←BACK二十四季 TOPNEXT→

08

: Lipstick Trap (4)

 「一城大学、狙うことにしたから」
 透子がそう言うと、慎二は一瞬、息を呑んだ―――ように、見えた。
 けれど、反対したり、何故一城を選んだのかと問い詰めたりはしなかった。
 「…そっか。オレもそろそろ、本格的に考えないとまずいなぁ」
 のんびりとした口調でそう言った慎二の心の内が、どんなものだったのか―――透子には、見極めることができなかった。

 こんな理由で大学を選ぶなんてどうかしている。バカだと、自分でも思う。
 けれど―――頭に一度棲みついてしまった考えは、なかなか追い払えない。その動機が不純なものであっても、今の透子には、一城以上に行きたい大学など見つからなかった。

***

 進路指導室から出ると、ドアのすぐ横で、荘太が腕組みをして待っていた。
 その顔に浮かぶニヤニヤ笑いを見たら、荘太が何を言おうとしているのかがすぐ分かる。ただでさえ疲れてるところに、これだ。透子はウンザリ顔で荘太を一瞥した。
 「廊下でもスッゲー音量で聞こえてたぜ。岩田の怒鳴り声が」
 「…そりゃ、聞こえるでしょうよ。あの音量じゃ」
 岩田、というのは、進路指導担当教官の名前である。中年の女性教師だが、やたら声が甲高い。それを密室で延々聞かされた透子の耳は、今耳鳴りに襲われていて、荘太の声も聞き取り難い有様だ。
 「だから第2志望とか第3志望も嘘でいいから書いとけって言ったんだよ」
 「…一城の受験日と近そうな大学いくつか言われたから、今度はその辺書くつもり。正直に書いただけなのに、あんなに怒鳴るなんて大人げないなぁ…。…それより荘太、こんなとこで何してんの」
 疲れた声で透子がそう言うと、荘太は、待ってましたと言わんばかりに、何かを透子の目の前にバッ、と広げた。
 「?」
 どうやらそれは、数学のテストだったらしい。ちょうど期末が終わり、テストが続々と返却されている時期だから、多分期末テストの答案用紙。少し目を細めるようにしてそれを見た透子は、右上に赤ペンで書かれた点数を見て、一旦細めた目を最大限大きく見開いた。
 「は…っ、89点!?」
 「ふはははは、どうよ。俺様もちょっとやりゃあ、この位はいくんだ」
 日頃50点台をうろついている荘太だから、確かに表彰ものの点数だ。がしかし、自慢げに胸を反らす荘太に、透子はムッとしたように眉を顰めた。
 「…何が俺様よ。私が集中講座やってあげてるおかげの89点じゃないの。俺様とか言うなら“透子様”を崇めるのが先なんじゃない?」
 「勿論、感謝してマス」
 調子よく笑う荘太を軽く睨んではみるものの、実際のところ、ここまでやるとは透子も思っていなかった。荘太の成績が低迷していたのは、頭の性能の問題ではなく本人のやる気の問題だったらしい。

 昨年、インターハイで2位になった荘太には、3年になってすぐ、入学を打診してくる大学が2、3現われた。その中には、関東の名門校も1つ入っており、陸上部の顧問は本人をよそに結構舞い上がっているらしい。しかし、そんな顧問をよそに、その話を聞いた担任教師は「あまりにもバカだと、学力面ではねられるぞ」と冷静だった。つまり、基礎学力レベルがあまりにも低すぎたら、いくら欲しい選手であっても獲得を断念する場合がある、ということだ。
 そのことは荘太もある程度予測していたが、去年まではインターハイに賭けるあまり、ほとんど勉強には無頓着できていた。今年はそうもいかないな、と再認識した荘太は、遅まきながらエンジンをかけ始め、透子に専属家庭教師を願い出たのだ。

 「透子が選んだのが一城でラッキーだった。一城はインカレの陸上では常連校だし、今年の成績次第では絶対声かけてくる筈だからさ。推薦とったら俺が先に入学決めるから、お前、絶対落ちんなよ」
 廊下を歩き出しながら、早くもそんなことを言う荘太に、透子は複雑な心境を表すように、僅かに眉を寄せた。
 「…でも、荘太。もし同じ大学行ったとしても」
 ―――荘太の気持ちには多分、応えられないよ?
 続けようとした言葉を分かってるみたいに、荘太は透子の言葉を遮った。
 「だーめ。言ったじゃん。勝負はまだだ、って」
 「……」
 「高校3年間は、オトモダチでいたいんだって、俺も。…勝負にならないうちから、諦めさせんなよ。1位とるのは、大学入ってからだ。それとも、俺が同じ大学にいたら、嫌か?」
 「まさか。そんな訳ないじゃない」
 とんでもない、という風に、透子は大きく首を振った。
 「荘太は一番大事な友達だもん。それに、東京には知り合いいなくて心細いし―――荘太が一緒ならいいな、って、私も思うよ」
 それは、間違いなく、透子の本音だ。
 心からの言葉であることは、多分、声にも表れていたのだろう。荘太はそれを聞いて、とても満足そうに笑った。

