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09

: MONTAGE (2)

 一城大学は、閑静な住宅街の、なだらかな坂道のてっぺんにある。
 学校が多く集まる、いわゆる「文教地区」なのだろうか。最寄り駅は、一城の学生だけでなくブレザー姿の高校生や黄色い帽子を被った小学生も利用する。公園などの緑も多く、交通量の多い道路からちょっと奥まっている分、静かでもある。慎二の父が言っていたとおり、いい大学だなぁ、と透子は思った。
 駅から大学までの坂道が、一部の学生には不評なのだと言う。がしかし、坂の街・尾道で鍛えられた透子と荘太には、この程度の傾斜では坂道のうちには入らない。朝、駅で顔を合わせた2人は、周囲より速いスピードで、スタスタと坂道を上って行った。

 「でも、思ったほど同じ講義取れないよなー。全学共通科目とか言ってる癖に、とれたのって、ええと…3つか? 少ねーっ」
 不満そうに口を尖らせる荘太に、透子は困ったような顔をした。
 「しょうがないよ。学部科目優先すると、同じ科目でも受ける曜日が違っちゃったりするし」
 「そりゃそうだけど。山田教授の心理学が抽選で落ちたのが痛かったよなぁ。あそこ、なんであんなに人気あるんだろう」
 「ガイダンスの講座概要の勝利なんじゃない? あの先生、文才あるよ。私も、あれ見ただけで“この人の授業、面白そう!”って思ったもん」
 「山田教授って、フロイト諭だろ? いいなぁ…俺も“夢判断”とかやりたかったー…」
 かく言う荘太は、よく分からないままに児童心理学の権威の講義を取ってしまった。「俺が目指してるのは中学の教師だ、児童心理学なんて関係あんのかよ」と、荘太自身は自分の選択に不満そうだが、案外深い関係があるんじゃないかと透子は思っている。少なくとも、フロイトの“夢判断”で、抑圧された欲望なんかを紐解いてるよりは、はるかに教育者向けなのではないだろうか、と。

 荘太が教育学科を選んだのは、透子としては少々意外だった。
 確かに以前、荘太には体育の先生が似合う、と言った覚えはある。が、荘太本人はあまり乗り気ではなかったし、体育という要素を除いてしまうと、荘太と教職はあまり共通項がないように思えたから。
 荘太が言うには、彼が目指しているのは、社会科の中学教師だそうだ。教育学科を4年間履修すると自動的に与えられるのがこの科目の資格だから、というのも社会科を選んだ理由らしいが、履修の仕方によっては保健体育もいけるらしいのに、と訝る透子に、荘太は将来の目標を語ってくれた。
 「走るのは俺の趣味だから、実業団にしろ教職にしろ、それを仕事にするつもりはないんだ。…俺、中学の教員になって、陸上部の顧問になりたいんだよ。自分の生徒の中から、将来、世界レベルのアスリートが生まれたら、面白いだろ?」
 彼がこんなことを言うのは、実は中学時代の陸上部顧問の影響らしい。3年生のインターハイが終わった時、それまで一切考えなかった将来のことにふと思いを馳せた時、その恩師の顔が思い浮かんだのだという。あんな風になりたい―――そう思った瞬間、荘太の目標は決まったのだそうだ。
 荘太は、偉い―――荘太の目標を聞いて、透子は憧憬と焦りを同時に感じた。
 いつだって明確な目標を掲げて、それに向かってまっしぐらに突き進む。そして必ず、その目標をクリアしてみせる。一城に入学したのは確かに透子が理由だったかもしれないが、彼の中では一城は透子の従属物ではない。自分が選んだ大学として、ちゃんと冷静に研究し、分析し、自分の将来のためになるよう考えている。まだ目標が見つからず、手探り状態でいる透子よりも、荘太の方がずっと大人に見える。
 大学に行ってから勝負しろ、という荘太の言葉の意味が、なんとなく理解できた。お仕着せな学生生活に近い高校生とは違い、大学生は個人の考え方や目的意識が明確に表れる。社会人はそれが更にはっきりする。大人の慎二と張り合うためには、自分で自分の道を選べる大学生になる必要があったのだろう。
 事実、大学入試を機に、透子の荘太を見る目も微妙に変わった。荘太は今では、透子が一番尊敬する人物だ。
 荘太が望むような感情ではないのが、少し、苦しいけれど―――確かに透子は、彼の想いを知った去年の春よりも、荘太を好きになっていた。

