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09

: MONTAGE (4)

 玄関の鍵をきっちりかけ、部屋の電気をつけた透子は、明るくなった室内を見つめながら、しばし玄関に立ち竦んだままでいた。
 ―――そ…っか。今日は慎二、イラストの納稿の日だった。
 家にいる筈の慎二がいなくて、一瞬、頭が真っ白になりかけたが、昨日の夜に予め聞いていた予定を思い出して、全身から力が抜ける。よかった―――慎二がいない方が、今日はありがたい。
 肩から掛けたバッグの重さが、そのまま、突きつけられたものの重さに思える。靴を脱ぐのも後回しにして、バッグのフラップを開けると、江野本から借りてきたものを引っ張り出す―――1991と書かれたアルバムを。
 唇をきゅっと引き結ぶと、透子は靴を脱ぎ捨て、いつもより大きな歩幅で自分の部屋へ向かった。バッグをベッドの上に放り出し、デスクライトをつける。机のど真ん中には、今朝使った置き鏡がそのまま置かれていた。透子は、鏡の中を見ないようにしながらそれを端へと追いやり、手にしていたアルバムを机の上に置いて椅子に腰掛けた。
 開くのを躊躇うように、アルバムの縁を何度も指で辿る。一度見ているのだから何度見たって同じなのに…そう思っても、やはり勇気が要った。
 5分ほども、そうしていただろうか。最後に、表紙に書かれた数字を指で撫でた透子は、思い切ってアルバムを開いた。
 ページをめくっていって、辿り着く、目的の1枚―――飯島多恵子の写真。再び、写真を隔てて彼女と向き合い、透子はまた唾を飲み込んだ。
 細かなパーツまではっきり分かる、胸元から上を真正面から写した写真。肌の質感も、髪の手触りも、全部分かりそうな写真だった。透明なフィルム越しに、多恵子の顔を撫でてみる。が、当たり前だが、フィルムのつるりとした感触しか指には残らなかった。

 「…違う―――…」
 違うけれど、似てる。

 端へと追いやった鏡を、もう一度引っ張ってきてアルバムの横に据える。アルバムを手元に引き寄せた透子は、鏡の中を覗き込み、そこに映る自分と写真の中の多恵子の顔を見比べてみた。
 ―――やっぱり、違う。
 輪郭は多恵子の方がシャープで、唇も多恵子の方が薄い。鼻の違いはよく分からないが、眉はノーメイクの透子とメイク済みの多恵子を比較するのは無理があるだろう。首も透子より細く長く、指も透子より細くて長い。静脈が透けて見えそうなほど色素の薄い肌も、浮き上がった鎖骨も―――違う、少しも透子とは似ていない。
 なのに、何故。
 目が…たった1つ、そのパーツだけが、恐ろしいほどに似ている。それだけのことで、何故こんなに似て見えるのだろう。
 大きくて、くっきりした二重で、目頭が切れ込んだ猫を連想させる目―――褒めてくれる人も多いが、自分ではあまり好きではない。小作りな顔の中で、目だけがバランスを欠いているように思えるから。でも、この目のおかげで、人にすぐ覚えてもらえるという利点もあった。こちらは覚えていなくても相手は覚えている、そんなことを何度も経験している。
 それだけ特徴的な目だ、ということだろうか。だから、目が似ているだけで、こうもパッと見た時の顔の印象が似て見えるのだろうか。
 きっと、透子と多恵子を並べて見比べれば、多くの人は「別にそれほど似ていない」と言うだろう。けれど、透子を知る人間が多恵子と、多恵子を知る人間が透子と初めて顔を合わせたら、きっと驚くと思う。透子と多恵子の似方は、そういう似方だった。
 そういえば―――透子は、去年初めて佐倉が西條家を訪れた時のことを思い出した。
 思わずガラス戸を開けて飛び出してしまった透子。その顔を見た時、佐倉は―――驚愕、していた。あの涼やかな目を大きく見開いて、表情を凍りつかせていた。まるで、幽霊でも目の前に現れたかのように。
 あの時はその意味が分からなかったが、今なら確信できる。
 佐倉は、透子があまりに多恵子に似て見えたから、驚いたのだ。
 …では、慎二は?
 佐倉が驚愕するほど、第一印象がそっくりに見えるのならば―――慎二は、どうだっただろう?
 3年半前の透子は、今より幼い顔つきではあったが、この目はあの頃も今も同じだ。透子と初めて顔を合わせた時、慎二はどんな顔をしていただろう? …透子自身は全く覚えていない。

 何故、透子を引き取る気になったのか―――最初からずっと抱き続けてきた疑問。多恵子の顔を知ってしまった今、それを考えた時、1つの答えしか思い浮かばない。
 多恵子に、似ていたから―――だから、連れて行こうと思った。尾道へ。

