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―――雨の、においがする。
頬を撫でる風の中に、もうすぐ雨が降る時独特のにおいを見つけた透子は、風で乱れた前髪を掻き上げ、空を見上げた。
朝、坂道を上がってくる時は、梅雨の晴れ間といった感じの青空だったのに、気まぐれな空は今では灰色の雲に覆われ、今にも泣き出しそうな色になっていた。雨が来る―――けれど何故か、この重苦しい空の色でさえ、この前渋谷で慎二が見上げた5月の青空よりも明るい色に見えた。
「この空模様だっていうのに…あの連中は、バカとしか言いようがなさそうだな」
隣のベンチに座る千秋の呆れ声に、透子もフィールドに目を戻した。
あの連中、というのは、一城の陸上部員全員のことである。雨が降ってきそうな空模様なのに、ウォーミングアップがやっと終わったという段階の彼らは、全然引き上げる様子がない。今日は記録会だと聞いて、透子も千秋を誘って見学に来たのだが、この状態でいい記録が出るとは到底思えない。と言うより、全員の記録を取る前に雨が降り出すことは確実だ。
「バカって言うより、走ることに頭がいっちゃってて、空まで見てないのかも」
クスクス笑って透子が言うと同時に、ウォーミングアップの終わった荘太が2人に気づき、フィールド上からぶんぶん手を振った。透子は、それに応えて同じように手を振り返したが、千秋は面白くなさそうに眉を顰めただけだった。
本計測まで少し時間があるのか、荘太はトレーニングウェアの上着を羽織ると、フィールド脇のベンチへと駆け寄ってきた。
「さんきゅ、透子。わざわざ来てくれて」
「んー、いいよ。久々に荘太の走るとこ見たいし、バイト休みでラッキーだった」
「お前は相変わらず愛想がねーな」
透子の隣に座る千秋に向かって、笑顔のまま荘太がそう言う。千秋の方も、それに応えるようにふっと笑った。
「私は透子を変な輩から守るために来てるだけだ。お前に愛想を振り撒く筋合いではない」
「ハハハ、どのみち、こっちも願い下げだ」
「……」
梅雨だというのに、木枯らしが吹きぬけたような気がした。
出会い方が悪かったせいか、荘太と千秋は、もの凄く仲が悪い。
先に態度を硬化させたのは、荘太の方だった。初対面で、自分の親切を「嫌いだ」とばっさり斬られたのは大きかったらしい。千秋の家庭事情を知ってもなお、荘太の中の千秋の心証は良くならなかった。
「何だよそれ。本当に跡を継ぎたけりゃ何とでもなるだろ。女扱いするなとか言いながら、あいつが一番“女”だってことに甘えてんじゃねーの? 親に刃向かうこともできねー癖に。負け犬の遠吠えだよ、あれは」
結果、千秋に対する荘太の態度は、すこぶる悪いものになった。元来、誰とでも仲良くなれるフレンドリーな人間である荘太にしては、これは珍しいことかもしれない。
荘太がそんな風なので、当然、千秋も荘太に対して頑なな態度をとる。
「私のことをよく知りもしないで、偉そうなことを言う奴だな。自分が常に勝ち残ってきたから、負けた人間の気持ちを思いやれないんじゃないのか? ああいう、自信過剰で不遜な男は大嫌いだ」
元々、愛想の良くない千秋だが、荘太に対しては愛想の欠片もない。既に6月も終わろうというのに、やっぱりこの2人は、どうにも歩み寄れない関係らしい。
―――困るよなぁ…。2人とも、大事な友達なのに。
季節外れな木枯らしを感じながら、透子は困ったように眉を寄せた。千秋を連れてきたのは失敗だったかも―――けれど、走っている荘太を、一度でいいから見てもらいたかったのだ。
「最近どうなの、調子は」
その場のムードを払拭すべく、透子は、まだ殺気だった笑みを浮かべている荘太に訊ねた。すると荘太は、千秋に向けていた殺気を瞬時に消し去り、自信あり気にニッと笑った。
「任せろ。インカレの表彰台は俺がいただく」
