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: 空と風と光と影と (1)

 真っ青な空に、筆で掃いたような、白い雲。
 頬に突き刺さる太陽の光は確かに真夏のそれなのに、空の色だけはどことなく秋の色合いをしている。夏の終わりも近いんだなぁ、なんて考えながら、透子は、こんな時期は一体何という季節の名前で表せばいいのだろう、とぼんやり思った。
 「透子、おはよう」
 ポン、と背中を叩かれ、振り向くと、そこにまだ定期券入れを持ったままの千秋がいた。少し息が上がっているところを見ると、駅を出たところで見つけて走ってきたのかもしれない。その腕は、いかにも夏休み明けの初登校日、といったように、小麦色に日焼けしていた。
 「おはよ。結構焼けてるねー、千秋」
 「バイクの免許取りに、ずっと教習所行ってたからな」
 「バイク乗るの?」
 「750ccが夢だ」
 「…千秋…ますます女捨ててる気するよ」
 夏前に、大学の近所にある高校の女子生徒にラブレターをもらったことを、もう忘れたのだろうか。まあ、でも、それが千秋らしいと言えば千秋らしいのだが。
 「透子はさっぱり焼けてないな。一体何してたんだ、夏中」
 「んーと、バイトしてた、ほぼ毎日。あとは課題課題でひと夏終わっちゃった」
 「へぇ、それは随分稼いだな」
 「うん、まあ。…大半はもう、使っちゃったけど」
 「え?」


 9月に入って間もなく、半ば強引に慎二を自転車屋に引っ張って行って、タウン仕様のマウンテンバイクを1台買った。
 慎二は「こんなものを透子から買ってもらう訳にはいかない」と最後まで抵抗していたが、透子が、前から目をつけていたマウンテンバイクの前にうずくまって半分泣きそうな顔をすると、とうとう折れた。靴屋でも、ほぼ同じ展開で慎二は負けた。慎二は、涙に弱いのだ。
 驚いたのは、乗らなくなった古いもらい物の自転車のその後だ。てっきり、粗大ゴミか燃えないゴミの時に捨てるのだろうと思っていたのだが、そうはならなかったのだ。
 慎二はその自転車全体にオシャレなペイントを施した。広いフローリングのリビングなどに飾ったら面白いオブジェ代わりになりそうだな、と思っていたら、慎二はそれをどこかへ持って行ってしまった。粗大ゴミから素敵なオブジェに変わったそれを、ちょっと惜しい気分で見送った透子だったが、数時間後、慎二が持ち帰ったものを見て驚いた。
 「なんか、1万円で売れちゃったから。これ、透子が遊びに行く時の軍資金にでも使って」
 慎二はそう言って、1万円札を透子に渡した。
 彼が行った先は、フリーマーケットだったらしい。ギャラリーに絵を並べることなど考えてもみなかった時代、絵を売るために何度か利用したのだという。自転車オブジェを購入したのは、新宿近辺の高層マンションの最上階に住むいわゆるヤング・エグゼクティブといった感じの人で、2万で買うという申し出を、慎二は「元手がかかってないから」と半額に値引きしたのだそうだ。
 もしかしたら慎二は、本当はもの凄い才能を持っているのに、普段それを隠してるのではないだろうか―――そんな風に疑いたくなってしまう。
 「それと…はい、これ」
 1万円札を手に呆気にとられている透子に、慎二は更に、何かを差し出した。
 それは―――小さな、ひまわりの花束だった。
 「ごめん…オレ、透子が欲しいものとか、よく分からなくて―――結局、こんなもの位しか思いつかなかったんだ」
 そう言う慎二の、ちょっと困ったような照れたような笑顔を見て―――泣きそうになった。


