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08

: Lipstick Trap (3)

 玄関の引き戸を閉めた透子は、サッシに手を添えたまま、大きく息を吐き出した。
 喉が、震えている。
 緊張からくる冷や汗で、制服のブラウスが肌に纏わりつく。果たして普通に振舞えていただろうか―――本間は特に何も言わなかったし、多分、大丈夫だろう。
 腕時計に視線を走らせ、時間を確かめる。16時45分…まだ時間はある。けれど、急ぐに越したことはない。つい怖気づきそうになる自分を奮い立たせるように唇を軽く噛むと、透子は思い切って玄関を上がり、階段を駆け上った。
 慎二の部屋のドアは、薄く開いたままだった。唾を一度飲み込み、そっとドアを開いてみる。するとそこには、さっき透子がこの部屋を後にした時のままの光景が広がっていた。
 ベッドの上に床の上に、散乱する、スケッチブックや箱―――それに混じって、あの卒業証書。
 ―――頭が、ガンガンする。
 それでも透子は、部屋の中に足を踏み入れた。
 卒業証書はとりあえず後回しにして、それ以外の散らばってるものを拾い上げ、机の空きスペースに丁寧に積み上げていく。これをまた脚立に乗って天袋に戻すつもりはない。入っていた順番が分からないし、また落ちる危険性が大きい。ぶちまけてしまったことを素直に謝り、慎二に戻してもらった方がいい。
 落ちていたもの大半は、スケッチブックや古い画材を詰めた箱だった。もう使えそうにない、硬くなった油絵の具なども、箱から飛び出して床に落ちている。絵以外のものがほとんど見当たらない荷物―――慎二にとって、本当に絵が全てなんだな、と、こんなものからも思い知る。
 だから余計、異様に映る。
 たった1つ、絵とは無関係な―――しかも、他人の名前の、卒業証書が。
 全ての荷物を積み上げ終えた透子は、また大きく息を吐き出し、振り返って最後に残った1つを見つめた。
 ぽつん、と床の上に取り残されたそれを、そのまま見つめ続ける。まだ、迷いがあった。でも―――どのみち、あのままにはしておけない。意を決した透子は、床の上にペタンと座り込むと、卒業証書をそっと手に取った。

 ずっと天袋に入れたままになっていたからなのか、それとも大切にしているからなのか、表紙の濃紺も証書のクリーム色の紙も、全く色褪せていない。透子は、透明なプラスチック板に挟まっている証書の文字を、指で辿りながら読み上げた。
 「卒業証書―――学生番号912302、飯島多恵子。本学外語学部ドイツ語学科所定の課程を修めたことを証する。…1994年3月20日、一城大学学長、本多雄造…」
 94年―――震災の前の年。
 その年に卒業したということは、もしも現役合格していたのなら、現在25歳―――慎二の、2つ年下。
 一城大学、という名前は、透子もよく知っている。東京にある名門校で、語学系にいい教授が揃っていると担任に教えられ、透子自身、進路志望調査票に書くかどうかで迷っている大学名の1つだ。
 慎二が尾道に来たのは、93年の春だった筈だ。94年には、既に東京にいなかった。…ということは、わざわざ送ってきたのだろうか?
 普通、卒業証書なんて、人にあげるものだろうか。透子が慎二に渡すのは理解できないでもない。高校に通わせてくれた人だから、卒業の証をその人に託す―――ありそうな話だ。だが、2つ年下の女の子を慎二が大学に通わせていたとは、到底思えない。ならば、何故…?
 それに。
 この、名前の下につけられた、これみよがしなキスマーク。
 きっと、ふざけてつけたものだろうけれど。ただの友達に、こんなものは送らない筈だ。送るとしたらその相手は―――…。

 「―――恋人、か…」
 そうだろうとは、思っていたけれど。
 今まで、“たえこ”という音の羅列だけだったものが、苗字と漢字を得、プロフィールを伴い、現実の人間として少しずつ形を成してくる。どんな人なのだろう―――慎二が今も夢に見てその名を呼ぶほどに、想っていた人…いや、今も想っているかもしれない人は。
 卒業証書に書かれた名前を、また指で辿る。そんなことをしても、どんな姿も、どんな声も浮かんでこない。なのに、暗い感情だけは確実にこみ上げてくる。自分の知らない慎二を知っている人―――自分よりも慎二とつり合いの取れる年齢の人に。
 この人は今、どうしているんだろう?
 こんなものをわざわざ慎二に送ってくるほど、彼女にとっても慎二は大切な人なのに…何故、今、一緒にいないのだろう?

