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09

: MONTAGE (1)

 荷物を運び出して、ガランとした空間に戻ってしまった部屋の真ん中に、透子は佇んだ。
 透子が選んだカーテンと元々あった照明器具、和室を少しでも洋室仕様にしようと先生が敷いたカーペットだけは残されている。それ以外は全て―――リサイクルショップで買ってきた机やベッドも、物置にあったものに慎二がペイントを施してくれたカラーボックスも、みんな東京に持って行く。残ったのは、これだけ。
 …たった、3年。
 人生の6分の1を過ごしただけなのに、体の一部を残して行くみたいに、胸が痛む。
 「透子ーっ」
 階下から、荘太が呼ぶ声がした。
 「そろそろ下りて来いよー。荷物だけが東京行く羽目になるぞー」
 「ごめん! 今行くー!」
 荘太に返事を返すと、透子は大きく息をつき、もう一度部屋をぐるりと見回した。

 たった1人、生き残って。真っ暗闇の中、慎二に助け出されて。
 あれから3年―――この部屋に、守られてきた。この部屋には、いい思い出しか残っていない。

 「…ありがとうございました」
 深々と頭を下げ、そう呟く。顔を上げた透子は、微かに口元を綻ばせると、部屋を後にした。

***

 1階に下りると、玄関のところに思いがけない顔が待っていた。
 「真奈…!? 来てくれたんだ」
 「うん―――やっぱり、最後はどうしても見送りたくて、古坂君も一緒に」
 真奈美が照れたような笑みを浮かべて、玄関の外を指差した。見れば、表通りに停めたトラックの横で、古坂と荘太が何やら話し合っていた。
 真奈美と古坂は、無事同じ地元の大学に合格した。この春から、真奈美は文学部に、古坂は経済学部に仲良く通う。三つ編みスタイルだった真奈美は、髪を切って肩までの内巻きのロングになっているし、古坂も陸上を引退して今風のオシャレな髪型になっている。すっかりお似合いのカップルという感じだ。
 「ふーん…さてはデート帰りだな」
 既に時計は午後5時を大きく回っている。映画でも見てきた帰りといった感じだろう。からかうように透子が言うと、真奈美は顔を赤らめた。どうやら図星だったらしい。
 「そ…それより、慎二さんは? あたし、慎二さんにお別れ言ってないから是非言いたかったんだけど…」
 赤くなった顔を誤魔化すように、真奈美はキョロキョロと慎二の姿を探した。
 「ああ、慎二はいないよ」
 「いない?」
 「“こども絵画教室”の初仕事が今日なんで、今朝東京に行ったの、飛行機で。荷物はあのトラックに乗っかってるけどね」

 今、表に停まっているトラックには、3人分の荷物が乗っている。慎二の荷物、透子の荷物、そして荘太の荷物だ。
 3人分の荷物を集めても1家族分程度だし、方角も同じなので、3人分一度に運んでしまおうということになったのだ。しかも、透子と荘太は荷物と一緒にトラックに同乗して、交通費まで浮かそうという訳だ。荘太の父の知り合いが勤める運送業者だからこそ出来るわがままだろう。
 全額負担すると言う慎二に、荘太は最後まで食い下がり、半額負担した。推薦入学が決まってから今までバイトをして、上京にあたっての資金を貯めていたのだそうだ。ならば3等分しよう、と透子が騒ぐと、それは2人から却下されてしまった。
 「お前、自分の貯金取り崩して大学行くんだろ? 1円でも節約しろっ」
 これが、荘太の言い分。
 「この金額、3で割り切れないよ。面倒だからさ、やめとこうよ」
 これが、慎二の言い分。
 荘太の言い分には「その位払える」と反発した透子だったが、慎二のこの天然なのか計算されたものなのかが微妙な言い分には、力がへなへなと抜けていく気がして、反発する気になれなかった。結果、3等分説は立ち消えになった。
 そういう経緯が、荘太としては面白くなかったらしい。
 元々、あまり友好的とは思えなかった慎二に対する荘太の態度が、あの日以降、余計に刺々しくなってしまった。…ちょっと頭の痛い話だ。

