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: 空と風と光と影と (2)

 「いやー、もう、ごめんよぉ。なんだか大学祭挟んで忙しくて忙しくて…」
 散らかった机の上を片付けながら、江野本は手振りだけで透子と荘太に椅子を勧めた。
 「…いつも、誰もいないんですね、写真部って」
 ほこりっぽい部室の中を見回しながら透子が言うと、江野本は泣き笑いのような顔をして乾いた笑い声を立てた。
 「ははははー、まあ、ねえ、写真を“撮る”のが趣味な訳だから、部室には用事はないよなあ、普通」
 「だったら、どうして江野本先輩は、いつも部室にいるんですか?」
 「うっ。…ま、まあ、いいじゃない。はいはい、そこ座って」
 なるほど―――なんとなく、理解できた。おそらく、江野本が部室を根城のように使っているから、他の部員があまり寄り付かなくなってしまったのだろう。部室に枕まで転がっていれば、江野本がこの部屋をどう使っているのかは簡単に想像がつこうというものだ。少々呆れながらも、2人は並んで応接室のようなソファに座った。

 大学祭も無事終わり、カレンダーは既に11月も半ばとなっていた。
 地震雲の話を初めて江野本から聞いたのは、10月の頭だったと思う。都合1ヵ月半もその話は頓挫していたのだが、卒論の方向付けがほぼ終わったらしい江野本が「そろそろ見に来ない?」と声を掛けて来たので、こうして写真部の部室を訪れることになった。
 だがしかし―――実は、透子も荘太も、その話はすっかり忘れていた。江野本が声を掛けなければ、一生思い出さずに終わったかもしれない。まさか「もういいです」とも言えないので見せてもらうことにしたが、特に荘太は、空の写真になど欠片も興味がないので、ちょっと機嫌が悪い。
 「毎日見てんじゃん、空くらい。写真に撮って面白い事あんのかなぁ…」
 見たいと口にしただけあって、一旦は忘れてはいたものの結構興味津々の顔でアルバムの山を眺める透子に、荘太はちょっと眉を寄せて正直な感想を述べた。すると、透子ではなく江野本がムッとした顔をした。
 「漠然となら見ているだろうけど、全然意味が違うよ。空は情報の宝庫なんだぞ」
 「情報の宝庫?」
 「雲ひとつとってみても、気圧、気温、風向き、地形なんかが複雑に影響しあってその形を作ってるんだ。ちょっと詳しい奴になれば、空の写真見せただけで、その日の気候とかこの後の天気とかが分かるんだから」
 「…ほー…」
 荘太は、いまいち感心しきれず適当な相槌を打ってしまったが、一方の透子は、その話にちょっと興味を持った。
 「じゃあ、空の写真見たら、それがどの季節の空か、とか分かるものなんですか?」
 「うーん、完璧に当てるのは難しいけど、特徴的な空なら、多分当てられるよ。例えば―――…」
 透子が興味あり気な顔をしたのに気を良くしたのか、江野本は、嬉しそうな顔でテーブルの上のアルバムを漁った。そして、鮮やかな水色をしたアルバムを下の方から引っ張り出すと、その中の1枚を指差した。
 「これなんかは、夏の特徴的な空だと思うんだけど」
 それは、すっきりした青空と、真っ白な立派な入道雲の写真だった。入道雲が夏の雲であること位は、透子も荘太も知っている。2人は軽く頷いた。
 「こういうの見ると、普通は真夏のあのギラギラした太陽とミンミン蝉を思い浮かべるんだろうけど―――実はこの後、天気は大荒れになるんだ」
 「えっ、でも…こんなに晴れてて、いかにも夏って天気なのに?」
 「入道雲―――正式には積乱雲って言うんだけどね。これって実は、暴れん坊の雲なんだよ。温かい空気と冷たい空気の境目に現れて、もの凄い上昇気流に乗ってこんな高さにまで発達するんだ。氷の粒をたくさん持ってて、激しい雨を降らせたり、時には雷とか竜巻まで起こすんだよ。入道雲見て“ああ、夏だなぁ”と思う時、僕の頭の中では、次に来るスコールと雷が浮かんでるんだよね」
 「へーえ…」
 「それと、ええと…これ。こっちも積乱雲だけど、これは冬の積乱雲なんだ。全然違うだろ?」
 もう1冊のアルバムを開いて江野本が見せてくれたのは、やはりもくもくとした形の入道雲だったが、灰色がかった、いかにも冬の色をしていた。それに、夏の元気よさげなムードとは違い、こちらは確かに今にも雹か霰が降ってきそうな感じに見える。なるほど…こちらの積乱雲を見れば、暴れん坊の雲、という言葉にも納得がいく。
 「入道雲って、冬にも出るんだな。知らなかった…」
 興味なさそうにしていた荘太も、馴染みのある雲の名前に、ちょっと首を突っ込んでくる。更に気を良くした江野本は、また新たな写真を2人に指し示した。
 「今の時期なら、そう―――こんな感じの、刷毛で掃いたみたいな雲ね。巻雲とか絹雲とか言うんだけど、これは、雲の中では一番上空にできる雲なんだ。年中発生してるけど、“天高く馬肥ゆる秋”ってな訳で、空が高い秋はこういう雲がよく見えるんだ。温暖前線のはしりの雲だから、この雲の2、3日後に雨になる場合が多いよ」
 「今朝見た空と似てるな。へーえ…やっぱり秋だなあ…」
 「空を見てると、季節の移り変わりに敏感になるよ。ね、結構面白いだろう」
 ご機嫌な江野本のセリフを、透子は無意識のうちに繰り返した。
 「季節の移り変わり…かぁ…」