 「…ちょっと、大きな買い物しちゃったからね。大半は、使っちゃったの。でも、目的のものは買えたし、これからは元のペースに戻すつもり」
 脳裏に甦ったものを無理矢理頭の外に追いやりながら、透子はそう言って微笑んだ。普段の透子らしからぬ、どこか寂しげなその笑みに、千秋は、ひそめていた眉を余計怪訝そうに顰めた。
 「透子…どうした?」
 「ううん、別に?」
 「その笑い方が“別に”な訳がないだろう。私を見縊ってるんじゃないか?」
 「…別に、何も、ないよ」
 何もないよ、と言いながら、その声はあまりにも力がなさすぎる。地面に落ちかけた視線を無理に上げ、透子はまた空を仰いだ。
 「そうそう、バイクって言えばね。荘太もバイクに乗りたいって言ってたよ。インカレも終わったし、バイトしてお金も多少出来たから、秋からは教習所に通おうかと思ってるんだって」
 「…ふぅん…」
 「2人揃ってバイク乗りになったら、ツーリングとか行けるね。私もメット借りて、どっちかの後ろに乗せてもらおうかなぁ」
 「―――なるほど。小林と何かあった訳だ」
 「……」
 「と言うより、同居人の奴と何かあったんだな」
 千秋の言葉と同時に、透子と千秋の足が止まった。
 空を仰いで誤魔化すにも、限度がある。視線を千秋に戻した透子は、千秋の鋭い目つきにちょっとうろたえながらも、なんとかその目を見つめ返した。
 「…どうして?」
 「透子の気分のアップダウンの鍵を握ってるのは、小林じゃなく同居人だから。小林と何かあったにしても、その原因は同居人だろう。…何があった?」
 痛いところを突かれて、苦笑いが浮かぶ。ちょうど車道を走ってきた車の後を追うように、透子の視線が車道の方へと流れた。
 「―――別に、何があった訳でもないよ。ただ、ね。…ちょっと、疲れちゃった。色々と」
 「疲れた?」
 「うん。だから、慎二から少し離れてみた方がいいかな、と思って。ひとりじゃ苦しいけど、荘太が協力してくれるから…なんとか頑張れるかもしれない」
 千秋の眉が、なんだそれは、という感じに吊り上がる。
 「つまり、片想いに疲れたから、小林と付き合い始めた、ってことか?」
 「…まだ、付き合ってはいないよ。でも―――そうなれればいいな、とは思ってる。だから、荘太の方を好きになれるように、努力してる最中」
 「ちょっと待て」
 透子の肩をぐい、と掴むと、千秋は透子の逸らされた視線を無理にこちらに向けさせた。
 「“努力”して人を好きになるなんて、何考えてるんだ? 恋愛ってそういうもんじゃないだろう」
 「そう?」
 「当たり前だ」
 「でも、世の中、嫌いな人と上手くやっていくために努力するケースだって、たくさんあるじゃない。荘太は友達だし、尊敬できる奴だもん。友達以上に好きになるために努力することがあったっていいんじゃない?」
 「ただの“好き”なら、な。でも、小林が求めてる“好き”は、努力で生まれる感情じゃ」
 「嫌いになるのには、こんなに努力が要るのに?」
 千秋の言葉を遮るように、透子はそう言い、千秋を見据えた。
 「嫌いになるのには、諦めるのには、こんなに―――死にそうな位、努力が必要なのに…なんで好きになるための努力があっちゃいけないの?」
 「透子…」
 「同じ努力なら、前向きに、好きになる方にエネルギー使いたい。…そう考えちゃいけない?」
 「……」
 悲痛な面持ちで見上げてくる透子に、千秋は言葉を詰まらせた。ギリギリのところで心のバランスを保っている―――そんな風に見えて、そのバランスを崩すことは、さすがに躊躇われた。たとえ正しい答えを知っていても。