 「…それが、何よ」
 思わず、呟く。
 東京に置いてきた恋人と似た子供が、家も家族も失って泣いていた。ボランティアとは無縁な人間だけれど、恋人と似ていたから無視できなかった―――別に、おかしな話じゃない。
 なのに―――なんだろう。このショックは。
 そう。透子は、ショックを受けていた。慎二のかつての恋人らしき人物と、自分が似ていたということに。
 これに比べたら、多恵子が絶世の美女か何かであってくれた方がましだと思った。勿論、それならそれで、勝ち目なしだと落ち込むに決まっているが、それでも…その方がずっとましだ。

 ―――不安が。
 小さな不安が、1つ、芽生える。
 それは、小さな小さな、不安。けれど…芽生えてしまったその不安は、透子の胸の中を、1つ、また1つと侵食し、確実に広がってゆく。
 「―――…っ」
 耐えられない。透子は、置き鏡をぐいっと傍らに押しやり、唇を噛んだ。考え始めたら、もう二度と慎二のことを信用できなくなりそうで、怖い。考えたくない―――なのに、考えずにはいられない。置き鏡に添えた手に力が入り、鏡の表面に爪を立てる。そうでもしなければ、不安感に押しつぶされそうだった。
 目を伏せ、大きく息を吐き出した透子は、一度ぎゅっと瞑った目をゆっくりと開けて、机の上のアルバムにもう一度目を落とした。

 ―――似てるけど…なんて、違うんだろう。
 見れば見るほど、そう思う。
 同じ目をした人―――なのに、誰からも「明るくて元気」と言われる透子とは対照的に、写真の中の多恵子は、少しでも触れればこちらの手が切れてしまいそうな位、鋭くて、激しくて、凄絶な感じがした。真夏の極彩色のような色を放っている人…それが、透子から見た多恵子だった。この凄絶さは、一体、何から来るのだろう?
 ―――なんだか、私まで惹き込まれそう。多恵子さんが持つ、独特のムードに。
 ゾクリ、と、寒気が背中を這い上がる。こめかみが脈打ちながら鈍い痛みを訴えていた。
 アルバムをパタンと閉じると、透子はそれを早々にバッグに戻し、ベッドに寝転んだ。もう、あのアルバムは見ない―――これ以上見ていたら、何かが壊れてしまいそうだった。

***

 それから、どれだけの時間が経っただろう。
 ふわり、と、体が温かい物に包まれたような気がして、透子は目を覚ました。
 ―――あ…れ? 私、眠ってたんだっけ…?
 「…あ、起きちゃったか」
 のんびりした声が、頭上から降ってくる。透子は、だるさを訴える瞼を無理矢理上げ、声の主の姿を探した。
 慎二は、ちょうど透子の体に布団を掛けてやっている最中だった。適当な向きにゴロンと横になっていた筈の体が、今はきちんと枕に頭を乗せて寝ている。どうやら、さっき何かに包まれた気がしたのは、慎二が抱えて寝かせ直してくれたかららしい。
 「慎二…帰ってたの」
 「うん。ごめん、連絡できなくて。急に編集さん達に飲みに連れて行かれちゃって…電話する隙もなかったんだ」
 「え…、今、何時?」
 「9時過ぎ。…呼び鈴鳴らしても出てこなくて驚いたけど、まさか倒れてるとは思わなかった」
 「…別に…」
 ただ、ベッドに寝転がっているうちに、いつの間にか眠ってしまっただけだ―――そう思った透子だったが、それを口にする前に、全身を包む耐え難いだるさと、節々の痛みに気づいた。これは、熱が出た時の症状だ。
 透子が言葉を切ったことで、透子が自分の状態に気づいたと察したのだろう。慎二はふわりと微笑むと、透子の傍にしゃがみ込んで、その額に手を乗せた。
 「オレの手、冷たく感じるってことは、結構熱があると思うよ。測ってないけど」
 「うん…、冷たくて気持ちいい。ねえ、それより―――慎二、ご飯ちゃんと食べたの? お酒飲むのと一緒に食べてきた?」
 「あはは、大丈夫だよ。むしろ透子の方が問題じゃない? おかゆでも作ろうか」
 「…ううん、いい…」
 ―――いらないから、少し、このままでいて。
 熱で、頭がうまく働かない。空腹よりだるさより、心細さが一番強かった。透子は、熱にうかされたような状態のまま、右手を布団から出して、額に置かれた慎二の手に重ねた。行かないで、という風に。
 「…ねぇ…慎二」
 「ん?」
 「私と同居してるの、嫌じゃない…?」
 力ない透子の言葉に、慎二はキョトンとした顔をした。
 「なんで? オレ、嫌そうな顔したことある?」
 「ううん。でも…私いると、慎二、気軽に恋人呼んだり外泊したりできないじゃない。私…邪魔になってない? 慎二に迷惑かけてないかな…」
 日頃なら、絶対言えないセリフ。巣食っている暗いものが、意識とは別のところから、口をついて出てきてしまう。もしかしたら、熱で頭の回路がいかれてしまっているのかもしれない。
 「…何、どうしたの。付き合ってる人なんていないよ?」
 「でも、好きな人は、いるでしょう…?」
 多恵子という名前は、出せない。
 けれど―――何か、思い当たる節はあったのか、慎二の目が、少しだけ動揺を見せた。
 「慎二…時々、どっか遠く見てる。誰かのこと、考えてる。ずっと…その人のこと、好きなんじゃない…?」
 「……」
 「ほんとは、その人の所に行きたいんじゃない…?」
 ―――行かないで。
 口にした言葉とは裏腹な本音を、熱を帯びた体が叫ぶ。慎二の手に重ねた手だけが、それを慎二に伝えた。縋りつくように、手を握る―――無意識のうちに。
 そんな透子を、慎二は戸惑ったような表情で見ていた。何故透子がこんなことを言い出したのか分からず、困っているらしい。けれど、必死に自分の手を握る透子の手に、言葉にはならなかった透子の一番の本音だけは感じ取れたのだろう。しょうがないなぁ、という顔をすると、もう一方の手で透子の髪を梳いた。
 「透子が何を考えてるのか、よく分からないけど―――透子より大切なものなんて、今は、ないよ」
 「…ホント…?」
 「うん」
 「…私のこと、好き?」
 「勿論」
 「…どこが?」
 「そうだなぁ…」
 透子の前髪を弄びながら、慎二は軽く首を傾げた。
 「必死に背伸びしてるとことか、強がってるとことか、時々オレに意地悪するとことか。それと…自分が熱出して倒れてんのに、オレの食事の心配するとこ、とかかな」
 「…なに、それ」
 全然、褒めてない。けど…なんだか、分かる。透子はだるそうに笑った。それにつられて、慎二も笑った。
 「第一、オレに彼女できるより、透子に彼氏できる方が早いんじゃない? そうしたら、オレの方が邪魔者になるよ、きっと」
 「…そんなこと、あり得ないよ…」
 あり得ない―――慎二に対する想いがあり続ける限り。
 なのに、その可能性は、慎二の頭の中には欠片もないんだね―――笑顔で投げかけられた言葉にそれを感じて、熱に晒された体が余計に重くなった気がした。透子は、だるさに負けて、なんとか開いていた目を閉じた。
 「―――もう、眠った方がいいよ」
 「…うん…」
 額に乗った手が、遠ざかる。代わりに1度だけ、額に軽くキスされた。透子より大切なものなんてない―――その言葉を誓うかのように。