 「…あれ?」
 正門まであと少し、という所まで来て、透子は数メートル先の光景に思わず足を止めた。
 街路樹の根元辺りに、見覚えのある人物が這いつくばっていたのだ。何か探しものらしく、目を地面につけてしまいそうな勢いで這い回っている。
 「橋本さんだ。どうしたんだろう」
 「透子の知り合い?」
 「うん。同じクラスの人。私と学生番号が近いもんだから、入学説明の時隣の席になって、少し話したことあるんだ」
 一城は、五十音順ではなくアルファベット順で学生番号がつくので、五十音順なら遠く離れた井上と橋本が近くなってしまったりするのだ。
 今、地べたに這いつくばって周囲の注目を集めてしまっている彼女―――橋本千秋は、確かに透子と席が隣り合ったことで透子の記憶に残っていたが、それ以外にも印象に残る要素があった。紺色のパンツスーツに身を包んで入学式に現われた彼女は、最初、男子学生と間違われてしまったのだ。間違えた係員は平謝りしていたが、そういう事件があったことで、橋本千秋は透子の記憶に強く残った。
 「橋本さーん!」
 透子が声を掛けると、千秋は、地面から目を離し、顔を上げた。
 千秋は、何故か右目だけを細めていた。左目ひとつで透子の顔を確認し、次いで荘太の方もチラリと見る。そして、片方は知っているが片方は知らない奴だと判断したらしく、透子の方だけを左目で見た。
 「ええと…、井上、さん?」
 まだ名前と顔が一致していないらしい。まだ入学して10日あまりだから、無理もない。
 「うん。どうしたの? 何か探しもの?」
 「右目のコンタクトを落としたんで、探してる」
 コンタクト、と言われて、急に自分の足元が不安になった。透子も荘太も、慌てて自分の足元に目を落とし、誤ってコンタクトを踏み潰していないか確かめた。
 「ああ、大丈夫。その辺りはさっき、十分探した」
 「そ、そっか。…待って。一緒に探すから」
 ホラ、と荘太も協力するよう促し、透子は千秋の傍にしゃがみ込んだ。なんで俺まで、という顔をした荘太だったが、それを見て仕方なく幾分車道よりのところにしゃがんだ。
 透子の少し先で、また地面に這いつくばってコンタクトを探す千秋は、150センチ台前半の透子よりも10センチ近く背が高い。手足が長く、ショートヘアのせいもあって首も長く見える。170ない荘太と並んだら、身体バランスのせいで千秋の方が高く見えてしまうかもしれない。Gパン姿の千秋は、小型にした古坂みたいで、やっぱり少年に間違われそうな感じだ。
 「井上さん、気をつけて」
 ふいに、千秋が、目を少しだけ上げてそう言った。
 「え?」
 「ミニスカートを履いてその格好は、ちょっと危ない。もう探さなくていいから、その街路樹のところにでも立ってるといい」
