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: 空と風と光と影と (3)

 その冬の年末年始は、慎二も透子も揃って酷い風邪をひいてしまった。

 「すみません…とてもそっちには行けそうにないです…」
 家の中だというのに、もこもことダウンジャケットを着込んだ慎二は、受話器を握り締めながらそう言い、透子の部屋の方を流し見た。そこには、寝てろと言っても大人しく寝ていられない透子が、コートの上からダウンジャケットを羽織るという無茶な格好をして、だるそうに立っていた。
 『2人揃って風邪をひくってことは、お前らの暮らしぶりに問題があるんじゃないのか? 隙間風が酷いとか、老朽化しすぎて今にも崩れそうな家とか、そんなとこに住んでないだろうな』
 「…大丈夫です。それはないです」
 先生の家よりは近代的で隙間風もないですよ―――と言いたかったが、その本音は咳で誤魔化しておいた。
 『そうか。まあ、仕方ないな。しっかり養生しろ』
 「はい。…透子が代われって言ってるんで、代わります」
 咳き込みながら慎二が受話器を差し出すと、ずるずると歩いてきた透子が鼻をすすりながらそれを受け取った。
 「…もしもしぃ…先生? 久しぶりー…」
 『…なんだ、その声は。そんな状態で無理して電話になんぞ出るな』
 「大丈夫ー。これでもかなり良くなった方だもん。ねぇ、はるかさんと本間さんは?」
 『今日は買い物に行っとるが、年末年始もこの家にいる予定らしい。隣が実家なんだがなぁ…。まあ、俺は、賑やかでいいけどな』
 「まだ冷戦状態なんだ」
 『なあに。孫が生まれりゃ、あの杓子定規な兄貴も折れるしかなくなるだろ』
 そう、先生の兄、つまりはるかの父は、透子も苦手とする超のつく真面目人間で、「結婚前にこんなふしだらなことになって」と、本間のことは勿論、はるかに対しても態度を硬化させているのだ。母親の方はそれなりに心配して、少しずつはるかと歩み寄っているらしいが…道のりは、まだまだ厳しそうだ。
 「先生は、2人の味方になってやってよね」
 ちょっと心配そうな透子の声に、電話の向こうの先生は「任せておきなさい」と自信ありげに答えてくれた。


 大晦日は、慎二が有田みかんを、透子が三ケ日みかんを食べながら、順当に“紅白歌合戦”を見て過ごした。こたつもストーブもなく、エアコン1台で暖冷房を賄っている小さな部屋で、2人は、できるだけ暖をとろうとなるべく身を寄せ合うようにしてテレビを見た。慎二とくっついているなんて、普段なら絶対平気ではいられない透子だが、全ては熱のせいだと自分に言い訳をしながら、ふわふわとした時間を過ごした。
 年が明けても、症状は一進一退を繰り返す。3日に、荘太と約束をしていたからなんとか初詣だけには行ったが、あとは完全な寝正月だ。透子が少し良くなると慎二の容態が悪化し、慎二が持ち直すと今度は透子が寝込む―――その繰り返しをしているうちに、冬休みが終わってしまった。

 冬休みが終わると、毎年恒例の、あの日が来る。1月17日―――透子の運命が変わった日が。
 でも、今年の1月17日は、去年までとはちょっと違った。透子はその日、たった1人で、東京郊外にある井上家の墓参りに行ったのだ。
 永代供養となっている墓は掃除も手入れも行き届いていたが、透子は改めて墓を丁寧に掃除し、花を供えた。去年の春、東京に来て間もない頃、ここに両親と紘太の骨を収めた。透子は、3人のために線香をあげ、そっと手を合わせた。
 今日は、3人の命日。神戸は今頃、追悼式典やら何やらとやっているのだろう。あの中に加わることは、今も到底できそうにない。でも、神戸から遠く離れたこの場所でなら、静かに3人の冥福を祈ることができる。
 まだ、悪夢は見るけれど―――こうして手を合わせることで、今年は少しだけ、罪悪感からは解放されそうな気がする。みんな死んだのに自分だけが生き残ってしまった、という罪悪感から。