 「あ…れ? ちょっと待って、透子。荷物はいつ着くの?」
 「ん? 一応17時半出発予定で、途中サービスエリアで車中泊して―――予定では、明日の朝8時かな」
 「え…っ、じゃあ、今晩って慎二さん、どうやって寝るの?」
 荷物の運び出し風景を見ていて、慎二のものと思われるベッドもトラックに積み込まれるのを見ていたのだろう。キョトンと目を丸くする真奈美に、透子は苦笑を返した。
 「慎二曰く、雨風しのげればどこでも眠れるから、問題ないって」
 「…ってことは、床に直接?」
 「多分ね。芝生の上でも落ち葉の上でも、眠い時は気にせず眠っちゃうもん、慎二って」
 クスクス笑ってそう言う透子を、真奈美はしばしキョトンとした目のまま眺めていた。が、やがて目を細めると、なんとも言えない笑みを浮かべた。どこか寂しそうな、けれどどこか納得したような笑みを。真奈美の、今まで見たことがない笑みに、今度は透子の方がキョトンとしてしまう。
 「? なに、どうしたの」
 「うん。…なんか、透子の笑った顔がね。慎二さんのそういうとこも好き、って言ってるように見えたから」
 「……」
 「あたしは、小林君の応援をしてるんだけど―――」
 荘太と古坂の方へ一瞬目をやった真奈美は、再び透子の方を見て、更に寂しげに笑った。
 「今の透子見てると、透子の応援もしたくなっちゃう。…辛いな…想いが、うまく向き合わなくて」
 「…それとすっかり同じことを、2年の時の私が思ってたよ?」
 透子が軽く睨むようにしてみせると、真奈美も当時のことを思い出して、肩を竦めるようにして小さく笑った。じゃあおあいこだね、と言いながら。

 荘太にも挨拶してくる、と言ってトラックの方へ向かった真奈美を見送っていたら、先生が家から出てきた。
 「忘れ物、ないか? 透子」
 「あ…うん、大丈夫。やっぱりはるかさんは間に合いそうにないね」
 「そうだなぁ。まあ昨夜のうちに別れは惜しんだんだろ? はるかも透子もさんざん泣いたから、もう十分だろう」
 今日は平日なので、当然はるかは仕事に出ている。間に合えばダッシュで帰ると言っていたが、さすがに無理のようだ。先生も透子も諦めの笑みを浮かべた。
 「ん? その荷物は?」
 透子が提げているボストンバッグを見て眉をひそめる先生に、透子はボストンバッグをちょっと持ち上げてみせた。
 「お父さんとお母さんと、紘太。…ほら、この前、神戸のお寺から持って帰ったって言ったでしょ。東京の井上の墓に納めるの」
 「ああ、そういやあ…。やっぱり東京に連れて行くのか」
 「ん。でも…神戸にも残してあるよ。3人とも、半分ずつ」
 東京の井上の墓には、ほとんど記憶に残っていない父方の祖父母が眠っているし、神戸の松原の墓には母方の祖父母がいる。どちらの祖父母も寂しがらないように、両親と紘太の遺骨は、分骨という形で両家の墓にそれぞれ納めることにしたのだ。
 叔母さんと同じ墓には入れられない、と聡子本人の前で言い放ってみせた透子だったが、3年間で考え方も変わったし、聡子に対する見方も変わった。それだけ透子が大人になった、ということなのかもしれない。
 「そうか。あの人も相当捻くれとるからな。口には出さんだろうが、喜んでると思うぞ」
 「うん、そうだね」
 電話で報告しても「あ、そう」だけだった聡子を思い出して、透子はクスッと笑った。確か今はインドネシアかどこかに行っている筈だ。聡子のことは今もあまり好きにはなれないが、あのバイタリティには頭が下がる。
 「あー、それにしても…2階もすっかりガラガラになったなぁ」
 少し伸びをするようにしながら、先生は肩越しに2階の窓を見遣ってそう言った。笑ってはいるが、のんびりしたその口調は、どことなく寂しげに聞こえた。
 ―――体の一部を残してくみたいな気がするのは、きっと先生のせいだね。
 先生を見上げて、そう思う。
 明日には本間が引っ越してきてくれると聞いて、心底ホッとした。意地っ張りで頑固でワンマンな先生だけれど、本当は凄く寂しがりな人だと分かっているから。
 「…また、遊びに来るね。尾道に」
 透子のセリフに視線を戻した先生を見上げ、透子はにっこりと笑った。
 「私、叔母さんはいるけど叔父さんがいないから―――先生のこと、叔父さんだって思うことにする。里帰りするよ、必ず」
 「…ああ、そうしろ。待っとるからな」
 先生はそう相槌を打つと、透子を緩く抱きしめてくれた。
 そう言えば、先生に抱きしめてもらうのは、慎二がはるかの元恋人に殴られてしまった、あの時以来かもしれない。傷だらけの慎二に動揺して泣きじゃくる透子を、あの時先生はこうして抱きしめて宥めてくれた。
 「―――工藤のこと、頼むな」
 頭の上から、そんな言葉がかけられる。透子は、先生の胸に頬を当てたまま目を丸くした。
 「あいつをひとりにするのが、心配でな―――俺には子供がいないから、どこかで息子のような気がしてるのかもしれん。…またフラフラとどこかに姿を消したりせんよう、ちゃんと傍にいてやってくれ」
 先生がそう心配する理由は、なんとなく分かる気がする。そう思わせるものが慎二にはあるから。
 透子がコクンと頷くと、先生は透子の背中をポン、と叩き、透子の体を引き離した。そして、顔を上げた透子に向かって、酷く意味深なニヤリという笑い方をしてみせた。
 「じゃあ、工藤を頼む御礼と餞別代りに、透子にいいことを教えてやろう」
 「いいこと?」
 唐突な言葉に、透子は思わずキョトンと目を丸くした。
 「透子が1年の時のバレンタインに、あの捻くれもんの叔母さんからチョコが送られてきたの、覚えとるか」
 「え? あ、ああ…うん。“義理チョコ在中”でしょ?」
 インパクトが強すぎてよく覚えている。が、翌年、翌々年と送られてこなかったので、半分忘れかけていた。怪訝そうな顔を透子がすると、先生は透子の耳元に口をよせて、ヒソヒソ声で告げた。

