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07

: その想いの名前 (3)

 「それでね、古坂君が、私の名前は透明の“透”がついててガラス細工とも繋がる部分があるから、って言って、カステラよりビードロを勧めてくれたの」
 「へえぇ…、ロマンチックぅ…。どんな子? 休み時間にゲーテとか読んでるんじゃない?」
 「あはははは、全然! 愛読書は少年ジャンプだもん。…あ、先生、その玉子残すの? だったら私のほたてと交換しよっ」
 「随分不公平なトレードだな。いいのか? まぁ、子供向きだからな、玉子は」
 「あ、ひっどい。通は玉子で寿司屋の良し悪しを見極める、って言う位に重要なネタなのにぃ」

 ―――このハイテンションが怖いなぁ…。

 しそ巻きを口に運びながら、慎二は、隣に座る透子の明るい横顔を盗み見た。
 透子は、はるかの誕生祝の寿司を平らげながら、修学旅行の土産話に花を咲かせている。はるかに買ってきたというビードロにまつわるエピソードを楽しげに話し、夜中にお菓子を食べてたら見回りに来た担任に怒鳴られた話を不満そうに話し、大浦天主堂で見たステンドグラスの美しさをうっとりした表情で話した。一見したところ、いつもと同じ透子―――ただし、異様なまでのハイテンション。
 心の底からご機嫌なのだったら、問題はない。
 でも、そうではないことを、慎二は既に知っている。


 今から約1時間前―――やっとのことで「お帰り」とだけ声を掛けた慎二に、透子は無言のまま、玄関から即自分の部屋へと駆け込んでしまった。
 幸い、はるかは、泣いていたせいもあって透子の帰宅そのものにすら気づいていない様子だった。このまま放置はできないし、それ以上に今はるかと2人きりでいるのは気まずくて仕方ない。慎二は、はるかには悟られないよう2階に上がり、透子の部屋のドアをノックした。
 当然と言えば当然だが、返事はなかった。2、3度繰り返したが、やはり返事はない。
 諦めかけた時、ドアが開いた。
 「―――…」
 30センチほど開いたドアから顔を出した透子は、なんとも形容しがたい表情をしていた。慎二が覚悟していたような不機嫌な顔でも、嫌悪感を顕わにした顔でも、感情が昂ぶって今にも泣き出しそうな顔でもなかった。
 透子は、真っ直ぐに慎二の目を見据えていた―――まるで、慎二に何かを挑んでるみたいに。慎二の動揺や後ろめたさを見極めようとしているかのように、感情を奥底に隠した、揺るぎない目つきで。
 オニキスか何かに喩えられそうな大きな曇りのない瞳で見据えられると、慣れている慎二でも思わず息を呑み、立ち竦んでしまう。何か言わなくては、とようやく頭が働いた時には、透子は慎二の前をすり抜け、1階へと下りてしまっていた。
 「ごめーん、はるかさん。帰ってきて、玄関閉めたまま眠っちゃってたみたい」
 居間の方から、明るい声ではるかにそう言う透子の声が聞こえた。なるほど―――上手い誤魔化し方を考えたものだ。こういう時、透子の方が頭の回転は速い。透子が咄嗟に働かせた機転に、慎二は救われた気分になった。
 しかし―――…。