 

 お前が応援に来ると力が入り過ぎるから、と荘太に言われ、透子はその年のインターハイの応援には行かなかった。
 8月初旬、古坂と共に応援に行っていた真奈美からの電話で、透子は荘太が去年の雪辱を果たしたことを知った。
 去年と大差ないタイムなのにダントツで優勝したことに、荘太は「こんなレベルの低いレースで優勝しても、ちっとも誇りに思えない」と不満そうだったという。荘太らしいなぁ、と、笑いながらも、とうとう目標を達成した荘太に、大きく水をあけられたような焦りを感じた。

 負けてはいられない―――勝負の日は、2月。あと半年余りだった。


***


 慎二が先生に、尾道を離れて東京に戻る計画を話したのは、夏休みも終わり、9月に入ってからのことだった。
 本間の意向をある程度確認しなくてはいけなかったのと、東京へ行ってからの仕事先を得るために色々とつてを頼っていたら、あっという間にこの時期になってしまったのだ。まだ仕事は決まっていないが、これ以上先延ばしすれば先生に迷惑がかかってしまうと考え、意を決して話したのだった。

 暫く黙って慎二の話を聞いていた先生は、昼食後のコーヒーを一口飲み、小さく息を吐き出すと、向かいに座る慎二を見据えた。
 「違っていても怒らんで欲しいんだが」
 「はい…?」
 「透子のそばにいてやりたい、って話は本当だろう。でも、そもそもの原因は―――もしかして、はるかか?」
 ちょっと、驚いた。
 まさか先生が気づいているとは知らなかった。いや…でも、考えてみれば、先生ははるかの肉親だし、見合いの問題などではるかの親の愚痴も聞いている。気づくのは当然なのかもしれない。慎二は観念し、躊躇いがちに頷いた。
 「やっぱり、そうか…」
 「…すみません」
 「馬鹿、謝るな。むしろ、お前に要らん気を遣わせて申し訳ない位だ」
 「そんなことは」
 眉をひそめる慎二を手で制し、先生は小休止というようにコーヒーを口に運んだ。そして一息つくと、考えを纏めているように小さく何度か頷くと、最後に大きく頷いた。
 「…お前の話は、分かった。こっちのことは心配いらん。透子は向こうでも頼る人間がおらんからな。せめて後見人でいる間位、しっかりついててやれ。…で―――戻ったとして、仕事のあてはあるのか?」
 「一応、どこかの画廊にコンスタントに絵を置かせてもらう予定ではいます」
 「それだけじゃあ駄目だろう。絵が売れるとは限らんからな。定職の見通しはついとるか」
 「いえ―――でも、今みたいな絵画教室とか、挿絵の仕事なんかができればいいな、と…。知り合いで出版関係に顔のききそうな人が1人いるんで、その人には連絡をとってます。忙しい人なんで、なかなか捕まらないんですけど…」
 「そうか。俺もそっち方面に知り合いがおればなぁ…。画廊関係は、そこそこ口がきけるんだが…」
 少し寂しそうな先生の声に、慎二は罪悪感を覚え、視線をコーヒーカップに落とした。ファミレスの店内にかかっている流行のJポップまでもが、なんだか寂しい音に聞こえる。
 「すみません―――わがままを言って。先生には言葉にできないほどの恩があるのに…」
 体を縮めるようにして慎二がそう言うと、先生は可笑しそうに笑った。
 「なーにを言っとるか。そんなことはどうでもいい。俺は、あのままお前がふらふらとクラゲみたいに生きてくのを黙って見てられんかっただけだ。自分の足でちゃんと歩いて行こうって気になっただけでも、俺がお前を引っ張ってきた意味はあったさ」
 「…またクラゲに戻らないよう、頑張ります」
 確かにクラゲと言われても仕方ない人間だったかもしれない。ぴったりな表現に、慎二は苦笑した。先生も暫く笑っていたが、やがて少し真剣な表情になり、どことなく言い難そうな口調に変わった。
 「それで、工藤。その…東京に戻ったら、住む場所はどうするんだ?」
 「え?」
 「つまり―――実家に帰るのか? ってことだ」
 「……」
 慎二の表情が、曇った。
 僅かに動揺したような目で、しばし先生の目を見返していたが、すっと視線を逸らし、その動揺を飲み込むようにコーヒーを飲み込んだ。さっきより苦く感じる。心理的なものだろう。
 「やっぱり、帰らんのか」
 「……」
 「お前も2人分の部屋を借りる訳にはいかんだろうから、どうせ透子と同居になるんだろう? なら、実家に透子を連れてってやるって手もあるんじゃないか? あの子もこの前18になったし―――10歳差と言っても、透子が大人になった分、いろいろ面倒だぞ」
 「…分かってます。でも…」
 “家に帰る訳には、いかないんです”。
 何度となく先生に言ってきた言葉。何故なのか言ってみろ、と言われても、結局その理由を口にはできなかった。慎二は、繰り返しになってしまうその言葉はあえて告げずに、曖昧な笑みを先生に返した。
 「オレ、家族のことが、大好きです」
 そう。とても、愛している。父のことも母のことも、そして…死んだ兄のことも。
 「だから―――帰れないんです」
 どこか哀しげな笑みでそう告げる慎二を、先生は沈痛な面持ちで見ていた。
 “俺では力になってやれんのか”―――先生が何度も言ってきた言葉だ。言葉にはならないその気持ちを先生の表情に見た慎二は、精一杯の感謝をこめて、先生に深々と頭を下げた。