 「―――――――……」

 「……え…、ええええぇっ!?」
 素っ頓狂な声が、透子の頭のてっぺんから出てしまった。あまりの声に、トラックの方にいた荘太たちの視線もこちらを向いてしまったほどに。
 「な、な、な…」
 「…ま、そういうこった。ほら、そろそろ行かないとまずいだろう。行った行った」
 口をパクパクさせている透子の肩を掴んでくるり、と回れ右させると、先生は透子の背中を軽く押した。反射的に、言われるがままにトラックの方へと歩き出しながらも、頭の中では先生の言葉がぐるぐる回っていた。

 『実は、あれ以来、月に1、2度手紙をやりとりしとるんだ。ま、あっちも俺も、かなり捻くれた手紙を出してるから、ぱっと見敵同士の手紙のやり取りに見えるけどな。ともかく、今じゃあいい文通仲間だ。将来、お互い引退したら、茶のみ友達ぐらいにはなれるかもな』

 ―――何それ何それ何それ……っ! 全然知らなかったよっ!
 そうか、私に見つかっちゃったから、次からは宛先をギャラリーにしたのかもしれない。てことは、慎二は知ってたってこと…!? 嘘ーっ! 裏切り者ーっ!

 第一印象最悪にしか見えなかった同士なのに…10歳どころか16歳も歳が違うのに―――全く。2人揃って、捻くれるにも程がある。
 でも…だからこそ、お似合いかもしれない。そう思ったら、笑いがこみ上げてきた。

 透子がくるっと振り向くと、先生はニッ、と笑い、ひらひらと手を振ってみせた。
 そんな先生に、透子は、2階のあの部屋でやったのと同じように、深々と頭を下げた。ありがとうございました―――その思いを、その動作の全てに籠めて。