 1階の居間のアンティーク時計が、ポーン、という小さな音を立てた。どうやら午後5時になったらしい。その音で何かに区切りをつけたかのように、透子は卒業証書をパタンと閉じ、立ち上がった。
 机の上に積まれた荷物の、大体真ん中あたりに、卒業証書を滑り込ませる。不自然さがないよう、細心の注意を払って。
 わざと見た訳ではないが、偶然見てしまったものを改めて確認したことには、少し罪悪感を覚える。透子は心の中で、慎二に「ごめんね」と謝っておいた。

 

 「本間さんから頼まれて、天袋の中の荷物取ろうとしたら、いっぱい落っこちてきちゃった。何が何だか分からないから、ひとまず机の上に積んでおいたけど、それでよかったかなぁ?」
 帰宅した慎二にそう言うと、慎二はちょっと驚いた顔はしたが、怒ったりはしなかった。
 「いいよ、オレ自身、何入ってたか覚えてないし。でも―――大変だったんじゃない、透子には。本間さんに取らせればよかったのに」
 「あー、そうだね、そう言われれば」
 慎二のものに、自分以外の人間に触れて欲しくなかった、という本音は、口にはしなかった。
 恋をしてから一番上手くなったことは、嘘をつくことかもしれない―――そんなことを思い、透子は少し、哀しくなった。


***


 一晩中、悪い夢を見ていた。
 1日の最後に、カレンダーの日付をペンで消す。だから、悪い夢を見るのかもしれない。嫌でも明日が何日なのかを確認してしまうから。
 朝、一度目覚めても、起き上がる気にもなれなかった。夢を引きずるようにして、ぐったりと横たわる―――すると間もなく、また眠りに引きずり込まれ、切れ切れの夢を見続けた。
 こんな夢を見る位なら、いっそ電話の一本でもかけて、全てを終わらせればいいのに。そう思うのに、それができない自分が腹立たしい。結局今年も、こうして、過去の映像を脳裏に甦らせては、罪の意識と不安に苛まれる―――その、繰り返しだ。

 そんなことを、何時間繰り返しただろうか。
 慎二は、何の前触れもなく、唐突に夢から覚めた。


 窓から射し込む光が、午後の光に変わっていた。
 今、何時なのだろう―――首をもたげ、時計を確認しようとした慎二は、ふと机の方に目をやった途端、目を丸くした。
 「―――透…子…?」
 机の前の椅子に座った透子が、机に突っ伏すようにして眠っていた。
 まだ夕方ではないのに、レモンイエローのTシャツにジーンズのミニスカートという透子の姿を見て、今日が土曜日であることを思い出す。午前で授業が終わり、もうとっくに帰宅していたのだろう。それにしても…こんな所で寝ているなんて、どうしたのだろうか。
 だるさを訴える体を無理矢理起こした慎二は、グラリと眩暈を起こした頭を押さえ、しばしじっと動かずにいた。少し眩暈がおさまったところで、のろのろとベッドから這い出ると、微かな寝息をたてながら眠っている透子の背中を軽く叩いた。
 「透子?」
 「……ん……」
 元々、眠りが浅かったのだろうか。両手の甲に右頬を乗せるようにして寝ていた透子は、一度背中を叩いただけですぐに反応を示し、僅かに眉を顰めながら重たげに瞼を上げた。
 焦点の合わない目で暫く慎二の顔をぼんやり眺めていた透子だったが、やがて事態を把握したらしく、ぱっちりと目を開けた。
 「―――あ、慎二…。起きたんだ」
 「うん―――どうしたの、こんなとこで」
 「ん…、慎二が起きるの待ってたの。でも、眠ってるの見てたら眠くなっちゃった」
 目を擦りながら体を起こした透子は、そう言って笑った。
 「今日って慎二、お休みでしょ?」
 「え? ああ、うん。例の個展がやっと終わったから」
 火曜日から始まったイラストレーターの個展が、昨日やっと最終日を迎えたのだ。主に慎二が中心となって運営していたのだが、どういう訳かやたらトラブルの多い個展だったので、昨日の夜にはかなりの疲労困憊状態になっていた。それを見かねた先生が、今日は教室もないし、と言って慎二だけ休みにしてくれたのだ。今日が“例の日”であったのは偶然だが、休みになったのは好都合だった。
 「じゃあ、今からも暇?」
 「まぁ、そうかな」
 「じゃ、付き合ってくれない? 駅前の花屋さん」
 「花屋?」
 「慎二にもらった花瓶に活けてた花が、しおれちゃったから。…慎二が選んだ花瓶だもん、たまには慎二が気に入った花を活けようかと思って」
 なんだって急に、そんなことを言い出すのか分からないけれど。
 かと言って、断る理由もない。それに、いい気分転換になるかもしれない。慎二は透子の誘いに、
 「ああ…いいよ。付き合うよ」
 と答えた。