 「そうそう、私、昨日、生まれて初めて告白ってやつをされちゃった」
 あっけらかんとした透子の声に、お茶を飲んでいた慎二は一瞬むせそうになった。
 「ほー。物好きもいたもんだ」
 「…先生。いくらの軍艦巻きとバースデーケーキ、どっちを投げつけられたい?」
 「―――さりげなく被害の多そうなものを選んでるあたり、透子もなかなかやるな」
 「もうっ。透子ちゃん、叔父さんの天邪鬼なんて放っておいていいわよ。それより、どうなったの? 早く教えて」
 「うーん、どうもならなかった。ちょっとトラブル発生しちゃって、それどころじゃなくなったから」
 興味津々だったはるかは、それを聞いて、あからさまに落胆した顔になった。
 「なんだ、そうなの…。でも、工藤さんの言った通りね。透子ちゃんは顔も性格もイタズラ好きの子猫みたいだから、絶対モテる筈だって太鼓判押してたんだもの。ね? 工藤さん」
 「…そ…そうだね」
 むせそうになった影響で、喉が変に詰まる。誤魔化すような笑顔を作り、慎二はなんとかはるかに相槌を打った。
 「やだなぁ、私がいないとこで、そんな噂してんのぉ?」
 「むくれない、むくれない。工藤さんはシャイだから、面と向かって褒められないのよ。それより、その男の子、カッコよかった?」
 「カッコいいかどうかは、微妙かなぁ。オシャレな奴なのは間違いないけど。悪い気しなかったってことは、合格ラインかなー」

 超ご機嫌な様子で、えへへへ、と笑う透子に、慎二の暗澹たる気分は余計に増える。
 このハイテンションの後に手のつけようがないローテンションが待っていることは、想像に難くない。透子は、人前では気を遣ってもの凄く頑張る。落ち込みが酷ければ酷いほど、元気なフリをしてフル回転ではしゃいでしまう。そのつけが、1人になった時にどっと襲ってくるのだ。
 はるかがいる間は、何も波風立てたくない。透子ははるかに懐いてはいるが、甘えようとは決してしないから。
 はるかには悪いが、はるかの気持ちより透子の落ち込みの方が慎二には重要なのだ。とにかく無事にこの誕生パーティーを終えることだけを考え、慎二はひたすら無言で寿司を平らげていった。

***

 慎二の願いが無事届いたのか、寿司を囲んでのこじんまりしたパーティーは、何事もなく終わった。
 「…あの…、ありがとう、工藤さん」
 見送りに玄関に出た慎二に、はるかは躊躇いがちにそう言った。
 「ありがとう、って?」
 「その―――今日、ずっと引きずらずにいてくれて。正直言うと、私、透子ちゃんや叔父さんの前で普通にしてられるかどうか、ちょっと自信なかったの」
 食事中の快活な表情が嘘だったみたいなはるかの顔を見て、はるかもまた、あの後ずっと無理をしてテンションを保っていたのだと気づいた。
 迂闊なことに、透子の心配ばかりして、はるかにまで頭が回っていなかった。慎二は、少々罪悪感を覚えながら、ふわりと微笑んで首を振った。
 「気まずいのが苦手なだけだよ」
 「ん…、それでも、ありがとう」
 「…別に、いいよ」
 「―――待っていても、いいでしょう?」
 縋るような目つきでそう言われると、それは困る、という言葉はさすがに口にし難かった。かと言って、頷くことはもっとできない相談だ。
 困ったような様子で立ち尽くす慎二に、はるかは微かに笑みを浮かべると、慎二の返事を待たずにくるりと背を向けた。そして、小さな声で「おやすみなさい」とだけ言って、玄関の引き戸の向こうに消えた。


 居間に戻ると、既に透子の姿はなく、先生が一番風呂に入ろうとしているところだった。
 ふと見ると、慎二がさっきまで座っていた席のテーブルの上に、小さな包みが置いてあった。
 「先生、これ…」
 「ん? ああ、透子が置いていきおった。お前に渡そうにも、喋るのに忙しくて暇がなかったんだろう」
 俺も貰ったぞ、と先生が包みの中身とおぼしき絵葉書セットを掲げて見せる。どうやら、長崎の観光名所の写真が入った絵葉書のようだ。
 ぽつん、と置かれたそれは、慎二を拒絶しているようにも見えた。その一方で、これを持って訪ねてきて欲しい、と言っているようにも見えた。どちらにせよ、とるべき行動は1つしかない。慎二は、机の上の包みを掴むと、2階へと上がった。

