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08

: Lipstick Trap (1)

 真夜中、真っ暗闇の中で、透子は目を覚ました。

 全力疾走したみたいに、心臓が狂ったような勢いで鼓動している。真冬だというのに全身に汗をかいていた。乱れた呼吸が整うまでの時間、透子は暗闇を見つめたまま、微かに聞こえる時計の音に耳を澄ましていた。
 時計の秒針の音が、透子は好きだった。祖父の店にいつも何重にも響いていた、沢山の針の音―――祖父のお気に入りのネジ巻き式の壁掛け時計は、あまりにも古いため、1日1回はネジを巻かなくてはいけなかった。祖父がいる間は祖父が毎日巻き、亡くなってからは透子が毎日巻いていた。真夜中の午前0時にポーン、と音が鳴るので紘太には不評だったが、あの独特の秒針のカチコチという音が好きで、透子は時々、その時計がある居間に布団を引っ張って行って眠っていた位だ。
 ―――息が、苦しい。
 思わず、咳き込む。背中を丸め、胸を押さえ込んで咳き込むと、苦しさに涙が出てきた。世界が揺らぐ―――このまま、どこかに放り出されるような気がして、動悸がもっと酷くなる。
 「…お…かあ…さ…」
 咳き込みながら、なんとか手を伸ばす。いつもベッドの天板に吊り下げている“お守り”を必死にもぎ取り、それをぎゅっと胸に抱きしめる。
 「…お母さん―――…」

 …見なければよかった、テレビなんて。
 なんでこの時期なると、こぞって特番を組みたがるんだろう。もう、そっとしておいて欲しい。さもなくば、復興しつつあるという神戸の街並みか何かだけを映して欲しい。なんだって、何度も何度も見せ付けるように繰り返し映し出すんだろう―――あちこちから上がる黒煙…そして、見渡す限り続く、焼け野原。
 あの悲劇を忘れるな、そう警鐘を鳴らすのは、マスコミの使命だろう。忘れないで欲しい、その思いは、私にだってある。でも、そのためには、あの映像は絶対に必要なんだろうか。あんな悲惨な映像がないと、人間って過去の惨事を思い出せないものなんだろうか。
 お願いだから―――お願いだから、私には、見せないで。私にだけは、思い出させないで欲しい。私ひとりじゃ、とても耐えられない。

 ―――もう、ノックすることはできないんだから。
 この部屋の向かいにある、あのドアを。

 「―――…透子…?」
 コンコン、というノックの音と同時に、ドアの向こうから遠慮がちの声がする。
 途端、不整脈でも起こしたかのようだった心臓が、ドクン、と大きな鼓動を最後に、凍りついた。
 「透子…起きてる?」
 「……」
 ―――な…んで…。
 頭が、混乱する。その混乱を無視して、ドアがカチャリと音を立てて開かれた。
 一晩中つけっぱなしにされている廊下の灯りが、部屋の中に射し込んだ。それでも、部屋の大半は暗闇の中だが、その程度の明るさでも十分、透子の様子は確認できたのだろう。
 「やっぱり、起きてたんだ」
 「…どうして…」
 「んー、なんでだろう? …勘?」
 くすっと笑った慎二は、スルリと部屋の中に滑り込むと、ドアを半分だけ閉めて透子の枕元までやってきた。信じられない、という顔で自分を見上げる透子を見て、床に膝をついた慎二は、余計笑みを深くする。
 「…というのは冗談で、喉渇いたから水飲みに下りようとしたら、咳き込んでるのが聞こえただけ。―――大丈夫?」
 「…大丈夫」
 だから、早く出てってよ。
 そう言ってしまいそうになるのを、際どい所で留まる。去年までとは、事情がまるで違う。もう1年前のように無邪気に慎二に抱きついてしまうことは出来ない。だから、こんな時に近くにいられると―――困る。
 さっきまでとは違う理由で乱れ始める鼓動に、呼吸までもが乱れてしまいそうになる。慎二に気取られてはいけない、その思いだけでじっと息を潜め続ける。
 「…何をそんな、警戒してるの」
 笑顔のまま、さらりと言われた言葉に、また心臓が跳ねる。平然とした顔をしたかったが、動揺したことは表に思い切り出てしまっていたらしい。苦笑した慎二は、透子の頭にポン、と手を置いた。
 「まぁ、さすがにもう添い寝はしてやれないけどさ―――そうやって、ひとりで苦しむのは、やめようよ」
 「…大丈夫、だもん」
 「泣きながら言っても、あんまり説得力ないよ」
 「……っ」
 堰を切ったみたいに、涙がぽろぽろ零れ落ちる。くしゃっ、と髪を撫でられる感触に全てを委ねるように、透子は目を閉じ、涙を我慢するのをやめた。

