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08

: Lipstick Trap (2)

 4月。3年生になって、またクラス替えがあった。
 2年間同じクラスだった真奈美とは、3年目にしてついにクラスが分かれた。荘太と古坂も分かれてしまい、古坂と真奈美が同じクラスになった。
 真奈美とクラスが分かれたことに寂しさはあったが、バイトを辞めたのでほぼ毎日一緒に帰ることができる。真奈美は相変わらず陸上部の見学をしていたが、受験生ということもあってその頻度を少し落としたようだ。透子もそれに付き合い、荘太や古坂の練習眺めながら真奈美と他愛もないおしゃべりに花を咲かせた。

 繰り返される日常の中、透子は、真奈美に言いたくて言えずにいる一言があった。
 “ごめんね”―――たった、一言。ホワイトデーの翌日、荘太から衝撃の言葉を聞かされてからずっと、言えずにいるこの一言が、抜けない棘のように胸に刺さって常に透子を苛んでいた。
 自分が恋した相手が誰を想っているかは、相手を想えば想うほど、嫌というほど分かるもの―――真奈美も、荘太の想いがどこにあるのかを知っていた。それを知りながら透子の傍に居た真奈美は、どれほど辛かっただろう。
 もし自分が真奈美の立場だったら―――たとえば、あの“たえこ”が自分の親友であったなら、果たして自分は真奈美のように振舞うことができるだろうか。…到底、無理なような気がする。同じ人に恋をしているというだけで、はるかの前では努力しなければ笑えないような自分なのだ。慎二の想い人を目の前にしたら、きっと笑顔なんて作れない。ニコニコ笑っている裏で、真奈美がどれほどの葛藤を抱えていたか…それを想像すると、苦しくて苦しくて仕方ない。
 荘太は、その後一切態度を変えていない。よそよそしい態度でもとられたら困ると思っていたが、いつも通りにふざけたり騒いだり、今までと変わらずにいる。だから透子も、今まで通りの関係を続けることができている。表面上、4人の関係は何ら変わっていない。
 でも―――いや、だからこそ、透子は真奈美に“ごめんね”と言うチャンスを逸してしまっている。真奈美に“ごめんね”と言うことは、荘太の気持ちを透子が知っている、と暴露するようなものだ。暴露することで、4人の間がギクシャクしそうで、とても言えなかった。


 「あの…あたし、ね。古坂君と、付き合い始めたの」
 真奈美が、顔を真っ赤にして照れながら報告してきたのは、4月も終わる頃だった。
 「古坂君とあたしって、ちょっと似たとこがあるからか、一緒にいると凄く落ち着くの。今までずっと、落ち込んだ時とか苦しい時、さりげなく傍にいてくれたし―――同じクラスになってから、ああ、いいなぁ…って思い始めて、おととい、思い切って気持ち打ち明けたの。そしたら古坂君、ずっと好きでいてくれたみたいで…」
 「え…っ、ま、真奈から告白したの!?」
 てっきり古坂がやっと重い腰を上げたものと思っていたのに…大ドンデン返し。
 それにしても、真奈美も随分積極的になったものだ。いつも、自分より小さな透子の体の後ろに隠れてるような子だったのに―――失恋して、強くなったのかもしれない。
 「だからね。進学も、短大から四大に切り替えようと思うの。古坂君と同じ大学行けたらな、って思って」
 「…真奈と古坂君だと、ちょっと成績に開きがない?」
 真奈美の成績は透子に近い。古坂の成績は荘太と真奈美の中間地点。大学のランクでいくと2ランクほど違う気がする。しかし真奈美は、また頬を染めながら嬉しそうに笑った。
 「少しランク落とす位何ともないし、これからはあたしが古坂君専属の家庭教師になるから、大丈夫」
 「ふーん…“愛の力”って感じだね」
 まだ告白から2日だというのにすっかりノロケモードに入っている真奈美に、透子はちょっと呆れたような顔をしながらも、内心、ホッと胸を撫で下ろしていた。