 ―――やっぱり、それなりにショックだったのかなぁ…。
 階段を上りながら、ちょっと眉を寄せる。
 今時の17歳が、慎二が17歳だった時よりずっと進んでいるのは知っている。が、さっきの話からも想像できるとおり、透子は恋愛に関しては免疫ゼロのようだ。そんな状態で、いきなりあの場面に遭遇するのは、かなりヘヴィーな状況かもしれない。嫌われたかもな、と思うと、これまで懐かれていた分、余計に寂しさを覚える。
 …いや、それよりも。
 もっと気になっているのは、透子がいつからあそこにいたか、ということ。
 透子は、勘が鋭い上に好奇心が強い。特に慎二の過去については、普段あまりしつこく訊ねたりはしないものの、密かに興味を抱いているらしい。当然だろう。血縁でもない自分をいきなり尾道に引っ張ってきた正体不明の男の素性を知りたいと思うのは、当たり前過ぎる興味だ。
 日頃、決して口にしない話を、ほんの断片ではあるが、はるかに語ってしまった。
 透子は、どこまでのことを耳にしてしまっただろうか?
 聞かれてまずいことは、何も言っていないと思う。でも―――それを足掛かりに、透子が何に興味を持ち、何について追及してくるか分からない。それを思うと、ちょっと気が重かった。
 透子の部屋のドアを前にして、大きく溜め息をつく。躊躇っていても仕方ない。慎二は2回、ドアをノックした。