「おお、強気」
「…と言いながらも、陸上に関しては高校で燃焼し尽したから、実はどーでもいいんだけど。ま、スポーツ推薦で入っている以上、インカレ出場はノルマだからさ」
確かにそうだろう。大学側も、それを期待して荘太に声を掛けた筈だ。勉強以外でも求められることが多くて、スター選手も大変だなぁ、と荘太の笑顔を見上げていた透子は、その笑顔が突然険しいものに変わるのを見て、おや、と眉をひそめた。
「どうしたの」
「―――まぁた来てる」
荘太の険しい顔が、すぐに「うんざり」に変わる。荘太の視線が、透子や千秋を通り越した、グラウンドの入口辺りに向いているのに気づき、透子と千秋もそちらに目を向けた。すると、ちょうど、鉄製の頑丈な門が半分だけ開けられた入口から、1人の男がグラウンドへと入ってきたところだった。
仰々しい三脚を担ぎ、肩からは一眼レフとおぼしきカメラを提げているその男は、遠めにも色あせ気味なのが分かるTシャツ姿から察すると、どうやらプロではなく学生らしい。やたらヒョロヒョロと痩せ細った人物で、歩いている姿もふらふらに見える。
「…誰だ、あれは」
千秋が、胡散臭そうに目を細める。それに応えて、荘太も余計眉を顰めた。
「誰なのかは知らないけど、入学してからこのかた、週に何度か練習を見に来ては、俺だけカメラで撮っていくんだ。そりゃ、撮るなとは言わないけど、さすがに俺だけってのは…」
「挙動不審も甚だしいな。小林の写真を集めてるなんて」
「…やめろ。コレクションされてると思うと、鳥肌が立つ」
本当に寒気を覚えたのか、荘太はそう言って、二の腕の辺りをさすった。そうしている間にも、問題の男は、透子たちが座るベンチから少し離れた所に三脚を設置したりし始めている。それを眺めながら、透子は少し首を傾げた。
「そんなに怪しいかなぁ。別に普通だと思うけど」
「だって、俺しか撮らないんだぜ?」
「それは、荘太の走ってる姿が、他の人より絵になるからなんじゃない? 荘太の走りって、芸術だと思うもの。風になったらどんな気分だろう、ってのを、荘太の走ってる姿見てると疑似体験できる気がする」
「……」
「慎二も言ってた。絵になる風景とかってあるけど、人間にも“絵になる人”がいるって。見てくれの良さじゃなく、持ってるオーラがその人を“描きたい題材”に変えるんだって。普段の荘太がどうかは分からないけど、走ってる荘太は絶対、絵になるよ。あの人も、だから荘太だけ撮ってるんじゃないの」
「…ふうん」
頭上から聞こえたもの凄くつまらなそうな荘太の声に、カメラのセッティング風景ばかり見ていた透子は、眉をひそめて荘太を見上げた。
透子に褒められて照れたのか、荘太は顔を真っ赤にしていた。が、その表情は暗く沈んで見えた。拗ねたような怒ったような目で透子を軽く睨むと、ふいっと顔を背ける。それを見て、千秋は皮肉っぽく眉を上げ、透子はハッとしたように口を噤んだ。
「―――そろそろ、始まるから」
「荘太っ」
踵を返してフィールドに戻ろうとする荘太に、透子は慌てて声を掛けた。
振り返った荘太は、少し寂しげな目をしていた。一瞬怯みそうになったが、透子は精一杯の笑顔で、Vサインを作って見せた。
「自己新、絶対出して」
「…任せとけ」
同じようにVサインを返して、荘太はやっと笑った。そして、くるっと背中を向けると、他の部員がいる方へ向かって駆け出して行った。
荘太の笑みを見て、少しだけ安堵した透子だったが、胸に感じた痛みは消えなかった。ごめん―――と、心の中でだけ、荘太に謝る。口に出して謝れば、荘太はきっと余計傷つくだろうから。
「…なかなか、複雑な関係だな」
荘太の背中を見送りながら、千秋がポツリと呟いた。
「小林の敵は、透子と同棲してるっていうあの芸術家?」
「…同棲じゃなくて、同居」
