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07

: その想いの名前 (4)

 いろんな人が、通り過ぎる。
 赤い服を着た人、鼠色のスーツを着た人、男、女、大人、子供―――人、人、人、人間で、狭い世界はぎゅうぎゅう詰めになっている。
 ここにこうして座っていると、自分が路傍の石になったような気分になる。ここは、天国―――それでいて、地獄。誰にも束縛されず、誰をも束縛せず、誰にも束縛してもらえず、誰を束縛することもできない。多分、オレは、何か足りないまんまで大きくなってしまったんだと思う。だから時々、幽霊みたいに見えなくなるんだ。

 誰か。
 見えないの? オレのこと。

 気づいてよ―――オレ、ここにいるんだよ。


 「…ちょっと、キミ。中学生? 高校生? 何してんの、平日のこんな時間に」
 「―――幽霊ごっこ」
 「あっは…ヘンな子ね。暇してるの? それなら、ちょっと付き合わない?」
 「どこに?」
 「どこでも。食事でも、ゲームセンターでも、何でも付き合うわよ? キミはどこに行きたい?」
 「別に、ないなぁ…。お姉さんが行きたいとこ、どこでも行くよ」
 「どこでも?」
 「うん、どこでも」
 「…もしかして、今、すっごくイケナイこと考えてない?」
 「あはは、なんだろね、すっごくイケナイことって」
 「…ねぇ、キミって、なんでそんなにふわふわ微笑むの? こんなとこで幽霊ごっこしてて、幸せ?」
 「幸せだよ」
 ―――だって、気づいてもらえたから。オレが、ここに、いるって。
 「どこでも付き合うよ―――天国でも、地獄でも」


 オレに気がついて、足を止めてくれた人たち。
 屋台でラーメンを奢ってくれた女の人、ゲームセンターに3日間通い詰めた同世代の男の子、自宅に連れてって2時間も説教してくれた老人、バイト先を紹介してくれた親切な男の人、掌の熱で半ば融けてしまった飴玉をくれた小さな女の子。
 一緒に映画を見た人、ロックを聴いた人、優しいキスをした人、温もりを求めて体を重ねた人。
 みんなみんなみんな―――どこに行ってしまったんだろう?
 不思議だ。
 今、誰も、傍にいないなんて。


 「…なんだ、こんな所にいたのか。ほら、もう遅いから帰ろう? …え? …ああ、ほんとだ。凄い夕焼けだなぁ…。ハハハ、その真っ赤な絵、何かと思ったら、夕焼けを描いてたのか。お前ってほんと、絵を描き始めると時間も場所もすっとんじゃうんだなぁ…」
 …お前って、こんな世の中じゃ、生きてくのが大変そうだよな。
 だからそうやって、いつもすぐ逃げ出すんだ。綺麗なもの、楽しいもの、優しいものを追いかけて。
 でも、大丈夫―――俺は、お前がどこに行っても、いつも必ず見つけてやれるから。子供の頃、かくれんぼしても、必ずお前のこと見つけたもんな?


 誰よりも、オレを見つけるのが上手かった兄貴。
 兄貴は、どこに行ってしまったんだろう?


 …誰か、気づいてよ。
 オレ、ここにいるんだよ―――…。


***


 「しんじー」
 がさがさと枯葉を踏む音を立てながら、透子は慎二を探して、トレッキングコースをうろうろしていた。
 ―――もう、すぐいなくなっちゃうんだから。
 前にこのトレッキングコースに森林浴しに来た時も、はぐれてしまった。周囲の景色にばかり気をとられている透子は、慎二が立ち止まっても気づかず、そのままスタスタ歩いて行ってしまうことが多い。そして、暫くしてからやっと、慎二がいないことに気づくのだ。
 既に11月も終わり―――夏場はトレッキング客で結構賑わっていたこの森も、歩いていてもすれ違う人はほとんどいない状態だ。特別紅葉が綺麗な訳でもないから、寒さを我慢してまで来る人は滅多にいないのだろう。でも、かえって人が少なくて良かったかもしれない―――透子はそう思い、冬でも色あせない常緑樹の枝々を見上げた。