 ―――ねえ、慎二。
 そのキスは、本当に“私”にくれているキスなの…?

 心の中でそう呟いたのを最後に、透子は意識を手離した。

***

 都合、透子は、2日に渡って寝込んだ。
 風邪をひいたのか、はたまた一種の知恵熱なのかは定かではなった。そしてそのまま、大学の前期の講義は終了し、夏休みに入ってしまった。

 5月の関東インカレで既に上位入賞を果たしていた荘太は、9月の日本インカレに向けて夏休みを練習と調整に当てていた。その一方で、透子と同じファーストフード店で人生初のアルバイトも始めた。夏休み期間中だけという期限付きだが、どうしても働いてみたかったのだという。
 千秋はというと、夏休み中、弟の特訓に当たるらしい。秋口にある昇段試験を受けさせるために、1日12時間しごいてやる、と息巻いていた。軟弱者らしい弟じゃ昇段試験を受ける前にギヴアップかな、と透子も荘太も思ったが、あえて口には出さなかった。
 そして透子はというと―――やはり、アルバイトに明け暮れる夏休みとなった。
 「お前、こんなに働いて、一体どうする気だよ」
 透子のシフト表を見て、荘太が呆れた声を出した。けれど透子は、それには曖昧な笑みを返すだけだった。こんなに働く理由を、荘太には到底言えなかったから。
 1つには、家に居辛い、という理由。
 慎二が透子に優しくすればするほど、多恵子の素顔を知ったあの日心に棲ませてしまった不安が、内側から透子を傷めつける。慎二は今、自分の姿を通して多恵子を見ているのではないか…そんな疑いが芽生えてしまい、素直に甘える事ができない。考えたくなかった。そんな暗い考えは自分らしくないと思った。それでも、考えてしまうから―――家には、いたくない。
 そしてもう1つは―――どうしても買いたいものがある、という理由。
 慎二のアルバイト先である出版社は、神田にある。慎二はそこに週に3度、自転車で通っている。交通費が自己負担なので、それを浮かすためだ。「乗れれば何でもいい」というポリシーの慎二は、なんとご近所の人が捨てようとしていた自転車をタダでもらってきて、それで通っている。坂道になると相当厳しいらしいが、とりあえず乗れるからOKだと言う。
 しかも慎二は、東京に移り住んだ時点でかなりくたびれていたスニーカーを、いまだに履き続けている。透子の靴や服は新しく買うくせに、自分の分はさっぱり買わないのだ。あの靴で出版社にも子供絵画教室にも行っているのだと思うと、想像しただけで眩暈がしてくる。
 別にケチっている訳ではない。単に慎二が無頓着なだけだ。それは透子も分かっていた。
 でも―――それでも、透子はどうしても買いたかったのだ。慎二の新しいスニーカーと、慎二に似合いそうな街乗り用のマウンテンバイクを。