 目の前に広げられた何枚もの空の写真を見つめながら、透子は、なんだか不思議な胸騒ぎのようなものを感じていた。
 …何故だろう。
 何かが、心にひっかかって。


 それは、小さな小さな、予感―――この日感じたものが、この後、自分の未来を大きく動かすことになることに、透子はまだ気づいてはいなかった。


***


 とんでもないニュースが慎二と透子のもとに届いたのは、11月も終わろうかという日曜日のことだった。

 テレビのニュースで見た神宮外苑のいちょう並木を見に行こうと、2人は出かける準備をしている最中だった。電話が鳴り、たまたま近くにいた慎二が受話器を取った。
 「…ああ、本間さん。久しぶりですね。…ええ、こっちはまぁ、相変わらず―――あはは、すみません、そっちも相変わらずです」
 電話の主は、本間のようだ。ハーフコートを羽織ながら、本間だったら電話を替わってもらって一言何か話そうかな、と思っていると、それまで穏やかだった慎二の表情が、突然驚愕の表情に変わった。
 「―――は!? え、ええ!? ど、どういうことですか、それ!」
 珍しい位の素っ頓狂な慎二の声に、透子も目を丸くした。一体どんな話なのだろう―――思わず慎二の傍に駆け寄り、耳を澄ましてしまう。が、受話器から漏れ聞こえる声が本間だということは分かるものの、その内容までは分からなかった。
 「…ええ、…はぁ、…え、それで、はるかさんは今どうしてるんですか?」
 はるか、という名前に、透子の眉がピクンと動いた。
 「はるかさんが、どうしたの?」
 つい声に出してそう問うと、慎二が「ちょっと待って」という風に、透子の肩を押さえた。
 「…はあ…そうですか…。いや、別にオレが言うことは何も―――で、予定はいつ…? …6月、ですか。…なんか、実感湧かないなぁ…」
 困惑したような顔で慎二は相槌を打ち続け、更に二言三言話すと、電話を切った。受話器を置くと同時に、はーっ、と大きく溜め息をつく慎二に、透子はそのシャツの袖をくいくいと引っ張った。
 「ねぇ、何の電話だったの? 本間さん。はるかさんに何かあったの?」
 「―――いや…何かあった、っていうか…」
 もう一度、大きな溜め息をついた慎二は、やっと顔を上げて、透子の方を見た。
 「…はるかさん、おめでただって。予定日は来年の6月」
 「おめでた?」
 透子の目が、キョトンと丸くなる。
 ―――おめでた、って…おめでた、って言ったら、やっぱり、あれ、だよね…。
 意味を理解した途端、パニックが襲ってきた。
 「……え……えええええ!?」
 「いやー、びっくりしたよなぁ…」
 困ったような顔で頭を掻く慎二のシャツの胸元を掴んで、半分頭が真っ白状態の透子は更に詰め寄った。
 「誰!? 相手は誰!? はるかさん一人で妊娠する訳ないじゃないっ! 相手は誰なの!?」
 「…だから。今、その相手から電話かかってきたんだよ」
 「ってことは、本間さん!? うそーっ!!!」
 「まあ、本間さんが昔からはるかさん好きだったのは知ってたけど―――結構、展開早かったなぁ」
 透子はそんなこと、少しも知らなかった。そう言えば、慎二の代わりに先生の家に下宿させてもらう話を受けた時、本間はもの凄く嬉しそうな顔をしていた気がする。はるかの隣に住める、はるかに夕食を作ってもらえる、という理由からくる表情だったと考えれば、確かに納得がいった。
 「じゃあ、はるかさん、本間さんと結婚するの?」
 「うーん、それが…はるかさんと本間さんはそのつもりなのに、はるかさんのご両親が怒っちゃったみたいで―――まあ、当然だろうけど。はるかさん、親と大喧嘩して、家を出ちゃったらしいよ。で、今先生の家に住んでるんだって」
 「……」
 「子供が生まれたら、孫可愛さに折れるに決まってる、って、はるかさんは強気だってさ。むしろ本間さんの方がうろたえてるよ。いや、ほんとに…女の人って、いざとなると強いよなぁ…」
 「…そう、なんだぁ…」
 気の抜けたような相槌を打ちながらも、透子は、あれほど慎二を好きだったはるかが、今ではすっかり本間に本気になっているらしいという事実に、何とも言えない複雑な気分を味わっていた。