 修学旅行から2ヵ月。非常に慌しい日々だった。
 秋はイベントだらけだ。体育祭に文化祭…去年も忙しいと思ったが、修学旅行があった分、今年は更に慌しい感じだった。
 体育祭では、荘太を配する5組に学年1位を奪われ、透子たち3組は2位に甘んじた。雪辱を誓って挑んだ文化祭の「創作オブジェ合戦」は、見事1位を奪取した。絵画一家に身を寄せている、というだけで創作責任者に選ばれてしまった透子は、つい数日前終わった文化祭までの1ヶ月余り、休日も慎二や先生にアイディアを授けてもらったりと相当忙しかった。そうして秋のイベント群が終わった今、やっと晩秋を楽しむだけの時間ができた、という訳だ。
 秋の忙しさは、透子にとっては好都合だった。
 夏、“たえこ”という名前を初めて耳にしてからずっと、透子の中には何とも言い難い不安のようなものが巣食っている。そして、修学旅行から帰った日以降、その不安は別のものに形を次第に変え始め、ますます透子を侵食している。
 予想外に何ら気まずさを感じさせずに普通に接している慎二とはるかを見ていると、その“何か”は余計に膨らみ、透子を押し潰そうとする。その圧力に負けたくなくて、透子は極力、はるかの前では笑顔でいようと努力するようになった。いや…正確に言うならば、はるかの前では、努力をしないと笑顔ではいられなくなったのだ。
 そして、初めて体験した、頬へのキス―――その記憶は、妙な浮遊感とどうしようもない寂しさ、2つの矛盾する気持ちとなって、透子を今も苛んでいた。胸のざわめきを感じては、ただ慎二にからかわれただけなのにバカみたい、と自分に嫌気がさすし、体の奥底が凍りつくような寂しさを感じては、一体何が寂しいのか分からず混乱する―――その繰り返しだ。

 忙しければ、余計なことを考えずに済む。
 はるかに対する想いも、慎二に対する想いも、日々の雑事に紛れてどこかへ追いやれる。正体を見極める暇もないまま、このまま消えていってしまわないかな、なんてことを考える。そんな訳ないと分かっていながら。