 呆れる位に無頓着で、どうしようもないほど勝負事が苦手で、頭に来るほど鈍いけれど。
 いや、だからこそ―――慎二が、好きだった。

 たとえ彼が、透子を多恵子の代わりに大事にしているのだとしても―――透子は、慎二だけが、好きだった。


***


 「え…っ、金曜、ですか? あ、いや…そんなことはないんですけど…」
 受話器を片手に困った顔をしている慎二を見て、朝食の後片付けをしていた透子は、何の電話だろう、と首を傾げた。
 慎二の口調からして、仕事の電話のムードだ。何か急な用事かな、と思っていると、慎二は結局押し切られるように「分かりました」と返事をして電話を切った。
 「何、どうしたの?」
 洗い上げたパン皿を拭きながら訊ねると、振り向いた慎二は、もの凄く済まなそうな顔をした。
 「ごめん…今度の金曜、オレ、透子と一緒に夕飯食えないかも…」
 「え?」
 「絵画教室が入ってるカルチャーセンターの、講師懇親会だってさ。夕方6時半から」
 「へぇ…、大変だね、大手になると、そういうのもあるんだ」
 慎二が週1回受け持っている“子供絵画教室”は、大手のカルチャーセンターのカリキュラムの1つだ。水曜日の午後から1時間半だけの授業だが、そこそこ好評らしく、生徒数も定員いっぱいまで入っている。スタートから4ヶ月、正直、他の講師となんて挨拶しか交わしたことがない慎二だから、懇親会なんて本当は気が進まないイベントだった。
 「行きたくないけど、9月以降のカリキュラムの会議も兼ねてるとか言われるとさぁ…。何やるんだか知らないけど、行かないとまずい感じだよなぁ」
 「仕方ないよ。仕事だもん」
 「けどなぁ…」
 慎二がこれだけ渋るのは、今週の金曜日が特別な日―――透子の誕生日だからだ。
 「私だったら、気にしなくていいよ。バイトあるから、荘太か他の仲間誘って、どこかで食べてくる」
 透子はそう言って、慎二が気にしないよう笑って見せた。それでも慎二は心残りらしく、
 「なるべく早く帰るから」
 と、まだ済まなそうな顔で言っていた。

 そう―――この位で寂しがっていては駄目なのだ。
 尾道にいた頃は、慎二の職場は先生のギャラリーだったから、家と仕事場の境目が曖昧で、慎二の世界は全て透子の知る範疇の中にあった。でも、今は違う。慎二は透子の知らない人々と仕事をし、透子の知らない世界を築いていく―――でも、それは普通のことだ。透子が慎二の知らない学生生活を送っているのと同じように。
 慎二は大人で、社会人で、たくさんの責任を負っている。学生の透子と違う世界があって、当たり前。
 誕生日を一緒に祝えないことよりも、そういう慎二と自分との違いを実感することに、透子は寂しさを覚えた。

***

 「払うっ!」
 「バカ、奢られろっ! 誕生日まで我を張るなよっ」
 「やだ、払うったら払うっ! 奢るなんて前もって言わなかったじゃないっ!」
 「問答無用」
 伝票を透子の手からひったくると、荘太は猛ダッシュでレジへと走って行ってしまった。インターハイ1位に追いつける訳がない。ガクリとうな垂れた透子は、仕方なくトボトボと出口へと向かった。

 誕生日当日。透子は荘太と夕飯を食べに行くことになったのだが、6時ごろバイトを終え、荘太に引っ張られるままについて行った先は、お台場だった。
 バイト先は、大学の最寄り駅の隣の駅。お台場とは全然かけ離れている。なんだってこんな所まで来させられたのか分からなかったが、着いた先の洒落たカフェの看板を見てピンときた。
 夏休みのバイトが始まって間もなく、バイト先の仲間が誕生日に彼氏にお台場にあるカフェに連れて行ってもらった、という話をした。なんでも、誕生日に行くと特別なカクテルを作ってくれるとかで、いたく感激していたのだ。「ほらほら、ここがそのカフェ」と情報誌を開いて彼女が指差した店の名前は、確かに今透子の目の前にある店の看板に書かれた名前と同じだった。そう、あの時、さりげなく荘太も店名をチェックしていたのだ。
 結果―――透子は、夕飯を適当に食べるだけのつもりが、きっちりディナーコースを注文された上に、特別カクテルだという真っ青な色をした謎のお酒を飲ませられたのだった。