***


 「ふぅん…じゃあ荘太君、引く手あまたなのね。凄いじゃない」
 味噌汁の味見をしながら、はるかが感心したような声を上げる。漬物を刻んでいた透子は、それを盛り付ける器を手にして苦笑した。
 「あの荘太に超有名校が“是非うちに入って下さい”って来るんだよ? 信じられない。でもねぇ…1位の威力って凄いよ、ほんと。日本一だと思うと、私の目にも荘太の背後に後光が射して見えるもん」
 「ホント? じゃあ私も今度拝んでおかなくちゃ。後光が射してる人見る機会なんて、地元じゃ滅多にないもの」
 クスクス笑ったはるかは、手早くお椀を並べると、ふと思い出したように透子の方に目を向けた。
 「それで、荘太君は、結局どこを受けるの?」
 「ん、もう決まってるよ。一城」
 「あら、透子ちゃんと同じ大学じゃないの」
 「うん。最後の最後までなかなかお声が掛からなくて苛立ってたけどね。出願期限ギリギリの10月に入ってやっと来たから、即刻決定。11月に試験あるから、その時に向けて目下猛勉強中」
 「へーえ…。そう。一城を受けるんだ、荘太君も」
 意味深な笑いを浮かべてそう言うはるかに、漬物の器を運ぼうとしていた透子は、ちょっと眉を上げた。
 「…なぁに? その意味あり気な笑いは」
 「いえ、別に? ただ、荘太君も頑張ってるなぁ、と思っただけよ」
 ―――頑張ってる、って、勉強とか陸上のことを言ってるんじゃないよね。
 そう分かっていても、透子は「何のことやら」という顔をして、そのまま器を食堂に運んだ。この話題には、あまり踏み込んで欲しくない。

 「叔父さーん。準備できましたよー?」
 はるかが声を掛けると、居間の方で慎二と何かしていた先生が、のそのそと食堂にやって来た。
 「いやー、商売繁盛は嬉しいが、スケジュールがさっぱり決まらんなぁ。疲れた疲れた…」
 春頃、手頃な値段で借りられる本格的なギャラリーということで中国地方の情報誌に取り上げられたせいか、このところ個展やグループ展の依頼が妙に増えている。どうやらその話で慎二とスケジュール調整をしていたようだ。先生に続いて食堂に現れた慎二も、ちょっと疲れた顔をしていた。
 「さっさと食って、続きやるぞ、工藤」
 「…はいはい」
 「叔父さん、ちゃんと味わって食べてよ? 作った人間に対して失礼でしょ」
 はるかに睨まれつつ夕食が始まった直後。
 ピンポーン、と鳴った呼び鈴の音に、全員、手にした箸が止まった。
 「……」
 4人揃って、壁にかかっている時計に目を向けてしまう。午後8時半―――気軽に人が訪れてくる時間ではない。こんな時間の来客など、叔母の聡子が訪ねてきたあの時以来ではないだろうか。
 「…私、出てみるわ」
 一番玄関に近いはるかが、そう言って立ち上がった。自分が行こうと思った透子は、半ば腰を浮かしかけていたが、はるかに目で制され、やむなくストン、と腰を下ろした。
 はるかが玄関に向かう、パタパタというスリッパの音がする。その音に被るように、呼び鈴がもう一度鳴った。
 「はいー…? どちら様ですか?」
 はるかの声に続いて聞こえてきたのは、女性の声だった。
 「夜分遅くに失礼します。あの―――わたくし、佐倉と申しますが、工藤慎二さんはこちらに…」
 「―――…ッ!」
 それを耳にした途端、味噌汁のお椀に口をつけていた慎二が、いきなりむせた。
 「どうした、工藤」
 「い、いや、ちょっと…」
 訝しげな顔をする先生に、げほげほとむせながらも何とか笑い返した慎二は、慌てたように席を立つと、玄関の方へと駆けて行った。その様子から察するに、どうやら来客は、慎二の知り合いらしい。
 ―――“さくら”さん?
 初耳だ。誰だろう?
 先生は、興味がないのか、また箸を手にして味噌汁をすすり始めていた。透子はそっと箸を置くと、静かに居間へと移動して、居間と廊下を隔てているガラス戸を薄く開けた。ここからだと、ちょうど玄関が見えるのだ。
 透子が引き戸を開けたのとほぼ同時に、はるかを押しのけるようにして慎二が玄関に進み出た。その慎二の背中の向こう側に、若い女性が立っていた。
 大体、慎二と同じ位の年齢だろうか―――いや、もしかしたら、もう少し年下かもしれない。上品な色合いのブラウンの髪を肩の長さで切りそろえた、サラサラのストレートヘアをしている。きりっと切れ長の涼しげな目をした彼女は、派手な顔立ちではないが、結構美人だ。そして何より、背が高い―――167、8はあるのではないだろうか。GパンにTシャツというラフスタイルだが、そのスレンダーな体は、さながらモデルのように見えた。
 彼女は、慌てふためく慎二の顔を見るや否や、取り澄ましていた顔をぱっと明るくして、大きな口を開けて笑った。
 「あー、良かった! 他人の家だったらどうしようかと思ったわよ。久しぶりー、慎二君」
 「さ、佐倉さん…どうして」
 「ごめんごめん。何度も電話もらったって、事務所から聞いてさ。大体の用件は、この前事務所宛にくれた手紙で聞いてるけど、やっぱり直接会って話をしないとと思って―――岡山で撮影があったから、ついでに寄ってみたわけよ」
 やたらとサバサバした口調でそう言った彼女は、ポンポン、と慎二の二の腕の辺りを叩いてみせた。
 「んー、相変わらず生命力弱そうな体してるわねぇ。外見があんまり変わってないから、お金に困ってるんならモデルの仕事でも紹介しようかと思ったんだけど」
 「…勘弁して」
 げんなりした声を出す慎二の斜め後ろにいるはるかは、事態が飲み込めていないのか、所在無げに食堂の方に何度も目をやっている。どうやらはるかは、この女性を知らないらしい。
 …ということは―――この人は、慎二の、東京時代の知り合いだ。
 そう察した瞬間、思わず透子は、ガラリ、とガラス戸を開けてしまった。
 3人の目が、一斉にこちらを向く。戸惑ったはるかの目。キョトンとした慎二の目。そして―――問題の彼女の切れ長の目は、透子の顔を見た途端、大きく見開かれた。

