるかさんの誕生日祝い。明日、はるかさんの誕生日なの」
 透子たちは今、修学旅行で長崎に来ている。明日で尾道に帰るが、その日は偶然にも、ちょうどはるかの誕生日だった。
 約1ヶ月前の透子の誕生日には、はるかからベストセラーになっているハードカバー上下巻をプレゼントされた。そのお返しという訳ではないが、今度は透子が長崎名物を何かプレゼントしようという訳だ。
 「長崎といえばカステラだよね、って思ったんだけど、食べてなくなっちゃうものより、飾って楽しめるビードロがいいのかなぁ、とか…」
 両手に持った長崎名物を掲げ、透子は眉根を寄せた。古坂はその2つを何度か見比べて、うーん、と唸った。
 「僕ならビードロかなぁ…。女の子に喜ばれそう」
 「やっぱり」
 「それにホラ、井上さんの名前とも無関係じゃないし」
 「名前?」
 「“透”子―――透明なガラスと通じる名前でしょう?」
 古坂の言葉に、透子は目をパチクリと大きく見開いて古坂を見上げた。
 「うっわー…。古坂君って詩人ー…」
 「ははは、そうでもないよ」
 「あのガサツな荘太の親友だなんて信じられない。大丈夫? 日頃、荘太にグサグサ傷つけられてるんじゃない? …って、そういえば、今日はどうしたの、あいつ」
 「いるよ。でも、土産物屋巡りに飽きちゃって、お土産に買ったカステラを他の連中と一緒に食ってるんだ、今。僕はカステラ苦手なんで、ちょっと逃げてきたとこ」
 「カステラ苦手なの? おいしいのに…。うーん、じゃあ、古坂君の意見に従って、ビードロにしよっと」
 カステラの箱を元に戻した透子は、色合いが綺麗なビードロを選んで包んでもらった。
 透子は既に家へのお土産は買っていたが、古坂がまだだと言うので、相談に乗ってもらったお礼に付き合うことにした。
 「ねぇ、よく考えたら、古坂君と2人きりって初めてだね」
 「ああ…、そう言えばそうかもしれないね」
 古坂の隣には必ず荘太がいるし、透子の隣には必ず真奈美がいる。荘太と透子、古坂と真奈美という組み合わせはあっても、何故か古坂と透子という組み合わせはこれまでなかった。よく考えると不思議だ。
 「でも、ちょっと、ホッとした」
 クッキーの箱を手に取りながら、古坂が突然、そんなことを口にした。
 「ホッとした、って?」
 「ん…、安藤さんが、井上さんと仲良さそうにしてるから」
 「……」
 透子の表情が、俄かに曇る。脳裏には、8月初旬のあのインターハイの出来事が鮮やかに浮かんでいた。
 突然、荘太や透子に背を向けて宿に戻ってしまった真奈美。古坂が何か言ってくれたのか、宿で再び顔をあわせた時は、もう真奈美はいつもの真奈美に戻っていた。インターハイ後は、今年も真奈美が祖父母の家に遊びに行ってしまったのであまり接触がなかったが、新学期が始まってからは、まるで何事もなかったかのように、以前と同じ付き合いが続いている。
 でも―――完全に以前と同じとは、やっぱりいかない。真奈美は、荘太に対する気持ちについて、透子には一切話さなくなってしまった。透子は、真奈美の前ではあまり荘太と話さないようになった。荘太は何も感じ取っていないのか、今も無邪気に話しかけてくるが…。
 「…ずっと訊きそびれてたけど…インターハイの時、真奈美、何か言ってた?」
 荘太の前ではできない質問なので、訊く機会がなかったのだ。恐る恐る透子がそう訊ねると、古坂はクッキーの箱から目を外すことなく苦笑した。
 「いや、別に。男に相談事とかできる子じゃないよ、安藤さんは。まぁ…なんでああなったか、想像はついてるけど」
 透子が古坂の気持ちを知っていることは、どうやら古坂も察しているらしい。古坂の口調からそれを感じ取った透子は、僅かに眉をひそめて古坂の顔を覗きこんだ。
 「…古坂君は、それで、平気なの? 荘太の友達でいるの、辛くない?」
 透子と目が合った古坂は、一瞬、狼狽したように瞳を揺らした。が、透子の言葉を肯定するような表情は見せず、すぐにいつもの温厚そうな笑みを見せた。
 「―――僕は、荘太のことも、よく知ってるから」
 「……」
 「あいつがインターハイの優勝に何を賭けてたのかも知ってたし、その相手が誰なのかも知ってたから―――あいつがいつも、お気楽そうに笑いながら本当は結構しんどい思いしてるのも、知ってるから」
 「…だから?」
 「僕は、待ってるんだ」
 古坂の目が、どこかを見据えるように、少し細められた。
 「可哀想だけど―――僕は、彼女が荘太にフラれて、荘太を諦めるのを待ってるんだ」
 「…でも、荘太が、今好きな子より真奈を好きになることだってあるんじゃない? 待たずに、想いをぶつければいいのに」
 分からないなぁ、という顔をして透子がそう言うと、古坂は暫し透子の顔をじっと見た後、くすっと笑った。
 「…ホント、井上さんと荘太って、似てるね」
 「は?」
 「物怖じしないとこも、ノリがいいとこも、目標に向かってがむしゃらなとこも―――それに、人のことには鋭い癖に、自分自身のことにはもの凄く鈍いとこも」
 「???」
 ―――そりゃ、似たタイプだとは、自分でも思うけど。
 でも、何故今その話が出てくるのか、皆目見当がつかない。
 怪訝そうな顔をする透子に、古坂は「なんでもないよ」と苦笑を返し、またお土産選びに戻ってしまった。その態度があまりにもさりげなかったので、透子も古坂の言葉の意味を問うことはできず、釈然としない気分に首を傾げるだけだった。