***

 「…透子。入るよ、いい?」
 遠慮がちな呼びかけに、静寂が返ってくる。が、やや間がありながらも、
 「―――いいよ」
 くぐもったような声が、なんとか返ってきた。
 ドアを開けてみると、透子は、ベッドの上で膝を抱え、何をするでもなくぼんやりしていた。声がくぐもって聞こえたのは、どうやら顔の下半分を膝頭に埋めてしまっているせいらしい。
 「透子、あの―――これ、ありがとう」
 長崎土産らしき包みを掲げてみせ、そう言う。透子は、目だけを慎二の方に向けて、それを一瞥した。そして、僅かに口元に笑みを浮かべると、抱えていた膝を伸ばし、ベッドに腰掛ける形に姿勢を変えた。
 「何にしていいか分からなくて、結局、長崎の“風景”を持ち帰ることにしたんだ。慎二も先生も長崎は行ったことないって言ってたから」
 「うん。実際に行った訳じゃなくても、イメージ広げる助けになるから、助かるよ」
 「そう。よかった」
 僅かながらも笑みが戻ったところに、無粋かもしれない。が、用件はさっさと済ませないとズルズル引っ張ってしまう。慎二は、意を決した。
 「あの…透子。さっき―――ごめん。変なとこ見せちゃって」
 「……」
 途端、透子の表情が曇った。その変化に怯みそうになるが、まだ話の肝心な部分に辿り着いていない。
 「透子。いつから、あそこにいたの?」
 「―――慎二が私に気づく、ほんとにちょっと前」
 「…そっか」
 ならば、話は何も聞いていないのかもしれない。少しホッとする。
 「―――慎二さぁ…」
 躊躇いを含んだように、少し歯切れの悪い口調。それでも、なるべく普通の雑談のようなムードを保ちたいらしく、透子は視線を逸らし、下ろした膝の位置を僅かにずらした。
 「はるかさんと、付き合うことにしたの?」
 「…えっ」
 「だって、さっき…してたじゃない。その、キス、を」
 「ああ―――うん。でも、付き合わないよ」
 その答えは、ある程度予想の範囲内だったのだろうか。透子は、視線を逸らしたまま、何かを堪えるように僅かに唇を引き結んだ。
 「…もしかして私に気を遣ってるんなら―――やめて。慎二はお兄さんでも父親でもないもん。ファザコンもブラコンもないから、遠慮しないではるかさんの気持ちに応えてあげてよ」
 「は?」
 「自分でも、分かってる。家族いない分、慎二にすっごく依存しすぎだって。はるかさんも、気にしてた。はるかさんが慎二のこと好きでいたら、私が嫌がるんじゃないかって。でも…でも、そんなこと、全然ないからっ」
 「―――それが本心だったら、なんでそんな顔してるの」
 予め用意していたセリフを、必死に読み上げているような顔だ。その自覚はちょっとあったのか、透子は更に視線を逸らし、慎二に背を向けようとするように膝を動かした。
 寂しがりの子猫が、寂しくなんかないもん、と意地を張ってるような姿だ。つい、口元が綻んでしまう。
 「だ…っ、だったら、なんでキスなんてしてたの? 普通、キスって恋人同士がするもんじゃないっ」
 「うん、でも―――あれは、頼まれただけだから」
 極素直にそう慎二が答えると、気まずそうに小さく動いていた膝がピタリと止まった。
 視線を慎二へと戻した透子は、驚いたように目を見開き、眉をひそめた。
 「頼まれた?」
 「ん…まあ、いろいろ、あって。やむなく誕生日祝いに」
 驚き一色だった透子の表情が、俄かに怒りの色を濃くする。顔だけではなく体全体を慎二の方に向け、透子は膝の上の拳をギュッと固めた。
 「…ちょっと、待って。慎二、はるかさんに対して、恋愛感情ないの?」
 「ないよ」
 「全く?」
 「ごめん、全く」
 「…はるかさんの気持ちは、知ってるんだよね?」
 「ああ…、うん」
 「知ってて、でも自分の方には恋愛感情ないのに、頼まれたからって、キスしちゃった訳?」
 「う…ん、その、泣かれちゃうと弱いんで」
 もうちょっと複雑な事情があるのだが、それを透子に説明する気はない。はるかの心境にかつての自分を重ねて同情してしまったことなど、説明したところで透子だって迷惑なだけだろう。
 しかし、透子には、そのあっさりし過ぎな説明が許せなかったらしい。憤慨したように顔を赤らめた透子は、突然立ち上がり、慎二に1歩詰め寄った。
 「な…何それっ。たとえ相手が好きじゃない女の子でも、泣いて頼まれたらキスできちゃうってこと?」
 「え? ええと…うーん、まぁ、キス位なら」
 「キス位、って―――酷い! そんな軽いもん!? キスって」
 ―――いや、そんなこと言われても。
 別に、こちらから好き好んでしたものではないし、はるかが縋るようにして望んだことなのだから、仕方ない。軽い気持ちでしたものではないし、頼まれればどんなケースでも、とまではさすがに言わない。透子の勢いに飲まれながらも、慎二は何とか反論を試みた。
 「いや、あの…オレだって、自発的にキスするんなら、恋愛感情ゼロではしないよ? でも、縋られちゃうとさ…そりゃ、嫌いな相手なら話は別だけど、そうじゃないなら―――同情しちゃったり、痛々しくて放っておけないって気持ちからOKしちゃうことも…」
 「でも、そんなの残酷じゃないのっ」
 「……」
 「いくら痛々しくても可哀想でも、想いに応えてあげられないのに中途半端に優しくするなんて…期待しちゃうじゃない、女の子の方は。残酷だよ」
 一瞬、ドキリとさせられる。
 残酷―――自分でもさっき、そう思ったから。
 まさか、何の経験もない透子から、こんな指摘をされるなんて。思いのほか大人な透子の考え方に、ちょっとうろたえてしまう。
 「やっぱり、信じられない」
 憤りは、言葉で吐き出した分は収まったらしい。透子は、少し声のトーンを落とし、ぷいっとそっぽを向いた。
 「慎二が、よく知ってるはるかさん相手に、付き合う気ゼロでキスに応じるなんて、やっぱり信じられない。全然知らない相手とその場のノリで、って言われた方がまだ信じられる」
 「うーん…でも、事実、付き合う気ないし」
 「私だったら絶対できないっ」
 「…ごめん。オレ、きっと、10年長く生きてる分だけ、透子より純粋さ足りないんだよ」
 少なくとも、透子のように、キス1つにそこまでの思い入れは持てない。年齢の問題かどうかは、少々怪しいが。でも、透子は、慎二の言葉を“子供扱いした発言”と取ったらしく、むっとしたように慎二を軽く睨み上げ、唇を尖らせた。
 「何それっ。大人になると、その場しのぎのキスも平気でできるようになる、って言いたい訳?」
 「そ、その場…。ま、まぁ、要約すれば、それに近い、かな」
 「ふーん。じゃあ、私にもできる?」