***

 半ば強引に、パンと牛乳という朝食のような昼食をとらされた慎二は、家を出る時になってやっと時計を確認した。午後3時半過ぎ―――随分眠りこけてたんだな、と少々自分に呆れた。
 外に出てみると、空は、部屋の中でイメージしていたのとは違い、うっすらと白い雲が全体にかかっていた。それでも、その薄い雲を通して地上に注いでくる太陽の光は、強い。まだ頭の芯がグラついている慎二には、その光が余計に強烈に感じられる。その光に、夏がもうすぐそこまで来ていることを実感した。
 「あ、そう言えば。荘太、今年もインターハイ行き決まったって」
 駅前までの道のりをのんびり歩きながら、透子が慎二を見上げてそう言った。
 「へぇ、もう決まったんだ」
 「うん。先週の日曜日に県大会あったけど、なんか着順でもめてたらしくて、昨日やっと正式決定したって。去年よりタイム伸びてるからね。念願の全国1位も夢じゃないかも」
 「ふぅん…凄いなぁ…。2位でも十分凄かったけど、1位はその上がないもんなぁ」
 「去年が去年だったから、信憑性があるでしょ。だから町内でも、何かお祝いのイベントをやろうかって話が持ち上がってるらしくて、荘太本人は“勘弁して欲しい”って言ってた」
 「あはは、そりゃ、当人は嬉しいより気恥ずかしいだろうな」
 実は慎二には、高校時代、とある新聞社主催の著名な絵画展に応募し、高校生の部で2位に入った経験がある。あの時の慎二も、学校中で話題になって非常に困った。新聞部の連中がインタビュー記事を載せたいと言って取材に来た時は、大慌てで逃げ出した。あの時の気恥ずかしさと変な焦りは、やたらとよく覚えている。
 以来、自分は勝負事には向いてないな、と悟った慎二は、絵画展にも公募にも背を向けた。先生から散々「そんなことでどうする!」と発破をかけられるが、人間、向き不向きがあるのは仕方ないことだ。
 「お祝いイベントは置いとくとしても、優勝できるといいね。高校最後の試合だろうから」
 当然のように慎二がそう言うと、透子は、一瞬複雑そうな表情をしたものの、すぐに笑顔で「そうだね」と相槌を打った。

 