 ―――良かった。
 真奈が、古坂君の良さに気づいてくれて、本当に良かった。

 古坂の想いが、やっと届いた。4つのベクトルがそっぽを向き合ってた中で、やっと2つだけ、ちゃんと向き合ってくれた。これからは、4人の関係も、新しいバランスをとり始めるだろう。
 今の真奈美は、とても幸せそうだ。
 だから透子は、やっと口にすることが出来た。“ごめんね”―――ずっと胸に刺さっていた、その一言を。

***

 「古坂は、今年のインターハイも駄目だな。部活も受験勉強の気分転換代わりに過ぎねーし…全く、2人で表彰台目指そうぜって言ってた1年の時の誓いを思い出せってんだよ」
 空き地に生えていた背の高い雑草をぶちっと引きちぎりながら、荘太は忌々しそうな声でぶつぶつ愚痴った。どうやら、古坂が今日部活をさぼって真奈美と市の図書館に行ってしまったのが、どうにも面白くないらしい。
 「しょーがないよ。古坂君、今最高にハッピーなんだもん。不遇な2年を過ごした分、堪能させてあげようよ」
 荘太も面白くないだろうが、透子だってあんまり面白くない。おかげで、初めて1人きりで陸上部の見学をする羽目になったのだから。荘太が引きちぎった雑草より幾分細めの雑草を同じく引きちぎり、それを弄びながら坂道をのんびり下った。
 既に5月も後半―――海からの風が、春先よりも湿気を帯びてる気がする。
 空き地に無秩序にはびこっている雑草は、先週よりも背が高くなり、色も明るい緑から深緑に変わりつつある。春も、もう終わり―――梅雨が近いのかもしれない。
 去年の透子は、風の中の湿気を感じたり、道端の雑草の移り変わりに季節を見たりはしなかった。そのことを思い出し、透子はクスッと笑った。柄にもなく、ちょっとセンチメンタルになってるのかな、と。

 冬の朝の、空気が凍って氷粒になってしまいそうな寒さ。悴んだ手をじんわりと温めてくれる初春の太陽の光。ぼんやりと霞んだ花曇の空の下、まるで雪みたいに降ってくる桜の花びら。坂の上から眺めた海にキラキラ反射してる5月の夕日―――今年に入った辺りから、やたらとそんなものに気づく。そのたびに、不思議な胸のざわめきを感じる。
 季節を彩る、たくさんの色彩―――透子はそこに、慎二の絵を見ていた。
 慎二が描く、碧、紅、翠、萌黄…たくさんの色。世界ってこんなに優しい色をしてたのか、と、目に映る風景の中に慎二の色を見つけるたびに、何故か泣きたくなった。
 それはきっと、家族を失った時に、透子の世界が灰色一色になってしまったからだ。だから、今まで気づくことのなかった色に気づくと、嬉しくて、切なくて、恋しくて、泣きたくなってしまうのだろう。
 そして、そういう色に気づくたびに―――慎二が、もっと、好きになる。
 “好き”って感情には、上限がないのだろうか。そう思う位に、慎二のことを想って、切なくなる。