 


 「うわぁ…、凄い!」
 神宮外苑のいちょう並木を目の前にして、透子は、さきほどまでの複雑な気分など一掃してしまうかのようなその見事さに、思わず大きな声を上げてしまった。
 真っ直ぐに伸びた道の両脇に、ずらりと並ぶいちょうの木。独特な形に整えられた並木は、黄色、黄色、黄色―――鮮やかな黄色の洪水だ。今日の空は雲がほとんど見えない。秋のすっきりとした高い空に、黄色の塔がまっすぐにそびえ立ち、それがどこまでも続いていた。
 透子が知る紅葉は、基本的に“紅葉した山”だ。神戸にいた頃は、秋になると六甲や摩耶の色づいた山並みに「ああ、紅葉したんだなぁ」と感じていたし、尾道にいた頃は、慎二と一緒に行ったハイキングコースの自然林の紅葉が紅葉の代表格だった。勿論、街路樹が色づいたりするのはいくらでも見てきたが、これは―――今目の前にある紅葉は、その本数と美しさで、街中の紅葉に対する認識を根底から覆すほどのインパクトがある。
 「凄い…圧倒される…」
 「ちょうど見ごろで良かった」
 目を輝かせて喜ぶ透子に、慎二もふわりと微笑む。歩き出した慎二に並びかけて、透子も歩き出した。

