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: 五年目の向日葵(ひまわり) (1)

 大学の正門まであと10メートル、という所で、背後から近づいてくる爆音に、透子と荘太は思わず足を止めた。
 振り向けば、坂道を軽々と上ってくる、1台のバイク。
 「…げ…ほんとに買いやがった」
 恐ろしいものでも見るような目をする荘太とは対照的に、透子は不覚にも「カッコイイ」などと思ってしまった。同性相手に、ちょっとまずい気もするが、でも、確かにカッコイイ―――また女子高校生のラブレターが増えるのではないだろうか。
 バイクは、透子と荘太のすぐ脇で止まった。爆音が止まると同時に、フルフェイスのヘルメットが外される。
 「…千秋、ますます男前になったね…」
 ヘルメットに押さえられてペタッとなってしまった髪を掻き上げる千秋に、透子が感心したような声を漏らす。けれど、褒め言葉とは取れなかったらしく、千秋はむっとしたように眉を顰めた。
 「男っぽくしているつもりはない。自分らしくしているだけだ」
 「生まれる性別、間違えたんだろ」
 けっ、という顔でそう言う荘太の頭を、千秋のヘルメットが直撃した。
 「いてーっ! 貴様っ、本気で痛いぞっ!!!」
 「痛い思いをさせるつもりで殴ってるんだから、当然だ」
 「ねーねー、これって何ていう名前のバイク?」
 涙目になっている荘太をよそに、透子は既に、初めて触るバイクに興味津々だった。ハンドルやメーター類を撫で回して、いろんな角度から眺めている。
 「これは400ccだ。普通二輪で乗れるバイクのギリギリの大きさだな」
 「なんだ。限定解除まではやらなかったのか」
 「父が“頼むからやめてくれ、それ以上雄々しくなるな”と泣くので、やめておいた」
 「根性ねえー…。俺は絶対、ナナハン乗ってやる」
 「…まあ、頑張れ。お前が乗ってもさまになるかどうか、ちょっと怪しいけどな」
 密かに対抗意識の火花を散らす荘太と千秋の横で、透子はふと、風に乗って漂ってきた香りに気づいて、辺りを見回した。
 風が吹いてきた方向には、民家の垣根―――そしてその向こうに、庭に植えられたハゴロモジャスミンが、ちょっとだけ顔を出していた。日に当たる場所に植えられたものが、垣根をよじのぼって、その蔓の先を覗かせているらしい。
 ―――そっか…。ゴールデンウィーク中に開花したんだね、きっと。
 4月の最後には、こんな香りはしなかったと思う。白い可憐な花に5月を見つけた気がして、透子は無意識のうちに微笑んでいた。
 そんな透子に気づいた荘太は、僅かに表情を曇らせた。
 「―――橋本、バイクどこに置くんだ?」
 透子から目を逸らすようにしながら、荘太はバイクのハンドルを掴んだ。
 「奥の駐輪場のつもりだけど」
 「そこまでこれ、ちょっと引っ張らせてくれよ」
 荘太も普通二輪の免許を取ったばかりだが、まだ資金が貯まらなくてバイクを買えずにいる。実物に触りたいというのは、誤魔化しではなく本音だ。
 「ごめん、透子。1コマ目の自然史概論、席とっといてくれよ」
 「え? あ、うん。いいよ」
 一瞬キョトンとした顔をした透子だったが、さして不審には思わなかったらしく、バイクを降りて荘太と交代している千秋に手を振って、のんびりした足取りで歩き去った。その視線は自然と5月の青空に向けられている。…多分、探しているのだろう。若葉の季節を思わせる雲が、どこかに浮いていないかを。
 「―――楽しそうだな、透子は」
 荘太にバイクを預けて身軽になった千秋は、透子の後姿を見送りながら、そう呟いた。
 「私は、ああいう透子の方が好きだな」
 「…俺だって、そうだよ」
 そう…自分の信じる道を貫こうと真っ直ぐに前を見て突き進む透子は、荘太が一番最初に心惹かれた透子だ。子供であることに甘えるなんてできない―――そう言って、必死にアルバイト先を探していた頃の透子と、今の透子はまるで変わっていない。
 「その割に、浮かない顔だな」
 「…そうでもないさ」
 「少なくとも、透子と同じ講義を受けるチャンスも増えて万々歳、という顔には見えないぞ」
 コツン、と、拳で軽く頭を叩かれる。でも、悪態をつく気にもなれない。久々に触る400ccバイクがやたら重く感じるのは、陸上部の練習疲れのせいではないだろう。