 そして。
 彼女の表情が、凍りついた。

 驚いた、なんて普通の表現では足りない驚き―――驚愕。そんな目をしたまま、表情が固まる。何かを言いかけて開いていた唇も、そのまま凍る。まるで、何か信じられないものでも見たかのように。
 けれど、それはほんの数秒のことだった。凍りついた表情は、すぐに氷解し、じわりと融け出す。彼女は、大きく見開いていた目を僅かに細め、口の端をつり上げた。
 「ああ…分かった。あなたが透子ちゃんね」
 「…えっ」
 何故名前を知っているのか、と不思議に思ったが、さっきの彼女と慎二の会話を思いだし、納得した。どうやら慎二は、手紙に透子のことを書いていたらしい。もしかしたら、ここを出て東京に行くことについて、仕事などの相談の手紙を出したのかもしれない。
 「はい―――私が、井上透子です」
 やや警戒した表情で、透子ははっきりとした口調で彼女に告げた。すると彼女は、余計に笑みを深くし、その細くてしなやかな手を透子に差し出してきた。
 「あたし、佐倉みなみ。慎二君の古い知り合いよ。慎二君があなたの進学に合わせて東京に戻るって聞いて、相談に乗りに来たの―――これから、よろしくね」

 佐倉と握手を交わした透子のすぐそばで、慎二の辛そうな視線と、はるかの愕然としたような視線がぶつかるのを感じた。
 はるかの顔が見えなくて、幸いだったかもしれない―――戸惑いつつも、佐倉に笑みを返しながら、透子は頭の片隅でそう思った。


***


 結局慎二は、佐倉に駅前のファミレスへ行くよう頼み、猛ダッシュで夕飯を平らげた。何時になるか分からないから鍵をかけておくよう先生と透子に伝えて、佐倉の待つファミレスへ向かう。
 ―――参ったよなぁ…。仕事がちゃんと決まってから話すつもりだったのに。
 夕飯の間、先生がかいつまんで事情をはるかに説明したが、はるかは終始無言で、視線をずっとテーブルに落としたままだった。透子が時折、心配そうな目をはるかに向けていたが、そのことにさえも気づいている様子はなかった。
 まだ、10月半ば―――東京に移るまで、かなりある。残りの日々、はるかとどう接すればいいかを考えると一気に気が重くなってくる。慎二は、ファミレスのドアを掴み、はぁ、と溜め息をついた。