 「あーあ。インターハイ終わると、面白いことなーんにも無いよなぁ」
 つまらなそうな荘太の声に、透子は現実に引き戻された。
 気づくと、手にしていた雑草が、力なく下を向いていた。一瞬惹き込まれていた世界を追い払うように、透子は雑草をさっきまでより乱暴に振り回した。
 「インターハイが終わったら、楽しい楽しい受験地獄が待ってるじゃない」
 「…それが憂鬱だっつーの。丸2年、勉強より何より陸上優先で来てるからなぁ…成績落ちまくりだもんなぁ」
 溜め息混じりにそう言いながら、荘太は雑草で電柱をパシン、と叩いた。
 確かに、本人の言う通り、荘太は高校入学以来、何よりも陸上を優先してきた。勉強よりも、遊びよりも…そして、恋愛よりも。元々、あまり成績のいい方ではなかったが、緩やかな右肩下がりで下がり続けているのは間違いない。
 「なあ、透子。もう大学決めた?」
 「…まだ。一応、英語関係にはするつもり。ほら、前言ったじゃない、キッズ英会話。あれ位しか今のところ、具体的な未来図が思い浮かばないから」
 「英語かぁ…。お前、苦手だったのに、すっかり得意科目になったもんな」
 「うん。それも、英語選んだ理由の1つ。これでいいのかどうか、まだ分かんないけど―――大学4年間で、何に目覚めるか分からないしね。とりあえず、今一番興味のある科目にしとく。荘太は?」
 「俺は―――ううう、体育以外、何もねぇっ」
 苦悶の表情で頭を抱える荘太に、透子はつい吹き出してしまった。
 「そうだよねぇ。相変わらず見事な通知表だもん。3が減って2が増えたから、余計にスッキリしてきたよね」
 「うるせーっ」
 「ねえ。だったら、体育大学にしたら? で、将来は体育の先生になるの。荘太にぴったりだと思うけど」
 「冗談。体育大学なんて、お前、絶対進学しないじゃん」
 「―――…」
 思わず、足を止めた。
 突然立ち止まった透子に、荘太も足を止め、怪訝そうな顔をする。が、透子のどこか困惑したような表情を見て、はっとしたように慌てて視線を逸らした。
 「…悪ぃ。つい」
 「…ううん」
 視線を逸らしてしまった荘太に合わせるように、透子も地面に目を落とした。
 “日本中の大学の陸上部顧問がこぞって欲しがるような選手になることだけ考える。お前がどの大学を志望しても、俺が同じ大学選べるように”。
 別に取り決めがある訳ではないが、2人の間では、この話はなんとなくタブーになっていた。今まで通り何でも話し合える友人関係を保っていくには、この話は胸の奥底にしまって凍結しておく必要があったから。
 たまに顔を出すと、こういう気まずさを運んできてしまう。…こういう時、荘太と一緒にいるのが、少し苦痛になる。
 「…ま、どっちにしても俺、体育大学は考えてないし」
 「……」
 「一生陸上バカで終わる気、ないからな。実業団入って広告塔代わりに走るのもごめんだし、年食ってからつぶしが利かない“元名選手”なんかになるのも嫌だし。…透子のことなくても、そっちは選ぶ気ないから、変に気ぃ回すなよ」
 「―――うん」
 やっぱり、似ているのかもしれない―――透子の考えを読んだような荘太のセリフに、透子は顔を上げ、微かに微笑んだ。自分が行かないという理由で体育大学を蹴ってしまうなんて、そんなことでいいんだろうか? とちょうど考えていたところだったのだ。
 荘太も軽く笑い返し、再び歩き出した。それを追うように、透子も歩き出す。けれど、一旦生じてしまった気まずい空気は、なかなか払拭されそうになかった。
 「―――ごめんな、透子」
 「え?」
 「ホントはさ。去年、インターハイで優勝したら言うつもりだった。同じ大学行く話。優勝して、大学のスカウトマンの目に留まってからでないと、絵に描いた餅の話になると思ってたから。だから今年も、優勝したら言うつもりだったけど―――ごめん。俺、黙ってられなかった」
 半歩前を歩く荘太の顔は、透子からは見えない。どんな顔をしてこんなことを言っているのだろう―――落ち着かない気分になって、透子はまたちょっと視線を落とした。
 「…どうして?」
 「―――ちょっと、焦った。まだ少しかかるかと思ったから―――お前が、自分の気持ちに気づくまで」
 「…私が気づいちゃう前に、さっさと告白して付き合っちゃおうとか、そういうことは思わなかったの?」
 「ハハ…」
 荘太の持つ雑草が、パシパシとガードレールを叩いていく。
 「気づく前でもさ。そういう“告白”しても、透子が俺に靡くわけないって、分かってたから」
 「どうして?」
 「…敵う訳、ねーから。だってあの人は、お前を助けてくれた人で、今もお前を支え続けてる人で、お前を守るだけの力をもう持ってる“大人”で―――お前の世界の中心じゃん」
 「……」