同じ意味でも、響きがまるで違う。透子は千秋を軽く睨み、視線をフィールドに戻した。そんな透子を楽しげな目で一瞥した千秋は、脚を組み直すと同時にくすっと笑った。
「透子って、面白いな」
「…えっ」
「どこそこのスーパーが火曜日は玉子が68円だとか、そんなスペシャル級に現実的なところもある癖に、風になったり芸術を感じたりオーラを見たりするロマン派なところもあるから」
「……」
「それも、同居してる奴の影響かな」
―――そうだね、多分。
惹かれて、憧れて、想いを募らせるあまり、彼を体の中に棲まわせてしまっているのかもしれない。
透子の世界の中心―――妹のような顔をして彼の傍にいようとする自分は、友達という名のもとに透子の傍にいようとする荘太と、やっぱり似ているのかもしれない。そう思うと、余計、胸が痛んだ。
***
「…多恵子の連絡先、教えて欲しいんだ」
コーヒーをサーバーからカップに注いでいた佐倉は、慎二の言葉に、思わず手を止めた。
怪訝そうに眉をひそめ、リビングのソファに座る彼の様子を窺う。昔から、いつ見てもふわふわと曖昧な表情をする人物だったが、今佐倉の部屋にいる慎二も、やっぱり何を考えているのかよく分からない顔をしている。
「日曜の朝っぱらから何しに来たのかと思ったら、そういう用事?」
「ごめん」
あっさり謝って、困ったように笑う。これだから、考えが読み難い―――佐倉は、サーバーをコーヒーメーカーに戻すと、2客のカップの乗ったお盆を手にリビングに戻った。
「多恵子については、キミの方が詳しいんじゃないの。なにせ、一緒に暮らしてた位だから」
つっけんどんにそう言い、慎二の前にコーヒーカップを置く。卑下した言い方になったことを、少し後悔しながら。
「…マンションには、行ってみたよ。東京に戻ってすぐ。でも、もういなかった」
「―――そう」
当たり前だ。いる訳がない。本気でいると思って訪ねて行ったのだろうか―――いや、いると信じたかったのかもしれない。自分の分をテーブルに置きながら、佐倉は小さく溜め息をついた。
「でも、急にどうしたの。再会からかれこれ1年近く経つけど、そんなこと、一度も言わなかったじゃないの」
お盆を脇に置き、脚を組む。首を軽く傾げて佐倉が見据えると、慎二は、理由は口にしたくない、という風に視線を落とし、角砂糖をコーヒーの中に入れた。その様子を見ていた佐倉は、あることに思い当たり、咄嗟に壁にかかったカレンダーに視線を向けた。
―――そ…うだ。今日は、7月5日だ。
すっかり、忘れていた。1年で最も、憂鬱で落ち着かない日。毎年、この日が来るのが怖かった―――つい、数年前までは。けれど、最近はそんなことも完全に忘れていた。いや…意図的に、頭から追い出していたのかもしれないが。
普通は、こうやって、次第に忘れていくものだ。けれど…慎二は、今もこの日付にこだわっている。それを思い知らされた佐倉は、鈍い胸の痛みに知らず顔を歪めた。
「…連絡先を知って、今更どうしようって言うの?」
震えそうになる手をなんとか宥め、コーヒーカップを手にする。佐倉は、朝はブラック派だ。一口飲んだが、苦味も熱さも、感覚が麻痺してるみたいに感じられなかった。
「もしかして、よりを戻したいとか思ってる?」
「…ハハ…、まさか。そんなこと、思ってないよ」
視線を落としたまま、慎二が苦笑する。僅かにクリームを加えたコーヒーを、彼も口に運ぶ。それを口にする前に、呟くように付け加えた。
「ただ…信じていけると思ってたのに、それが結構、難しいから、さ」
「……」
―――震えちゃ、いけない。
カタカタと音を立ててしまいそうなコーヒーカップを、それ以上持っている訳にはいかなかった。佐倉はソーサーにカップを置き、無意識のうちに煙草を探した。
『絶対に、言わないで。佐倉』
多恵子に唯一、託された言葉。―――でも、この期に及んで、まだその言葉を守る必要なんて、あるんだろうか?