 春休みに入る前頃、荘太は、自分が持ちかけた提案を激しく後悔していた。
 去年の透子の誕生日からこのかた、必死に慎二から目を背け、なんとか荘太の気持ちに応えようと努力してる透子の姿は、千秋の言葉じゃないが、見ていて痛々しかった。その前1ヶ月の透子も、理由は分からないが相当おかしかった。でも…それでも、その後の数ヶ月間に比べれば、まだましだった。
 距離を縮めれば縮めるだけ、透子は辛そうな顔になり、心理的な距離は遠のいていく気がする―――もどかしさに口づけた時も、夏の時のように拒絶された方がましだったんじゃないか、そう思ったほどに、透子の顔を見るのが辛かった。

 それが、1日で―――荘太が透子たちより一足先に春休みに入った、あの1日で、事態は急変した。
 翌日、1日遅れで春休みに入った透子とバイト先で会った時、「文理学部に転部する」と聞かされ、荘太はかなり驚いた。
 自分が原因だなんて思うほど、自惚れてはいない。何があったんだ、と訝る荘太だったが、転部の件を話す透子の様子がもの凄くいきいきとしていたから、ちょっと嬉しくもあった。
 荘太に話した時点で、透子は既に転部試験の段取りも教授陣にとりつけていた。経済と経営などなら、比較的転部の例が多いらしいのだが、外語から文理という例は極めて稀らしい。結果、単位は問題なく取っている透子であっても、試験を行うことになったのだそうだ。思い立った当日にここまでしてしまうあたり、いかにも透子らしい。
 春休みいっぱい、バイトと試験勉強に明け暮れた透子は、あっさりその試験にもパスし、晴れて文理学部地学科に転部した。以来、透子は、日々楽しそうに大学に通い、楽しそうにバイトをし、楽しそうに陸上部の練習を見学している。

 不思議で仕方なかった。透子の急激な変化が。
 その理由に思い当たったのは、このゴールデンウィークのこと―――何の気なしに、本屋に行った時のことだった。
 慎二が絵本を手掛けている、という話は、前に透子から少しだけ聞いていた。その本が、ゴールデンウィークに合わせるように発売されていた。書店の新刊コーナーの片隅にあるそれに気づけたのは、その色鮮やかな表紙のせいだろう。紫と黄色のクロッカスが、雪を割るようにして顔を覗かせている表紙―――そこには、作者である柳葉みどりの名前の下に、それよりは少し小さめの字で慎二の名前も入っていた。
 立ち読みして、なんとなく分かった。透子が何故、地学科を選んだのか。
 きっかけは分からないが…とにかく、透子は見つけたのだろう。地学の中に、慎二の絵と同じものを。たとえ恋が実らなくても、慎二が絵で表現しようとしている物と共に生きてゆけることに、透子は一筋の希望を見出したのかもしれない。
 愕然とした。
 透子の想いが、新しい局面に―――もう、荘太がどう頑張っても引き戻せないところへと入ってしまった気がして、ショックだった。