 「おおーい」
 奇妙な緊張感を含んだ2人の間の空気に、明るい声が割って入った。
 思わず振り返る透子と千秋に向かって、坂道を駆け上がってくる荘太が手を振った。2人同時にちょっと動揺したような顔をしたが、それでも一応、千秋は荘太の方に向き直り、透子は笑顔を作って手を振り返した。
 「おはよ、荘太」
 「来たな、インカレ総合4位」
 同時に投げかけられた挨拶に、荘太は透子にだけ笑顔で応え、すぐに千秋の方に冷やかな目を向けた。
 「嫌味のつもりで言ってるんなら、残念だったな。一城は100メートルではここ10年予選落ちが続いてたんだ。4位でもヒーロー扱いだ」
 「表彰台は俺がもらうなんて大口叩いてた割には…、というつもりで言ったんだ」
 「…目標は常に高く持て、が俺のモットーだから、いいんだよ」
 嫌味な奴、という目で千秋を睨んだ荘太は、気を取り直して透子の方を向いた。
 「透子。今日って午後、暇?」
 「え? あ、ああ…うん。バイトは3時からだから、それまでは暇だよ」
 「じゃあ、図書館付き合ってもらってもいい? 調べたいもんあるけど、俺、本探すの滅茶苦茶苦手だし、どれがいいか分かんねーから」
 「ん…、いいよ」
 「―――何、お前、もしかしてどっか具合悪い?」
 辛うじて作っている、といった感じの透子の笑顔に、荘太もさすがに眉をひそめる。熱でもあるのか、と透子の額に手を当てようとすると、びっくりしたように透子の肩が跳ねた。
 「…っ、べ、別にっ。どこも悪くないから、平気っ。…ごめん、学生課行って確認することあったんだった。先に行くね」
 「へっ?」
 「じゃあねっ」
 キョトンとする荘太をよそに、透子はくるりと踵を返すと、荘太に負けない勢いで坂道を駆け上がって行ってしまった。どのみち、新学期の初めには、透子だけじゃなく千秋だって荘太だって学生課に用事があるというのに。
 みるみる遠くなる背中を、半ば唖然とした顔で見送っていた荘太は、斜め横から突き刺さる視線に気づいて、千秋の方に視線を向けた。
 「…なんだよ」
 不貞腐れたような顔をして荘太が睨むと、千秋は軽く眉を上げて、
 「―――別に」
 と冷やかに言った。
 「ただ、努力と反比例して、むしろ重症になってるよな、と呆れただけだ」
 「……」
 「全く―――2人揃って、ガキだな」
 千秋の言いたい事は、分かったのだろう。面白くなさそうに千秋の顔を一瞥すると、荘太は顔を背けた。
 「…止めんなよ」
 呟くようにそう言い捨て、荘太は千秋を追い抜いて先に立って歩き出した。その場に佇んだままの千秋と荘太の距離が、あっという間に拡がっていく。

 ―――ほんとに…ガキだよ、2人とも。
 好きになるための努力、なんて言っても、それも結局は「もう1人を諦めるための努力」に過ぎないじゃないか。

 思い詰めたような透子の目にその真実を見ていた千秋は、仕方のない奴、という風に溜め息をついた。

***

 「それが結構難しくてねぇ―――あ、ごめん、井上さん。それ貸して」
 「はい」
 江野本に言われて、透子は預かっていた大きなカメラバッグを江野本に渡した。
 江野本が撮ろうとしているのは、勿論、今フィールド上でウォーミングアップを進めている荘太だ。大学祭前の、これが最後の練習日―――江野本にとってはこれが、実質、荘太を撮る最後の日になる。大学祭が終わったら、また空の撮影に戻るのだそうだ。
 「いくつか仮設住宅回って、かなりの人数にインタビューはしてみたけど、やっぱり“どんな揺れだったか”なんて覚えてる人、ほとんどいなくてね。まあ当然なんだろうけど…」
 そう言いかけて、江野本ははっとしたように透子の方を向いた。
 「…あ、ごめん。井上さんにはこういう話、もうしない方がいいかな」
 「いえ、大丈夫です。そんな、気にしないで下さい。役に立てなくて、申し訳なかった位なんだし」
 もう江野本には、そのことは気にしないで欲しい。透子は手を振って、慌てたように笑顔を作った。

 夏休み前のあの日、地震発生当時のことを訊ねる江野本に、透子は何も答えられなかった。
 どんな揺れだったか、どんな形で外に放り出されたのか、倒壊した自宅はどんな形で潰れていたのか、周りの家はどの程度の被害を受けていたのか―――何ひとつ、答えられなかった。透子が覚えているのは、ミキサーにでもかけられたような、“揺れ”という単語では表現できないレベルの衝撃と、倒壊の衝撃で投げ出された時のゾッとする感覚、そして―――瓦礫の山。それだけだったから。
 周囲の様子も、家がどんな状態で倒れていたかも、全く覚えていない。家族を探すのに必死で、何も見ていなかったから。後で確認しようにも、あの一帯は火事で全焼してしまい、瓦礫までもが焼き尽くされてしまった―――それを思い出した時、透子は絶句し、泣き出してしまったのだ。
 慌てふためく江野本に、千秋が事情を説明してくれた。その時の、血の気が引いたような江野本の顔は、今でも忘れられない。

 「けど…本当に意外だったんだよなぁ。井上さん、日頃明るいし元気だし、こうして大学にも進学してるから、被災者の中でもかなりラッキーな立場にいる人だとばかり思ってたんだ」
 「…そうですね。確かに、想像つかなくて当然かも」
 ばつの悪そうな江野本の顔を見て、透子もくすっと笑った。と同時に、胸の奥がチクリと痛みを訴える―――何故笑顔を取り戻せたのか、何故大学に通えたのか、それを考えた時、どうしても考えずにはいられない人がいるから。