***

 ―――うわ、大丈夫かなぁ。
 昼間買ったビードロの箱をボストンバッグの中に入れてみて、透子はちょっと不安になった。
 中身が繊細なガラス製品なだけに、ちょっと気を遣う。タオルや着替えで包むようにして、多少乱雑に扱っても動かないように固定すれば大丈夫かもしれない。まだ入浴前なので、ひとまず安全そうな場所に押し込み、明日の朝にもう一度やり直すことにした。
 「井上さん、お風呂入ったらぁ?」
 風呂上りらしき同部屋のクラスメイトが、まだ制服姿の透子を見てそう言う。ボストンバッグのファスナーを閉めた透子は、タオルで髪を拭いている彼女を振り返った。
 「今って空いてる?」
 「結構ね。うちの部屋、あと井上さんと安藤さんだけだから、早く入ってきちゃえば? 全員揃ったら…ふふふー、覚悟できてるでしょ?」
 「…ハハハ…」
 にんまりと笑うクラスメイトに、思わず笑いが引きつる。夕食時、今夜は“恋の話”の暴露大会をやろう、と、同部屋の誰かが言い出して、何故かそれが既に決定事項になっているのだ。真奈美は困り果てた顔をして黙っていたが、本当はそんなものに参加したくはないだろう。
 と、そこで初めて真奈美のことを思い出し、透子は部屋の中をぐるりと見渡した。
 「あれ? 真奈は?」
 「え? ああ、いないね。どこ行ったんだろう?」
 「ちょっと、探してくる」
 どのみち、そろそろ入浴しなくてはまずい時間だ。透子は、姿の見えない真奈美を探して、部屋を後にした。