もし、多恵子が今どうしているかを知ったら…慎二は、どうするだろう? それを考えた時、今もまだ7月5日にこだわり続ける慎二を見ていると、大きな不安がのしかかる。慎二が尾道へ行った経緯を知っているから、余計に。
慎二には今、透子がいる。もし透子が、また1人きりで取り残されるようなことになったら―――…。
「…悪いけど。あたしほんとに、卒業からこのかた、多恵子とは連絡とってないのよ」
やっと探り当てた煙草を、なんとか口にくわえる。
「もう、関わるの、やめたの。高校3年間プラス大学4年間、振り回され続けた。…もう、十分。あたしはもう、多恵子のことは忘れた」
慎二は、佐倉が煙草に火をつけて煙を吐き出すまでの諸動作を、じっと見つめ続けていた。が、やがて、小さく息を吐き出すと、
「―――ごめん。もう、いいよ」
そう呟き、コーヒーカップに再び口をつけた。
佐倉の言葉を、慎二が本当に信じたのかどうかは、定かではない。けれどその後、コーヒーを飲み終えて佐倉の家を後にするまで、慎二はもう二度と、多恵子という名前を口にはしなかった。
***
東京に来て最初の7月5日―――朝から出かけていた慎二は、昼頃、突然降り出した雨に濡れて戻ってきた。
朝、目が覚めて、慎二の姿がなかった時には、半分パニックに陥った。今日が普段とは違う1日であると、過去の経験から十分知っていたから。
でも、帰宅した慎二に、透子は何も訊ねなかった。
どこに行っていたか、何をしていたか、知りたくない訳ではない。でも…どうでも良かった。ただひたすらに、慎二がちゃんと帰ってきてくれたことに安堵した。
その日の午後を、透子は居間にラジオを持ち出して、FMをかけながら本を読んだりして過ごした。慎二はその傍で、スケッチブックを広げて、なにやら絵を描いていた。難しい顔をしているところを見ると、締め切りが迫っている雑誌の挿絵のアイディアをまとめてでもいるのだろう。
雨音と、ラジオから流れる古い名曲をBGMに、のんびりと静かな時間が流れる。会話はないが、ひとりじゃないことが心地よい―――透子は、こういう時間が、とても好きだった。
「…あ、この曲」
ふいに、聞き覚えのある曲が流れてきて、透子は本から目を上げた。
「今、曲目の説明あった?」
「んー…? いや、なかったよ。CMからいきなり曲に入ったから」
スケッチブックの上にせわしなく鉛筆を走らせながら、慎二が答える。よく知っている曲なのに、曲名がどうしても出てこない。透子は眉間に皺を寄せた。
「なんだっけー。こう、この辺まで名前出てきてるんだけどなー…」
イライラと本の上で指をトントンと動かす透子に、慎二は手を止め、顔を上げてクスリと笑った。
「―――ジョン・コルトレーンの“マイ・フェイヴァリット・シングス”だよ」
「え?」
「透子は多分、“サウンド・オブ・ミュージック”見て知ってるんじゃないかな。“私のお気に入り”ていう歌で」
「…ああ! そうそう、それ!」
思い出した。今年の年末年始に、テレビで“サウンド・オブ・ミュージック”が放送されていたので、それで記憶に残っていたのだ。映画の中では、いかにもミュージカル曲といった歌だったのに、今流れているのは洒落たムードのジャズだった。メロディラインは確かに同じだが、すぐには分からなかった。
「意外ー…、慎二がジャズ知ってるなんて」
「いや…知ってる、ってほどじゃないよ。たまたま、この曲は知ってたけど」
感心したような声を上げる透子に、慎二は困ったような笑みを浮かべてそう言った。
雨の音に被さるように、ピアノの音とサックスの音が響く。軽快な3拍子なのに、その音楽はどこか切なくて、物悲しい音色をしていた。雨の似合う曲だな、と透子は思った。
2人して、しばし黙って、曲に聴き入る。慎二は、どこか懐かしそうな目でラジオを見つめながら。透子は、そんな慎二をぼんやり眺めながら。
―――ロマン派な私を生み出したのは、慎二だね、きっと。
千秋の言葉を思い出して、透子は口元を綻ばせた。
梅雨時の雨なんて、昔はただ鬱陶しくて早く止んで欲しいだけのものだった。
靴が濡れるとか、今日の体育の授業が体育館になるとか、そんな現実的なことだけ考えて、雨雲に覆われた空を見上げることもせずに溜め息をついていた。