 駅前の花屋には、色とりどりの花がズラリと並べられていて、どれを選べばいいのか迷うばかりだった。
 「お好みの色目とかあれば、こちらでいくつかお薦めしますよ?」
 多分、客が注文したものなのだろう、ピンクを基調とした花束を作りながら、店員が迷ってる風な2人にそう声を掛けてくれた。
 「色、か…。透子、何色が好き?」
 「んー、黄色とかオレンジとか…元気な色が好き」
 「薔薇も、黄色やオレンジが結構ありますよ。あと、可愛らしい系統でしたら、ガーベラとか」
 「でも、なんか違う気も―――慎二、どれがいいと思う? あの花瓶にどれが合うかな」
 「薔薇よりはガーベラかな」
 「だよねぇ。うーん…」
 それでもまだしっくり来ないのか、透子は眉をひそめて他の花などにも視線を彷徨わす。そして、花が入れられている冷蔵室からその視線を外した時、透子の表情が変わった。
 「…あ。あの、すみません」
 「はい?」
 「あれって、もう売ってるんですか?」
 そう言って透子が指差した方を見た慎二の心臓が、次の瞬間、大きく跳ねた。
 銀色のディスプレイ用の入れ物ではなく、プラスチックのバケツに入れられていた花―――それは、ひまわりだった。
 おそらく、早めの出荷ができるよう栽培されたものだろう。オレンジ味のかかった黄色い花びらが、折り重なるようにして咲き誇っている。切花用のものだから、普段畑や庭先などで見かけるものよりずっと小さく、背も低い。が、ひまわり独特の形は、ミニチュアサイズになっても変わらなかった。


 ――― 一面のひまわり畑。
 延々と続く、どこまでもどこまでも―――遠くには、赤い屋根の民家が2軒見えて、右手にはあぜ道が、左手には大きな木が見える。あとは、見渡す限り、ひまわりばかり―――空に、黄色いひまわりの花が溶け込んでしまうみたいに。

 『あれって、どこだったのかな―――子供過ぎて、もう覚えてないんだ。シンジにも、見せたかったな。…惜しいね。今が夏だったら、探しに行くのに』
 …夏まで一緒にいられたのなら、探しに行けたのに。

 思い描く、まだ見ぬ光景。
 “彼女”がくれた、たくさんのイマジネーション―――その中で、まだ目にしていない光景のひとつ。
 …不思議だ。今日、よりによって今日、その光景の切れ端をこんなところで目にするなんて。


 「ああ、そちらのひまわりは、今日入荷したばかりで、これから店頭に並べるところだったんです」
 「あのー…、今からでも買えますか?」
 「ええ、構いませんよ?」
 店員の言葉に目を輝かせた透子は、くるりと慎二を振り返った。
 「ね、ガーベラとひまわり、どっちがいいかな? どっちが好き?」
 透子の机の上の花瓶をイメージする。そこに活けられたガーベラとひまわりをイメージする。どちらが、透子に似合うだろう―――何故か、そんなことを考えながら。
 そして、思う。透子にはひまわりが似合う、と。
 どちらも、花の重みに茎が負けて、クタリと首が折れて下を向いてしまう傾向のある花だけれど。ひまわりは、太陽の方を向こうと、もう一度頑張って顔を上げる…そんなイメージがある。温室ではなく、真っ青な夏の空の下に咲く花―――8月生まれの透子には、ピッタリな花かもしれない。
 「…ひまわりの方、かな」
 慎二が、冷蔵室の脇に置かれたひまわりの方を指差すと、透子は嬉しそうに笑った。透子もひまわりの方が気に入っていたらしい。
 「じゃあ、ひまわりの方を3本」
 「あ、ちょっと待って」
 さっそく買おうとする透子を制して、慎二はGパンのバックポケットから財布を引っ張り出した。
 「オレも欲しいから、オレ買うよ。…すみません、10本下さい」

 確か物置の中に、ずっと使っていない、ちょっと面白い形をした花瓶があった筈だ。
 それにひまわりを活けて、久々にスケッチしてみよう―――突然の思いつきだが、結構楽しい絵になりそうだと、慎二は思った。