 溜め息をついたら、バイクのバランスが崩れて、危うく倒してしまいそうになった。慌ててバイクを立て直す荘太を、千秋が睨んだ。
 「まだ支払い残ってるんだから、気をつけろ」
 「ああ…悪い」
 「…自信過剰の小林も好きじゃないが、そうやって謝る小林も小林っぽくなくて嫌だな」
 何だそれは。結局、どういう俺でも嫌だってことかよ。
 心の中でだけ悪態をつくが、言葉としては出てこなかった。ここまで落ち込んだのは、初めてかもしれない―――なんだか、エネルギーが底を尽きた感じだ。
 「…参考までに訊くけど」
 バイクのハンドルを握りなおしながら、荘太は千秋に目を向けた。
 「橋本はこれまで、どうやって“負け”を認めてきた?」
 「は?」
 「ディズニーん時、言ってただろ。俺が負け方を知らないって。…つまり、橋本は知ってるってことだろ、負け方ってやつを」
 「…とうとう、負ける気になったのか」
 「―――今だって、負ける気は、ないさ」
 思わず、眉を顰める。
 「けど―――たとえ勝てても、俺が欲しいもんは手に入らない気してきた」
 「え?」
 「大学出て、ちゃんとした仕事に就いて、工藤さんより頼れる男になっても…透子はやっぱり、俺には甘えてこない気がする。俺の方が絶対に透子を守れる、って、10人中10人が思うようになっても―――透子本人だけは、下手すりゃ透子より頼れない工藤さんの方を頼る気がする。それで工藤さんも、俺にはできない方法で、なんだか分からないうちに透子を守っちゃうんだよな…」
 「…なんだか分からないうちに、って辺りが、あの人っぽいな」
 ディズニーランドで見た慎二を思い出して、千秋はちょっと笑った。
 「性格明るい上に真面目で目的意識もあって、それを達成する努力も惜しまないし…そういう“正しい人間”的な優劣でいけば、小林は勝ってると思う。けど―――人間、優劣で人を好きになる訳じゃないし」
 「……」
 「努力することで、恋愛感情が生まれる訳でもないし…な」
 「…だよな」
 本能は、もうやめておけ、とシグナルを出している。自分も、透子も。
 なのにいまだに息の根を止めないのは、それをした時、友達としての関係にまでピリオドを打たねばならないのではないか、と、どちらもが懸念しているからだ。
 透子は、自分が悪いと思っている。荘太に甘えきれない自分を「まだ努力が足りない、もっと努力すればいつかは」とまだ思っている…いや、思い込もうとしている。そして荘太は―――諦められない。負けを認められない。あんな顔はしていても、一応自分の方へと歩み寄ろうとしている透子に「もういいよ」と言えない。
 「…どうやって、負ければいいんだ?」
 「それは…小林本人にしか分からないだろう? 小林の勝負の相手は、もう工藤さんでも透子でもないんだから」
 「―――“自分”、か」
 これは、自分自身との勝負―――どうすれば、納得させられるんだろう? 諦めの悪い自分を。
 そしてどうすれば、せめて友達の透子だけは失わずに済むだろう―――…?