でも、今は―――慎二を知った今は、風の中に、空の色合いの中に、日々何気なく見ている街路樹の変化に、季節を知る。
梅雨時に咲く紫陽花が昨日と今日とでは色が微妙に違っているのに気づいたり、雨が降る前の匂いにすぐ傍に土の地面があることを知ったり―――その度に、そうしたものの中に、慎二の絵と慎二の言葉を見つける。春に、夏に、秋に、…冬に。それまで知らなかった、慎二が伝えようとしていたものを見つけて、嬉しくなる。
“マイ・フェイヴァリット・シングス”―――今の透子が好きなものはみんな、慎二がいて初めて気づけたものばかりだ。
こんな、言葉も触れ合いもない時間でさえも、慎二と一緒にいると、不思議な位に愛おしい―――愛おしい、という感情を、透子は初めて知ったような気がした。
***
前期の講義も残すところ僅かとなった7月半ば、透子と千秋は、また荘太の練習を見に行く機会ができた。
「透子の言った“芸術”の意味は、ちょっと分かった気がする」
また例のベンチに腰を下ろしながら、千秋は無表情にそう言った。
「全身、バネで出来てるみたいな走り方をするな、小林は。小柄なだけに、トップスピードに乗った時のスピード感は、トップアスリートより見た目に表れているかもしれない」
「でしょ? 私も陸上全然分からないけど、荘太の走りだけは、見てて気分爽快になれるもの」
前回の見学で、荘太の走りに魅了されたらしい千秋に、透子はニッコリと笑う。が、千秋は、言葉とは裏腹に面白くなさそうな顔をしていた。
「でも…なんだか、腹が立つな。あの自信過剰野郎の鼻っぱしらを折ってやりたいのに、本気で速いなんて」
「…千秋。ちょっと、荘太に敵意持ちすぎなんじゃないの?」
「当たり前だ。私が透子と一緒にいると、あからさまに“邪魔者”という顔をする男に、敵意以外の感情なんて抱ける訳ないだろう」
確かに―――その点は、千秋側に一理ある。困ったなぁ、と透子はまた眉を寄せてしまった。
フィールドでは、ウォーミングアップの真っ最中だ。透子はあまり興味はないが、千秋はむしろこのウォーミングアップの方が興味があるらしく、組んだ膝の上に頬杖をついて、かなり熱心にその様子を眺めていた。
早く荘太が走り始めないかな―――そう思って伸びをした透子は、フィールド外に目を向けた途端、それまで気づかなかった存在に気づいた。
―――あ。また、来てる。
例の、ひょろひょろした学生カメラマンだ。今日は三脚を使わないらしく、前回よりは軽装で来ていた。
彼も、荘太が走り始めるのを待っているらしく、透子と同じように伸びをしていた。そして偶然、透子が彼に気づいてすぐに、彼もこちらを見た。
目が合って、一瞬、両者の動きがピタリと止まった。
「……」
どういうリアクションを取ればいいか、咄嗟に思い浮かばない。困り果てていると、彼の方が、腕を下ろしちょっと頭を下げて、愛想笑いをしてきた。透子もそれを真似て、腕を下ろして、軽く会釈をした。
ツンツンと逆立った短い髪といい、ヒョロ長い体型といい、顔の造作といい、全てが線で描いたような印象を受ける人物だ。スポーツ写真を撮るなんて全然思えないその風貌に、もしかして荘太や千秋が言うように不審者なのかもしれない、と一瞬疑ってしまう。太陽の下でカメラなんか構えているよりも、白衣でも着て、研究室でフラスコを振ってるのが似合いそうだ。
透子が彼の観察をしていると、彼は頭を掻きながらフィールドの方に目をやった。そして、まだ暫くは目的のショットが撮れそうにないと判断したのか、透子と千秋が座っているベンチの方へ、ぶらぶらと歩いてきた。
「え…っ、嘘っ」
「え?」
思わぬ展開に思わず漏らした言葉を、千秋が聞きとがめた。そして、透子が笑顔を引きつらせて見ている方角に目をやった千秋は、透子と同じように顔を引きつらせた。
「やー。君達、この前も見学に来てたよね」
男は、やたら明るい声でそう言い、軽く手を挙げた。どうやら、前回の見学の時、相手もこちらを見ていたらしい。
「は…あ。どうも」
「小林君と話してたけど、彼の友達?」
「そうです」
「違います」
透子と千秋が、同時に答える。それを聞いて、男は一瞬、キョトンと目を丸くしたが、続いて楽しそうに大口を開けて笑った。
「あははははは、なるほど、そうかぁ。そっちの子が小林君の友達で、こっちの子はそのまた友達なんだ」