 中に入り、ぐるりと店内を見渡すと、窓際の席で佐倉が手を振っていた。
 「こっちよ」
 佐倉の声に、慎二は軽く深呼吸をすると、彼女の方へと歩み寄り、その向かい側の席に腰を下ろした。テーブルの上を見ると、半分ほどに減ったコーヒーがあったので、通りかかったウェイトレスに慎二もコーヒーを注文した。
 「さっきはごめん、挨拶もそこそこに追い出す羽目になって」
 「別に構わないわよ。こっちこそ一家団欒をぶち壊したみたいね」
 「…まあ、当たらずとも遠からず」
 参ったな、という顔で慎二がそう呟くと、佐倉はキラキラ光るローズの口紅に彩られた唇を見事に引き上げて笑ってみせた。プロの笑い方だよなぁ、と、数年ぶりに見る佐倉の笑顔に感心してしまう。
 目の前に、慎二が注文した分のコーヒーが置かれたのを機に、佐倉はバッグから煙草を取り出した。
 「いいかしら」
 バージニアスリムを1本取り出し、口にくわえながら佐倉が首を傾げる。慎二は、同意の意味で頷いてみせた。
 パチン、という音を立てて、ライターの蓋が閉まる。佐倉が吐き出した煙の行方をなんとなく眺めていた慎二は、佐倉の鋭い視線を感じて、再び彼女に視線を戻した。
 「―――ねえ」
 「え?」
 「何か、あたしに言うこと、忘れてない?」
 「言うこと?」
 怪訝そうな顔をする慎二に、佐倉は僅かに目を細め、眉を寄せた。
 「“多恵子は元気か”、“多恵子はあの後どうなった”―――あたしに会って、キミが最初に言うべき言葉、忘れてるんじゃないの」
 「……」
 ―――ズバリ、核心を突いてくる。
 ストレートすぎて、上手く対処できない。一瞬顔を強張らせた慎二だったが、苦笑で誤魔化し、コーヒーを口に運んだ。そんな慎二をじっと見つめていた佐倉は、やがて視線を逸らし、空いている方の指で髪を掻き上げた。
 「―――ま、いいわ。それにあたし、大学卒業と同時に付き合いほとんどなくなったから、もう何も話すことなんてないしね」
 「…そっか」
 「だから、多恵子のことは、金輪際言いっこナシね」
 そう言って佐倉は、灰皿を引き寄せて、落ちそうになっていた煙草の灰を落とし込んだ。あくまでも目線を合わせようとしないのは、どういう意味なのか―――想像はできるけれど、結論は出したくない。
 「…分かった。オレも、多恵子の話したくて、佐倉さんに連絡とった訳じゃないし」
 慎二がそう言うと、佐倉はやっと慎二と目線を合わせ、どことなく安堵したような顔で僅かに笑った。その笑顔につられるように慎二がフワリと微笑むと、その場の空気がようやく和やかなものに変わった。
 「久しぶり―――5年ぶり? 二度と会えないと思ってたから、頼ってくれて嬉しかったわ」
 「うん…でも、わざわざ来てくれるとは思わなかった」

 元々、慎二と佐倉は、そんなに親しい間柄ではない。
 慎二と知り合った頃、佐倉は既にプロのモデルとして活躍していた。慎二は、そんな佐倉から、男性モデルの代役を多恵子を通じて頼まれたのだ。撮影スタジオで会ったのが、初対面―――以降、会った回数は、数えるほどしかない。
 多恵子という共通の知人を挟んだ関係。そんな相手に、仕事の口利きを頼むなんて、あまりにも無謀だと慎二自身思った。けれど―――雑誌や本に絵を描くという仕事を考えた時、佐倉以外の相談相手は思い浮かばなかった。佐倉は、モデルとしても優秀だが、それ以上に非常に顔が広い女性だったから。
 東京で最後に会った時、尾道行きを直前まで知らされずにいた佐倉は、かなり怒った。相当辛辣なことを言われ、和解もしないまま別れてしまったので、電話をしたところで「あんたなんて知らないね」と一蹴されるだけかも…と、半ば諦めていた。なのに―――佐倉は、そうはしなかった。それどころか、わざわざ尾道まで来たのだ。

 「あの慎二君が、らしくもなく“家族を失くした子の面倒を見てる”らしいって聞いたから、好奇心に負けて駆けつけた訳よ」
 ニヤリ、と笑う佐倉に、慎二は困ったような笑いを返した。
 「ハハ…、まあ、面倒見てるって程のもんでもないけど」
 「光源氏よろしく、引き取った子を自分好みの女に育てて、将来ものにしちゃおうとでも思ってるのかと勘繰ってたけど―――どうやら、その必要はなさそうね。既に慎二君好みじゃない? あの子」
 「…そういう、誤解を招きそうなことは、あんまり言わないでくれるかな」
 「おや、誤解だった? だって―――…」
 そこまで言いかけて、佐倉はハッ、としたように口を噤んだ。
 視線が泳ぐ。動揺した佐倉は、思い出したように煙草を吸い、煙を吐き出した。日頃クールで滅多に動揺を見せない佐倉のうろたえた表情に、慎二はクスリと笑った。
 「…佐倉さんがどう思ったか知らないけどさ。オレは、透子がとても大切だから」
 「……」
 「愛とか恋とかじゃなく、大切だから。…上手く、説明できないけど」
 「…そう」
 佐倉なりに、慎二の心境を察したのだろうか。佐倉は軽く微笑むと、煙草を灰皿に置き、持参したバッグを引き寄せた。中には何冊もの雑誌―――佐倉が口利きできる出版社のものらしい。
 「じゃあ、大切な透子ちゃんのためにも、慎二君には立派なプロの絵描きになっていただかないとね―――さ、本題の方、そろそろ始めましょうか」