 ―――人がいない方が、かえって無心になれて、何も考えずに済むこともあるんだなぁ…。
 風が枝を揺らす音と、姿の見えない鳥の鳴き声を耳にしながら、透子はほっと息をついた。慎二に「期末試験前の気分転換に、どう?」と誘われた時はちょっと迷ったが、来て良かったと思う。
 と、その時、トレッキングコースを僅かに外れたところにある木の根元に、見覚えのあるウインドブレーカーの色を見つけた。
 「―――…あ」
 間違いない。慎二だ。くすっと笑った透子は、木の根元に座って空を見上げている慎二の方へと、足音を忍ばせるようにして近づいた。
 「みぃつけたっ」
 「わっ!」
 突然声を掛けられ、慎二はビックリしたように声を上げた。
 慌てて透子の方に視線を向け、それが透子であると分かった途端ホッとしたような顔をする慎二を見たら、はぐれてしまった時の心細さや、すぐいなくなる慎二に対する憤りが一瞬にして消えた。なんだか、おかしい―――つい、笑いが漏れてしまう。
 「もぉ、慎二ってすぐどっか行っちゃうんだもん。困るよ」
 「あ…ああ、ごめん。声掛ければよかったんだよな。つい…」
 「何見てたの?」
 「ん? あれ」
 慎二が、斜め上を指差す。が、ちょうど逆光に遮られて何を指差しているのか分からず、透子は目を細めた。
 どうせなら、と思い、慎二の隣に同じように腰を下ろしてみた。そのまま指が指す方角を見上げると―――茶色や黄色に枯れている葉っぱに混じって、1枚だけ、真っ赤に色づいた葉が枝の先に残っていた。
 「1枚だけ、綺麗だね」
 「うん―――不思議だよなぁ、なんであれだけ、枯れずに残ってるんだろう」
 呟くようにそう言うと、慎二はまた、その1枚だけの紅葉に魅せられたみたいに、黙って斜め上を見つめた。透子も、それにつられるように、斜め上に目を向ける。
 慎二って不思議な人だなぁ、と、時々思う。
 コンクリートジャングルな東京に生まれ育っている筈なのに、慎二を見ていると何故か、風とか緑とか空とか、そんなものを思い出す。都会の喧騒も、せちがらい世相も、痛ましい事故、耳を覆いたくなる残虐な事件…全部、慎二とは無縁な気がする。自分よりずっと年上だし、実際、いざとなったら透子なんて及びもつかないような大人な判断が出来る人なのに―――こんな時、慎二が、純粋さの塊みたいな子供に見える。
 10年長く生きてる分、純粋さが足りないのかもしれない、と慎二は言った。はるかに対する態度や、自分にしたあのからかうようなキスからも、慎二が決して純心なだけの人生を送ってきた訳じゃないのは想像できる。きっと、沢山の女の人を知っていて、恋に傷ついたり傷つけたりしてきたんだろうな―――そんなムードは、なんとなく感じる。なのに―――…。
 「…ねぇ、慎二」
 「ん?」
 「慎二って、どんな子供だった?」
 唐突な質問に、慎二は視線を透子に移し、目を丸くした。
 「何、急に」
 「うん…ほら、前に先生も言ってたじゃない。高校時代の慎二ってよく行方不明になってた、って。もっと小さい頃って、どうだったのかな、って」
 「うーん…やっぱり行方不明になってたなぁ、よく」
 慎二はそう言うと、投げ出していた膝を引き寄せ、両腕で抱えた。その膝の上に頬杖をつき、ぼんやりと宙を眺める。
 「子供の頃のオレって、ちょっと普通とズレてたらしくて…他の子供にはどうでもいいもんにのめりこんじゃって、他の子供にとって大事なことや、勉強とか集団行動とかには無頓着―――そんな子供だったらしいよ」
 「他の子供にはどうでもいいもの、って?」
 「んー…、車のタイヤの跡をずっと辿って行って迷子になったり、雲の形が変わるのが面白くて朝から晩まで見てたり…」
 「…慎二、もしかして“不思議君”とかあだ名付けられてなかった?」
 「あだ名はされてなかったけど、よく“変わってるね”とは言われたかな」
 パラリ、と、落ち葉が慎二の髪に落ちる。微かな感触でそれに気づいた慎二は、落ち葉を指で摘み上げると、それを目の前でなんとなく弄び始めた。
 「特に、季節はね―――オレが生まれ育った所は、お世辞にも緑豊かとは言えない所でさ。四季を感じるのは気温だけ、って感じだったんだ。そんな中で、季節を見つけると―――コンクリートの隙間から顔出してるタンポポとか、街路樹の葉っぱの色の違いとか、窓ガラスについた霜とか…そんなものを見つけると、じっとしていられなくなくてさ。やらなきゃいけないことも忘れて、それに没頭しちゃう子供だったんだよ」
 「ふぅん…でも、面白い。芸術家肌だったのかな、子供の頃から」
 少し感心したようなニュアンスを含んだ透子の言葉に、慎二は可笑しそうに笑った。
 「あはははは、そう言うと、ちょっとカッコイイけどね。友達からは妙な奴って思われるし、先生からも叱られてばかりだし―――大人になっても、進学も就職も興味持てなくてフラフラしてたし。あんまりいい事なかったよ」
 「大人になっても、かぁ…」
 そう言いながら、透子は、さっき慎二が見ていた色づいた葉を見上げた。

 じゃあ高校時代も、そういう季節を感じるものを探しに学校を抜け出していたの? とは、何故か訊けなかった。
 慎二は、高校より後の話は、ほとんど透子に話さない。学校生活の断片的な話は、先生がいるから時々話題に上る。が、それ以外の話は―――たとえば、学校を抜け出してどこに行っていたのか、とか、兄の死後ずっと病気だという母親の話、同じ東京にいながら家を出た事情とか―――そういう話は、一切語らない。
 きっと、あまり人には語れないものがそこにあるのだろう、と、透子はなんとなく感じている。
 慎二はいつだって、ふわふわと柔らかで静かで穏やかで、優しい。けれど―――極たまに、不思議な影を感じる時がある。例の“たえこ”がそうだし、家族の話をする時がそうだし…。そういう時、下手をしたら透子より純心なままの子供が、透子より10歳年上の大人の男に見える。そのことが、なんとなく不安で、なんとなく寂しい。