 「た…高い…高すぎるよ、5000円。2人で1万円じゃないっ。ああー、吉野家か松屋を押し通せば良かったぁ…」
 夜の海浜公園を歩きながらそう言って嘆く透子を、荘太は呆れ返った顔で見下ろした。
 「お前なぁ…誕生日くらい、もうちょい可愛く奢られろよ。奢る方だって寂しくなるだろ。いや、その主婦に近い金銭感覚は、偉いと思うけど」
 「…ごめん。可愛く奢られなくて。でも、どうしても5000円て金額見ると、いろんな物に換算しちゃうんだよなぁ…」
 「いろんな物って?」
 「コシヒカリ10キロ買えるなぁ、とか、電話代2か月分だなぁ、とか」
 「…主婦に近いんじゃなく、主婦だな、そりゃ。奢られてラッキーとか思えよ」
 「その辺がどうも、ねぇ…」
 人に奢られる、人に面倒をかける―――この手のことが、どうしても苦手。先生曰く「透子は甘え下手だ」とのことらしい。損な性格なのは自分でも分かっているが、叔母などを見ていると、これは遺伝だな、と諦めるしかない。
 「ま、いいじゃん。バイト代ちょうど入ったとこだし。それに美味かっただろ?」
 「うん、かなり美味しかった。あのカクテルも結構美味しかったし」
 美味しかったし、かかっていた音楽も好みだったし、窓の外に見える行き交う船の光なんかも結構ロマンチックでいいなぁ、と思った。それは確かだ。
 「ごめん、素直に奢られる奴じゃなくて。…ありがとう、荘太が連れてきてくれなかったら、一生来なかったかも」
 ニコリと笑って透子がそう言うと、荘太はちょっと顔を赤らめ、歩調を速めて透子より1歩前に出た。
 「…なんか、調子狂うよなぁ…透子がそうやって“女の子”っぽい笑い方すると」
 「―――何気に失礼なこと言うね」
 「でも―――良かった。お前今日、無理してるんじゃなく、本当に楽しそうにしてたから」
 一旦は口を尖らせた透子だったが、荘太のその言葉に、表情を変えた。
 1歩前に出てしまった荘太の顔は、見えない。一体、どういう意味で言っているのだろう?
 「…どういうこと?」
 「だってお前、最近ずっと、元気なかっただろ」
 「……」
 思わず、足を止める。
 荘太も足を止め、振り返る。その顔は、もう照れたような顔ではなく、少し寂しそうな、真剣な顔だった。
 「…元気、なかったかな」
 「なかった。江野本先輩も、先週の記録会見学しに来たお前見て、気にしてた。自分が震災の話なんて聞いたのがまずかったのかも、って」
 「あはは…、そんな1ヶ月も前の話を…」
 まさか、という風に笑いながらも、胸が痛む。奇しくも、透子が今も引きずっているものも、今から1ヶ月前の同じ日に見つけてしまったあの1枚の写真なのだから。
 「お前ってさ。落ち込むとすぐ分かるんだよ。すっげーハイテンションになるから。滅茶苦茶はじけてみせて、時々ふっと気が緩むと、黙り込むんだよな。その黙り込んだ顔見て、気づく奴は気づくんだよ。ああ、こりゃ無理してんな、って」
 「……」
 「何があったんだよ。いくらなんでも長すぎだろ」
 「…荘太とは、関係ないよ」
 荘太の目は、見られなかった。視線を海側へと逸らし、小さな声でそう呟く。でも、その態度で、分かってしまったらしい。
 「…やっぱり、工藤さんのことか」
 さっきまでより、2音ほど低い声に、沈黙しか返せなかった。
 「―――俺にしときゃいいのに」
 不貞腐れたようにそう言い捨てると、荘太は、透子の目の前を通り過ぎて、少し道を戻った所にあるベンチにどさっと腰を下ろした。
 荘太の方を振り返った透子は、背もたれに肘をかけて面白くなさそうにしている荘太を困惑したような目で見た。何故、今日に限って、こんなことを言うのだろう? 日頃の荘太は、慎二の名前が出ることすら厭うのに―――自分からわざわざ、その話題に足を突っ込んでしまうなんて。
 「そういうお前見てると、すっげーイライラする。お前らしくなくて嫌だ。何うじうじ片想いしてやがるんだ、って腹立ってくる。そんな顔しかできねーんなら、俺にしときゃいいのにって、頭にくる」
 不貞腐れた顔のまま荘太が言い放った言葉に、透子はムッとしたように眉を顰めた。
 荘太にこういう事を言われると、透子の方も頭に血が上る。それは多分―――自分でも思っているからだ。自分らしくない、こんなうじうじしてる位なら、慎二なんか諦めて、さっさと荘太と付き合えばいいのに、と。
 「…そんな、勝手に、腹立てたり頭にきたりしないでよ」
 透子はそう言って唇を尖らせると、荘太の座るベンチへとつかつかと歩み寄り、その隣にさっきの荘太を真似てどさっと座り込んだ。
 「そりゃ、そーだよね。慎二と荘太比べたら、10人中10人が“荘太にしとけ”って言うだろうなって、私だって思うもん」
 「…えっ」
 ちょっと、予想外だったらしい。荘太は、ギョッとしたように透子の方を見、うろたえたような顔をした。そんな荘太の方を見ないようにしながら、透子は真正面を見据えて続けた。
 「荘太は、偉いもん。目標をしっかり立てて、それに向かってガンガン前進して、その目標を確実にクリアしていける―――女の子を守るだけの力もある。それに比べたら慎二なんて、28にもなって目標は曖昧だし、いくつも仕事掛け持ちしないと生活できないし、いまだに目覚まし1個で起きられない位寝起きが悪いし、強く押されると断れなくて好きでもない女の子とキスしたりするし」
 「…え。な、なんだよ、それ。誰の話だよ」
 初耳の話に慌てたように荘太が口を挟んだが、透子はそれに気づいていなかった。
 「自分に殴りかかってくる奴に抵抗もしないで殴られ続けるし、気になるもの見つけると私のことも忘れてどっか行っちゃうし…そうだよ。私がいなかったら、きっと今だってあの家に帰ってくるかどうか怪しい位なんだから。私がいなかったら、適当なアルバイトで誤魔化しながら、日本全国放浪しちゃう位、ふらふらした性格なんだからっ。慎二なんて―――…」