「…まあ、そんな感じです」
「彼、インカレ出るんだってね。きっとその時が一番いい走りするだろうから、今から楽しみなんだ」
本当に楽しみにしてるという顔でそう言う彼に、千秋は片眉を上げた。
「なんだって小林の写真ばかり撮ってるんですか?」
「ん? ああ、僕、写真部なんだよ。秋に大学祭があるだろう? その時、うちの部も写真展をやるんだけど、それに出す作品の被写体を小林君に決めたんだ。インターハイの時から狙ってたからね。楽しみだよ」
「え…、そんな前から目をつけてたんですか」
「偶然なんだけどね。弟が出てたんだ、小林君と同じ日にやった、別の競技に。うちに入学するって聞いて、そりゃもう嬉しかったよ。それまで空専門に撮ってたから、スポーツ写真なんて無理かなと思ったけど―――どうしても撮りたくてねー。こうやって練習見に来ては、彼のスピードについてこうと必死なんだ」
それは…大変だろう。カメラど素人の透子と千秋にも、なんとなく想像がつく。あまり動きのない空をじっくり撮るのに比べたら、荘太が100メートルを駆け抜けるのなんて、一瞬の出来事だ。
「…っとと。自己紹介がまだだった。僕は、江野本
「いえ、2人とも、外語の英語科です。私は、井上透子。荘太とは高校からの同級生なんです」
「橋本千秋です。透子の友達です」
怪しい人物ではないと分かってホッとした2人は、幾分緊張のほぐれた笑顔で自己紹介した。すると江野本は、透子の方の自己紹介に何かを感じたらしく、少し眉をひそめて透子の方を見た。
「井上さんの方、もしかして関西出身?」
「え?」
「いや、関西弁は喋ってないけど、イントネーションが関西風味だから。そう言えば、小林君って広島だったよね」
「ああ、はい。荘太は尾道です。でも…私が関西風味なのは、神戸に住んでたからです」
「神戸?」
途端、江野本の顔つきが変わった。それまでの和やかなムードが一変し、妙に真剣な目つきになる。
「君、神戸に住んでたの?」
「え…、ええ。震災までは」
「…ってことは、震災体験者?」
「―――は…あ」
「話、聞かせてくれっ!」
「は!?」
がばっ、と江野本に腕を掴まれ、透子は驚きに目を丸くした。
***
翌日の午後、透子は、写真部の部室を訪れた。
「…そんな顔するなら、千秋はやめといてもいいってば」
敵陣に乗り込む侍みたいに思い切り警戒心を顕わにしている千秋を見て、透子はそう言って困った顔をした。前に、渋谷でナンパされかけた話をしたのがまずかったらしい。千秋自身、高校生の頃に騙されておかしな場所に連れ込まれかけた経験があるそうで、あの話をして以来、「透子は無防備すぎる、見ていられない」と言って、さっぱり信用してくれないのだ。
「駄目だ。あんな怪しげな奴と2人きりにしたなんて分かったら、私が小林から何言われるか分からないからな」
「研究目的だもん。変な真似したりしないよ、江野本さん」
「甘い。透子は、己をよく知らないんだ。自分が実は相当可愛い部類に入るってこと、全然分かってないだろう?」
「…別に可愛くないって」
「とにかく、透子1人じゃ危ない。私も行く」
千秋の頑なさに、透子は折れた。とにかく、それで千秋が安心するのならば、と思い、透子は千秋と連れ立って写真部の部室のドアをノックした。
「はーい」
「あの…井上です」
「ああ! どうぞ、開いてるよ」
自信はないが、どうやら昨日の江野本征矢の声のようだ。あまり気の進まない用件だが、透子は部室のドアを開けた。
写真部の部室は、狭かった。部室、と言うよりは機材置き場だ。照明器具や、写真雑誌の詰まった本棚がところ狭しと並べられ、僅かに空いたスペースに、会社の応接室のような机とソファが置かれている。江野本は、そのソファに腰掛けて、アルバムのようなものを見ている最中だったようだ。
「いやー、悪いね、わざわざ時間とってもらって。はい、2人ともここ座って」
江野本は慌てて立ち上がり、透子と千秋にソファを譲った。自らは部室の置くからスチール製の椅子を引っ張ってきて、それに腰かける。その顔は、既に「写真部の主」の顔から「地学科地殻変動研究ゼミの一員」の顔になっていた。
江野本は地学科の中でもその地殻変動―――つまり地震などをテーマとしたゼミに在籍している。