 98年、春。
 透子は、3年あまりを過ごした尾道を後にした。


***


 工藤、という表札と井上、という表札を並べて掲げたら、突然実感が湧いてきた。
 「透子ー、昼飯どうする?」
 部屋の中から慎二の声がしたので、慌てて玄関の中に入った。やっぱりそこにも、履き潰す寸前の慎二のスニーカーと、透子の小さめのスニーカーしかない。
 ―――そっか…、2人だけ、なんだよね。
 今、この瞬間まで、その意味をあまり深く考えていなかったかもしれない。とにかく、引っ越すことに必死で。改めて、今日からは慎二と2人きりなのだと思ったら、妙な緊張感に冷や汗が出てきた。
 「透子? 昼飯どうするって?」
 玄関で呆然としている透子を訝って、慎二が眉をひそめながら訊ねた。そう言う慎二は今、床にあぐらをかいてダンボール箱の荷解きをしている。
 「う…うん、あの、近所で食べてもいいし、コンビニで簡単なもの買ってきてもいいし。慎二に合わせるよ」
 ちょっと早口で応えた透子は、サンダルを脱ぎ捨て、部屋の中に駆け込んだ。意識し始めると、ちょっとまずい。少し落ち着くまで、慎二の顔は見ないようにしよう、と思った。

 2人が借りた新居は、浅草寺にほど近い下町にあるアパートの1階だった。
 玄関を入ってすぐにキッチンと板張りの4畳半ほどの部屋、その部屋を挟むように左右に6畳弱の部屋が1つずつ。2人は、板張りの部屋をダイニング兼居間とし、左の部屋を透子が、右の部屋を慎二が使うことに決めた。さほど新しい部屋ではないが、バス・トイレ付きの割りにはかなりお得な家賃である。
 ダイニングテーブルを入れる余裕などないので、またリサイクルショップでちゃぶ台などを漁ってきて、床に座る生活をすることになりそうだ。足りない家財道具をメモ帳に書き出していた透子だったが、ふと板の間の部屋の隅に置いてあるものに目を留め、キョトンとした。
 「慎二。その電話、どうしたの?」
 「え?」
 床に直接、アイボリーカラーのプッシュホンの電話機が置いてあった。既にモジュラーケーブルも繋いである。
 「ああ、オレの荷物ん中に入ってたんだ。昔、友達と共同生活してた時の電話機、尾道まで持って行ってたから」
 「そのちゃぶ台は?」
 「それも、尾道の物置に入れてたちゃぶ台。やっぱり尾道行く前に使ってたやつだよ」
 「…慎二、東京引き払う時、荷物全部持って行ったの?」
 「捨てるの、苦手なんだ」
 困ったような顔で笑う慎二を見て、思い出した。天袋から落ちてきた荷物の大半が、今は絶対使っていないと思われる古い画材ばかりだったことを。
 ―――こういう性格だから、いつまでも多恵子さんを心の中に棲まわせちゃうのかな…。
 そんなことを連想し、慌てて頭を振った。いけない―――今からそんなことを考えていては、この先、やっていけない。
 「食器とかは?」
 「それはさすがに…。元々、1人分しかなかったし」
 「じゃあ、100円ショップで買い揃えよっと。お茶碗とお椀と―――…」
 細々したものをメモしていた時、突然、ピンポーンと呼び鈴が鳴った。
 ボールペンを走らせる透子の手が止まる。ダンボールのガムテープを剥がしていた慎二も、その手を止め、顔を上げた。2人して顔を見合わせるが、どちらの顔も戸惑っていた。まだ入居して数時間だ。訪ねて来る人などいるだろうか?
 結局、訝しげな顔をしながらも、慎二が立ち上がり玄関に向かった。
 「はい…?」
 「―――慎二か?」
 低くて、よく通る男性の声が、ドアの向こうから聞こえた。
 途端、慎二は、慌てたように鍵を開け、ドアを開け放った。昼前の光が薄暗い玄関に射し込むと同時に、ドアの外に立っていた人物の全貌が、身を乗り出していた透子の目にも明らかになった。
 立っていたのは、とても品の良い、50代後半から60代前半位の男性だった。
 縁のない眼鏡をかけ、口ひげをたくわえたその人は、上等なツイードのスーツに身を包んでいた。おじさん、と言うよりは、紳士、と表現した方がしっくりくる風貌に、透子は一瞬感心したように見惚れた。
 誰だろう―――透子がそう思った時、慎二が声を上げた。
 「と…っ、父さん―――!? どうしたの、急に」
 「!!」
 ―――し…慎二の、お父さん!?
 心臓が、跳ねた。思わず透子も玄関に駆け寄った。
 「いや、今日引っ越しだと連絡してきただろう? いい機会だから、会っておこうと思ってね」
 紳士が、ビックリしている慎二に温かみのある笑顔を見せる。続いて、慎二の背後から顔を出した透子に目を向け、静かに手を差し出した。
 「やあ―――キミが透子さんだね」
 「は…はい…」
 「はじめまして。慎二の父です」