***


 「それでね、江野本先輩が入った研究室に“地震雲は妄想だ、あれはただの飛行機雲とレンズ雲だ”って主張する人がいて、毎日バトルになってるんだって」
 「ふーん…」
 「慎二は、地震雲、信じる?」
 「どうかなぁ…。でも、空の様子が大気の中の出来事だけで決まるとは思えないから、あってもおかしくない気はするなぁ」
 「…すごーい。慎二、私より気象学に向いてるんじゃない? 本能的に天気の仕組みを理解してるじゃない」
 「あはは、そうかな。…よし、と。できたよ」
 よいしょ、と立ち上がった慎二は、ボウル一杯に入ったもやしをキッチンに立つ透子の所に持って行った。透子も、味噌汁が沸騰する前に火を止め、それを受け取った。
 「ありがとー。やっぱり慎二って器用だよね。私、もやしのヒゲ取る時、いっつも力加減が悪くて、もやしが真ん中からポキンて折れちゃうんだもの」
 「焦ってやるからだよ。…でも、普通、もやしの根っこなんて取る?」
 「取らない人も多いけど、取って水にさらすと、シャキッとした歯ごたえでおいしいの」
 「…なんか、ますます主婦に徹してきたね」
 「そりゃあ、もう」
 複雑な表情をする慎二を見上げて、ニッ、と笑ってみせる。ふたり暮しも2年目に入っているし、伊達に3年間、はるかの助手をしていた訳ではない。掃除にはあまり自信のない透子だが、料理にだけは自信があるのだ。
 「で、このもやしは、どうなるのかな」
 「ん? ああ、これと一緒に炒めるの」
 そう言って透子が指差したものを見て、慎二の顔が蒼褪めた。
 「―――まさかとは思うけど、それって…」
 「レバーです」
 「…やっぱり」
 水をはったボウルの中に浸かっているのは、どう見ても現在血抜き中の牛レバーだった。最も苦手とする食材の登場に、慎二は思わず後退った。
 「大丈夫大丈夫、こまかーく刻むし、血抜きして多少は食べやすくなってる筈だから」
 「…なんで急にそんなもの…」
 「そんなの決まってるじゃない。夏に向けて慎二に体力つけてもらうため。ほら、レバーって鉄分豊富でしょ。私、いつも思うんだ。慎二って絶対、血液足りてないな、って」
 「足りてるって」
 「だぁめ。過去が証明してるもん」
 そう言って軽く慎二を睨んだ透子は、もやしのボウルを置くと、トマトを切り始めた。
 「慎二って、どちらかというと色が白いじゃない。私より風邪もよくひくし、炎天下にも弱いし、元気な時はかなり元気だけど、一旦体調崩すと寝込んだりするし。単に体力がないだけかな、と思ってたけど、もしかして貧血気味なのかな、と思って―――だから、一番体調崩しやすい季節を控えて、レバーとかほうれん草を食べさせようと思ってるの」
 「…だったら、ほうれん草にしようよ…」
 「レバーにトラウマでもあるの?」
 「…それに近いものは、あるかも」
 溜め息混じりにそう呟いた慎二は、皿に盛られたトマトを一切れ摘むと、それを口に放り込んだ。それとほぼ同時に、居間兼食堂に置かれたアイボリーの電話が鳴った。
 包丁を置いて電話に出ようとする透子を手で制した慎二は、電話口へと向かった。急いでトマトを飲み込みながら、時計を確認する。午後7時半―――誰だろう? 心当たりがない。
 「―――はい」
 『工藤か?』
 「ああ、なんだ、本間さん」
 声ですぐ分かった。本間といえば、はるかだ。電話近くの壁に掛かっているカレンダーには、6月の半ば頃に赤い丸がついている。はるかの予定日に透子が印をうったものだ。その日までは、まだ数日の猶予がある。
 「どうかしたんですか? まさか、もう生まれたとか」
 『おいおい…俺からの電話は子供関係だけだと思ってるのか、工藤は』
 「…それ以外で電話かけてきたこと、この半年間、1度もないじゃないですか」
 『ぐ…っ、ま、まあ、その件はまた今度―――今日は、“グループ・F”の話だよ』
 “グループ・F”というのは、本間が中心となって活動している創作グループの名前だ。Fは、自由(フリー)のF。つまり、特定の団体や会派に属していないフリーの画家や彫刻家の集団。年に1度か2度、金を出しあってグループ展を開いている。
 尾道に移り住んで以来、慎二もこの“グループ・F”のメンバーに名を連ねているが、昨年はちょうど絵本の話が持ち上がった頃にグループ展の話も持ち上がってしまい、何も活動できないままに終わった。つまり、グループ展の話が出るのは秋で、実際のグループ展は翌年の3月4月辺り、というのがこのグループの活動サイクルとなっているのだ。
 「グループ展の話ですか? なんか今年は妙に早いなぁ」
 『ああ。実は、年内に開こうってことになってるんだ。しかも1ヶ所じゃない。主要都市を3、4ヶ所ピックアップして開くつもりなんだ』
 「え?」
 随分大掛かりな話だ。眉をひそめた慎二は、思わず居ずまいを正した。
 『実はな、あるNPO団体の人とちょっと交流ができて、ちょっとした企画が持ち上がったんだよ。会場はそっちの人が押さえてくれるから、俺達が絵を出すってことで』
 「…どういう企画なんですか」
 『驚くなよ。…題して“震災から5年を前に 震災を描く―――グループ・Fチャリティー絵画展”』
 「……」
 『そのNPO団体、震災で心に傷を負った子供のメンタルケアを手掛けてるんだ。お代は見てのお帰り、ってな訳で、集まった収益はその団体が子供達を集めて開くイベントとかに使われるんだ。…どうだ。興味あるだろ、お前なら』
 震災を、描く―――…。
 想像もしなかった話だ。しかも、他のメンバーはともかく、被災者である本間や、透子を引き取った慎二にとっては、ちょっと普通とは違った意味を持つ企画であることは間違いない。
 無意識のうちに、視線が透子の方を向く。本間の名前を耳にして、トマトを切る手を止めてこちらを見ていた透子は、どうやら日頃とは違う電話らしいことを察して、キョトンと目を丸くしていた。
 「…それって、いつやる予定なんですか?」
 『12月の頭を予定してるんだ。東京のギャラリーを一応押さえてある。その先はまだ交渉中だけど…できれば、東北、近畿、九州でやりたいよなぁ』
 「12月…か」
 『これまでのグループ展と違って注目度も高いだろうから、仕事の上でもメリットがあるぞ。な、やろうや』
 仕事のメリットなんて、どうでもいい。ただ純粋に参加したいと思う。けれど…。