 時間が、それなりに経ったからかもしれない。
 そうでなければ―――家族を失ったショックよりも大きなものが、今、透子の心を占めているからかもしれない。
 震災から4年。透子はやっと、ほんの少しだけ心穏やかに、この時期を過ごすことができたのだ。


***


 「…お前さ。工藤さんの家出て、別に住んだ方がいいんじゃない?」
 参考書をパラパラとめくりながら、荘太がサラリと口にしたセリフに、透子は、ペンを走らせる手を止め、顔を上げた。
 「―――え?」
 「だから。一緒に暮らしてるから、気持ちが離れられないんじゃないか、って言いたいんだよ」
 荘太の声は、少し苛立っているように聞こえた。日頃から短気な傾向のある荘太だが、今日はことのほか気短かになっているらしく、先ほどから常に貧乏ゆすりをしている。
 「どうしたの、急に…。レポートが上手くいってないとか?」
 今、2人は、図書館の一角でそれぞれのレポートの仕上げをしているところだ。午後から講義がなかったので、バイトまでの時間を利用してやっている訳だ。今、この瞬間まで、レポート関係の話以外は話題に上らなかった。あまりにも唐突な話に、透子はキョトンとした顔をするしかなかった。
 「別に―――レポートは、関係ない。前からそう思ってたけど、言うチャンスがなかったから。今たまたま思い出したから、忘れないうちに言っただけ」
 相変わらず参考書から目を離さず、ぶっきら棒に荘太が言う。その声色に、かなり機嫌が悪そうだという気配を感じて、透子は落ち着かない思いで、机の下の脚を組みなおした。
 「そんなこと言うけど、無理な話だよ?」
 「どこが」
 「だって私、あの家出ても、行くとこないもの。私のアルバイト代じゃ、別に部屋借りるのも無理だし―――慎二にもう一部屋借りてもらうなんてのは、言語道断だし」
 ノートの上の消しゴムを指で弄びながら透子がそう言うと、荘太は、透子が予想だにしなかったことを言った。
 「―――じゃあ、うちに来れば?」
 「…えっ」
 「うちのじいちゃんとばあちゃんの家。部屋、いくらでも余ってるし、通学にも全然問題ないし。あいつと離れて、うちに来ればいい。そうすりゃ、あいつの生活に振り回されなくて済むだろ」
 「……」
 一度もこちらを見ることなく告げられた言葉を、何度も頭の中で繰り返す。動揺したように瞳を揺らした透子は、その動揺を飲み込むように唾を飲み込むと、無理矢理視線をノートの上に落とした。

 ―――確かに、荘太の言うことは、一理あるかもしれない。
 どんなに慎二より荘太を好きになろうと思っても、毎日毎日、慎二と過ごす時間を重ねれば重ねるほどに、慎二に対する気持ちは増えていく。どこまで行けば上限になるのだろう? 消せない想いなら、少しでも小さい方が楽なのに…一向に、終わりは見えない。荘太に対する“好き”がそれを上回る日なんて、絶対来ないと思える位に。
 でも、慎二と物理的に離れてしまえば。
 あの家を出て、慎二と離れて暮らすようになれば―――…。