 部屋の周囲を探してみたが、真奈美の姿は見当たらなかった。
 透子に声をかけずに浴場に行ってしまった可能性も考えて行ってみたが、そこにもいない。家族思いな真奈美だから、また家に電話をしてるのかも、と思ったが、旅館のロビーや公衆電話ボックスにもいなかった。
 ―――っかしいなぁ…。どこ行っちゃったんだろう?
 ふと、荘太と古坂のことが頭をよぎる。が、すぐにその可能性は否定した。真奈美が男の子の部屋に遊びに行くなんて、まず考えられない―――たとえそこに、荘太がいたとしても。
 「あれ、井上さん、まだ制服?」
 途中、同じクラスの山本という男子生徒に出くわした。あまり付き合いのない生徒だが、髪型を頻繁に変える奴として透子の頭の中にインプットされている。つまり、透子の高校には珍しく外見に手間隙かけるタイプという訳だ。手にタオルやら洗面道具やらを持っているところを見ると、山本は風呂上りらしい。
 「うん。あの…安藤さん、見なかったかな」
 「安藤さん? さぁ…気づかなかったけどなぁ」
 「そう。ありがと」
 「あ、ちょっと、待って」
 そのまま真奈美を探しに行こうとする透子を、山本は慌てたような口調で呼び止めた。透子がキョトンとした顔で振り向くと、何故か周囲をキョロキョロと見回す。つられて透子も辺りを軽く見回したが、旅館の人が何かの片づけをしているだけで、生徒や先生の姿は遠くにしか見えなかった。
 どうやら、周囲の状況は山本には好都合だったらしい。ホッとしたような顔をした山本は、続いて突然顔を引き締め、居ずまいを正した。
 「あ…あの、さ。明日―――出発までの自由時間なんだけど」
 「うん」
 「良かったら、オレと一緒に回らない? 市内観光」
 「は?」
 もの凄く間の抜けた声が出てしまった。透子はパチパチ、と、数度瞬きをし、怪訝そうに眉を顰めた。
 「私が? 山本君と?」
 「うん。…ダメかな」
 「いいよ。あ、でも、安藤さんも一緒でいい?」
 「え」
 それは山本には不都合だったらしい。一気に表情が冴えなくなる。それを見て、透子も遅ればせながら山本の意図に気づいた。
 ―――え…えーと、えーと、つまり…。
 「…もしかして、これって、一種の告白だった?」
 「―――でなけりゃ、こんな緊張した顔してる訳ないでしょ」
 山本の顔が、ちょっと赤くなる。途端、透子は、慌てふためいたように数歩後退った。
 「いや、あの…そこまで露骨に引かれちゃうと、オレも困るんだけど…」
 「ひ、引くに決まってるよっ。だって、私、こーゆーの初めてだもんっ」
 「え、そうなの? へぇ、意外…」
 なんだか知らないが、山本の顔が妙に嬉しそうになる。何がそんなに嬉しいのか、透子にはよく分からなかったが。
 「あの、それで…さ。いきなり“付き合って”って言われても困るだろうし―――とりあえず明日、市内観光2人でしない? それで楽しいって思ってくれたら、ちょっと考えてくれないかな。その…この先も、付き合っていくかどうか」
 「…え…っと…」

 どうしよう。
 自分がこんなに緊急事態に対する耐性のない人間だとは知らなかった。頭が真っ白になって、冷静な判断が全然できない。
 でも―――断ろうにも、理由が思い浮かばない。
 いや、そもそも、何故断ろうとしているんだろう? 別に山本君を好きな訳じゃないけれど、ただ明日一緒に観光するだけのことを断りたくなるほど彼を嫌いな訳でもない。明日誰かと一緒に回る約束をした訳でもないし、他に好きな人がいる訳でも―――…。

 ―――他に…好きな、人…?

 「…井上さん?」
 山本の訝しげな声に、透子の脳裏に一瞬甦りかけたものが、あと少しのところでスルリと逃げ出してしまった。夢から覚めたみたいに現実に引き戻された透子は、戸惑ったように視線を彷徨わせた。
 「あ…ご、ごめん。ちょっと、びっくりして…」
 「いや、いいよ。それで―――返事は?」
 「うん―――明日、一緒に観光するだけなら、いい…かな? 別に約束もないし」
 「ホント!? やった」
 「あっ、でも、その先はとりあえず何も考えてないよ? ほんとに、明日の市内観光の件だけだからっ」
 まるで付き合うことが決まったかのような喜び方をする山本に不安を感じて、透子は慌ててそう念を押した。正直、半年もの間同じクラスにいて山本に何も感じなかったということは、明日一緒に観光した位で付き合う気になれる確率は低いと思う。市内観光の果てにあるのは、99パーセント、「ごめんなさい」の一言だ。
 けれど山本は、市内観光できるだけで嬉しいのか、それともそこまで持っていければ後は何とでもなると思っているのかは分からないが、もの凄く嬉しそうな笑顔で、
 「うんうん、分かってるって。じゃ、明日なー」
 と言うが早いか、透子の肩をポンと叩いて風のように去って行ってしまった。
 「……」
 ―――分かってないな、あれは。
 理由がなくてもいいから、即断った方が良かったのかもしれない。少々後悔しつつ、透子は超ご機嫌な山本の背中を見送った。