 指摘されて、慌てて自分の格好を確かめた透子は、確かに千秋の位置からだとかなり際どいところまで見えてしまっているであろう自分の姿勢に、思わず顔を赤らめた。言われた通り立ち上がり、街路樹に寄りかかる。それを見て、千秋は妙に大人びた笑いを口元に浮かべ、また地面に目を落とした。
 ―――なんか…変わった子だなぁ…。喋り方も、ちょっと変わっているし。
 この10日間、挨拶程度しか言葉を交わさなかったので、どんな人物か分からなかったが―――どういう人なのだろう、と透子が興味を持ち始めた時、仕方なさそうに地面を這いつくばっていた荘太が、突然声を上げた。
 「あっ! お前っ! 動くな、そのまま動くなっ!」
 「え?」
 荘太に足元を指差され、千秋は、少し移動させようとしていた足をピタリと止めた。
 中途半端な状態で動作を止めた千秋は、バランスを保つことができずに、アスファルトの上にペタンと座り込む羽目になった。が、荘太は、千秋の足がコンタクトを踏み潰してしまう寸前のところで、千秋の足元に手を伸ばして落ちていたコンタクトを摘み上げた。
 「やぁった、ゲット!」
 得意げに叫んだ荘太だったが、やはりこちらも姿勢に無理があったらしく、千秋のすぐ傍に、コンタクトを持った手を掲げたまま転がってしまった。ひとり、街路樹に寄りかかってそれを見ていた透子は、地面に転がる2人を見て、耐え切れず吹き出してしまった。
 「…お前…ひとりだけ、いいご身分だよな」
 可笑しそうに笑う透子を一睨みして、荘太はムクリと起き上がった。弾みをつけて立ち上がり、軽く服についた砂ぼこりを叩き落すと、コンタクトを指先に乗せた手を千秋に差し出した。千秋はそれを慎重に受け取り、Gパンのポケットからケースを取り出し、その中に収めた。それでようやく、その場の緊張がほっと緩んだ。
 「全く…朝っぱらから人騒がせな女だよな。ほら」
 荘太はそう言い、まだ尻もちをついたままの千秋に空いている方の手を差し出した。荘太は基本的にフェミニストなので、これは当然の行為だっただろう。だが千秋は、そんな荘太にちょっと表情を険しくし、差し出された手を無視して自ら立ち上がった。
 「立ち上がる位、自分でも出来る。女を非力な生き物扱いする男は嫌いだ」
 「…はぁっ?」
 「―――まあ、いい。見つけてくれて助かった。礼を言う。お前、名前はなんだ」
 親切のつもりでした事に思わぬ難癖をつけられ、荘太は不愉快そうに眉を上げた。
 「なんだよ。貴様、いい根性だな。それが人に礼を言う態度か」
 「ちょ…っ、荘太、やめなよっ」
 「荘太っていうのか」
 慌てて荘太を止めに入る透子の言葉に、千秋はまるで違った方向に反応した。そういう反応にも神経を逆撫でされたように、荘太は余計ムッとした顔をした。
 「俺の名前は小林荘太だ。許可もなく呼び捨てにするな」
 「私は、橋本千秋だ」
 千秋はそう言うと、荘太の不機嫌などものともせず、涼やかな笑みを見せた。
 「ありがとう、小林。おかげで助かった」