 紳士の名前は、工藤基裕(もとひろ)―――慎二の父だった。

***

 慎二の父に駅前のホテルのレストランに連れて行かれた慎二と透子は、当初予定していたよりも相当豪勢な昼食にありついていた。
 さっぱり実家に帰らない慎二だが、定期的に連絡を取っている、と言っていたのは嘘ではなかったらしく、引っ越しの件も―――そして、もっと遡って透子の後見人になった件も、ちゃんと父親に話していたらしい。新居まで来たということは、ちゃんと転居先の住所も知らせていたということだろう。それが分かって、透子は少しホッとした。

 「それで、大学はどちらに?」
 これまでのことをかいつまんで説明した透子に、慎二の父は最後にそんなことを訊ねた。どうやら大学名までは伝わっていなかったらしい。
 「あの、一城の外語学部です」
 「ああ、一城か。いい学校だね、あそこは」
 「はい。受験の時、キャンパスが想像したより広くて、びっくりしました。緑も多くて、東京じゃないみたいで」
 「山の手だからね、あの辺は」
 慎二の父は、そう言って微笑んだ。が、それ以上の反応はない。一城という名前を出す時、少し緊張した透子は、少々拍子抜けした。もしかしたら、多恵子という人のことはこの人も全く知らないのかもしれない。親には紹介しない程度の付き合いだった、ということだろうか。
 慎二と父は、さほど似ているようには思えなかったが、色素が薄めだという点では共通していた。そして、笑った時の目が、慎二とそっくりだった。
 透子の身の上話に続いて本人の口から語られたプロフィールによれば、彼の職業は経営コンサルタントらしい。色々な企業に半年1年はりついて、経営上のアドバイスをしたり、社員教育をしたりするのだそうだ。透子は、そういう職業の人は、もっとピリピリしてて厳しい人なのではないかとイメージしていたのだが、慎二の父は全く違っていた。慎二がそうであるように、全体を包むイメージはあくまで温和だ。
 それにしても―――透子の目にも明らかに高そうに見えるスーツといい、経営コンサルタントという職業といい、いかにも「紳士」という感じだ。かなり良い暮らしをしていることを、彼が醸しだすムードが物語っている。慎二の実家が裕福そうな家庭だと分かって、ちょっと意外な気がした。

 「慎二からキミの話を聞いて以来、一度会いたいとずっと思ってたんだよ」
 食後のコーヒーを飲みながら、慎二の父は目を細めて笑った。
 「慎二が後見人をしてるってことは、家族も同然だからね。うちには娘がいないし、実はちょっと嬉しかったんだよ」
 「は…あ」
 なんだか、くすぐったい。透子は首を竦め、ティーカップを口に運んだ。そんな透子を見て、隣に座っている慎二がくすっと笑った。
 「でも、大丈夫か、慎二。仕事なんかはちゃんと決まったのか?」
 「あ…、ああ、うん」
 矛先が自分に向いて、今度は慎二の方が首を竦めた。けれど、俯き加減でいた透子には、慎二の表情は確認できなかった。
 「…どう、そっちは。何か変わりある?」
 コーヒーを掻き混ぜながら慎二が言うと、慎二の父は、微かに微笑んだ。
 「いや。あまり変わりはない。でも―――まあ、大丈夫だ」
 「…そっか」
 慎二と父の間では、それで通じたらしい。が、透子には、何が変わりなくて、何がどう大丈夫なのか、よく分からなかった。ただ、なんとなく―――さっきからほとんど話題に上っていない慎二の母のことなのではないか、と漠然と思った。