 ―――でも…あの葉っぱに見惚れてたってことは、今も“不思議君”な慎二は、やっぱりこの中にいるんだよね…。
 慎二の横顔に視線を移し、心の中でそう呟く。その呟きが聞こえたみたいに、慎二も透子の方を向いた。
 「何?」
 「うん…やっぱり慎二って、芸術家なんだなぁ、と思って」
 「ハハ、そうかな」
 「うん。だから、大人になった分、きっと生きてくのが大変だろうなあ、って思ったの」
 感じたままを素直に、何気なく口にした言葉。
 なのに、慎二は、その一言を耳にした途端、驚いたように目を丸くし、透子の顔を凝視した。
 信じられないものでも見るみたいに自分の顔を見つめる慎二に、透子も驚いたような顔になってしまう。ドギマギする心臓を宥めるように胸に手を置き、思わず少し座る位置をずらして慎二から距離を取ってしまった。
 「な…っ、何? なんでそんな顔するの」
 「―――あ…ああ、ごめん」
 あまりにも不躾に見つめ過ぎたと気づいた慎二は、慌てて目を逸らし、弄んでいた落ち葉に視線を戻した。
 「ごめん。ただ―――兄貴に昔、同じこと言われたからさ」
 「…えっ」
 慎二の指先から、落ち葉がひらりと地面に落ちた。それを目で追いながら、慎二はふっと笑った。
 「…不思議だな。さっき、透子が声掛けるまで、兄貴の事思い出してた」
 「……」
 「―――女の子って、かくれんぼとか、やるのかな」
 唐突に、話が変わる。戸惑いながらも、透子は子供の頃の記憶を辿った。
 「え…っと、うん、やったよ、それなりに。あんまり得意じゃなかったけど」
 「得意じゃなかった?」
 「うん。鬼が目の前を通り過ぎるとね、我慢できなくて思わずクスクス笑っちゃって、それで見つかっちゃってたの。だから、友達に“今日は何して遊ぶ?”って訊かれたら、絶対かくれんぼとは答えなかったような記憶がある」
 「あはは、透子らしいな」
 地面に落ちた落ち葉を見つめたまま、慎二が楽しげに笑う。
 「オレは、得意だったよ、かくれんぼ」
 「……」
 「じゃんけん強いから、鬼にはまずならないし。一度隠れると、誰も見つけられない。そうして、ずっとずっと、誰も見つけてくれないとさ―――そのうちオレも、かくれんぼしてる事自体、忘れちゃうんだよな」
 すぐに見つけられてしまう透子には、見つけてくれるのをじっと待ち続けた体験など全くない。もし自分が、いつまでたっても見つけてもらえなかったら―――そんな光景を想像したら、何故か、切なくなった。
 「兄貴だけは、オレを見つけるのの名人だったよなぁ…」
 懐かしげな声で、そう呟いて。
 沈黙が、流れる。ザワザワと、風が木々の枝を揺らす音だけが暫し続いた。
 「―――っと、いけない。そろそろ行こうか」
 風の冷たさに、時間の経過を感じとったのか、慎二は突然そう言うと、おもむろに立ち上がってGパンについた落ち葉や土を叩き落した。
 当然のように、透子に手が差し出される。その手に掴まって、透子も立ち上がった。