 サラリと、飛び出した言葉。
 その刹那、慎二と透子の間にある空気が、一瞬だけ止まった気がした。
 は? という顔をする慎二の前で、その言葉を口にした当人も、自分で自分の言葉に驚いたように、一瞬目を見開き息を呑んだ。
 しかし透子は、その言葉を撤回はしなかった。狼狽したような色合いを即座に掻き消すと、どことなく挑戦的な目つきで、慎二の目をしっかりと見据えてきた。
 「嫌いな子じゃなければ、恋愛感情抜きにキスすることができるんでしょ? だったら、私にしてみせて。そしたら、信じるよ。私に気を遣ってはるかさんと付き合わない訳じゃない、って」

 唖然。
 言葉が出てこない。
 口の端を強気につり上げて見せる透子の表情は、「ホラ、出来ないでしょ」というセリフを用意しているに違いない表情だ。透子のこういう部分は実は嫌いではなかったりする慎二なのだが…。
 ―――危ないなぁ…。オレなら真に受けたりしないけど、言葉をそのまんま受け取っちゃう同級生なんか相手だったら、冗談でした、じゃ済まないっていうのに。

 はぁ、と溜め息をついた慎二は、右手を透子の肩に置くと、左手を透子の顎に添え、上を向かせた。
 途端―――透子の顔から、挑戦的な笑みが消えた。
 「……っ」
 手を置いた肩が、緊張に一気に強張る。でも、動揺で瞳をグラグラ揺らしながらも、一歩も引かずにギリギリのところで堪えている辺りは、やっぱり透子らしい。つい、笑いがこみ上げてきてしまうのを噛み殺しながら、慎二は身を屈め、透子にキスをするようにそっと顔を近づけた。
 グラグラしてた目が、もう限界を超えたのか、ぎゅっときつく閉じられる。今すぐ突き飛ばすなり謝るなり拒絶の言葉を吐くなりすればいいのに―――多分、頭が真っ白で、何も思い浮かばないのだろう。それとも、このぐらい平気だ、と背伸びして見せたい気持ちの方が勝っているのか。とにかく、慎二の手の内で微かに震えている透子は、計算外の展開に動揺しきっていながらも、白旗を揚げるタイミングを完全に逸して途方に暮れてるように見えた。
 ―――ホントに、面白い。
 堪え切れず、小さく笑いを漏らすと、慎二は透子の唇に触れるまであと数センチ、というところで僅かに唇を逸らした。
 透子の左頬に、軽くキスを落とす。
 ものの1秒で離したが、唇で触れた頬は、血が上っているせいか、驚くほど熱かった。
 「…っ、バ、バカっ!!」
 遅ればせながら、慎二の胸に手をついて距離を取った透子は、真っ赤になった頬をもう片方の手で覆い、慎二を睨み上げた。その顔を見たら、余計に笑いがこみ上げてきてしまう。
 「なんで? 透子の言う通りにしたのに」
 「…ち…違うじゃないっ。はるかさんの時は、頬じゃなかったでしょっ」
 この期に及んで、まだそんな虚勢を張っている。頬にキスしただけでこの狼狽振りなのに―――全く。
 苦笑した慎二は、透子の頭に手を乗せると、くしゃくしゃと掻き混ぜるように撫でた。まるで、毛を逆立てて食ってかかってくる猫を宥めている気分だ。
 「だって透子、ファーストキスもまだだろ?」
 「……」
 「この先、どれだけのキスを経験するか分からないけど―――最初くらい、透子が本当に好きな奴にしなよ。やっぱりここは、特別な意味のある場所だから」
 指先だけ、透子の唇に触れさせる。すると透子は、戸惑ったように、怯えたように、僅かに身を捩って視線を逸らした。
 そんな透子を見下ろしていた時―――慎二の脳裏に、唐突にあるセリフが甦ってきた。