 そこまで考えた時、ゾクッ、と冷たいものが背筋に走った。
 目が覚めて、そこに、慎二がいない生活―――大学から帰ってきても、そこに慎二の気配が全くない生活。想像しただけなのに、恐ろしかった。毎日、慎二がどんな顔をして、どんな1日を過ごしたのか、全く分からない状態なんて…駄目だ。とてもじゃないけど、耐えられない。
 「―――駄目だ、集中できねーや」
 透子の沈黙をどう解釈したのか、軽く舌打ちした荘太は、そう言ってパタン、と参考書を閉じた。がたん、と椅子を引く音がして、向かいに座る荘太が立ち上がる気配がした。
 「レポートは、また明日でいいや。…どのみち、バイトの時間まであと少しだろ。もう帰ろうぜ」
 「う…うん」
 今、荘太がどんな顔をしているのか、確認するのが怖い。目を上げずにノートを閉じる透子を置いて、荘太は、参考書を書棚に返しに行ってしまった。
 荘太の顔が見られないのは、やはり、罪悪感のせいかもしれない。
 慎二に対する想いが増えれば増えるほど、荘太に対する罪悪感も増していく。酷いことをしている―――残酷なことをしている、そんな気がして。かつて、慎二がはるかの想いに少しだけ応えてしまった時、透子が慎二に対して言った言葉が、今は透子自身を苛んでいた。
 ―――そんなこと、ない。私が荘太をもっと好きになればいいだけのことだもん。
 まだ時間はかかるけれど、きっと、大丈夫―――そんなこと無理だと訴えるもう一人の自分をねじ伏せて、透子も席を立ち、鞄を肩に掛けた。


 図書館を出ると、外は粉雪が舞っていた。
 1月の終わり頃から、時折こうして粉雪が風に飛ばされてくる。今日は節分―――暦でいけば“立春”の筈だが、春なんてまだまだ遠いように思える。透子は思わずダウンジャケットの襟を引き上げた。
 「マフラー貸してやろうか?」
 荘太が、透子の様子を見てそう言ってくれたが、透子はふるふると首を振った。
 「大丈夫大丈夫。荘太の方が髪短いから、首寒いんじゃない? 風邪引かないように、ちゃんと巻かないと」
 「ふはは、バカは風邪ひかないって言うじゃん」
 「…自虐的なギャグだね、それ」
 「うわ、傷つく」
 大げさに傷ついた顔をする荘太に、透子も声を立てて笑った。良かった―――いつもの荘太に戻ったことに、透子は密かにホッと胸を撫で下ろしていた。
 とその時、余計に強い北風が吹いてきて、荘太が大きなくしゃみをした。
 「ほらぁ、バカじゃなかったじゃない。貸しなさいっ」
 軽く荘太を睨むと、透子は荘太が押し付けてきたマフラーをひったくり、それを荘太の首に巻いた。こんなこと、荘太の背丈ならなんとか届くけど、慎二の背の高さだったら絶対できないな―――ふとそんなことを思い、慌ててその考えは頭から追い出した。
 「はい、OK。…さっ、帰ろ」
 マフラーを巻き終え、ぽん、と荘太の二の腕辺りを叩いた透子は、そう言って踵を返そうとした。

 ―――その、刹那。
 荘太の手が、透子の肩を掴んだ。

 驚きに、目を見開く。ただ引き止めただけにしては、その力があまりにも強かったから。キョトンとした顔のまま荘太を見上げたら―――僅かに身を屈めた荘太が、透子の唇に、唇を重ねてきた。
 「―――…」
 声が、出なかった。
 目を閉じることも、荘太を押し返すこともできなかった。白く飛んでしまった頭では、何も考えられなくて―――硬直したように動かないまま、押し付けられたものの感触に僅かに眉をひそめることしかできなかった。
 ものの、数秒。唇を離した荘太は、ゆっくり目を開け、至近距離から透子の目を見つめた。
 その目は―――酷く哀しげで、寂しそうで、苦しそうだった。
 ―――荘太が、こんな目をするなんて、知らなかった。
 肩に置かれた手も、微かに震えている気がする。そうさせているのは自分だと悟り、透子は苦しげに眉根を寄せた。
 「―――ごめん。帰ろ」
 少しだけ微笑んだ荘太は、透子の肩から手を離すと、下ろされていた透子の手を取り、引っ張るようにして歩き出した。そして、駅に着くまでの道のりの間、何も喋ろうとはしなかった。
 透子も、何も喋ることはできなかった。
 痛くて―――どこかが、耐えられないほどに痛くて、目を上げることすらできなかったのだ。