 …でも。
 私も捨てたもんじゃないかも。
 そうだ。帰ったら絶対、この話、慎二にしてやろう。「透子はまだ知らなくていいよ」だの「子供にはまだ早すぎるから」だのといつもお子様扱いして口先でほいほいあしらう慎二も、告白してくる奴がいると知れば、ちょっとは女として見直すかもしれない。
 付き合うことにしたから、なぁんて言ったら、慎二、どんな顔するかな。首のすわってない赤ん坊がいきなり代数幾何の難問解いたのを目撃したみたいに驚いたりして…。

 “たえこ”の件で振り回されたし返しだ―――そう思ったら、笑いがこみあげてきてしまう。透子は、口元に手を置いて、こみ上げてきた笑いをなんとか噛み殺した。
 「…っと、いけない」
 真奈美を探している最中だったことを突然思い出し、透子は真顔に戻った。
 館内でこれだけ見つからないということは、外の可能性もある。透子は、噛み殺した笑いを完全にどこかに追いやると、真奈美の姿を求めて再びロビーへと向かった。

***

 間もなく、真奈美は見つかった。
 しかも、思いがけない形で。
 透子がロビーに向かおうと中庭に面した廊下を歩いていたら、中庭に通じる扉が突然開き、そのドアから真奈美が廊下へと駆け込んできたのだ。

 「…痛っ!」
 ドン、と駆け込んできた真奈美と肩がぶつかった透子は、思わず声を上げて顔を歪めた。が、ぶつかった弾みで足を止めた相手を見て、それが真奈美であると気づき、目を丸くした。
 「真奈! やだ、どこいたの? 探して…」
 真奈美の肩に手を置き、背けられていた顔をこちらに向かせた透子は、次の瞬間、息を呑んだ。
 真奈美は、泣いていた。顔が涙でぐしゃぐしゃになるほどに。
 「…ま…」
 「―――…ッ、ご、ごめん…来ないでっ」
 「え? あっ、真奈!?」
 真奈美は、驚く透子の手を力いっぱい振り払うと、さっと顔を背けてロビーの方へと走り去ってしまった。
 驚きのあまり声が出なかった透子は、事態がさっぱり飲み込めないのに、真奈美を呼び止めることも追うこともできないで、暫しポカンとしてしまった。
 中庭に続く扉から入ってきた、ということは、中庭にいたということだろう。真奈美を追いかけたかったが、来ないでと言っているのだから、今すぐ追うのはまずい気がする。透子は、振り払われた時にちょっとひっかかれてしまった手の甲をもう一方の手で軽くさすると、半開きになっている扉の隙間から中庭へと出た。
 そして。
 中庭に出てものの5秒で、真奈美に何が起きたか、事態を察した。
 何故なら―――そこに、きまりが悪そうな顔をした荘太がいたから。