 ―――何を、描けばいいんだろう? あの惨状を描くなんて、オレには無理だよな。
 かつて兄が言ったとおり、自分は惨いもの、汚すぎるもの、残酷なものから目をそむけがちな人間だ。今だって、あの時見たものはしっかり覚えているが…絵筆にそれを乗せることは、到底できそうにない。そんな悲惨さを訴えた絵は、できれば描きたくない。ならば―――“震災を描く”というテーマを前に、一体何を描けばいいのだろう…?

 描けるんだろうか。そんな不安が、大半。それでも―――…。
 「…分かりました。オレも参加しますよ」
 しばし沈黙した後、慎二はそう答えていた。
 何を描いていいのか分からないのに矛盾した話だが、その時慎二は、描かなくては、と―――何故か、そう、強く思ったのだ。


***


 ―――まさか、この年齢で“百葉箱”なんかと縁付くとは思わなかったよなー…。
 大学の校舎の裏手にある百葉箱を開けながら、透子は思わず笑ってしまった。大体、小学校ならともかく、大学に百葉箱があるなんて想像していなかった。でも、地学科があるのなら、あって当然なのかもしれない。
 「んーと…、気温23度8分、湿度65パーセント…」
 ぶつぶつ言いながら、百葉箱の中の装置の値を手にしたファイルに記録していく。別段、どの講座のどの教授に命ぜられた訳ではないが、最近ではこれが透子の日課になっていた。
 もっと観念的なもの―――例えば肌に感じる温度や木々の香りの強さ弱さ、空全体の明るさなどから、季節や天気の移り変わりを知る方が、透子の好みではある。が、気象の仕事がそうしたものだけで成り立つ訳がないのも事実。それで、こんな記録を自主的に取るようになったのだ。
 やってみると、意外に面白い。特に気圧というシロモノは、日頃目に見えないし感じることも少ないのだが、気圧が変化したな、と思っていると、その少し後に雨が降ってきたりするのを目の当たりにすると、結構感動ものだった。低気圧の接近と共に気圧計の値が変化し、空を見上げると雨雲らしき雲がどんどん増えていく―――そういうのを見ていると、地球って面白いなぁ、と透子は思うのだ。
 「あ、やっぱりここに居た」
 ちょうど百葉箱を閉め終わったところで、背後から声が掛けられた。
 振り向くとそこに、トレーニングウェア姿の荘太がいた。どうやら、これから、ここから10分ほど離れたところにある練習グラウンドへ行くところらしい。
 「荘太、練習行くの?」
 「うん。実は今日、また記録会なんだ」
 「へー、そうなんだ。私も行く。バイトまでまだ時間あるし」
 「そう思って迎えに来た」
 「珍しいね」
 普段の記録会なら、前々日位からしつこい位に「絶対応援に来い! 俺に自己新出してもらいたけりゃ這ってでも来い!」とうるさい荘太なのに―――こんな直前に、しかも迎えに来るなんて、初めてのことだ。
 鞄の中にファイルを突っ込み仕度を整えると、当たり前のように荘太が透子の手を取った。少し引っ張られるような感じで歩き始めた透子は、そんな荘太の行動にもちょっと眉をひそめた。
 これまで、手を繋ぐことが皆無だった訳ではない。極稀に、どこかに遊びに行った時などには、人ごみではぐれないために、という名目で手を繋いで歩いたことはある。2月にキスをされた時は、なんだか振り解くのは悪い気がして、素直に手を引かれて歩いた。けれど…こんな風に、何の理由も名目もなく、しかも大学の構内で手を繋がれるのは、これが初めてだ。