 ―――子供の頃のように、わぁわぁと声を上げて泣けたら、きっと楽だろうに。
 どうせ子供ではないのならば、こんな、掌ひとつで心を乱すことなどない位、大人であればいいのに。
 大人を気取ることも、子供という名に甘んじることもできない―――なんだってこんな、中途半端な年齢なんだろう、私は。

 閉じた瞼に、柔らかくて温かなものが落ちてくるのを感じた。
 この感触は、覚えがある―――1度だけ、頬に。
 「…眠るまで、ここいるからさ」
 「―――うん…」

 慎二―――優しいね。

 …だから、苦しいよ。

 でも、それは、秘密―――まだ、言葉にはできなかった。


***


 いつものように午後7時過ぎにバイトを終え通用口から外に出た透子は、壁に寄りかかっている人影に気づき、目を丸くした。
 「あれ…っ、荘太?」
 「よっ」
 にまっと笑った荘太は、よいしょ、と声をかけて体を起こした。帰ろうぜ、という風に表通りの方角を指差すので、透子も荘太に並びかけ、歩き出す。それにしても珍しい―――状況から見て、バイトが終わるのをここで待っていたとしか思えない。
 「どうしたの」
 「ん、学校で渡す暇なかったからさ。ほい、バレンタインのお返し」
 歩きながら目の前に突きつけられた紙袋を見て、透子はまた目を丸くした。
 「何、ホワイトデーやるために待ってたの? 明日でよかったのに…」
 「こーゆーのは日付変わったら意味ないじゃん。店で渡すとあからさまだしな」
 「気が回るなぁ…。ありがと」
 中身が気になったので、鞄を脇に抱え、紙袋を開けてみた。またビスコかな、と想像していたが、今年は違った。可愛らしい瓶に詰められた、カラフルなキャンディーだ。
 「うわー、なんか、ホワイトデーっぽい。グレードアップしたね。どうしたの?」
 「ビスコを上回るネタが思い浮かばなかった。それに、お前もスランプだったじゃん、今年のバレンタイン。まさかお前から不二家のハートチョコを貰うとは思わなかった」
 「う…、ま、まぁね」
 ―――だって、頭の大半を、“初本命チョコ”1個に使いきっちゃったんだもの。
 なんてことは絶対言えない。誤魔化すように、キャンディーの瓶を紙袋に戻し、その話はこれで終わりと宣言するようにもう一度お礼を言っておいた。

 荘太と2人きりなんて、何ヶ月ぶりだろう―――ギャラリーまでの短い道のり、荘太と並んで歩いていると、ちょっと不思議な気分になる。
 今年もインターハイを狙っている荘太は、以前にも増して練習に励んでいる。一時期教師陣からストップのかかった朝練も、メニューを調整して軽いものにして、ほぼ毎日続けている。勿論、休みの日も暇を見て自主トレだ。一方の透子も、この3月いっぱいでバイトを辞めるので、土日もなるべくバイトを入れるようにしている。だから、前あったように自主トレする荘太と偶然鉢合わせになることもなかった。
 そんな訳で、年が明けてからは、荘太と話すのは学校の休み時間など真奈美や古坂も一緒の時しかなかった。懐かしいなぁ、なんて、数ヶ月前のことに過ぎないのに、そんな感慨を覚えた。