 『…唇は、ダメだって。いつか好きになる奴のために取っておけ、って―――そう、言われた』
 ―――酷いよね。
 他の人なんて、要らないのに。


 「―――…」
 慎二が知らない“彼”が、“彼女”に告げたというセリフ。
 恐ろしいほどにリンクする自分の言葉に、なんだか得体の知れない不安を覚える。
 慎二は、透子の唇に触れた指を慌てて引っ込め、甦った言葉を頭から追い払った。また、逃げるつもりなのか―――弱い自分を、そう罵りながら。


***


 バス停から校門へと向かう途中だった透子の肩を、誰かがポン、と叩いた。
 「透子。おはよう」
 振り向くとそこに、昨日よりは幾分すっきりした表情をした真奈美が、笑顔で立っていた。
 「おはよ。…どう? 少しは落ち着いた?」
 「うん―――まだ、ちょっと引きずってるけど、少しはマシになった」
 いつも三つ編みにしている長い髪を、今日は珍しくポニーテールにしている。真奈美なりの気分転換なのだろう。昨日、修学旅行の帰りに見た陰鬱な表情からすれば、格段の進歩だ。
 「あのね。透子に言われたこと…あたし、一晩中考えてたの」
 透子に並んで歩き出しながら、真奈美はぽつりぽつりと、自分の思いを確かめるように話し出した。
 「最初は、反感しか覚えなかったんだけど―――1人になって、ゆっくり丁寧に考えていったらね。確かに、そうかもしれない、って思った。…小林君の態度、冷たすぎるって思うけど、でも―――うん。もしあそこで、中途半端に優しくされてたら、あたし、絶対引きずってた」
 「…そう」
 「中2からの片思いだもん…あの位、救いようがないほどに振られなきゃ、思い切れないかもしれない。まだ思い切れてないけど…大丈夫。きっと、諦めることできると思う」
 「……」
 真奈美の横顔を一瞥した透子は、再び目を前に向け、じわじわと湧いてくる形容しがたいものに微かに眉を寄せた。

 『想いに応えてあげられないのに中途半端に優しくするなんて…期待しちゃうじゃない、女の子の方は。残酷だよ』
 そう―――あの時透子は、はるかに真奈美の姿を重ねていた。
 荘太に突っぱねられて、傷ついてボロボロ泣く真奈美を見ていて、最初に湧いてきたのは怒りだった。実際、荘太自身も言っていたように、頭にきていた荘太の態度は必要以上に冷たかったのだと思う。でも…その「キレてしまった部分」を差し引いても、もう少し優しく、やんわりと振ることは出来ないのか、と腹が立った。
 けれど―――荘太を見ていたら、その考えが変わった。
 絶対に、負けない。そう宣言して、鋭い目でどこかを見つめていた荘太は、日頃の悪ガキお気楽な荘太ではなかった。あの状態の荘太を覆すことは、誰にもできない―――古坂が悟ったことを、透子も悟った。
 それならば、一縷の望みもない位に振ってくれた方が、いいかもしれない。
 中途半端な優しさを見せられたら、諦められなくなる。忘れるしかないものを、忘れられなくなる。荘太の振り方は、態度こそ問題があったかもしれないが、悪役に徹した分、むしろ優しい対応だったのかもしれない。