具体的にどういう研究をしているのか、その辺の説明はなかったし、聞いたところで透子に理解できるものとは思えない。とにかく、地震の発生メカニズムとかそういう事を研究しているのだろう、と、透子は漠然と理解した。
4年生である江野本には、卒論という大仕事が待っている。そして彼は、その卒論のために、この夏にでも神戸に行って直接被災者の話を聞こうと思っていたのだと言う。その矢先、いきなり透子と知り合った訳だ。話を聞かせてくれ―――それはつまり、震災の時のことを聞かせてくれという意味だった。
一体どういう卒論テーマなのか、という透子の質問に、江野本はニコニコしながら答えた。
「ほら、地震体験装置ってあるだろう? 起震機っていうんだけど、あれで震度5、震度6を起こしても、実際の地震とはまるで違う揺れになるって思わない? なんていうか、遊園地の乗物か何かみたいで―――僕はさ、ああいう装置で、阪神大震災の揺れを、忠実に再現できないかな、と思うんだ。被災者の人から、当時の状況や体験を聞き集めて、それをもとに全く同じ揺れを人工的に再現できないか、って」
「へーえ…再現して、どうするんですか?」
「そりゃあ、色々使い道はあるよ」
江野本は、スチール椅子をガタンと引いて、少し身を乗り出すようにした。その目が、やたらイキイキしている。
「起震機ではただ倒れるだけだった食器棚が、実際の地震では飛んじゃったりするだろう? そういうのの実験もできるし、あの揺れを知らない僕みたいな人間がそれを実体験すれば、次にそういう地震に巻き込まれた時の免疫効果もあるかもしれない。地震発生時にパニック起こして、助かるものも助からない場合ってあるからね。予防接種じゃないけど、日本人全員があの揺れを体験しておいたら、東海地震も怖くないかな、とかね」
「…それは、実体験していないから言えるセリフだな。一度体験した人間は、二度とあんな経験はしたくないって言うぞ」
不謹慎な、という顔をする千秋に、江野本は、ごもっとも、という風に頷いた。
「確かにね。でも、研究者としては、体験していないからこそ体験したいんだよ。数値では見えないものが、そこにはあると思うからさ」
―――面白い。
自然界の出来事を、人工的に再現する。しかも、忠実に。そんなことして何の役に立つんだ、と思ったけれど…確かに、色んなことが検証できたり実験できたりするかもしれない。地震研究は、発生メカニズムだとか地形調査だとか、そういうことばかりだと思っていたが、こういうアプローチもあったのかと、ちょっとカルチャーショックだ。
研究職っていうのも、結構面白いのかもしれないなぁ―――透子はそんなことを思った。
「あ…っと、そうだ、お礼に何か飲み物奢るよ。飲みながら話そう」
江野本は突然そう言って立ち上がった。
「自販機で売ってるもの限定だけど、何がいい?」
「え? ええと…じゃあ、私はアイスココア」
「橋本さんは?」
「…私は、何も話すことがないんだが」
戸惑ったように眉を寄せる千秋に、江野本は軽く肩を竦めて笑った。
「井上さんのボディーガード役の代金としてでは、どう?」
「―――じゃあ、私は、ホットのコーヒーで」
「了解。じゃ、買ってくる。あ、その辺のアルバム、見てくれていいよ」
テーブルの上のアルバムを江野本が指差す。透子達が来る前、彼が眺めていたものだ。全部で5冊ほどあるだろうか。
「江野本さんが撮った写真ですか?」
「いや。蒲原さんていう、うちの卒業生でプロカメラマンになった人が在学中に撮った写真。うち、結構名門なんだよ、写真部としては。で、在学中に賞なんか取った人の写真は、卒業時にアルバムとして残してもらってるんだ。その蒲原さんは7、8年前の人だけど、人物写真が凄く上手い人だから、小林君を撮る時の参考にならないかな、と思って見てたんだよ」
「へーえ…」
「じゃあ、買ってくるよ」
江野本はそう言い残して、部室を出て行った。狭い写真部の部室には、透子と千秋と、ノートサイズのアルバム数冊が残された。
「…他人が撮った他人の写真なんて、面白いとも思えないな」
ドアが閉まると同時に、千秋がテーブルの上のアルバムを見てそう呟いた。千秋は芸術方面には疎いらしい。透子は苦笑しながら、手近なところにあった1冊を手に取った。