***

 なんだかんだで、帰宅の途についたのは、午後11時半だった。
 佐倉はこれから、ホテルに待たせている撮影スタッフと飲み会だという。どんちゃん騒ぎの中、ひとりシニカルに微笑んでいる佐倉の様子が妙にリアルに思い浮かび、慎二はGパンのポケットに手を突っ込んだまま苦笑いを浮かべた。
 人通りもほとんどなくなった夜道を急いでいた慎二は、家まであと数十メートルという所に来て、家の前に人の姿を見つけ、思わず足を止めた。
 「……」
 街灯の下、ぼんやりと浮かんでいる姿は、薄いベージュのスーツ姿だった。それが誰なのか気づいた慎二は、慌てて彼女に駆け寄った。
 「はるかさん!?」
 自らの腕を抱くようにして俯いていたはるかは、慎二の声に顔を上げ、駆け寄る彼を硬い表情で見つめた。いつからここにいるのだろう。秋口の夜風に晒されて、はるかの顔は街灯の下で青白く見えた。
 「…お帰りなさい、工藤さん」
 「はるかさん…なに、こんなとこで」
 「待ってたの。工藤さんが帰ってくるの。…話が、したくて」
 思いつめたような目は、何の話がしたいのかを既に雄弁に語っている。この家を出て行くという話だろう。
 「話なら、明日また改めて聞くから」
 「…嫌。今日、話をさせて」
 「頼むよ―――もう遅いし、ここじゃ風邪を」
 「どうして…!」
 小さな声ながらも、それは、悲鳴に近い叫び声だった。
 はるかの顔が、悲しげに歪む。涙の浮かんだ目は、苦しげに細めらた。
 「どうして…! どうして―――どうして…!?」
 はるかは握りこぶしを振り上げると、慎二の胸元を叩いた。何度も、何度も。さしたる力ではないが、勢いにちょっとよろけてしまう。
 「黙ってるなんて―――叔父さんも透子ちゃんも知ってるのに、私だけ…私だけ知らないなんて…どうして…!?」
 「…まだ、最終決定じゃないから、言わなかっただけだよ…」
 「いや…!」
 大きくかぶりを振ったはるかは、慎二に抱きついた。その弾みで、慎二の背中が街灯にぶつかってしまった。一瞬、背中を打つ痛みに眉を顰めながらも、慎二は慌ててはるかの体を抱きとめた。
 腕の中のはるかが、大きく肩を震わせて泣きながら、何度も「いや」という言葉を繰り返す。考え直して欲しいとか、自分もついて行くとか、そういう言葉はない。「いや」―――ただ、否定の言葉だけを繰り返す。それは、慎二を引き止めることは不可能だと、自分が後を追っても無駄だと、もう悟ってしまっているからかもしれない。
 諦めたくなくて流している涙ではない。これは、痛みの涙だ―――終わりを受け入れるしかない、痛みの。
 「…ごめん」
 結局慎二は、そう言う以外、なかった。
 「ごめん、はるかさん―――長いこと、本当に」
 「……」
 「とにかく、中に入ろう…? このままだと、風邪ひくよ」
 はるかの背中をポンポン、と2度叩いて、慎二は家に入るよう促してみた。が、はるかは小さく首を振り、慎二の肩に額を押し付けた。
 「…そっちは嫌。うちに来て」
 「―――…え?」
 「終わらせるから…お願い。今日だけは、1人にしないで。このままだと、おかしくなりそう」
 一瞬、何を言われているのか分からなかった。
 が、やがて、はるかが何を言わんとしているのかを悟った慎二は、慌ててはるかの肩を掴み、自分から引き剥がそうとした。
 「いや、そ、それは…まずいよ。とにかく、うちに」
 慎二の言葉を、聞きたくない、という風に首を振って遮ったはるかは、さらにきつく、額を肩に押し付けてきた。
 「お願い…」
 「…はるかさん…」
 「お願い…っ」
 涙で掠れ、震える声。
 その小さな声も―――慎二の耳にはやはり、はるかの悲鳴のように聞こえた。

 受け入れられないのに半端に優しくするなんて残酷だ、と、透子は軽蔑するだろうか。
 けれど―――理由は違えども、自分の体温を求めて必死に縋りつくはるかは、誰かを彷彿させた。寂しさに震えて、狂うほどに優しさを必要としていた人―――なのに、その手を振り解いて、置いてきてしまった人を。

 「…分かったから」
 宥めるように、はるかの背中に腕を回し、抱きしめた。
 「分かったから…だからもう、泣くの、やめようよ」
 はるかの背中は、慎二が知る背中よりも広くて、丸かった。
 腕に感じた違和感に、ああ、透子以外の女の子を抱きしめるなんて数年ぶりかもしれないな…と、慎二は頭の片隅で思った。