 「透子。進学か就職か、もう決めた?」
 世間話のついでのように、荘太が訊ねてきた。つい先ごろ、また進路希望調査があったせいだろう。透子はちょっと眉を寄せるようにして首を傾げた。
 「一応、進学の予定。子供に何か教える仕事したいな、とは思うから、やっぱり大学は行っといた方がいいのかな、と。でも…どの大学の何学部にするか、全然絞れてないなぁ」
 「先生になるんなら、教育学部だろ」
 「先生、という訳でもないからなぁ…。キッズ英会話とかの先生は、イメージ的に近いかもしれない」
 「…よく分かんねーなぁ。どんなのイメージしてんだよ」
 イメージしているのは、慎二が子供達に絵を教えていた、あのシーンだ。
 先生、なんて高い位置から教える感じじゃなく、子供の間に入ってワイワイ楽しみながら何かを教えてあげる仕事。だったら保育園の先生とかの方がいいのかな、とも思うが、なんだかそれも違う。何か、自分にしかできない専門的なことを、子供に伝える―――そんな感じ。
 でも、荘太にも真奈美にも、そのことは一切話していない。イメージを伝えるのが難しいから。
 「…まぁ、夏までに絞る予定。荘太は? もう決まった?」
 「俺? 俺も―――まだ、決まってない、かな」
 当たり前な透子の質問に、荘太は何故かちょっと決まりが悪そうな顔をし、曖昧な口調で答えた。
 「関東の大学なんでしょ?」
 「…一応、そのつもり」
 「一応?」
 またしても曖昧な荘太の言葉に、透子は思わず、不思議そうな声を出してしまった。
 家を出たい、千葉に住む祖父母の家に下宿するんだ、と断言していた荘太のことだから、大学は関東以外念頭にはないとばかり思っていたのに―――自分が知らないうちに、計画が変わってしまったのだろうか?
 「―――ま、いいじゃん。俺も、夏頃までには絞る予定。古坂あたりはもう広島の目ぼしい大学に希望を絞ってるけどさ。大抵の受験生はまだまだだよな」
 「んー…、そう思いたいけど…真奈も、もう大体決めてるみたいだよ? 地元の短大に」
 「―――聞かなかったことにする。それに俺、インターハイまでは、他のこと何も考えられないし」
 「そりゃそうだよね」
 荘太が高校に通っている目的の大半が、陸上をやるため、と言ってもいい位なのだ。去年、たった100分の1秒に泣いた分を、今年こそは取り返してもらいたい。ニヤリと笑う荘太に、透子も笑い返した。

 ―――荘太みたいに、抜きん出た才能持ってる人なら、話は早いんだけどなぁ…。
 荘太の将来を思い描いた時、透子の頭の中には、小学校とか中学校の体育の先生が思い浮かんでいる。慎二が楽しそうに絵を教えるように、荘太もきっと、楽しそうにスポーツを教えるだろう。
 たとえ他が1とか2とか3でもいい、たった1つ、そういう他人には負けない程に好きで好きで仕方ないことがあれば、そうやって楽しそうに何かを伝えることができる筈だ。羨ましい―――大学受験が現実的になるにつれ、その羨望はどんどん増している気がした。
 そこまでのめりこめる物が、あと1年足らずで見つかるだろうか?
 いや、1年では無理にしても―――大学の4年間で、ちゃんと見つかるだろうか?

 「―――なぁ、透子」
 そんなことを考えながら歩いていたら、荘太が突然、神妙な声色で、透子に声を掛けた。
 「ん? 何?」
 「うん―――…」
 妙に、歯切れの悪い口調。
 荘太らしくないなぁ、と眉をひそめる透子に、荘太は視線を前方に据えたまま、何かを口にしようかしまいか迷っているような顔をした。暫し言いよどんだ荘太だったが、ギャラリーまであと数十メートルと気づいたことが背中を押したのか、やっと意を決したように透子の方を向いた。
 「…あの…お前さ―――」

 「透子ーーーっ!!!!」

 やっと口にした荘太の言葉をぶった切るようにして、豪快な大音量の声が、前方から透子を呼んだ。
 「おおおい、透子! 俺を覚えてるかー!?」
 「……」
 ビックリして2人して視線を前方に戻すと、ギャラリーの前に大柄な男性が立っていて、透子と荘太に向かって両手を頭上で振っているのが見えた。身長は慎二と変わらない位だが、肩幅がずっと広くてがっしりした体型だから、やたらと巨漢に見えた。
 ジャケットにノーネクタイ、Gパン、というカジュアルスタイルに、丸みを帯びた形の眼鏡―――その奥にある、笑うとほとんど一直線になってしまう目を見た瞬間、透子の記憶の欠片が、ピタリと当てはまった。