 ―――きっと…お兄さんが、一番の慎二の理解者だったんだろうな…。
 慎二の背中を追うように歩き出しながら、透子はそう思った。

 一瞬だけ見えた、透子の知らない慎二の顔―――それは、兄を失って、誰にも見つけてもらえなくなってしまった、ちょっと寂しそうな子供の顔だった。

***

 「クリスマス・イブ??」
 「そう」
 目の前でニコニコ笑う山本は、怪訝そうにする透子に大きく頷いてみせた。
 修学旅行で透子を誘ってきた山本は、その後もちょくちょく、透子にいろんな誘いをかけてきた。けれど、透子は忙しさを理由にその全てを断っていた。
 けれど、本当の理由は忙しさではない。透子の中の恋愛観が180度変わってしまったことが理由だった。

 色々あった、修学旅行―――あの時目の当たりにしてしまった、荘太の、真奈美の、そして古坂の想い。透子が想像していたよりもずっと、その想いは真剣で、情熱的で、真っ直ぐだった。
 荘太にふられた形になる真奈美は、その後も陸上部の見学にちゃんと通っているし、荘太は前より控え目に真奈美の応援に応えている。そして必ず、古坂に「相手してやれ」という風な視線を向け、背中を押す。照れたような笑みを見せつつ、古坂は真奈美に色々と声を掛けたりする。けれど、まだ想いを伝えてはいない―――今伝えたら、弱みにつけこむみたいで嫌なのだそうだ。
 人を好きになるって、あんなに大変なものだったんだ―――そう思ったら、軽い気持ちでOKなど出来なくなった。山本がそこまで真剣に自分を好きだとは思えないが、それでも。

 「ほら、イブの日なら、もう学校も終わってるし、冬休みは結構暇でしょ。だから、映画でも一緒にどうかなー、と思って」
 「……」
 ―――にしたって、何でよりによってクリスマス・イブ?
 勿論、カップルのためにあるようなその日を選んだのは、彼なりの演出なのだろう―――初デートという記念すべき日のための。勿論、その先に待っているのは「やっぱり付き合えません」かもしれないが、ロマンチックに事を運んだ方がいいと勝手に思っているのかもしれない。透子からすれば、そういうわざとらしい演出はむしろ逆効果なのだが…。
 「何か予定でも入ってるの?」
 「え…ううん、夕方からバイトはあるけど、他は別に何も…」
 「じゃーいいじゃない。映画見て、昼食べて、その辺ぶらついて。ねっ」
 「ねっ、って…うーん…」
 確かに、問題はない。バイトは4時から―――十分時間はあるし、映画や食事程度を一緒できない程、山本を嫌いな訳じゃない。これまで何度も誘いを断ってきたんだから、1回位付き合ってやった方がいいような気もする。でも―――…。
 「頼むよ〜、オレ、こんだけ待ったのって、井上さんが初めてだよ? 1回位折れてよ」
 本気なのか冗談なのか、そんなことを言われて。
 透子は、断る言葉を見つけられなかった。

 