 ―――…慎二なんて。

 それでも―――…慎二が、好き…。

 涙が、目に浮かんでくる。見据えた先の海の夜景が、ぼんやりと滲んだ。
 「―――でも…荘太を選べたら…もっと、楽なんだろうな…」
 透子の視線が、膝の上に落ちる。もう、その先を続けるのは無理だった。
 俯き、膝の上に置いた手を微かに震わせる透子を、荘太はしばし、悲痛な面持ちで見ていた。その顔に浮かんでいたのは、今にも泣きそうになっている透子に対する同情がほんの少し。後は―――悔しさ。どうやっても越えられないものに対する、どうしようもない悔しさ。
 唇を噛んだ荘太は、すぐ右隣にある肩に腕を回し、思い切り自分の方へ引き寄せた。
 「!!」
 抗う暇もなく、透子は座ったまま、荘太に抱きしめられていた。
 あまりにも急なことで、頭が真っ白になりかける。今にも零れ落ちそうだった涙が、驚きのあまり留まる。次の瞬間、大きく見開かれた目の縁に、荘太の唇が押し付けられた。
 「ちょ…っ、そ、荘太っ」
 さすがに、慌てる。驚いて硬直している場合ではなかった。透子は、慌てて身を捩り、荘太から逃れようとした。けれど、その程度の抵抗をものともせず、透子の頬に手を添えると、自分の方を無理矢理向かせた。
 ―――やだやだやだ、絶対、いやっ!
 強引に唇を重ねようとする荘太の肩を、透子は滅茶苦茶に叩いた。必死に顔を背けた結果、頬に唇が押し付けられてしまった。熱い―――そこだけが、火傷したみたいに熱い。
 「い…やだ、ってばっ! 荘太のバカっ! こんなのイヤ!!」
 「…っ、俺の方を選んだ方が楽なんだろっ!? お前、今そう言ったじゃねーかっ!」
 「イヤっ! だ、だって、最初は…っ、一番最初のキスは―――…」

 『この先、どれだけのキスを経験するか分からないけど―――最初くらい、透子が本当に好きな奴にしなよ。やっぱりここは、特別な意味のある場所だから』

 慎二の言葉を思い出して―――心臓が、痙攣を起こした。
 楽、なんかじゃない。ちっとも楽なんかじゃない。目を逸らせば逸らすだけ、どんどん苦しくなる―――息も、できない位に。

 「イ……ヤっ!!」
 全身の力をこめて、荘太の胸を両手で押す。さっきは無理だったのに、今度はあっけないほど簡単に、荘太の腕から逃れることができた。くるりと荘太に背を向け、自分で自分の腕を抱く。怖さと、昂ぶりと、涙と―――いろんなもののせいで、体が震えていた。
 透子も荘太も、呼吸が乱れていた。暫く、ぜいぜいというお互いの息遣いだけが続く。やがて、背後の荘太が立ち上がる気配と同時に、怒りとやるせなさを滲ませた声が浴びせられた。
 「―――そんなに…っ! そんなに好きなら、今すぐあいつに告白しろよっ! お前らしくもなく、何いつまでも閉じ込めてんだよ!」
 「……」
 「振られるのが、怖いからだろ」
 その言葉に、透子の肩が、僅かに跳ねた。
 腕を抱いたまま、振り返り、愕然とした表情で荘太を見上げる。透子のその表情を見て、荘太は一層辛そうに顔を歪めた。
 「告白して、振られて、拒絶されんのが怖いから黙ってんだろっ。さっさと想いぶつけて、早く振られて来いよっ! そんな意気地のないお前、お前じゃねーよっ!」
 そう言い捨てると、荘太は踵を返し、駅の方へと走って行ってしまった。見る見る遠くなる背中を、透子は、愕然とした顔のまま、声を出すこともできずに見送るしかなかった。