 「ほ…っ、本間さん―――!?」

 実に2年ぶりの再会となる本間は、その通り、という風ににんまりと笑った。

***

 透子が本間に会ったのは、震災から2週間後―――透子の今後の身の振り方を、大人たちがあれこれ模索していた時期だった。
 透子の家の隣にあった“木下ベーカリー”のご主人と知り合いだった彼は、慎二からそのご主人の訃報の連絡をもらい、透子と慎二が身を寄せていた避難所に訪ねてきた。その時、慎二から彼を紹介されたのだ。
 慎二があの日透子に声をかけることになったそもそものきっかけが、“木下ベーカリー”のご主人への届け物を本間が慎二に託したことだった、と、透子はその時に初めて知った。
 それどころか、慎二が尾道に住んでいること、絵を志す画家の卵であることなども、本間が語った話で初めて知った。
 正体不明状態の慎二に、2週間もの間、何故何ひとつ訊ねなかったのか―――今思い出しても、不思議で仕方ない。もしかしたら、家族の死のショックで、あの頃はまともな思考能力が全くなかったのかもしれない。
 とにかく、そういった慎二の略歴を透子に教えてくれた人として、本間は透子の記憶にきっちりインプットされていた。彼が描く、シュールすぎて理解不能な絵と一緒に。


 「…本間さん。これ、何描いてあるの?」
 「え? 見て分からない? 震災前の三ノ宮駅前なんだけど」
 「…ふぅん…」
 私にはUFOが不時着したシーンにしか見えないんだけど―――と、本音を口にするのは、さすがにはばかられた。これが明日からギャラリーに並ぶのか、と思うと、ちょっと頭が痛くなってくる。
 「いやー、それにしても、先生が商談で留守とは知らなかったなぁ」
 ギャラリーの片隅の商談スペースに腰を下ろした本間は、まいったな、という顔をして頭を掻いた。先生の留守を預かっていた慎二が、その向かいに腰を下ろして、困ったような笑みを返した。
 「仕方ないでしょう。本間さんも、連絡なしに突然来るから」
 「…まあな。でも、工藤、全然変わらないなぁ。2年経ったのに、さっぱり貫禄が出てないじゃないか」
 「ハ、ハハ…、一生貫禄ないままかも」
 「なあ。なんか、ほんとにそんな気するわ。その風体でほんとにあと数日で27か? そのうち透子に追い抜かれるぞ」
 「いや、まさか」
 「ほんとほんと。全然変わらない工藤に比べて、透子は成長してるし」
 本間の絵を手に佇んでいた透子は、突然そう言われて目を丸くした。
 「そ、そう? 身長なんて2センチちょいしか伸びてないよ?」
 「ああ、相変わらずミニサイズだけどな。なんつーか、こう、女っぽくなったぞ」
 「えっ!」
 思わず、ガラスに映った自分の姿を慌てて確認した。外が暗いせいでちょうど鏡のようになっているガラスには、いつもの見慣れた自分が映っていたが、その体型は、あまり“女っぽい”とは思えないシロモノだ。
 「わはははは、体型の話じゃないって。凹凸は普通にありそうだけど、まだまだガキの体型だもんなぁ」
 「…本間さん。そういうの、セクハラって言うんですよ」
 透子の代わりに、慎二が苦笑混じりに本間を窘めた。が、本間は一切気にしないようだ。
 「セクハラじゃないぞ、俺は真実を忠実に口にしただけだ。でも―――うん、なんて言うか、子供子供してたのが大人びたって言うか、しっとりした部分も多少出てきた感じがするな。年頃だもんなぁ。恋でもしたかな? ハハハハ」
 「……」
 探るような目をする本間に、内心、ドキリとさせられる。が、透子は、その動揺はなんとか表に出さないようにした。
 「そういや、さっきまで一緒だったあの坊や。実は彼氏とかか?」
 「ちょ…っ、ち、違うっ! ちーがーいーまーすー!!!」
 「おっ、なんか動揺してる。工藤、ほんとに透子に追い抜かれるぞ。お前より先に嫁に行っちまったらどーするよ」
 何て事を言うんだ、この人は。
 慎二の前で、こういう話は一切やめて欲しい。透子は、バクバクする心臓を必死に宥めつつ、本間をギロリと睨んだ。