 「ええっ! や、山本君と!?」
 真奈美の箸から、ちょうど摘みあげていた里芋が転がり落ちた。
 「ああっ、何やってんの、真奈っ。もったいないー」
 「えっ、あ、ほんとだ…。ご、ごめんね。ちょっとビックリしちゃって…」
 慌てて里芋をティッシュで包む透子に、真奈美も箸を置いて机の上を拭いたりした。バタバタしながら、チラリと透子の表情を窺うが、デートに誘われたと言う割にはちっとも楽しそうな顔ではなかった。
 「…ね、ねぇ…透子。どうしてOKしちゃったの?」
 その表情が気になって真奈美がそう訊ねると、透子は、つまらなそうな表情のまま、小さく溜め息をついた。
 「だって、断る理由が、どう頑張っても見つからなかったんだもん…。山本君、今まで何度も誘ってたんだし、忙しいって言って断ってたけど、今は暇だし。映画見たり食事する程度なら別に問題ないし、遠慮しなきゃいけない相手も残念ながらいないし。それに…ちょっと、色々考えもあるし」
 「……」
 色々、の内容を、透子は口にしない。けれど―――透子と2年近く付き合ってきた真奈美には、透子の脳裏に今何が浮かんでいるのか、おぼろげではあるが見える気がした。
 「修学旅行から数えて、もう3ヶ月だもんねぇ…よく頑張ったね、てことで、1回位折れてみようかな、と」
 「…でも…山本君って、遊んでそうに見えない? 大丈夫かな…」
 「大丈夫。ヘンなとこに連れ込もうとするようなら、容赦なくその辺の物で1発かまして逃げるから」
 透子なら、やりかねない―――そう思ってくすっと笑った真奈美だったが、ふとあることが心配になって、思わず眉をひそめた。
 「あの―――その話、小林君には、した?」
 おずおずと訊ねる真奈美に、透子はキョトンと目を丸くした。
 「荘太? ううん、まだだけど?」
 「…じゃあ、小林君には、話さない方がいいと思う…」
 「は? なんで?」
 「う、うん…どうしても。きっと怒ると思うし、ね」
 「…何それぇ…。私の個人的な問題じゃない。なんで荘太に怒られなきゃいけないの」
 「え、えーと…だ、だから、ホラ、小林君って硬派だから。フラフラ付いてくなーって怒るんじゃないかな、って。そうなったら透子も気分悪いでしょう? ね?」
 「うーん…それもそうだなぁ」
 おにぎりをパクつく透子は、そういうシーンを頭の中に思い描いたのだろう、不愉快そうに眉を顰めてそう言った。それを見て、真奈美は内心、ほっと胸を撫で下ろした。口から出まかせに近かったが、透子の頭の中では矛盾した話ではなかったらしい。
 本当は、ただ単に、荘太を傷つけたくなかっただけだ。山本はどの道、振られる運命にあるだろう。でも…それでも、きっと荘太はイラつき、ハラハラするだろう。透子が何も気づいてないから―――そう、自分自身の気持ちにさえ。

 『余計な手出しすんなよっ。これは俺の勝負なんだから。いくらあいつの友達だからって余計な真似したら、友達もやめるからなっ』

 ―――ごめんね…小林君。
 きっと小林君、これも“余計な真似”だって言うよね。

 やや不機嫌気味な顔のままお弁当を食べ続ける透子を眺めながら、真奈美は密かに、荘太にそう詫びた。
 3ヶ月前の失恋の痛みは、まだ真奈美の胸の奥底で燻っている。分かっていたけれど―――荘太の目が誰を見ているかは分かっていたけれど、もう1パーセントの可能性もなくなった恋に、いまだに時々、涙が出てくる。
 けれど、もう、決めている。
 まだ、恋心は残っていても…自分は、他の誰でもない、荘太の応援をしよう、と。
 何故なら、真奈美自身が一番、惹かれているから―――憧れているから。荘太と透子、よく似た輝きを持っている2人に。

 ―――どうして…ドラマや漫画みたいに、相思相愛とはいかないのかな…現実の恋って。
 実らなかった自分の恋と、じれった過ぎる荘太の恋を思って、無言で箸を進める真奈美はちょっと切ない気持ちになった。