 慎二の父は、その後、当たり障りのない話を続け、食後のコーヒーが終わったところで、伝票を持って席を立った。
 「もう少し話をしたいんだが、これから仕事でね」
 「うん―――ありがとう。来てくれて嬉しかった」
 慎二はそう言ってフワリと微笑んだ。そして、まるでついでのように付け加えた。
 「オレは元気だから心配するな、って、母さんに言っておいて」
 「…ああ。分かったよ」
 慎二より少し背の低い父は、ポン、と慎二の肩を叩き、透子ともう一度握手をして、去っていった。しなやかで繊細な慎二の手とは違い、慎二の父の手は骨ばっていて、とても力強い手だった。


 「伝えるだけじゃなく、顔を見せに行ってあげた方がいいんじゃないの?」
 ガラス窓の越しに、去って行く慎二の父の背中を目で追いながら、透子は眉を寄せてそう言った。けれど慎二は、ちょっと困ったような笑顔を見せてるばかりだった。
 「私が知ってるだけでも、慎二、3年は帰ってないでしょう? いくら慎二が大人でも、お母さん、会いたがってるんじゃない?」
 「ん…まあ、でも、これでいいんだよ」
 「せっかく、家族がいるのに…」
 思わず呟いた一言に、慎二も、そしてそれを口にした透子本人も、ハッとしたような顔になった。
 透子には、家族がいない―――慎二は慌てて、コーヒーカップを置いた。
 「…ごめん。無神経だった」
 「う、ううん。違うの、そういうつもりで言った訳じゃないから」
 実際、慎二を非難したつもりはなかった。けれど、そんなニュアンスが声音に出てしまったのだろうか…そう思って、透子は少し落ち込んだ。
 そしてそのまま、その話は立ち消えになった。

 思いがけず、慎二の父に初めて会った日。
 でも、慎二の父に会ったことよりも、慎二の口から初めて“母さん”という言葉を聞いたことの方が、透子にはとても印象深く残った。


***


 「へーえ。キミ、文理学部入ったんだ。何学科?」
 「教育学科です…一応、中学の社会科教員狙ってるんで」
 「へーっ。スポーツ推薦って聞いてただの筋肉バカだと思ってたけど―――案外キミ、堅実じゃないの。偉い!」
 バシン、と背中を叩かれた荘太は、げほげほとむせた。そんな荘太を気の毒そうに眺めつつ、慎二と透子もカクテルをちびちびと飲んだ。

 引越しの翌日。慎二と透子、そして荘太の3人は、有楽町に集結させられていた。慎二の古くからの知人である佐倉みなみが、3人の歓迎会を開いてやると言って、前もって呼び出していたのだ。
 慎二の説明によると、佐倉はかなり売れっ子のファッションモデルで、ファッション雑誌を中心に活躍しているらしい。初対面の時、透子が「モデルみたい」と感じたのは正しかったのだ。
 慎二が佐倉と出会ったのは、慎二と佐倉共通の知人から慎二がモデルの代役を頼まれた時らしい。モデルをやっている慎二というのを想像すると、透子としてはむず痒くて仕方ないのだが、とにかくそういうことがあって、2人は他の仲間数名と飲みに行ったりする関係になったのだという。慎二が尾道に行ってからは完全な音信不通だったが、東京に戻るにあたり、彼女の交友関係の広さを思い出した慎二は、仕事の相談をするために連絡をつけたのだった。
 佐倉は、初めて尾道に現れた去年の秋以降、計2回、尾道に来ている。慎二の絵を、佐倉が懇意にしている出版関係者数名に見せたところ、1社、非常に気に入ってくれたところがあって、その関係で訪ねて来たのだ。
 仲介者ということで責任を感じているからなのか、それとも別の理由があるからなのか―――その辺は、透子にはよく分からなかったが、とにかく佐倉は、慎二のために色々と骨を折ってくれた訳だ。おかげで慎二は、結構有名な女性向け月刊誌の表紙と挿絵を任されることになった。
 そんな風に、佐倉が何度か尾道に来る中で、荘太も佐倉と顔見知りになった。それで今日、歓迎会のメンバーの1人として、有楽町に呼び出されることとなった訳だ。