 悟られてはいけない―――この、恋心を。
 それが、自分の気持ちを自覚するようになってから3ヶ月あまり、透子が毎日、自分に言い聞かせていることだ。
 慎二は、もし気づいても、10も年下の女の子の一方的な想いを「恋に恋する年頃だからね」と、まるで熱病のような扱いをするに違いない。たとえ本気にしたにしても、根が優しい慎二のことだ、面と向かって拒絶して傷つけるよりは、と、しばらく距離を置こうとする可能性が高い。
 熱病扱いされるのも腹が立つが、そうして距離を置かれることを想像すると、想像だけで胸が締めつけられる。絶対、耐えられない。
 慎二に避けられるようになる位なら、想いを内に秘めておいて、今まで通り気の置けない関係でいた方がいい。慎二との間がギクシャクしてしまうのは、誰と気まずくなるよりもずっとずっと嫌だから。

 だから透子は、一生懸命、嘘つきになる。
 寒い夜、悴んだ手を取られポケットの中に突っ込まれても、今まで通り「あったかいね」と笑ってみせる。本当は、苦しくて、恥ずかしくて、切なくて、もうどうしようもなくなって思わず手を振り解きたくなるけれど、そんな本音は丁寧に隠して。
 相変わらず、慎二がスケッチブックを持ってあちこち散策に行くのにも同行するし、カンバスに向かって無心に絵筆を走らせる慎二の傍らにいることもやめない。すぐ近くにある慎二の体温にどれほど胸がざわめこうとも、その苦しさを絶対に顔には出すまいとしながら。
 あれから3ヶ月―――毎日がその、繰り返し。昨日も、今日も、明日も、内に秘めた想いをしっかりとヴェールで包み、たった一言を静かに飲み込む。その繰り返しだ。

 そんな透子の努力も知らず勝手なことを言う本間に、何しに来たんだこいつ、と、心の中で毒づいてしまう。完全な八つ当たりであることは自分でも分かっているが、せめて睨む位のことをしないと、洗いざらい暴露してしまいそうで怖い。
 「あの、本間さん…それより、なんで急に尾道まで?」
 透子の怒りを感じ取った訳ではないだろうが、慎二がそう言って、話の流れを変えた。
 慎二が訝るとおり、本間が尾道に来るなんて珍しい事だった。本間が芦屋に移り住んでから2年ほどの間にも、本間は2回ほどギャラリーに絵を置かせてもらったが、そのいずれの時も本間は尾道には来なかった。ただ絵を送ってきて、売れれば代金を口座に振り込む、そういう手法を取ってきたのだ。今回のように、わざわざ絵を自ら持ってきたのは初めてだ。
 「運送業者の手配がつかなかったとか…」
 「…いや、そういう訳じゃないんだ」
 本間は苦笑いをし、溜め息をついた。
 「実はな―――この春にでも、尾道に帰ってこようかと思ってるんだ」
 「…えっ」
 目を丸くする慎二同様、透子も驚いた顔になった。本間が元々住んでいたアパートは震災で全壊したが、その後も本間は、同じアパートの独身住人数名と共同で、芦屋市内の比較的被害の少なかった地域のアパートを借りて生活している筈だから。
 「それで今日も、絵を届けがてら、いい賃貸物件ないかな、と思って不動産業者を何軒か回ったんだ。2、3、目ぼしいのが見つかったんで、4月には引っ越しかな…」
 「でも…なんでまた、急に」
 「―――なんか、描く気が起きなくてなぁ…」
 本間は、再びついた溜め息に混じって、そう呟いた。
 「あれから2年経って、少しは落ち着いてきたんだけどな。前の神戸を知ってて、その神戸を無茶苦茶愛してただけに―――耐え切れなくてな。あまりにもズタズタにされた傷口を見るのが。六甲の山並みを見て“ああ、綺麗だよなぁ”と思っても、感慨に浸りきれずに、結局1枚も絵にできないんだ」
 「…そうですか…」
 「まだ、かつての神戸を懐かしみながら今の神戸を描けるとこまで、復興してないのかもな。神戸が、じゃなく、俺自身が」
 ズキリと胸が痛む。
 本間の言葉を誰よりも実感しているのは、他ならぬ透子だから。
 思わず苦しげに眉を寄せると、透子のその表情に気づいた本間が、照れたように頭を掻き毟った。
 「あ、いや―――悪い悪い。透子からすりゃ、こんな年のオヤジが何生っちろいこと言ってんだ、ってとこだよな。ごめんなぁ、芸術家は繊細だから」
 透子の表情を“非難”と受け取ったらしい。透子は笑顔になると、さっきの仕返しも兼ねて答えた。
 「本間さんが繊細かどうかは別として、本間さんの気持ち、よく分かるよ」
 「―――お礼を言うべきか、抗議すべきか、悩ましいとこだな、その答え」
 ムッとしたように眉間に皺を寄せる本間だが、その奥に、どこかほっとしたような表情が潜んでいるように、透子には感じられた。
 ―――良かった。同じなんだ、本間さんも。
 神戸で頑張り続ける人を見るたび感じる、罪悪感。でも―――子供だけじゃなく大人にだって、同じ理由から神戸に背を向けたくなる人がいるのだと分かり、透子も少し、安堵した。
 「…また、神戸が懐かしくなったら、戻ればいいですよ」
 感傷からか、少しトーンダウンしてしまっている本間に、慎二はふわりと微笑んでみせた。
 「描き続けることの方が本間さんにとっては大事なことだって、オレも思うから」
 その言葉に、本間も、心から安堵した笑みを見せた。