***

 慎二が、もらい物のシチューを鍋に移し替えて温めていると、背後で、玄関の鍵がガチャガチャと開けられ、勢いよく扉が開かれた。
 驚いて振り向くと、そこに透子が立っていた。外の雪が酷くなってきたのか、髪に細かい雪が融け残っている。その顔は、何があったのか、妙に沈んで見えた。
 「…あ、びっくりした。おかえり」
 「―――何、してるの」
 後ろ手に鍵を閉めながら、透子は眉をひそめ、慎二の手元を見た。慎二が夕飯を作ることは滅多にないので、不審に思ったらしい。
 「ああ、これ? 今日、駅前で柳葉さんと打ち合わせがあって―――なんでも、今晩のシチューを作りすぎたから、お裾分けだってさ。ちゃんと2人前あるよ」
 「ふぅん…そう」
 あまり興味なさそうに相槌を打つと、透子は靴を脱ぎ、慎二の背後を通り過ぎた。その態度に尋常ではないものを感じた慎二は、コンロを止めて、自室に入ろうとする透子の手を掴んだ。
 「透子? どうかした?」
 「…っ、何でも、ないっ」
 「でも」
 「何でもないのっ!」
 鋭くそう叫ぶと、透子は、掴まれた手をやや乱暴に振り解いた。
 驚いた慎二は、振り解かれた手を思わず引っ込めたが、それでもなおこちらに顔を向けようとしない透子がやっぱり気になって、困惑した表情でその場に立ち竦んだ。なんだか―――そう、まるで、泣くのを我慢しているように見えて。
 「…透子? バイト先で、何かあった?」
 慎二に背を向けたまま、俯いている透子は小さく首を横に振った。
 「じゃあ…何?」
 「―――ほんとに、何でもない。ごめん…夕飯、いらない。食欲ないの」
 「…じゃあ、コンロにかけとくから。少しでも食べたくなったら、夜中でもいいから食べないと」
 「うん…分かった」
 蚊の鳴くような声でそう答えると、透子は自分の部屋の扉を開けた。やはりこちらを見ようとしないのが気になって仕方なかったが、無理に聞き出すのもまずい気がする。小さく溜め息をつきながら、慎二もキッチンに戻りかけた。
 「―――慎二」
 慎二が一歩踏み出すのとほぼ同時に、背後から透子の声が追いかけてきた。
 反射的に振り返ると、透子は、部屋の入口に佇んで、扉に手を掛けてこちらを見ていた。そして―――その表情に、慎二は一瞬、息を呑んだ。
 今、自分を見ている透子の表情は、これまで慎二が知らなかった表情だった。
 切なげな、苦しげな、言いたい言葉を必死に押し殺しているような目―――潤んでいる目は、多分涙を堪えているからだろう。そのせいか、軽く結ばれた唇も、扉に掛けられた手も、微かに震えているように見えた。
 なんて目をして、自分を見るんだろう―――戸惑ったように視線を揺らした慎二だったが、見据えられた目を逸らすことはできなかった。
 「…そんな目されると、困るよ」
 困ったように、微かに微笑む。ゆっくり瞬きした透子は、それでも慎二の目を見据えたままだった。
 ―――困る。本当に。…どうしていいか分からなくて。
 仕方なく、慎二は透子の傍に歩み寄り、その頭をくしゃっと撫でた。頬に軽くキスをする―――この位が、慎二にできる精一杯だから。
 「…まだ、レポート残ってるんだろう? 早く、元気にならないと」
 「うん…」
 慎二の手をかいくぐるようにして体を引くと、透子は、俯いたまま扉を閉めた。柔らかな髪の感触だけ残して、透子と慎二は、薄い扉で隔たれた。