***

 「なんか、悪かったなぁ…。慎二に買ってもらうんだったら、ガーベラ選べばよかった」
 店を出ると、ひまわりの花束を抱えた透子は、そう言って少し眉を寄せた。
 「なんで?」
 「ガーベラの方が安かったから」
 「あはは、この位で苦境に立たされるほど貧乏じゃないから、大丈夫だよ」
 「でも―――あ、ねぇ、慎二」
 家の方角に歩き出しかけた慎二のパーカーの裾を掴み、透子は、ひまわりの花束で海の方向を指し示した。
 「せっかくだから、海、見て行かない?」
 「え? ああ…、うん」
 確かに、それも悪くない。誘われるがままに、慎二は透子と一緒に、駅裏の遊歩道の方へと歩き出した。
 それにしても―――今日の透子は、なんだか不思議だ。
 ひまわりと、海。偶然かもしれないが、今日の慎二にとっては、色々と考えさせられてしまうものばかりが出てくる。一昨年だっただろうか、やっぱり今日、透子を連れて海を見に行ったことがあったが、その時のことを覚えていて海に誘っているのだろうか。…いや、それは考え過ぎかもしれないが。
 駅の裏手をしばらく行くと、海沿いに整備された遊歩道に出た。土曜日ではあるものの、既に夕方になりつつあるせいか、人影はまばらだった。透子は、海がよく見えそうなベンチが空いているのを見つけると、ひまわりを両腕で抱えて駆けて行った。
 「特等席、ゲット!」
 ベンチにすとん、と腰を下ろし、ミニスカートから伸びた脚を投げ出すと、透子はそう言ってひまわりを慎二に向かって振って見せた。
 「何、透子、最初からそのベンチを狙ってたの?」
 「ううん。でも、海がよく見えるし、座ってれば長居しても大丈夫でしょ?」
 クスクス笑う透子に苦笑を返しながら、慎二もその隣に座った。
 透子の言う通り、特等席だ。尾道水道の水面が太陽の光を反射してキラキラ光る様が、ここからはよく見える。透子が、ひまわりを膝の上に置いて海を眺めだしたので、慎二もしばし黙って、海を眺めることにした。

 不思議なのは、自分もかもしれない。
 色々と考えさせられるものを目にしながらも、気持ちが落ち込んでいくことも、神経が昂ぶることもない。何故か穏やかに、それらと対峙することができる。何故だろう―――去年もこんな風でいられただろうか? たった1年前のことなのに、その記憶は曖昧だ。
 尾道に来て、5度目の7月5日。
 本気で東京に戻ろうかと思った1度目。幾分落ち着いた気分で過ごせた2度目。嫌な予感に苛まれて一番苦しかった3度目。ほとんど悪夢にうなされ続けていた4度目。そして―――何故か、透子と一緒にひまわりを買って、一緒に海を見ている、5度目。
 それだけの時間が過ぎたから、なのだろうか。
 絶対に揺るがないと思っていたものも、5年も経てば、なし崩しになってしまうということなのだろうか。だとしたら…少し、哀しい。