 “描き続けることの方が、大事”。
 慎二のその言葉は、透子には何故か、あの“生きようよ”という言葉と同じ意味に聞こえた。
 確かに、そうかもしれない。
 本間のような人にとっては、描き続けること、イコール、生きながらえること、なのかもしれない。そしてそれは、慎二のような人にとっても同じことのような気がした。

***

 結局、本間はその夜、先生の家に1泊していった。
 帰宅した先生を含めた男3人は、夕食後居間に車座になり、かなり遅くまで酒を酌み交わしていた。透子も本間に誘われたが、先生が「未成年にアルコールを勧めるな、ばかもの」と一喝したので、透子は辛くも宴会地獄から逃れることができた。
 一足先に部屋でベッドにもぐりこんだ透子だったが、なかなか寝付けなかった。なにせ、1階から聞こえてくる本間の笑い声があまりにも大声で、うとうとすると笑い声に現実に引き戻される、その繰り返しだったのだ。おかげで、あくる日の透子は、目一杯寝不足状態だった。
 ―――あー…、頭クラクラする。今日体育あるのに、大丈夫かなぁ…。
 フラつく足元で玄関を出て行きながら、暗澹たる気分になる。本間が尾道に帰ってきたら、ああいうドンチャン騒ぎが日常茶飯事になるのだろうか―――勘弁して欲しい。
 玄関の引き戸を開けると、外は雨。余計うんざりした気分になりながら、透子は傘を手にした。
 「おーい、透子っ」
 傘を開き、表通りに出たところで掛けられた声に、透子はノロノロと後ろを振り向いた。
 見れば、荘太がちょうど玄関から出てきたところだった。どうやら雨のせいで朝練を中止したらしい。昨日のように帰りが一緒になるのも珍しいが、朝が一緒というのも相当に久しぶりだ。
 「…おはよ、荘太」
 「おはよ。…どうした、その顔。すんげー眠そう」
 「…すんげー眠いから、こういう顔なの」
 怪訝な顔をする荘太に、簡単に昨日の顛末を話して聞かせた。
 荘太と本間は昨日が初顔合わせだったが、あの数分間でも本間の基本性格を知るには十分だったのだろう、話を聞き終わった荘太は、傘を持つ手を震わせてゲラゲラ笑った。
 「うはははは、あの人らしい! 酒飲んだら絶対、説教するか超ハイテンションになるかどちらかだろうな、と思ってたんだぜ、俺」
 「笑い事じゃないよ、もぉ…。慎二だって飲まされすぎて二日酔いでダウンしてるって言うのに、張本人の本間さんはまだ居間の隅っこで夢の中よ。信じられないっ」
 憤慨したような口調で透子がそう言うと、荘太の顔色が、僅かに変わった。つい今しがたまで笑い転げていたのに、その笑いがまるで潮が引くみたいに消え失せる。
 「…へぇ、工藤さん、ダウンしてんだ」
 「うん。結構、痛々しい姿になってた。やだなぁ…今日、教室ある日なのに、大丈夫かな…」
 「…ふーん」
 一気につまらなそうな顔になった荘太は、荘太の変化に気づいてない様子の透子の横顔から、目を逸らした。そしてそのまま、沈黙した。
 「…荘太?」
 突然押し黙った荘太を不審に思った透子が、やっと荘太の方に目を向けた時、ちょうど荘太も再び透子の方に目を向けた。
 視線がぶつかって慌てたのは、何故か透子の方だった。突然だったにもかかわらず、荘太は平然と落ち着き払っていた。いや―――落ち着いている、というのとは、また違う。荘太の目は、鋭かった。ちょうど去年、修学旅行の時に「俺は絶対に負けない」と宣言した時のように。
 「なっ、何?」
 うろたえつつ透子が問うと、荘太はピタリと足を止めた。
 やむなく透子も、足を止める。傘の大きさの分だけの距離をとり、荘太と対峙する。なんだって荘太はこんな目で自分を睨んでくるのか―――何か失言でもしただろうか、と、透子は直前の自分の言動を頭の中で辿ってみた。が、何も思い浮かばない。
 10秒だろうか、それとも30秒くらいはあっただろか。無言のまま透子を睨み据えていた荘太は、まだ少し迷いを残したように、一端、視線を僅かに落とした。が、小さく息を吐き出すと、再び透子の目を見据えた。
 「透子」
 「う、うん…?」
 「お前、気づいたんだろ」
 「…え?」
 「自分の気持ち」
 「―――…」