 「…透子?」
 去っていった真奈美の代わりに突然現われた透子に、荘太はギョッとしたように目を丸くした。さっき透子が山本に対してしたみたいに、数歩後ろによろける。
 「えっ…な、なんでお前」
 「真奈を探しに来たの。…なに、あれ。なんで真奈が泣いてるの? あんたが泣かせたの?」
 透子に咎めるような口調で詰問されて、荘太の方もムッとしたように眉を吊り上げた。
 「…んだよ、何も聞かないうちから、もう俺を悪者扱いかよ」
 「そんなつもりじゃないっ。なんで真奈が泣いてるかを聞きたいだけだってば」
 「……」
 後ろ暗いところがあるのだろう。一瞬見せた不愉快そうな顔が、すぐに引っ込む。荘太は視線を逸らすと、居心地が悪そうに髪を掻き毟った。
 「…もしかして、真奈のこと、振ったの?」
 待ちきれず透子がそう言うと、荘太の視線が戻ってきた。荘太の思わぬ険しい表情に、透子も一瞬ひるみそうになった。
 「お前、知ってたの?」
 「荘太だって、古坂君の気持ち、知ってるじゃない。同性の友達同士だもん、知ってて当然だよ」
 「だったら、なんで安藤を止めなかったんだよっ。俺が安藤に気がないの、お前が一番よく知ってた筈だろ!?」
 「そんなこと出来ないよ! 真奈の気持ちは真奈のものじゃない。私があれこれ言って干渉する問題じゃないでしょっ」
 「そりゃそうだけど―――あーもう、だから嫌なんだよ、こういうの」
 苛立ったように舌打ちした荘太は、憤りをぶつけるみたいに、転がっていた石を蹴飛ばした。
 「なんで女ってすぐ泣くんだよ。俺が安藤好きになれなくたって、それは俺が悪い訳じゃないだろ? 泣かれると、まるで俺が悪いみたいじゃねーかっ」
 「でも、あの真奈の泣き方は尋常じゃなかったよ。よっぽど酷い事言ったんじゃないの」
 「…そんなことないって」
 また、石を蹴飛ばす。少し小さくなった声が、「そんなことないって」という言葉とは裏腹な荘太の本心を表しているようだ。
 「ただ…ただ安藤が、まるで俺が好きな女に振られることがもう決まってるような言い方したから―――泣き止まない安藤に、優しい言葉ひとつかけてやる気になれなかっただけだよ」
 「…えっ」
 荘太が振られると決まっているような言い方、ということは―――…。
 「ちょっと。まさか荘太、好きな相手が誰なのか、真奈にわざわざ教えたの?」
 「―――ハ…、だからお前はガキだって言うんだよ」
 険しい顔になる透子に勝るとも劣らない鋭い目つきで、荘太は透子を睨んだ。
 「自分が惚れた相手が誰を想ってるかなんて、相手を想えば想うほど、嫌って位分かるもんなんだよっ」
 「……」
 「…俺は、負けない。安藤は無理だと思ってるらしいけど―――俺は絶対、負けないからな」
 まるで透子に宣言するかのようにそう告げると、荘太は足元の小石を拾って、中庭の真ん中にある池に投げ入れた。ぽちゃん、という音が、静まり返った中庭に微かに響く。館内のざわめきが、余計遠のいた気がした。

 『―――僕は、荘太のことも、よく知ってるから。あいつがインターハイの優勝に何を賭けてたのかも知ってたし、その相手が誰なのかも知ってたから―――あいつがいつも、お気楽そうに笑いながら本当は結構しんどい思いしてるのも、知ってるから』

 昼間聞いた、古坂の言葉を思い出した。
 古坂は、真奈美の荘太に対する想いに気づいていた。好きだから―――だからこそ、気づいたのかもしれない。真奈美の目が、誰を追っているのか。でも、古坂は、荘太のことも知っている。だから、ああ言ったんだ―――真奈美が振られるのを待っている、と。
 どれだけ真奈美が努力しても、荘太の想いが覆ることは、ない。…荘太の親友だからこそ、それをよく分かっているから。

 嵐の予感は、確かに感じていた。
 でも―――こんな、とてつもない破壊力を持つ嵐だなんて、想像もしていなかった。少女漫画に出てくる高校生の恋愛が想像の限界で、こんな風に激情を伴った恋愛なんて考えてもみなかった。甘かった―――確かに、自分はまだガキだ。