 『18って言ったら、キミと出会った頃の多恵子と同い年よ。この先も、透子が一人前になるまで一緒にいてやる気があるんなら、そのこと、ちゃんと自覚を持ちなさい。でないと―――…』
 透子や荘太より一足早く東京に来た、去年の春。初めて訪れた佐倉の家で言われた言葉が、また甦る。
 『―――でないと、錯覚する羽目になるよ。多恵子と、あの子を』
 「…分かってる」
 苦笑し、微かに呟く。扉の向こうの透子には聞こえないほどの、小さな声で。
 大丈夫。錯覚などしない。透子と多恵子は、外見こそ多少は似ているけれど、中身が全然違うのだから。それに―――多恵子が透子の歳だった頃、自分はまだ20歳だった。それが、来月の末には29―――時は、確実に、流れている。

 …それでも、時には。
 まだ未熟な自分は、透子にあんな目で見据えられると、困ってしまうのだけれど。

 大きなため息をついた慎二は、髪を掻き上げ、踵を返した。今、夕食を食べる気にはなれない。そのまま部屋に戻り、描きかけの絵を手に取った。


 透子―――この世で一番、大切な存在。
 誰よりも誰よりも、幸せになって欲しい人。

 だから、早く、本当に大切な人を見つけて、この手から巣立って欲しい―――たとえどんなに、寂しくても。


***


 朝の天気予報が、テレビから流れていた。

 『今日は、二十四節季のうちの“雨水(うすい)”。雪や氷が融けて水になるという意味です。まだまだ寒い日が続いていますが、今日は暦のとおり、春の始まりを感じさせる1日になるでしょう―――…』

 今日は、1年生最後の日。レポートを提出するためだけに登校するようなものだ。透子は、天気予報を聞くともなく聞きながら、慌しく出かける準備をしていた。
 「透子、今日って遅くなる?」
 ローテーブルに鏡を持ってきて髪を梳かしていると、慎二が部屋から顔をだして訊ねた。
 「ううん、そうでもない。バイトは5時までだから。…あれ? 慎二、今日って出かける日だった?」
 外出用のジーンズに穿き替えている慎二に、透子は目を丸くした。今日は編集のアルバイトもないし、子供絵画教室もない筈なのに。
 「あー、うん。例の絵本の下絵が半分仕上がったから、途中報告のために行くんだ」
 そう言って慎二は、足元に置かれたアートバッグを指差した。それを聞いて、透子の目がキラキラと輝いた。実は、ずっと気になっていたのに、レポート提出と試験に追われて、全然見ることができなかったのだ。
 「わ、見せてもらってもいい?」
 「いいけど…時間、大丈夫?」
 時間などより、絵の方が透子にとっては大切だった。困ったように笑う慎二をよそに、透子は膝歩きで慎二の足元ににじり寄り、バッグの中から完成したらしいイラストを1枚取り出した。
 「うわぁ…、秋だね、これ」
 「そう。秋を見つけた時の絵になる予定」
 描かれていたのは、帽子を被った、小さな男の子―――背景は、見事に紅葉したいちょうの森だった。それを見た途端、秋に慎二と一緒に見た神宮外苑のいちょう並木が、脳裏に鮮やかに甦った。
 ―――あまり描いたことのない色だけど…でも、やっぱり、慎二の絵の色だなぁ…。
 矛盾している気もするが、素直にそう思った。
 優しい色―――見ていて幸せになれるような色。そこにある秋は、物憂いムードも寂しい感じもない、ただひたすらに優しくて温かい色をした秋だ。それは、色の種類こそ違えども、やっぱりこれまでの慎二の絵の色と同じだった。
 「この子が、“春”を探しに旅に出るんだね」
 「うん」
 「この子、なんて名前なの?」
 「カイト君だって」
 「へー。なんでそういう名前にしたんだろう」
 「柳葉さんの子供の名前だよ」
 サラリと言われた言葉に、透子は危うくイラストを落としそうになった。
 「え…ええ!? 柳葉さんの子供、って…」
 「あれ? 言わなかったかな。柳葉さん、ご主人も子供もいるよ。子供はまだ1歳3ヶ月だけど」
 「…柳葉さんって、いくつなの? すっごく若く見えたんだけど…」
 「若いよ、24だから」
 「へえぇ…知らなかったぁ…」
 感心したような声を上げながら、透子は顔が熱くなるのを感じていた。実は、柳葉が既婚者だなんて想像もしなかったから、色々と気を揉んだりしていたのだ。柳葉とは2、3回顔を合わせているが、失礼な態度を取ったりしていなかっただろうか―――それを考えると、冷や汗が出てくる。
 「柳葉さんの子供なら、もっとハンサムに描いてあげた方が喜んだんじゃない?」
 「うん、でも…カッコイイ主人公より、こういう、ちょっと根性なさそうな普通の子の方が、見る人が自分を投影できるかな、と思ってさ」
 ボーイスカウトが被りそうな帽子を被った少年は、10歳前後に見えた。冒険ものの主人公にしては、あまり強そうには見えない。確かに、慎二の言う通り、根性はあまりなさそうに見える。でも、自然が好きそうな、可愛い顔をした男の子だ。
 ―――きっと、この子は、子供の頃の慎二だね。
 そう思って、思わずクスリと笑う。
 “不思議君”だった慎二が、ここにいる。車の轍を辿ってどこまでも歩いて行ってしまった慎二が、1日中雲を眺め続けていた慎二が、ここにいる。
 そして、小さな慎二は、“春”を探しに、旅に出る―――…。
 「…私、この絵本、絶対好きになると思う」
 イラストを見つめたまま、透子はそう言って微笑んだ。それを見て、慎二も、少し照れたように微笑んだ。