 平静でいなくては―――そうは思っても、不意打ち過ぎた。
 目が、動揺して揺らいでしまう。何故荘太が、と、頭が一瞬のうちに混乱する。
 いや、荘太は、具体的に何を指摘した訳でもない。慎二の名前も出していないし、“気持ち”がどういう気持ちを意味しているのかだって曖昧だ。でも、透子には荘太の言葉の意味は、たった1つの意味にしか聞こえなかった。

 “お前、気づいたんだろ―――工藤さんに対する自分の気持ちが、恋だってことに”。

 グラグラする透子の瞳に、その問いの答えを見出したのだろう。荘太は、やっぱりな、という笑いを口元に浮かべた。皮肉めいた、どこか疲れたような色をした笑いを。
 「あ…あの…荘太…」
 動揺のあまに、何を言うべきか分からず焦る透子に、荘太はきっぱりとした口調で告げた。
 「俺は、絶対に、負けない」
 「……」
 「俺、頭悪いから、まともに勉強したんじゃお前と同じレベルにはなれない。だから―――インターハイの優勝だけを狙う。日本中の大学の陸上部顧問がこぞって欲しがるような選手になることだけ考える。お前がどの大学を志望しても、俺が同じ大学選べるように」

 透子の目が、大きく見開かれた。
 いくら、自分自身のことには鈍いと言われている透子でも、本来は勘は鋭い方だ。だから、荘太の言葉の意味位、すぐに分かる。分かったからこそ―――衝撃に、言葉が出てこない。
 “自分が惚れた相手が誰を想ってるかなんて、相手を想えば想うほど、嫌って位分かるものだ”―――修学旅行で、荘太が言い放った言葉を思い出す。あの時、既に荘太は、気づいていたということなのだろうか? 透子自身すら気づいていなかった、透子の想いに。

 「そんな訳だから―――そんな、切なそうな顔で、あいつのこと喋るんじゃねーよっ」
 照れもあったのか、荘太はぶっきら棒にそう言い放つと、目を見張ったまま立ち竦む透子を置いて、ひとり先に立って歩きだしてしまった。
 透子の足でも急げば追いつける速さだったが、到底、その後を追う気にはなれなかった。震える手でなんとか傘を支え、その場に佇み続ける以外なかった。


 苦しかった。

 自分の想いの正体を知ってしまった後だからこそ―――突きつけられた挑戦状が、苦しくて、苦しくて、仕方なかった。


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