 「…ごめん」
 少しうな垂れた透子は、掠れた声で荘太にそう告げた。
 「でも―――分かってよ。荘太がキレちゃうのと同じ位、真奈も真剣に荘太が好きだったんだよ。真奈はキレちゃうタイプじゃないから、泣くことしかできないんだよ。…次、顔合わす時は、優しくしてやってよ。“友達”として」
 厳しい態度をとりすぎたことは、荘太も自覚しているらしい。透子の方をチラリと見た荘太は、大きく溜め息をひとつつくと、
 「…分かってる。俺もこんなの、引きずる気ないよ」
 と答えた。最悪、真奈美とはもう口をきかないなんて言い出すのではないか、と不安になっていたが、その言葉を聞いて透子も安堵した。
 「けど俺、明日一杯は、ちょっと安藤から距離置くから。またキレたくないし、あいつに泣かれるのも嫌だし。悪いけど…透子、傍にいてやってくれよ」
 「うん、そのつもり。―――あ…」
 そう答えた次の瞬間、つい10分前の山本との約束を思い出し、透子は「しまった」という顔をしてしまった。
 ―――うっわ…、ど、どうしよう。
 思い込みの激しそうに見えた山本だが、今更断ったら何と言うだろう? 色々勘繰ってきそうで怖い。素直に理由を言うのは、真奈美に可哀想なことだし―――…。
 「…なんだよ」
 透子の表情の変化を読み取って、荘太が訝しげに眉を上げる。
 「うーん…、実はさっき、明日の市内観光、一緒に回ろうってうちのクラスの山本君に誘われて、OKしちゃったもんだから」
 「はぁ!?」
 「まさかこんなことになるとは、思ってなかったもんなぁ…。断ろうかなぁ」
 「断れ!」
 “断ろうかな”と透子が最後まで言い終わる前に、荘太が即座にそう怒鳴った。その形相がまさに“鬼の形相”なのを見て、透子は不服そうに唇を尖らせた。
 「…何それ。なんであんたが私に命令すんの?」
 「バカ、お前は安藤と山本とどっちが大切なんだ? そんな友達甲斐のない奴を友達に持った覚えはないぞっ」
 「何、その言い草っ。元々はあんたが短気ですぐぶちキレる性格だから真奈を泣かす羽目になったんでしょっ? 女泣かせて後悔してるからって、私に八つ当たりしないでよっ」
 「誰が八つ当たりだよっ!」
 「八つ当たり以外の何者でもないじゃないっ!」
 「てめーら、うるせーぞっ!!!」
 ヒートアップした2人の頭上から、ガラガラ声の怒鳴り声が降って来た。
 驚いて頭上を見上げたら、中庭に面した廊下の窓から、引率の体育の先生が顔を出していた。会議でも終わったところなのだろうか、修学旅行のパンフレットと書類を持った手をぶんと振り上げている。
 「ガキの分際で痴話喧嘩か!? 生意気だぞ、さっさと部屋に戻れ! でないと明日の自由行動、俺と同伴にさせるぞ!」
 冗談ではない。学校一の荒くれ教師との市内観光なんて、死んでも御免だ。透子と荘太は、喧嘩は一時休戦とばかりに、大慌てで中庭から出て行った。


 当然ながら、透子は、さして親しくもない山本との約束よりも、真奈美との友情を優先させた。
 翌日、荘太や古坂から強引に市内観光に連れ出された山本は、何故こんなことになったのかさっぱり分からず、始終首を傾げていた。