***

 絵に見入っていたら、いつもより少し時間が遅くなってしまった。地下鉄を降りた透子は、学生の姿もまばらになりつつある表通りを、ちょっと急ぎ足で歩き始めた。
 つい2、3日前までは、珍しく雪の日が続いていたが、天気予報で言っていたとおり、今日は幾分、寒さが和らいでいるようだ。角を曲がり、坂道にさしかかったところで空を仰いでみたら、真っ青な空、と言うよりは空に薄い雲のヴェールを掛けたような空が見えた。
 ―――あの雲、何ていう名前なのかな…。
 江野本に見せてもらった写真を思い出し、透子はふと、そんなことを思った。
 それと同時に、それまでずっと綻ばせていた口元が、ゆっくりとその笑みを消していった。

 …疲れちゃった。
 笑顔を装い続けるのにも、限界がある。ここには、荘太も慎二もいない。溜め息と共に、張り詰めていた緊張の糸が緩んだ気がした。

 荘太は既に全ての講義を終えていて、昨日から一足早く春休みに入っている。今日は、荘太とは顔を合わせずに済む…ちょっと、気が楽だ。
 あの日―――突然唇を奪われた日から昨日まで、透子は荘太の前で、できるだけ気にしていないような素振りをしてきた。今まで通り軽口を叩きあい、はしゃぎあい、何もなかったかのようなフリをして過ごしてきた。それは、荘太も同じことだった。
 でも…内側では、違っていた。
 あの日、知ってしまったもの―――透子はそれを、必死に忘れようとしていた。消し去りたい…欠片も思い出せない位に消し去ってしまいたい。こんなものは知らなかった自分に戻りたい。唇を指で辿りながら、何度もそう思った。
 知ってしまったら、望まずにはいられなくなるから。
 荘太ではなく慎二に―――抱きしめて、口づけて欲しい、と。
 信じられない。自分がこんな風になってしまうなんて。荘太にキスをされて、その拒否感や罪悪感よりもまず、慎二に対する切望が頭をもたげてくるなんて。なんて汚いんだろう―――自分が、酷く汚れた人間になった気がして、たまらなかった。