 ―――振られて、拒絶されるのが怖いから―――…。

 言い返せない。
 そんな意気地なしじゃない、そう思っても―――透子には、何ひとつ、言い返せなかった。

***

 真夏の夜は、昼間の熱がまだ空気中に漂っていて、湿った空気が肌に纏わりついて気持ち悪かった。
 霧の中を歩くような気分で、透子は、駅から家までの道のりを歩いた。いろんなものを、どこかに置き忘れてきたような感じ―――気だるくて、体が重くて、頭がさっぱり働かない。
 ずっと地面に目を落としたまま歩いていた透子は、自宅のドアの前で立ち止まり、ノロノロと顔を上げた。今、何時だろう―――そう思ったが、腕時計を確認する気力も残っていなかった。
 バッグから、無意識に近い動きで鍵を取り出し、機械仕掛けの人形のように鍵を開ける。虚ろな表情でドアを開けた透子だったが、部屋の中が明るく照らされていることに気づくと、驚いたように目をパチパチと瞬いた。
 「……」
 今日、出かける時、電気はつけていなかったのに。
 慌てて、足元に視線を落とす。するとそこには、慎二の履き古したスニーカーがあった。
 「慎二?」
 扉を閉め、ロックを掛けた透子は、大急ぎで靴を脱ぎ捨て、部屋に上がった。
 居間兼食堂には、慎二の姿がない。ぐるりと辺りを見回し、慎二の部屋の扉を開ける。すると―――ベッドの上に、慎二が寝転がっていた。アルコールが入っているからだろうか、透子が帰ってきたことにも気づかず、静かに眠っている。
 ―――やだ…、先に帰ってたんだ。
 自分の方が早く帰ってこれるものとばかり思っていたのに―――そう思って時計を確認したら、午後9時を少し回ったところだった。ということは、慎二は相当早く懇親会を切り上げて帰ってきたということになる。
 「…早すぎるよ…」
 なるべく早く帰る、と言っていた慎二の言葉を思い出して、透子はクスリと笑った。

 ―――透子より大切なものなんて、ない、…か。

 バッグが、肩からスルリと滑り、床に落ちる。それと同時に、口元に浮かべた笑みも消えた。透子は、慎二を起こさないよう気をつけながら、慎二の寝ている傍へと歩み寄った。
 ベッドのすぐ脇に膝をつき、顔を少し右に向ける形で仰向けに寝ている慎二の顔を、じっと見つめる。透子がベッドに頬杖をついても、慎二はやっぱり目を覚まさなかった。

 本当に、優しさだけが取り得のような、慎二。
 ―――優しさが、何よりも強い武器になるなんて、慎二に出会うまで知らなかった。
 黙ってただ傍にいてくれる。それだけのことが、本当はどれほど難しくて、どれほど支えとなることなのかなんて―――腕力や武力ではなく、優しさだけで人を守ることができることもあるなんて…慎二がいなければ、知ることはなかった。
 …でも。
 その優しさは、本当に“私”に向けられているもの…?
 慎二は、多恵子さんの代わりに、私を大切にしているんじゃない? 私は―――私は、多恵子さんの身代わり…?

 ぱたっ、と、頬杖をついた掌に、涙が落ちた。
 違う、と、思いたい。いや―――違うのだと、分かっている。けれど…一度抱いてしまった不安は、そう簡単には消えない。毎朝鏡を見るたびに、その疑念はまた内側から透子を侵食する。そしてこれは、たとえ透子の想いを慎二に受け入れてもらえても続くものなのだ。
 慎二が、好き―――その想いを慎二が受け入れた時。きっと、考えてしまう。同じことを。“私は、多恵子さんの代わりに愛されるの?”―――と。

 それでも。
 それでも、想いは、死なない。
 身代わりでも、構わない。愛してもらえるのならば。…なんてプライドのない自分。哀しいけれど、それが、今の自分だ。

 涙を指で掬った透子は、頬杖をやめ、慎二の顔をもう一度見つめた。
 優しげなカーブを描いた眉や、薄い色をした長い睫毛を見つめ、思わず口元を綻ばせる。眠っている顔も、慎二はなんだか、優しい。

 そっと身を乗り出し、ゆっくりと顔を近づける。
 そして最後の瞬間―――目を、閉じた。

 ファーストキスは、本当に好きな人のためのもの―――それは、淡雪みたいに、とても儚くて、優しいキスだった。

***

 目を覚ました慎二は、すぐ横で膝を抱えて座っている透子を見つけて、目を丸くした。
 「…あ…っれ、透子、いつ帰ったの?」
 「ん…、つい、さっき」
 「そっか。ああ…ケーキ、冷蔵庫に入れてあるけど」
 「ほんと? バースデーケーキ?」
 「の、つもり」
 「今から食べようかな。慎二、食べられる?」
 「いいよ。そのつもりだったから」
 くしゃっと前髪を掻き上げて起き上がる慎二を見ながら、透子は立ち上がり、キッチンへと向かった。慎二が言う通り、冷蔵庫の中には小さな箱が入っていた。どうやら、1ホールは無理と判断したらしい。そのサイズはちょうどショートケーキが2つ3つ入る位の大きさだ。
 「じゃあオレ、紅茶でも淹れようか」
 まだ半分寝ぼけたような声で、慎二が部屋から出てきながら言う。
 「ううん、いいよー。私が全部やるから、慎二は眠気覚ます方に専念して。寝ぼけたまんまじゃ、味わかんないでしょ」
 透子は振り向かずにそう答え、ケトルに水を入れて火にかけた。その背後で、慎二はエアコンのスイッチを入れて居間の定位置に腰を下ろしたようだった。