 粗大ゴミでしかないものを、その手で2万円の価値のある芸術作品にしてしまう、不思議な手を持った人。
 透子の寂しさや透子が欲しがっているものを、苦もなく察知してしまう人。ふわりと全てのものを受け止めてしまえる、広くて優しい腕を持った人。ものの値段ではなく、そこにこめられた気持ちで、透子を簡単に骨抜きにしてしまう力を持っている人。
 かつて、花屋で透子が選んだ、太陽を思わせる温かい色をした花―――ひまわりの花束を見た時、透子がどれほど嬉しかったか、きっと本人は気づいていない。あれが、マウンテンバイクに相当するほど高価な“お返し”だったら、きっと透子は意地になってしまう。そういう透子の性格を見抜いた上で、ああした花束をくれたのだろう。ちゃんと見ていてくれている、ちゃんと覚えていてくれる―――嬉しくて、嬉しくて、泣きたくなった。
 何故、あんな人がいるのだろう。
 あんなにも透子のことを分かってくれるのに―――何故、たった1つ、この想いにだけは気づいてくれないのだろう。
 …分かっている。透子自身のせいだ。はるかの気持ちにも気づけた人が、こと、透子の想いにだけ気づかないのは、透子がこれまでそう仕向けてきたから。気づかれては一緒に暮らせない、そう思って、ずっとずっと無邪気さの仮面の奥に、たった一言を押し隠してきたからだ。

 ―――駄目だ。すぐそこに考えが行っちゃう。
 女々しい自分に、苛立つ。透子は眉を寄せ、傍らのベンチに腰を下ろした。
 どこまで意気地がないのだろう。結局、親や弟の名前と並べてしか“好き”という感情を表せなかった。本当の気持ちは―――本当に欲しいものは、とうとう慎二にねだることはできなかった。振られるのが怖い…荘太の言う通りだ。
 ずっと、ずっと、慎二が好き。
 きっともう、この想いは死なない。だから―――慎二以上に、荘太を好きになりたい。そうなれたらきっと、今よりずっと楽になる。
 「…でも、辛いなぁ…」
 「え?」
 思わず呟いた言葉に、江野本がファインダーから目を離し、透子を見下ろす。透子は慌てて口を手で覆うと、なんでもない、という風に首を左右に振った。
 「それで―――卒論、どうなるんですか?」
 誤魔化しがてら透子がそう訊ねると、江野本は、うーん、と首を傾げて空を見上げた。
 「なかなかねぇ…。最初言ってたあのテーマでは、結構厳しいかなあ、と。実はもう1つ、並行して考えてるやつがあるんで、そっちにしようかなと思い始めてるんだよね」
 「え、2つも研究やってたんですか。凄い…」
 「と言っても、もう1つの方は完全に趣味入ってるんだけど」
 「何ですか?」
 キョトン、と目を丸くする透子に、江野本は空を指差して、細い目を更に細くしてにんまりと笑った。
 「地震雲だよ」
 「じしんぐも?」
 「そう。元々僕は、晴れたり曇ったりっていう気象の方をやろうとしてたんだ。空撮るの好きだし。で、色々な珍しい形の雲とかを撮ってたら―――見つけちゃったんだよねぇ。地震雲らしき雲」
 「…それって、見るからに地震っぽい雲なんですか?」
 じゃあ地震っぽい雲ってどんな雲なんだ、と心の中で自分に突っ込みを入れながら透子が訊ねると、江野本は面白そうに声をたてて笑った。
 「いや、正直、ただの飛行機雲かな、と思った位でね。でも、飛行機は飛んでなさそうだし―――気味が悪いなぁ、と思いながら写真に収めたら、その数日後、震度4の地震が起きたんだ」
 「へーえ…」
 「阪神淡路の時も、どこそこの空に地震雲が出た、とか何とか、色々噂はあるよ。“私は阪神大震災を予知した!”とかね。もし地震雲でいつ、どこに、どの位の規模の地震が起きるか予知できたら、そりゃあ凄いことだろうなぁ…」
 「まだまだ未知数な研究なんですね」
 「中には迷信だって言ってる人もいる位だからね。まあ、迷信でも構わないから、僕はそういう写真を結構集めてるんで、それを卒論にするのも悪くないかもしれない」
 「ふぅん…地学の卒論て、面白そうでいいなぁ…。英語なんて、何やるんだろう」
 まだ1年の途中の段階だが、3年後に確実に訪れる筈の卒論に思いを馳せ、透子はちょっと溜め息をついてしまった。
 一向に見えてこない、自分の未来―――夢。むしろ、荘太のようにはっきりとした目的が見つかっている方が珍しいだろう。でも…見つけたい。憧れに一歩でも近づける、夢。
 慎二が、子供達に絵を教えていた、あの光景―――自分が持っているものを、本当に楽しそうに伝えていた。決して難しい言葉ではなく、ただ“絵を描く楽しさ”を、子供達に実感させていた。あれが、理想。あれが、目標。けれど…見つからない。透子が伝えたいもの、実感させたいものが。
 ―――なんか、何考えても、結局は全部慎二に繋がっちゃうなぁ…。
 考えが、また引きずられる。いけない、と頭を軽く振った透子は、再びカメラの調整に戻っている江野本を仰ぎ見た。
 「今度、その地震雲の写真、見せてもらってもいいですか?」
 すると江野本は、途端に嬉しそうな顔になった。
 「おっ、興味ある? いいよいいよ、いくらでも見せちゃうよ。地震雲以外にもいろんな空の写真持ってるから、是非見においでよ。午後に写真部の部室来れば、大抵いるから」
 「…江野本先輩」
 突如、江野本の嬉しそうな声を遮るように、不機嫌そうな声が割って入った
 慌てて顔を上げると、そこには、ウォーミングアップを終えた荘太が立っていた。腕組みをして、半眼開き状態で面白くなさそうに江野本を睨む荘太に、透子も江野本も顔が引きつる。
 「や、やあ…小林君。ウォーミングアップ、終わったのかい」
 「終わりましたよ。それより―――その、いろんな空の写真とやら。…当然、俺も一緒に見に行っていいですよね?」
 「あはははははははは、勿論じゃないかー。やだなー、下心なんかないから、そんな橋本さんみたいな警戒オーラ出さないでくれるかなー」
 「―――っつー訳で、俺が一緒の時以外、却下だからなっ」
 ジロリ、と睨み下ろしてくる荘太に、透子は苦笑しながら頷いた。
 荘太は自分とよく似ているとずっと思ってきたけれど、一番そりの合わなそうな千秋とも、案外似た部分があるかもしれない―――そんなことを思いながら。