 ―――やっぱり、ちょっと、変な人だ。

 それが、後に大学時代では一番の親友となる人物に対する、透子の第一印象だった。

***

 コンタクトの件が縁となって、透子はその日以降、千秋と一緒に講義を受けることが多くなった。
 あまり喋る方ではない千秋は、その素性を掴むのに少々時間がかかったが、話してみると非常に興味深い人物だった。

 「え、じゃあ、一浪してるの?」
 「結果的には、そうなる」
 学食でかけそばを食べながら、千秋は、持参したお弁当をパクつく透子に静かに笑ってみせた。
 「私の家は古くから続く武道家の家で、私はその長女だ。高校を卒業したら道場を継ぐものと、子供の頃から信じて疑わなかった。だから一度も、大学受験のことなど考えたことがなかったんだ」
 「へーえ…。でも、だったら、どうして?」
 「私には、弟がいる」
 弟、という単語と同時に、千秋の表情が少し沈んだものになった。
 「武道なんて古い、という、武道家に生まれた男子とは思えないことを言う奴で、うちの両親も諦めていたんだが―――その弟が、私が高校を卒業して間もなく、急に“俺が跡を継ぐ”と言い出したんだ。どうせカンフー映画か何かを見て感化されたんだろう。とにかく、長男がその気になってくれて、両親とも万々歳という訳だ。そして私は、道場を継ぐ訳にはいかなくなってしまった―――それで、1年遅れで大学生になったんだ」
 「そんな…随分勝手な話なんじゃないの? 弟が何て言おうと、千秋さんが継いじゃえばいいじゃない」
 憤慨したように透子が眉を寄せると、千秋は寂しげに笑った。
 「…古くから続く家系、という事は、それだけ日本的な価値観が根づいている、ということだ。女子が家を継ぐより、男子が継ぐ方がまっとうだと、父も母も祖父も思っているらしい」
 「…そ…っか」
 千秋の身の上を聞いて、非力な女扱いをする男は嫌いだ、と荘太の手を無視した彼女の態度が、少し、納得いった。
 この妙な喋り方は祖父の影響らしいが、無意識のうちに己の中の“女”を排除したいという思いが働いているのもあるのかもしれない。名家というのもなかなか大変なんだな、と、透子は溜め息をついた。
 「それにしても…マメだな、透子の親は。大学生にもなって、お弁当を持たせてくれるなんて」
 透子の手元にある小ぶりな弁当箱をじっと見つめ、千秋は少し感心したような声でそう言った。
 ブロッコリーやトマトなど、彩りに気を配ったそのお弁当は、千秋の目には娘のために作られた愛情たっぷりのお弁当に見えたらしい。透子は苦笑し、小さく首を振った。
 「違うよ。これは、私が作ったの」
 「え?」
 「私、親がいないんだ。阪神大震災で、両親も弟も家も、いっぺんに失くしちゃったから」
 「……」
 千秋の目が、驚きに大きく見開かれた。直後、その顔はどんどん落ち込んだようなものに変わり、ついには箸をどんぶりの縁に置いて、うなだれてしまった。
 「…ごめん、余計なことを話させて」
 「え、いいよ。気にしてないから、そんな落ち込んだ顔しないでよ」
 「でも」
 「ほんとに、大丈夫だから」
 少し目を上げた千秋に、透子はにこっと笑ってみせた。
 「辛かったけど―――おかげで出会えた人も、いるから。だから、大丈夫」

 ―――多くのものを失ったけれど…慎二と出会えたから。
 慎二に出会わなければ、とっくに死んでいた。慎二と出会って、新しい命がもらえた。荘太の言う通り、慎二は私の世界の中心だ―――だからきっと、慎二を好きになったのは、神様が決めた必然だ。

 「うん…、大丈夫」
 もう一度、繰り返す。
 入学から、3週間―――そろそろ、行動を起こさなくては。透子は、ブロッコリーを口に運びながら、静かに決意を固めていた。

***

 「一城関係の資料なら、一番奥の棚にありますけど―――館内閲覧はできても、貸し出しもコピーも禁止ですよ?」
 「あ、はい、大丈夫です」
 「でしたら、学生番号と氏名をここに」
 司書の指示に従って、閲覧者名簿に学生番号と名前を書き入れ、透子は図書館の奥へと進んだ。
 高校や中学の図書室レベルしか想像できなかった透子からすると、一城大学の図書館は、市町村の図書館と遜色ないほどに、大きくて立派に見えた。実際、蔵書数も相当数ありそうだ。
 土曜日の午後―――講義がある生徒はそんなにいない筈だが、図書館内は思いのほか混雑していた。ゼミの始まった3年や4年が、早くも課題などを与えられて、参考資料片手に四苦八苦しているらしい。透子は、他の生徒の邪魔にならないよう足音をひそめながら進んでいき、一番奥の棚のところで曲がった。
 「う…わー、結構あるなぁ…」
 壁面いっぱいにズラッと並ぶ一城大学関連資料を見て、透子は思わず呟いた。大学史に始まり教諭たちの著書、創立何周年かを記念した特別本などがたくさん並んでいるが、どの辺りに何があるか、インデックスのようなものは一切出ていない。
 時計を確認する。まだ午後1時―――大丈夫、時間はある。
 慎二が帰宅するまでに、全てを終えたい。まだまだ時間があると分かっていても、予想外の書物の多さに、透子はちょっと怯んだ。

 現在、慎二は3つの仕事を持っている。
 1つは雑誌を媒体としたイラストレーター、1つは週に1度の子供向けの絵画教室―――そしてもう1つは、火・木・土の週3日の、挿絵と表紙を担当している雑誌の出版元でのアルバイトである。今週からこの、出版元でのアルバイトが始まった。つまり今日は、慎二がいない初めての土曜日だ。
 透子も、大学入学と同時にアルバイトを始めた。またしてもファーストフード店の店員だが、今日はあえてシフトを入れずにおいた。そう―――この用事のために。