***


 「工藤さーん!」
 背後から自分を呼ぶ声に、慎二は足を止め、振り向いた。
 薄闇の中、ヒールの音をコツコツ立てながらこちらに走ってくる女性―――どうやら、はるかのようだ。
 「随分早いね、今日は」
 少し驚いてそう言うと、やっと慎二に追いついたはるかは、肩で息をしながら笑ってみせた。
 「誕生日だから、って言って、早めのシフトを組んでおいたのよ。叔父さん、お寿司とるって言ってたから、あんまり遅い時間じゃ注文できる店も限られるかな、と思って」
 「ああ、なるほどね」
 「叔父さんは?」
 「先生はまだ居残り。先に家に戻って寿司注文しとけって言われてるんだ」
 「じゃあ、叔父さんが全員の分勝手に決めちゃう前に、さっさと注文した方がいいわね」
 店屋物をとる時、いつも先生が全員の分を独断で決めてしまうのを知っているからだろう。はるかはそう言って、可笑しそうに笑った。
 こうして、はるかと帰宅が一緒になるのは、もしかしたら尾道に来てからの3年半でこれが初めてかもしれない。透子とはほぼ毎日一緒に帰るが、今日は透子は、修学旅行から帰るのが何時なのか曖昧だから、という理由で直接家に帰ると言っていた。
 ―――なんか、変な感じだよなぁ…。
 いつもなら、透子の小さな体が隣にあるのに、今隣に並んでいるはるかは、ずっと大柄だ。はるかと話すのはちょっと苦手だったりするが、日常と違うこの違和感に、余計に何を話したらいいか分からなくなってしまう。仕方なく、無言のまま歩き続けると、はるかの方が口火を切った。
 「透子ちゃん、今日帰ってくるんでしょう?」
 「え? あ、ああ…うん」
 「修学旅行かぁ…懐かしいな。夜なんか、大部屋で女の子が集まって寝るから、決まって恋の話の暴露大会になっちゃうのよね。男の子とかってどうなのかしら。工藤さん、どうだった?」
 「う、うーん…どうだったかな。ハハ、もう10年も前の話だから、覚えてないな」
 「…嘘ね。笑顔が苦しそうよ」
 悪戯っぽく笑うはるかに、慎二の笑みが余計引きつった。
 「―――まぁ…男なんてバカな生き物だから、何にせよ、碌でもないことやってたと思ってもらえば…」
 「ふふ、冗談よ。突っ込んで訊く気なんてないから。…あー、そう言えば私、初めて付き合った男の子って、修学旅行の時に告白してきたクラスメイトだったな」
 「へぇ、そうなんだ」
 「透子ちゃんも、彼氏作って帰ってくるかしら? それとも、透子ちゃんに限ってそれはないかな? 透子ちゃんて、しっかりしてるけど、そういう方面には奥手そうだものね」
 「どうだろうなぁ…」
 くすっと笑った慎二は、ちょっと空を仰いだ。
 「けど、透子は結構モテると思うけどな」
 「……」
 「顔立ちもそうだけど、イタズラ好きで寂しがりな子猫みたいな子だから」
 「…そうね」
 なんだか、抑揚のない答えが返ってくる。不審に思った慎二だったが、はるかの顔を見ると、特に普段と変わらない顔をしていたので、そのまま何も訊かずに受け流した。

 会話が、途絶える。
 はるかといると、よく、こんな風に会話が途切れる。何か言いたげな空気だけが流れて、でも実際には何の言葉も交わされない。
 はるかが言いたいことは、空気の中に溶けていて、なんとなく分かる。はっきりとではないけれど。でも―――いや、だから、いつもわざとその空気を無視する。無言の問いかけに、こちらから先に答えるような真似は決してしない。ずるいと自分でも思う。けれど…無視する以外の方法を、慎二は知らなかった。
 「あー…、そう言えばオレ、はるかさんの誕生日プレゼント、用意してないや。ごめん」
 その場の空気を追い払うように、のんびりした口調でそう言うと、慎二ははるかより1歩前に出、門を抜けて玄関の引き戸に手を掛けた。軽く引いてみたが、びくともしない。どうやら透子は、まだ帰宅していないようだ。
 「また絵を描こうか。リクエストあったら、何でも聞くよ?」
 鍵をポケットから取り出し、はるかを振り返りながらそう言うと、はるかはどこか寂しげな目をして慎二を見上げ、すぐに俯いてしまった。
 怪訝そうに眉をひそめた慎二だったが、「どうしたの?」と訊くのは、なんだか墓穴を掘ることになる気がして、あえてその一言を飲み込んだ。黙って鍵を開け、引き戸を引いた。
 その、引き戸がレールを滑るカラカラという音に混じって、
 「―――…でしょう…?」
 微かに、はるかの声が、背後から聞こえた。
 思わず、再び振り返る。慎二のすぐ後ろに立つはるかは、顔を上げ、慎二を見上げていた。酷く哀しげな顔をして。
 「…いるんでしょう…? ずっとずっと、大切な人が」
 「―――…」
 はるかを見下ろす慎二の目が、動揺をそのまま映すみたいに揺れた。その変化は微妙だったが、はるかの目には明らかだった。
 懸念が、確信に変わる。慎二の動揺を見てとり、はるかは寂しげに微笑んだ。
 「…私、待ちます」
 「……」
 「3年半、待ったけど―――途中、もう耐えられないって思って挫折しかけたけど―――この先も、待ちます。私がその人の代わりになれるまで」
 「…それは、無理だよ」
 はるかの決意に、慎二はふっと笑って答えた。
 「誰も、誰かの代わりになんてなれない」
 「……」
 「それにオレ、ホントはどうしようもない奴なんだ。はるかさんはオレを知らないから、勘違いしてるんだよ、きっと。オレなんかのために何年も無駄にしちゃ駄目だ」
 「…代わりに…なれない…」
 はるかの顔が歪む。目に涙が溜まっていくのを見て、涙に弱い慎二は俄かに焦りを覚えた。
 「そんなに―――そんなに、素敵な人…? 私じゃ代わりになれない位、素敵な人? だからそこまで冷たい態度をとるの?」
 「…はるかさん…」
 「お願い、諦めさせないで。工藤さんが私のこと、顔も見たくない位嫌いだって言うんなら、諦める。でも…でも、違うでしょう? 違うなら、諦めさせないで。工藤さんが何者でも、どんな過去持ってても、今の工藤さんが私は好きなんだから」
 「ち、違うよ。オレはただ…」
 「誕生日プレゼント―――絵は、いらない」
 慎二の言葉を遮り、はるかはそう言って、慎二のシャツの袖を握った。ほとんど抱きつくのに等しいほど体を寄せ、慎二の目を見据えた。
 「だから、その代わり―――キスを、下さい」
 「……」