 日曜日の午後。場所柄か、家族連れなどよりもカップルが目立つ。透子くらいの年頃、慎二くらいの年頃、それよりもずっとずっと年齢が上の老夫婦―――みんな、のんびりしたペースで、鮮やかな紅葉の下を散歩している。自分と慎二も、傍目にはあんな風に恋人同士に見えるだろうか…そう考え、透子は、少しだけ慎二との距離をあけた。
 「あの、慎二。その…前も、こんなとこ、よく来たの?」
 目が見られないのは、後ろめたさがある証拠。本当に訊きたい質問は、微妙に違っている。「多恵子さんとも、ここを散歩したこと、ある?」…それが、正しい質問。
 落ち着かない視線をちょっと逸らしながら訊ねる透子を、慎二は、少し首を傾げるようにして見下ろした。
 「前って?」
 「だから、前は、前よ。尾道行く前―――昔、東京に住んでた頃っ」
 「うーん…あんまり、ないよ。最後に来たのは、兄貴に連れて来られた時だから―――もう15年近く前か。昔だなぁ…」
 「お兄さんと来たの?」
 「写真撮りにね」
 慎二はそう言うと、前方にあるベンチを指差した。
 「そうそう、ちょうどこのベンチ。兄貴は、写真撮るのに夢中で、オレに全然構ってくれないからさ。スケッチブックも持ってきてなかったから、このベンチに座って、ぼーっと紅葉を眺めてたんだよ。そしたら、変なおじさんに声掛けられて」
 「えっ」
 思わず、ギョッとして慎二を見上げる。
 「変なおじさん、って…ど、どう変だったの?」
 「服装は変じゃなかったし、紳士っぽかったんだけど…なんていうか、目つきがヤバそうだった」
 「…そ…それで?」
 「寒いだろうから、うちに来てお茶でも飲まないか、って言われて困ってたら、兄貴が飛んできてさ。もの凄い形相でその人を追い返しちゃったんだよね」
 「…良かったね、慎二。無事で」
 その紳士っぽい男性の目がどのように「ヤバそう」だったのか、なんとなく想像がつく。先生も、高校時代の慎二のことを「当時から綺麗な顔をしていた」と言っていた。つまり…その人は、「そういう趣味」のある男性だったのだろう。兄がもの凄い形相をしたのも頷ける。
 「お前がぼーっとしてるからだ、って兄貴に怒鳴られて、それは秀兄(しゅうにい)がオレを放っておくからだ、って反論して―――帰り道は喧嘩で散々だった。あんまり楽しい思い出じゃないよなぁ…」
 「秀兄?」
 くすくす笑う慎二が口にした名前に、透子は不思議そうな顔をした。
 「ああ、うん。秀一、で、秀兄」
 「ふーん、秀一っていうんだ、お兄さん。長男が一で次男が二って、ありがちだよね」
 「まあね。よく親戚にも言われたよ。“基裕のところは、長男が優秀で、次男が慎ましやかで、名前そのまんまの兄弟だ”って」
 「なんか…結構失礼なセリフだね、それ」
 「オレは何とも思わなかったけど、親は嫌がってたかも」
 優秀な兄―――どんな人だったのだろう。慎二の兄は。
 フォト・ジャーナリストという夢を持った人。かくれんぼが得意な慎二を、ただ一人、見つけることができた人。今の話からしても、とても仲の良い兄弟だったことが分かる。どんな気分だっただろう…そんな人を失った時の、慎二は。
 紘太を失った時の自分より、辛かったかもしれない。よく分からないけれど…そんな気がした。
 「でも、慎二。そんなに長く来なかった所なのに、急にどうして来たくなったの?」
 この突然の散歩は、慎二が今朝急に言い出したことなのだ。不思議に思って透子が訊ねると、慎二は、手で木漏れ日を遮るようにしながら、いちょうの木を仰ぎ見た。
 「んー…、ちょっと、秋の色を吸収しないと、って思って」
 「秋の色?」
 「ほら、例の柳葉さんと共著する絵本の話。一応、柳葉さんからストーリーの概要が届いたんだ」
 柳葉みどりから持ちかけられた絵本の話は、まだ本決まりではないものの、12月半ばにはある程度の形を整えて編集部に見てもらうことになっている。ストーリーが出来ないことには絵も考えられない訳で―――それが、どうやら決まったらしい。
 「どんな話なの?」
 「なかなか面白いよ。“季節のない森”に住んでる男の子が、“春”を探しに旅に出る話。…夏、秋、冬を見つけながら旅をしてったその子は、最後に“春”を見つけるんだってさ」
 「へーえ…。季節のお話なんだ」
 「うん。オレ、あんまり秋冬の絵って描いたことないからさ。本決まりになっても、絵を描くのは来年に入ってからだけど―――せっかくの秋だから、今のうちに秋の色をいっぱい見ておこうと思ったんだ」
 「そう言えば慎二の絵って、春と夏の絵が多いね。パッと明るい、優しい色した絵が多いもの」
 慎二の絵の色―――透子が好きな色。澄み切った空を思わせる青、春霞の中舞い散る桜の薄桃色、露を置いたような若葉の緑色、真夏の陽射しを浴びたひまわりの黄色…。どれも、春や夏の色だ。
 慎二の描く秋や冬は、どんな色をしているのだろう―――いちょうの木を見上げ、その黄色い葉越しに青い空に目を移した透子は、いろんな色を頭に思い描いた。