 棚の最上段は、透子の背では見え難い。背伸びをしながら、透子は丁寧に背表紙を確認していった。
 大学の関係資料、と言いながら、地元の郷土史なども並んでいる。全く迷惑な話だ。背伸びしたり屈んだりしながら確認した1つ目の棚に、目的のものはなかった。溜め息をつき、次の棚に移った。
 そして、2つ目の棚の、ちょうど透子の腰の高さの段を確認した時―――目的のものらしき背表紙を見つけた。
 「…“昭和51年度卒業生名簿”…」
 1994年は、和暦でいったら何年だろう? 今が98年で平成10年だから―――平成6年。
 指で、1つずつ背表紙を辿っていく。そして、棚の端っこの一番取り出しにくそうな所に、“平成6年度卒業生名簿”を発見した。
 表紙に赤いインクで“館外持ち出し厳禁”と書かれた文字が、なんだか見てはいけないと言われているようで余計心臓を暴れさせる。ドキドキ鳴る心臓を宥めつつ、透子は名簿を手に、閲覧コーナーに移動した。
 司書の話によると、一城大学では、透子が期待したような卒業アルバムは存在しないらしい。昔はあったが、外語学部が出来て学生数が膨大に膨れ上がった昭和50年代半ば以降、廃止になったのだという。だからこれが、唯一、卒業生の情報を知る手掛かり―――透子は、大きく息を吐き出すと、まだ比較的新しい部類に入るその名簿を広げた。
 名簿は、文理学部に始まり経済学部、経営学部と続く。経営、という字を目にした透子は、本来の目的以外のことを思い出し、ふとページをめくる手を止めた。
 指で、そっと名前の羅列を辿る。そして中ほどまで来た時―――見つけた。“佐倉みなみ”という字を。
 「…やっぱり」
 あの日の勘は、やはり当たっていたのだ。佐倉は慎二の2つ下―――あの多恵子の、同期生だ。軽く唇を噛むと、透子は更にページをめくっていった。
 経営学部の次は、外語学部だった。外語は文理に次ぐ学生数らしい。根気強くページをめくり続け、やっとドイツ語学科のページに辿り着けた。
 そして、そのトップバッター。
 いきなり、目に飛び込んできた。
 「―――“飯島多恵子”―――…」
 この字だけ、他の生徒の名前と色が違って見える気がする。勿論、錯覚だろうが。ごくん、と唾を飲み込んだ透子は、もう一度名簿にしっかりと目を落とした。
 書かれている情報は、至極シンプルだ。卒業生の氏名、氏名のローマ字表記、学生番号、卒業時の現住所、そして電話番号…それだけ。
 透子は、傍らに置いていたバッグからメモ帳を引っ張り出すと、素早くその住所と電話番号をメモした。そして、誰かに見咎められる前に鞄に戻し、一刻も早く名簿を棚に戻そうと、慌てた様子で席を立った。

***

 メモに書かれた住所は、六本木に程近い住宅街だった。
 東京で生まれた透子だが、この辺りに来るのは生まれて初めてだ。上京前に買った区分地図を片手に、透子は、見慣れない道を心細そうに歩いた。
 この辺りは、ちょっと高級そうなマンションが多く建ち並んでいる。名簿にあった住所にマンション名はなかったが、番地などに続けて書かれた番号のムードから、多分マンションかアパートだろうな、とは予測していた。透子は、電柱についている番地名などと地図とを照らし合わせながら、目的のマンションがどれなのかを探した。

 なんでこんなことしてるんだろう、と、自分でも疑問に思う。
 慎二に直接訊けば済む話なのに―――それをせず、多恵子を探して、彼女に事情を問おうとしている。何故なのか、自分でもよく分からない。
 ―――多恵子さんて誰? 慎二の恋人だった人? どうして別れちゃったの? 東京を離れたのは彼女のせい? だったら何故、あんな卒業証書を慎二に送ってくるの? …慎二は今も、その人が好きなの?
 …慎二は何故、7月5日になると、多恵子さんの夢を見てうなされるの―――…?
 訊けない。訊くのが怖い。慎二が、とても悲しみそうな気がして。