 「透子は、外語学部だっけ」
 バッグの中からバージニアスリムの箱を取り出しつつ、佐倉が首を傾ける。その隣で、まだ荘太が苦しげにむせていた。
 「うん、そう。英語学科」
 「通訳にでもなるの」
 「んー…、それは、まだ。私も、人に物を教える仕事がしたいな、と思って、一応キッズ英会話の先生とかどうかな、と思ったんだけど―――まだ、しっくり来ない。とにかく英語はやってて楽しいから、とりあえず走り出したって感じ」
 「ふーん…。みんな、若いのに偉いじゃないの。あたしらの頃とは雲泥の差だわ」
 「佐倉さんがそれ言うのは、なんだか妙だよなぁ」
 恐らくは、この中では一番、目的意識の薄い若者だったであろう慎二が、そう言って笑った。
 「学生時代に、既にプロのモデルだった人にそういう事言われると、オレなんか立場ないよ?」
 「あー、確かに、慎二君は立場ないかもね」
 「…いや…そこまではっきり賛同されると…」
 「佐倉さんは、何専攻してたんですか」
 やっと咳き込みの収まった荘太が訊ねると、佐倉は、自信満々の笑みを口元に浮かべた。
 「経営学部」
 「経営? ってことは…社長?」
 「将来、モデル事務所を開こうって思って、そのためのノウハウ身につけようと経営を選んだわけ。けどねぇ―――人数少ないせいか、一番古い小さい校舎を使うことが多くて、ちょっと不遇な学部だったわよ。外語学部なんかは人数多くて羨ましかったなぁ…」
 当時を思い出して眉間に皺を寄せる佐倉を見ていた透子は、佐倉のセリフの中に気になる部分を見つけ、表情を変えた。
 ―――あれ? もしかして…。
 「…あの、佐倉さん。もしかして、うちの大学の出身者?」
 思わず透子が訊ねると、煙草に火をつけようとしていた佐倉が、一瞬、その動きを止めた。
 「え?」
 「だって今、外語学部って。外語大以外で“外語”学部って部名、結構珍しいから。普通、“外国語”学部でしょ」
 勿論、珍しくはあっても、一城だけという訳ではないが―――何故かそんな気がして透子がそう言うと、佐倉は目を見開き、感心したような声を漏らした。
 「よく気づいたわね、そんな細かいとこ。そうよ、あたしも一城卒。キミらの先輩ってわけよ。なんだ、もっと焦らしてからバラして驚かそうとしたのに…先にバレちゃった」
 「―――…」

 ――― 一城の、卒業生。
 佐倉の年齢は、まだ聞いていない。が、見た限り、慎二より少し下。…多分、2つ下くらい。
 慎二より2つ下の、一城の卒業生―――そういう人物を、透子は1人だけ、知っている。

 …繋がった。
 慎二と佐倉の共通の知人。それは、きっと、多恵子だ。佐倉も、多恵子を知っている―――勘が外れていなければ。
 「透子? どうしたの?」
 急に押し黙った透子に、煙草に火をつけ終えて煙を吐き出していた佐倉が、怪訝そうに眉をひそめた。透子が何に気づいたかは、佐倉は全く思い至っていないようだ。
 「―――ううん、なんでもない。勘がぴったり当たったから、ちょっと驚いただけ」
 口元だけで笑ってみせると、透子は再びカクテルを口に運んだ。けれど、平静を装いながらも、心臓はドキドキとうるさく鳴っていた。

 東京―――この同じ空の下のどこかに、多恵子はきっといる。佐倉という生身の人間を介することで、それをよりリアルに感じる。
 慎二が会おうとすれば、すぐにでも会える距離。慎二は、どうするだろう? 多恵子に会いに行くだろうか? もしも自分なら…会いたいと思う筈だ。たとえ別れた相手であっても、今も夢に見るほど、心を残している相手であれば。
 そういう可能性も覚悟した上で、ここまで来た。
 多恵子を、見つける―――どんな人なのか、この目で確かめる。それだけのために。