 季節が、移り変わってゆく。
 慎二と出会った冬、尾道の坂道を駆け上った春、慎二と一緒に海を見た夏、学校行事に明け暮れた秋―――あの頃の空は、どんな色をしていただろう。空を見上げるなんて、ずっとしたことがなかったから、覚えていない。
 慎二への気持ちに気づいた時からだ。
 気づけばこうして、空を見上げるようになったのは。

 ―――どうしよう。
 夏よりも、今の方が、慎二が好きかもしれない。

 風で少し乱れた髪を掻き上げ、透子は、隣を歩く慎二を見上げた。
 優しい色合いの髪に、秋の光が当たって、逆光のような効果を見せて慎二の髪の輪郭を浮き上がらせる。穏やかな横顔は、時々、とても寂しそうに見える。迷子になった子供みたいに…とても、心細そうに見える。
 はるかは一体、どうやって、慎二への想いを断ち切ったのだろう。どうやって次の人を…本間を愛せるようになったのだろう。たとえ想いが残っていても、抱き合ったりキスをしたりすれば、その人に対する情が想いより勝るようになるのだろうか―――そしていつかは、その情が本物の愛に変わったりするのだろうか。

 教えて欲しい。どうすれば、この人以外の人を好きになれるのか。
 こんな日は、そんなこと、永遠に無理なんじゃないかと思えてしまう―――透子は目を逸らし、慎二との合間をまた少しあけた。


***


 「…俺、もーだめ。何も乗る気しない…」
 ぐったり、とベンチに座りこんでいる荘太を、透子と千秋は冷やかな目で見下ろした。
 「根性ないなぁ。まだ“スペース・マウンテン”と“ビッグサンダー・マウンテン”しか乗ってないじゃない」
 「どっちも“絶叫”だろっ! うー…、胃がムカムカする…」
 「お前、絶叫マシーンで酔うくせに、バイクの免許なんか取る気でいるのか? 結構Gかかるんだぞ、分かってるのか?」
 「うるせーっ。俺はまだマシだろっ。俺より酷いのがあそこにいるじゃねーかっ」
 本当に気分が悪いらしく、胃の辺りを押さえた荘太は、そう言って隣のベンチを指差した。
 そこには、“スペース・マウンテン”で既にギブ・アップ状態になってしまっていた慎二が、ベンチに寝転がっていた。その額には、水に浸した透子のハンカチが置かれている。
 「あれは、論外だ」
 「…ちょっと。さっきより顔色悪くない?」
 千秋と透子のセリフが重なった。ムッとしたように眉を顰める荘太をよそに、透子は慎二の傍に駆け寄った。
 「慎二、大丈夫?」
 「…だ…大丈夫、ちょっと、目が回っただけだから」
 ハハハ、と力なく笑う慎二の顔は、風邪のせいなのか乗り物酔いのせいなのか、かなり青白く見えた。
 「昨日から風邪気味だったもんね…。どこが一番苦しい?」
 「胃、かなぁ…。食欲なくて朝飯抜いたのがまずかったかも」
 「ファースト・エイド行ってみようよ。胃薬とかもらえば、ちょっとはマシになるかも」
 慎二を助け起こしながらそう言うと、透子は荘太と千秋の方に顔を向けた。
 「ごめん、千秋。携帯貸して。私、ちょっと慎二連れて行って来る。戻る時、荘太の携帯に電話入れるから、好きに遊んでていいよ」
 「えっ」
 荘太のみならず、さすがの千秋も、ちょっと目を丸くした。が、透子も慎二も携帯電話を持っていないのは周知の事実だ。千秋は、目を丸くしながらも、素直に自分の携帯電話を渡した。
 「いいって。オレひとりで行けるから」
 「だーめっ。慎二ひとりで行かせたら、夜まで合流できずに終わりそうだもん。じゃ、行って来るね」
 遠慮する慎二の腕を引っ張って、透子はずんずん歩き去る。半ば引っ張られるようにして、透子よりずっと背の高い慎二も歩き去った。その足元がふらふらしていたのは、乗り物酔いのせいなのか、透子の歩調についていけないからなのかは、荘太にも千秋にも判断がつかなかった。
 「確かに、ひとりで行かせたら、二度と合流できそうにない奴だな、あれは」
 慎二と初対面の千秋でも、慎二のキャラクターは、この数時間でなんとなく理解できる。半ば呆れながらもくすくす笑っていると、ベンチに座り込んだままの荘太が、面白くなさそうに顔を背けた。
 「…んな訳ないだろ。あいつ、もう28の大人だぜ? 透子が迷子になる確率の方がはるかに高いって。全く…透子の世話焼き癖、全然変わってないよな」
 「男の嫉妬は、見ててあんまり格好のいいもんじゃないぞ、小林」
 「…うるさい」
 悪態はつくが、嫉妬していることを否定はしない―――この正直さが、荘太のいいところでもあり、見ていて痛々しい部分でもある。千秋は、小さく溜め息をつくと、荘太の隣に腰を下ろした。