 さすがに、面食らう。
 はるかが見た目よりずっとアグレッシブな性格なのは知っていた。が、こんなことを言い出すとは予想できなかった。

 慎二が、驚いたような困ったような顔をして固まっていると、はるかの目からとうとう涙が零れ落ちた。
 「…私…今、凄く勇気出して、凄く恥ずかしいの我慢して言ってるのよ…?」
 「…うん…」
 「恥、かかせないで―――嘘でもいいから」
 「―――でも、オレ、きっと忘れるよ」
 言うつもりなど、なかったけれど。
 はるかが、痛々しすぎるから―――ほんの欠片だけの、真実を口にする。
 「はるかさんとキスしても、きっと忘れる。ごめん…誓ったから。もう誰のキスも覚えないって。忘れないために」
 「…工藤さんは、忘れてもいい。…私が、覚えてるから」
 「……」
 「いくらでも、待つ。全部欲しいなんて言わない。だから今は…」

 背伸びをしたはるかの唇が、慎二の唇に、触れた。
 知らない感触―――いや、記憶の中には、似た感触がきっといくらでもある。決して褒められた人生を歩んでこなかった自分は、沢山のキスを知っている。でも…でも、今、はっきりと覚えているのは、この唇ではない。
 違う。けれど―――はるかの痛みは、過去の自分を思い起こさせるから。

 お願い、と。ほとんど唇が触れたまま呟かれ、慎二はそのまま、触れている唇に自らの唇を押し付けた。
 時間にしたら、ものの数秒―――なのに、それが何分にも感じられた。まるで、初めてキスをする中高生みたいなキスだが、はるかは身じろぎひとつせず、黙ってそれを受け取っていた。
 「…これで、いい?」
 唇を離し、そう問う。
 その言葉に応えるようにうっすらと目を開けたはるかの顔は、到底、幸せそうとは思えなかった。それでもはるかは、僅かに微笑んだ。見ようによっては、幸せそうにも見える笑顔―――きっと、本心ではないだろう。
 「…ありがとう。ごめんなさい、わがまま言って」
 「いや…謝ったりしなくていいよ」
 「―――やっぱり工藤さんて、優しい人ね」
 はるかの目から、また涙が零れた。が、それを拭うことなく、はるかは慎二からはなれると、慎二の横をすり抜けるようにして家の中に入っていってしまった。

 ―――ほら。
 もう、覚えていない。たった今、確かに触れた筈のものの感触を。

 願いを聞き入れたのは、むしろ残酷なことだったのかもしれない。慎二は大きく息を吐き出すと、目の前に落ちかかった髪を掻き上げ、家の中に入ろうと踵を返した。
 ―――いや。
 踵を返そうと、した。


 「―――…」
 目を上げて初めて、気づいた。
 気づいた途端、頭をよぎったのは、一体いつからそこにいて、一体どこまでのことを聞かれてしまったのか、ということ。


 門の外、街灯の光から外れた薄暗がりの中に、ボストンバッグをぎゅっと胸に抱きしめた透子が、ショックを受けたような顔をして立ち尽くしていたのだ。


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