 「…今日って、本当は、はるかさんのお見合いの日だったんだよね」
 いささか唐突に、透子がそう言う。
 その言葉に、半月ほど前先生に聞いた話を思い出した慎二は、少し目を丸くして透子の方を見た。透子も慎二の方を見ていた。先ほどの満面の笑みは既に消えていて、少し硬い表情をしている。
 「そうなんだ? 初耳だけど」
 「うん。私も、昨日の晩初めて先生に聞いた。前に断った人が、やっぱりどうしても会って欲しいって言って、今日にセッティングしたんだって。でも…また断っちゃったみたい」
 「そっか…」
 慎二の表情も、暗くなる。勿論、見合いをするもしないも、はるかの自由だ。けれど―――…。
 「…ねぇ、慎二。もしかして、はるかさんのために、あの家出てくこと考えてるの?」
 ずばり、核心を突かれて、慎二は一瞬、言葉に詰まった。図星であることは、顔にも出てしまっていたのだろう。慎二の反応を見た透子は、やっぱりね、という顔をして微かに笑った。
 「もう、決めたの?」
 「―――いや。だから、先生にもまだ相談してないよ。先生は、はるかさんのこと、全然知らないし…」
 「もし出て行くとしたら、教室やギャラリーはどうなるの? 先生1人でやってけるのかな」
 「ん…、それは、実は少し考えてる。本間さんに後を頼もうかな、って」
 本間は、慎二よりも先輩格の画家だが、かと言って絵だけで生きていけるほどでもない。だから実は、居酒屋の雇われ店長というもう1つの顔も持っていたりする。夜遅くまである仕事なので、夜型の本間には合っている仕事かもしれないが、その分絵を描く時間が削られて痛し痒しだ、と時々ぼやいている。
 ならば、慎二が出て行った後を、そのままそっくり本間に頼んでいけないだろうか。それこそ、住んでいる部屋に至るまで。もし透子も他県の大学に行ってしまえば、いきなりひとり暮らしになる先生は、かなり寂しいだろうから。
 「ああ…、本間さんも子供うけ良さそうだよね。ああいう顔のキャラクターって子供向けのアニメにいそうだし、よく冗談言って人を笑わせてるし。“駄洒落おじさん”とか呼ばれて慕われそう」
 「あはは、そりゃちょっと酷いよ」
 透子の容赦ない想像に、思わず笑ってしまう。透子も楽しげに笑っていたが、すぐにまた真剣な表情に戻った。
 「それで―――慎二の方は?」
 「え?」
 「慎二は、出て行ったら、仕事どうするの?」
 「オレは―――うん、まあ、色々考えてる」
 「色々って? まさか、またフリーターに逆戻りとか言わない?」
 心配そうに眉をひそめる透子に、その心配の理由を察して、慎二は苦笑した。やっと人並みに定職についたのに、はるかのために、また昔のフラフラした生活に戻ってしまうのか―――と、それが心配だったらしい。
 「結果的にはそうなる可能性もあるけど―――できるだけ、絵を描いて生きてける仕事、探すつもりだよ。あの家を出て、どこに行くかにもよるけどね」
 「絵を描いて生きて行く、って…例えば、どんなのがあるの?」
 「うーん…、機会は少ないかもしれないけど、広告関係とか。あと多いのは出版関係かな。雑誌や本の挿絵とかね」
 「…そう」
 慎二の答えを聞いた透子は、小さく相槌を打つと、少し安心したように表情を和らげながらも、フイと視線を逸らして、また海を眺めてしまった。そしてそのまま、黙りこんでしまった。
 ―――どうしたんだろう…?
 こうした態度の透子は初めてで、ちょっと戸惑う。大人になってきたせいか、最近の透子は、少し分かり辛いところがある。時々、表情が読めないというか―――何を考えているんだろう、と、こちらが心配になってきてしまうような、酷く曖昧な表情をする、というか。
 「―――あのね、慎二」
 海に目を向けたまま、透子は唐突に口を開いた。
 「私も多分、ここを出てくと思う」
 「え?」
 「大学、他県になると思う。勿論、受かればだけど」
 「…そうか。もう大学、決めたんだ」
 慎二がいるなら地元がいい、と言っていた透子だったが、どうやら他県に絞ったようだ。
 「どこ? 大阪?」
 「…ううん。東京」
 そう言って透子は、ゆっくりと慎二の方を向いた。
 「東京の大学に、行く。たとえ、ひとり暮らしすることになったとしても―――私、東京の大学に行く」
 「―――…」

 なんて目を、するのだろう。
 真っ直ぐに慎二の目を見据える、大きな瞳―――揺るぎない、全ての退路を断っての決断だと知らしめるような視線。まだ子供の純粋な部分を残した目なのに、その目は、生半可な大人では敵わないような、そんな迫力を持っていた。
 そして、何故か―――奥底に、何か暗いものを抱えているような目だった。
 なんて目で、自分を見るのだろう。こんな目を向けられると、さすがにドキリとさせられる。