 クリスマスまであと2日という休日。何故こんなメンバーでディズニーランドに来る羽目になったのかと言えば、そもそもは千秋が「慎二に会ってみたい」と言ったせいだった。
 そこに荘太が加わっている理由は、勿論、その話を傍観していられなかった荘太が「俺も会う」と言ったからだし、その場所がディズニーランドになった理由は、元々この日に荘太が透子をディズニーランドに誘っていたからだ。イブやクリスマス当日じゃなく23日にしたのは、きっと透子を困らせないためだろう。荘太の自信過剰な部分は気に入らない千秋ではあるが、こういう点はなかなか見上げたものだ、と思う。

 「…あいつ、気づいてるよな、やっぱ」
 ふいに、荘太がそう呟いた。
 何の気なく、行き交う家族連れが持っている風船などを眺めていた千秋は、少し眉をひそめると、荘太の方に目を向けた。ベンチの背もたれに肘をかけた荘太は、苦々しげな顔をして俯いている。
 「あいつ?」
 「工藤さんだよ。“スペース・マウンテン”でも“カリブの海賊”でも、当たり前みたいにお前と一緒に乗ろうとしただろ。あれって、俺と透子を一緒に乗せるためだよな」
 確かにそうだ。いずれの時も、慎二はさりげなく千秋の隣につき、千秋と乗るようにしていた。けれど、千秋だって、慎二が自分と一緒に乗りたがっているなんて自惚れる気はない。あれは、透子と荘太を一緒に乗せるため―――荘太の、透子に対する気持ちに気づいているからだろう。
 「良かったじゃないか。透子の“親代わり”から、透子の彼氏候補として認められて、しかも応援されてるんだぞ。もっと嬉しそうな顔をしろ」
 「…できる訳ないだろ」
 荘太は、皮肉かそれは、という顔で千秋を睨んだ。勿論、皮肉だ。日頃、絶対に腕など組まない透子が、今日はずっと荘太の腕に腕を絡めていた。楽しげにはしゃいでいるが、その目が時々笑わなくなることに千秋は気づいていた。
 「なぁんで、俺の気持ちには気づく癖に、透子の気持ちには気づかないんだろなー、あいつって」
 溜め息混じりの荘太の言葉に、千秋はふっと笑った。
 「対象外だと思ってるんだろう」
 「透子じゃ相手にならないってことか?」
 「いや、逆だ」
 思ってもみなかった切り返しに、荘太は顔を上げ、千秋の横顔をまじまじと見た。
 「逆?」
 「工藤さんは、透子の年代の女の子から見たら10も年上の男なんて対象外に違いない、と思っているんだ」
 「―――…」
 そんなこと、欠片も考えたことがなかった。しかし―――言われてみれば、もっともな話だった。
 透子は、ついこの前まで高校生だったティーン・エイジャー。一方、慎二は、あと1年と少しもすれば30の大台に乗る。三十路近いといったら、今時の高校生などはおじさん扱いして当然かもしれない。もっとも慎二の場合、見た目も性格もあんな風だから、到底おじさんとは呼べないのだが。
 自分が社会人になり、20代の後半になった時を想像する―――友達の中には結婚して子供がいる奴だっているだろう。そんな自分に、女子高生が本気で恋をするなんて、考えるだろうか? 相当自惚れた人間なら分からないが、自分なら―――考えないだろうな、と、荘太は思った。
 「―――小林」
 荘太の考えを遮るように、千秋が、これまでより少し低い声で切り出した。それまで前を見ていた目が、ゆっくりと荘太の方を向く。