 世界の、中心―――そうかもしれない。
 震災のあの日、透子の1つ目の世界は崩壊した。あそこで、過去の透子は終わった。
 そして、今透子がいるこの世界は、慎二が連れてきてくれた世界―――家族もいない、友達もいない、知り合いもいない中で、唯一、透子が認識できる人は、慎二だけだった。
 慎二がいたからこそ、始まった世界。…確かに慎二は、透子の世界の中心かもしれない。

 「それ分かった時に、高校3年間は捨てる、って決めた」
 荘太の声が、幾分、低くなる。
 「元々、陸上に集中するために、女作る気なかったし。陸上も勉強も中途半端だったら、透子と同じ大学には進めないからな。…今は、2番手でいい。大学行って、俺もちょっとは大人になって、お前も少しは工藤さんから独立できるようになったら―――その時、1番をゲットしてみせる。…そう思ったんだ」
 「……」
 こういう時、どんな顔をすればいいのだろう。困り果て、透子が押し黙っていると、荘太は急に透子の方を振り向き、ニッと笑った。
 「以上、告白終わりっ。―――さっさと帰ろうぜ。腹減って死にそう」

 ―――こういうとこが、荘太って、やっぱり凄いよなぁ…。
 生まれ持った才能なのかもしれない。透子は、ほっとしたように微笑むと、荘太の言葉に頷いて見せた。


***


 日曜日の訪問客を見送り終えたところで、慎二はどっと疲れを覚え、玄関口でその場に座りこんでしまった。
 ―――勘弁してくれ…。
 ついさっきまで居間で喋りまくっていた、先生の知り合いだという中年女性。その独特の高い声が、今も耳の中でわんわん響いている気がする。ぶっ続けで2時間―――我ながらよく耐えたものだ。
 「おー、工藤。そんなとこでへたばってるなよ。そろそろ透子が帰ってくるだろ」
 「……」
 透子は、日曜だというのに模試のために登校している。確かに、そろそろ帰宅する時刻だ。慎二は、下駄箱に手をついて、よろよろと立ち上がった。
 グロッキー状態で居間に戻ると、残ったお茶菓子を食べながら、先生が山積された写真を興味津々でチェックしていた。それを見て、余計疲れが襲ってくる。
 「…先生。全部断って下さい」
 「はぁ? 全部か? ほら、これなんか結構美人だぞ、惜しくないのか」
 不満げな顔の先生は、そう言って1枚の写真を慎二に突きつける。が、その写真を確認する気力すら、もう慎二には残っていなかった。
 「…美人とか可愛いとか、そういう問題じゃなくて―――オレ、まだ結婚する気、ないんですって」
 そう。机の上に山積されているのは、見合い写真である。
 と言っても、慎二が仲介を頼んだ訳でも、先生が心配をして声を掛けた訳でもない。数日前、ギャラリーに先生を訪ねて来た先ほどの女性が、慎二の年齢を聞くや否や、問答無用で押しかけてきたのだ。どうやら見合いの世話をするのを趣味としている、迷惑な「世話焼きおばさん」らしい。
 「そんなこと言ってていいのか、工藤。そりゃあ今時、27なんてまだまだ独身が多いだろうけどな。お前の同級生の中には2児の父になってる奴もいるぞ」
 「そんなこと言われても…。ていうか、先生はオレに結婚させたいんですか?」
 「ん? 俺か? どっちでも構わん。俺の人生に支障ないしな、どっちでも」
 「……」
 ―――訊いたオレが馬鹿だった。
 これ以上疲れようがないだろうと思っていたのに、更に疲労感が増した。慎二は、突きつけられている写真をひったくると、他の写真と一緒に纏め、放置されていた風呂敷で手早く包んだ。帰宅した透子がもしこんなものを見つけてしまったら、きっと要らぬ心配をするだろう。
 「けど―――そうか。お前もとうとう、見合い写真が持ってこられるような歳になったか」
 風呂敷を結ぶ慎二の手元を眺めながら、先生は、どことなく感慨に浸ってるような声で呟いた。
 「なら、はるかに見合いの話が来るのも、当然っちゃあ当然だなぁ…」
 続けられた言葉に、慎二の手が止まった。
 「…はるかさんに?」
 「ああ。なんだ、はるかから聞いとらんのか」
 「いえ、全然」
 初耳だ、そんな話は。一昨日もその前も、はるかは夕飯時にこの家を訪れたが、何ら普段と変わった様子は見られなかった。他愛もない会話を主に透子と交わし、見送りに出た慎二にもただ「おやすみなさい」としか言わなかったのだから。
 「5月の終わりに、そういう話が持ち込まれてな。なんでも、広島の大企業の御曹司とかで、乗り気になった両親がさんざん焚きつけたらしいが―――最終的には、見合いそのものを断ったらしい」
 「え…っ、断ったんですか」
 「惜しいよなぁ…向こうは、はるかの写真を見て酷く気に入ってたらしいのに―――“うちの娘は自分の年齢を分かっとらん”と愚痴られて、迷惑だったぞ」
 「……」
 迷惑そうに眉を顰める先生を前に、慎二は、結びかけの風呂敷の上に視線を落とした。
 なんとなく、分かるから―――はるかが何故、見合いを断ってしまったのか、その理由が。
 その考えを断ち切るように、慎二は再度、風呂敷の結び目をぎゅっと堅く結び直すと、先生の目の前に風呂敷包みをずいっと突きつけた。
 「…とにかく、これ。全部返して下さいよ」
 「おう。気が向いたらな」
 「―――絶対、返して下さい」
 軽く睨んでやると、先生はブツブツ言いながらも風呂敷包みを机の上から下ろした。それをしっかり見届けてから、慎二は席を立ち、2階に上がった。