***


 原画を丁寧に纏め、机の上でトントン、と揃えた編集長は、デスクの前に立つ慎二を見上げてニコリと笑った。
 「うん、OKよ。また色校正の時に入ってもらうけど、それ以外では直しは入らないと思うわ」
 「そうですか」
 ホッとしたように表情を緩める慎二に、編集長は眼鏡を外してクスクス笑った。
 「どうしてあなたって、そういつも自信なさそうなのかしらねぇ…。工藤君の絵は買ってるって、何度も言ってるでしょう? 実際、あなたに表紙を変えてから、うちの売り上げも伸びてるのよ。表紙が綺麗だから買ってみました、って読者、結構いるんだから」
 「はあ…」
 「雑誌は、平積みされた時は表紙しか見えないからね。表紙のインパクトは売り上げに直結するから、工藤君の表紙絵は大事な商品よ。頼むから他の雑誌の表紙だけはやらないでよ?」
 「あはは…そんな依頼もないですし、今のところ、やる気もないです」
 「あら、そうなの?」
 「はい」
 ―――実は1つ、来てたりするんだけど。
 けれど、それを顔には出さない慎二だった。
 正直、月1冊の雑誌のための表紙絵1点、挿絵3点を考え出すだけでも、慎二の頭はパンク状態に近い。今打診してきている所も月刊誌だ。透子と2人、ギリギリに近い生活をしている今を考えると、もう1本契約が取れるのはありがたい話だが、とてもこなせそうにない。
 元々慎二は、透子の言うところの“天啓”が下って初めて絵筆を執るタイプの人間だ。見て、聞いて、感動したものが、いつ“天啓”となって下りてくるのかは、慎二自身にも分からない。だから、定期的にそれ相当のクオリティを要求されるこの仕事は、ひたすら頭とテクニックで描くしかないのだ。
 それに―――そもそも、雑誌用に描いている絵は、慎二の本来の絵とは少々異なる。女性読者を意識した、ちょっとオシャレで軽いタッチの“イラスト”だ。油絵を基本としている慎二からすると、その“イラスト”ばかりが売れていくのは、ちょっと寂しい気もする。そんな理由から、慎二は、是非お願いしますと頼みに来る編集者に「申し訳ありません」と頭を下げ続けているのだった。
 「ところで、工藤君。今日ってこの後、何か予定ある?」
 デスクの上の書類を片付けながら、編集長が唐突に話を変えた。
 今日の予定―――透子の顔が思い浮かんだが、そう言えば今日は荘太と夕飯を食べてくると言っていたことを思い出した。最近の透子はそんな風に、友達と遊んで帰りが遅くなる日が時々ある。高校時代からきっちり夕飯時に間に合うよう真面目に帰ってきていた透子に、もっと友達付き合いを優先していいのに、と少し心配していた慎二なので、こういう変化には、寂しさを覚えながらも安堵しているのだった。
 「いえ、特にはないですけど」
 「だったら今夜、ちょっと付き合ってもらえない?」
 「え?」
 「いい話よ」
 目を上げた編集長は、意味深な笑いを口元に浮かべた。
 「詳細はまだ言えないけどね―――絶対、工藤君にとっては損のない話。私のほかにあと5人ほど加わるけど…酔い潰れたりしないでよね。大事な話が待ってるんだから」
 「???」
 編集長の、ふふふふふ、というやたら意味ありげな笑いが、ちょっと怖い。できれば逃げ出したいが、しかし、こうも気を持たせられると、やはり気になる。
 「…分かりました」
 結局慎二は、そう答えていた。