 「もしも慎二が、この前言ったとおり“できる限りそばにいて”くれるなら―――慎二も東京に戻ることになるね」
 「……」
 「出版社も広告代理店も、東京が一番たくさんあるから、好都合かもね」
 「…ああ、そうだね」
 なんとかそう相槌を打つ。すると透子は、僅かに眉を寄せ、少し寂しげな顔をして、こう言った。
 「―――それでも、帰りたくない?」
 「……」
 「それでも、他のとこを選ぶ? …でも私は、慎二が他のとこ選んでも、絶対東京の大学に行くから」
 また、言葉に詰まる。
 “帰りたくない?”―――どの時点で、見抜かれていたのだろう? そう…東京には、戻りたい気持ちと戻りたくない気持ち、両方持っている。戻った先に何が待っているか―――それを見極めるのが怖くて、戻れない。
 でも―――もしも、透子が、どうしても東京に行くと言うのなら。
 誓ったから。透子を引き取ると決めた時。絶対に一人にはしない、と。全てのものから逃げ続けてきた自分だけれど、この子からだけは逃げずにいよう、と。
 「…透子が東京を選ぶなら、オレもそうするよ」
 慎二の言葉に、透子の瞳が微かに揺れた。
 「神戸の、焼け落ちた家の前で指きりしたの、覚えてるから。…透子が一人前になるまで、絶対一人にはしない、って。お父さんやお母さんの代わりに、透子が大きくなるの、一番近くで見守るって」
 「……」
 キラキラと光る透子の目から、静かに涙が零れ落ち、頬を伝い落ちる。何の涙なのだろう―――その意味は、分からないけれど。

 ちゃんと、覚えている。この指に絡んだ、今の透子の指よりも少しだけ小さかった、中学3年生の透子の小指。
 運命だと思った。
 こんな自分が、ひとりきり泣いている透子を見つけることができた―――いつも誰かに見つけてもらうことを待ってた自分が、透子を見つけた。だからきっと、これは運命なんだと…助けてやれと、誰かが自分に命じているのだと、そう思った。

 助けられれば―――意味が、見つかるかもしれない。
 たったひとり、“生き残った”意味が。自分も、そして透子も。

 緊張の糸が切れたように、透子は俯くと、僅かに肩を震わせて泣き出した。
 慎二が行くと決めたところについて行く、と言う方が、どれだけ楽だったか知れない。慎二が東京を避けていると気づきながら、それでも東京に行くと宣言したのは―――多分、透子にとっては賭けだっただろう。もしかしたら、ひとり東京に行くしかないと覚悟していたのかもしれない。
 帰ろうよ、と。
 帰って、決着をつけようよ―――と、透子が無言のうちに、慎二に訴えているような気がした。…勿論、何も事情を知らない透子が、そんなことを言う筈もないけれど。でも、何故だろう―――透子が東京を選んだのは、慎二を東京に連れ帰るためのような気がして、仕方なかった。
 「…透子が一緒だから、帰れるよ。きっと」
 くしゃっ、と透子の髪を撫でた慎二は、僅かに覗いた額に、軽く唇を落とした。
 「透子の生まれ故郷も、東京だろ? …いいよ。2人で一緒に帰ろう…?」


 真夏の青い空の下、他の仲間よりも小さいながらも、真っ直ぐに伸び必死に生きようとする、1本の向日葵(ひまわり)
 二度と倒れないよう、支えなくては―――その義務感が、今の自分を生かしているのかもしれない。
 でも、それでいい―――自分を生かしてくれるこの存在を、慎二は、恋愛とも友情とも肉親愛ともまた違った意味で、とても愛しいと感じた。


***


 机の上の花瓶には、3本のひまわりが活けられている。
 進路志望調査票を広げた透子は、シャープペンシルを手に、気持ちを落ち着かせるように大きく深呼吸をした。しばし、ひまわりの花に目を向ける―――最後の決断をするために。
 やがて、全ての迷いを吹っ切った透子は、調査票に名前を書き入れ、続けて一気に、下の空欄を埋めていった。

 『第1志望: 一城大学 外語学部 英語学科』
 『第2志望: なし』
 『第3志望: なし』

 書き終え、シャープペンシルを置く。
 もう一度見直すと、透子は、その調査票を素早く四つ折にし、学生鞄の中にしっかりとしまいこんだ。もう、書き直せないように。

 「…慎二、怒るかな」
 でも、もう、決めた。

 最終通告のように、鞄をカチリと閉めると、透子は灯りを消し、ベッドにもぐりこんだ。


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