 ―――はるかさんって、9月末が誕生日だったな。
 …ってことは、あと3ヶ月で27か。

 階段を上りながら、そんなことを思い、ちょっと眉を寄せる。
 キャリア志向の女性が多い昨今、27歳位、別に騒ぐような年齢ではない。が―――はるかは元々、家庭的で、寂しがりやだ。バリバリと仕事をこなすことより、巣を作ってそれを守っていくことに憧れるタイプに違いない。
 そう言えば2ヶ月ほど前、はるかは、同級生が結婚してその披露宴に呼ばれていた。周囲がバタバタと結婚していくので親がうるさい、と披露宴の帰りに西條家に寄り愚痴っていたのを覚えている。不満げなその表情は、ふとした瞬間、どこか寂しげに見えた。
 なのに、好条件の見合いを断った。
 会うことすらしなかった。

 …オレじゃ、駄目なのに。
 もしもオレがはるかさんを好きになることがあったとしても―――それは、ずっとずっと先のこと。それまではるかさんが待てる筈もないのに。

 このまま、ここにいて、いいんだろうか―――最近、時々そう思うようになった。
 自分がここにいる限り、はるかは自分にこだわり続け、築くべき家庭を築けないまま、(いたずら)に歳を重ねることになるんじゃないだろうか。ここを出て行った方が、はるかのためにはいいのかもしれない。…そんな風に。