 愛して欲しい。
 誰よりも…そう、離れてもなお名前を呼ぶほどに愛しているあの人よりも、愛して欲しい。たとえ、あの人と私を錯覚しても構わないから…あの人の代わりでいいから、愛して欲しい。
 その想いの全てをこめて見つめても、慎二は透子の想いを本気とは受け取ってくれなかった。戸惑いながら、あんなキスで誤魔化してしまった。まるで、透子が慎二を好きになる訳がないとでも思い込んでいるみたいに。
 あの後、真っ暗な部屋の中で、慎二には聞こえないように布団をすっぽり被って、ひたすら泣いた。抱きしめて欲しかったけれど―――今までのようなただの優しい腕など、もう欲しくはなかった。だから1人で泣いた。必死に声を噛み殺しながら。

 …最低だ。
 荘太にあんな辛そうな目をさせている癖に、慎二に抱きしめられたいと切望してるなんて。慎二より荘太を好きになりたい、そう口で言いながら、いざ慎二を目の前にすると、目を逸らしきれずにあんな目で見つめてしまうなんて。
 こんなこと続けて、一体何になるんだろう? 本当に荘太の方が好きになる日なんて来るんだろうか…荘太との距離が近づけば近づくほどに、同じことを慎二に求めてしまって、少しも荘太に想いを返せないというのに。
 荘太は、大事な友達だ。大好きだし、できれば彼の気持ちに応えたい。でも…もし応えることができないのだとしたら―――どうすればいいのだろう。一旦、恋愛関係を持ち込んでしまった荘太との間に、またこれまで通りの友情が築けるだろうか。それを考えると、自分からゲームセットを告げる勇気はどうしても出せない。

 「…疲れちゃった、なあ…」
 言葉に出した途端、涙が溢れてきた。
 足を止め、俯く。堪えきれずに、透子は顔を両手で覆って、涙が通り過ぎるのを待った。


 ―――私…何やってるんだろう…。
 バカみたい。慎二にも嘘ついて、荘太にも嘘ついて、どんどん自分をすり減らしていって、疲れ果てて。
 大学まで行かせてもらいながら、一体何をしてるんだろう。こんなことなら、大学なんてやめて、早く仕事を見つけて、慎二から独立してしまえばいいのに。大嫌いだ―――こんな自分は。

 誰か、教えて欲しい。
 どうすればいいのか―――何をすればいいのか。こんな自分は、もう嫌…!


 その時。
 坂道を駆け上がるかのように、風が吹いた。
 「―――…」
 何かを感じた透子は、顔を覆っていた手を外し、ゆっくりと顔を上げた。
 涙で、視界がぼやける。手の甲で目を擦ると、涙に濡れていた頬を、また風が撫でていった。
 ―――あったかい…。
 昨日までの風は、こんなに温かかっただろうか。確か、もっと太陽が高くなっても、風の冷たさに首をすくめていたような記憶がある。なのに、温かい…まだ冷たさは残っているけれど、温かく感じる。
 やっぱり今日は、特別気候がいいのかもしれない―――そう思いながら、何故そんなことにいちいち気を留めるのか、自分の行動に戸惑う。もう一度目を擦った透子は、息を吐き出し、何気なく道端の街路樹に目を向けた。
 そして、そこに、見つけた。
 昨日までとは違う風景を。
 「……あ…っ」
 街路樹と低木の植え込みの間の、僅かにむき出しになっている地面。そこには昨日まで、凍りついた雪で覆われていた。2、3日前に降った雪が積もったものが、その後も融け残り、だんだん黒ずんだ色になってきていたのだ。
 それが―――半分ほど、消えている。
 カチカチに凍っていた雪が融けて、黒い地面が顔を出していた。

 『今日は、二十四節季のうちの“雨水(うすい)”。雪や氷が融けて水になるという意味です』

 「“雨水(うすい)”―――…」
 偶然かもしれないけど…本当だった。不思議な胸騒ぎを覚え、透子はその場にしゃがみ込んで、融け残っている残りの雪を見つめた。
 黒ずんだ雪は、融けたり凍ったりを繰り返したらしく、表面はツルツルに凍っている。が、その一番端っこは、今まさに融けていっている最中で、鋭いエッジにキラキラ光る水滴がぽつん、ぽつん、とついていた。
 雪が融けて、水に変わっている。
 春の始まり―――こんなところで、春が始まってる。