 そんなことを、真奈美と市内観光を回っている間、ずっと思っていたから。
 だから、余計に、嫌だった。慎二がはるかの望みに応えてしまったことが。

 「…透子?」
 「―――えっ」
 訝しげな真奈美の声に、透子は我にかえり、慌てて真奈美の方を見た。
 「大丈夫? なんか、変よ。今日の透子」
 心配げな顔をする真奈美に、焦る。変だ―――今日の自分は。それは誰よりも透子自身が思っていることだから。
 「な…なんでも、ないよ」
 「本当に?」
 「うん。ほら、今日、数学の小テストが返ってくるじゃない。不調だったテストだから、ちょっと気が重くなってただけ」
 「やだぁ…嫌なこと思い出させないでよ」
 「あはは、ごめん」
 ほんとは小テストの話なんて、今この瞬間まで脳裏を掠めもしなかった。が、それを気取られる訳にはいかないので、ひたすら笑顔で誤魔化す。と、その時。
 「おっはよーっ」
 誤魔化し笑いをしていた透子の後頭部を、誰かがばしっと叩いた。
 勢いで前につんのめった透子は、くっと踏み止まりながら、朝っぱらから異常なまでに元気なこの闖入者の正体を見極めるべく、背後振り返った。
 案の定、荘太だった。
 「安藤も、おっはよっ」
 荘太はそう言って、透子の頭を叩いたよりは弱い力で、真奈美の背中を叩いた。よろめいた真奈美は、屈託なく笑って透子と真奈美を追い抜いていく荘太を、びっくりしたような顔をして見送った。
 「バカッ! 女の子に暴力振るうなっ!」
 「ハハッ、硬いこと言うなって!」
 透子が眉を上げて怒鳴ると、既にかなり前の方を走っていた荘太は、走りながら振り返り、そう返してきた。
 ―――さすが…。
 勿論、あの荘太の行動が、真奈美との間にできてしまったわだかまりを解くためのものであること位、透子もお見通しだ。呆気にとられていた真奈美が可笑しそうにくすくす笑うのを見て、荘太って凄いなぁ、と透子は感心せずにはいられなかった。

 ―――慎二は、あんな芸当、持ち合わせてないよね。
 …大丈夫なのかな。あんな事があったのに、はるかさんとこの先、普通に接していけるのかな。

 また、そこに考えが及んでしまう。無意識のうちに、透子は左手で、左の頬に触れていた。


 昨日見た、あの場面。
 何故、ショックだったのか、正直なことを言うと、実はよく分からない。
 でも―――目にしたものよりもっと、心を抉ったものがある。…それは、偶然耳にしてしまった、慎二の言葉。


 『はるかさんとキスしても、きっと忘れる。ごめん…誓ったから。もう誰のキスも覚えないって。忘れないために』


 慎二に、訊ねたかった。この言葉の意味を。けれど…何も聞いていないふりをした。漠然とではあるけれど、察していたから。そこに潜むものの正体を。

 誓ったから―――“彼女”に。
 もう誰のキスも、覚えない―――“彼女”以外のキスは。
 忘れないために―――“彼女”とのキスが、どんな感触だったかを。


 「…はるかさんの方が、まだマシだったな…」
 思わず、隣にいる真奈美の存在も忘れて、呟く。真奈美が不思議そうな目を向けてきたが、そのことにすら透子は気づかなかった。
 気持ちを逆撫でされ、苛立ち、不安に苛まれるのであれば、はるか相手の方が、まだマシだと思った―――正体の見えない“彼女”よりは。
 ―――ああ、やだやだ。もう考えたくない。
 慎二だけでなく自分までをも侵食し始めているその名前を追い払うように、透子は目を伏せ、鞄を持つ手に力をこめた。また無意識のうちに頬に触れてしまう。指先に触れる頬が、なんだか熱を帯びている気がした。


 頬に残る、昨日までは未知だったものの感触。
 それを思い出すと、何故か―――どうしようもなく、胸が苦しかった。


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