 「ただいまぁ〜」
 慎二が階段を上り切る前に、玄関の引き戸がガラガラと開き、透子の声が階下から響いた。
 思わず足を止め、振り向く。暫しその姿勢で待つと、おそらく慎二の気配を感じたのだろう、階段下に通りかかった透子が、ひょこっと顔を覗かせた。
 「あれ? 慎二、どうしたの、そんなとこで」
 「いや、2階上がってる途中で透子の声がしたから、つい」
 「あはは、ヘンなのぉ…。ただいま」
 「おかえり。―――あ、そうだ。透子、今ちょっといい?」
 慎二がそう言って2階を指差すと、透子はキョトンと目を丸くし、首を傾げた。が、少し訝しげな顔をしながらも、トントンと軽快な足取りで階段を上ってきた。
 「どっち?」
 「んー…、透子の部屋でいいよ」
 「そう。じゃ…はい、どうぞ」
 ガチャリ、と自分の部屋のドアを開けた透子は、先に立って部屋の中に入った。今日は梅雨の晴れ間で、外は結構暑い。鞄を投げ出すと、透子は真っ先に窓を開け放ち、壁掛け式の扇風機のスイッチを入れた。
 透子の部屋に入るのは、実はかなり久しぶりだった。机の上に、今年のホワイトデーに慎二がプレゼントした花瓶がきちんと飾られ、そこに名前の分からない薄紫色の花が飾られているのを見つけた慎二は、思わず口元を綻ばせた。偶然かもしれないが、薄紫は、慎二が一番好きな色だから。
 「…慎二、紫が好きみたいだから。慎二の選んだ花瓶には紫が合うかな、と思って」
 慎二の目が花瓶に向いているのに気づいたのか、透子が、ちょっと照れたような口調でそう言った。
 慎二の好きな色を見抜いていたのはちょっと驚きだが、それ以上に、その色をこの花瓶に合わせようとしてくれたことに、慎二はかなり驚いた。
 「そこまで考えてくれると、プレゼントのし甲斐があるよなぁ…」
 フワリ、と慎二が嬉しそうに微笑むと、透子は慌てたように視線を彷徨わせ、ベッドに弾みをつけて座った。
 「ま、まあ、ね。―――それで、何? 何か難しい話?」
 「あ…うん。実は、進学の話なんだけど…」
 「進学?」
 「透子、もう行く大学、決めた?」
 予想外な質問だったのか、透子はまた目をキョトンとさせた。
 「…なに、どうしたの? 今までそんなこと、1回も訊いたことなかったのに」
 「いや、その…やっぱり、広島県内かな、とか」
 「うーん…実は、まだ決めてない。担任の先生は、地元かどうかより教授陣の質とか自分のレベルを重視して考えろって言ってるけど…その、慎二がこっちなら、やっぱり地元がいいかな、とか…」
 透子は、何故か後半になるにつれ小声になりながら、そう答えた。
 担任の言葉から察するに、担任は透子には、地元以外の大学を勧めているらしい。それがどこなのかは分からないが―――多分、関東か関西のかなり上位ランクの大学を勧められているのではないだろうか。
 「あの…もしかして、ここに居たら迷惑?」
 慎二の質問に不安なものを感じたのか、透子は心配げに訊ねた。
 「え?」
 「もしそうなら、私、一人暮らしするよ? 安いアパート借りて、バイトでがんがん稼ぐから、慎二に迷惑はかけないしっ」
 「ああ、違う違う。そういう話じゃないよ」
 どうやら、金銭的な問題の心配をしているらしい。慎二は苦笑し、まだ不安げにしている透子を安心させるようにポン、と頭に手を乗せた。
 「じゃあ…何?」
 「うん―――…」

 ここを、出て行く―――その場合、ただひとつ気がかりなのは、透子のことだ。
 20歳になるまでは、慎二は透子に対して責任のある立場だ。それに―――今年の始め頃、真っ暗闇で一人で震災の記憶と戦っていた透子を思い出すと、せめて後見人である間はあんな思いをさせたくない。
 ならば、はるかの問題より透子のことを優先して、ここに留まる方がいいのだろうか?
 いや、それよりも―――もし自分がここを離れたとしたら、それでも透子は、地元の大学を選ぶだろうか? 選ばないとしたら…この先、どうするのが一番いいのだろう?