 「…透子。あんまり飲みすぎちゃダメだよ? 日頃飲み慣れてないんだから」
 考え事をしているせいで、やたら速いペースでカクテルを飲み進める透子に、慎二が心配そうに眉を寄せる。
 確かに、酔い始めているのか、なんだかだるい―――透子は、慎二の方を見ると、気だるそうな笑みを浮かべた。
 「だぁいじょうぶ。もし酔い潰れても、慎二が連れて帰ってくれるでしょ?」
 「だっ、ダメだ! 余計危ない、絶対酔うなっ!」
 怪しげな想像をしたのか、荘太が慌てたようにそう釘を刺した。信用ないなぁ、という風に困ったような笑顔を見せる慎二を見て、透子は可笑しくなって笑った。

 ―――ほんと、可笑しいよ、荘太。
 どんだけ酔っ払ったって、慎二が私に手出しする筈もないのに。何心配してるの?

 そんな風に思いながら笑う透子は、既にかなり酔いが回ってしまっている自分に、全然気づいていなかった。
 透子は知らなかったのだ。
 ジュースみたいでおいしい、と思って飲んでいたカクテルが、日頃先生や慎二に付き合ってちょっとだけ飲んでいたビールよりも、ずっとずっとアルコール度数が高い飲み物だということを。


***


 ―――頭が重い…。

 世界がぐるぐる回っている。目覚めた透子は、その眩暈と戦いながら、なんとか重い瞼を上げた。
 目に入ったのは、見覚えのない天井、見覚えのない壁、まだカーテンの掛かっていない窓――― 一昨日越してきたばかりの新居だった。
 寝転がったまま、自分の状態を確認する。手で触れた限り、昨日の服装のままだ。でも、ちゃんと布団を被って、仰向けに寝ている。
 ―――私…どうやって帰ったんだろう…?
 回らない頭で、その疑問の答えを考え続けていると、部屋のドアが開いた。
 「…あ、起きたんだ。おはよう」
 「……」
 Tシャツにイージーパンツ姿の慎二が、まだ少し眠そうな顔をして立っていた。
 それをぼんやり眺めていた透子は、急激に頭がはっきりしてきて、思わず飛び起きてしまった。
 「! あ、いたぁっ!」
 「ああ…、やっぱり、二日酔いになってたか」
 上半身を起こして頭を抱えている透子に、慎二は苦笑し、ベッドの傍まで歩み寄った。背中を支えられ、ゆっくりと寝かされる。枕に頭がついた時、またズキンと頭が痛んだ。
 「わ…私、昨日…」
 「―――だから、自重するようにって言ったのに…。酔い潰れちゃったから、タクシーで帰ってきたんだよ」
 「…タクシー…?」
 「歩けなくなってたからさ。タクシーまでは荘太君と一緒に運んで、タクシーからここまではオレが抱き上げて運んだんだよ。ごめん―――暗闇の中でヨロヨロ運んだから、透子、結構あちこちぶつけたかも」
 「……」

 ―――抱き上げて…運んだ?
 私を、慎二が…?

 そのシーンをぼんやり頭に描いた透子は、次の瞬間、耳まで真っ赤になった。それを誤魔化すために、慌てて布団を目が隠れる位まで引っ張り上げた。
 「透子? 大丈夫?」
 「だ…っ、大丈夫っ。も、もう少し寝てたいから、慎二、出てってっ」
 透子の突然の変貌に、慎二はキョトンとした顔をした。が、困ったようにこめかみを掻くと、透子の部屋を出ようとした。
 「―――…慎二」
 慎二の背中に、消え入りそうな透子の声が掛けられる。
 慎二が振り向いた先には、やはり布団を被ったままの透子が寝ていた。
 「ありがとう。…ごめんね」
 「―――いや、いいよ」
 本当に済まなそうな透子の声に、慎二はくすっと笑い、ドアを閉めた。


 ―――全然記憶にはないけど。
 体に、微かに残ってる―――抱き上げられた時の、感覚が。

 あまりにも恥ずかしくて、耐えられない。透子は、真っ赤に染まった頬を押さえると、更に布団の中へと潜り込んだ。


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