 

 それから5時間後―――慎二は、上野にある居酒屋にいた。
 「いやもー、なんつーかねー、最近の子供は全然夢がないんだよ、夢がさー」
 「…はあ…」
 真っ赤な顔をしてくだを巻いているのは、児童書籍部の営業担当者だった。名前も教えられたのだが、周囲が「せんちゃん」としか呼ばないので、慎二の頭の中でも、ふくよかな体型のその若手社員は「せんちゃん」と認識されている。
 他のメンバーは、慎二が表紙を描いている雑誌の例の編集長、グラフィック関係の総責任者、「せんちゃん」と同じ児童書籍部の編集者が2名と、どういう立場か不明の若い女性。呼ばれた目的も分からないまま、慎二は、酔い潰れない程度に加減しながら、勧められるカクテル類をちびちびと飲み進めていた。
 「信じらんねーよ。絵本読んだ子供から来た感想ハガキに、何て書いてあったと思う? “面白かったけど、どんぐりには目も鼻も口もないと思う”だって! かーっ、やだねーっ、そんなガキに絵本の良さなんて理解できるかっ」
 「はいはいはい、そうね、せんちゃんの言う通りよ」
 「なー、工藤さん。あんた、どう思う? 今時のガキに“メルヘン”なんて提供しても、全然うけない気ぃするよ、俺は」
 編集長が宥めるのも無視して、せんちゃんは、隣に座る慎二の背中をばしばし叩く。酔っているから、力の加減がない。飲んでいたカクテルでむせてしまいそうになり、慎二は慌ててグラスを口から離した。
 「う…、そ、そうですね。でも、子供らしい子供もいるんじゃないかな、とオレは思いますけど…」
 「ほー。俺はお目にかかったことがないねー。たとえば、どんなのよ。子供らしい子供って」
 「それは―――…」
 困った。慎二は、あまり口が達者な方ではない。弱ったな、と眉をひそめた慎二は、ぽつぽつと喋り始めた。
 「どんぐりに目鼻がない、って子は、実物のどんぐりを見たことがないんじゃないかなぁ…。図鑑でしか見た事ないものを、擬人化するほど好きにはなれないだろうし。…尾道で子供に絵を教えてた時、秋になると、落ち葉なんかを拾ってきてそれを材料に絵を作ったりしたんですけど、真っ赤な紅葉を手に見立てたり、太陽に見立てたり―――10人いれば10通りの絵ができてましたよ。オレじゃ思い浮かばない使い方もあって、子供って凄いな、と思ったけどなぁ…」
 「ふうーん…。のどかな地域だったんじゃないの、尾道って。都会のガキは、紅葉見ても落ち葉としか思わないと思うね」
 確かに―――そういう傾向はあるのかもしれないけれど。
 「ただ、気づいてないだけだと思うけどなぁ…」
 ―――目の前にあるものの放つ、キラキラした光に。
 ふと見ればそこに、たくさんの光があるのに―――雨に濡れた葉の上を這うかたつむりや、木枯らしにくるくる翻弄されてるみの虫や…そんなものが、都会のど真ん中でもあるのに、ただ気づいていないだけ。気づくことができれば、きっと子供は誰だって、そういったものに目を見張り、かたつむりやみの虫を主人公にしたストーリーを教えずとも勝手に生み出してしまう筈。それは、住む場所も人種も関係なく、子供であればみな同じだ。
 そう思って呟いたつもりの慎二の言葉を、せんちゃんは全然違う意味に解釈したらしい。酔っ払い特有の半眼開きで、慎二のシャツの二の腕辺りを掴むと、ずい、と詰め寄った。
 「ああー? 何に気づいてないって? 俺がそういうメルヘンなお子様がいても見落としてるだけって言いたいのかぁ?」
 「い、いや、違いますって。まいったな…」
 「せんちゃん、いい加減にしなさいね。ほら、お酒ばっかりじゃなく、こっちのビーフジャーキーも食べなさいってば」
 さすがに見兼ねたのか、編集長と児童書籍部の編集者2人が、苦笑しながらせんちゃんを宥め始めた。ビーフジャーキーの入った皿やきゅうりスティックの入ったグラスを突きつけられたせんちゃんは、ぶつぶつ愚痴りながらも、慎二のシャツから手を離してそれらに手を伸ばし始めた。どうやら無事解放されたらしいことを悟り、慎二はホッと胸を撫で下ろした。
 そして、ホッとした途端。
 気づいた。自分の方を、ずっと見ている視線に。
 それは、どういう立場でこの妙な飲み会に参加しているのか分からない、例の若い女性だった。周囲のドタバタなどどこ吹く風といった風情で、水割りの入ったグラスを両手で包むようにして持ち、じっと慎二の方を見ている。
 慎二と目が合うと、彼女はニッコリと笑った。
 つられて、慎二も笑い返した。
 ―――で、この人、一体何者なんだろう?
 笑い返したはいいが、その点がまだ分からない。内心、首を捻る慎二だったが、彼女との間には問題のせんちゃんが座っているので、質問することもままならなかった。