***


 ―――まだ2時かぁ…。
 バイトまでの2時間が、たまらなく苦痛だ。腕時計を確認した透子は、気づかれないように小さな溜め息をついた。
 「あ、そろそろ出ようか? ウィンドーショッピングでもする?」
 昼食のためのレストランに入ってから、既に結構経つ。互いの飲み物も底をついたと気づいたらしく、山本はそう言って席を立った。ウィンドーショッピングは嫌いではないが、異性と一緒というのは落ち着かなくて嫌いだ。でも、代案も思い浮かばないので、透子は仕方なく頷いた。
 「え、いいよ、私の分は私が払うから」
 透子の分まで払おうとする山本を見て、透子は慌てて伝票をひったくろうとした。が、山本は苦笑を返して伝票を透子の背では届かない高さに掲げてしまった。
 「ダメダメ、一応、オレが誘ったデートなんだから。女の子は黙って奢られてればいいの」
 「…なんか、ヤダ。そんなの」
 「まーいーじゃない。ちょっとはいいカッコさせてよ」
 奢られると分かっていれば、もっと安いものを頼んだのに―――結局、映画のチケットも奢られたし。なんだか、奢られれば奢られるほどに見返りを要求されそうで怖い。まだ付き合ってもいないのに、恋人みたいな真似はやめて欲しい。
 ―――やっぱり、ダメだなぁ、私は…。
 山本と微妙な距離を保ちながら歩き出し、透子は予想通りな自分の心境に、また溜め息をついた。
 普通の女の子は、こうして奢られたり優しくされたりして、結構気分よく過ごせるのかもしれない。実際、映画は面白かったし、ランチは美味しかったし、山本の会話はテンポが良くていかにも女の子に受けそうだ。デート慣れしてるんだな、と思う。
 でも、どうしてもダメだ。楽しまなきゃと思えば思うほど、心が冷めていく。
 捻くれ者なのかなぁ―――と、自分で自分に呆れてしまうが、どうしようもない。
 「あー、随分冷え込んでるなぁ…。井上さん、寒くない? 手袋貸そうか」
 曇り空を見上げてそう言う山本に、透子は微笑を浮かべて首を振った。
 ―――そう、普通はこういう風に、手袋貸そうか、ってなるんだよね。
 間違っても、悴んでる手を有無を言わさず掴んで、自分のジャケットのポケットに突っ込んだりはしない。…それが、普通。
 「―――…」
 指先が、その温かさを思い出して、僅かに痺れた。ハッとした透子は、外気に触れて冷たくなりかけた両手を、自分のダウンジャケットのポケットに慌てて突っ込んだ。こんな時に何を考えているんだ、と自分を窘めながら。

 クリスマス・イブの街中は、やっぱりカップルが目立った。平日なので、社会人はおそらく仕事中だろう。すれ違うカップルは、いずれも自分達と同世代か少し上の若者ばかりだ。
 傍目には、自分と山本もカップルに見えるんだろうか―――そう思うと、妙な気分だ。
 「ねぇ、ところでさ。井上さんは、どこの大学受けるつもり?」
 隣を歩く山本が、この時期の2年生ならば極当たり前の質問を透子に投げかけた。透子は、あまり気乗りしない様子ながらも、山本を見上げつつ軽く肩を竦めた。
 「まだ進学するって決めてないよ」
 「え…っ、そうなの? もしかして、経済的に困ってるとか?」
 「ううん。進学するだけのお金は確保してるけど…」
 「なら、なんで進学しないの。成績いいんだし、行くだろ? 普通」
 ―――そう、普通はそう思うんだよね、今の時代は。お金あって周囲が許せば、大学進学は当たり前って。
 間違っても、そのお金を進学に使おうが家計に使おうが好きに使え、なんて、未成年の自分に全部託したりはしない。
 「山本君は、進学するの」
 「当然だよ。冗談だろ、この先ずっと会社勤めしなきゃいけない運命にあるのに、遊べる間は遊びたいよ」
 「遊ぶ、って…大学に行く目的とかって、ないの?」
 「うーん、どうだろう? でも、とりあえず進学はしといた方がいいでしょ」
 ―――そう、普通は、大した目的なくたって、大学行くんだよね。高卒より大卒の方が就職条件いいし、今の時代、行くのが当たり前だから。
 間違っても、進学に興味が無い、なんて理由で、進学全てを蹴ってフリーターになっちゃったりはしない。家を出たがる子は多いけれど、それは当然親からの仕送りがあることが前提だろう。友達と一緒に清貧生活を送ろうなんて、変わり者としか言いようがない…。
 そこまで考えた透子は、思わず息を呑み、口元に手を置いた。

 さっきから、何を考えているんだろう、自分は。
 山本の“普通な”言葉と“普通じゃない”行動を比較しては、山本にどんどん落胆していっている。自分が知るものとの違和感に苛立ち、気落ちし、ますます気持ちが冷めていく。
 考えたくなくて―――そこから逃れる方法を見つけたくて来た筈なのに、普段以上に泥沼に嵌ってしまっている。こんな風になるなんて―――バカみたいだ。