 ―――どうしたんだろう…。何かあったのかな。
 ちょっと心配になって荘太を見上げると、たまたま同じタイミングで透子に目を向けた荘太は、屈託のない笑みを浮かべてみせた。
 「実はさ。俺、9月のインカレを最後に、陸上から引退する予定なんだ」
 「…えっ」
 「どのみち、インカレ終われば試合の予定入ってないし、最近モチベーション下がってるしな。3年になったら、絶対勉強の方が大変になるから、秋からバイトがんがん入れて、金貯めたいんだよ」
 「そ…っかぁ…」
 そんなような予定は、前にも聞いた気がする。でも、いざこの夏が最後と宣告されると、ちょっと寂しい。走る荘太をもう見られない―――でも、本人にその気がないのなら、仕方ないのかもしれない。
 「お前のバイト先、俺、結構気に入ってるから、一度店長に探り入れてもらえない? 小林が働きたがってるんだけど、って」
 「あはは、うん、分かった。荘太の接客スマイル、店長も太鼓判だったから、きっと喜んで雇ってくれるよ」
 「―――それで、さ。透子」
 僅かに、荘太の声のトーンが変わる。透子の手を握る手が、ほんの少しだけ強くなった。
 「今日、もし俺が自己新出せなかったら―――やめようぜ、“お試し期間”」
 「―――…」
 一瞬、何を言われているのか、分からなかった。
 ゆっくりと、荘太の言葉を噛み締める。そしてその意味がはっきりと分かった時、透子は立ち止まり、目を丸くして荘太を見上げた。
 「―――…え…?」
 「もう、やめよう。工藤さんより俺を好きになる努力も、俺がお前のこと振り向かせる努力も、さ」
 荘太は、笑顔だった。
 嘘をつくのが凄く下手な荘太だから、この笑顔は本物だろう。ちょっと寂しそうな、けれどもう覚悟を決めたような笑い方をしている。なんとなく荘太の心理が読める気がして、胸が痛くなった。
 「俺、死ぬ気で走る。何が何でも自己新出す気で、一切手抜きしないで走る。でも、それで…それだけ頑張って、自己新出なかったら…お前のこと、諦める」
 「…荘太…」
 「それに、次のインカレが、俺の選手生活最後の試合だからさ―――自己新も出せない状態だと、ちょっとまずいだろ。集中するためにも、もし自己新出せなかったら、ここで一旦区切りつけようぜ。な?」
 にっ、と笑った荘太は、再び透子の手を引いて歩き出した。
 そしてもう、グラウンドに着くまで、透子の方を振り向くことはなかった。

***

 たった10秒足らず、瞬きする間に終わる、100メートル走という名のショー・タイム。
 透子は、その一瞬一瞬を目に焼き付けるようにして、荘太の動きを見守った。

 地面を蹴って飛び出す瞬間、羽根が生えたみたいに、風に乗る。
 まるで荘太を前へと運ぶ追い風が吹いているみたいに―――前へ、前へ。躍動する。駆け抜ける。その1歩1歩が、目に焼きついていく。
 走る荘太はいつだって、そのために生まれてきた生き物みたいで、素敵だった。ずっと、見ていたい―――そう思う位に、輝いていて、生命力に溢れてて、透子は大好きだった。
 ああ…これも、一種の恋だったのかもしれないな―――目の前を駆け抜ける荘太をしっかりとその目に焼き付けながら、透子はどこかで、そんなことを思った。