 

 謎の飲み会が終わったのは、夜10時を回った頃だった。
 まだまだ宵の口だが、せんちゃんの攻撃でぐったり気味の慎二は、二次会に流れるという他の編集者などとは店の前で別れ、マウンテンバイクを預けてある駐輪場へと向かった。結局、編集長の言っていた「いい話」とは何だったのだろう、と思いながら。
 「工藤さん」
 交差点で信号待ちをしていると、背後から声を掛けられた。
 聞き覚えのあまりない声に、訝しげに後ろを振り向いた慎二は、そこに例の若い女性が立っているのを見て、ちょっと目を丸くした。
 「あ…えっと…」
 咄嗟に名前が出てこない。鈴木とか佐藤とか、よくある名前だった気がするが。慎二が彼女の名前を思い出そうとしているうちに、彼女はくすっと笑い、慎二の隣に並びかけた。
 「お帰りになるなら、ちょっといいですか? ちょうど、工藤さんと2人でお話がしたかったので」
 「はあ…。あの―――でも、どういう…?」
 「改めて、自己紹介させて下さい」
 彼女は、慎二の顔を見上げると、軽く頭を下げた。
 「先ほどは本名で失礼しました。私、柳葉みどりと申します。主に、絵本の執筆を手掛けている、一応“作家”です」
 柳葉みどり。
 聞き覚え―――いや、見覚えのある名前だ。本屋で。
 最近は、子供だけではなく大人の間でもちょっとした絵本ブームらしく、新書などと一緒に“大人にもオススメする絵本”なんてものが並んでいたりする。職業柄、本屋に行けばそうしたものを一応パラパラとめくってみたりする慎二だが、そうした本のいくつかの表紙に、“文:柳葉みどり”と印刷されていた気がする。
 なるほど、絵本作家だったのか―――児童書籍部の人間と同席していたことに深く納得する慎二に、柳葉みどりは、一歩、詰め寄った。
 「お話伺ってて、思ってた通りの方だと分かって嬉しかったです。あの―――工藤さん。もしよろしければ、私とお仕事をしてもらえませんか?」