 「悪いことは言わない。深みに嵌る前に、手を引いた方がいい」
 「…なんだよ、それ」
 「お前は、よく頑張ってると思う。偉いと思う。でも―――いい加減、限界だろう?」
 「……」
 「引くタイミングを誤ったら、友達としての透子も失う。…そうなる前に、お前の方から引いた方がいい」
 「…なんで、俺の方が引かなきゃいけないんだよ」
 不愉快そうに眉を吊り上げた荘太は、背もたれに掛けていた肘を外し、挑みかかるような勢いで千秋を睨んだ。
 「俺は工藤さんに負けるつもりなんて毛頭ない。工藤さんより俺の方が透子にはふさわしいって信じてる。まだ時間はかかるかもしれないけど、透子だってあいつを諦める気でいるんだ。なんで俺が…」
 「…お前は、いつも勝ってきたから、負け方を知らないんだな」
 「俺は勝ち続ける気でいるんだから、負け方なんて知らなくていい」
 「でも―――透子の想いに小林の想いが勝てる可能性は、限りなくゼロに等しいぞ」
 「なんで分かるんだよ」
 「透子が工藤さんを見る目そっくりの目を知ってるからだ」
 「誰の目だよ」
 訝しげに眉をひそめる荘太に、千秋は少し哀しげに目を細めると、僅かに間合いを置き、続けた。
 「分からないのか? …小林、お前の目だ」
 「―――…」
 荘太の表情が、凍りついた。
 視線が、泳ぐ。行き場を失った視線は、そのまま、千秋の膝の辺りに落ちた。同じ目をしている―――それはつまり、自分が透子を想うほどに、透子は慎二を思っている、ということ。
 「あれは、無理だ。諦めたいと言いながら、その目は全然変わってない。2人揃って諦めるってことができない人間だから、どちらかが死ぬような思いしてでも引かないと、終わらないんだ」
 「…だから…俺の方が引け、って?」
 「お前だって、透子が死にそうな思いしてるのは、見たくないだろう…?」

 ―――見たくない。
 無理をしてはしゃいで、必死に慎二から遠ざかろうとする透子など、透子らしくない。あんな透子は、見たくなどない。
 けれど―――…。

 ギリリ、と唇を噛む荘太の口の中に、鉄サビのような味が広がる。その味に顔を顰めた荘太は、ふいと顔を背けた。
 「―――言いたい放題言うよな。橋本だって、俺らと変わらないガキの癖に」
 不貞腐れたように荘太が言うと、千秋の方も顔を背け、苦笑いを浮かべた。
 「忘れてるらしいが、私はお前らより1年長く生きてるんだ。その分だけ余計に、負ける回数をこなしてる―――それだけだ」
 千秋の微妙な言葉に、荘太は思わず千秋の方を窺った。が、千秋は顔を背けたまま、それ以上何も言わなかった。ただ、最後に一言、
 「…お前も、透子も、痛々しすぎる。どっちの味方につく気もないけど―――そういうお前らを見てるのは、結構辛いんだ」
 とだけ言って、あとは黙ってしまった。

 ―――恋愛とは全然縁遠いように見える奴なんだけどな…。
 少女というより少年と表現したくなるその横顔は、なんだか、荘太や透子よりも多くの愛や恋を知っているように見えた。
 もしかしたら千秋にも、血が滲むような苦しみを味わいながら諦めた恋があったのかもしれない―――真相は分からないけれど、遠い過去に思いを馳せているような千秋の目を見て、荘太はなんとなく、そう感じた。


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