 まだ息のあがった状態でフィールド脇のベンチへと歩み寄った荘太は、両手を膝の上でぎゅっと握り締めたまま動こうとしない透子を見下ろし、苦笑した。
 「―――…また、100分の1秒に泣いた…か」
 荘太のセリフに、透子も苦笑いを浮かべる。案外―――何かを賭けた大勝負は、こんな運命の悪戯のような結末を迎えるように出来ているのかもしれない。
 「俺ってついてねーなぁ…」
 そう言ってハハハと笑った荘太は、透子の隣にドサリと腰を下ろした。そしてそのまま、2人して天を仰いだ。
 低い雲が、次第にその面積を拡げ始めている。夕方には、雨になるのかもしれない。なんだか、急激に涙がこみ上げてきそうになった透子は、なんとかそれを飲み込んで、荘太の方を見た。
 「―――今まで、ごめんね」
 「…なんで謝るんだよ。謝ることなんて何もないだろ」
 「でも…」
 「俺、結構楽しかったぜ?」
 目だけを透子の方に向けて、荘太は、ちょっとおどけるように笑った。
 「色恋沙汰抜きにしても、俺、透子が好きだから。透子と一緒の時間が増えて、嬉しかった」
 「…うん。私もそれは、楽しかったよ」
 「なら、問題なし」
 そう言いきって、荘太はまた空を仰いだ。
 「でも、応援はしないからな」
 「……」
 「俺は今日、俺に負けたんだ。工藤さんに負けた訳じゃない。あの人に負けるのだけは絶対やだから、いくらお前があの人好きでも、俺は絶対応援しない。何年経っても、あの人とのことだけは応援しないからな」
 「…友達甲斐ないなぁ」
 ―――でも、荘太らしい。
 負けず嫌いで、意地っ張りで…ちょっと自信過剰な荘太。きっと、こんなセリフを言いながら、心の中は、透子と同じで不安で不安で仕方ないのだと思う。なんとなく、分かる―――かつて真奈美や古坂が言ったとおり、透子と荘太は、本当によく似ているから。
 勇気を持って、こんなきっかけを作ってくれたのだ。今度は自分が、それに応えなくては―――透子は、微かに微笑むと、荘太と同じように空を仰いだ。
 「私は応援するよ。もしも荘太に好きな人ができたら。それが明日でも、来月でも、来年でも―――10年後でも」
 「……」
 「バイトもじゃんじゃん口利きするし」
 「…うん」
 「バイク買ったら、絶対後ろに乗っけてもらうし―――ただし、安全運転が条件だけどね」
 「…そうだな」
 掠れたような荘太の声に、透子はチラリと、荘太の横顔を窺った。
 空を仰ぐ荘太は、目に涙を浮かべて、微笑んでいた。その表情は、重たかった荷物をやっと下ろしたような…安堵した表情だった。
 「しゃーねぇなあ。じゃあ、頑張って金貯めて、早くバイク買うかなー。橋本は誘うなよ。バトルにでもなったら、お前、絶対後ろに乗っかってらんないぞ」
 「あはは…分かった。千秋が一緒の時は、遠慮しとく」
 冗談めかした荘太の返事に、透子はやっと、心から安堵した笑みを浮かべることができた。“これからもずっと、友達でいたいよ”―――その想いが、受け取ってもらえたと分かったから。


 繋いだ手も、あの日のキスも、もう終わったこと。大丈夫…友達だけの関係に、ちゃんと戻れる。

 まだ暫くは心は痛んでも、いつかはきっと―――そう信じられる自分達に、荘太も、透子も、心から安堵していた。


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