 

 


 ―――なんで私って、こんなに間が悪いんだろう。

 唇が、震えていた。その震えを抑えるように唇を手の甲に押し当てると、透子は何かを断ち切るように薄く開けていたカーテンを勢いよく閉めた。

 はるかの心配など、しなければよかった。
 慎二が帰って来ないかな、と、受験勉強の合間に時折カーテンを開けて、窓の下に見える表通りを確認していた。同じように慎二を待っているはるかを見つけ、こんな遅い時間に大丈夫だろうか、と心配になって、つい何度も見てしまった。
 今、通りにはもう、慎二もはるかもいない。泣いているはるかを宥めるようにしながら、隣のはるかの家に入ってしまったから。
 心配なんて、しなければよかった―――あんなシーン、見せられる位なら。
 唇をキュッと噛むと、透子はやや乱暴な身のこなしで椅子に座り、机の上に置いてあったMDプレーヤーのヘッドホンを耳につけた。プレイボタンを押すと、真奈美にダビングさせてもらったglobeのアルバム曲が流れる。ボリュームを耳が耐えられる限界ギリギリまで上げると、透子はシャープペンを手に取り、無理矢理参考書に目を落とした。
 余計なことを考えそうになる頭を、必死に数学の公式の羅列に向ける。なのに、追い払いたい考えほど、頻繁に透子の脳裏を掠めてしまう。

 ―――多分、今夜は、慎二は帰って来ない。

 …その理由も分からない位子供に、いっそ戻ってしまえたらいいのに。

 「……!」
 数学の問題を解き始めてすぐ、パキン、とシャープペンの芯が折れた。ノートに書きかけた文字が、不自然なハネ方をして途切れる。気づけば、手が小刻みに震えていた。
 文字が、霞む。ノートの文字の上に落ちた雫を見て、自分が泣いていることに気づいた。
 「…痛い…」
 ―――どこが?
 どこも、かしこも。体も心も全部―――痛くて、痛くて、痛くて…死にそう。
 「―――…ッ」
 もう、限界だった。シャープペンを力任せに床に投げつけ、参考書もノートもひと思いに払い落とすと、透子は机の上に突っ伏した。

 子供でなければ、一緒にいられない。
 今、自分の中に渦巻いているものを慎二が知れば、きっと一緒にはいてくれない。慎二の手の内に収まる小さな子供のふりをし続けなければ、慎二の傍にはいられない。
 誰にも、触れないで。誰ともキスしないで。誰も抱いたりしないで。―――押さえ込めば押さえ込んだだけ、体の中のものはどんどん、内側から透子を侵食する。抉られ、削られて、このままでは本当に死んでしまいそうだ。


 …慎二が、好き。
 好きで、好きで、気が狂いそう。

 誰か、助けて―――本当に、気が違ってしまいそう。


 MDが全ての曲を再生し終え、ヘッドホンから静寂だけが流れるようになっても、透子は泣き続けた。
 泣き続けなければ、痛みを涙に変え続けなければ―――本当に、気が違ってしまいそうだった。


***


 翌朝、透子は、毎朝恒例のけたたましい目覚まし時計の音で目が覚めた。
 驚いて、跳ね起きる。どうやら、机に突っ伏して泣いたままの格好で眠っていたらしく、腕や肩がぎこちなく痛む。その痛みに顔を顰めながら、透子は部屋を出、慎二の部屋のドアを開けた。
 いつもの如く、順に目覚まし時計を止める。最後の1つを止め終えると、慎二の微かな寝息の音だけが残った。
 ―――いつ、帰ってきたんだろう…。
 目覚ましの音が鳴っても鳴らなくても関係ないみたいに眠っている慎二を、透子は複雑な思いで見下ろした。
 昨日までの慎二と、何ひとつ変わっていない寝顔―――けれど、昨日の慎二が知らなかったものを、今ここにいる慎二は知っている。…それを思うと、なんだか怖くなった。
 「…慎二。朝だよ」
 いつもより遠慮がちに、慎二の肩を揺さぶる。それに反応して寄せられる眉と、窓から僅かに射す朝の光に抗うような手の動きを見て、どうやらちゃんと起きてくれそうだと判断した透子は、静かに部屋を出て行った。


 食欲なんて、欠片もない。手早く顔を洗い制服に着替えると、補習があるから早めに出ると嘘のメモを食堂のテーブルの上に残して、透子は家を出た。
 けれど―――間が悪い時は、重なるものだ。
 家の門を出たところで、透子は思わず足を止めた。隣の家―――はるかの家の方を見たら、ちょうどはるかが新聞を取りに出てきたところだったのだ。
 着替えてはいるものの、まだノーメイクのはるかは、透子の姿を見つけた途端、僅かに顔を強張らせた。が、すぐにいつもの笑顔を浮かべ、ポストから引き抜いたばかりの新聞を小脇に挟んだ。
 「おはよう、透子ちゃん。今日は随分早いのね」
 「―――…」
 …笑えない。
 笑える訳がない―――笑わなければ、という強迫観念すら、もう、なかった。
 透子は、唇をきりりと引き結ぶと、射るような視線ではるかを真っ直ぐに見据えた。まるで、はるかの心の内にある罪悪感を見透かすかのように、一切の誤魔化しを許さないような目で。
 透子の視線に、はるかの笑みが次第に消えていった。うろたえたように何度か瞬き、ジャケットの裾の辺りを弄るはるかを見て、透子はふっと皮肉めいた笑いを口元に浮かべた。