***


 荘太を見送ろうと地下鉄の駅までついて行った透子は、地下鉄の入口まであと15ートルという所で、思わず足を止めてしまった。
 ―――誰だろう、あれ…。
 地下鉄の駅へと下りる階段の入口のところで、慎二と立ち話をしている女性。
 慎二と透子のちょうど中間位の年齢に見えるその人は、髪を一つに結い上げ、清楚なカットソーにフレアのロングスカートを穿いていた。書類ケースのようなものを持っているところを見ると、慎二の仕事の関係者かもしれない。何を話しているのか、2人とも凄く楽しそうに笑っていた。
 「…もうちょい、どっか遊びにでも行く?」
 隣で透子の様子を窺っていた荘太が、気を遣ってそんなことを言う。我に返った透子は、荘太を見上げると、なんとか笑ってみせて首を横に振った。
 「ううん。食事してボーリングして、もう十分遊んだもん。これ以上遊び歩いてたら、明日講義中に眠っちゃうよ」
 「でも」
 「大丈夫」
 荘太が何を心配しているのかは、言葉にされなくてもよく分かる。でも、大丈夫―――この位で、落ち込んだり泣いたりしない。この位で動揺していたら、きりがないのだから。
 まだ透子の本心を探るような目をする荘太に、透子は駄目押しするように笑顔を返した。透子は、気づいていない―――バッグの肩紐を握る自分の手に、爪が掌に食い込む位、力が入っているということに。
 勿論、荘太はそれに気づいていた。少し面白くなさそうな顔をしたかと思うと、荘太は、透子の肩をぐいっと引いて、素早くその頬に軽く唇を押し付けた。
 「!! ば、ばかっ!」
 慌てて頬を手で押さえる透子にあかんべーのように舌を出してみせてると、荘太は、
 「全然大丈夫な顔してないっつーの。…じゃあな、また明日」
 と言い残し、ひらひらと手を振って地下鉄の方へと歩き去ってしまった。
 誕生日の日以来のことに、さすがに心臓がドキドキいう。考えつくだけの悪態を、心の中で荘太の背中に浴びせながらも、透子はどうしても罪悪感を覚えずにはいられなかった。
 少しでも長い時間、一緒にいたいから―――そんな理由で、わざわざ透子の地元である浅草まで来て食事に付き合ってくれた荘太。まだ透子の気持ちが少しも慎二から離れていないと気づいているから、こんな時も絶対に唇にはキスしようとしない荘太。優しい―――荘太は、精一杯、優しくしてくれる。言葉で、態度で、行動で、透子が好きだと示してくれる。
 なのに―――友達から先になかなか進めない、進めさせない自分が、嫌で嫌で仕方ない。
 ―――私だって、荘太のことは、好きなんだけどなぁ…。

 「透子?」
 罪悪感にどっぷり浸っていた透子は、突如名前を呼ばれて、飛び上がりそうになった。
 いつの間にか下に向いていた視線を慌てて上げると、マウンテンバイクを引いた慎二が、地下鉄の入口に立ったままこちらを向いていた。例の女性の姿はない。どうやら、透子が落ち込んでいるうちに、慎二との話が終わって帰ってしまったらしい。
 「し…慎二。お帰り。偶然だね」
 「うん。今、荘太君が下りてったよ。こっちまで来てくれてたなんて、知らなかった」
 まさか、見られてはいなかっただろうけれど―――さっきのシーンを思い出し、また焦ってきてしまう。透子の所まで歩いてきた慎二と並んで歩き出しながら、透子は、まだ唇の感触が残る頬を無意識のうちにまた押さえてしまった。
 「…あの、慎二」
 「ん?」
 「さっき、女の人と話してなかった?」
 こんなことを訊くのは、荘太に言った「大丈夫」という言葉が嘘であったことを露呈させているに等しいのだが、訊かずにはいられなかった。チラリと慎二を見上げながら透子がそう訊ねると、慎二は驚いたように少し目を丸くした。
 「なんだ。透子、見てたんだ。話してたよ」
 「…誰?」
 「多分、今度一緒に仕事する人。浅草線に乗るって言うんで、上野から歩いてここまで一緒に来たんだ」
 「仕事って?」
 「絵本を作る仕事だよ。彼女は文章担当。オレが絵担当。まだ本決まりじゃないけどね」
 そう言う慎二の顔は、楽しげだった。おそらく、慎二にとってはやりがいのある仕事なのだろう―――それが、その表情からも読み取れた。
 「そうなんだ―――本決まりになるといいね」
 そう相槌を打ちながら、透子の気分はますます沈んでいた。

 ―――そんな形で、慎二と同じ世界を共有できる人もいるんだ。

 自分の知らない慎二が、また増える―――そんな風に感じてしまう自分が嫌で、透子は俯き、思わず唇を噛み締めた。


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