 「…あっ」
 白壁の、背の高いマンションの前に来た時、透子はそのエントランス脇に取り付けられたプレートを見て、思わず声を上げた。
 番地名が、メモの番地と一致する。間違いない―――このマンションだ。
 周囲のマンション同様、このマンションも高級そうに見える。多恵子も慎二と同じく、結構裕福な家庭の娘なのかもしれない。番地名に続けてある“101”は、多分部屋番号だろう。1階ということか、10階ということか。見上げたマンションは、15階位はありそうだ。
 エントランスの中を覗き込んでみると、ずらりと銀色の郵便受けが並んでいるのが見えた。50世帯はありそうなその数に、こんな細長いマンションなのに、と驚く。その郵便受けコーナーの横に、管理人室と書かれた窓口があるのを見つけ、透子はエントランスの共用インターホンを鳴らしてみた。
 『―――はい』
 初老の男性の声が返ってくる。どうやら管理人が出てくれたらしい。
 「あの、私、人を探しているんです。4年前にここに住んでいた筈なんですけど…」
 『人探し?』
 「はいっ。あの、ええと―――生き別れた姉なんです」
 大嘘つき。
 心の中で、自分を詰る。けれど、背に腹は変えられなかった。実際、この一言の威力は大きかったらしく、直後、集合玄関の電子ロックが解除される音がした。
 総ガラス張りのドアを引き、エントランス内に入ると、管理人室から小柄な男性が出てきた。年齢からみても、今応対してくれた管理人らしい。
 「4年前っていうと、僕が着任する前だからねぇ。力になれるかどうかわからんけど」
 「すみません、お手数かけます。あの―――この人なんですけど」
 透子はおずおずと、メモ帳を管理人に見せた。老眼らしい管理人は、ポケットから老眼鏡を取り出し、透子から受け取ったメモ帳に目を走らせた。
 「飯島さん? うーん…記憶にないなぁ…」
 「この101号室っていうのは、実際にこのマンションにあるんですか?」
 「あるよ。101号室は10階の端っこだけど、今は小川さんて人が入ってるからねぇ」
 「…そうですか…」
 一気に、落胆する。では、この電話番号も当てにはならない。
 「4年以上、こちらにお住まいの方って、いらっしゃるんでしょうか」
 「いやあ…。ここ、単身者が多いマンションでね。出入りが多いんだよ。極端な場合、半年もしないうちに引っ越したりするから、隣近所との付き合いも希薄でねぇ…。お姉さんのことを覚えている人は少ないと思うよ」
 「……」
 「済まないねぇ、力になってやれなくて」
 管理人は、心底済まなそうにそう言った。姉と嘘をついてしまったことに、余計胸が痛む。透子は慌てて頭を深々と下げた。
 「いえ、いいんです―――すみませんでした。お時間取らせて」