「そう? 私は結構、興味あるよ」
「それも、例の恩人の影響?」
「…それは、あるかもしれないけど。尾道って、絵とか芸術に力を入れてる町だったから、高校でもオブジェ造ったり色々やらされて、嫌でも芸術方面に興味を覚えちゃうようになったってのもある」
「だったら、小林もそうなる筈だな」
「……」
荘太も、芸術方面は興味ゼロだ。これ以上何か言うと、ただ墓穴を掘ることになりそうなので、透子は黙ってアルバムに目を落とした。
蒲原とかいう卒業生のものだというそのアルバムは、表紙の下の方に“1990”、“1991”などとペンで書かれている。どうやら、撮影年別にまとめてあるらしい。今透子が手にしているのは、1991と書かれたアルバム―――今から7年前のアルバムだ。
何の気なしにめくってみた透子は、そこに写っているものを見て、顔を綻ばせた。
多分、モデルは全て学生だろう。友達同士で肩を組んでいる写真、透子も見覚えのある中庭のベンチで語り合っている写真―――写真は全て人物写真で、どの顔もいい表情をしていた。写真の優劣など分からない透子だが、この人がプロになったというのは、何となく理解できることだと思った。
「ふーん…、やっぱり、プロになる人の写真って、どことなく違うよね」
透子が感心したような声を漏らすと、ちょっと気になったのか、興味なさそうな顔をしていた千秋も1冊手に取った。その様子を目の端で捉えた透子は、千秋には気づかれない程度にくすっと笑い、またアルバムに目を落とした。
写真の下には、『3月、中庭にて、田中と佐藤』などといった撮影メモまでついている。その後ろには数字も書かれているが、何のことかは分からない。多分、カメラをやる人間なら分かるものなのだろう。そうしたメモも一応読みつつ、次々にアルバムをめくっていった透子だったが、ある1ページを開いた時、心臓がドクン、といって跳ねるのを感じた。
写っていたのは、1人の女性―――透子も知っている顔だ。
―――佐倉、さん…。
今とは髪型も違うし微妙に顔立ちも違うが、間違いなくそれは佐倉だった。プロのモデルらしく、他の学生たちの素人モデルぶりとは異なり、完璧なポーズをとって窓際に佇んでいる。逆光気味のその写真は、そのまま雑誌に載せてもおかしくない出来だった。
写真の下には『4月、写真部撮影会にて佐倉みなみを写す。91年大学祭出品作品』とある。91年4月―――佐倉は、大学2年になったばかりだ。
鼓動が、速くなる。
佐倉は、当時既にプロのモデルとして活躍していた。だから、写真部にモデルを頼まれることもあっただろう。だから、こうして写真に残っているのは、ある意味当然のことだ。でも―――でも、もしかしたら。
ごくん、と、唾を飲み込む。透子は、震えそうになる手で、必死に次の1枚をめくった。写真の下に書かれたメモの1つ1つを、食い入るようにして確認しながら。
そして、佐倉の写真から5枚ほどページをめくった時―――透子の手が止まった。
『8月、軽音部ライブにて飯島多恵子を写す』
「―――…」
唇が、震えた。
唇だけではない。手も、脚も、肩も―――心臓そのものも、震えた。背中を駆け上がる寒気に、全身が総毛立つ。声を上げてしまいそうになるのを堪えるため、透子は口元に手をやり、せり上がってくるものを無理矢理飲み込んだ。
写真の中では、スタンディングマイクに両手を添えてた女性が、真剣な眼差しでカメラを見据えていた。歌いだす前なのか、それとも歌い終わった後なのか―――何か言葉を紡ごうとしているように、唇は薄く開かれている。サテン地の黒のキャミソールから伸びた首や腕は、折れそうなくらいに華奢で、不健康に見える。ベリーショートの明るい髪は、前髪に紫色のメッシュが入っていた。紫―――慎二が、一番好きな色だ。
いや、それよりも。
彼女の表情より服装より、何よりも透子の目を釘付けにしたもの。
それは―――彼女の、目だ。
初めて目にした、飯島多恵子の目。
なのに透子は、その目に見覚えがあった。
それは、毎朝、鏡の向こう側から透子を見つめる目―――飯島多恵子の猫を思わせる大きな目は、透子の目と瓜二つだったのだ。
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