 ―――大人なんて。
 愛だ恋だと言っておいて、子供には後ろめたいようなことを裏ではしている。私の目を真っ直ぐに見ることすらできない位に、うろたえて、焦ってる。
 こんな風になるなら、大人なんて、羨ましくも妬ましくもない。悔しくなんかない―――私がもらえないものを、慎二からもらえても。

 ほんの一瞬浮かべた皮肉笑いを消すと、透子は踵を返し、はるかに背を向けた。明日からは、今まで通り笑おう―――でも、今日だけは、もう何も話したくなかった。
 「―――…透子ちゃん!」
 バス停に向かおうと1歩踏み出した時、はるかの声が透子を呼び止めた。よく通るその声に、透子は足を止め、反射的に振り返ってしまった。
 見ればはるかは、さっきまでのうろたえた表情を消し去って、不思議な位に確信に満ちた顔になっていた。さっきとは逆に、真っ直ぐに透子を見つめている―――真剣な眼差しで。
 「透子ちゃん。私―――諦めるから」
 一瞬、何のことか分からず、透子ははるかの言葉に軽く眉をひそめた。
 「工藤さんを引き止めることも、東京まで追いかけることもしない。諦めるわ。まだ、苦しいけど…痛いけれど、大丈夫。…きっと、大丈夫」
 まるで自分に言い聞かせるように、はるかはもう一度「大丈夫」と繰り返し、ゆっくり目を伏せた。そして、再び目を上げたはるかは、透子を見つめて静かに微笑んだ。
 「ごめんね―――今まで」
 「…え?」
 「透子ちゃんに、辛い思いさせて…ごめんなさい。苦しかったでしょ? 同じ人を好きになった私に、毎日、普通の笑顔見せるのは」
 「―――…!」
 透子の目が、大きく見開かれた。
 衝撃に、鞄を落としてしまいそうになる。いつから――― 一体いつから、気づいていたのだろう? 透子が必死に隠してきた想いに。
 「分かってた。透子ちゃんの気持ちは、ずっとずっと知ってた。なのに…知らないフリしてたの。透子ちゃん自身が気づく前から知ってたのに、先に自分の気持ちを言って、透子ちゃんに押し付けたの。…ずるいよね」
 「ど…、どうして…?」
 「…透子ちゃんが、妬ましかったから」
 「私が?」
 「工藤さんの一番近くにいる透子ちゃんが、ずっと羨ましくて、妬ましかったから。…知らなかった? 私にとって透子ちゃんは、ずっと最大のライバルだったの。工藤さんが誰を想っていようと関係ない―――“今”、工藤さんの愛情を独り占めできる透子ちゃんが、一番のライバルだったのよ」

 ―――私が…、一番の、ライバル?
 はるかさんもずっと、痛みを笑顔の裏に隠してたの…?
 こんな私に、本気で嫉妬して、本気で焦って―――そういう暗い感情を、笑顔で一生懸命隠してたの? 私が隠してた間ずっと…ううん、それよりももっと、ずっと長い間…?

 真奈美の痛み、古坂の痛み―――そして今も続く、荘太と透子自身の痛み。笑顔の裏に、汚い自分を押し隠して、毎日を生きる痛み。その痛みを、はるかもまた、感じていた。他の誰でもない―――透子に対して。
 それを理解した時、はるかに対して抱いていた何かが、ゆっくりと氷解した。それが何なのかは、透子にも分からないけれど。氷解して―――“それ”は、涙になった。
 鞄を提げたまま立ち尽くす透子の目から、一筋、涙が零れて、頬を伝った。それを見たはるかは、眩しそうに目を細めた。まるで、憧れてやまないものを見つめるみたいに。
 「…もう、子供じゃないけど、大人でもない。そんな透子ちゃんが、とても好きだったけど…早く、大人になって。工藤さんのためにも」
 そう言って、はるかは微笑んだ。
 何も隠さずに、ただ素直に自分の持っている憧憬だけを、その表情いっぱいに滲ませて。
 「透子ちゃんは、必ず勝ち取って―――私には勝ち取ることができなかったものを」

 

 

 荘太が推薦入学で一城大学に合格したのは、それから1ヵ月半後。

 透子の一城大学合格の報せが届いたのは、それから更に2ヶ月半後の、98年2月―――焼け落ちた神戸の街で慎二と出会ってから、3年の月日が経っていた。


←BACK二十四季 TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22