 多恵子に繋がるものが途切れてしまった。
 ほっとしたような、絶望したような、なんとも複雑な気分だった。


***


 「それで千秋がね―――…って、慎二?」
 「……」
 「しーんーじー」
 ぐいっ、と腕を引かれて、慎二は慌てて視線を下に戻した。
 「えっ」
 「…やっぱり全然聞いてない」
 呆れたような不機嫌な目をした透子が、斜め下から睨み上げていた。その目を見たら、それまで消えていた雑踏の音が、唐突に戻ってきた。どうやら、またトリップしてたらしい。
 「ごめん。ちょっと、あちこちキョロキョロ見ちゃって」
 「もー…。そんなに渋谷が珍しい?」
 「あー、いや、そういう訳じゃ…」
 珍しいどころか―――懐かしい。何もかもが。
 透子が「服を買いたいから、一緒に見て」と言うので、暇だしついてきてしまったが…まさか、渋谷に連れてこられるとは思っていなかった。
 心の準備をしていなかった分、動揺は予想以上に大きい。慎二は、最近また伸ばし始めた髪を掻き上げると、ビルとビルの隙間に見える5月の空を見上げた。
 「…たださ。ここから見る空って相変わらず、どんなに晴れててもなんだか曇って見えるなぁ、と思ったんだよ」
 ちょっと寂しげに笑って慎二がそう言うと、透子は僅かに表情を変えた。
 「慎二、よく渋谷に来てたの?」
 「しょっちゅうね」
 「ふーん…そうなんだ」
 「…で? 千秋ちゃんが、何て?」
 あまりこの話題は取り上げたくない。再び歩き出しながら透子に先を促すと、透子は、どことなく上の空の状態で首を横に振った。
 「…ううん、なんでもない。もう、何話すか忘れちゃった」
 「? あんなに睨んだのに、こんなあっさり忘れちゃうんだ?」
 「睨んだのは、慎二がすぐトリップするからっ」
 キッ、とまた睨み上げられ、慎二は「スミマセン」と軽く頭を下げておいた。透子が、一瞬心ここにあらずな表情をしたのが気になったのだが、今見下ろした先にいる透子は、もういつもの透子に戻っている。
 何かまずいことでも言ったかな、と考えを巡らしていると。
 「―――あ、ここのお店のソフトクリーム、すっごく美味しいって、千秋が言ってた」
 いささか唐突に、透子がそう言って、数メートル先の店を指差した。結構有名な店なのか、ちょっとした行列が出来ていた。
 「慎二、食べない? 奢るよ」
 「え、奢る?」
 「うん。買い物に付き合ってもらってるお礼に。…安すぎるかな」
 舌を出してみせる透子に、慎二は苦笑し、その頭にぽんと手を乗せた。
 「そんなことないよ。…じゃ、奢られようかな」
 「分かった。買ってくるから、この辺にいて」
 言うが早いか、透子は駆け出し、行列の最後尾についた。5、6人待ちといったところだろうか。10分もかからないかな、と思いつつ、慎二は、傍にあった街灯にもたれかかって、久々の渋谷の街をぼんやりと眺めた。

 渋谷―――かつての、自分の居場所。
 ここには、たくさんの出会いと、たくさんの別れの思い出が眠っている。一番楽しい思い出も、一番苦しい思い出も、全てはここにあると言ってもいいほど、どこもかしこも思い出だらけだ。
 最初にここに足を踏み入れてから、もう10年は経っている。当時とは、道行く若者の服装もメイクもまるで違ってはいる。けれど…持っているものは、今も昔も同じだ。
 ここをうろつく若者は、目的地を見失った奴らばかり―――瞬間的な快楽と、けたたましい笑い声と、明日のことなんて考えずに済む位の刺激。それを求めて彷徨ってる、綺麗な色した熱帯魚ばかり。大海原に出て行くだけの強さがなくて、ヒラヒラと水槽の中を泳いでいる―――そう、あの頃の自分も含めて、みんな。

 『シンジ見てるとさ、水族館の大きな水槽思い出す。キラキラした熱帯魚がたくさん泳いでてさ―――その中で、黒と白のツートーンで泳いでる、カッコイイ魚。グッピーとかネオンテトラみたいに派手に光ってなくて、でも見てて幸せな気分になるような、シンプルで綺麗な魚…あのエンゼルフィッシュが、シンジ』

 「…エンゼルフィッシュ、か」
 かつて、多恵子に言われた言葉を思い出して、クスリと笑う。確かにそんな感じだったな、と。
 ―――透子は、イルカかな。頭いいし、元気だし、どこまでも泳げるし。
 視線を、行列に並んでいる筈の透子に移し、そんなことを思う。が―――次の瞬間、慎二の顔が険しくなった。