 「あ…、え、えっと、井上さん? 大丈夫?」
 硬い表情で俯き加減になっている透子を見て、山本が心配そうに声を掛けた。
 ダメだ、こんな態度ばかり取っていては、せっかく透子を楽しませようと色々気を遣っている山本に申し訳ない。透子は無理矢理笑顔を作って、顔を上げた。
 と、その時。
 何か冷たいものが、透子の頬に落ちた。
 「―――…あ…」
 頬に触れたものが、すうっと融ける。目を丸くした透子は、頬に残る水滴に指で触れ、灰色の空を見上げた。

 「…雪だ―――…」

 曇り空から、白い雪がふわふわと舞い降りる。透子の記憶違いでなければ、これは今年初めての雪だ。
 ―――まるで天使の羽根が舞い落ちてくるみたいだ―――…。
 透子は一瞬、その光景に見惚れてしまった。
 本格的な冬の到来を告げる雪―――まだ寒さが足りないのか、水気の多い、積もる気配の無い雪。舞い落ちては、街中のアスファルトの微かな熱に負けて、一瞬にして消える。それが、繰り返し、繰り返し…繰り返し。


 ―――…特に、季節はね。
 オレが生まれ育った所は、お世辞にも緑豊かとは言えない所でさ。四季を感じるのは気温だけ、って感じだったんだ。
 そんな中で、季節を見つけると―――コンクリートの隙間から顔出してるタンポポとか、街路樹の葉っぱの色の違いとか、窓ガラスについた霜とか…そんなものを見つけると、じっとしていられなくなくてさ。

 森も、海も、空も―――その辺に転がってる石も、オレにはないパワーを一杯持ってて、何のパワーもないオレにちょっとずつ力を分け与えて、生かしてくれてるんじゃないか、って。


 だから、伝えたくて。

 見つけて欲しくて、描いている―――自分の体の一部を切り取るようにして。


 「―――…っ」
 ―――もう、ダメだ。
 堪えきれない。灰色の空を見上げたままの透子の目から、涙が零れ落ちた。
 「…えっ、い、井上さん!? ど、どーしたの!?」
 「―――ごめん…」
 慌てふためく山本にそう呟き、透子は、涙を湛えた目を彼に向けた。
 「ごめん、山本君―――私、キミとは付き合えない」
 「……」
 「ごめんね…本当に、ごめんなさい。期待持たせるようなことして」
 「…いや…いいよ。でも…大丈夫?」
 振られたことより、突然泣き出した透子の方が気になるらしい。オロオロする山本に、透子は薄い微笑を返した。
 「うん、大丈夫―――山本君も、優しいね」
 …でも、もう、ダメだ。
 気づいてしまったから―――大切なことに。

 

 山本と別れた足で、透子はすぐにバイト先に行き、風邪気味なので休ませて欲しいと願い出た。
 幸い、冬休みの混雑を予想して多めにバイトを確保していたらしく、店長は快く承諾してくれた。もっとも、透子の顔がいつもとは違っていることで、よほど酷い風邪をひいたのかと勘違いしたせいかもしれないが。

 降り出した雪は、帰宅の途につく透子の上にも降り続けていた。
 さっきより少し、気温が下がったのだろうか。地面に落ちた雪が融けるまでの時間が、少し長くなった気がする。足元に視線を落とし、自分のつま先に落ちては融けていく雪を見ながら、透子は再び零れ始めた涙を手の甲で拭った。
 大きく、息を吐き出す。体が、熱い―――本当に風邪でもひいたのではないか、という位に。吐き出した息も、これまで経験したことのない熱をはらんでいて、クラクラしてしまいそうだ。
 ホワイト・クリスマスは、結構ロマンチックだ。
 …だから、感傷に浸るには、ちょうどいいかもしれない。
 涙を拭った手で髪を掻きあげた透子は、また空を見上げた。冬を呼ぶ天使の羽根が降り注いでくる空を。


 ―――あなたがいなければ、こんな風に、季節の移り変わりに気づくことも、なかったかもしれない…。


 灼熱の夏と、混乱の秋の末に訪れた、冬。
 透子は、堪えきれないほどの胸の痛みを伴う想いに、生まれて初めて気づいた。


 この想いの名前は、もう、知っている。

 狂おしいほどの想い―――その名前は、「恋」だ。


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