 なんだろう。
 なんでこんなに、落ち着かないんだろう。
 じっとしていられない。何か―――何かがしたくて、体がウズウズする。心臓もドキドキする。春を―――今年の春を、今、見つけてしまったことに。

 何かに衝き動かされるように、透子は立ち上がり、もう一度空を見上げた。
 どことなく、春霞を思わせる空―――ふわりと何かに覆われたような、柔らかい光。その光は、どことなく慎二が描いた春の色を連想させる。光に色なんてないけれど、でも…そう、感じる。確信は持てないけれど、この空もきっと、春の始まりの空だ。
 “春を見つけたよー!”と、今朝見たあの少年が、森の仲間に叫ぶ姿が思い浮かんだ。ほら、こんなとこにも、あんなとこにも―――世の中、春でいっぱいだよ。なんだ、こんな近くにあったのに、僕たち、どうして気づかなかったんだろうね―――と。
 …そう。気づいていないだけ。
 この世は、たくさんの光で溢れている。慎二の絵がそうであるように。
 そして、よく耳を澄ませば、ちゃんと透子に伝えてくれている―――ほら、こんなにこの世は色鮮やかで、綺麗だよ、と。だから―――だから、生きようよ、と。

 ―――涙が。
 さっきまでとは違う涙が、頬を伝っていった。
 「…見つけた―――…」
 嬉しくて、嬉しくて、涙が止まらなかった。

 見つけた―――自分が、伝えたいものを。叫びだしたいほどに、嬉しかった。


***


 「…あれ? 透子?」
 アパートの前で佇んでいた透子は、慎二の声に顔を上げた。
 打ち合わせが終わったのだろう。マウンテンバイクを引いた慎二は、予想外な時刻にそこにいる透子に、不思議そうに目を丸くしていた。
 「どうしたの。バイトは?」
 「ん…、休んじゃった。じっとしていられなくて」
 「え?」
 「―――あのね、慎二」
 きちんと慎二の方に向き直ると、透子はニコリと微笑んだ。
 「私、転部することにした」
 「転部?」
 「うん。外語学部やめて、文理学部に行く。…地学科入って、気象の勉強するの」
 唐突な宣言に、慎二は余計に目を丸くした。
 「…また、随分急だね。どうしたの、何かあった?」
 「気づいちゃったから、いろいろと」
 ふふっ、と笑った透子は、生まれたばかりの夢を、初めて口にした。
 「私、気象予報士の資格を取って、そっち方面の仕事をしようと思うの」
 「……」
 「空を見て、地面を見て、季節の移り変わりを見ていくの―――“春”を見つけるカイト君に、今度は私がなるんだ」
 驚いたような顔をしていた慎二は、ゆっくりと、透子の言葉を心の中で繰り返しているようだった。
 そして、その意味をきちんと飲み込んだ時―――あの、ふわりとした、春の光を思わせる柔らかな笑顔を見せてくれた。
 「そう―――素敵な仕事だね」
 「うん…多分、この世で一番、素敵な仕事だよ」

 空に、風に、光に、影に―――季節を見つける。きっとそのたびに、透子の脳裏には、慎二の絵が思い浮ぶ筈だ。
 伝えたい。透子が見つけた季節が、どんなにキラキラと輝いて、命に溢れていて、優しい色をしているものなのかを。コンクリートに囲まれた中に生まれ育っている子供達でも、ちゃんと季節を見つけられるように…伝えていきたい。

 もしも、この想いが永遠に慎二に届かなかったとしても。
 慎二に教えてもらったものを、今度は自分が誰かに伝える―――それができるならば、きっと、生きていける。透子はそう思い、幸せそうな笑みを浮かべた。


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