 「慎二…?」
 「…ああ、ごめん」
 ますます不安そうに眉を寄せる透子に、慎二は再び苦笑すると、頭に乗せた手を引っ込めた。
 「なんでもない。ただ、さ―――オレも、ずっとここにいるとは限らないからさ。…オレのことは考えずに、透子が一番行きたい大学を選んだ方がいいよ」
 「…えっ」
 意外なことを耳にしたように、透子は、その大きな目を更に見開いた。
 「慎二…ここ、出て行くの?」
 「いや、そうは言ってないけど、でも…そういうことも、あるかもしれないからさ」
 「…東京に、帰るの?」
 自ら口にした言葉に、透子の顔が、僅かに強張る。
 そして慎二の顔も、悟られない程度ではあるが、強張った。東京に、帰る。確かに、一番現実的な選択肢だ。でも―――…。
 「…あくまで、“もしも”の話だよ。何か計画がある訳じゃなく」
 一瞬考えた、一番答えの出しづらい“もしも”を即座に頭から追い払い、慎二は静かに微笑んだ。そう―――まだ、何も決めていない。ここを出て行くことだって、確定した訳ではないのだから。
 「ごめん―――かえって不安がらせて」
 「ううん、でも…」
 「…大丈夫。透子がどこ選んでも、オレ、できるだけ透子のそばにいるようにするから」
 「―――…」
 その言葉に、透子は、動揺したように瞳を揺らした。
 視線が、戸惑ったように彷徨う。やがて透子は、微かに頬を染めて、プイとそっぽを向いてしまった。その反応はちょっと予想外で、慎二は少し目を丸くしてしまった。

 何故、透子がそんな態度を取ったのか―――この時の慎二は、その理由を知る由もなかった。


***


 透子たち3年生に、ほぼ最終に近い『進路志望調査票』が配られたのは、慎二が突然進路のことを訊ねてきた翌週の、水曜日だった。
 7月に入ったので、そろそろ志望校を絞れ、ということらしい。まだ決めかねている透子には頭の痛い提出物だ。
 ―――どうしようかなぁ…。
 バス停から家までの道のりをノンビリ歩きながら、いろんな大学名を頭に思い浮かべる。担任から勧められた関西の大学もあるし、そことほぼ同じレベルの関東の大学もある。そして勿論、地元の大学も。その中で優劣はある程度つけられるものの、決定的な決め手のようなものはない。そこが悩みの種だ。

 自分が一番行きたい大学を選べ、と、慎二は言った。
 どこを選ぼうと、できるだけ透子のそばにいるようにする、と言ってくれた。
 嬉しさと、苦しさで、胸が張り裂けそうだった。慎二がそう言ってくれるのが、後見人としての“義務感”からだ、と分かってしまうから。透子と一緒にいたくてそう言っているのではない―――嬉しいけれど、苦しい。
 それに、もし自分が地元以外を選んだら、慎二が透子のそばに行こうとするなら、それはギャラリーや教室の仕事を失うことに繋がる。いいんだろうか、そんな無茶をさせても…そう思うと、少し不満があっても、地元の大学を選ぶべきなのではないか、という気がしてくる。でも、そういう気を回すこと自体、慎二の言葉に背くことになるし―――。そうして、考えはぐるぐる、同じ所ばかりを巡ってしまう。
 こんな状況で、来週の月曜日には提出しろと言うのだ。これからの数日間、なんだかこの問題で頭がパンクしてしまいそうだ。