 行列も残り2人という位置にいる透子を、いかにも今時の若い連中、といった服装の男2人が両側から囲んでいた。しかもそのうちの1人は、驚いて目を丸くしている透子の腕をしっかり掴んでいる。
 何を話しているかは、距離があるので聞こえない。でも、ムードで大体想像はつく。慎二は慌てて、街灯にもたれかかっていた体を起こし、透子の方へと駆け寄った。
 「透子!」
 駆け寄りながら名前を呼ぶと、ただ目を丸くしていた透子が、ハッとしたように慎二の方に目を向けた。と同時に、彼女に言い寄っていた2人も顔を向ける。驚いた顔をしているところを見ると、透子に連れがいるとは全然考えていなかったようだ。
 慎二は、咄嗟に最大限の笑顔を作ると、透子の手を取った。
 「お待たせ。アイスはもういいから、行こう?」
 「…あ、うん」
 いつにない種類の慎二の笑顔にちょっと顔を赤らめた透子は、慎二が声を掛けたことで冷静な思考能力が戻ったのか、自分の腕を掴む男をその大きな目で睨み上げた。
 言葉には出さない。が、透子の目が「離しなさいよ」と男に迫っていた。大体、透子のこの目に敵う奴など滅多にいない。男は、気圧されたように透子の腕を離してしまった。
 「―――んだよ、男連れかよ。つまんねー」
 ぶつぶつと文句を言いながらも、男2人は透子から離れ、ちょうど青になったばかりの横断歩道を渡って行ってしまった。時折振り向くところを見ると、まだちょっと未練があったようだ。
 2人が十分遠ざかったのを確認したら、どっと疲れが押し寄せてきた。慎二は、はぁっと大きく息を吐き出すと、少し身を屈めて透子の顔を覗きこんだ。
 「大丈夫?」
 「うん…びっくりした。ナンパなんて、生まれて初めてだから」
 今になって怖さを実感したのだろう。声が僅かに震えていた。
 「…とりあえず、行こっか」
 慎二はそう言って、透子の手を取ったまま歩き出した。透子も俯いたまま、大人しくそれに続いた。

 ―――男連れ、かぁ…。
 そう思ってくれたのは、あの場合非常に好都合だったのだが、それでも、なかなかに複雑な心境だ。
 透子は、引き取った欲目じゃなく、多分かなり可愛い部類に入る顔立ちをしていると思う。猫を思わせる目も、ふっくらした唇も、赤ちゃんを連想させる丸い頬も、サラサラと柔らかそうな髪も―――多分、多くの男性の目を惹くと思う。
 これまで大して声も掛けられずに来たのは、尾道ののんびりした風土もあるだろうが、透子があまりにも子供っぽかったから、というのが原因だろう。でも、ここ1年あまりで、透子は随分変わった。本間じゃないが、確かに女っぽくなった。時々、慎二ですら、その表情にドキリとさせられるほどに。
 連れ立って歩く自分と透子を、周りはどう見ているんだろう―――その答えを、さっきの男の言葉に見た気がした。

 『分かってるんでしょうね、慎二君』

 佐倉の言葉が、耳に甦る。

 『18って言ったら、キミと出会った頃の多恵子と同い年よ。引き取った時のまんまの気分でいたらダメ。この先も、透子が一人前になるまで一緒にいてやる気があるんなら、そのこと、ちゃんと自覚を持ちなさい。でないと―――…』

 「―――…慎二」
 慎二の考えを遮るように、透子が、呟くように慎二の名を呼んだ。
 我に返った慎二は、透子を見下ろした。透子は、まだ俯いたままでいる。握った手が、いつもより少し熱かった。
 「買い物、後回しでいいや。だから―――どっか、慎二の思い出の場所、連れてって」
 「…え?」
 「渋谷、よく来たんでしょう? …どこでもいい、慎二が一番楽しかった思い出のある渋谷、連れて行って」

 

 どんなつもりで、透子がそんなことを言ったのか、分からない。
 けれど慎二は、透子の望み通り、一番楽しかった思い出の残る場所へと彼女を連れて行った。

 それは、何の変哲もない道端―――20歳の誕生日から尾道に行くまでの3年間、慎二が似顔絵描きをやっていた場所だ。2人はそこに並んで腰を下ろし、道行く人をぼんやりと眺めた。
 隣に並ぶ、小さな肩―――それを見ていると、つい、別の誰かと錯覚しそうになる。その度に、甦る記憶を頭から叩き出す。何度も、何度も。

 「ねえ、慎二」
 「ん?」
 「…似顔絵描き、楽しかった?」
 「うん―――結構ね。いろんな人と出会えたし」
 「…そうなんだ」

 小さく呟く透子は、何を考えていたのだろう。
 その後、黙って人の波を眺め続けた透子の目は、目の前の光景とは別のものを見つめているように見えた。そう―――まるで、ここにいない誰かを探しているかのように。


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