 「あのねー、慎二」
 「んー?」
 「私、今日、ファーストキスしちゃった」
 斜め後ろの気配が、固まるのを感じる。ケーキを取り分けながら、チラリと目だけで慎二の様子を確認すると、キョトンとした顔をして透子の方を見ていた。
 「……は?」
 「ファーストキス。19歳だもんね、その位は経験しないと」
 「…い、いや、あんまり年齢は関係ないと思うけど―――っていうか、誰と?」
 「誰かなぁ」
 「荘太君?」
 今日、食事をする相手と知っているから、当然出てくる名前だろう。透子は肩を竦めた。
 「残念。不正解です」
 「…ほかに、誰かいたっけ」
 「―――気になる?」
 慎二の方を向き、悪戯っぽい笑いを浮かべる。眉を寄せて悩んでいた慎二は、その透子の笑いに、どうリアクションすればいいか咄嗟に判断できなかった。
 「…まあ…それなりには」
 「じゃ、秘密」
 「―――透子。もしかしてオレのこと苛めてる?」
 「時々意地悪する私も好きだって言ってたじゃない」
 その言葉に、慎二はガクリとうな垂れた。
 「…もう、いい。とりあえず、目は覚めた」
 「ん、良かった」
 ちょうどその時、笛吹きタイプのケトルが、ピーという音を立てた。お湯が沸いたらしい。透子は、手にしていたティーバッグの入った缶を置くと、ガスコンロの火を止めた。
 途端、静寂が戻ってくる。

 「―――あのね、慎二」
 「ん?」
 「私、慎二が、好きだよ」
 うな垂れていた慎二は、微妙に、さっきまでとは違った口調の透子の声に、顔を上げた。
 透子は、コンロの方を向いているので、横顔すら見えない。慎二が顔を上げたのを感じたのか、直後、くるりと振り向いた。
 振り向いた透子は、微笑んでいた。
 慎二が見たことのない類の、微笑みだった。切ないような、哀しげなような―――不思議な、微笑だった。
 「お父さんよりお母さんより紘太より―――慎二が好き」
 「……」
 「きっと、世界で一番―――慎二が好きだよ」
 「―――どうしたの…透子」
 「…別に。ただ、言いたくなっただけ」
 戸惑ったように透子の微笑を眺めていた慎二は、どう答えていいか分からず、困ったような笑みを浮かべた。
 「…オレも、透子のこと、好きだよ?」
 その言葉を聞いた途端、透子の目が、すっと細められた。少し、哀しげに。
 「うん…知ってる」
 「…だったら、なんでそんな顔するの」
 「―――なんで、かな…」
 そう呟くと、透子はくすっと笑い、また慎二に背を向けて、ケトルを手に取った。

 その手が微かに震えていたことに、慎二は気づいていなかった。


***


 バイト先の裏口へと回った透子は、そこに佇む人影に気づき、思わず足を止めた。
 「…よぉ」
 「―――おはよ」
 ポケットに手を突っ込んでいた荘太は、寄りかかっていたドアから体を起こし、決まりが悪そうにちょっと視線を逸らした。
 「昨日は、悪かったよ」
 「…別に、いいよ」
 ぼそりと呟くように答える透子に、荘太は逸らしていた視線を戻した。そして透子の顔を真正面から確認するなり、怪訝そうに眉をひそめた。
 「―――なんか、お前、すげー顔してない?」
 「…どんな顔よ、すげー顔って」
 「…告白して振られてきました、って顔に、かなり近い」
 「―――それ以下だよ」

 …それ以下。
 拒絶されるどころか―――本気にさえしてもらえない。

 なのに…それでもまだ、想いは、死なない。

 泣きすぎて、目が腫れぼったい。頭の中に霧がかかってるみたいだ。虚ろな表情でそこに立ち尽くす透子は、荘太の目には今にも崩れ落ちそうに見えた。
 しばし、迷う。けれど―――荘太は、思い切って口を開いた。
 「―――だったら、さ…とりあえず、試してみれば?」
 魂の抜け殻のような顔をした透子に、荘太はそう言って、おいで、というように両手を広げた。
 「…試すって、何を」
 「お前ん中で、俺が勝つか、あいつが勝つか。…ひとりであいつ忘れるの、難しいだろ。代わりに俺を好きになってみろよ」
 「……」
 「倒れそうじゃん、今にも。…こうやって待ってんのに、それでもまだ我慢する気かよ」

 ―――倒れる。
 このままじゃ、壊れてしまう―――バラバラに。

 何かを断ち切るように目を伏せると、透子は荘太の肩にことん、と額を預けた。
 大人になるって、本当に、汚いことだ―――荘太に抱きしめられながら、透子は、かつてはるかが言っていた言葉を思い出していた。


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