 「おおーい、透子ー」
 考えごとに没頭していた透子は、突如前方から飛んできた呼び声に、はっとして顔を上げた。
 見ると、本間が、家の前の道端で透子に向かって手を振っていた。
 「あ、本間さん。こんにちは」
 「待ったぞー、透子が帰ってくるの。急ぎの用なのに、先生も工藤も個展でバタバタしてて話にならなくて」
 助かった、という顔で本間が笑う。確かに昨日から、ギャラリー全体を貸し切って某イラストレーターの個展を開いている。それが結構な盛況で、教室は先生が、個展の手伝いは慎二がかかりっきりになってやっているらしい。にしても、先生や慎二に用事があるというのに、果たして自分でその代わりができるのだろうか?
 「急ぎの用って?」
 「あのな。多分工藤の部屋に、この位の大きさの青色の箱があると思うんだ。高さは7、8センチで、中に額縁が入ってる。それを探してきて欲しいんだ」
 本間はそう言って、手で空中に長方形を描いてみせた。だいたい、中判のスケッチブック位の大きさだろうか。
 「慎二の部屋ったって…どの辺にあるのか、全然分かんないよ」
 「古い物だから、天袋にでも入れてるんじゃないか? あ…透子じゃ背が届かないか」
 「届くよっ」
 ―――脚立を使えば。
 ムッとしたように眉を上げた透子は、本間を押しのけるようにして、合鍵で玄関の扉を開けた。慎二の部屋を家捜しするなんて趣味じゃないけれど、がさつな本間に勝手に掻き混ぜられるのもゾッとしない。慎二には申し訳ないが、家捜しさせてもらうしかないようだ。
 「本間さん、居間で待ってて。私、探して持ってくるから」
 「お茶とか淹れてくれると嬉しいなー」
 「自分で淹れればっ」
 「ケチだなー、冷たいなー、そんなんじゃ嫁の貰い手なくなるぞー」
 「大きなお世話です!」
 まだお茶に未練がありそうな本間を1階に残し、透子は2階へ上がった。
 自分の部屋に鞄を放り出し、慎二の部屋のドアを開けた透子は、ぐるりと中を見回してみた。ごちゃごちゃと画材やカンバスが置かれた部屋だが、本間の言うような箱は見当たらない。
 ―――やっぱり、天袋かな。
 ベッドの頭上の天袋が怪しいと睨んだ透子は、納戸から脚立を引っ張ってきて、スカートを踏まないよう慎重にその上に上った。割合大きな脚立だったので、上から2段目まで上れば、もう天袋の扉にちゃんと手が届く。
 「よいしょ…」
 引き戸を引き、中を覗き込む。ここにも、箱やスケッチブックが乱雑に収納されていた。スケッチブックなんてなかなか処分しないから増えていく一方なのではないだろか―――残りの空きスペースの少なさを思って、ちょっと頭がクラクラした。
 「…あっ。あれ、かな」
 ちょうど、引き戸に半分隠れている箱が、確かに大きさも色も本間の話と合致している。取り難い位置なので、透子は半ばつま先立ちするような姿勢で、その箱に手を伸ばした。
 だが、しかし―――その姿勢には、少々無理があった。

 「う…っわ、きゃああっ!!!」
 バランスを崩した1秒後、透子は、青い箱をなんとか掴んだまま、慎二のベッドの上に落っこちた。
 青い箱がなくなったことで、天袋の中身もバランスを失った。ベッドに倒れこんだ透子の上に、スケッチブックやら空箱やらがドカドカと降り注いできた。最後に、使わなくなったけど保管しておいた、といった感じの絵筆がコン、と透子の頭の上に落ち―――やっと、静寂が戻ってきた。
 「透子ー? 大丈夫かー?」
 階下から、呑気そうな本間の声が聞こえる。どうやら、悲鳴や物が落ちる音が下にも聞こえたらしい。
 「だ…っ、大丈夫ーっ。い、いたたたた…」
 ―――あんまり大丈夫じゃないかも…。
 落ちる時、少々足を捻ってしまったようだ。ズキン、とくる痛みに顔を少し歪めながら、透子はなんとか起き上がった。
 落ちながらも死守した青い箱は、かなり古そうなものだった。試しに開けて見たところ、中には貝殻などをあしらった洒落た軽量フレームの額縁が入っていた。多分、本間が言っていたのはこの箱だろう。よし、下に持っていこう―――そう思って透子は、ベッドから下りようとした。

 その時。
 ふとあるものに目を留めた透子は、その場に釘付けになった。

 「―――…」
 ベッドからも外れ、床の上に落ちてしまった荷物が1つ、透子の足元に投げ出されていた。
 A4サイズより少し大きい位の、紺色の革張りの本―――いや、違う。本ではない。透子の知るそれは、丸めて円筒に収められたものばかりだが、確か大学などでは、こういう装丁のものもあると聞いた。
 落ちた勢いで、中身を晒すように広げられたそれは、卒業証書だった。
 でも、慎二の卒業証書ではなかった。そして…ちょっと、普通ではない、卒業証書だった。


 『飯島多恵子』

 卒業証書に書かれた名前と、その名前の下にくっきりとつけられた、真っ赤なキスマーク。

 「多恵子―――…」
 ―――“たえこ”。
 捜し求めていた人の名をそこに見つけ、透子は、心臓が凍りついたような錯覚を覚えた。


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